*
「トレーナーさん、ごめんなさい! ちょっと電話してくる!」
私はトレーナーさんを捨て置き、汗まみれの手でスマホを思い切り握りしめてお店の外に飛び出した。
吹きつけてきた秋風が、ずいぶんと冷たい。
ロックを指紋で外し、指をスワイプさせ、シェリルの電話番号を呼び出す。
震える指で通話をタップし、スマホをギュッと頬に押し当てる。
長い呼び出し音のあと、待ち焦がれた声が、ようやく聞こえてきた。
「もしもし」
そう思ったのもつかの間。
鼓膜へ静かに流れ込んできた声は、聞いたことのないような、ひどく無感情なものだった。
最初ぜんぜん違う人が電話に出たのか、とも思ったけど、私がシェリルの声を聞き間違えるはずもない。
「シェリル! あのLANEどうしたの? 私、なにかシェリルの気に障ることした?」
「……」
私の質問に、電話の向こうの友だちはなにも答えない。
でも電話を切らないことだけに淡い期待を寄せて、私はじっと彼女の声を待つ。
心臓の音が、うるさい。
額から出る冷や汗が目に入って、ひどくしみる。
それでも私は固くスマホを握りしめ、ただ、友だちの言葉を待ち続ける。
「……あたしさ。レイナのこと好きなんよ」
「えっ?」
シェリルの意外な言葉に、私は間抜けな声を出してしまう。
「あたしたちさ、もう1年以上一緒の部屋で生活してるじゃん? そりゃつまんないケンカもたまにはしたけど、ダブルデート行ったり、しんどい時はお互い励まし合ったりしてきたじゃん」
「……そうね」
淡々と語る彼女の声を聞いて、二人で過ごした日々の思い出が、まるで走マ灯のように脳裏を駆け巡る。
縁起でもない、と自分の思考を叱りつけたが、思い出すのはシェリルの太陽のような明るい笑顔ばかりだ。
「自分で言うのもなんだけど、あたし結構友だち多い方っしょ? それでもレイナと遊んだり部屋でダベったりしているときが、一番楽しかったんだよね」
「……」
シェリルの一言一言が、激しく胸を揺さぶる。
喉の奥から、熱いものが込み上げてくる。
私もそうだったわ、という一言が、どうしても返せない。
少し強い夜風が吹いて、スカートの裾をわずかに揺らした。
私は肌寒さのせいにして、スンスン、と何度かハナをすする。
「でもさ。レイナの次走……ラストランは当然天皇賞っしょ?」
「……ええ」
ラストラン。
その言葉に、耳が思い切り後ろに引き絞られる。
しっぽが、勝手に脚に絡みつく。
「……あたし、そんなレースの朝まで親友と一緒の部屋で生活してて、いきなり『今まで仲良くしてたけど、今日だけは本気でぶつかるから!』って言って本当に全力でぶつかれるほど、器用じゃない」
彼女は鋭く息を吐くと、さらに続けた。
「だから天皇賞が終わるまで、あたしはあの部屋に帰らない。もし校舎とかトレーニング中にあたしを見かけても話しかけてこないで。それでレイナが勝手なヤツだ、って怒って縁切られても仕方ないと思ってる。……レイナにも夢があるように、あたしにも譲れないものがある」
「シェリル」
「もういいっしょ。天皇賞が終わるまで連絡してこないで。それからのことは、レースが終わってから話し合おうよ。……レイナさえ良ければさ」
じゃ、切るね。といって、シェリルは一方的に電話を切った。
頬からスマホを離して目を落とすと、通話終了という無感動な文字が、液晶画面に浮かび上がっている。
私はそれを手にしたまま、脚の向くまま歩き出した。
少しずつ、思い出の店が遠ざかる。
首から上はひどく火照っているのに、背中はどんどん冷えてゆく。
せっかく食事につれてきてくれたトレーナーさんには申し訳ないと思ったが、今はどうしても彼のもとへ戻る気になれなかった。
*
どのくらい歩いただろうか。
手の中のスマホがブルブルと震えたかと思うと、気の抜けるような明るい通知音が私の耳朶を打った。
通知画面には、トレーナーさんの文字。
夜の暗がりのせいか、着信を知らせる画面の光がやけに目に染みた。
今は誰とも話したくない気分だったけど……トレーナーさんからの連絡を、無視するわけにもいかない。
私は短くため息をつき、通話の表示をタップしてスマホをまた頬に押し当てる。
「……もしもし」
「ああ、レイナ。よかった、出てくれたか。店を出てからもう結構時間経ってるから、心配してたんだよ」
トレーナーさんのほっとしたような声が、頬骨を伝って鼓膜を震わせる。
こういう時、骨伝導式の通話はありがたかった。
周りの人に会話を聞かれて、変に思われる心配がないから。
「……ごめんなさい」
蚊のなくような声で、私はトレーナーさんに謝罪する。
