サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第十七話

*

岸まであとどのぐらいだろうか。

 

海水をかき分ける腕が、上がりにくくなってきた。

 

酷暑の中の海を泳いでいるはずなのに、体が冷たい。

冷えた体が、重い。

 

水泳でのスタミナの消耗は、走っている時のものとはまったく違うものだった。

 

「レイナ、あと50Mほどだよ! がんばって!」

 

小舟で私を追いかけながら見守ってくれているトレーナーさんの声が、頭上から聞こえてくる。

 

あと、50M。

それぐらいなら、きっとがんばれる。

 

私は疲れ果てた腕と脚を必死に動かし、ひたすらに浜辺を目指す。

 

海底の砂が視界に入るようになってきた。

ゴールは、もう少しだ。

 

それにしても……苦しい。

息継ぎしても息継ぎしても、まったく呼吸が楽にならない。

 

頭が、ぼんやりしてきた。

 

……なんで私、こんな苦しい思いして泳いでいるんだっけ……。

 

妙に客観的な疑問が、酸素不足の脳に浮かび上がってくる。

 

そうだ。

 

強化された走力に見合う心肺機能を身につけるために、遠泳のトレーニングしているんだった。

 

勝ちたいから頑張るって、自分で決めたんだった。

 

それなら、もう少し粘らないと……。

 

私はそこで思考を放棄し、意識をひたすらに腕で水を掻くこと、脚で水を叩くことに集中させる。

 

視界が、濁ってきた。

ゴールの砂浜が近い。

 

もう少し。

もう少し……。

 

「ぷはぁっ!!」

 

もう地面に脚がつくと思った場所で、クロールを中断して立ち上がる。

幸い、そこには砂地があった。

目測を誤ったせいで体のバランスを崩して溺れてしまう、なんてことにはならなかったようだ。

 

「お疲れ、レイナ。今日もよく頑張った」

 

小舟から降りながら、トレーナーさんは私をねぎらってくれる。

 

「ありがと……」

 

疲労困憊だった私はかすれた声で彼に返事し、いつもの数倍の重力を感じながら、ザバザバと波をかき分けてゆっくりと歩を進めた。

 

素足で踏みしめた砂浜の砂が、足の裏全部にまとわりついてくる。

 

(おか)にたどり着いた私の冷たい肌を、真夏の太陽が急速に乾かしてゆく。

 

いつもは恨めしい酷暑の紫外線が、今は真冬の夜に親しい人が掛けてくれた毛布のごとく、ありがたかった。

 

それはいいのだけど……。

 

「気持ち悪い……」

 

ひどく疲れているせいか、吐き気がする。

お腹の中がいまだに水の中で揺れているようだ。

 

視界が、歪む。

地面が、揺れてる……。

 

「あっ」

 

急に、膝から力が抜けた。

 

これ、倒れるな……。

 

そう自覚していても、どうにもできなかった。

体全体が、自分の意志とは無関係に、前方に傾いてゆく。

 

でも私が砂浜に倒れ込んでしまう前に、熱を持った力強い腕が私の両肩を抱きとめた。

 

「大丈夫か、レイナ」

「ええ。いつものふらつきよ……」

 

倒れる前、まるで他人事のように冷静でいられたのは、トレーナーさんがこうして支えてくれるって分かっていたからだろう。

 

「今日は合宿の総仕上げとして、いつもの1.5倍の距離を泳いでもらったからね。良くがんばってくれた」

「そうね。自分で自分を褒めてあげたい……」

 

冗談っぽく言って太陽を背にした彼の方を見た瞬間、息が詰まってしまう。

 

「どうした、やっぱり辛いか?」

「……ううん。なんでもないわ」

 

逆光でよく見えないトレーナーさんの顔に、なぜか一瞬父の面影が重なった。

 

脈音が、突然ドクドクと耳の中で鳴り響く。

 

そう言えば……。

 

小さい頃初めて親子三人で海に来て、似たようなことがあったっけ。

あの時は私が慣れない砂浜を走り回って、つまずいて、転びそうになって……。

 

今と同じように、父が私の肩を抱きとめてくれたのだ。

 

私はその思い出を脳の奥に追いやるかのように、トレーナーさんの腕をゆっくりと押しのけた。

 

「えっ……あっ! 申し訳なかった。そんなつもりはなかったんだが」

 

なにか誤解したトレーナーさんは、慌てて私の肩から腕をのけた。

また倒れそうになるけど、今膝を折ってしまったらトレーナーさんに余計な心配をかけることになってしまう。

 

