サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第十九話

*

 

母がプレオープン、そして生涯唯一のGⅠ勝利となった宝塚記念を勝ったレース場。

そんな阪神レース場への私のデビューは、プレオープン2200m戦で11着に終わっている。

 

「そもそもあのレースは距離適性外だったわけだし、半年前のレイナと比べると、走力も体の作りも違う。過去のことはまったく気にしなくていいよ」

 

出走メンバーの最終チェックをしながら、すでに体操服に着替えた私にトレーナーさんが笑いかけてくれた。

 

「そうよね……」

 

惨敗したレースの記憶が2月の冷たい風と共に鮮明に思い出されたせいか、返事する声が少し震える。

 

頭ではあの時の自分とは違う、と理解していても……。

刻み込まれた敗戦の過去と記憶は、あの日の最後の直線、逃げバテて次々に抜かれていった映像をしつこいまでに脳内で再生し続けていた。

 

「人間、過去にあった嫌なことは次からはできるだけ避けられるよう、記憶に残してしまうものだからね。無理に記憶から追い出そう、思い出さないようにしようとしなくていい」

「じゃあなに? 今の心の状態のまま、レースに向かえってこと?」

 

大事なレース前ということもあり、少し気が立っているようだ。

思わず声を鋭くしてトレーナーさんに聞き返してしまう。

彼はノートPCから顔を上げると、真剣な眼差しでこちらを見つめた。

 

「すまない、説明不足だった。過去の経験からくる記憶想起や大事なミッションの前の緊張というのは、脳に組み込まれた生き残るためのプログラムだからね。強引に忘れようとしたり、消し去ったりしようとするほうが無理なんだ。だからそんな自動思考とは、距離を置くようにする」

「自動思考と距離を置く……?」

 

彼の提案に、私は小首を傾げた。

 

……言わんとしていることは、なんとなく分かる。

でもそんなこと、可能なのだろうか?

それができないから、どのアスリートたちも苦労しているというのに。

 

「そう。この手の方法はいくつかあるが、俺が一番効果的だと思うのは、今の自分の状態を三人称で実況中継してみるってアクションだね。例えば、今レイナの頭の中でどんなことを喋って、身体はどんなことを感じているのか。自分のことを【観察】して、頭の中でいいから言語化してごらん」

「……。分かったわ」

 

半信半疑のまま、私は自分の内側に意識を向けてみた。

 

え~と。

レイナは今、今年の2月に走ったプレオープンの結果を思い出している。

それで、また惨敗したらどうしようか、と不安になっているわね。

 

不安と緊張のせいか、レイナの手のひらは、少し汗ばんでいる。

ひょっとしたら暑さのせいもあるかもしれない。

冷房が効いてるから、それはないか……。

 

……。

 

あっ。

 

こうして頭の中の言葉を『私は』じゃなく、『レイナは』と言い換えることで、少し客観的になっている気がする。

 

そのおかげか、ちょっとイライラ感が落ち着いてきた。

 

うん。

意識の中にあるのは、不安や緊張だけじゃない。

 

そこにはもちろん、レースに対する高いモチベーションもある。

 

この日のために、レイナはやれるだけのことはやってきた。

 

自分の夢を追い続けるため、というだけじゃない。

 

……レイナは、お母さんが宝塚記念を勝った阪神レース場という舞台で、勝ちたいと強く願っている。

 

強く、強く、願っている。

 

「ねぇ、トレーナーさん」

「うん?」

「実況中継している中で自分の闘志に火をつけてくれるものがあったんだけど、これも客観視して距離をおいたほうがいいの?」

「いや。そういう思考、感情とは距離を置かず、しっかり噛み締めてモチベーションや闘争心に変えて大丈夫だ」

 

そういうものなんだろうか。

 

「ふぅん……。なんだか、ずいぶん都合の良い心理テクニックねぇ」

 

率直な私の感想に、彼は軽い苦笑いを浮かべた。

 

「そう感じるのは分かるけどね。でもそれが、感情をコントロールするってことなんだよ」

「なるほど」

 

都合が良かろうとなんだろうと、パフォーマンスが発揮できるメンタルの状態になるなら願ったり叶ったりだけどね。

 

実際、自分を観察し始めてから不安や緊張、苛立ちがずいぶんマシになってきた。

 

