サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第二十一話

***

 

幸い大きな故障ではなかったレイナを寮まで送り届け、彼はレース後の残務と()()()()()()()のためにトレセン学園のトレーナー室に戻ってきていた。

 

「……はい。娘さん……レイナがレース後に脚部不安の症状を訴えまして。今日は休診日でしたが、主治医の吉田先生に診察していただけました。……ええ、幸いなことに重症ではありませんでした」

 

トレーナーはスマートフォンを耳に当て、静かな声で今日のことを電話の相手に伝える。

 

「そうか。大きなケガではなかったんだな」

 

無感情に思える平坦な男の声が、受話器から返ってきた。

そういや昔から、こいつが声を荒げて怒ったり焦ったりしているところを見たことがないな、と彼はぼんやりと思う。

 

電話の相手は、担当のレイナの父だ。

【彼】とはトレーナー養成学校の同期で長年の友人であったが、レースとレイナに関係することで連絡を取る時は、担当ウマ娘の保護者とトレーナーという立場をわきまえて接するようにしている。

 

レイナからは『父親には伝えないで』と釘を差されていたものの、現実問題として担当しているウマ娘が病院で診療してもらったことを、保護者に隠しておくなんてことはできなかった。

 

「はい。患部を冷やして数日安静にしていれば違和感も消えるだろう、とのことでした」

「分かった。それは何よりだ」

 

あまり温度の感じられない【彼】の声に、トレーナーは思わず眉をひそめた。

それでも彼は声のトーンを変えずに、会話を続ける。

 

「あと……」

「なんだ?」

「デビュー前に娘さん……サイレンスレイナは10戦まではレースを走れる、と吉田先生から伝えられたと思うのですが、あの時の診断はある程度のバッファーを考えてのものだったようです。ですがもうレイナの脚に余力は残されていないらしく、本当にあと2つ以上のレースを戦うことは許容できないからそのつもりでいてください、との告知を受けまして……」

「ふむ。まぁ昔から彼女はそういう診断を下すからな……。了解した。トレーナーからもレイナによく言い聞かせて、悔いのない現役生活を送らせてやってくれ」

 

レイナの父の言葉は娘を心配するそれだったが、その口調はどこまでも冷静で平坦だった。

 

「……分かりました」

 

友人として、一人の人間として【彼】の態度に一言物申してやりたかったが、今の立場はあくまで担当ウマ娘を預かっている一介のトレーナーだ。

 

トレーナーは自分をそう納得させ、余計なことをクライアントに言ってしまう前に電話を切ってしまいたかったのだが、電話嫌いの【彼】にしては珍しく、一息ついてから会話を続ける。

 

「ところでレイナの次走だが、ひょっとして毎日王冠になるのか?」

「ええ、まぁ。本人の意思次第ですが、僕としてはそのつもりでいます」

 

トレーナーの返事に、レイナの父は少し黙考する。

 

「そうか。今年の毎日王冠には、海外から2人の強豪ウマ娘が出走してくるらしいな」

「……乙名史さんから聞いたのか」

 

その話題が出て、彼は自分の立ち位置をエージェントから友人に戻した。

まだ公になっていない出走情報を把握しているということは、【彼】もきっと個人的に彼女から情報を入手したのだ。

 

「あぁ、夕方ぐらいに彼女から電話が掛かってきてな。レイナの状況と一緒に教えてくれたよ」

「なるほどな……」

 

彼はトレーナーを廃業してずいぶん経つレイナの父とレース記者の乙名史に未だつながりがあることを不思議に思ったが、【彼】の経営する会社はウマ娘のトレーニング指導AIを手掛けている。

 

アドバイザーとして、彼女からいろいろと助言をもらうこともあるのだろう。

 

「……なぁ」

 

息を呑み込んで語りかけたトレーナーの声が、わずかにかすれる。

 

「なんだ?」

「……あの時と、状況が似ていると思わないか?」

「……」

 

元同業からの質問に、受話器が奇妙な沈黙に落ちた。

 

サイレンススズカが圧倒的一番人気で臨んだ、シニア1年めの毎日王冠。

今なお伝説のGⅡとして語り継がれるあのレースにも、グラスワンダーにエルコンドルパサーという、海外出身の超一流ウマ娘が出走していた。

 

