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「トレーナーさん! ウエストスポーツさんの記者から聞いたのですが、サイレンスレイナさんが次の天皇賞を最後に引退するという話は本当なのでしょうか!?」
閉め切っているはずの車内に、興奮した記者の質問が聞こえてくる。
こんな時、ウマ娘の良すぎる耳は少し厄介だ。
聞きたくない話まで、勝手に耳に入ってきてしまう。
「……その話は、本当です」
落ち着いた声で、トレーナーさんが答えた。
トレーナーさんは今どんな顔をしているのだろう。
私を守るように、車に背を向けている彼の表情は分からない。
トレーナーさんの返答に、記者たちのざわめきが大きくなる。
「それはどうしてなのでしょうか!?」
「何か、持病を隠しておられたとか!?」
「まさかとは思いますが、ケガを押しての強行出走なんてことはありませんよね!?」
マスコミたちはもう質問ですらない、自分たちの妄想をトレーナーさんに浴びせ続ける。
彼らの勝手な言い分を聞いているうちに、無意識に後ろへ引き絞られていた耳を私は浅い呼吸と共に元の位置へ戻した。
トレーナーさんはマスコミたちの質問に答えることはせず、記者たちの質問が少し落ち着くのを待っているようだった。
「……実はレイナは生まれつき脚元が弱く、デビュー前からトゥインクルシリーズで走れるのは10戦まで、という制約がありました。この出走数はトレーナーの私が勝手に見立てたものではなく、ウマ娘外科の先生に診察していただいたうえで決めたものです。その10戦目が次に出走予定の天皇賞、という話です」
彼は隠し事をせず、取材陣にすべてを話した。
それが正しいことなのか、私にはわからなかった。
「トレーナーさん。サイレンスレイナさんは、デビュー前から大変注目されていたウマ娘なんですよ? あなたがそのことを知らないわけないですよね? なぜ注目度の高いウマ娘のそんな大切なことを、今まで公表しなかったのですか!?」
するとそれを聞いた一人の記者から、厳しい口調の詰問が飛ぶ。
「……っ!」
その声にカッと頭に血がのぼる。
耳がまた、後ろへギューッと、引き絞られる。
あなた達が質問したから、トレーナーさんは誠実にそれに答えただけだ。
トレーナーさんは、何も責められるようなことをしていない!
怒りに任せて車の外に飛び出してその記者を怒鳴りつけてやりたかったけど、それをしてしまえばトレーナーさんの気遣いや我慢が全部無駄になってしまう。
私は拳を握りしめ、手のひらに爪を立てて痛みを感じることで、なんとかその衝動を自重した。
「……レイナのレース生活において、公表するメリットがなかったからです。現にあなたたちはレイナのラストランを知って、こうして大騒ぎしている。もしあなたたちがレイナの競走寿命の終わりを知っていたら、あなたたちはレイナの記事に……レイナがもがき苦しんでいたプレオープンの時期に、一体どんなことを書いていましたか?」
トレーナーさんの静かな逆質問に、まともに答えられる記者はいないようだった。
十人以上の大人が集まっている空間が、静寂に落ちる。
その瞬間、トレーナーさんがマスコミたちに向かって90度近く腰を折り曲げた。
「みなさん、お願いします。天皇賞が終わるまで……レイナがラストランを走り終えるまで、どうか彼女を静かに見守ってやってください。レイナは天皇賞を走るためにトレセン学園に入学し、努力を続け、苦しい時期を乗り越えてきました。そうやって最後の最後に、ようやく夢の舞台に間に合ったんです。レイナには悔いを残すことなく、最善の状態で最後のレースに挑んでほしい。どうか、お願いします」
頭を下げたまま懇願する彼に、再びマスコミたちがざわめく。
「トレーナーさんのその気持ちは分かります。しかし我々レース記者には大レースに出走する有力ウマ娘を取材する、という使命がある。毎日王冠をレコード勝ちしたサイレンスレイナさんには、天皇賞でも特に大きな注目が集まっています。しかも……」
一人の記者が自分たちの立場をそう主張し、一旦息を呑みこんだ。
