サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第二十三話

*

 

9月も半ばを過ぎ、ようやく放課後のトレーニングコースでも少し秋らしさを感じられるようになった。

でもそれもトレーニングを開始するまでのことで、走り始めると汗みずくになるのは真夏とあまり変わらない。

 

額から流れ落ちる汗を感じながら、私は坂路を駆け上がる。

残り100mを示すハロン棒が見えた。

 

「……はっ!」

 

それを通過する直前、私はわずかに体を沈み込ませた。

大腿四頭筋に込めた力が脚先の蹄鉄にまで伝わり、思い切りウッドチップを蹴り込む。

 

顔に当たる風が一段と強くなり、流れる景色が速くなる。

 

ゴール前に、たくさんの望遠カメラとスマホを構えている人たちが並んでいるのが見えた。

 

私がゴールを駆け抜けるのと同時に、カシャカシャカシャカシャ! という機械的な音が耳を打つ。

カメラマンたちが私を高速連写している音だ。

 

注目されることってなかなか慣れないものね……と思いながら、私は脚を痛めないよう、ゆっくりとギャロップからキャンターに速度を落として立ち止まった。

 

「お疲れ、レイナ」

 

たくさんの記者たちに囲まれながらゴールの近くで待機していたトレーナーさんが、ねぎらいの言葉とともにスポーツドリンクを差し出してくれる。

 

オープン競走のフォーマルハウトステークスを勝ってから、このような光景が日常になりつつあった。

 

「ありがとう。タイムはどう?」

「すごいよ。重賞初挑戦に向けて、もうなにも言うことはないね」

 

熱のこもったため息をつきながら、トレーナーさんは手にしていたスマホを私に向ける。

 

……そこには、64.2という、ちょっと信じがたい数字が表示されていた。

 

私と同じように、現役トップクラスのタイムを確認したカメラマンや記者たちからもどよめきが起こる。

 

「……ねぇトレーナーさん。これ、測り間違えてない? このタイム出したことあるの、現役だと今年安田記念を連覇したあのリナアラビアンさんだけよね……?」

「そうだね。でも君の耳に付いているセンサーが壊れてない限り、これは間違いなく君の出したタイムだよ」

 

私の間抜けな質問に、トレーナーさんは真剣な表情で頷いた。

 

最近かなり走力がついてきているな、という感覚は自分でもあった。

それも、過去に経験したことのないレベルで。

 

にしても、この自己ベストはさすがにデキすぎ……。

 

「す、す、素晴らしいですっ!!」

 

私が自分のタイムに少し困惑していると、女性の甲高い声があたりに響き渡った。

 

両手を握りしめ、恍惚の表情で天を仰いでいたのはやっぱりあの乙名史記者だった。

整った顔を上気させながら、スマホ片手に私の方へ近づいてくる。

 

「現役でその時計を叩き出したのはマイルGⅠを7勝しているリナアラビアンさんだけで……歴史あるトレセン学園の坂路コースでもタイキシャトルさんカルストンライトオさんサクラバクシンオーさんグランアレグリアさんしか記録したことのない好時計ですよね!?」

 

乙名史さんは相変わらず句読点のないような恐ろしい早口で、一方的にまくし立てる。

 

「あ、そうなんですね……」

 

名物記者の勢いに、私は一歩後ずさりしながら苦笑するしかなかった。

 

どうやら、リナアラビアンさんに関する私の記憶はあっていたらしい。

ウマ娘に関する知識は最新AIと同等、と言われている乙名史さんが言うんだから間違いないだろう。

そう考えると、この人の知識量は常軌を逸していると思う。

 

「ええ、ええ! あなたのお母様であらせられるサイレンススズカの全盛期でも、坂路での自己ベストは64.3でしたので! お母様超えの自己ベスト更新……本当に素晴らしいと思います!」

 

へぇ、お母さんの坂路自己ベストって64.3だったんだ。

などと感心したけど、次の瞬間、背筋がブルっと震え上がった。

 

……ちょっと待って。

なんでこの人、娘の私も知らなかったお母さんの自己ベストがすぐに出てくるの?

 

まさかこの人、過去トレセン学園に在籍したウマ娘の自己ベストを全部覚えているのかしら……。

 

いや、単にお母さんのデータを取材前に調べてきただけだろう……と、思い込んで私は目の前にいる女性の恐怖から目をそらすことにする。

 

「乙名史記者のおっしゃるとおりです! ところで今のタイムについて、ご自身はどうお感じになられましたか!?」

「夏からプレオープン、オープン戦と連勝していらっしゃいますが、好調の秘訣は!?」

「サイレンスレイナさん! お母様のサイレンススズカさんも勝利なされた毎日王冠に挑戦するにあたって、なにか一言お願いします!」

 

地面に視線を落としていた私に、記者さんたちから次々と質問が飛んできた。

津波のように押し寄せる大人たちからの大きな声に、私は思わずたじろいでしまう。

 

「えっ、え~と……」

 

ど、どの人の質問から答えればいいのかしら……?