「……そうかもな。ただ、グラスワンダーとエルコンドルパサーはどちらもアメリカからの留学生というだけで、トレセン学園の生徒だったがな」

「まぁあの頃はまだ、外国のウマ娘が日本のレースに出走してくるなんてことはほとんどなかったからな……」

 

当時の日本レース界はフジキセキ、タヤスツヨシ、マーベラスサンデー、バブルガムフェロー……それにサイレンススズカといったウマ娘たちが登場し、新時代への扉を開こうとしていた時代だった。

 

旧を圧倒するスピードを持った彼女たちの登場が、劇的に日本のレースのレベルを引き上げたのだ。

 

あれからもう20年以上が経つ。

 

日本のウマ娘が海外GⅠを勝利することは珍しくなくなり、欧米でトップクラスのウマ娘がレベルアップした日本の大レースへ【挑戦】してくる。

 

そんな時代になった。

 

流れ行く歳月は自分たちの置かれている環境や年齢、人間関係も否応なく大きく変化させた。

 

「……単刀直入に言う。レイナの出走する毎日王冠、見に来てやることはできないか?」

 

熱の入ったトレーナーの誘いとは裏腹に、レイナの父の返事は冷めたものだった。

 

「無理だな。残念だが、その日は会議とクライアントとの打ち合わせが入っている」

「……。そうですか。娘さんが初めて重賞に出走なさるので、ぜひにと思ったのですが」

「すまんな。じゃあそろそろ切るぞ。娘のこと、よろしく頼む」

 

こちらの皮肉に動じることもなく、レイナの父はあっさりと電話を切った。

スマホを耳から離して画面を見ると、通話終了の文字が無機質に浮かび上がっている。

 

「……あれだけ頭が良くて、要領の良いあいつがなぁ……」

 

彼は持っていたスマホを机の上に投げ出すと、大きくため息をついた。

 

トレーナーから見ると【彼】の娘との向き合い方が、あまりにバランスを欠いているように思えてしかたない。

 

レイナがレースに打ち込むことには顔をしかめているくせに、現実はと言えば過保護すぎるぐらいに、娘の競技環境を整えてあげていたりする。

 

決して安くないコーチングフィーを支払って長年付き合いのある自分を娘の専属トレーナーに指名しているし、日本でも指折りの大病院をかかりつけ病院にしているのだってそうだ。

 

今日レイナを連れて行ったウマ娘外科総合医療センターのウマ娘外科は、自由診療、つまり全額自己負担の病院だ。

 

ウマ娘外科に関して世界最高峰と言われるあの病院で見てもらうこと自体、実は簡単なことではない。

 

予約だけでも数ヶ月待ちが当たり前。

重賞を勝っているようなウマ娘でも、然るべき人物と組織の紹介がなければ診療を断られることもザラにある。

 

なのにレイナは受付に診察券を提出しただけで、休診日の診察室に通されていた。

 

そんなことができるのも、きっとレイナの父が多大な寄付金を病院に納めているからなのだろう。

 

あと、トレセン学園に戻る際、レイナが『父親には内緒にしておいて』なんてことを真剣な顔で言ったことも、彼の心に引っかかっていた。

 

あの時は物わかりの良いような顔をして『分かった』とだけ返事したが、ひょっとしたらレイナは、診療内容や医療費の請求が父親(ほごしゃ)のもとに届いているという一般常識さえ知らないのではないか。

 

経営者を父に持つお嬢様らしい振る舞いだ、と言ってしまえばそうなのかもしれないが、そのこともどこか歪な父娘関係を感じさせる。

 

「まったく。ウマ娘も人間も、ホントめんどくさいもんだな……」

 

トレーナーはひとりごち、椅子に腰掛けた。

古いパイプ椅子だ。

一体いつからトレーナー室に置いてあるものなのか、尻を置くとギシリと音を立てて少しガタつく。

もともと申し訳程度しか効いていなかったであろうクッションの感触もほとんどなくなっていて、長時間座っていると腰が痛くなってくる。

 

アヤベが座ったら、それこそブチギレるかもしれない。

 

新しいものに変えたほうがきっと作業効率も上がるのだろうし、学園の総務課に申請すれば椅子くらいいつでも持ってきてくれるのだが、どうにも億劫でそんな気にもなれない。

 

今日は特にそうだ。

 

