*
10月上旬の、日曜日。
私が初めて挑戦する重賞、GⅡ・毎日王冠の日がやってきた。
初秋を感じさせる今日の陽射しはすいぶん穏やかで、道すがら金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。
東京レース場についたのは1時ぐらいだったけど、取材を受けたり、控室で着替えて最終的な作戦の打ち合わせをしているうちにあっという間に時間は過ぎていった。
パドックへ向かう時間が、近づいてきている。
来たるべき本番に向けて、私は軽くストレッチをして体をほぐしていた。
「いよいよ出走だけど……あんまり緊張してないみたいだね」
う~~ん、と唸って背中をそらしていた私に、トレーナーさんが少し不思議そうに聞いてきた。
「そうね……」
ゆっくりと姿勢をもとに戻してから、トレーナーさんの方に顔を向ける。
「初めての重賞挑戦とか、一番人気に推されていることとかに不安や緊張がないわけじゃないけれどね。でも今は、それ以上に走るのが楽しみ! って感じなのよ」
私は軽い笑みを返してから、今度は慎重に腰をひねった。
初めて出走するGⅡ競走に、緊張はしている。
強敵相手に一番人気に推してもらって、それに応えられるのか、不安もある。
だけどそれ以上に、走ることへのワクワクが止まらない。
今から走るレースが、楽しみで仕方ない。
こんな気持ちになったのは小学校に上がってすぐの頃、両親に初めて本格的なトレーニングコースに連れて行ってもらった時以来かもしれない。
塗り分けられた、色とりどりのラチ。
美しく均されたダートコース。
太陽の光を受けて、きらめくターフ。
「……そうか。そういうことなら、俺からは何も言うことはなさそうだね」
トレーナーさんは破顔すると、ストレッチを終えた私の肩にポンと、軽く手を置いた。
大きなの手の温かみが、私を現実に優しく引き戻す。
「行っておいでレイナ。毎日王冠という大舞台を、存分に楽しんできてくれ」
「ええ」
彼の励ましに私は気軽に応え、ゼッケンの位置を確かめる。
問題なし。
さっきまでのストレッチのおかげで、体は十分に温まったようだ。
胸にそっと、手を当ててみる。
ゼッケンの奥にある心臓が、『早く走りたい!』と高鳴っている。
「じゃあ、行ってくるわね」
「ああ」
私はいつものように軽く手を振りながら、控室を後にした。
*
控室から連絡通路に出たとたん、パドックからのざわめきが耳に入ってきた。
私たちウマ娘は、普通の人よりかなり聴力がいい。
そんな私でも、ファンの歓声がここまで聞こえてくる、ということは今まで一度も経験がなかった。
おそらく、たくさんの人が今日のレースを見に来てくれているのだろう。
連絡通路には、私と同じようにパドックに向かうウマ娘たちが何人かいた。
歴史ある伝統のGⅡに向かう出走者たちの表情は、皆怖いぐらいに真剣だ。
連絡通路に流れる空気が、ひどく張り詰めている。
今日のレースは私、シュノンソーさん、ジェシカの3強対決なんて言われているが、毎日王冠に出てくるウマ娘たちはみんな歴戦の猛者ばかり。
重賞での経験が圧倒的に足りていない私や、初めて東京レース場を走る海外勢二人をまとめて負かしてしまうウマ娘がいたとしても、まったく不思議じゃない。
そのことを思うと……尻尾の付け根が、わずかに震えた。
「……ふぅっ……」
私は一度立ち止まり、肺の中に溜まっていた息を静かに吐き出す。
「HI! Reina!」
今度は空気をゆっくりと吸い込もうとした瞬間、この緊迫した雰囲気に不釣り合いな明るい声が背後からしたかと思うと、パシッと軽く背中を叩かれた。
「! ジェシカ?」
少し驚いて後ろを振り返ると、そこには昨夜学園内を案内した時と変わらない、人懐っこい笑顔を浮かべているジェシカがいた。
初めて着る日本の体操服のはずなのに、それが妙に彼女に似合っている。
「It's finally time! ガンバリマショウネ! Let's enjoy the race!」
張りのある声でそう言って、ジェシカがサムズアップを飛ばしてくる。
「I will.」
そんな彼女に私も控えめに親指を立て、日本人らしいベタベタの英語で返事をした。
ジェシカはそれでも満足してくれたらしく、
「Let's meet again after the race!」
と言い残して、手を振りながら大股で去っていった。
歩様を見る限り、ジェシカの調子は絶好調のようだ。
心身ともに充実してそうな彼女を見て、私も負けていられないな、とパチン! と軽く頬を叩いて気合を入れ直す。
……そんな私を白けたような視線で一瞥して、一人のウマ娘が私の隣を通り過ぎた。
シュノンソーさんだった。
凱旋門賞ウマ娘の力強く規則正しい蹄鉄の音が、私の耳朶を打つ。
青色のブルマからスラリと伸びた、文字通り世界を股にかけてきたその白く美しい豪脚には、強靭な筋肉が走り抜けている。
でも不思議なことにそんなシュノンソーさんから、威圧感や引け目を覚えることはなかった。
私はそんな自分に少しだけ心強さを覚えながら、いつもの歩調でパドックに向かってまた歩き始めた。
*
パドックへ脚を踏み入れると、立見席にはものすごい数のファンたちが集まっていた。
動画やテレビで見るGⅠ前のパドックでも、これほどの人波は見たことがない。
その光景に、思わず脚を止めてしまう。
「今年の毎日王冠は凱旋門賞ウマ娘にBCマイルの覇者、それにスズカの娘と役者揃いだな」
「GⅠでもこれだけレベルの高いウマ娘が集結することなんて、ほとんどないよ」
「こんなレース、めったにないわ。この時代に生まれてきて、ホントラッキー!」
あちらこちらから、今日のレースに対する期待の声が上がっている。
連絡口から出てきて、突っ立っていた私の姿がファンたちの目に入ったのだろう。
満員の観客席から大きな歓声と拍手が巻き起こった。
「がんばれよ、レイナ!」