 

「はい、ストップ!」

 

私がまごついているとトレーナーさんの野太い声が飛んできて、一瞬で記者さんたちを沈黙させた。

 

「レイナへの質問は一社一つまででお願いします。あと、俺がライン超えているなと感じた質問を飛ばした記者は問答無用でここから退場してもらいますので。じゃあ右の人からどうぞ」

「あっ、はい……それでは改めてまして……。今サイレンスレイナさんが記録されたタイムですが、ご本人はどのように感じていらっしゃるのか……」

 

そんな感じで、取材は進んでゆく。

トレーナーさんが睨みを効かせていたおかげもあるのか、それほど非常識な質問をぶつけられることはなかった。

 

けどやっぱり、何人かの記者さんから毎日王冠を走っていた時のお母さんと比較するようなことを聞かれた時には、少ししっぽの付け根がこわばった。

そのつど私は意識して軽い笑みを浮かべ、「母の領域に達しているとは、自分では思っていないので……」とお茶を濁す。

 

取材が終わる頃には、トレーナーさんが手渡してくれたスポーツドリンクはもうすっかりぬるくなってしまっていた。

 

*

 

ようやく全部の取材が終わったのは、陽もそろそろ落ちようかという時間になっていた。

 

「お疲れ様。大変だったね」

「そうね。でも注目してもらえるっていうのは、ありがたいことだから」

 

微苦笑して私が答えると、トレーナーさんは少しばかり目を見開いた。

 

「どうしたの?」

「あ~、いや。その。……スズカは取材が苦手だったって記憶があったからね。ちょっと意外に思っただけだよ」

 

彼が少し言い淀んだのは、お母さんと比較するような言い方をためらったからだろう。

 

「別に取材されるのが得意、ってわけじゃないわ。でも私を応援してくれる人がいて……私のことを伝えようとしてくれる記者さん達がいる。そういう人たちに少しでも私の言葉が届けばいいなって思うし、それを見聞きした人たちが少しでもなにか感じてくれたら良いな、って最近思うのよ」

 

私のちょっと気恥ずかしい本音に、トレーナーさんは感じ入ったように耳を傾けてくれている。

 

ようやくここまで来たけれど、プレオープン時代の私はずっと一番人気を裏切ってきた。

もちろん厳しいことを言ってくるファンや記者たちもいた。

だけど大多数の人は『あまり気落ちしないで!』『次頑張ればいいよ!』と、激励の言葉をかけ続けてくれていた。

 

むしろそれを、プレッシャーに感じていた時期もある。

けど周りの人たちの温かい励ましがなければ、きっと私は非難の声と勝てない現実に、押しつぶされていた。

 

「なるほどな……。そう考えることができるのなら、レイナはもう一人前のウマ娘だね」

 

トレーナーさんはそう言って、まるで私を包み込むような微笑を浮かべた。

 

「!」

 

彼の笑みを見て、思わず息を飲み込む。

その笑みが、海馬の古い記憶を掘り起こす。

 

(そうか。レイナは走ることが大好きなんだね)

(うん。走るのって、すごく楽しいの! どんな遊びより一番好き!)

(お母さんもそうだったよ。レイナは見た目だけじゃなくて、性格もお母さんに似たんだな。レイナはきっと……)

 

幼少の頃。

父はそう言って、今のトレーナーさんとよく似た微笑を……。

 

なぜだか、一瞬、頬が熱くなる。

 

「レイナ、どうした?」

 

いきなり黙り込んだ私を変に思ったのか、彼は首を傾げながら瞳を覗き込む。

 

「……ううん、なんでもないわ。いきなり褒められたから、ちょっとびっくりしただけ」

「そうか。でもそうやって周囲のことを考えられるようになったのは、君が人として成長している証だ。ウマ娘のトレーナーとしてはこんなこと言うべきではないのかもしれないけど……それは速く走れるようになることより、よっぽど大事なことなんだよ」

 

しみじみと静かに語るトレーナーさんに控えめに頷くと、私は母譲りの栗色の髪をかきあげ、わずかに秋を感じる風の中に踊らせた。

 

*

 

毎日王冠の、一週間前。

 

「やっぱり、出てくるのね」

 

伝統のGⅡに本登録したウマ娘たちの出走表をトレーナーさんのノートPCで確認していた私は、ぐっと右手を握りしめた。

 

「そうだね。ジャパンカップやマイルチャンピオンシップに挑戦する外国のウマ娘たちにとっても、ここはちょうどいい前哨戦になるだろうから」

 

トレーナー室にある小さなポットで紅茶を淹れてくれていたトレーナーさんが、カップを2つ持ってこちらへやってくる。

 

湯気の立つ白いカップを私の前に置いてくれると、彼もパイプ椅子を引いて正面に腰掛けた。

 

「確か……シュノンソーさんがフランスからやって来るモンジューさんの娘で、シャトルジェシカさんがアメリカで走ってるタイキシャトルさんの娘さん、だったわよね?」

「そうそう。彼女たちは名ウマ娘の娘というだけじゃなく、戦歴も超一流だ。シュノンソーは去年の英愛ダービーと凱旋門賞を勝っていて、今年も前半期のGⅠを3勝している欧州のトップウマ娘。シャトルジェシカもBCマイルを始め、マイルGⅠを4勝している、母の名に恥じない名マイラーだよ」

「改めて聞くと、すごいウマ娘たちよね……」

 

私は紅茶の熱を冷ますふりをして、ふぅ、とカップにゆるく息を吹きかける。

 

「そのキャリアを聞いているとシャトルジェシカさんはともかく、シュノンソーさんにとって東京の1800はちょっと短いように感じるんだけど」

 

少しばかり瞳の輝度を上げて聞く私に、彼は微苦笑して首を横に振った。

 

「今年勝ったGⅠの中には1850mのイスパーン賞も含まれているから、距離適性は問題ないって陣営も判断したんだろうね」

「そう……」

 

小さくつぶやいてから赤みがかった液体をじっと見つめ、そのまま手にしていたカップをテーブルに置き直す。

 

「でもどうしてそんなトップクラスのウマ娘たちが、わざわざ日本へやってくるのかしら?」

「理由は色々ある。自分の実力が他の国でも通用するのか確かめてみたいってウマ娘もいるし、見識や経験を深めるために外国へ積極的に遠征しているウマ娘もいる。今回出走する二人も、明確な目的を持っているみたいだ」

 