「うん。これはいいテクニックね。感情のさざ波が、かなり安定してきたような気がする」

「それはよかった」

「トレーナーさんって走りの技術だけじゃなくて、心理学的なテクニックにも詳しいのね。さすがあのエアグルーヴさんを担当していただけあるわ」

「……ははっ。それはどうも」

 

私が感心すると、彼はなんとも言えない笑みを浮かべた。

……トレーナーにとって担当からのこういう褒め言葉は、あまり嬉しくないものなんだろうか。

 

「当時の俺はまだまだ駆け出しのトレーナーで、エアグルーヴの能力と気丈な性格に甘えた部分がたくさんあった。指導面でも自分が教えたことより、教えられたことのほうが多かったかもしれない。今の俺ならもっと彼女にできたこと、してあげられたことがあったのにな、と思うことがある」

 

パタン、とノートPCを折りたたむと、彼はわずかに視線を下ろした。

そして少しの間まぶたを閉じると、また私の方へと優しげな目を向ける。

 

「でもそう思えるのが成長ってことなんだろうし、俺の拙い成長で得た経験や知識を、担当しているウマ娘のレース人生に役立てる。担当しているウマ娘たちの、杖になる。それがGⅠウマ娘・エアグルーヴに対する、最大の恩返しだと思っているよ」

「……。そうなのかも、しれないわね」

 

彼の言葉に、私は少しうつむいて相槌を打つ。

 

みんな、いろんなことがあって今がある。

未練もある。

後悔もある。

過去の経験からくる恐怖だって、きっと誰にだってある。

 

でも先に進める人はそれらを乗り越えて今の試練や立ち向かい、挑戦するのだ。

 

そろそろ、パドックでの顔見せの時間が近づいてきた。

 

「行ってくるわね」

「もうそんな時間か……。うん。今のレイナの力を、オープンクラスのウマ娘たちに思い切りぶつけておいで。きっと、いいレースになる」

 

彼の励ましに私は軽く手を振って応え、控室を後にした。

 

*

 

同じ関西圏内にあるレース場だけど、阪神レース場と京都レース場では少し雰囲気が違う。

 

大雑把に違いを説明するなら、阪神レース場は陽気なエンタメシアター、京都レース場ははんなりとした歴史と伝統の舞台、というイメージだ。

 

パドックに脚を踏み入れると、さっそく『陽気なエンタメ』らしいシーンが展開されていた。

 

「おーい、おばちゃんウマ娘! 尻タレてへんか!」

 

舞台上のウマ娘に、壮年ぐらいの男が大きな声でヤジを飛ばしている。

壇上にいたのは、あのウィッチオブターフさんだった。

 

「失礼ね! 私がおばさんなら、あんたはしょぼくれジジイじゃない!」

 

彼女は時代錯誤じみたヤジに、怒るわけでも怯むわけでもなく、皮肉なユーモアを交えて言い返す。

 

「確かにその通りやわ!」

 

件の男性の方も言ったら言い返される、という常識をわきまえていたらしい。

その瞬間、ドッとパドックの観客席が爆笑に包まれる。

こういうノリの軽さは、阪神レース場独特のものだと思う。

 

「それに肌ツヤだってトモの張りだって、中等部の娘にも負けてないわ!」

 

そう言うとウィッチオブターフさんはブルマから伸びた白い太ももをペチン、と自分で叩いた。

 

肌のキメ細かさが、本当に中等部の娘に負けていないのかはなんとも言えない。

でも彼女のトモの仕上がりは、同じレースを走るウマ娘として脅威を感じる出来だった。

 

少なくとも、年齢を重ねたことによる衰えなどはまったくなさそうだ。

ファンたちもそのあたりはよく分かっているらしく、実績に勝る大ベテランを今日の2番人気に推している。

 

観客席を沸かせた彼女は、ぐっと胸を張って強気に微笑む。

目があまり笑っていないように見えたのは、ツリ目気味の瞳のせいだろう。

 

私もツリ目気味だからわかるんだけど、なんでもないときでも友だちから『今日はちょっと機嫌悪い?』なんて指摘されることがある。

 

そうしてシンプルに絶好調をアピールしたウィッチオブターフさんは、颯爽と舞台から降壇した。

 

ファンからのヤジに冗談を言い返し、舞台の上で堂々と振る舞う彼女の姿は、なんだか少し意外だった。

 