脚に力を入れ直し、まだ揺れを感じる地面をしっかり踏みしめる。

 

「いえ、そうじゃなくて……もう自分で立っていられるから大丈夫よ。ありがとう」

 

気まずい気持ちと疲労を悟られないよう、私は無理に笑顔を作った。

 

「そうか。ならいいんだが……」

「それより、とにかく喉が渇いたわ。申し訳ないんだけど、なにか飲み物をもらえないかしら」

「あっ、気が回らなくてすまない。陸に上がったらすぐに水分補給をするべきだったな。これ、飲んでくれ」

 

トレーナーさんはそう言って、肩がけにしていた保冷スポーツボトルを私に手渡した。

遠泳を終えたあと、すぐに水分補給ができるようこうして持ち歩いてくれているのだ。

 

「ありがとう」

 

お礼を言って蓋を開け、冷えたスポドリを一気に喉に流し込む。

不思議なもので冷たい海の中を泳いでいたはずなのに、いつもの走り込みのあと以上に喉の渇きを感じていた。

 

「ふぅ……」

 

一息ついて、安心しきってしまったのか。

もう気合を入れて立っていることもできず、結局私は尻餅をつくような形で砂浜に座り込んでしまう。

 

「おいレイナ! 大丈夫か?」

「大丈夫よ。やっぱり、ちょっと疲れてたみたい」

 

私は苦笑いを浮かべて、トレーナーさんに手を差し出した。

 

「ごめんなさい。寮まで肩貸してもらえないかしら」

 

意地を張ってすぐのことなので気恥ずかしかったが、身体の方はそんな見栄を許してくれないようだ。

 

「ああ、もちろんだ。しっかりつかまって」

 

そんな私にトレーナーさんは嫌な顔一つせず、たくましい右腕を差し出してくれる。

 

私はそれをぐっと掴むと、ゆっくり立ち上がって腕をトレーナーさんの肩に回し、体重を彼の方へ預けた。

 

……それにしても、どうしてあんなことで昔の父とのことを思い出したのか。

 

トレーナーさんと父では、同じ大人の男性でもぜんぜんタイプが違うのに。

 

トレーナーさんががっしりとした体つきで頼れる男性って感じなら、父はどちらかと言えば細身の学者肌で、そもそもシルエットがまったく違う。

 

父は若い頃から定期的にジムに通っているらしく、40を超えた今でも一応男性らしい均整な体つきを保ってはいるが、あまり力強さやたくましさは感じさせないタイプの男だ。

 

まぁたまたま小さい頃に経験したのと同じ状況が、古い記憶を呼び起こしただけだろう……。

 

私はそう結論づけ、まだ少しムカついている胃のあたりをさする。

 

今日はいつも以上にカロリーを消費したし、夕食までになんとか収まってくれるといいけれど。

 

食べるのもトレーニングのうちだしね……なんて考えていると、なぜかあの夜、お母さんと父と三人でバーベキューしたことを鮮明に思い出した。

 

その中の私たちは、まるでいつまでもこの幸せな時間が続くと思っているかのように、笑っている。

 

すべては一瞬で変わってしまうというのに。

 

……こんなことをつらつら考えてしまうあたり、私は相当に疲れているらしい。

 

しばらく、この胸の不快感は収まりそうになかった。

 

*

 

夜の海に月光が反射し、その明かりが揺れ動く一本の白い道を作っている。

 

その光景は、どこか神秘的だった。

 

夏の間あまたのウマ娘たちが無数の蹄跡を刻み、滴る汗を染み込ませた海岸も、今はただ静かな波音をたたえるのみ。

 

この夏さんざん走り込んだ砂浜に座り込み、暗闇の中さざ波に揺れる母なる海を、私はなにをするでもなく眺めていた。

 

遠くから、祭囃子が聞こえる。

合宿寮の近くで、毎年恒例の夏祭りが行われているのだ。

 

夏祭りは本来、お盆ぐらいの時期に先祖供養や五穀豊穣を願って行うもの。

けれどこの地域では、厳しい合宿を耐え抜いたウマ娘たちへのお疲れ様の意味も込めて、地元の人達が少し遅い夏祭りの開催に協力してくれているんだそうだ。

 

そう言えばお盆には亡くなったご先祖様を送迎するために、四本棒を刺したキュウリとナスをお供えするって風習があったっけ。

 

