サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第二十話

*

 

動かない私を見て異変を感じ取ったのか、スタンドにいるファンたちがざわめき始める。

 

……おおごとになる前に、控室に行かないと……。

 

でも、焦る気持ちに左脚がついてこない。

脚に痛みはなかったが、違和感とハリ感は大きくなるばかり。

 

どうしよう。

これ、無理に動かして大丈夫なのかな……。

 

額に、冷たい汗がにじみ出てくる。

うろたえながら通路の方を見ていると、駆け足でトレーナーさんがこちらへやってくるのが見えた。

 

「トレーナーさん……!」

「どうした、レイナ。ちょっと疲れたか? 無理するな、俺の肩に掴まれ」

 

そう言って彼は私の左側に立ってくれる。

口調こそ冷静だったが、その顔はまるで氷水を浴びせられたかのように蒼白だ。

 

……彼も、私の異常に気づいている。

 

私はそっと彼の肩に腕を回し、体重を預けた。

 

「……レイナ、すまん」

 

彼は小声でそう言うと……私の腰に手を回し、片腕で体を持ち上げた。

わずかに脚元が浮いて、そのおかげでちょっとだけ脚のハリ感がマシになる。

 

「通路の入口に車椅子を用意してある。そこまでこの体勢で運ぶから、少し我慢してくれ」

「……わかったわ」

 

吐息のような声で返事したけど、トレーナーさんにはしっかり聞こえたようだ。

彼は小さく頷くと、ゆっくりと歩き始めた。

 

連絡通路まではわずか数十メートルだったが、まだ夏の日差しが残る中、ほぼ片腕だけで私を運んでくれたトレーナーさんは汗だくになっている。

 

観客の視線を隠してくれる通路へようやく到着すると、入口近くに置いてあった車椅子に彼は私をそっと座らせてくれた。

 

「モニターでレース後の様子を見ていた。君が立ち止まって掲示板の方を向いた時から、少し左脚をかばっているように見えてたけど……痛みはどう?」

 

いつもよりかなりの早口で、彼は私の脚の状態を確かめてくる。

 

「今のところ痛みはないわ。ただ、張っている感じと、説明しにくい変な違和感があって……」

「分かった。痛みがないのは不幸中の幸いだ。すぐに病院にいこう。契約前に聞いていた、かかりつけの総合医療センターにはもう連絡してある。今日は休診日だが、主治医の先生が診てくださるそうだ」

 

彼の言葉に、私は素直に頷く。

 

「タクシーをアプリで呼んである。5分もしないうちに来るはずだ。マスコミやファンに見つかって騒がれる前に急ごう。ちょっとスピード出すよ」

 

そう言って私の背後に回り込んだ彼は、かなりの速度で車椅子を押し出した。

私は振り落とされないよう、しっかりと手すりにつかまる。

 

OP戦に勝利した直後に、こんなことになるなんて……。

 

夢への扉が、ようやく少し開き始めたというのに。

 

これだけの違和感と張りがあって何もないってことはないだろうけど……どうか、軽症でありますように……!

 

沸き上がってくる不安と恐怖を、私はとにかくなにかに祈ることで、必死に押さえつけていた。

 

*

 

小さい頃からお世話になっているかかりつけ医の吉田先生は、真剣な表情で撮ってきたばかりのレントゲン写真を見つめている。

 

診察室での、息をするのも憚れるような沈黙はどんなに通い慣れている病院でも、慣れるものじゃなかった。

 

「……うん。明らかな故障は見当たらないわ。聞いている感じ、脚の違和感はおそらく激しいレースでの消耗と、夏合宿でのハードトレーニングの蓄積疲労のせいでしょうね」

 

私のことをよく知ってくれている医師の診断に、トレーナーさんと私は同時に安堵の息をふぅ、と吐き出した。

 

「よかった! 本当に、よかった……」

 

額に手を当て、小さく首を横に何度も振りながらトレーナーさんは囁くような声で『よかった』を繰り返す。

 

「もう。トレーナーさん、大げさすぎよ」

 