トレーナーさんは紅茶を飲もうとしたけれど、まだ好みの温度ではなかったのか、カップに口づけた瞬間に眉間にシワを寄せた。

 

「あっつ……俺、猫舌なんだよな……。それはともかく、シャトルジェシカは『ママが勝ったマイルチャンピオンシップというレースに自分も出てみたい』、シュノンソーは『欧州だけでなく、私は世界の強豪たちと戦いたいと思っている。特に母も走った日本のレースには大きな関心を持っている』って、レース系webのインタビューで答えていたね」

「なるほど……やっぱり遠い外国にまで遠征してくるような娘は、大きな目標を持ってレースに臨んでくるものなのね」

 

二人とも、偉大な母親の蹄跡に自分の競走人生を重ねている。

その事実に、少し胸が締め付けられた。

 

「そうだね。それにしても自分の担当がモンジューの娘や、タイキシャトルの娘と戦うことになるなんてなぁ……。やっぱり感慨深いものがあるよ」

 

彼は窓の方へ視線をやると、過去を懐かしむかのように目を細めた。

 

「モンジューさんにタイキシャトルさんといえば、時代を代表する名ウマ娘だったものね。そんなウマ娘たちの娘、それも世界トップレベルのウマ娘相手に、重賞初挑戦の私がどこまでやれるのかしら……」

 

血統では絶対に負けていないと思うけど、実績的に私は明らかに彼女より格下だ。

か細い声でつぶやいた私に、トレーナーさんの視線がこちらへ戻ってくる。

 

「あまりプレッシャーになるようなことはいいたくないんだけど……」

「ええ」

「正直、今の君ならあの二人を相手にしても、決して引けを取らないレースができると思う」

 

そう言うトレーナーさんの目は、どこまでも本気だった。

彼のあまりの高評価に、私はとっさに言葉を返せない。

 

「……さすがに、買いかぶりすぎよ」

「そうかな。少なくとも俺は、君の勝利を信じているよ」

 

彼は手にしたままだったカップを、今度は慎重にゆっくりと口に近づける。

彼に倣ったわけでもないが、私もそろそろ冷めつつあった紅茶で喉を潤そうとした。

 

なのに強い砂糖の甘みが、口の中にベッタリと張り付く。

 

紅茶はストレートのほうが好きなんだけどな……と思いつつ、私は黙って彼の淹れてくれた紅茶を全部飲み干した。

 

*

 

初重賞挑戦に向けてのトレーニングは、自分でも少し怖くなるぐらい順調に進んだ。

 

坂路での平均時計は64.4を記録し、時にその日の一番時計を記録する日もあった。

 

本番が近づくに連れ、私を取材するメディアの数もどんどんと増えてゆき、その騒ぎはまるでGⅠレースの直前のようだった。

 

【サイレンススズカの娘、ついに本格化!】

【素質はあの母親以上!? 初重賞制覇に期待高まる!】

 

過剰とも思える期待の文言が、レース関係のウェブ上や紙面に溢れかえっていた。

 

でも私がそういう熱狂的な状況に舞い上がっていたり、萎縮していたりしたかと言えばそんなこともなかった。

 

トレーニングに……走ることに夢中になっていて、周囲の声なんてまったく気にならなかった。

 

坂路を一本駆け上がる度に。

ダートコースを駆け巡る度に。

 

私は自分が確実に速く、強くなっていくのを実感していた。

 

ああ。

 

走ることってなんて楽しいんだろう!

コースを疾走していると、心と体がどんどん軽くなってゆく。

このままどこまでも、走っていけそうだ。

 

いつまでも、この時間が続くといい!

 

トレーニング後、トレーナーさんが用意してくれたスポーツドリンクを飲んでいる時に。

シェリルと少しおしゃべりして、ベッドに潜った直後に。

 

最近、そう思うことが増えた。

 

なのに。

私が走れるレースは、あと2戦しかない。

 

そのことを思うと、少し胸が痛んだ。

 

*

 

レース直前の最終追い切りは、木曜日に行われることが多い。

その大切な追い切りを今日の一番時計で済ませた私は、気分良くシャワーを浴びて寮に戻ろうとしていた。

 

「サイレンスレイナさん」

 

ようやく涼しくなってきた秋風に吹かれ、上機嫌な私にロッカールームの入口で声をかけてきたのは理事長秘書の駿川たづなさんだった。

 

「! どうなさいました、たづなさん」

 

偉い人のいきなりの登場に、一瞬息が止まる。

 

びっくりしたことをさとられないよう、できるだけ柔和に微笑んで声を抑えたつもりだったけど、どれだけ成功したかは分からない。

 

「トレーニング終了直後に申し訳ありません。少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」

 

たづなさんは、いつもの屈託のない笑顔を浮かべている。

 

「え、あ。はい、大丈夫です……」

 

なんだろう。

私はひょっとして学園長に呼び出されるような、とんでもないことを知らないうちにしでかしてしまっていたのだろうか。

 

心当たりはまったくないのだけど……。

 

なぜか背中に、冷たい嫌な汗が流れる。

 

私はわけがわからないまま、彼女のあとをついてくついてくするしかなかった。

 

*

 

呼び出しがあった翌日の夕方。

私とトレーナーさんは、記者会見の行われる大会議室の隣りにある控室にいた。

 

……マスコミからの取材はもう慣れたものだけど、記者会見なんてものは今まで一度も経験がない。

 

その初めての記者会見が、海外からの来賓と同席だなんて。

緊張のせいか、胃が地味にキリキリと痛む。

 

「確かに記者会見って緊張するよなぁ。なんかその字面を見ただけで、神経質になる」

 

気を使ってくれているのか、トレーナーさんは気楽な感じでそう言って苦笑を浮かべる。

私たち二人は時間になるまで、ここで待機するようにたづなさんから言われていた。

 