「応援してるからね!」
熱のこもった声援が、私の鼓動を跳ね上げる。
立ち止まっていた私はこっそりと息を吐きだし、できるだけ平常心を装って周回しているウマ娘たちの輪の中に入った。
パドックの舞台に目を移すと、壇上でジェシカが仕上がりを披露している最中だった。
タイキシャトルさん譲りの尾花栗毛とエメラルドグリーンの瞳が、秋の陽光を受けて燦然と輝いている。
肌ツヤもまるで白磁のように美しく、連絡通路で感じた彼女の充実ぶりは私の気のせいではなかったようだ。
「タイキ譲りのBCマイルを制覇したキミのスピード、この府中で思う存分発揮してくれ!」
「今日は3番人気だけど……わたしはあなたが一番強いって信じてる!!」
観覧席からの熱烈な声援や拍手に、ジェシカは手を振りながら笑顔で舞台から去ってゆく。
初めて走る日本の重賞競走に、プレッシャーを感じている様子もない。
そんな彼女を見ていると、顔が少し熱くなる。
普段は親しみやすい人柄のジェシカだけど、彼女は私と違い、やはりたくさんの大舞台を踏んできた超一流のウマ娘なのだと思い知らされる。
ジェシカが降壇したあと、次に舞台に現れたのはシュノンソーさんだった。
彼女は舞台へと登壇し……中央まで歩を進めて腰に手を当て、反らすように大きく胸を張った。
「!」
ただそれだけのことなのに、彼女から目を離せなくなる。
勝手に大きく見開いた瞳が、凱旋門賞ウマ娘から視線を外すことを許さない。
口の中の水分が蒸発して、つばを飲み込んだだけで喉が痛む。
騒がしかった観客席が、水を打ったかのように沈黙へ落ちる。
……バ体から発せられるエネルギーが、並のウマ娘のものとはまったく違う!
絶好調のウマ娘からオーラのようなものを感じることは、確かにある。
でも今の彼女がまとっている熱量とそれを比べれば、太陽と月ぐらいの差があった。
爆発的な熱にあてられて黙りこくった観衆を睥睨すると、彼女は何事もなかったかのように下りの階段へと向かう。
階段を半分も降りた頃、観客たちは思い出したかのようにシュノンソーさんに大きな拍手を送った。
あれが、世界最強クラスのウマ娘が持つエネルギー……。
少し気圧されるような気持ちになりながら私は舞台へ脚を向け、登りの階段に脚を掛ける。
ようやくたどり着いた、初めての重賞の舞台。
そこにはまだシュノンソーという超強豪ウマ娘の熱が、残っているように感じられた。
舞台の中央へやってくると、私は来てくれている人たちに視線を送り、それからゆっくりと頭を下げて一礼した。
……意識していたわけじゃない。
こんなに大勢の人たちがレースを見に来てくれたことと、私を応援してくれていることへの感謝が、自然とそうさせた。
そんな私に、オーディエンスから大きな拍手が起こる。
「レイナ! 相手は強いけど、お前なら……スズカの娘のお前なら、きっと逃げ切れる!」
「ここを勝って天皇賞へ行こう! 夢の続きを、見せてくれ!」
色々な思いを乗せた声援が聞こえてきた。
私は頭を上げ、微笑みながら小さく右手を振ってそれに応える。
……左手が半袖の体操服の裾を掴んでいたのは、ご愛嬌ということにしておこう。
いつのまにか、舞台を覆っていた他を圧するような熱は消え去っていた。
*
ファンファーレがターフに鳴り響き、まるで地割れのような歓声がスタンドから上がった。
ゲートの係員の人の話によると、なんと6万人もの人が東京レース場に詰めかけているらしい。
レースを走るウマ娘としてこんなにありがたいことはない、と自分を励まして、私は静かに与えられた5番ゲートに入場した。
わずかに陽射しが遮られた空間で、そっと胸に手を当てる。
いつもより少し早い鼓動が、手に伝わってくる。
脚元のターフを軽く蹴ると、芝と土のここちよい弾力が蹄鉄に返ってきた。
私と同じ奇数のウマ娘たちが続々とゲートに収まり、それから偶数番の娘たちがゲートインしてゆく。
左隣の4枠にジェシカ、右隣の6枠にシュノンソーさんがゲートに収まった。
奇しくも1、2、3番人気のウマ娘が4、5、6枠に固まった形だ。
ふと、金木犀の香りが鼻先をよぎる。
2秒間、世界から音が消える。
目の前のゲートが乾いた音を立てて開き、毎日王冠が今スタートした。
*
いいスタートを切った私は、乾いた芝を蹴りつけながらどんどんと加速してゆく。
そんな私に、鈴をつけに来るウマ娘はいなかった。
少し後ろに圧を感じるのはシュノンソーさんか。
ポケットになっているスタート地点から飛び出した私たちは、突き当りのような形になっている第2コーナーへと向かう。
真っ白なパトロールタワーが、陽の光を受けて長い影をターフに落としている。
向こう正面に差し掛かる頃には、私は先頭を取り切っていた。
風の中で、長い髪としっぽが踊る。
全身に吹き付けてくる風が、心地いい。
聞こえてくるのは風を切る音と、自身がターフを蹴りつける爪音だけ。
レース場には何万人もの人が詰めかけているはずなのに、それは不思議な静寂だった。
残り1000mのハロン帽を通過する。
体内時計を信じるなら、ここまでの時計は45秒半から46秒ぐらいだろう。
ペースは平均ぐらいと言ったところか。
ラップも呼吸も乱れておらず、いい調子で走れている。
脚が軽い。
吹き出す汗すら、気持ちいい。
まるで大自然の中の草原を、駆け抜けているようだ。
勝負の中に身をおいているのに、気持ちはどこまでも澄み切っていた。
残り800mを切り、大欅を通過した。
まだ遠いはずのスタンドから歓声が、私の耳を打つ。
その瞬間、背中から津波のような圧倒的なプレッシャーが襲いかかってきた。
後続が私に詰め寄ってきているだろう。
視界の端に映ったのは、ジェシカの姿だった。
それを確認した私は、一つギアを上げる。
また私は一人になった。
6と書かれたハロン棒を通過し、第四コーナーを迎える。
私は減速することなく、内ラチに張り付くようにコーナーを回った。
さぁ、最後の直線勝負!