胸に手を当て、そんなトレーナーさんに微苦笑する。

私のことなのに、私より安心してくれていそうな人を見ると、なんだかちょっと可笑しくなる。

 

「ええ。今回は大きなケガに繋がらなくて、本当に良かったのですけど」

 

私たちが落ち着くのを待って、吉田先生は真剣な口調で切り出した。

 

「正直申し上げますと、デビュー前に診察して想定したペースよりレイナさんの脚の消耗が早い。私がレイナさんとお父さんに提言した10戦っていう区切りは、本当は少しバッファーを持たせたものだったけど……サイレンスレイナさんの脚にもうその余裕はないわ」

 

信頼している主治医の厳しい診断を聞いて、私は小さく頷く。

……先生の言葉が、今までの競走生活の肌感覚にぴったり当てはまっていたからだ。

 

私たちは沈黙を守ったまま、医師の言葉に耳を傾ける。

 

「レイナさんの戦えるレースは、本当にあと2戦だけ。それに次のレースでも脚部不安が出るようなら、私からも引退を勧告するしかなくなる。そのことだけは、胸にとどめておいてください」

 

『はい』

 

私とトレーナーさんが声を合わせて返事すると、吉田先生は少しだけ表情を緩めた。

 

「今の違和感とハリ感はアイシングをしてしっかりテーピングをしておけば、数日のうちに解消されると思います。なにか異常を感じたら、またすぐに来てください」

 

今まで数十回はやってきた慣れた対処法を聞いて、私はようやく人心地つけたような気がした。

 

「わかりました。急な診察、ありがとうございました」

「いいえ。お大事にしてください」

 

お礼を述べると、休診日の日曜日に呼び出されたのにもかかわらず、先生は嫌な顔一つせず笑顔でそう言ってくれた。

そんな先生に、私たち二人はもう一度『ありがとうございました』と頭を下げる。

トレーナーさんが「それじゃ行こうか」と、車椅子のハンドルに手をかけた時だった。

 

「レイナさん」

「はい」

「あなたのお母さんが天皇賞で故障してここの病院に搬送されてきた時、診察したのが私だったの。それで、サイレンススズカさんと当時のトレーナーさん……あなたのお父さんね。彼女たちに『スズカさんは、もう一生走れない』って診断したのも、私だった」

 

もう長いこと吉田先生にはお世話になっているけど、それは初めて聞く話だった。

先生は遠い目をし、起伏のない声で話を続ける。

 

「私も、サイレンススズカというウマ娘の持つ圧倒的なスピードとカリスマ性に魅せられて……彼女の走りに夢を見た、レースファンの一人だった。だからこそ、スズカさんに予後不良の診断を下すのは、辛いものがあった。秋の天皇賞を見ていると、今でも思うの。もしスズカさんが無事にあの天皇賞を走りきっていたら、どんな景色を私たちに見せてくれたのだろう、って」

 

先生は一度短く息を吸い込むと、メガネを外して鼻根のあたりを揉んだ。

 

私には先生の理知的な瞳の光が、少しだけきらめいて見えた。

 

「でもね。それ以上に私は……ううん、私たちレースファンは、彼女に無事に走りきってほしかった。ファンはもちろん、自分たちの推すウマ娘の勝利を信じて応援してるわ。でも、それよりも、なによりも、全員無事にゴールを駆け抜けてほしいと願っているのよ」

 

故障して走れなくなったウマ娘を、今まで数え切れないほど見てきたであろう外科医はそう言って切なそうに微笑んだ。

 

「あなたには、夢を叶えてほしいと心から思う。でもそれ以上に、無事に競走生活をまっとうしてもらいたいの。だから、無理だけは絶対にしないで。何かあったらすぐに病院に来てね」

「……はい」

 

普通に返事したつもりだったけど、少し声がかすれる。

胸の奥が、なんだか熱い。

 

トレーナーさんが、私の車椅子の隣で深く頭を下げている。

私ももう一度、レースの世界を支え続けてくれている医師に精一杯の謝意を込めてお辞儀をして、診察室を後にした。

 