「ま、これでも飲んで落ち着いて」

 

制服の上から胃をさすっていた私を見たトレーナーさんは、バッグから水筒を取り出すと液体をトクトクとコップに注ぎ、それを差し出してくれた。

 

「これは?」

「熱いほうじ茶だよ。気持ちを落ち着けたい時はこれが一番だ」

「そうなの。……ありがとう」

 

私はお腹に手を当てたまま、小さく首を傾げてそれを受け取る。

そう言えばほうじ茶ってあまり飲んだことがない。

 

コップを口元に近づけると、初めて嗅ぐ香りなのになぜか懐かしい感じがした。

香りが鼻腔を通り抜けた瞬間に、少しばかり心の張りが和らぐ。

 

「あっ、おいしい。緑茶より飲みやすいかも」

「それはよかった。ゆっくり慌てずに飲んでくれ」

 

私はトレーナーさんの言う通り、熱いほうじ茶をじっくりと味わうように少しずつ何度かに分けて口へ運ぶ。

 

「ふぅ……なんだか少し、気持ちが楽になった気がするわ」

「それはなにより。温かいものって、精神をなだめてくれる効果があるからね」

「助かったわ。昨日理事長とたづなさんのお話を聞いてから、さすがにメンタルに来てたから……」

 

顔をしかめながらお茶を飲む私に、彼は腕を組んで悩ましげに頷く。

 

「今日の記者会見のことと、毎日王冠の事前人気のことだね。……まぁ世界トップレベルのウマ娘が出走してくるのに本命に推されてしまったんじゃ、そうなってしまう気持ちもわかるよ。本当のこと言うと、俺も少し意外だった」

「秋川理事長に『一番人気の日本の代表として、ぜひ記者会見に臨んでほしい!』なんて言われたわ。世界の強豪を差し置いて一番人気になったことは確かにプレッシャーだけど、でもそれだけで記者会見なんて……」

 

はぁ……と湿気を含んだため息をつきながら、私はもう空になってしまった水筒の小さなコップを机に置く。

 

「初めて挑む重賞で超一流のウマ娘を差し置いて一番人気に推されるってことは、君にとってすごい重圧になっていると思う。本音を言うと、トレーナーとしてはあくまでレイナには挑戦者という形で伝統のGⅡに出走させたかった」

 

彼は少し目を伏せながら、会話と独り言の中間のような声色でそう言った。

顔を上げたトレーナーさんと、視線が合う。

 

「でもきっとみんな、サイレンススズカの娘である君があの毎日王冠で逃げ切って勝利することを、期待してしまうんだろうね」

「……そういうものなのね」

 

小さくうなずきながら、なんとか作り笑いをすることができたけど……。

こういう状況になって私は生まれて初めて、あのサイレンススズカの娘であることにうんざりした気持ちを抱いたように思う。

 

しばらくの間、二人の間に沈黙が落ちる。

窓から差し込む西日が、目に染みた。

 

「あ、そうだ」

 

不自然な無言と、お母さんの名前を出してしまったことを気まずく思っていたのだろうか。

トレーナーさんはわざとらしいぐらい明るい声で静寂を破ると、ポケットから何やらイヤホンのようなものを取り出した。

 

「あとこれ。会見が始まる前に耳につけておいて」

「これは?」

 

手に取って見てみるとそれは普段使っているイヤホンより少し大きくて、重厚な造りをしているように見えた。

 

「翻訳機だよ。設定した言語以外を拾った瞬間、通訳して耳に流してくれる優れモノだ。今日同席する二人も付けているはずだよ」

「へぇ、こんなものがあるのね。でもシュノンソーさんはフランス人で、シャトルジェシカさんはアメリカの人でしょう。フランス語と英語を同時通訳してくれるの?」

「みたいだね。この翻訳機を開発した会社のホームページでは【200の言語が翻訳可能!】って謳っているから、それぐらいは大丈夫なんだと思うよ」

「ふぅん……便利なものねぇ」

 

世界の国がおよそ200カ国だから、まぁ世界中どこの国の言葉もだいたい翻訳できるってことかしら。

 

それにしても、はるか昔にせっかく神様が人同士の言葉が分からないようにしたのに、こんな物を開発して神様の逆鱗に触れたりしないかちょっと心配になる。

これからこの翻訳機のお世話になる私としては、神様が怒ったせいで会見中に壊れたりしないよう祈るばかりだ。

 

……こんなことを考えてしまうのは、少しでも緊張を和らげたかったから。

少し震える指を不器用に動かして、どうか神罰が下りませんように、と祈りながら翻訳機を右耳に取り付ける。

 

それにしても、まだ会見の準備はできてないのかしら……と、壁にかけてある時計に視線をやったところでコンコンと控室の扉が鳴った。

 

「はい、どうぞ」

「失礼しますね」

 

トレーナーさんの返事を待って入室してきたのは、いつもの緑のスーツに身を包んだ駿川たづなさんだった。

 

「サイレンスレイナさん、トレーナーさん。おまたせしました。準備が整いましたので、隣の大会議室へお越し下さいますか?」

「わかりました。じゃあレイナ、行こうか」

 

促すトレーナーさんに私は小さく首を縦に振り、ゆっくりと椅子から席を立つ。

 

トレーナーさんのほうじ茶のおかげなのか、ユーモラスな拡散思考のおかげなのか。

さっきまで感じていた胃痛が、いつの間にかちょっとだけマシになっていた。

 

*

 

トレーナーさんとともに大会議室に脚を踏み入れると、カシャカシャカシャカシャという最近聞き慣れたカメラの連写音が私たちを歓迎してくれた。

 