「はぁっ!」
私はギアを最大に解放し、一気に脚をトップスピードへ乗せる。
少しずつ、後続の気配が遠ざかっていくのが分かった。
4と書かれたハロン棒を、あっという間に置き去りにする。
なだらかな坂がスタミナを奪い取ってこようとするが、私の脚にはまったく関係なかった。
音が、消える。
傾き始めた陽の光が、ターフを薄いオレンジ色に染めている。
ああ。
走るのって、走るのって、こんなにも楽しい!
この時間が、永遠に続いてくれるといい!
***
サイレンススズカが勝利した、伝説の毎日王冠。
あのレースを実況したのも彼女だった。
『さぁ、最後の直線に入ったぞ。先頭はサイレンスレイナ、リードは3バ身!』
『逃げる逃げる! サイレンスレイナ逃げる!』
彼女の声が、わずかに震える。
立場上、自分は公平無私の実況を心がけねばならない。
そんなことは分かりきっている。
それでも彼女はスズカとレイナを、母の面影を、娘と重ねずにはいられなかった。
『タイキの娘、シャトルジェシカが追ってくる! 凱旋門賞の誇りにかけてシュノンソーも追いすがる!』
『サイレンスレイナ坂を登りきった! 脚色は衰えない!!』
『2番手にシュノンソー、シャトルジェシカはちょっと苦しいか! 200mを通過!』
『サイレンスレイナだ、サイレンスレイナだ! 後続は大きく離れた、もうどのウマ娘も追いつけない!』
『サイレンスレイナ今一着でゴールイン! サイレンスレイナ、この大舞台で母譲りの異次元のスピードを見せつけました!』
『どこまで行っても逃げてやる! さぁいざ天皇賞へ! サイレンスレイナ、夢の続きを見せてくれ!』
*
スタンドからのどよめきが耳に入ってきて、私は先頭でゴールを駆け抜けていたことに気がついた。
ゴールを過ぎても全力疾走しているウマ娘は、ファンたちに奇妙に映ったことだろう。
私はようやく減速し、思い出したかのようにスタンドへ向かって小さく手を振る。
それでも観客たちの喧騒は収まらない。
ひょっとして、何か事故でもあったのだろうか。
そう思って後ろを振り返ると、ふいにターフビジョンが目に入った。
タイムの欄にはレコードという赤い文字と……1.42.8という数字がくっきりと浮かび上がっている。
「初めての重賞でレコード勝ちだなんて……やっぱりレイナはすごいウマ娘だったんだ!」
「レイナ! めちゃくちゃ強い勝ち方だったぞ!」
「おいおい……ひょっとしてあのタイム、世界レコードなんじゃねえか……?」
そんな声が、スタンドのあちこちから聞こえてくる。
世界レコード。
予想もしていなかった言葉を聞いて、私はもう一度走破タイムを確認する。
1.42.8。
ゴールの存在さえ忘れて、全力を出した結果がそこには記録されていた。
秋の柔らかい日差しを受けて、ターフビジョンがキラキラと輝いている。
レコードという結果も嬉しかったけど……今日のレースを本当の全身全霊で駆け抜けられたことが、なによりも嬉しかった。
自然と、口角が緩んでくる。
私はそんな口元を意識的に一文字に結び直してから、念のためゴールの方へと視線を向けた。
シュノンソーさんのように、憮然とした態度を隠そうとしないウマ娘。
ジェシカのように苦笑しながら肩をすくめているだけだけど、負けた悔しさをまったく隠せていないウマ娘。
ゴール後の彼女たちの表情は様々だったけど、みんな無事にレースを終えたようだ。
よかった。
レース中に誰か故障したのではないか、という私の心配はどうやら杞憂だったらしい。
ふぅ、と小さく安堵の息をつき、私は再びスタンド前を走り出す。
みんなの無事がわかると……急に胸の奥からじんわりとした熱が込み上げてきた。
初めての重賞勝利。
引き締めたはずの笑みが、自然とまたこぼれてしまう。
だから私は、いつもよりちょっとだけ明るく笑って……いつもより少し大きく手を振りながら、ファンたちにウイニングランを披露する。
それは私の名前を連呼し、大きな拍手を送ってくれる人たちへのささやかなお返しでもあった。
スタンドの端まで来た私は一旦そこで立ち止まると、だいだい色に染まりつつある府中の高い秋空を見上げた。
……お母さん。
見ててくれた?