『ターフの魔女』なんて二つ名を聞いていたものだから、マンハッタンカフェさんのような神秘的で物静かな女性を想像していたのだけど、大先輩はどうやらそういうタイプではないらしい。

 

そんなことを考えつつ、私も彼女の次にパドックの舞台へと上がった。

 

「レイナ! オープン昇格おめでとう!」

「トレーニング動画見たよ! めっちゃいい動きしてたね! がんばって!!」

 

舞台の中央へやってくると、力の入った応援の声が観客席のあちこちから聞こえてくる。

 

「サイレンススズカも、バレンタインステークスっていうOP戦勝利から伝説の幕を開けたんだ! レイナもそれに続いてくれ!」

 

男性の声が飛んだ瞬間、観客席のボルテージが一気に上がったのが分かった。

 

母を知るファンたちの熱が、私の肌に伝わってくる。

 

……いまだ語り継がれるお母さんの蹄跡も、OP戦の勝利から始まった。

 

そのことを思うと、身体が火照ってくる。

 

気合が入る。

 

私は肩幅より少し広めに脚を開き、腰に手を当てて反れるぐらいに背筋を伸ばす。

 

目の肥えたファンたちはそれだけで私の好調ぶりを感じ取ったのか、大きな拍手を私に送ってくれた。

 

それは、私への期待の表れだった。

ファンは今日も私を一番人気に推した。

 

一番人気なんて、今まで重荷でしかなかった。

真ん中より下の人気で気軽にレースに臨みたいと、何度願ったことか。

 

でも、今は不思議とそのことにプレッシャーを感じない。

人々の期待が、むしろ心地よくさえあった。

 

そんな自分に少し心強さを覚えながら、私は舞台を後にする。

拍手が止んだ後も、観客席からの興奮の余韻は収まらなかった。

 

舞台の階段を降りる際、ふとウィッチオブターフさんと目があう。

 

これから戦う大先輩に、軽く会釈でも送ろうとしたが……。

 

どういうわけか、私を見る彼女の視線からは、熱というものをまったく感じられない。

その冷気が、軽々しい挨拶をためらわせた。

 

醒めきった彼女の瞳が、なにか爬虫類めいた無機質なものに見えたからだろうか。

ねっとりとした嫌な感じが、全身を駆け巡る。

 

失礼であることは承知していたが、私は観客席の騒音に気を取られたようなふりをして、慌てて彼女から目を逸らす。

 

「……やっぱりちょっと、気が張っているのね」

 

人の視線が過剰に気になるのは、レース前にはよくあることだ。

 

私は自分をそう戒めてからウマ娘たちの周回している輪の中に入り、蹄鉄がゴムチップを踏みしめる感覚に、意識を集中させた。

 

*

 

OP戦には私のように全盛期へ向かう途中のウマ娘もいれば、ウィッチオブターフさんのように少しピークアウトしたがために、戦う舞台を重賞戦線からOP路線に切り替えてきたウマ娘もいる。

 

ここはいわば、ウマ娘たちの競走人生の交差点だ。

 

そんなレースの前のせいだろうか。

 

ゲート前でウォームアップをしているウマ娘たちの空気が、プレオープンの時と比べるとかなり張り詰めている。

 

若手たちからは『ここでロートルに遅れを取るわけにはいかない』という雰囲気を感じられたし、ベテラン勢も『まだまだクラシック級やシニア級一年目の【若いもん】には負けられない』という空気感を醸し出していた。

 

初めて体感する気配にかすかな緊張を覚えながら、私は5番のゲートに脚を踏み入れる。

 

狭いゲート内で、脚元を軽く蹴って芝の具合を確かめた。

何の問題もない。

 

大きな勝負の前なのに胸が軽く感じられて、呼吸もなんだかスムーズだ。

 

そう思うのはきっと、体調がいいってだけじゃない。

プレオープンでは付けることを義務付けられていた、鉄製のインゴットがなくなったおかげもあるだろう。

 

OP戦からは、ウマ娘たちの順位を意図的に操作しようというハンデはもう存在しないのだ。

 

ゲート内の、ランプが灯る。

16人のゲートインが完了。

 

ゲートが、開いた。

揃ったスタートになったようだ。

 