彼は一体、何を続けようとしているのか。
耳が勝手に、外側を向く。
「しかも秋の天皇賞と言えば、サイレンスレイナさんのお母様……サイレンススズカさんが圧倒的な一番人気で出走し、競走生命を失った因縁のレースでもある。いわば娘であるサイレンスレイナさんが、母の夢の続きを再演しようとしているわけだ」
「……ぁ……」
男性記者のその言葉に、耳の付け根がこわばった。
爪が食い込んだ手のひらからの汗が、止まらない。
今まで意識していなかった心臓の音が、鼓膜の奥でうるさいぐらいに響く。
……分かっていた。
天皇賞に挑む以上、周りにそういった目で見られてしまうこと。
その覚悟は決めていたつもりだったけど……大きく気持ちがぐらついてしまうことを、抑えることはできなかった。
「レースファンは……いや、サイレンススズカというウマ娘を知っている人はみんな、多かれ少なかれそのことを意識して秋の天皇賞に注目しますよ。それに、我々だってサイレンスレイナさんの邪魔をするために取材をするわけじゃない。ルールやマナーはもちろん遵守します」
そこまで聞いて、彼はようやく頭を上げる。
彼のたくましい首周りが、肩が、ブルブルとわずかに震えているように、私には見えた。
「私たちの取材がウマ娘さんにとって、レースに対する多少のプレッシャーになっていることは理解しています。しかしそれを理由にサイレンスレイナさんへの取材をすべて拒否する、というのはファンに対して、レース界全体に対して、あまりに不誠実なのではありませんか?」
男性記者の言い分に、そうだそうだ、取材拒否はあまりに一方的だ、といった追随の声がマスコミ陣から上がる。
記者さんたちには、記者さんたちの正義がある。
……彼らの言いたいことは分からないこともなかったし、私も多少は彼らからの質疑応答に応えたい、という気持ちは持っている。
でも今は少しだけ、静かに見守っていてほしい。
それが私の本音だった。
トレーナーさんはある程度反論を予測していたのか、彼らの言い分に何度か小さくうなずくと、落ち着いた声で話し始めた。
「皆さんのおっしゃりたいことは、十分に分かりました。ですので……レイナのタイムや体調につきましては天皇賞の最終追い切りの日まで、これから毎日僕のウマッターアカウントにアップします。あとこれは彼女の許可が取れたらですが……写真やコメントも、できるかぎり掲載するようにします。それらをどう分析するかは、プロの皆さんの自由にされるといい」
トレーナーさんからの提案に、取材陣からは困惑の声が上がる。
「それはそれでありがたいことですけど……。我々に一度もサイレンスレイナさんの生の声を取材する機会を与えない、というのはいただけませんね。GⅠでも注目されるような有力ウマ娘やそのトレーナーさんたちはみんな、我々の取材に喜んで協力してくださっていますよ?」
「今のレース界の盛り上がりが、あなた達の熱意ある取材があってこそ、というのはよく理解しています」
……トレーナーさんの声に、静かな怒りがまじり始めた。
そのことに、マスコミたちは気づいているだろうか。
「ですが担当を守る立場にあるトレーナーとして、これ以上は譲歩できない。もしあなたたちとレイナを直接会わせる場を設ければ、あなたたちは絶対にレイナの心を抉るような質疑応答をぶつけてくる」
「それはトレーナーさんの取り越し苦労というか、うがち過ぎというか……我々のことを信用しなさすぎですよ」
「……あんたらのことなんて信用できるか! あんたらが今まで散々、俺との約束と信頼を裏切って来たんだろうが!」
突然、夜の帳を震わせる怒声がトレセン学園の正門前に響き渡った。
あまりの迫力に車の中にいた私も、思わずビクリ、とおののいてしまう。
「レイナがデビューする前、俺は何度も頭を下げて直接取材は控えてくれるよう、あんたらにお願いした。でもあんたらはそれを無視して、学園に無断侵入してレイナに取材した。レイナが脚部不安を発症した時も世話になってる病院の迷惑なんか顧みず、建物を取り囲んでレイナを待ち構えた。今日だって情報の裏取りもしないで学園の許可も得ず、こうして学園の前で大の大人が雁首揃えて女の子ひとり待ち伏せにしていたんだろうが、あぁ!?」
