サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第二十二話

*

 

オープン戦をなんとか勝ち上がったことによって、私も重賞に挑戦する権利を得た。

 

トレーナーさんとの短い協議の結果、次走は……10月上旬に行われる毎日王冠に決まった。

 

毎日王冠。

 

私のお母さん――サイレンススズカ――が、伝説を残したレースの一つだ。

 

衝撃的な勝ち方をした金鯱賞。

エアグルーヴ、ステイゴールドという当時の最強クラスのウマ娘を退けた宝塚記念。

 

お母さんの名レースは数あれど、サイレンススズカが最高のパフォーマンスを見せたレースは? と聞かれると『なんといってもあの毎日王冠でしょ!』と答えるファンはいまだに多い。

 

単勝人気投票を約60%も集めた、圧倒的な支持率。

前半1000mを57.7というハイペースで逃げ、差しウマ娘並の末脚でまとめてしまったラストの3ハロン。

 

そしてなにより、エルコンドルパサー、グラスワンダーという当時まだ無敗だった怪物留学生二人を、子供扱いして完封した芸術的な逃げ脚。

 

あの毎日王冠はサイレンススズカというウマ娘を、単なる一流ウマ娘から歴史に残る中距離ランナーへと昇華させたレースになった。

 

私は伝説の毎日王冠の動画を子供の頃から……お母さんが亡くなったあとも、何度も、何度も見返している。

 

見る度にサイレンススズカというウマ娘の圧倒的な走りに、背筋が震えた。

同時に言葉にできない感動が胸を震わせて……動画を見たあとは必ず、走りに行きたくなったものだった。

 

そんな舞台に、私もいよいよ挑戦する。

 

……周りはきっと、私を母の幻影を重ねるだろう。

 

不安や緊張がないわけじゃない。

 

でもそれ以上に、母が見たいと願った先頭の景色に近づけていることへの胸の高鳴りのほうが大きかった。

 

*

 

放課後のトレーナー室。

 

ミーティングの時間より少し早く来た私は、トレーナーさんを待っている間、彼のノートPCで古いレース動画を視聴していた。

 

『伝統のGⅡ、毎日王冠。さぁ最後の直線に入った! 先頭はサイレンススズカ、それをグラスワンダーと12番が追いかける!』

 

まるでGⅠレースの最終盤を実況しているかのような、力のこもった実況がスピーカーを震わせる。

 

第四コーナーを曲がり切った直後。

グラスワンダーさんが、脚を使ってお母さんに詰め寄った。

 

グラスワンダーさんの仕掛けはかなり厳しく見えたけど、彼女がお母さんを負かそうと思えばあのタイミングで勝負に行くしかなかっただろう。

 

でもお母さんはそんな怪物二世渾身の仕掛けを、ものともしない。

 

少しずつ後続との差が開いてゆく。

 

残り200mを通過した。

 

ようやく外から抜け出したエルコンドルパサーさんも、まったくお母さんに追いつけない!

 

結局お母さんは2着のエルコンドルパサーさんに2と1/2バ身、さらに3着でゴールした7番の娘とは5バ身もの差をつけて悠々とゴール板を先頭で駆け抜けた。

 

そしてほとんど息を乱すこともなく、大歓声が上がっているスタンドに向かって笑顔で軽く手を振っている。

 

……この時のお母さんの走りは、本当にすごい。

 

何度見たって、胸が熱くなる。

 

「サイレンススズカの毎日王冠か」

「トレーナーさん」

 

いつの間にか来ていたトレーナーさんが、私の背後から声をかけてきた。

 

「懐かしいな。あのレースは本当に素晴らしかった」

「やっぱり、トレーナーさんもそう思う?」

 

自慢の母の走りをプロにそう言ってもらえると、私も少し鼻が高かった。

 

「あのね……」

「うん?」

 

心は言おうかどうか迷っていたけれど、言葉は自然に紡がれていた。

 

「私、お母さんが走ったレースの中で毎日王冠が一番好きなの」

 