 

*

 

平日は治療を求めるウマ娘で溢れている総合病院の待合室も、休診日の日曜日はシン、と静まり返っている。

 

車椅子の背もたれの軋む音が、必要以上に耳に響いた。

 

「しかし、どうするかな……」

 

広い待合室の真ん中あたりで車椅子を止めると、トレーナーさんがポツリと呟く。

 

「どうするかなって……。これから先のトレーニングとかローテーションの話?」

「いや、それも大事なことなんだけど……」

 

トレーナーさんは苦笑いすると、軽く肩をすくめた。

 

「ここからトレセン学園まで、どうやって帰ろうかなと思ってね」

「? そんなのここに来たときと同じように、タクシーで帰ればいいじゃない」

「そのつもりだったんだけど、どうもそういうわけにはいかないらしい」

 

彼は少し眉を寄せながら尻ポケットからスマホを取り出すと、何度か画面をスワイプさせた。

そしてウマッターのタイムラインを、わたしに見せてくれる。

 

「……これは確かに、ちょっとめんどくさいことになってるわね」

 

そこには一体誰が投稿したのか、【サイレンスレイナがケガしてここに運ばれてきたらしい】というポストとともに、病院の正面玄関前に詰めかけているレース記者たちを写した写真が表示されていた。

 

……今日はもう、心身共に疲れ果てている。

トレーナーさんも、スマホをポケットに戻しながら疲れたようなため息をついている。

 

たくさんの記者たちに質問攻めにされながら、彼らの波をかき分けてタクシーに乗り込みたいとはとても思えなかった。

 

「なんとか裏口から、こっそり出られたりしない?」

「マスコミ連中にここへ来たことを知られているなら、当然そこも張り込まれていると考えるべきだろうね……」

「そうよね……」

 

文字通り、私たちは息を合わせて憂鬱なため息をつく。

マスコミたちの存在はレース界の盛り上がりに欠かせないものだ、と分かっていても、こんな時ぐらいは本当にそっとしておいてほしい。

 

「しばらく病院内で時間を潰しているうちに、帰ってくれたりしないかしら?」

 

ここ日本ウマ娘外科総合医療センターは地域の医療の根幹を担っている大きな病院で、院内にはコンビニやレストラン、それにちょっとした図書館まで完備されている。

 

時間を潰すのは、それほど難しいことじゃない。

でも私の意見はあまり良いものではなかったらしく、トレーナーさんは首をゆっくり横に振る。

 

「あいつら、特ダネと見たらそれこそ1週間でも2週間でもそこで張り込みを続けるから……。俺達がここにいると確信している以上、絶対に張り込むのをやめないだろうね」

「そう。……レース記者の人たちって、ヒマなの?」

 

ふと浮かんできた素朴な疑問に、彼はフッ、と軽い笑いを浮かべた。

 

「まったくだ。これから秋のGⅠ戦線に向けて、取材すべきウマ娘はいくらでもいるはずなんだけどね」

「ホント、そうよねぇ……」

「ともかく、現実問題として彼らはこの病院を取り囲んでいる。なんとかマスコミの目をかいくぐって帰る手段を考えないとな。いくら休診日だからといっても、あんなにたくさんの記者たちにいつまでもここに居座られていたら、急患が来た時の邪魔にもなりかねない」

「そうね……」

 

はじめのうちは正面玄関から堂々と出ていって、ちょっとしんどいけどマスコミたちに『大した症状ではありませんでした。大丈夫ですよ』と愛想の一つでも振る舞ってタクシーに乗り込めばいいか、と半ば諦めていた。

けれどあまりに身勝手な記者たちの振る舞いに、私はなんとか彼らのウラをかいてトレセンへ戻ることはできないか、と思い始めている。

 

そう言えば以前、メジロ家のお嬢様が私と同じようにマスコミに付け狙われた際、ヘリを使って彼らの目を逃れた、なんて話を聞いたことがある。

 