さり気なく記者席を見渡すと、空いている椅子がほとんど見当たらない。

普段見かけない人たちもいるところを見ると、今日の記者会見には一般メディアの記者たちもたくさん取材に訪れているようだった。

 

シュノンソーさんとシャトルジェシカさんはまだ来ていないようで、私は席を囲い込んでいる大人たちを見渡しながら事前に指定されていた登壇席へ腰掛ける。

 

こういった場でのウマ娘への取材では、トレーナーは少し離れた場所から担当を見守るのが通例で、登壇席に同席しない。

 

初めての記者会見ということもあり、そのことも少し不安だった。

自分の心臓の音が、鼓膜にドクドクと早鐘のように響き渡っている。

 

ああもう、早く始まってくれないかしら……。

 

手のひらにかいていた汗を制服のスカートでこっそり拭いていると、大会議室の扉が開いた。

 

一斉にカメラがそちらへ向き、心なしか私の時よりカメラの大きな連写音が沸き起こる。

 

颯爽とした脚取りで入室してきたのは、二人のウマ娘だった。

一人は私より淡い栗色の髪をしていて、西部劇に出てくる保安官の衣装をモチーフにしたであろう、露出度の高い服に身を包んだシャトルジェシカさん。

 

ウマ娘らしいきれいな鹿毛を肩口で切りそろえ、かっちりとした軍服調の衣服を完璧に着こなしているのはシュノンソーさんだ。

 

GⅠで着用する勝負服姿で現れた彼女たちは、制服姿の私を挟むように右側にシャトルジェシカさんが、左側にシュノンソーさんが席に腰掛ける。

 

……今回のGⅡ・毎日王冠が重賞初挑戦になる私が、自前の勝負服なんて持っているわけがない。

 

勝負服と制服の違いが、まるで彼女たちとの格の違いを表しているようだった。

 

私は熱を帯びてきた頬を周りの人達から隠すようにほんの少しだけうつむき、震え始めたひざを押さえつけるようにギュッと掴む。

 

二人が静かに着席すると、乙名史さんが登壇席の前へやってきた。

マスコミの代表として、どうやら彼女がこの場を取り仕切るらしい。

 

「シャトルジェシカさん、シュノンソーさん、サイレンスレイナさん。本日は私たちレース記者クラブ及び、各社の記者会見要請にお応えいただき、まことにありがとうございます」

 

会見は彼女が朗らかな声で私たち3人に礼を述べるところから始まった。

乙名史さんの謝辞に、私たちは軽く会釈する。

 

「それではさっそく、お三方に伝統のGⅡ・毎日王冠へ挑まれる意気込みを聞いてまいりましょう! まずはお母様のタイキシャトルさんが日本でGⅠを何勝もしていらっしゃることで知られる、シャトルジェシカさんから……日本の印象とレースへ向けた抱負をお聞かせ願えますか?」

 

シャトルジェシカさんも耳につけている翻訳機は正常に作動しているようで、彼女は笑顔で相槌を打ちながら明るい声で話し始めた。

 

「ニッポンのことはMomから何回も聞いていましたが、実際に来てみて想像以上に素晴らしい国でびっくりしています! 人は本当に親切ですし、それになにより食べ物がおいしいです! 昨日食べたおスシは本当においしかった。ただ高級食材だと聞いていたウニは、もうノーセンキューですね。見慣れないビジュアルをしていたので勇気を出して口に入れたのですが……ウニを食べる勝負根性は、明日のレースに取っておくべきデシタネ!」

 

私の耳に流れ込んでくるのは、まるで映画の吹き替えで聞くような陽気なニホン語だ。

 

それは集まったマスコミたちも同じなのだろう。

 

大げさに肩をすくめてペロっと小さな舌を出すシャトルジェシカさんに、記者たちからドッと笑い声が上がる。

場を沸かせることをサラッと言えるあたり、彼女は記者会見にも慣れているようだった。

 

「毎日王冠に挑戦する! と表明した時、ワタシの国でも『ジェシカに1800mは長すぎるんじゃないか』と何度も言われました。ですが、Momは近い距離のユニコーンステークスを勝っていますし、ワタシ自身、距離に不安はないと信じています。明後日のレースでは、重賞にふさわしい走りをお見せすることを約束します!」

 

彼女の力強い宣言に、記者たちからは大きな拍手が湧く。

 

「シャトルジェシカさん、素晴らしい意気込みをお聞かせいただき、ありがとうございました! では続きましてシュノンソーさんにお話をお伺いしたいと思います」

 

名指しされたシュノンソーさんは、一度大きく頷くと真紅の口紅をひいた唇をゆっくりと開き始めた。

 

「私も母から、日本のことは何度か聞かされてきました。日本のレース場は素晴らしい、特にファンの熱気は世界一だと良く話してくれたものです」

 

そう言うと彼女は、なぜか少し皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「私は母国のフランスというものに、並々ならぬ誇りと愛国心を抱いています。しかし、日本のレースファンはそんな私より、愛国心がよほど強いようだ。凱旋門賞を勝った私やBCを勝っているシャトルジェシカより、まだ一度も重賞を走ったこともない自分の国のウマ娘を一番人気に推しているのですから」

「……!」

 

シュノンソーさんの言葉が、私の胸に重くのしかかった。

額から、背中から吹き出る嫌な汗が、止まらない。

 

「もっとも、彼女のお母様はこのレースを一番人気で勝っているそうですね。ならその娘にも一番人気で勝ってほしい、と願うファンの気持ちも理解しないこともない。レースファンというものは、ウマ娘の血統に夢を見るものですから」

 

彼女の一言一言が、私の胃を鷲掴みにしてギリギリと力一杯締めつけてくる。

 

胃が、胃が……潰れそうなほどに痛い!