確かご先祖様はキュウリの方に乗って現世に戻ってきて、お盆が終われば今度はナスに乗ってあの世に帰る、という言い伝えだったはず。

 

ナスの方は牛がモチーフらしいが、キュウリの方はなにがモチーフになっているのか、良く分かっていないらしい。

 

キュウリのことを英語でキューカンバーというので、毎年お盆の時期になるとレースファンたちはアーモンドアイ(九冠バだ!)に乗って帰ってきたら、ご先祖様もさぞ早くこの世に戻ってこられるだろうね、なんて冗談をよく言っている。

 

案外、あのキュウリのモチーフはウマ娘だったりするのかもしれない。

全日本ジュニア優駿の駿のようなウマ編の漢字にある4つの点は、走る時あまりに速く動くウマ娘の脚が、まるで四本脚のように見えるさまから書かれるようになったと言われている。

 

もしそうならアーモンドアイさんほどは速く走れないだろうけど、私がお母さんを天国に迎えに行って、お盆に帰ってきてもらうのになぁ……。

 

そんな空想が、脳裏をよぎる。

 

でもそれで……本当にお母さんと、少しの間なにかお話できたなら。

 

今、私はお母さんとどんな話をしたいのだろう。

 

トレセン学園に入学して、頑張っていること?

シェリルという親友ができたこと?

 

それともやっぱり、プレオープンを勝利してとても嬉しかったことかな。

 

きっとお母さんは小さい頃の時のように、『レイナはすごいね。トレーニング、がんばったのね』って褒めてくれるに違いない。

 

うん。

この夏、自分でもやれることは全部やったなって思えるぐらい、がんばったと思う。

 

ねぇ、お母さん。

私、やっとオープンウマ娘になったわ。

 

もしかしたら、私も……。

 

「きゃっ!?」

 

物思いにふけっていた私の背後から、ふいになにか冷たいものを頬に当てられる感触がした。

驚いて後ろを振り向くと、そこには瓶に入った飲み物を私の頬に当てて、いたずらっぽく笑っている私服姿のウマ娘の姿。

 

「シェリル!」

「ニシシ、な~に一人でたそがれてんの?」

 

私に冷たい瓶を差し出しながら、彼女はよっと、と言って隣に座り込む。

 

「あ、ジュース買ってきてくれたのね。お金……」

「いいよ~、おごっとく」

 

シェリルは軽くそう言うと、自分も同じように持ってきていた瓶に口づけた。

なら、遠慮なくごちそうになっておこうかな。

こういう時、こちらが変に遠慮するよりも素直に厚意を受け取った方がシェリルは喜ぶということを、私はもう一年以上になる彼女との付き合いの中で理解していた。

 

「じゃあ、いただくわね。ありがとう」

「いいってことよ。いやね。レイナを祭りに誘おうと思って部屋に行ったら、誰もいなかったからさ。そのへんに娘たちにレイナ見なかった? って聞いたら浜辺の方に歩いていったのを見た、って聞いたから」

 

思えば、こうしてシェリルと言葉をかわすのは久しぶりだ。

合宿所での部屋割は別だったし、シェリルは私とはぜんぜん違うメニューをこなしていたらしく、トレーニング中にあまり顔を合わせることもなかった。

 

そんな友だちが、私を誘いに来てくれたのは嬉しかったけど。

 

「お祭り、行きたかったんでしょう? 私のことは気にしないで、行ってくれたら良かったのに」

「まぁあたしこの合宿所に中等部の頃から来てて、祭りは何回も行ってるし。それより、レイナと少し話しかったっていうか」

 

シェリルはそう言って、ニッコリと笑う。

何のためらいもない、真っ直ぐな笑顔だった。

 

「……そう。それで、ここまで来てくれたのね」

 

彼女の笑顔を見て妙に照れくさくなった私は、それとなく手の中の、もらったジュースに視線を落とした。

 

「……? って、なにこれ。みかん水?」

 

ずいぶんレトロなフォルムのガラス瓶に貼られているラベルにはそう書かれていて、印字されているフォントもどこか古めかしいものを感じさせる。

 

見慣れない飲み物だ。

 

しげしげと冷たい瓶の中身を観察してみると、みかん水という名前なのに色は薄いレモン色で、見た目からはあまりみかんっぽい感じはしない。

 