少し頬に熱を感じながらはにかむ私に、トレーナーさんはそうか、と頷く。

 

「気持ちはわかる。あの時はスズカは確かに、見るものを圧倒する走りを見せてくれたからね」

「ええ。もちろんすごいパフォーマンスを発揮したっていうのもあるけれど、この時のお母さんってなんていうかな……。ただ速くて強いってだけじゃなくて、本当に楽しそうに走っているから。こんなふうに走れたらいいなって、いつも思うのよ」

「……この時のスズカのように、か。気持ちはわかるよ。ただ……」

 

何かを言いかけたトレーナーさんは一瞬視線を宙に彷徨わせ、言葉と一緒に空気を呑み込んだようだった。

 

「どうしたの?」

「いや、別に。なんにもないよ」

 

明らかに何かを誤魔化して苦笑している彼を見て『そう。何もないなら別にいいわ』と笑顔で返事できるほど、私は無邪気な少女ではなかった。

 

「なによ。そんな言い方されたんじゃ、余計に気になるじゃない」

「……気にするほどのことを言うつもりはなかったから、気にしなくていいよ」

 

曖昧な笑みを浮かべて、トレーナーさんは肩をすくめた。

 

それならどうして、ことさら隠し立てする必要があるのか。

トレーナーさんがそういう態度なら、私にも考えがある。

 

「ふ~ん……トレーナーさん、そんなこと言うのね。あ~……このことが気になって、今日のトレーニングは身が入らないかも」

「あのなぁ……」

 

私が冗談になってないことを冗談っぽく言うと、彼は困ったようにポリポリと頭を掻き、

 

「まぁ言いかけた俺も悪いか……」

 

と観念したかのように口を開いた。

 

「あと付けっぽく聞こえることは百も承知で言うんだけど、この時のサイレンススズカの走りを見て、俺は背筋が少し薄ら寒くなったのを覚えているんだよ」

「それは……プロのトレーナーさんから見ても、お母さんの走りにそれだけの凄みがあったってことじゃないの?」

 

私の疑問にトレーナーさんは慎重に言葉を選んでいるようで、一度視線を床に落とし、いつもよりゆっくりとした口調で続ける。

 

「うん。もちろんそういう感覚もあったんだとは思う。でもなんていうのかな……サイレンススズカは禁断の領域へ、たった一人で挑もうとしているんじゃないかって感じがしてね……」

 

それでも少しばかり、()の前で本音を吐露しすぎたと思ったのか、トレーナーさんはバツの悪い顔をして窓の方を見やった。

 

誰も見たことのない景色を追い求め、何人も寄せ付けずに先頭を走り続けたお母さん。

 

当時サイレンススズカというウマ娘は、すでに異次元に至る道へと、脚を踏み入れていたのだろうか。

 

「……ごめん。サイレンススズカのことになると、妙にセンチメンタルになってしまうみたいだな。特に俺達の世代はリアルタイムで彼女の走りを見ていたからね。いやはや、思い入れってのも怖いもんだ」

 

トレーナーさんはわざとらしく軽薄を装ってそういうと、部屋の端っこに置かれていたパイプ椅子を2つ持ってきてくれた。

 

「じゃあさっそく、ミーティングを始めようか。今日のトレーニングの予定だけど……」

 

トレーナーさんの話に耳を傾けながら、思う。

 

お母さんが見たいと願った先頭の景色を、自分の目で確かめてみたいと願って、私はトゥインクルレースの世界に飛び込んだ。

 

なのに、その景色の先がどのようなものなのか、私は考えたこともなかった。

 

先頭で走り抜けた、その後の景色。

 

もし私が毎日王冠で勝利することができたのなら。

その景色は、私の目の前に現れるのだろうか。

 

それとも、その先の……。

 

「レイナ。……レイナ? 聞いているか?」

「えっ。ええ、もちろん」

 

トレーナーさんの少し尖った声に愛想笑いを浮かべてそう答えたものの、本当は「今日は坂路を……」あたりから、まったく彼の話は耳に入ってきていなかった。

 