 

襲いかかってくる吐き気と激痛に思わず手を腹に当てそうになったが、私は太ももにきつく爪を立て、なんとかそれを必死にこらえた。

 

彼女はそんな私の方を一顧だにすることなく、話を続ける。

 

「レースについてですが……日本のマスコミたちは『距離が短いのではないか?』『欧州のウマ娘に、日本の軽い芝質は合わないのではないか?』といろいろ推測してくれているようですね。ですが、どちらも大した問題ではない。本当に強いウマ娘はどのレース場で走っても結果を残せるものですから。それに私にとって毎日王冠はあくまでスクリーニングであり、前哨戦です」

 

落ち着いた声でそういう彼女に、一切の気負いは感じられない。

爪を立てたせいで赤くなった太ももが、伏せていた目に映る。

 

「私はこの日本に、ジャパンカップという母の忘れ物を取りに来たのです。もちろん今度の日曜日のレースも前哨戦とは言え、手を抜くつもりは一切ありませんけどね。このグレードⅡのレースで私の適性と実力を証明し、欧州を代表するウマ娘として一番人気でジャパンカップに臨むつもりです」

 

言いたいことを全部言い終えたのか、シュノンソーさんは髪をかきあげ、椅子の位置を少し下げて座り直す。

 

彼女の迫力に押されたのか、記者たちは誰も言葉を発しない。

 

「ち、力強い所信表明をありがとうございました。引き続きまして、今回一番人気に推されているサイレンスレイナさんの……」

 

珍しく引きつった笑いを浮かべていた乙名史さんが、その沈黙を破った。

 

それからも乙名史さんや他の記者たちからの質疑応答は続いたが、頭が真っ白になっていた私は

 

「初めての重賞挑戦ということで緊張しています」

「ベストを尽くせるよう、精一杯頑張ります」

 

のような、ありきたりな返事しかできなかった。

 

そんな調子で記者会見は進み、一番端にいた記者に質問の順番が回る。

 

「え~、デイリーモーニングの者です。さっそくですがサイレンスレイナさん。あなたのお母様は現役時代この毎日王冠で一番人気を背負い、素晴らしい走りを披露して勝利されているわけですが、それを意識することは?」

 

彼の質問に、お腹の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 

「……よくわかりません」

 

私はつばを飲み込んで熱い塊を押さえつけ、そう答えるのが精一杯だった。

 

質問してきた記者が、怪訝な表情を浮かべている。

 

でも今の私には、それを取り繕う余裕なんてとてもなかった。

 

「サイレンスレイナさん、ご回答ありがとうございました。デイリーモーニングさんの質疑を持ちまして、本日の記者会見は終了となります。御三方、本日はまことにありがとうございました。まずご来賓のご両人が退出されます。皆様、盛大な拍手をお願いいたします!」

 

……もともとそういう予定だったのか、私の変調に気づいて乙名史さんが気を利かせてくれたのか。

 

乙名史さんの声を受けて起こった拍手に包まれながら、海外からやってきた二人のGⅠウマ娘が大会議室をあとにする。

 

勝負服姿の彼女たちの背中が、ひどく大きく見える。

 

遠ざかっていく二人の後ろ姿を、私はただ呆然と見送った。

 

*

 

乙名史さんが心配そうにこちらを見ていたけれど、スーツ姿の男性に声をかけられ、彼女も会議室から早足で退室していった。

 

乙名史さんだけじゃない。

部屋にいる記者たちはみんな、誰かに電話していたり、スマホをチェックしていたりして忙しく動き回っている。

 

「……レイナ。大丈夫か?」

 

どうしても動く気になれず、仕事をしている大人をボーッと眺めている私にトレーナーさんが声をかけてきた。

 

「ええ、大丈夫……」

 

出した声のか細さに自分でも驚いたぐらいだから、彼にはとても大丈夫に思えなかっただろう。

 

「シュノンソーの厳しい言葉に驚かされたかもしれないけど、彼女はデビュー当初から世界のトップレベルで戦っているウマ娘だからね。当然彼女にはその自負と矜持がある。だからあんな強い言い方になったんだろう。あまり気にすることはないよ」

「そうね……」

 

浅くため息をつきながら、私はトレーナーさんのフォローに小さく頷く。

トレーナーさんの言う通り、彼女の言ったことなんて気にしなければいいだけの話だ。

 

そうと分かっていても彼女の言葉が胸に突き刺さったままなのは、一番人気というものに対しての、自分の向き合い方の甘さを思い知らされたからだ。

 

一番人気に推されるということに誇りもプライドも持ったことのない自分が、どうしょうもなく恥ずかしかった。

 

「私は……お母さんの名声のおかげでずっと一番人気に推されていて、どこか感覚が麻痺してたんだと思う。今回も重賞初挑戦で一番人気に推されて……多少はプレッシャーを感じたけれど、それだけだった」

 

目の周りが、熱い。

鼻の奥がツンとしてきて、震えないよう声を出すのが、大変だった。

 

「一度も一番人気になれないまま、現役を引退するウマ娘もいる。せっかく勝ったのに、一番人気じゃなかったばかりに正しい評価をされずに悔しい思いをしているウマ娘も、たくさんいる。私はそのことを知っていたはずなのに……」

 

ざわついている会議室の中で、トレーナーさんは静かに相槌だけを打って、私の話を傾聴してくれている。

 

「一番人気って、たくさんのファンから応援されてるってだけじゃない。たくさんの人がそのウマ娘を高く評価していて……勝利するという結果を求めているってことなのよね。そして、一番人気に推されたウマ娘は、それに応えなきゃいけない」

 

今まで親の七光りで一番人気に推され続け、それを当たり前のように受け取ってきた私のことを、彼はどう思っているのだろう。

 

「一番人気には、確かにそういった一面はある。でもね、レイナ」

 