……私の実家は会社を経営していて多少は使えるお金があると言っても、さすがにそこまでのことはできない。

 

仮にできたとしても、私は絶対、その手段だけは取らないだろう。

できるだけ実家に……父に借りを作ることは避けたかったから。

 

「ちょっと変装して、ここに入院している家族のお見舞いです、みたいな感じで正面玄関から出るっていうのはどう?」

 

幸いここは病院だ。

大きめのマスクくらいは、コンビニに売っているだろう。

でも私のアイデアにトレーナーさんは難しい顔をするだけだ。

 

「マスコミも取材のプロだ。それぐらいの変装は見破ってくる。あと、車椅子でその設定はさすがに無理があるよ」

「うっ……それもそうね……」

 

普通に歩けていればその案も採用できたのに、と思ったけど、歩けるような脚ならそもそもこの病院に来ていないという謎のコンフリクトに、軽いめまいを覚えた。

 

う~ん。

じゃあ他に、なにか良い方法はないかしら……。

 

気がつけば、もう30分も二人で頭を悩ませていた。

それでも結局、たった一つの冴えた脱出方法なんて、思い浮かばなかった。

 

……これ以上私たちが意地を張ってマスコミに居座られることで、病院側に迷惑はかけられない。

 

もう正面玄関から出ていって、記者連中のお気に召すままにしてもらおうか。

 

トレーナーさんと私でそんな覚悟を決めた時、夜間休日の窓口の方から事務の制服を着た女性が歩いてくるのが見えた。

 

彼女は私たちの前までやってくると、ゆっくりと立ち止まる。

 

「失礼します。サイレンスレイナさんと、そのトレーナーさんですね?」

「ええ、そうですが……」

 

確認してくる事務員さんに、トレーナーさんが怪訝そうに返事する。

すると彼女は軽く頷き、

 

「どうぞ、こちらへ」

 

手のひらで正面玄関でも裏口でもない方を指し示すと、そちらへ向かって歩き始めた。

私とトレーナーさんは視線を交換し、どうしたものかと思いながらも彼女のあとをついて行く。

 

連れて行かれたのはこの病院に何か所かある、救急車が出入りするための救急搬送口の一つだった。

 

「吉田先生が特別にここを使えるよう、病院側に掛け合ってくださいました。外にもう、タクシーを呼んであります。いつ急患が運ばれてここを使うか分かりません。早く乗って出発してください」

「……ありがとうございます、助かります。レイナ、行くよ」

 

トレーナーさんは事務員さんの案内と指示に謝意を示してから、私に軽く声を掛けた。

 

私は小さく頷き、

 

「ありがとうございます」

 

と、いかにも真面目そうな、黒縁メガネを掛けた女性事務員さんにお礼を述べる。

 

「いいえ。その……」

 

彼女は少し言い淀み、それから少しはにかんだ。

 

「サイレンスレイナさん。今日の勝利、おめでとうございます。これからもがんばってくださいね。応援しています」

「……はい」

 

唐突な声援に、私はうまい言葉一つ返せなかった。

 

トレーナーさんが車椅子を押し進めると、目の前の自動ドアが開く。

晩夏の夕方らしい生あたたかい風が、髪の先を揺らした。

 

緊急車両停車口にはすでにタクシーが停まっていて、車の扉を開けて私たちが乗り込むのを待っていてくれている。

 

記者らしき人影が見当たらないことに、私は緩いため息をついた。

 

私はトレーナーさんの肩を借り、左脚をかばうようにして後部座席に腰を落ち着ける。

トレーナーさんも手早く車のトランクに車椅子を押し込むと、右側の後部座席から車に乗り込んだ。

 

「トレセン学園までですね? では出発します」

 

壮年の男性運転手さんはそういうと、アクセルを踏んで車を静かに発進させた。

 

*

 

車の外に目を向けると、真っ赤な太陽がビル間の向こうに沈んでいこうとしていた。

 

運転手さんは寡黙な人のようで客の私たちに話しかけることもなく、忠実に職務をこなしている。

トレーナーさんもようやく人心地ついたのか、ハンカチで額の汗を拭いていた。

 

