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ウマ娘の現役生活は短い。
自分の才能に見切りをつけて、ジュニア級で引退していくウマ娘もたくさんいる。
重賞を勝つような才能あるウマ娘でも、クラシック級が終わる頃には能力がピークアウトしてしまって引退を決断する、というケースも決して少なくない。
シニア級を3年も走っているウマ娘は無事是名ウマ娘の体現者であり、大ベテランといっていい。
ダートを主戦場にしているウマ娘はもう少し現役を続けられる傾向にはあるけれど、それでもシニア級で5年走り続ける人は稀だ。
ウマ娘の選手生活が短い理由はケガや病気、能力がピークアウトしてしまうというものが多いけど、実はそれだけじゃない。
私たちウマ娘も生物であり、人間であり、女性である以上、子孫を残そうとする本能を持っている。
年齢とともにその本能が女性ホルモンを刺激し、走るためだけにチューンナップされていた心身を、より女性らしいものへと変化させる。
そうなると走るのに必要な筋肉が付きづらくなり、競走相手に向けられるべき闘争本能が少しずつ薄れてゆく。
つまり、レースで戦うことに不向きなフィジカルとメンタルに変わっていってしまうのだ。
私のお母さんも(胸元に影がないとか、散々言われていたあのサイレンススズカだ)、胸の大きさは引退後もそれほど変わらなかったようだけど……。
それでもお母さんの、残っている夏場の薄着姿の写真などを見ると、腰回りやお尻、太ももらへんの丸みやふくよかさに、女性らしさが見て取れる。
ダイイチルビーさんが引退する際、彼女を担当していた女性トレーナーが「もうそろそろ、体のほうがレディになりつつあるからね……」と発言した裏側には、こういった事情があった。
戦う女から、レディへの
それはどんな名ウマ娘でも避けられない【成長】なのだ。
だがそんな自然の摂理に逆らうかのように、【彼女】は中等部1年生からシニア8年目になる現在まで、オープンクラスで活躍して現役を続けている。
いつの頃からか、そんな彼女をファンや関係者は、畏怖と敬意を込めて『ターフの魔女』と呼ぶようになっていた。
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9月の早朝。
朱赤の朝焼けと蒼色が混じり始めた美しい空を背景に、たくさんのウマ娘たちが坂路を走り込んでいる。
全身から吹き出す汗を感じながら、私も木片の敷き詰められた坂道を駆け上がっていた。
「はっ……はっ……!」
坂の傾斜が体内の酸素を少しずつ、それでも確実に消費してゆく。
でも夏合宿前に比べて、呼吸がずいぶん楽になった。
脚の疲労感も段違いに軽い。
今までは600mをすぎる頃には呼吸が乱れ始めて脚も重かったのに、それが嘘のようだった。
「残り100m! レイナ、ラストスパート!」
「はいっ!」
トレーナーさんの檄に応え、私はわずかに体を沈み込ませる。
「はぁっ!」
刹那、溜めた脚力でウッドチップを思い切り蹴り込み、トップスピードを繰り出す。
少し前を走っている娘が、止まって見える……!
あっという間にその娘を抜き去ると、全速力を維持したまま坂路の頂上までたどり着く。
その瞬間、耳につけた測定機からピピッ! という機械的な音が聞こえてきた。
トレーナーさんのデバイスに、1000mの坂路を走り抜いた私のデータが送信されたのだ。
ゴールの通知音を聞いた私は速度を緩め、息を整えながらゆっくりと立ち止まる。
するとゴール付近の外ラチにいたカメラマンたちが、一斉に私の方へカメラを向けた。
レース番の記者たちも、スマホやタブレットを取り出して熱心に何かを記録している。
夏合宿が終わって学園に戻ってきてから、私の練習中にこのような光景を目にすることが増えていた。
「お疲れ、レイナ」
坂路を走り切った私を労いながら、トレーナーさんがスポーツドリンクを手渡してくれる。
「ありがとう。タイムはどうだったかしら?」
「すばらしいよ、自己ベストを更新だ。こんな時計、滅多にお目にかかれるものじゃない」
そう言って彼は、タイムの表示されたスマホをこちらへ向けてくれた。
「……! 64.4。悪くないわね」
と謙遜しつつ、私は頬がゆるむのを我慢できなかった。
もし周りにたくさんの記者がいなかったら、ガッツポーズの一つでも取っていたと思う。
1000m坂路トレーニングでの、オープンウマ娘の平均走破タイムが65.3。
この時計が65秒を切れば、重賞でも通用すると言われている。
そのことを考えると、私の記録した64.4は相当な好タイムだった。