せっかく、私が食べたいと言ったお店に連れてきてもらったのに……。
「いや、無事ならいいんだ。今どこにいるんだい?」
「今……」
いつの間にかうつむいていた頭を上げ、私はあたりを見回す。
確かこのあたりにはよく両親が連れてきてくれた、けっこう広い公園があったはず。
でもトレーナーさんがそんなことを知ってるわけもない。
「そんなに遠くへは来てないわ。お店から4・500m先ってところじゃないかしら」
「そうか。そろそろ門限の時間が近い。戻ってこれそうか?」
「……」
店を飛び出した理由も聞かず、あくまでトレーナーとして接してくれる彼に、私はすぐに答えられなかった。
「トレーナーさん」
「どうした?」
「……さっきまでシェリルと電話しててね」
「ふむ」
「……私と顔合わせたくないから、今日からしばらく寮の部屋には戻らない、だって」
いきなり門限と何の関係もない話し始めた私に、彼は一瞬押し黙る。
「……そんなことを言われたのか」
それでもトレーナーさんは、真摯な口調で返事をくれた。
……トレーナーさんに、こんなこと話しても仕方ない。
わかっていても、勝手に口が言葉を吐く。
「うん。私のことが嫌いになった、とかじゃなくて、天皇賞の日まで一緒の部屋で仲良く生活してて、レースだけ本気でぶつかっていくことなんてできない、ってあの娘は言ってたわ」
「そうか」
「ねぇ、トレーナーさん。トゥインクルを走るウマ娘の友情って、こういうものなの? レースに勝つためには、どんなに仲のいい友達でも距離を置かなきゃいけないものなの? ……レースって、友だちより大切なものなの?」
私の八つ当たりみたいな質問に、彼は何も答えない。
いや、答えは分かりきっている。
私だってトレセン学園に所属し、レースに青春を捧げ、一応重賞を勝ったウマ娘だ。
感情に流されたウマ娘がレースに敗れ、夢破れて去っていくのを私は何度も見てきた。
きっと私は、甘いことを言っている。
それでも、私は……。
「レイナ」
「……なに?」
「シェリルジョーダンはすでにGⅠを4勝もしている、歴史的な中距離ウマ娘だ」
「えっ? ……あぁ、そうね……」
思わず間の抜けた声で相槌を打ってしまったけど、トレーナーさんの言葉の意図がわからない。
彼はなぜ今さら、そんな分かりきったことを言うのだろう。
「そのシェリルジョーダンが君に全能力をぶつけるために、親友である君との距離を置いたんだ。君をただの友達ってだけじゃなく、手強いライバルとして認めたんだ。レースを戦うウマ娘として、ライバルとして、これ以上誠実な友情の示し方が他にあるだろうか?」
「……」
トレーナーさんに指摘され、私は息を飲み込む。
「それは……その通りなのかもしれないわ。けど……」
「けど、やっぱりさみしいかい?」
トレーナーさんの問いかけに私はスマホを握りしめたまま、黙ってアスファルトの地面をみつめる。
その沈黙が、返事のようなものだった。
「その気持ちは当たり前のものだよ。でも状況が変われば、君が変われば、周りの人も変わる。シェリルジョーダンだって、君のことが嫌いになったわけじゃない。彼女は自分のライバルになった君との新しい関係を模索し始めたんだと思う」
「……」
自分を取り巻く環境は、望む望まないにかかわらず刻一刻と変わっていく。
そんなことはお母さんが亡くなった時に、嫌というほど思い知らされた。
そして私は、その現実を素直に受け入れられるほど、強くないってことも。
スマホを握っている右腕が、少し重い。
ただ私のように弱い人間でも……できること、すべきこと、しなければならないことがある。
「トレーナーさん」
「うん?」
「もう少ししたら、そっちに戻るわ。……明日も朝早くから、トレーニングしなきゃ」
「そうだな」
短くて静かな返事が、電話口から返ってくる。
「じゃあタクシー呼んで店の前で待ってるよ。慌てて戻ってこようとして、ケガなんてしないようにね。じゃあ、切るよ」
トレーナーさんはそれだけ言うと、通話を終了した。
ふと夜空を見上げると、ぽつんと明るく光る星が目に入ってくる。
南に輝く秋空唯一の一等星、フォーマルハウトだ。
レースの名前にあの孤独な恒星がつけられていたなんて、自分が出走するまで知らなかった。
フォーマルハウトを眺めていると……なぜだか昔両親に連れて行ってもらった公園の方へ寄ってみたいという衝動が、胸の奥からせり上がってくる。
でも私は頭を振ってそれを払いのけた。
のろのろとウマ娘専用レーンに脚を移し、歩道より少し柔らかい地面をつま先でトントンと叩く。