「……今日病院に行ったこと、お父さんには黙っていて欲しいの」

 

目を伏せて私がそうつぶやくと、彼の手の動きが止まった。

 

「レイナ、親御さんに心配をかけたくないという君の気持ちも分かる。しかし……」

「私の気持ちが分かるなら、もうそれ以上言わないで」

 

少し、刺々しい声になってしまっていたかもしれない。

彼は沈黙すると、ハンカチを丁寧に折りたたみ、ポケットにしまい込んだ。

 

「……分かった」

 

それだけいうとトレーナーさんは腕を組み、備え付けのモニターの中で延々と繰り返されている何かのCMに視線を移す。

私も疲れ果てたふりをして、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

それからは特に会話することもなく、ほどなくしてタクシーはトレセン学園の正門前に到着する。

料金はトレーナーさんがクレジットカードで支払ってくれた。

 

先に車を降りたトレーナーさんが、車椅子を私の乗りやすい位置にセットしてくれる。

彼の肩に体を預けながらシートに腰を下ろし、姿勢を安定させた。

 

タクシーが走り去っていったのを確認してから、車椅子のブレーキを解除する。

トレーナーさんが、ハンドルに手をかけた気配がした時だった。

 

「お疲れ様です。サイレンスレイナさん、脚の様子はどうだったのですか?」

「……乙名史さん」

 

険のこもった彼の声が、頭上から聞こえてくる。

私たちに声をかけてきたのは、月刊トゥインクルの記者、乙名史さんだった。

 

彼女以外、あたりにマスコミ関係の人は見当たらない。

どう当たりをつけたかは分からなかったけど、彼女だけは病院の方ではなく、学園前で私のことを張り込んでいたらしい。

 

「あのねぇ……仕事熱心なのはけっこうなことですけどね。いくら長年お世話になっている乙名史さんと言えども、今日ばかりは取材拒否だ。レイナのことは後日、各社にメールでお伝えしますよ」

 

トレーナーさんはかなりきつい口調でそう言ったが、彼女は微笑んでうんうん、とうなずくだけ。

 

「担当しているウマ娘の脚のことです。トレーナーさんが慎重になるのも理解できます。ですが私たちレース記者もただの仕事、ただの野次ウマ根性であなたたちを取材してるわけじゃありません」

 

そういうと彼女は、ポケットからペンと手帳を取り出した。

今どきはAIを搭載したボイスレコーダーやスマホを使って取材を行う記者がほとんどだけど、彼女はこのオールドスタイルでの取材を貫いている。

 

「正確な情報をいち早くレースファンに伝え、あいまいな憶測や不要な心配、過剰な楽観によるファンたちの対立や混乱を最小限に抑える。そういう役目もあるのですよ」

「…………」

 

彼女の言葉は報道のプロとしての正論であり、信念だった。

そしてトレーナーさんもウマ娘に関して、プロ中のプロだ。

 

背中越しに感じていたピリついた空気が、少しずつ和らいでいくのを感じる。

 

「……いつまで経っても、あなたには敵いませんね」

 

そう言って肩をすくめでもしたのだろうか。

彼は軽いため息を私の頭上でつくと、車椅子の隣に並び、私の肩にそっと手を置いた。

 

「幸いレイナの脚部不安は、深刻なものではありませんでした。彼女のかかりつけの医師からは、違和感のある部位を冷やして数日安静にしておけば問題ないと診断してもらっています」

「そうですか! それは本当に良かった……」

 

乙名史さんは手帳になにか書き込む前に、安堵の息らしきものを大きく吐いた。

けっこう強引な取材を行うことで有名な乙名史さんだけど、彼女のことを悪く言うトレーナーやレース関係者が少ないのは、アスリートとしてウマ娘のことをリスペクトしてくれているからなのだろう。

 

「それは今すぐ、ウマッターにポストしても?」

 

彼女の提案にトレーナーさんは少し考え込んだが、

 