私の出した結論を聞いて、トレーナーさんは緩やかに首を横に振った。

 

「そのことを意識しすぎることはないよ」

「えっ?」

「一番人気に応えようとする気持ちも、一番人気に推されたことにプライドを持つことも、大切なことだと思う。でも、必ずしもレイナがそうじゃないといけないってことはないはずだ。初めての重賞でも君は今まで通り、楽しんで走ればいい。ファンもきっと……スズカを思い出させてくれるその姿を、見たいと願っているはずだよ」

 

それは、きっとそうなんだと思う。

 

「そうね。……でも私はきっと、お母さんよりちょっと欲張りなんだと思う。一番人気に推してくれたファンのために、一番人気の誇りのために、楽しんで走って……勝ちたい」

「そうか」

 

トレーナーさんはそれだけ言うと、大きな手で私の方をポン、と優しく叩いた。

 

「行こうかレイナ。もう今日は日曜日のレースに備えて、ゆっくりするといい」

 

本当はきっと、そうするのが一番いい。

でも。

 

「残念だけど、今はそんな気分になれないのよ。……少しだけ、走ってきてもいいかしら?」

 

わがままを言う私に、トレーナーさんは小さく苦笑する。

 

「仕方ない。ダート……じゃちょっと負担が大きいか。よし、じゃあウッドチップコースを軽く半マイルだけ走っておいで。でも、それ以上は絶対ダメだよ」

 

釘を差すトレーナーさんに、私は素直に頷く。

 

今から、走れる!

 

それだけのことで胃の痛みはすっかり消えて、信じられないほど脚が軽くなる。

 

私は会議室を飛び出すと、制服のまま一目散にウッドチップコースへと向かった。

 

*

 

ウッドチップを走り込み、ロッカールームから寮に帰る途中。

ライトアップされた三女神像の前でふと空を見上げると、もうすっかり暗くなっていて星たちがキラキラと瞬いていた。

 

走ったことで気持ちがスッキリしたのは良かったのだけど……さすがに制服で走るのはまずかったかもしれない。

 

走ったあと汗が少し引いてくると、かなり肌寒い。

制服は体操服ほど、体を上手に保温してくれないのだ。

 

このことが原因で風邪引いて毎日王冠は出走取り消し、なんてことになったら本当にシャレにならない。

 

私は慌ててロッカールームに飛び込むと、制服を脱ぎ捨てて熱いシャワーを浴びた。

ロッカーに予備の体操服を置いてあったのは、我ながらグッドジョブだったと思う。

 

もしジャージが置いてなかったら、最悪シャワーのあと汗まみれの制服で寮まで戻らないといけないところだった。

 

まぁシェリルに連絡して服を持ってきてもらってもいいのだけど、シェリルは今頃、京都に向かうための準備をしているだろうしね。

 

「コンバンワ!」

 

京都はそろそろ秋華賞や菊花賞に向けて盛り上がってくるころね……なんて考えていると、突然後ろから大きな声の明るい挨拶に呼び止められた。

 

「こんばんは……って、シャトルジェシカさん?」

「ハイ!」

 

彼女は元気良く返事すると、スマホを取り出して画面の上で何度か指を滑らせる。

 

『ごめんなさい。マームに日本語教えてもらってたんですけど、まだ日常会話で使えるほどじゃなくて。このアプリを使ってお話させてくださいね!』

 

シャトルジェシカさんがスマホに英語で語りかけると、わかりやすい日本語が返ってきた。

彼女が起動させたのは、翻訳アプリらしい。

私も英語は英検3級をなんとかクリアした程度だから、この方がお話しやすそうだ。

 

「今日は記者会見、お疲れ様でした!」

「ああ、うん。シャトルジェシカさんこそ、お疲れ様でした。日本に来たばかりなのにいきなり記者会見で、大変だったでしょう?」

 

そう尋ねると、彼女は軽く笑いながら首を横に振る。

 

「ノープロブレム! 実は今週の月曜日にはもうこちらに到着していて、今日まで観光を楽しんでいたんですよ」

「そうだったんですか」

 

週始めから日本に来ていたなんて、ずいぶん気の早い前乗りだ。

……でも慣れない環境に馴染むために数日前から異国の地で過ごしておく、というのはわりとスタンダードな考え方なのかもしれない。

 

「ハイ! ニッポンに来てからワタシ、東京レース場、大國魂神社、URA博物館など、いろいろなところに行きました。でも一番ワタシが楽しみにしていて、一番見てみたかったのは……マームが生活し、学び、仲間たちと切磋琢磨したこのトレセン学園だったんです!」

「あ……」

 

そうだ。

お母さんから、何回か聞いたことがある。

タイキシャトルさんはお母さんと現役時代がほぼ同じぐらいで、とってもいい友だちだったって。

 

……お母さんが亡くなった時、たくさんの人からお悔やみの手紙が送られてきたけれど、その中にアメリカから送られてきたものがあった。

あの手紙の送り主は、確か……。

 

「私のマーム、あなたのマームのサイレンススズカさんのことも、よく話してくれます。ちょっと変わった娘だったけど、走ることが大好きでとってもいい娘だったって!」

 

外国の人に自分の母親のことをストレートに褒められるのは、なんだか少し気恥ずかしかった。

そしてやっぱり、うちの母親は昔から少し変わり者だったようだ。

 

「……私も、お母さんから聞いたことがあります。タイキシャトルさんはとっても明るくて、ちょっと付き合いにくかったはずの自分にも積極的に話しかけてくれて……それが全然押し付けがましくなかったって。トレーナーと自分とタイキの三人だけでやったバーベキューは、とっても楽しかったって」

「OH! サイレンスレイナさんも、そのことをあなたのマームから聞いていましたか!」

 