お母さんが大きな蹄跡を残した毎日王冠で、私、いいレースができたわ。
天国のお母さんにそう伝えた瞬間、柔らかな風がレース場に吹き渡った。
それはまるでお母さんが私の髪を撫でてくれているかような、そんな優しい風だった。
*
ウイニングランを終えてライブの準備のために控室へ帰る途中、意外なウマ娘に呼び止められた。
「Mademoiselle Silence Reina.」
「……シュノンソーさん?」
彼女の名前を呼んだ声が、少し高くなってしまう。
きちんとセットされた髪を見るあたり、もうシュノンソーさんはウイニングライブのためのお色直しを済ませているようだ。
彼女は手に小さなバッグを持っており、真剣な眼差しを私に向けている。
シュノンソーさんの意図がよく分からず、少し気まずい感じはしたけど……視線をそらすのも失礼かなと思った私は、彼女の金色の瞳の中に映る自分をみつめていた。
数秒そうしてしたあと、彼女はバッグからスマホを取り出して画面の上で指を滑らせ、それから母国語でスマホに話しかけた。
『今日のところは、完敗だ。あなたは一番人気にふさわしい実力の持ち主だった。レース前の非礼をお詫びしたい』
翻訳アプリを通したシュノンソーさんの言葉がスマホから流れてきて……彼女は丁寧に私に頭を下げた。
「いやいや、そんな。本当に気にしていませんから」
私は苦笑しながら手を振り、彼女のスマホに声が届くよう少し大きめ声で話しかける。
……気にしていない、というのは嘘だったけど、こうしてわざわざ謝罪しに来てくれたシュノンソーさんを責める気にはとうていなれなかった。
スマホが翻訳した私の言葉を聞き届けてくれたのだろう。
彼女はゆっくりと、顔を上げる。
『記者会見では大きな口を叩いたが……あなたが勝利した前走のリステッドレースを見た時、これは強敵になると思った。言い訳にもならないが、私は異国の地で強敵を相手にするにあたって少し強がりを言っていたんだよ』
「……そうだったんですね」
肩をすくめて小さく笑った彼女に、私は神妙に相槌を打つ。
そういえばお母さんも『言葉も食事もいつもと違う香港へ行った時は大変だったわ』って、話してくれたことがあった。
『しかし1800mで3バ身も差をつけられて負かされては、言い訳の余地もないな。……あなたはジャパンカップには出走しないのか?』
「えっ?」
何気ない彼女からの質問に、思わず言葉をつまらせてしまう。
「……えーっと、そうですね……。この秋予定しているローテーション的に、少し厳しいかもしれません」
『そうか。ジャパンカップでぜひ今日の借りを返したかったのだが、そういうことなら仕方あるまい』
シュノンソーさんは少し残念そうに微笑むと、すっと右手を差し出してきた。
握手の習慣に慣れないせいで少し戸惑ってしまった私は、あわてて右手を彼女のそれに重ねる。
シュノンソーさんの手のひらは、まるでレースの予熱を残しているかのように温かい。
でも彼女の手はサラサラしていて、女性らしくとても柔らかかった。
お互いの右手を数秒握りしめたあと、どちらからでもなくあっさりと握手をほどく。
『あなたの次走は天皇賞だとみんな言っているようだが、そうなのか?』
「……ええ。トレーナーと相談してからになりますけど、おそらくそうなると思います」
さっきまでよりワントーン低くなった私の声を聞いてどう思ったのか、シュノンソーさんはなにか得心したかのように、何度か小さく首を縦に振る。
『実は日本に来る前、あなたのことを少し調べたんた。……秋の天皇賞とあなたとは、浅からぬ縁があるようだな』
突然の発言に、私は小さく息を呑む。
『いや、深く詮索するつもりはない。ただ……偉大な母の影が残るレースに出走するというのは、重圧を感じるのではないか、と思ってね。私も母が制した凱旋門賞に出た時には、周りに色々言われたものだよ。おそらくあなたの周りも、あなたに様々なものを託そうとしてくるだろう』
そう言って彼女は、軽い笑みを浮かべる。
『でもあなたは、あなたの想いだけを持って走ればいい。天国のあなたの母君も、きっとそう望んでいらっしゃるはずだ』
「シュノンソーさん……」
あなたは、あなたの想いだけを持って走ればいい。
偉大な母を持つ彼女のシンプルで短い言葉が、すっと私の心に沁み渡ってくる。
『おっと、少しばかりおしゃべりが過ぎたようだ。そろそろウイニングライブの時間も近い。ウイニングライブというのは、我が国にはない慣習でね。今日来てくれた日本のファン達に私の歌とダンスを披露するのが楽しみだ。ただ、どうせなら【センター】というポジションで歌って踊りたかったものだがね』
シュノンソーさんは冗談めかしてそういうと、パチッと意外にもチャーミングなウインクを飛ばしてきてくれた。
『では、またあとで』
「はい」
ひらり、と軽く手を振って、シュノンソーさんはライブシアターの方に脚を向けた。
さて、私もそろそろ控室に戻って準備しなきゃ。
「HI, Reina! オツカレサマデシタ!」
そう思って踵を返すと、今度はジェシカに声をかけられた。
彼女もやっぱり、すっかりお色直しを済ませているようだ。
「ジェシカ。お疲れ様」
『少し、離れてみてました。シュノンソーと仲良くなったようですね!』
ジェシカの元気な声の英語を、彼女が手にしているスマホが明るい口調の日本語に翻訳してくれる。
「そうね。仲良くなれたかは分からないけれど、少しお話させてもらっていたの」