「え、いや、それは……」
トレーナーさんの殺気立った怒鳴り声に、マスコミ陣もタジタジのようだ。
車のガラス窓からそっと様子をうかがうと、彼らはみんな後ずさって、怒り狂うトレーナーさんから少しずつ距離を取ろうとしている。
「選べ。SNSでの公開情報を素直に受け取って記事にするか、鉄のカーテンの向こう側でレイナのトレーニングを妄想するだけにするのか。今すぐ選べ!」
腕を振りかざして決断を迫るトレーナーさんに、面と向かって反論するものはいない。
しばらくは不服そうな声も上がっていたが、マスコミたちを代表するような形で一人の年配の男性がトレーナーさんの前に立った。
「分かりましたよ。今日のところはあなたの提案を受け入れて、これで失礼したいと思います。ただ一度でいいので、サイレンスレイナさんの生の声を聞かせてもらう機会を作っていただくことだけは、考えてもらいたいところですな」
そう言うとベテラン風の記者は、軽く会釈してトレーナーさんに背を向ける。
その背に続くように、マスコミたちも今日のところは引き下がることにしたようだ。
彼らが全員闇の中に消えていったのを確認して、トレーナーさんはようやくこちらを振り向き、コンコンコン、と後部座席の窓を叩いた。
もう車から出てきても大丈夫、合図だろう。
「運転手さん、扉を開けてもらえますか?」
私のお願いに運転手さんは小さくうなずくと、すぐに後部座席のドアを開けてくれる。
車から降りると、タクシーは扉を閉めて静かに発車し、夜の中へと消えていった。
まったく関係のないことに巻き込んで仕事の邪魔をしてしまい、あの運転手さんには本当に悪いことをしてしまった。
車の外に出ると、大人たちが激しくやり合ったあとの粘っこい熱が、まだ残っているような気がした。
「トレーナーさん」
「いや、あいつらにはまいったね。ホント、ハエのようにうるさいヤツらだよ」
冗談めかしてそういう彼の表情は、まだ少しこわばっている。
「ハエ呼ばわりは言い過ぎな気がするけど……」
「ふん。ハエのほうが季節を選んで出てくる分、まだ上等だよ、まったく」
普段温厚なトレーナーさんにここまで言わせるほど、今日のマスコミのやり方は彼の逆鱗に触れたらしい。
まぁ正直、今の私も同じような気持ちだったけど。
「そんなことよりレイナ、少し顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「……そう? 自覚症状は特にないのだけど」
私は意識的に笑みを浮かべて、そっと頬に手を当てた。
トレーナーさんとマスコミとのやり取りを聞き、お母さんのことを思い出して……少しだけナーバスになっていたのかもしれない。
「そうか、それならいいんだが……。しかしあの連中は本当に厄介だ。これからは少し、見回りの警備員さんを増やしてもらったほうがいいかもしれないな。たづなさんに相談してみるか」
「私一人のために、そんなことお願いできないでしょう」
私がそういうと、彼は厳しい表情で首を横に振る。
「君のためだけじゃない。マスコミの過熱報道のせいで他のウマ娘たちのトレーニングに支障が出ても困るしな」
「それは……確かにそうね」
「マスコミ対策は、俺と学園の方でしっかり考えておくよ。じゃあ行こうか。寮の入り口まで送るよ」
「ええ、ありがとう」
そうして私たちは、しばらく黙って中庭を横切るように歩いていたのだけれども。
「それにしても……一体いつ、私の出走制限のことがマスコミに知られてしまったのかしら……」
口をついた疑問に、彼は腕を組んで考える。
「……たぶん、ウイニングライブのあと控室に戻ってきたときだろうな」
「あっ」
彼の指摘に、息が止まる。
思い出した。
あの時私は少し気が緩んでいて、『次が最後のレースになるのね』なんていらないことを口走ってしまっていた。
でも。
「ライブの後の控室周辺に記者さんがいるのって、今まで一度も見たことなかったのに……」