いいゲートアウトを決めた私は、初めてのOP戦という舞台に臆することなく、果敢に先頭を奪いに行く。

このレースにはあと2人、逃げウマ娘がいたはずだが、どちらも私に鈴をつけに来る様子はない。

 

極端な逃げウマの私に行かせるだけ行かせて、自分たちはできるだけやりやすいところでレースをする、という戦略に切り替えたらしい。

 

逃げウマ娘にとって、自分一人でペースを作ることができるという状況ほどありがたいことはない。

 

そう考えていると、阪神レース場名物【ゴール前の急坂】が先頭を行く私を出迎えた。

序盤からスタミナを奪おうとしてくる、底意地悪い傾斜路だ。

 

でも私はそれをモノともせずに、勢い良く駆け上がる。

 

うん。

芝の坂道でも脚がしっかり捌けている。

坂を登りきっても、まったく息が乱れない。

 

気合は乗ってるが、気持ちが掛かってしまっているということはない。

 

いい感じだ。

 

あとはどれだけ自分のペースで走れるかが、勝負を分ける。

 

後続の足音のテンポがずいぶんと落ち着いてきた。

 

第一コーナーに差し掛かった時点で、大まかな隊列は決まったようだ。

 

先頭を取りきった私に対して、スタンドから大きな拍手が起こる。

 

阪神レース場は第一コーナーから第二コーナーまでが緩やかなカーブになっていて、距離が短い。

しばらく大きく流れは変わらないだろう。

 

実際レースは、淡々としたペースで進んでいる。

 

「……?」

 

しかしそうだとしても、なんだかずいぶん後ろが静かだ……。

 

妙な違和感を覚え、私は一瞬だけ後ろを振り返った。

3バ身ほどだと思っていたリードが、いつのまにか5バ身ほどに広がっている。

 

ん。

ひょっとして、スピードを出しすぎているのかしら……。

 

体調がいい時、こういうことはままある。

体内時計と行きたがる脚のテンポが、少しズレてしまうのだ。

 

まったく、調子が良すぎるのも困りものだ。

私は少し意識的にスピードを落とし、後続を少し引きつける。

 

すると背後から聞こえる爪音が、少し大きくなった。

また後ろを振り返ると、きちんと3バ身ほどの距離を保てている。

 

よし。

理想のペースに戻すことができたようだ。

 

「…………」

 

と思ったのもつかの間。

第2コーナーへ差し掛かると、後続がずいぶん近づいてくる気配を感じた。

 

再度、2番手集団を確認してみる。

すると今度は、1バ身半ぐらいまで詰められてしまっているではないか。

 

前を走っているウマ娘が、あまり頻繁に後方を確認するのはマナー的に良くないこととされている。

案の定というか、二番手を走っているシニア3年目の先輩と目が合うと、非難がましい視線を私に送ってきた。

 

私は一瞬だけ顎を引いて謝意を示し、慌てて顔を前方へ向き直す。

 

う~ん……。

なんだか今日はペースがうまくつかめない。

 

自分では同じようなラップを刻んでいるつもりなのだが、体内時計が狂っているのだろうか。

 

いや。

オープン戦というレースの流れが、そもそもこういう難しいものなのかもしれない。

 

この階級に上がってきたばかりの逃げウマ娘が、楽なレースをさせてもらえるわけないか……。

 

なんとも言えない違和感はあったが、すぐにその正体を掴めそうにない。

 

厳しいレースになることだけは予感しつつ、第2コーナーを曲がると阪神レース場が誇る、広大なバックストレッチが眼前に広がった。

左回りの新潟レース場と違い、左側にきれいに揃えられた並木が立ち並んでいる。

 

前に誰もいない景色。

わずかに遠ざかる、スタンドからの歓声。

 

バックストレッチへ進入したときに感じる、群衆の中の孤独のような感覚が私は好きだった。

まだまだ夏をはらんだ九月の風を全身に浴び、私は先頭をひた走る。

 

わずかな向かい風が、火照った身体に心地よい。

 

お母さんがこのレース場で宝塚記念を制した時も、こんな感じだったのだろうか。

 

……仮初の孤高感が、集中力を拡散させていたようだ。

私はレースに意識を戻し、耳を澄ませて後続の脚音を聞き取ろうとする。

 

爪音は、かなり遠い。

どうやらかなりのリードを取っているらしい。

 

脚に疲労は感じられない。

呼吸の乱れも、ほとんどない。

 