そういう私に、ジェシカは嬉しそうに何度か頷く。
『シュノンソー、ちょっとプライドが高くてとっつきにくい感じがしますけど、本当はとってもいい子! 去年アメリカにやってきてBCターフで2着に負けた時も、自分に勝ったウマ娘を惜しみなく称賛していましたから』
「へぇ……。そうだったのね」
その光景がありありと想像できて、つい頬が緩んでしまう。
シュノンソーさんは自分の走りに誇りを持っているだけで、決して嫌な人じゃない。
『今日のワタシ、三着に負けてとても悔しい。でもベストは尽くしました。レイナやシュノンソーと本気でぶつかれて、とても楽しかったです!』
ジェシカもレースが、走ることが好きで仕方ないのだろう。
笑顔で大きく腕を広げる彼女の顔に、嘘や負け惜しみはまったく感じられなかった。
「私も……ジェシカやシュノンソーさんのような、超一流のウマ娘と走ることができて楽しかったわ」
「OH…!」
私がそういって微笑むとジェシカは目を大きく見開き……そしていきなり私に抱きついてきた。
ジェシカの起伏に富んだ女性らしい体が全身に張り付いてきて、頭が沸騰しそうになる。
「!?」
『レイナにそう手放しで褒められると、チョット照れてしまいます。ワタシもレイナのような強いウマ娘と競うことができて、とても、とてもエキサイティングでした!』
「わかった。わかったからちょっと離れて。ちょっと、いや、かなり苦しい……」
『OH、ソーリー。思わずハグに力が入ってしまいました!』
私を解放すると、彼女は少しバツの悪そうな笑みを浮かべた。
……アメリカの人は感情を大げさなぐらい表に出すってよく聞くけど、さすがにジェシカは特別なような気がする。
『オーノー! もうすぐウイニングライブの時間じゃないですか! ワタシもマームのようにセンターで歌って踊りたかったのですが、今日は全力で勝利したレイナのアシストをしますよ。では、またライブシアターで!』
スマホで時間を確認したジェシカはそう言い残すと、すごい脚でライブシアターの方へ走り去っていった。
そんなジェシカを、私はただ呆然と見送る。
「……もう控室に戻ってる時間はないわね」
去りゆく友だちの背中を見ながら、ははっ、と一人苦笑する。
私はお色直しを諦め、あちこちに芝の欠片や土汚れのついて、汗の染み込んだ体操服姿のままライブシアターに向かうことにした。
*
重賞のウイニングライブの観客席は、今までのものと人の密度がまったく違った。
「おめでとう!」
「いいレースだったぞ!」
センターで曲を待つ私に、勝利を祝福する声がたくさんかかる。
そんな中。
「おかえり、レイナ!」
ライブシアターという非日常な空間で、その掛け声は少し場違いな気がする。
それでいて『おかえり』という日常的な声掛けは、不思議と私の心を和ませた。
前走のフォーマルハウトステークスを勝った時も、メイクデビューやプレオープンで優勝した時も、この掛け声を私は確かに聞いた。
でも他のウマ娘のウイニングライブでは、あまり聞いたことがない。
ファンたちはどうして私のウイニングライブでだけ、そんな言葉を投げかけるのだろう……。
そんな答えがあるのか分からない疑問に頭を悩ませていると、ふいにセピア色の古い記憶が蘇ってきた。
そうだ。
まだお母さんが元気で……私が、家に帰ってきたとき。
お母さんは必ず、優しい笑顔で『レイナ、おかえり』と言ってくれていた。
そのお母さんの声の響きと、ファンが掛けてくれる声に宿る感情が、なぜか同じようなものに感じられたのだ。
お母さんと……父とは『おはよう』『おやすみ』『行ってきます』と、数え切れないほど挨拶を交わしたけれど。
不思議と『おかえり』と言ってくれたお母さんの微笑と声が、今でも胸の中に残っている。
温かさと切なさの混じった、言葉にできない気持ちが胸の奥からせり上がってくるのと同時に……曲が始まった。
『響け ファンファーレ 届け 遠くまで 輝く未来を君とみたいから』
震えそうになる声をなんとか整えて、私は歌い始めた。
センターで歌う4度目の【Make debut!】。
重賞という大きな舞台で勝利したせいなのか。
いつもより自然と、歌声に熱と力がこもる。
スコールのように降り注ぐスポットライト。
客席で振られる、まるで光の波のようなペンライト。
ライブの熱気が、パフォーマンスへの没頭が、胸の中にあった切ない感情を溶かしてゆく。
『駆けてゆこう 君だけの道を もっと 速く I believe in……』
華やかな舞台で、着飾ることを忘れたシンデレラのような土と芝の欠片で汚れた体操服で、私は歌い、踊る。
『いつか笑える 最高だけ目指していこう believe 夢の先まで』
曲が終わると、万雷の拍手がライブシアターを包み込んだ。
……同時に、じんわりと目の奥が熱くなってくる。
手も、脚も、心の中も、燃えそうなぐらいに熱い。
私は流れた涙を隠すように頭を下げ……汗を拭うふりをしてきつく目をこすった。
うす汚れた体操服でセンターに立ち、いつまでも顔を上げようとしないそんな私に、非難の視線や声を向けてくるファンは、ただの一人もいなかった。
*
ライブを終えて控室に戻ると、腕を組み、人差し指でせわしなく二の腕を叩いているトレーナーさんが扉の前で待ち構えていた。
「レイナ! レースが終わっても戻ってこないから心配したよ」
「ごめんなさい。色々あってお色直しのために戻る時間が取れなかったのよ」