ちなみに坂路トレーニングコースでのレコードは64.0で、過去にはタイキシャトルさん、カルストンライトオさん、リナアラビアンさんの3人(あと、ダービー前のエイシンフラッシュさんが非公式に達成したという話もある)が記録している。
いずれもスピードで鳴らした名ウマ娘たちだ。
……今のカルストンライトオさんといえば、美人の面白キャラとしてメディアやウマチューバーのコラボ相手に引っ張りだこな人気者だけど、やっぱりすごい人だったんだなぁ……。
「すばらしいですっ!」
うんうん、カルストンライトオさんは素晴らしい美人よねぇ……と内心頷いたところで、私はまったく関係のない人に、ぜんぜん関係ない返事をしていたことに気がついた。
おそらくは私のことを称賛しながら両の拳を握りしめ、恍惚の表情で天を仰いでいたのは、月刊トゥインクルの名物記者、乙名史悦子さんだった。
「坂路1000m64.4で自己ベスト更新! すばらしいですっ! あなたのお母様であらせられるサイレンススズカさんも確かあの金鯱賞前に素晴らしい自己ベストを坂路で叩き出しておられましたよねっ!?」
文章にしたら句読点がまったくなさそうな早口で質問を繰り出しながら、乙名史さんはいつの間にかどこからか取り出したスマホを、私の顔にぐっと近づける。
たぶん、録音モードになっているんだろう。
「えっ……あっ、はい。そうですね……」
実の娘とは言え、お母さんの過去のことをすべて記憶しているわけじゃない。
そうだったのかしら……と首をわずかに捻って、声のトーンを落とした相槌を打って適当にお茶を濁す。
「くぅぅぅっ! すばらしいっ! ではお母様同様、ここからサイレンスレイナ、スピード伝説の幕開けというわけですね!?」
「あっ……いえ、それはどうでしょう……」
マチカネフクキタルさんをはじめ、強豪を大差でちぎってレコード勝ちしたあの金鯱賞は確かに衝撃的だった。
けど当時のお母さんは中山記念、小倉大賞典と重賞を2勝していて、すでに一流のウマ娘になっていたのだ。
そんなお母さんと、ようやく夏にプレオープンを脱出したばかりの私と比べられても、正直困る。
「乙名史さん。うちの担当に注目していただけるのはありがたいんですが、レイナにはまだトレーニングが残っていますので……」
突然割り込んできた乙名史さんの勢いに押されて口をつぐんでいたトレーナーさんが、ようやく隙を見つけて名物記者を苦笑しながらそう諭す。
「あっ、これは失礼しました! 明日の記事の見出しは【サイレンスレイナ、母の金鯱賞前を彷彿とさせる自己ベスト更新! サイレンススズカの娘、いよいよ本格化か!?】で決まりです! フォーマルハウトステークスでは強い娘も出てきますが、レイナさんならいいレースをしてくれると確信しております! ありがとうございました!」
乙名史さんはそう言い残し、カルストンライトオさんも裸足で逃げ出すほどのダッシュを決めて坂路から去っていった。
……面白美人枠という意味で乙名史さんとカルストンライトオさんは、いいライバルなのかもしれない。
「他の社の皆様も、レイナの公開練習はここまでということで。取材、お疲れ様でした」
丁寧な口調ながら、はっきりと取材時間の終わりを告げたトレーナーさんに記者たちは一礼し、
「結局おいしいとこ、乙名史さんに持っていかれたなぁ。ウチもサイレンスレイナの特集記事書くつもりだけど、見出しどうすっかな」
「乙名史さんのそれはいつものことだろ。でも彼女の言うように、今回のフォーマルハウトステークスはサイレンスレイナが昇級初戦であっさり勝っちまうかもしれないな。坂路での動きは本当に良かった」
「本命サイレンスレイナ、対抗は……ウィッチオブターフってところか。彼女、ここんところ冴えない成績が続いてるけど、さすがにOP戦では格が違いすぎる。新鋭VS古豪って構図は、王道ながらにやっぱり興味惹かれるな」
と、私の次走の展開を熱く語りながら坂路コースから退出していった。
「……体調は悪くないし、私の極端な距離適性への筋肉最適化トレーニングも効果が出始めているとは思うんだけど、トレーナーさんはどう思う?」
記者さんたちが見えなくなったところで、私は改めて自分のトレーナーに今の見解を尋ねてみる。
「レイナの体感は正しいよ。身体はしっかり動いているし、心肺機能が強化されて息遣いも本当に良くなった。記者たちも言っていたように、次走一番要注意なのは重賞を勝っていて経験豊富なウイッチオブターフだけど、さすがに近走は往年の豪脚も鳴りを潜めているしね」
「確かに、そうね」