……。

 

ひょっとしたら、私はこのまま楽に逃げ切れるのではないか。

 

そんな思いとともに、第三コーナーへ突入した。

残り800m。

ここからは緩い下り坂になっていて、ウマ娘の体幹バランスと速度調整力が試される。

 

勢いに任せすぎると、スタミナを浪費する。

かといって慎重になりすぎると、ゴール前の急坂の途中で止まってしまう。

 

もちろん距離の壁のこともあっただろうけど……以前このレース場で大敗した時は、そこの加減がまるでわからなかった。

 

でも今の私には、これまで積み重ねてきた実戦経験がある。

厳しいトレーニングに耐えてきた、肉体と精神がある。

 

自分を信じて、堂々と私は先頭を突き進む。

【6】と書かれたハロン棒を通過した。

 

残り、600m。

スタンドが近づいてくる。

 

オーディエンスの歓声が、大きくなってきた。

 

「……ふっ!」

 

私は、ここで一息入れる。

サイレンススズカ譲りの、必殺の呼吸だ。

 

ここまで、ほぼ完璧にレースを運べている。

あまりに理想的すぎて怖いぐらいだった。

 

緩やかなカーブを回り切り……最後の直線を迎えた。

 

残り356m。

 

「はっ!」

 

私はここで、トップスピードを解放した。

 

スタンドから湧き上がる大歓声。

 

いける。

脚にはまだ、自分でも背筋が震えるほどの好感触が残っていた。

 

私は自らの走力を見せつけるかのように、ラストストレートを駆け抜ける。

 

額から吹き出る汗。

 

鼓膜の中を躍動する、バクバクという心音。

 

後続の脚音は聞こえない。

 

残り200m。

 

仁川の坂が、最後の関門として私を待ち受けている。

 

「はぁっ!!」

 

私はわずかに身体を沈め、跳ね出すようにターフを蹴り込んで急坂へ立ち向かった。

 

レースも最終盤。

 

さすがに、疲れを覚え始めていた。

スタート直後のように楽には登れない。

 

それは分かりきっていたことだが。

 

「……っ!?」

 

どうしたのだろう。

 

脚元が。

 

脚が急に、まるで泥土に捕らわれてしまったかのように重たくなる。

 

ゾワッとした悪寒が、腰椎から這い上ってきた。

 

まさか、故障!?

 

いや、違う。

脚に痛みはまったくない。

 

呼吸の乱れも、ほとんどない。

なのに脚だけが、まるでチェーンの外れた自転車を漕いでいるかのように、前に進まない!

 

一体なにが起きているのか。

 

半ばパニックに陥っている私の背後から、凄まじいプレッシャーの塊が襲いかかってくる。

 

思わずうしろを振り向くと黒色のブルマと……ウィッチオブターフと書かれたゼッケンが目に飛び込んできた。

 

【ターフの魔女】が一歩一歩、確実に私との距離を詰めてくる!

 

刹那、彼女と視線が交わる。

 

歴戦の古豪の瞳には、私なんて映っていない。

爬虫類のような冷たい瞳で、ただ前だけを見つめている。

 

その冷気にあてられ、背中が、脚が、凍りつきそうになる。

 

でも私は幻想の氷を力ずくで叩き割り、また前を見据えた。

 

重力に捕われてしまった脚を、無理解のまま必死に動かす。

 

ゴールはまだか。

 

視界が、揺れる。

前髪が額に張り付く。

 

こんなに長い最後の直線を走ったのは、初めてだ。

 

後ろからの重圧が、少し遠のいた気がした。

 

ようやくゴール板が見えてくる。

 

「はぁああぁぁぁっ!」

 

残っているかどうか分からない気合を、スピードを、スタミナを、体の底から全部絞り上げる。

 

限界を迎えそうな脚が、ターフを確かに踏み抜いた。

湧き上がる大歓声。

 

右から銀色の反射光が、網膜に飛び込んでくる。

あるはずのない静寂。

 

果てしない白色が、世界を覆い尽くした。

 

*

 

スタンドの喧騒が遠い。

ターフの緑が、やけに眩しい。

 

世界が音と色を取り戻したのと、私が立ち止まったのはほとんど同時だった。

 

言葉にできない不協和音が、耳の中をかき乱している。

目が霞む。

呼吸が、ままならない。

 