「……ケガとかじゃないんだな?」
「ええ。私のライブパフォーマンス、見てくれたでしょう?」
ライブシアターの端っこでペンライトも持たず、首の振りだけで音楽のリズムを楽しんでいる彼の姿は妙に目立っていた。
「ああ。しっかり見てた。あれほど素晴らしい【Make debut!】の舞台は初めて見たよ。本当に素晴らしかった」
「……うん、ありがとう」
静かにライブを褒めてくれたトレーナーさんの目の光がいつもより少し強いように感じたのは、きっと通路の照明の加減だと思う。
トレーナーさんの顔をまともに見ていることができず、私は視線を床に落とし、コツコツと意味もなくつま先でリノリウムを蹴る。
「ところで、次走のことなんだが」
手にしていたハンカチで額とその少し下を拭きながら、彼はそう切り出した。
次走、という言葉に心臓がとくん、と跳ねる。
「……ええ」
「今日の勝利で優先出走権を手に入れたことだし、次は秋の天皇賞にしようと思う。どうだろうか?」
「それで問題ないわ」
私たちはあえて今までのローテーションを決めていた時と同じように、なんでもない風を装って次走を決めた。
そのわざとらしさが、否が応でも次が最後だということを意識させたとしても。
でも……。
「次がとうとう、最後のレースになるのね。トレーナーさんの手続きミスで出走不可能、なんてことがないようにしてよね?」
つまらない軽口が、つい飛び出てしまう。
その声が、少しばかり震えている。
次の天皇賞を走ったら、もう私が本気で走れる場所にいられなくなってしまう。
だというのに、完全に平常心を装うなんて、無理だった。
「わかってるよ」
そんな私に彼は軽く苦笑しすると……少し重たくなってしまった空気を払うかのように、ポン、と軽い音を出して手を打った。
「そうだ。今日はレイナが初めて重賞を勝利した日だし、お祝いになにか美味しい晩飯でも食べに行こうか」
声から漏れ出た私の気持ちを感じ取ってくれたのか、トレーナーさんはいつもよりちょっと明るい口調で食事に誘ってくれる。
トレーナーさんはレースのあと、いつも昼食や夕食をごちそうしてくれるのだけど。
わざわざお祝いに、と言ってくれた気遣いが心苦しかったのと同時に、なんだかとても嬉しかった。
「いいの?」
「もちろん。寿司でもステーキでも、何でも好きなもの言ってくれ」
トレーナーさんはそう言って胸を張ると、ドン、と拳で胸を叩く。
「うん、ありがとう。それは嬉しいのだけど……」
「どうした?」
「それならエアグルーヴさんに『夕食いらない』って、連絡しておいたほうがいいんじゃないかしら?」
私のおせっかいに、彼は大きく首を縦に振る。
「そうだ。……前走のあと夕食食べに行った時、飯いらないって連絡するの忘れててお小言を頂戴したんだった。よく言ってくれた、そうしておくよ」
トレーナーさんはそういうと、お尻のポケットからスマホを取り出して画面をスワイプし始めた。
……やっぱりあの時、エアグルーヴさんに叱られたんだ。
余計なお世話かなとは思いながらもつい言ってしまったのは、小さい頃、お母さんが父から夜9時ぐらいに『今日は夕食いらないから』という連絡を受けた時のことを思い出したからだ。
『わかったわ』といつも通りの声で答えながらも、めったに怒らないお母さんがその時だけはいつも少しだけ、眉間にシワを寄せていたのを覚えている。
そんなお母さんの顔を見て、せっかく作って待っていたのに『いらない』と言われたのでは、いくら優しいお母さんでもやっぱり腹が立つんだろうな、と子ども心に思ったものだった。
「……ああ、急に電話ですまない。今日はレイナと夕食食べに行くことになってね。……いや、この前は悪かったって。だから今日はこうして、ちゃんと連絡させてもらったんじゃないか」
トレーナーさんの困った顔を拝見するに、エアグルーヴさんからちょっとした皮肉を言われたのかもしれない。
「うん。まぁそんなところだ。……分かってる。君が現役だったときからそうだけど、担当ウマ娘の前でお酒飲んだことは一度もないよ」
飲酒について釘を差されたのか、トレーナーさんは真面目な口調で電話の向こうの妻に返事する。
そう言えばトレーナーさんには何度も夕食をごちそうになってるけど、注文するのはいつも烏龍茶だ。
別に私はトレーナーさんがお酒を飲んでいても気にしないけどね。
「そうだね。あまり遅くならないうちに必ず寮に送り届けるよ。ん? ……ああ、ちょっと待ってくれ」
トレーナーさんは穏やかな笑みを浮かべ、手にしていたスマホを私に差し出した。
「えっ、どうしたの?」
「エアグルーヴが君に、どうしても今日の勝利のお祝いを言いたいそうだ」
「……」
私は恐る恐るスマホを受け取り、そっとそれを顔に押し当てる。
「もしもし。お電話代わりました」
「サイレンスレイナか。重賞初制覇、おめでとう」
「……ありがとう、ございます」
少し言葉を詰まらせてしまったのは、女帝からの祝辞にただ緊張してしまったから、というだけではなかった。
「素晴らしいレースだった。……君の走りを見て、サイレンススズカのことを思い出さずにはいられなかったよ」
「エアグルーヴさん……」
お母さんのライバルだったウマ娘の一言に、胸が詰まる。
熱いものが、目の奥から溢れ出そうになる。
初めて彼女に出会って走りを評価されたことが脳裏をよぎり……あっという間に霧散していく。