「……あなたの個人的なアカウントからならいいですよ。月刊トゥインクルの公式アカからポストされると、他のマスコミへの説明が面倒ですから」

 

と許可を出した。

 

乙名史さんは時に、トレーナーや関係者の発言を魔改造したような記事を書くことで有名だったが、ファンや関係者からは『大風呂敷な物言いは目立つけど、嘘は絶対に書かない』と妙に信頼されている。

 

「ありがとうございます。では、さっそく!」

 

肩がけにしていたバッグからスマホを取り出すと、乙名史さんはすごいスピードで画面をスワイプして何かを打ち込み始めた。

 

「これでよし。……っと。ポストして数秒もしないうちに、返信がついてますね」

 

彼女はいつものエクスタシーじみた笑みではなく、どこか母性を感じさせる微笑みを浮かべながら、スマホをこちらへ向けてくれる。

 

あたりが薄暗くなったせいか、液晶の光が少し眩しい。

 

『レイナ、大きなケガじゃなかったんだ! 安心した!』

『ソース元が乙名史さんなら、サイレンスレイナの無事は間違いないな。彼女が心配で夕食も手につかなかったよ』

『Stoked to hear she’s all good. Sweet as, now I can get a proper sleep.』

 

小さな画面の中で、私の無事を喜んでくれている返信が、数秒ごとにポストされて流れてゆく。

 

「…………」

 

その光景に、息が詰まる。

視界がゆがみそうになる。

 

でも月刊トゥインクルの名物記者に『サイレンスレイナ、ファンからの心配の声に号泣!』などと書かれるのが嫌だった私は、額の汗を拭うふりをしてそっと瞳から涙を払った。

 

「ところで乙名史さん」

 

私と一緒に彼女のスマホを覗き込んでいたトレーナーさんが、あごに手を当てながらそう切り出す。

 

「はい?」

「一体どうやって、俺達がマスコミを撒いてここに戻ってこられるのかが分かったんです? 俺達の出てきた救急搬送口は、医療関係者以外立ち入れないはずだ」

 

……うん。

いきなり登場した名物記者にちょっと混乱してそこは棚上げしていたけど、実は私も気になっていた。

 

私が首をひねり、トレーナーさんが疑問を尋ねると、乙名史さんはどこか感傷的な微笑を浮かべた。

 

「それは……」

「それは?」

「……サイレンススズカさんが天皇賞で故障された時、彼女たちが同じように総合医療センターの救急搬送口から学園に戻ってきたのを思い出したんですよ」

 

彼女の口からお母さんの名前が出た瞬間、ドキン、と鼓動が跳ね上がる。

ドクドクといった脈の音が、急に鼓膜を震わせ始めた。

 

「あのレースも、もうずいぶん昔のことになってしまいましたから……私のように当時の現場を取材した古株記者じゃないと、覚えていないのでしょうね」

 

速くなった脈拍は、なかなか収まってくれない。

手のひらに、じんわりと汗が滲んでくる。

 

「そうでしたか」

 

乙名史さんの種明かしに、トレーナーさんは短くそれだけ答えた。

 

「……レイナも疲れていますし、今日はこのへんで。レイナの脚の状態やこれからのことについては、また後日お話させてもらいますね」

 

ため息をついた私に気を使ってくれたのか、トレーナーさんは軽く会釈して【取材】を打ち切ろうとする。

 

……お母さんのライバルであったエアグルーヴさんを担当していたトレーナーとして、彼は今の話を、どう受け止めたのだろう。

 

「分かりました。サイレンスレイナさん。脚の方、本当にお大事になさってくださいね」

 

乙名史さんもそこは心得たもので、穏やかに微笑んで取材の終了を受け入れた。

 

「あ、そうだ」

 

そう言って乙名史さんはポン、と手をうち、なにかとっておきの秘密を友だちに教える子どものような、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

 

「今日の取材のお礼、というわけではありませんが、私が個人的に仕入れた情報を。ヨーロッパからはモンジューさんの娘が、アメリカからはタイキシャトルさんの娘が、毎日王冠に出走してくるそうですよ」

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