スマホのアラームで目を覚ますと、見慣れない景色が視界に広がった。
画面の停止をタップしたついでに、時刻を確認する。
アラームは1秒も遅れることなく、5時30分に私を叩き起こしてくれたらしい。
「……」
まだ重たい
薄暗い室内。
見慣れない机。
見慣れない本棚。
そうだ。
私はトレセン学園の、栗東寮に入寮したんだった。
*
昨日、母の墓前でトレセン学園に入学したことを伝えたあと、ファミレスで軽く食事をすませて寮に戻ってきた。
シェリルは帰ってきた私に、入学初日から外出して何をしてきたのかを聞こうとはしなかった。
その代わり、どこの中学校に通っていたの? とか、彼氏いる? とか、他愛もないことを興味深く、消灯時間まで質問攻めにしてくれたのだった。
ちなみにシェリルには中等部の時から付き合っている、同じ年の彼氏がいるとのこと。
スマホで彼の写真を見せてもらうと(というか、見て見て! と言って見せてきた)、そこには清潔感があって爽やかそうな少年が、明るい笑顔で収まっていた。
半袖姿の彼の腕を見ると、結構鍛えていそうな感じだったのでなにかスポーツでもしているの? と聞くと、彼はテニスに本気で打ち込んでいるそうだ。
テニスの強豪校にスポーツ推薦で進学した、と自慢げに言っていたぐらいだから、きっと本格的に取り組んでいるのだろう。
件の彼氏とどうやって出会ったかも話してくれたような気がするけど、私は昔から興味のない話は記憶に定着しづらいタイプで、そのあたりはすっかり忘れてしまった。
それにしても、彼氏ねぇ……。
そんなものが、私にもいつかできるのかしら?
そのシェリルはと言えば、もう部屋にいない。
昨夜寝る前に『5時半にアラーム鳴らしてもいいかしら?』と聞くと、『うん。その時間ならもう起きてるからいいよ~』と言ってくれていたけど、こんな朝早くから彼女は一体どこへ行ったのだろう。
まぁ朝の準備にやたら時間が掛かる娘っているしね……なんてことを考えながら、私は顔を洗おうと、ゆっくりベッドから脚を下ろした。
*
トレセン学園の練習場は、パンフレットの写真で見た印象よりもはるかに広大で、美しかった。
綺麗に
きめ細やかなウッドチップが敷き詰められた、走りやすそうなコース。
思っていたよりずっと傾斜のある坂路。
そして緑萌える芝のコース。
それらのコースがまばゆい朝日に照らされている光景は、どこか幻想的ですらあった。
「突然すみません! 新入生でサイレンススズカさんの娘の、サイレンスレイナさんですね!?」
こんな素晴らしい環境でトレーニングできるだなんて、本当にここに来てよかったな……とにわかに感動していると、背後からいきなり声をかけられた。
「はい。そうです、けど……。……っ!」
振り向いた瞬間、激しい閃光が私の目を焼く。
思わず閉じてしまった瞳をゆっくり開けると、そこにはたくさんの大人たちがマイクや録音機器、それにカメラを携えて、いつの間にか私を取り囲んでいた。
「サイレンスレイナさん! トレセン学園へのご入学、おめでとうございます! 今のお気持ちをお聞かせください!」
「お母様のサイレンススズカは異次元のスピードでトゥインクルシリーズを沸かせましたが、やはり、お母様を超えたいという気持ちをお持ちですか?」
「サイレンスレイナさんは中学生ウマ娘ステークスで史上初めて、2000Mを1分57秒台で走りきって勝っていらっしゃいますよね? デビュー後はやはり、お母様と同じく中距離をメインに走る予定ですか!?」
いろんな人から、様々な質問がいっぺんに飛んでくる。
えっ。
あ。
えっと……。
この人たちは多分、マスコミの人たちよね……。
一体、どの質問から答えればいいのかしら……。
「こらぁっ! あんたら、誰の許可を取ってここで取材してるんだ!?」
突然の出来事に私が慌てふためいていると、トレーナー寮の方から、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
駆け足でやってきた見知った男性――私を担当してくれるトレーナーさんだった――が、私をかばうように取材陣の前に立ちふさがる。
「あっ、あなたはサイレンスレイナさんを担当なさるトレーナーさんですね!?」
「トレーナーさん。サイレンスレイナさんにも、お母様のサイレンススズカさんのような活躍を期待してもよろしいのでしょうか!?」
「サイレンススズカさんはあなたが担当なさっていた、エアグルーヴさんの良きライバルだったわけですが、そんなトレーナーからみてサイレンスレイナさんの素質はどんなものでしょうか?」
トレーナーから怒鳴りつけられても取材を続けようとするマスコミの人たちの姿勢は、プロらしいと言えないこともなかったけど、ルールもマナーもわきまえない取材陣に、彼の怒りは増すばかりのようだった。
「だからっ! 取材はまず学園の広報部を通せって、いつも言ってるだろう!? 警備員の制止も振り切って勝手にトレーニングコースにまで入ってきて……いい加減にしないと、不法侵入で警察呼ぶぞ!?」
警察の一言に一瞬たじろいだマスコミたちだったが、あちらにはあちらの言い分があるらしく、大人しく引き下がろうとはしない。