「うん。なんか珍しかったから祭りの出店で買ってきた。なんでも昔、関西の方の駄菓子屋さんで売ってたジュースらしいよ」

「ふぅん。でもなんで千葉の合宿所の近くのお祭りで、関西の昔の飲み物が売ってるのかしら……」

「さあ? まぁ屋台でショーバイしてる人って日本全国回るって言うし。中には関西の人もいるんじゃね? それに、あたしたち栗東寮だしちょうどいいじゃん」

 

何がちょうどいいのかよく分からなかったけど、私はとりあえず頷いておくことにする。

もうすでに蓋を開けてくれていたので一口含むと、程よい甘さが口の中に広がり、すっと喉の奥へと流れていった。

 

「おいしいわね、これ」

「そうっしょ。あたしも初めて飲んだけど、蒸し暑い夏にピッタリって感じ」

 

シェリルの意見に、私も小さくうなずく。

少しだけ感じる酸味が、夏の暑さを和らげてくれるような気がした。

 

「でも、どしたん? せっかくお祭りやってんのに、こんなところに一人でいて。ひょっとして体調あまり良くない感じ?」

 

そう心配してくれるシェリルに、私は苦笑いして軽く手を振った。

 

「ううん、そうじゃないわ。少し人混みが苦手なだけ」

「あ~、なるほど。レイナ、逃げウマ娘だもんね」

 

何の脈略もなさそうなことを言って笑うシェリルだったけど、あながちその指摘は間違ってもいなかった。

 

逃げる娘の中にはバ群の中にいるとどうしても力が発揮できないために、仕方なく逃げている娘も結構いる。

 

持って生まれた性格的なものもあるのだろう。

そういう娘は、日常生活の中でも人混みを避けがちだ。

 

私は自分のスピードを最大限引き出すために逃げているつもりだったけど、混雑している場所や騒がしい場所がちょっと苦手という性格も、脚質に影響しているのかもしれない。

 

思い返せば、お母さんも、静寂を愛する人だった。

 

「……あのね」

「ん?」

「お母さんのことを、少し思い出していたの」

 

久しぶりの親友との会話に、厳しいトレーニングで張り詰めていた気持ちが緩んだのだろう。

気がつけば私は、今の心の(うち)を吐露していた。

 

いきなりこんなことを言われてシェリルも戸惑ったかもしれないけど、彼女はいつもと同じように、少し身体を乗り出して私の話に耳を傾けてくれる。

 

「お母さん……っていうと、サイレンススズカさんのこと?」

「うん」

 

オープンに昇格してから、ふとした時にお母さんのことが脳裏によぎることが多くなった。

 

私の現役生活も、あとたった3戦しか残っていない。

でももし今年の10月の初めまでに、オープン戦を一つ勝つことができたのなら。

 

秋の天皇賞への出走が、現実味を帯びてくる。

サイレンススズカという奇跡のウマ娘が、スピードの限界を突き詰め、自分だけの景色を追い求めたあの舞台に。

 

そのことが、母を想起させるのかもしれない。

 

「そっか。レイナもオープン入りしたから、ひょっとしたら……」

 

シェリルがなにか言いかけた時だった。

どこか遠くから、りぃん、りぃん、と涼やかな音色が聞こえてきた。

 

「あっ、山の方で鈴虫が鳴いてんね」

「鈴虫? まだ8月なのに?」

 

私の疑問にシェリルはうん、とうなずく。

 

「山は少し気温が低いからね。街中よりだいぶ早くから鳴き始めるんよ。この音聞くと、夏合宿も終わりだな~っていつも思うんだわ」

「そうなのね」

 

いつのまにか、祭囃子の音が止んでいる。

お祭りも終わりが近いらしい。

 

あたりに響くのは秋の虫の美しい羽音と、ささやかな波の音だけだ。

 

話好きのはずのシェリルがそれ以上何も言わず、闇をいだく海を見ながら、自然が奏でる重唱に耳を傾けている。

 

私たちはわずかに聞こえる秋の足音に耳を澄ませ、去りゆく盛夏を惜しむように、夜の海をいつまでも眺めていた。

 

*

 

初めての夏合宿が無事に終わり、私はまたトレセン学園へ帰ってきた。

 

「いや~。合宿も終わってもう9月に入ったってのに、まだまだ暑いな……」

 

タオルで汗を拭きながら、トレーナーさんが放課後待ち合わせていたトレーナー室に少し遅れてやってきた。

 

今日はトレーニング前に、今週出走するレースについてのミーティングを行う予定になっている。

 

「? おかしな人。9月なんだから暑いに決まってるじゃない」

 