フォーマルハウトステークスに出走することが決まってから、ウイッチオブターフさんが今年出走したレースを動画で拝見したけれど……。
2月のGⅡ京都記念では10着、5月の天皇賞・春では8着、7月のGⅢ七夕賞も8着と、不本意な成績が続いているようだ。
重賞を5勝している大ベテランが普通のOP戦に出てくるのも、もう今の力では重賞で優勝争いするのは厳しいと、彼女が考えているからかもしれない。
「プレッシャーを掛けるわけじゃないけれど、今のレイナならここは十分勝ち負けになると思っている。チャンスを活かすためにも、しっかり仕上げていくよ。朝練の仕上げにダートの1000mを強めに一本追うけど、いけるね?」
坂路を走ったあとは、クールダウンとしてウッドチップコースをウマなりで半マイルほど走ったり、脚に負担のかからないプールで軽くひと泳ぎすることが多い。
しかし今回は高い負荷をかけて、ギリギリまで身体をチューンナップさせたいようだ。
トレーナーさんも今回のOP戦に、勝負を賭けている。
そして彼も、きっと分かってくれている。
「もちろんよ」
トレーナーさんの指示に、私は力強くうなずく。
今回の【チャンス】は、目先の一勝というだけじゃない。
ここを勝ってレースポイントを加算できれば、重賞への挑戦、そしてその先に天皇賞・秋への道が開けてくる。
母が、サイレンススズカが、誰もいない先頭の景色を追い求めて光となった、あの舞台へ。
そう思うと、身体に熱が滾る。
脚がもっと走りたい! と叫んでいる。
昂ぶった気持ちそのままに、私はダートコースに向かって駆け出していった。
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パチリ、と木と木が触れ合う小気味の良い音が寮の部屋に響く。
夕食後、私は自分の部屋でシェリルと将棋を指していた。
将棋にはレース中の思考力を鍛える効果があると言われていて、トレセン学園での正式なトレーニングメニューとして採用されているし、私たちのように将棋が好きな生徒はそれ以外の時でもよく指している。
「レイナの次走って、フォーマルハウトステークスだっけ?」
「……そうよ」
中盤の勝負どころでまったく読みにない手を指され、イチから戦略を立て直していた私は盤上を睨みつけたまま、おざなりにシェリルに返事した。
普段の言動とは裏腹に……と言っては失礼だけど、シェリルの指す将棋は居飛車の本格派で、通算成績は私のほうが分が悪い。
序盤の力強い駒組みから中盤に形勢を決定づける鋭い好手を指され、そのまま何もさせてもらえずに終盤押し切られる、というのが負かされるときのパターンだ。
私も居飛車党なので(これは母譲りで、お母さんは急戦棒銀を好んでよく指した。銀が先頭を突っ走っていくような形が好きだったらしい)後手番で雁木に構えたが、破壊力抜群の右四間飛車にうまく指されて、形勢はすでに先手が有利になっていそうだ。
「だよね。出走メンバーはどんな感じなん?」
今はそれどころじゃない、と思ったが思えばウマ娘にとってレースのことよりそれどころじゃない話はない。
私は持っていた歩をいったん駒台に置いて、盤上から顔を上げた。
「合宿明けの中距離OP戦ってことで、例年通り層の厚いメンバーが出てくるみたいね。その中でもやっぱり、重賞5勝のウィッチオブターフさんが注目されているみたい」
「……ああ。ウィッチさん、出てくんの」
大先輩の名前になにか引っかかるものでもあったのか、シェリルは腕を組んで中空に視線を泳がせる。
「? どうしたの?」
「ん~……」
シェリルはなにか言いかけたようだけど、
「いや、別になんも。まぁ今のレイナならオープンじゃ負けないっしょ。がんばれ」
と軽薄に私を応援して、ニッコリと笑うだけだった。
「……変なの」
シェリルの反応が気にはなったけど、無理に聞き出すのもなんだかなぁ、と思った私は再び盤上に思考を戻す。
少し盤面と距離を置けたのが良かったのか、素晴らしい妙手を閃いた。
私は駒台から桂馬をつまみ上げ、パチン! と駒音高く盤に打ち据える。
するとシェリルはそれを待ってました! とばかりにノータイムで桂馬の頭に歩を打ちつけた。
「あっ!」
そこに打ってくるなら銀だろう、銀を使わせるなら悪くない、と思っていたばかりに、歩打ちは盲点になっていた。
やってしまった。
どうやら私は、毒まんじゅうを食わされたらしい。
妙手に見えた手は、シェリルの用意した周到な罠だったのだ。
「…………」
食べてしまったものは仕方ない。
私は少しでも盤面に毒が回るのを遅らせるよう、しばらく受けに専念するよりなかった。