「確かに許可なく入ったことは褒められたことではないでしょうけど……私たち記者クラブはサイレンスレイナさんの入学前から、何度も広報部と理事会に取材許可の申請をしてきました。なのに注目度の高いサイレンスレイナさんの取材を一切拒否した、そちらの姿勢にも問題があると思いませんか?」
「あんたら……それ、本気で言ってるのか……?」
取材陣の、あまりといえばあまりの言い分に、彼は呆れを通り越して驚愕に目を見開いている。
いつの間にか傍観者になってしまった私も、まったく同じ思いだった。
「レイナはまだ何の実績もない、ただの
そこまで言われても、マスコミたちはなおも食い下がる。
「サイレンスレイナさんはただの一新入生なんかじゃありませんよ! 中学生時代は全国ウマ娘レース大会でトップクラスの実績を残していらっしゃいますし、なにより、事故で亡くなったあの異次元の逃亡者・サイレンススズカさんが唯一残した遺児……」
「……!」
その記者の言葉に、かっと顔が熱くなって、尻尾の付け根がこわばった。
耳が、ギューッと絞られる。
眼の前にいる大人たちが、霞んで見える。
すべての思考が停止して……記憶が、過去へ遡りはじめた。
眼の前に迫る、巨大なトラック。
世界がひっくり返ったかのような衝撃。
お母さんの微笑み。
病室の、消毒液の匂い。
父の、慟哭。
それらが一気に記憶の奥から掘り起こされて……私の心と呼吸を、ぐじゃぐじゃにかき回す。
「……それ以上言ってみろ。二度と取材なんかできない身体にしてやるぞ」
それは、静かな声だった。
静かだが、殺気じみたトレーナーさんの声を聞いて、私はなんとか自分を取り戻す。
呼吸を整えながらまだ霞む目で前を見ると、食ってかかってきた記者の胸ぐらを、トレーナーさんが乱暴に掴み上げていた。
記者の襟を握り込んだ拳は力みすぎて白くなっていて、怒りで震えている。
「えっ……あっ……その、す、すみませんでした……」
その迫力に負けたのか、記者は彼から目を逸らしながらも、自分の非を詫びた。
謝罪を聞いたトレーナーさんは少しは気が収まったのか、彼の襟からそっと手を離した。
「……いや、こっちこそすまなかった。ここのところ寝不足でイラついていたんだ」
そう言いつつも、彼は取材陣を追っ払うかのように手を振る。
「とにかく、これからのレイナへの取材は絶対に学園を通してくれ。もし今度許可なくレイナに取材するような記者がいたら、学園とURAに掛け合ってそいつとそいつのいる会社関係者全員を、レース界から永久に出禁にしてやるからな!」
まさか一人のトレーナーにそんな力があるわけもないだろうが、彼の本気の怒りと覚悟は記者たちに伝わったらしく、みんなまだなにか言いたげにしながらも、ゾロゾロと出口へ向かって立ち去り始めた。
「大丈夫か、レイナ」
記者たちが全員立ち去ったのを確認してから、彼はこちらを振り向き、心配そうに声をかけてくれる。
「え、ええ。大丈夫……」
にじみ出ていた額の汗を袖で拭いながら、私はなんとか返事した。
平気を装ってみたものの、まだ胸の鼓動はドクドクと激しく波打っている。
「すまなかった。こんなことがないよう記者クラブには釘を差しておいたし、警備員さんにも注意するよう、お願いしておいたんだが……。あれだけの数で突撃されては、どうすることもできなかったんだろう。まったく、あの連中は時々信じられないことをしやがる」
彼は頭を振りながら、そう言って肩をすくめた。
「……あれだけの記者の人たちが【サイレンススズカの娘】というだけで私のことを取材しにやって来るなんて、やっぱりお母さんってすごいウマ娘だったのね」
なんとか作った苦笑いをうかべて尋ねる私に、彼は小さくうなずく。
「ああ。戦歴だけで言えば他にも素晴らしいウマ娘はたくさんいるのだが……彼女の走りには、惹きつけられずにはいられない魅力があった」
そう言うと彼は、なにか眩しいものでも見るかのように、朝日降り注ぐターフの方へ視線を向けた。
お母さんのライバルだったエアグルーヴさんを担当していた彼の目に、一体何が映っているのだろう。
「でも、君は君、サイレンススズカはサイレンススズカだ。そのことを意識するな、という方が無理かもしれないが、あまり囚われないでトレーニングを積み重ねていこう」
トレーナーの言葉に、私は小さく首肯する。
私は私。
お母さんは、お母さん。
そんなことは分かりきっているけれど、私の心の奥底には、母に追いつきたい、母が見ることができなかった自分だけの景色というものを見てみたい、という熱い思いが、間違いなくある。
それは決して囚われているといったような負の感情ではなく、ウマ娘としての母の存在は、私の明確な目標であり、夢でもあった。
「よし。じゃあ今日は初日でもあるし、軽くダートを流すところから始めよう。そうだな……とりあえずウマなりで1000Mを二本、走ってみてくれるか」
「はい」
今から走れるとなると、多少のわだかまりはどこかへ吹き飛んでしまう。
ウマ娘というのは、そういう生き物なのだ。
私は軽く微笑みを浮かべて返事すると、憧れだったトレセン学園のトレーニングコースへと駆け出していった。