彼は座りの悪さを感じながらノートPCを開き、ガタガタ言う椅子の上でレース後の書類仕事に手を付け始めた。

 

*

 

「レイナ! 脚大丈夫なん!?」

 

左脚にテーピングしたまま寮の部屋の扉を開けると、シェリルはベッドから飛び降りて、上がり32秒ぐらいの脚で私の前まで駆けつけてくれた。

 

「うん。レース後すぐに違和感があったらちょっと焦ったけど、大したことなかったわ。お医者さんにもちゃんと見てもらったから、本当に大丈夫よ」

「よかった~! LANEしても既読もつかないし……。SNSじゃ大丈夫、みたいなこと言われてたけどやっぱ心配でさ」

 

シェリルはその豊満な胸に手を当てると、ふぅっ……と胸をなでおろした。

友だちのそんな姿を見ていると、少し胸の裏側がくすぐったくなる。

 

「脚のことはちょっとびっくりしたけど、オープン戦優勝おめでとう!」

「ありがとう」

 

ようやくいつもの明るい顔で祝福してくれたシェリルに、私も自然に口角が緩む。

 

「うんうん。あたしは今のレイナなら普通のオープン戦なら負けないと思っていたからね~」

 

シェリルはそう言って、得意げに首を何度か縦に振る。

彼女が私の勝利を予想してくれていたのは嬉しかったが……その言葉が、今日戦ったレースの厳しさを思い起こさせた。

 

「……シェリル。どうしてあの時、ウィッチオブターフさんのことを教えておいてくれなかったの?」

 

できる限り穏やかに聞こうと思っていたけれど、完全に取り繕うことは無理だった。

 

レース前、将棋を指していたときのことを思い出す。

シェリルはあの知略に長けた大先輩がまさに魔術師のごとくレースの流れを操作できることを、知っていたはずだ。

もしシェリルが一言、そのことを私に伝えておいてくれれば……。

 

また違った戦術を練ることもできただろうし、脚にあれだけの負担をかけることも、なかったかもしれない。

 

「なんでって……」

 

私の問いに、彼女は苦笑しながら首を傾げる。

 

「あん時も言ったじゃん。今のレイナならまぁ負けないっしょ、って。それに多分トレーナーからレース前、別になんも言われなかったんじゃない? それならあたしが余計なこと口出しすることもないかなって」

「……」

 

確かに、シェリルの言うとおりだ。

トレーナーがウィッチオブターフさんのレース術について言及しなかったということは、彼もそれが結果に大きな影響を与えるとは考えていなかったのだろう。

 

……これは責めるような口調で問い詰めてしまった私の方が、明らかに悪かった。

 

レース直後に脚部不安が出たせいで、動揺してしまっていて……。

 

それで少し友だちに甘えてしまったのだろう。

 

「ってかさ。わざわざそんなことあたしに言ってくるって、レイナもちょっと疲れてるんじゃね?」

 

そう言って彼女はウインクしてくれたが、冗談っぽい口調の端は少し尖っていて、その先端が私の心を軽く引っ掻いた。

 

鈍い痛みが、胸を走り抜ける。

 

「……ごめんなさい。そうかも、しれないわ」

「まぁレースのあとにあんなことがあったら、不安になるのもわかるけどさ」

 

ふぅ、と小さなため息をつきながらシェリルは備え付けの小型冷蔵庫の前に座り込んで扉を開けると、瓶詰めのニンジンジュースを2本取り出した。

 

それは寮内の自販機には売っていなくて、学園から少し歩いたところにあるスーパーでないと置いていないものだった。

 

「ほい。勝利の美酒替わりってことで」

 

シェリルは笑って、そのうちの一本を差し出してくれる。

 

「……ありがとう」

 

瓶を受け取る時、シェリルの指と私の指がわずかに触れ合う。

彼女の指の温かさと瓶の冷たさのコントラストが、小さなガラス片のように喉へ突き刺さった。

 

「優勝おめでとう、レイナ!」

 

シェリルが胸の高さぐらいに掲げた瓶に、私もコツンと瓶を重ね、それを口に含む。

 

よく冷えた程よい甘さの液体が、滑らかに喉の奥へと滑り込んでゆく。

 

友だちが私のために用意してくれていたジュースは、刺さっていた冷たい欠片を喉の奥へと押しやってくれたような気がした。

 

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