だから私は、

 

「でも念のため、もう一度今日のトレーニングメニューを聞かせてもらってもいいかしら?」

 

と堂々とうそぶいてみせる。

 

彼もなにか思うところがあったのか、呆れたように「分かったよ」と言って再度、練習内容を説明してくれた。

 

*

 

「おかえり~」

 

放課後のトレーニングを終えて寮の自室に戻ると、ベッドに寝そべっていたシェリルが薄手の長袖に短パンといういつもの格好で出迎えてくれた。

 

「ただいま」

 

スマホやリップが入ったミニバッグを机の上に置き、私もベッドの上に腰掛ける。

スマホは後でちゃんと充電しておかないと。

 

「今日はトレーニング、早く終わったのね」

「まぁね。あたしもレース近いからさ。そろそろ短時間・高密度の練習に切り替わってきてんだよね」

 

シェリルはスマホをポイッと投げ出すと、トランポリンのようにベッドのバネを活かして起き上がり、その長い脚であぐらを組む。

 

「そうなの」

 

私はそんなシェリルに探るような視線を上目遣いで送り、できるだけさりげなさを装って気になっていたことを聞いてみることにした。

 

「……ところでシェリル。あなたの次走って……」

「ん、あたしの次走? 一応、京都大賞典の予定だよ。いや~、実はさ。去年と同じようにぶっつけで天皇賞でも別にいっかなって思ってたんだけどね。でもメロスは一度叩いておいたほうがいいって言うし」

 

彼女は軽く答えてくれると、屈託なく笑った。

 

【メロス】はシェリルの使っているウマ娘のトレーニングサポートに特化したAIで、私の父の会社が開発したものだ。

 

……そのAIの名前を聞く度、私の心はなぜかわずかにささくれ立つ。

 

「それに京都のファンたちにも、一回ぐらいあたしの強い走りを見てもらわないとね」

「京都のファンたちに?」

 

毛羽立(けばだ)った気持ちを撫でつけてから語尾を上げて聞き返すと、シェリルはコクン、と頷く。

 

「そそ。ほら、あたし去年菊花賞出てないじゃん」

「……そうね」

 

あの時の空気感を思い出した私は、無意識につばを飲み込んでいた。

 

「そのせいか、今年の春天でパドックの舞台に立ったとたん『シェリルはん。ぶぶ漬けいかがどすか~?』とかファンから言われるし。いや~、あのヤジは参ったわ。来てすぐ帰れ、はさすがの京都人でもあんまり言わないと思うんだよね。どんだけあたし嫌われてるんだよって」

 

そう言う彼女の端正な顔が、今度は苦笑に満ちた。

 

菊花賞が行われる京都レース場は、三冠ウマ娘が誕生する聖地だ。

 

地元のファンたちからすれば、伝統の大レースと三冠という大記録を袖にして秋天へ向かったシェリルの行動が面白かったはずもない。

 

「今年のあたし、一応天皇賞の秋春連覇っていう大記録が懸かってたんだけどねぇ……」

「そうよね。すごい記録が掛かってるのに、記者たちがシェリルに取材してた記憶があまりないわ。私もちょっと不思議に思っていたのよ」

 

私が首を傾げると、シェリルは我が意を得たりとばかりに指鉄砲をこちらへ向けてきた。

 

「マジそれな~! 年をまたいだ天皇賞の秋春勝ちって、実はスーパークリークさんとテイエムオペラオーさんしかしてないんだよね。そんなレアな記録掛かってんのに、取材に来たの乙名史さんだけだったんよ。面と向かっては言われなかったけど、記者たちのほとんどが二冠ウマ娘のあたしが菊花賞回避したの、面白く思っていなかったんだろね」

 

シェリルは肩をすくめると、珍しく愚痴っぽい感じで話を続ける。

 