「次走は天皇賞に出走するつもりか?」
「はい」
ただそう返事するだけなのに、声が震えないようにするのが大変だった。
「そうか。伝統と格式のある舞台に立つとなると緊張もするだろうが……君は君らしく、走るといい」
一瞬、電話が沈黙に落ちる。
その静寂が、返事をするタイミングを奪ってしまう。
「私がこんなことを言うべきではないのかもしれないが……スズカもきっと、それを望んでいることだろう」
少し遠慮がちな言葉が……お母さんと同じ時代を走った偉大な先輩の言葉が、すっと胸に沁み渡る。
「……はい!」
「うむ。これからトレーニングにも気合が入るだろうが、くれぐれもオーバーワークだけは気をつけてな。……門限が近いにも関わらず、スズカはしょっちゅう寮を抜け出して走りに行こうとしていたからな。副会長である私の目をかい潜って」
冗談めかして母の過去を暴露するエアグルーヴさんに、娘の私は苦笑を返すしかなかった。
その光景が、あまりにも簡単に想像できてしまったから。
「はい、気をつけます」
「素直でよろしい。君はスズカよりずいぶん優等生なようだ。良い担当に巡り合った私の夫は、果報者だな。すまないが夫に代わってくれるか?」
「わかりました。……トレーナーさん。エアグルーヴさんが代わってくれって」
保留の表示をタップして、私はスマホをトレーナーさんに返却する。
「ん、そうか。もしもし? ああ、うん、もちろんだよ。寿司でもステーキでも何でも好きなもの言ってくれって話してたんだ。……わかった。それじゃ、切るよ」
トレーナーさんは通話を終えると、またスマホをお尻のポケットにねじ込んだ。
「まったく、エアグルーヴの心配性にも困ったもんだ。……レイナ、どうした?」
「エアグルーヴさんがね。今日の私のレースを見て『サイレンススズカの走りを思い出さずにはいられなかった』って、言ってくださったの」
「……そうか」
それだけ言うと、トレーナーさんは私の頭の上にそっと優しく手を置いた。
伝わってくるトレーナーさんの手の温かさが、少しくすぐったい。
「エアグルーヴは君のお母さんの走りに……サイレンススズカの走りに畏れを抱きながらも、憧れ続けていた。そんなエアグルーヴの目から見ても、今日のレイナの走りとスピードはそれを思い出さずにはいられないほど、素晴らしいものだったんだと思うよ」
トレーナーさんの言葉に、私はただ小さくうなずく。
「よし、じゃあ着替えて晩飯食べに行こう。レイナはなにが食べたい?」
「そうね……」
少し悩んでから、私はあるお店のにんじんハンバーグを希望した。
そのお店は特別有名というわけでもなかったけれど……小さい頃、私がウマ娘ちびっこレースで優勝する度に、両親が連れて行ってくれたお店だ。
そこのにんじんハンバーグは、私の勝利を家族が喜んでくれる、特別で嬉しい味だった。
「にんじんハンバーグか。いいね、俺も久しぶりにそれにするかな。と言ってもさすがにレイナほどは食べられないと思うけどね」
トレーナーさんは年は取りたくないもんだ、と少しほろ苦い笑みを浮かべながら、肩をすくめてみせるのだった。
***
西日に照らされた京都レース場。
一人のウマ娘が後続をぶっちぎって悠々と一着でゴール前を駆け抜け、派手なガッツポーツを決めた。
「嘘やろ……」
歴史と伝統に彩られた京都に秋を告げる重賞レース、京都大賞典を40年以上見続けてきた初老の男は、無意識のうちにつぶやいていた。
スーパークリーク。
メジロマックイーン。
セイウンスカイ。
ナリタトップロード。
キタサンブラック。
サトノダイヤモンド。
レース史に名を残す名ウマ娘たちがこのGⅡを制するのを、彼は幾度となく目撃してきた。
しかし。
「こんな強い勝ち方するウマ娘、見たことないわ。しかも……」
彼はざわめく周囲の者たちと同じように、ターフビジョンへ目を移す。
2.20.6
数字の上に浮かび上がる、レコードの赤文字。
時計には彼の長い京都でのレース観戦の中でも、見たことのないタイムが記録されている。
あのタイムは九冠バ・アーモンドアイがジャパンカップで叩き出した、当時のレコードタイムと同じものだ。
「高速バ場の府中ならともかく、タフな淀の芝でこのタイムは信じられん……」
そう言って、彼は頭を振った。
「う~ん。この強さなら、秋天はあの娘で決まりかもねぇ」
隣りにいた中年女性がのんびりとつぶやいたのを聞いた彼は、思わず『そんなん分からんやろ!』と突っ込みそうになったが……んんっ! とわざとらしい咳払いをすることで、なんとかそれを自重する。
彼は今日勝利したウマ娘のことが、好きではなかったのだ。
二冠を制したにも関わらず千年の都で行われる菊花賞と三冠挑戦を袖にし、クラシック級の身で東京の秋天に向かったシェリルジョーダンのことが、正直嫌いだった。
だがもう、認めなくてはならない。
「アイツは今、日本一強いウマ娘や……!」
彼は初めて、シェリルジョーダンに心から称賛の拍手を送った。
スタンドからの喝采にシェリルは笑顔で大きく手を振って応えてみせる。
強さを見せつけた彼女の表情からは、淀の2400mでレコードタイムを叩き出した疲れなど微塵も感じさせなかった。
***
シェリルは今日も、出迎える者が誰もいない京都レース場の控室へ戻ってきた。
「どーよ、メロス。今日のあたし、正直最高の走りだったんじゃね?」
テーブルに上に置きっぱなしにしておいたスマホに、シェリルは自信満々に話しかける。