シャトルジェシカさんは夜空の星に負けないぐらい瞳を輝かせながら、私の手を取って力強く握った。

 

「大勢でワイワイ楽しむBBQもいいものだけど、仲のいい友だちと静かに語り合うBBQもとっても楽しいものだったって、マームは何度も話してくれました。ワタシ、サイレンスレイナさんに出会ったら絶対このことを伝えたいと思っていました。あなたも、あなたのマームからそのことを伝え聞いていたなんて、こんなに素敵なことはありません!」

 

そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべてくれる。

私の手を包んでいる大きくて分厚い彼女の手は、とても暖かかった。

 

「私も、そう思います。あの、よかったら学園を案内しますから、その間もう少しお話しませんか?」

 

私の申し出に、彼女は大きく目を見開いた。

 

「イインですか!?」

「ええ。私で良ければ喜んで」

「もちろん! ヨロシク、オネガイシマス!」

 

慣れない日本語を使って受け入れてくれたシャトルジェシカさんに、私は控えめに微笑んで頷いた。

 

*

 

それから私はダート、ターフ、ウッドチップコース、障害レース練習コース、そしてタイキシャトルさんがレコードタイムを持っている1000mの坂路コースを案内し、三女神像の前に戻ってきた。

 

タイキシャトルさんのことを話したとき、彼女は『マームはこの坂路1000mを64秒ジャストで走ったのですか!? OMG! 信じられない! さすがマームです!』と身内のことなのにまったく照れることもせず、ストレートに自分の母のことを称賛していた。

 

彼女のその素直な感性を、少し羨ましく思う。

 

「トレセン学園のトレーニング環境は、本当に素晴らしいですね! マームの言ったとおりでした。実はマームから『ジェシカもニッポンへ留学したらどう?』って勧められたんですけど、家族と離れ離れになるのが嫌で断ったんです。でもこちらへ来ても良かったかもしれませんね!」

「今からでも、トレセン学園に編入したらいいじゃない? ジェシカの実績ならトレセン学園も喜んで受け入れてくれるわよ」

 

興奮気味のジェシカに冗談めかしてそう言うと、彼女は大げさに両腕を広げてみせる。

 

「OH! グッドアイデアです! それなら、レイナと毎日お話できますね! でもやっぱり、家族やスクールの友だちと離れ離れになるのは寂しい。お気持ちだけ、ちょうだいしておきます!」

「そう。それは残念ね」

 

肩をすくめる私に、ジェシカは明るく笑う。

 

ジェシカの持ち前の明るさのおかげか、学園を案内しているうちに私たちはすっかり打ち解け合っていた。

 

でもそんな彼女の顔から笑顔が消え、瞳に熱がこもる。

 

「ニッポンに来た一番の目的は、もちろんマームが勝利したマイルチャンピオンシップを走ることです。ですが本当のことを言うと、毎日王冠でマームの友だちだったサイレンススズカさんのドーターと走ることも、同じぐらい楽しみにしていました」

 

そう言ってジェシカは本気の眼差しを私に向けた。

 

「ニッポンに来る前、マームが話してくれました。『スズカとは一回だけ一緒のレースで走ったことがある。その時のスズカはまだ自分の走りを持て余している感じで、自分の方に勝利の女神が微笑んだけど、スズカのスピードと才能に背筋が震えた。一度でいいから、シニアのスズカと本気のレースをしてみたかった』って」

「……そのレースのこと、私もお母さんに聞いたことある。『一回だけタイキと同じレースにでたことがあるけど、全然相手にならなかった。マイルでは何回走っても、タイキに勝つことはできなかったと思う』って、真剣な顔で言っていたわ」

「マイルでは、ってところにサイレンススズカさんの負けず嫌いがでていますね!」

 

お母さんの思い出話に少し口角を緩めてくれたジェシカだったけど、また表情をぐっと引き締めて話を続ける。

 

「レイナが勝ったオープンのレース、何回も見ました。着差は大きくなかったけど、強い勝ち方だった。それに……」

「それに?」

「あんなに大変なレースだったのに、走っているレイナはどこか楽しそうでした。ワタシ、思いました。この娘、本当に走ることを楽しんでいる。走ることを、レースを楽しんでいるウマ娘に勝つのは、簡単ではありません」

 

そしてジェシカは、力強く右手を差し出してきた。

 

「でも負けませんよ、レイナ。レースを楽しむことに関しては、ワタシも決してヒケを取りません。短距離限った話ではないと思うのですが、マームイワク、短距離レースを勝つコツは……」

 

『エンジョイスピリッツ、デース!』

 

私とジェシカの声が、ハモる。

 

「OH! レイナも、マームのメイゲンをご存知でしたか!」

「ええ、お母さんが『現役時代、短距離のコツをタイキに聞いたらエンジョイスピリッツ、デース! って言われて良く分からなかったわ』って言ってたから……」

 

差し出された彼女の右手を握りながら、私は懐かしいことを思い出していた。

 

「マームは何も難しいこと、言ってません。結局楽しんだ者勝ち、ということデース!」

 

そんな言葉とともに、力強い握手が返ってくる。

少し、長い握手になった。

 

手の力を緩めたのは、ほとんど同時だったように思う。

 

「ではそろそろ、ホテルに戻ります。毎日王冠、エンジョイしましょう! 今日は学園を案内してくれて、アリガトウ。オヤスミナサイ、レイナ!」

「こちらこそ、私に付き合ってくれてありがとう。おやすみなさい、ジェシカ」

 

日本語で感謝と就寝の挨拶を残して背を向けたジェシカを、私は小さく手を振りながら見送る。

 

ジェシカは一度だけこちらを振り向くと、大きく手を振り返してくれた。

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