意識が、遠のきそうだ……。

 

「結果は……」

 

ひざが崩折れそうになったけど、なんとか右脚を軸にして電光掲示板の方へ振り返る。

まっさきに目に入ってきたのは、赤地に白文字で書かれた【確定】の表示だった。

 

少し、視線を下に滑らせる。

 

阪神 10R 確定

Ⅰ 5

Ⅱ 3 1/2

Ⅲ 16 クビ

・・・

 

1着に表示されていたのは、間違いなく私が与えられた出走番号だった。

そして着順の下に輝く、レコードの赤文字。

 

走破タイム、1分55秒9。

 

「レコードタイムで、勝ってる……」

 

小さなつぶやきが、私の耳に届く。

それが自分の声であることに気がついて、私は聴力も元に戻りつつあるのを自覚する。

 

とたん、スタンドからの拍手と歓声が奔流になって、私の鼓膜を震わせた。

 

「優勝おめでとう!」

「すごいレースだったぞ、レイナ!」

「オープン戦でこのタイムはマジですげぇ! この秋の活躍、楽しみにしてるよ!」

 

ファンたちの称賛の声を聞いて、私は少しずつ自分の勝利を実感しはじめた。

 

応援してくれたファンたちに勝利の喜びを全身で表現したかったけど、身体が思ったように動かない。

 

笑顔で手を振る気力さえ、残っていなかった。

 

……レース後、普通にガッツポーズをしたり、手を振ってファンの声援に応えているウマ娘って、とんでもない体力オバケだったのね……。

 

今更ながらに、これから向かうであろうオープン以上のレースの厳しさに戦慄する。

 

「いや、ほんと驚いたわ。坂の最中、あそこからまだ脚を使えるなんてね」

 

あきれたような、感心したような声を掛けられてそちらを振り向くと、ウィッチオブターフさんが眉を八の字にして苦笑を浮かべていた。

 

「……お疲れ様、です」

「お疲れさん。まぁアンタほど疲れてないけどね」

 

スタミナを使い果たしてまともに挨拶もできない不甲斐ない後輩に、彼女は肩をすくめる。

 

「にしたって、よく勝ったものだわ。先頭のアンタに楽させないように中団で細かくポジション変えてバ群を操作して……最後の直線も私の思惑通り適度にバラけて、芝の良いところでいい脚使えたんだけどね。これだけ理想的なレースをして後輩に負かされるなんて、歳は取りたくないわぁ」

「えっ……」

 

冗談めかして事の真相を話す大先輩に、私はゴクリ、とつばを飲み込む。

 

道中どうにもうまくペースが掴めないままだったのは、彼女の巧みなバ群操作のせいだったのだ。

 

セイウンスカイさんのように知略に長けた逃げウマ娘が、幻惑的なペースで逃げて後続を混乱させる、みたいなことは確かにある。

 

しかし中団でそれを実行できるウマ娘がいるだなんて、ちょっと信じられなかった。

 

……彼女がどうして【ターフの魔女】なんて仰々しい二つ名で呼ばれているのか、私はようやく理解した。

 

「でもアンタはそんな小細工ものともしないで、レコードタイムで私を打ち負かした。アンタの才能は本物よ。十分、()を目指せるぐらいにね」

 

そう言って大先輩はようやく呼吸が落ち着いてきた私の背中を、力強くバシッと叩く。

 

「頑張れ若人。アンタは強い。長いキャリアでいろんなウマ娘を見てきた私が言うんだから、間違いない」

 

未成熟な後輩を激励するとウィッチオブターフさんは私に背を向け、ヒラヒラと手を振りながら連絡通路に脚を向ける。

 

そうして去りゆく偉大な大先輩に、私は自然と頭を下げていた。

 

本気で戦うとは、単に全速力で走る、ということだけではないのだ。

戦略も戦術も全て使い果たして、決して相手に楽をさせない。

それもまた、全力を尽くすということなのだ。

 

【ターフの魔女】はそのことを、身を持って教えてくれた。

 

今日のレースは、本当に学ぶことが多かった。

 

ウイニングライブの前に一度控室に戻って、今日のことをトレーナーさんに報告しないと。

 

そう思って一歩踏み出し、地に脚をつけた瞬間。

 

「……えっ……」

 

経験したことのないような強烈なハリ感と違和感が、私の左脚を襲った。

 

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