『はい。今日のあなたのパフォーマンスは私の予想をはるかに上回っていました。タフな京都レース場の2400mをあのタイムで走破するとは脱帽です』
「ふふん、でしょでしょ?」
床に置いておいたバッグの中からタオルを取り出し、顔と汗のたまった鎖骨のあたりを拭きながら、シェリルは得意げに笑う。
「でもメロスの言う通り、京都大賞典走ってよかったわ。長めの距離走ったおかげで、スタミナ配分がよりきめ細かくできるようになった気がする」
「それはなによりです。【レースが結局ウマ娘を一番強くする】という古くからの格言は科学的には懐疑的ですが、走りの経験を積み、スキルを磨くといった意味ではやはりレースに出走する以上のトレーニングはありませんから」
無感情のはずのメロスの声が、シェリルには少し得意げに聞こえた。
「……で、毎日王冠はどうだったわけ?」
先ほどまでの口調とは打って変わり、平坦になったシェリルの声が一人きりの控室に響く。
『サイレンスレイナが勝ちました。しかも1.42.8という、芝1800m世界レコードを叩き出しての圧倒的な逃げ切り勝ちです。レースを再生しますか?』
「……いや、いい」
AIからルームメイトの結果を聞いたシェリルは、少々乱暴に冷蔵庫を開け、あらかじめ冷やしておいたスポートドリンクを手にとるとバンッ! とかなり大きな音を立てて扉を閉じた。
パキッと音を鳴らして蓋を開け、500ml入っているそれを一気に喉の奥へ流し込む。
それでもレース後の体の熱と燃え盛る闘志は、まったく冷める様子はない。
サイレンスレイナ。
究極の中距離血統に生まれたあのウマ娘に出会ったその日から、予感はあった。
そして今日の毎日王冠の勝利を聞いて、シェリルの直感は確信へと変わる。
サイレンスレイナは自分の夢を阻む最大の壁であり……キーパーソンであったのだ。
今のサイレンスレイナを捕まえることができれば、世界レコードは勝手についてくる……!
「やってやる。最高の舞台で、夢を叶えるのは、あたしだ」
AIはなにも答えない。
シェリルは手の中にあったペットボトルをいとも簡単にくしゃりと握りつぶすと、備え付けのゴミ箱へ投げ入れた。
*
目の前の食事をきれいにいただいた私は、目をそっと薄く閉じ、静かに手を合わせる。
「トレーナーさん。ごちそうさまでした」
「いやいや。それにしても、よく食べたね。気持ちいい食べっぷりだった」
口元についたソースをナフキンで拭いている私を見ながら、トレーナーさんは楽しそうに笑う。
「レース前はかなり節制していたから……。そのせいで、お腹が空いていたのよ」
300gの肉のかたまりに太いニンジンが突き刺さったニンジンハンバーグと、300gのご飯をぺろりと食べてしまった私は、ほんのり熱くなった頬を隠すように少しうつむく。
「うん、食欲があるのはいいことだ。オグリキャップやメジロラモーヌといった名ウマ娘たちも、食欲がとても旺盛だったからね」
「えっ、あのメジロラモーヌさんが?」
意外なことを聞いたせいで、まぶたの周りが少し突っ張ってしまう。
オグリキャップさんの健啖家っぷりは有名だけど、あんな細身の美女が大食漢だったなんてちょっと信じられない。
「ああ。昔一度、彼女を担当していたトレーナーと飲む機会があってね。その時聞いた話だけど、メジロラモーヌは秋華賞のあとに叙々苑でカルビとロース、タンを5人前ずつ、それにご飯600gを平然とお腹の中に納めたらしい。ここだけの話にしておいてくれよ、なんて彼は言っていたけど人の口に扉は立てられぬ、って昔からいうからね」
わりととんでもない暴露話を披露して、彼はカラカラと笑う。
食事の量なんて人と比べるものじゃないだろうけど、それを聞くと私なんてまだまだだな、なんて思ってしまう。
天皇賞に向けてスタミナをつけるためにも、もっと食べたほうがいいのかしら……なんて考えていると、バッグの中のスマホから通知音が聞こえてきた。
「あっ、ごめんなさい。もう大丈夫かと思ってマナーモードにするのを忘れていたわ」
私は慌ててバッグを手に取り、中からスマホを取り出す。
ありがたいことにレース直後からここにやってくるまでの移動中、私のスマホは重賞制覇のお祝いを伝えてくれるメッセージの通知音が鳴りっぱなしだった。
だけどそれもお店に到着する頃には落ち着いていたので、そのままにしておいたのがよくなかった。
「いいよいいよ。そうだ。それだけ食べてすぐ動くのも体に良くないし、今のうちにお祝いメッセージへの返事をしておくといいんじゃないか?」
「そうね……そうさせてもらおうかしら」
久しぶりにお腹いっぱいに食べたのだ。
今急に動くと、横腹が驚いて痛くなってしまうかもしれない。
私は彼の言葉に甘え、スマホの電源を入れる。
目に飛び込んできた文章は、今まで届いた祝辞とまったく雰囲気の異なるものだった。
その短文がロック画面に表示された瞬間、顔全体が沸騰し、背中と脇から嫌な汗が滲み出る。
シェリル【レイナと顔合わせたくないから、あたし今日からしばらく寮の部屋に戻らない】
……文章の意味は、理解できる。
でも、その意図が、シェリルの気持ちが、まったく理解できない。
友だちから届いたLANEの全文を読もうとして、画面を何度もタップする。
でもひどい手汗のせいか、スマホがうまく反応しない。
私は手汗を紙ナフキンで拭きながら、送信されてきた短い文の真意を理解しようと、何度も、何度も、目で追っていた。