やってきて早々、変なことを言うトレーナーさんに私が首を傾げると、彼はなぜか感慨深げに首を縦に振りながら椅子に腰掛けた。

 

「ああ、レイナぐらいの歳の娘はそういう季節感なのか。今の子達には信じられないかもしれないけどね。俺が子供の時は9月に入ったらもう冷房がいらないぐらい、涼しい日も普通にあったんだよ」

「へぇ。昔は異常気象の日が多かったってこと?」

 

私の疑問に、トレーナーさんはあっけにとられたような顔をする。

 

「いや、俺達中年からすればむしろ今の気温が異常なんだが……。そうか、時代とともに異常って感覚も変わっていくか……」

 

なにか寂寞を感じているらしいトレーナーさんは、深い表情を作ってうんうん、と頷いている。

 

トレーナーさんが子供の頃といえば30年ぐらい前の話だけど、そんなわずかな期間で気温が大きく変動するものなんだろうか?

 

「気温に対するジェネレーションギャップはともかくとして、だ。暑い時期のウマ娘の体調管理は難しいからね。できれば早く涼しくなってほしい、ってのがトレーナーとしての切実な願いではある」

「……そうね」

 

たった30年ぐらいで体感気温が変わってしまっているなんて、母なる地球は大丈夫なのだろうか、なんて壮大な(だがあまり意味のない)自動思考の海に沈んでいた私の意識は、体調管理という俗世的な言葉を聞いて現在に戻ってきた。

 

基本的にウマ娘は、夏の暑さに弱い娘が多い。

 

私は幸い夏負けするほど暑さに弱い体質ではないけれど、やっぱり多少は食欲が落ちたりして、そのせいで体重の調整が難しい時もある。

 

食べすぎて太ってしまうのも問題だけど、体重が必要以上に減ってしまうと、これはこれで困ったことになる。

ある程度身体に余力がないと、エネルギーをたくさん消費する負荷の高いトレーニングに耐えられないのだ。

 

そうすると目標のレースまでに仕上げきれずに泣く泣く回避、なんてことにもなりかねない。

 

しっかり栄養を取り、食べたものはトレーニングですべて消化して、適正体重を保ち続ける。

 

それができれば理想的なのだけど、なかなか思い通りにいかないのがウマ娘の体重というものだ。

 

「まぁ気温は俺たち人間がどうこうできることじゃないからね。なんとか環境にアジャストしていくしかない。ところでレイナ。合宿ではかなりハードなトレーニングに取り組んだけど、学園に戻ってきてから大きな体調の変化はないかい?」

「ええ。おかげさまで、体調の方もメンタルの方もすこぶる好調よ」

 

強気に微笑んで、私はパンッ、と自分の太ももを軽く叩いてみせる。

 

砂浜でのインターバル走に遠泳と、夏合宿でのトレーニングは彼の言う通り厳しいものだったが、そのぶん実りのあるものだった。

 

懸案だったトモの筋肉は中距離特化の練習の成果もあり、ほぼプラン通りに軽量化できた。

 

ひとめ細くなったように見える大腿四頭筋の中には、しなやかさに加えて中距離に耐えうる、十分な持久力を持った筋繊維がしっかりと走り抜けている。

 

車に例えるならシャープなボディに軽くて強力なエンジンを積み込み、燃費の良いガソリンを入れたようなものだ。

 

この夏、私は間違いなく速くなった。

 

強くなった。

 

今の私なら、オープンクラスでも十分通用する。

そう胸を張って言えるだけのトレーニングを、私はこなしてきた。

 

「それを聞いて安心したよ。前走のプレオープンも厳しいメンバーだったけど、今週出走予定のフォーマルハウトステークスにもかなり手強いウマ娘が出走を表明しているからね」

 

彼は手元にあったノートPCを開いてカチカチと何度かマウスを操作してから、くるりと画面を私の方に向ける。

 

彼が見せてくれたのは、URAの公式HPだ。

そこには今日発表されたばかりの、私が出走する阪神芝2000mオープン・フォーマルハウトステークスの出走メンバー表が映し出されていた。

 

「! あのウマ娘が、出てくるのね」

 

ウマ柱に彼女の名前を発見して、思わず息を呑み込む。

 

その名はターフオブウィッチ。

 

通称【ターフの魔女】。

 

通算成績78戦10勝。

GⅠ勝利こそないが、GⅡ2勝、GⅢ3勝の成績を上げている強豪ウマ娘。

 

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