ふぅ……とゆっくり吐き出した息は、いつもより湿っぽい。
呼吸を整えて脚元の具合を確かめた私は、ゆっくりとしたキャンターで彼のもとへ戻ることにした。
***
「……難しいよな、ウマ娘同士の友情ってやつは」
レイナとの通話を終えた彼は、一人ごちてスマホをカバンの中にしまい込んだ。
彼は長いトレーナー生活の中で、昨日まで姉妹のように仲の良かったウマ娘たちが、一つのレース結果で険悪になるのを数限りなく目撃してきた。
レイナとシェリルには、いい距離感を見つけてこれからもいい友人でいてほしい。
一人の大人として、彼はそう思わずにいられなかった。
だがレースを走るウマ娘たち……特に力が近い者同士の友情には、勝負との両立が難しい時期が訪れることも彼はよく知っている。
完全に解消することは不可能だとしても、その相反する想いを担当と共有し、トレーニングやレースの内容に影響が出ないように軽減してやるのもトレーナーの大切な役割だった。
「レイナの中で、うまく折り合いをつけられればいいんだけどな」
そうつぶやいてみたものの、しかし彼はそれほど心配していなかった。
脚元の弱さからくる、10戦しか走れないという枷。
2勝の壁。
そしてサイレンススズカの娘であるというプレッシャー。
それらのせいで、悩み、傷つき、眠れない夜を過ごしたこともあっただろう。
しかしレイナは決して折れることなく、いくつもの困難をすべて乗り越えてきた。
そんなレイナが次走の天皇賞で、定められた運命に決着をつけようとしている。
トレーナーである自分は、最後まで担当ウマ娘を全力でサポートするだけだ。
「行くか」
サイレンスレイナというウマ娘は、彼女自身が思っているよりずっと強い。
レイナは、きっと大丈夫だ。
彼はパンッと自分の太ももを軽く叩くと、タクシーを呼ぶために立ち上がった。
*
お店の前に戻り、トレーナーさんが呼んでくれていたタクシーに乗り込んで交わした会話は、
「ハンバーグどうだった?」
「美味しかったわ。また今度、連れて行ってね」
とか、明日のトレーニングの軽い打ち合わせとか、言ってしまえばただの雑談ばかりだった。
シェリルとのこと。
ラストランになる天皇賞のこと。
そういった重要なことは、二人ともあえて今切り出そうとはしなかった。
「あれ? 学園の正門前にたくさん人がいますね。なにかあったのかな……」
もうすぐ学園に着くわね、なんてトレーナーさんに話しかけていると、運転手さんが首をかしげながら小声でそんなことを言う。
私も少し首を傾けてフロントガラスから外を覗くと、運転手さんの言う通り、暗がりの正門前に十人以上の人たちがたむろしている様子が見えた。
「運転手さん! ここで止めてくれ!」
いきなりのトレーナーさんからの指示に、運転手さんは慌てて急ブレーキを踏んだようだ。
重力が体を前方へ投げ出そうとしたせいで、危うく前の座席に鼻をぶつけそうになる。
音を立てて停車したタクシーに気づいたのか、正門前にいた大勢の人たちがこちらへ振り向いたかと思うと、車へ向かって一斉に駆け出してきた。
その中には見知った顔の人が、何人もいる。
……嫌な予感がした。
「運転手さん。すまないが俺が車から出ても、少しの間だけこの娘をここに置いてやってくれないか?」
低い声でトレーナーさんはそう告げて、一万円札を運転手さんに手渡す。
不穏な空気を感じ取ったのはトレーナーさんも同じだったらしい。
支払いはアプリで済んでいるはずだから、そのお金はこれから起こることへの迷惑料のつもりなのだろう。
すでに車は、スマホやボイスレコーダーを手にしたマスコミたちに囲まれつつある。
それでも運転手さんはそのことについて何も言わず、丁寧に一万円札を受け取った。
「分かりました。……扉、開けますよ?」
ルームミラーでトレーナーさんが頷いたのを確認してから、運転手さんは左側の扉を自動で開ける。
むわっとした暑苦しい人いきれが、車の中に流れ込んできた。
それと同時に一人の記者が持っていたスマホを車内へ突き出し、大きな声を張り上げた。
「サイレンスレイナさん! 次走の秋天がラストランになるという話を耳にしたのですが、本当ですか!?」
「……」
その質問にちょっと驚きはしたものの……頭のどこかが、『やっぱりね』と冷めた口調でつぶやいている。
どこで、そのことを知ったのか。
一体誰に聞いたのか。
どちらを先に聞くべきか迷っているうちに、トレーナーさんが車の外に出てゆく。
後部座席のドアがバタン、と音を立てて、外界と私を遮断した。