「しかも今年の春天勝ったのって、同期の菊花賞ウマ娘のリードエデルガルトさんだったわけじゃん? レース後にさ、これ聞えよがしに『やっぱり菊花賞を勝ったウマ娘が、その世代の最強ウマ娘なんやなぁ』とか言ってくるファンもいたし。正直京都にいい思い出ないんだよね~」

 

シェリルはあぐらを組んだまま、ころん、と天を仰ぐように転がった。

春天に負けて帰ってきた夜、ことさらシェリルが落ち込んで見えたのはデビュー以来始めて連敗(前走の大阪杯も負けていた)を喫したから、というだけはなかったらしい。

 

「じゃあ、なんでわざわざ京都に?」

 

私が聞くと、シェリルはうんしょ、と言ってあぐらのまま器用に起き上がった。

彼女の大きな瞳に、闘志のようなものが宿っている。

 

「だからこそ、かな。言われっぱなしってのも悔しいじゃん? 京都のファンたちにも強いあたしを見せつけて、世代最強が誰なのかを理解(わか)らせてあげないとね」

 

そう言って彼女は、強気に口角を持ち上げた。

 

「なるほど……。でも、なんだか意外な感じだわ」

「ん? なにが?」

「いや。シェリルって、人からの評価とかあまり気にしない方だと思ってたから」

 

菊花賞を回避して世間から色々言われていた時、シェリルは『あたし他人様になに言われても、平気なタイプだから』と言って笑っていた。

だからシェリルは世間の目や評判なんて、まったく気にしない娘だと私は今まで思い込んでいたのだ。

 

けれどシェリルの中の『そういう自分でありたい』という気持ちが、彼女にそう言わせただけだったのかもしれない。

 

私の勝手な印象を聞いてどう感じたのか、シェリルは困惑したように目を伏せる。

 

「ん~。少し前までのあたしはそうだったんだけど……」

「えっ?」

「うんにゃ、なんもない!」

 

シェリルはそう言い切って、首を大きく横に振った。

 

「それよかさ、とりあえず晩メシいかね? お腹すいたわ~」

 

二パッと笑ってスマホを手に取ると、シェリルは軽くジャンプしてベッドから立ち上がった。

 

ただそれだけの動きに、私は思わず目を見張る。

 

トモから生み出されるバネが、平凡なウマ娘のものじゃない。

 

……最近シェリルの何気ない動作に、彼女のウマ娘としての凄みを感じることが増えていた。

 

「どしたん? あたしのことじ~っと見て? さてはあたしの抜群なスタイルに見とれてるな~?」

「あ、いや……」

 

冗談めかしてウインクするシェリルに、私は少しうろたえてしまう。

 

「あたしプロポーションに自信あるほうだけど、レイナもスレンダーでスタイルいいよ! ほら、昔の偉い人も『おっぺえだけが色気を決めてるわけじゃない!』って力説してたじゃん?」

「いや、シランケド。それ、偉い人じゃなくてエロい人じゃないの……?」

「偉い人もエロいから、どっちでもいいんじゃね?」

 

そんないい加減なことを言いながら、シェリルはジト目で睨む私の背中をぽんと叩いた。

 

「ところで晩メシ、寮食とカフェテリアどっち行く? あたし的にはカフェテリアでパスタ食べたい気分なんだけど」

 

寮食は寮の食堂のことで、夜の8時までなら調理室にいる調理師さんがメニューの中から好きなものを作ってくれる。

 

「う~ん。お昼焼きそばだったから、できれば昼と夜の麺連投は避けたいわね」

「そっか。じゃあ寮食で定食でも食べる?」

「そうねぇ……じゃあ私はなにか、煮魚定食でもお願いしようかしら」

「あ~、しばらく肉ばっかで魚食べてないなぁ。あたしもそれにしようかな」

 

生き物の根幹である性と食の話をしているうちに、私がさっき感じたシェリルへの恐怖にも似た畏怖の感情は、二人の緩い空気感の中に溶け消えてゆく。

 

……でもシェリルの口から毎日王冠の話題が出なかったことへの、奥歯になにか詰まったかのような違和感だけは、なかなか消えてくれなかった。

 

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