「理由は分からないけど、たまたまそこに居合わせていたんだろう。マスコミの連中、ソースはウエストスポーツの記者とか言ってたな。ひょっとしたら、特ダネ狙って初めて重賞を勝った君のあとをこっそりつけてきたのかもしれない。……そこまで、あの連中を疑いたくはないけどね」
彼はそう言うと、呆れたようにため息を盛大について肩をすくめた。
もうあと1、2分も歩けば栗東寮の前だ。
「ま、取材については心配しなくていい。あれだけ言い聞かせてまだ突撃取材してくるような記者がいたら、君の父親みたいにそいつをどこかへ投げ飛ばしてやる」
「えっ。お父さんとマスコミに何かあったの?」
語尾を上げて私が聞くと、彼は少し悪い笑みを浮かべた。
「ああ、そういやあれも天皇賞の前だったな。その時もやっぱり、スズカに無理な取材をしようとした輩がいたんだよ。で、あいつマジでブチギレてな。無言でその記者に胸ぐらをつかむと、古武術二段の腕前でどこか遠くにそいつを放り投げちまった」
「お父さんって、武道やってたのね。知らなかったわ」
そんなこと、当の父からもお母さんからも聞いたことがない。
……なにかもやもやしたものが、お腹の奥に居座り始める。
「ああ、どうやら大学時代から始めたみたいでな。『どんなことがあっても担当を守れるトレーナーにならなくては』とか言って、忙しい講義やバイトの時間を縫って大学の古武術部に顔を出してたよ」
「ふぅん」
せっかくトレーナーさんが父の武勇伝を話してくれたのに、それをまったく面白く思えなかったのは一体なぜなのだろう。
「俺は君のお父さんほどうまくは投げ飛ばせないかもしれないが、それでも余計なことを聞いてくる記者から君を守ることぐらいのことはできる。明日からも安心してトレーニング場に来てくれ」
「ん……そうね」
懐の深い笑みを浮かべてくれたトレーナーさんに、私は曖昧にうなずく。
そうしているうちに、寮のエントランス前に到着した。
「……今日は色々ありがとう。ごちそうさまでした、おやすみなさい」
「ああ。今日は本当に、重賞制覇おめでとう」
「うん、ありがとう」
改めてお祝いを言ってくれるトレーナーさんに、私は微笑みを返すことができた。
じゃ、おやすみ。とトレーナーさんは軽く手を上げて就寝の挨拶を済ませると、踵を返してトレーナー室の方へ向かっていく。
今からまだ、レース後の書類処理が残っているのだろう。
普段の担当の世話に、事務仕事。
それに今日のようなトラブルの対処。
トレーナーって仕事も大変なのね……。
「私も、がんばらないと」
彼の背中を見送りながら、私はパシッと両手で軽く頬を叩いて気合を入れた。
***
レイナを送り届けてトレーナー室にやってきた彼は、すでに疲れ果てていた。
疲れた顔を担当の前で出さなかったのは、トレーナーとしての矜持と大人の意地だった。
とりあえず部屋の明かりをつけ、いつものガタつくパイプ椅子を引っ張り出してきて腰を掛ける。
主な疲労の原因は、さっきのマスコミとの折衝だ。
事実が知られてしまった以上、変に隠し立てしないほうが混乱が少ないだろう。
彼はそう考えてマスコミたちにあえて今まで伏せていた真実を話したのだが、それが正しい対応だったのかは分からない。
連中の突撃取材のせいで余計な精神力を浪費させられ、担当が重賞を勝ってくれた喜びなどレース場の彼方に吹き飛んでいってしまった。
「ったく、あの連中は……」
その独り言に、うっすらと怒気がこもる。
マスコミ関係の皆が皆、ああいった非常識な輩ではない。
ウマ娘のことを取材して報道してくれる記者たちがいるからこそ、レースは盛り上がる。
そんなことは彼自身よく分かっていたが、昔からどうしてもあの連中のことが好きになれなかった。
「くそっ」
もう家に帰ってビールでも飲みながら、エアグルーヴに今日のことを愚痴りたい。
その誘惑は強烈だったが、しかしまだ彼には仕事が残っている。
明日以降のことを考えるとレース後にURAへ提出しなければならない書類はどうしても今夜中に片付けておきたかったし、天皇賞に向けてのトレーニングメニューの骨組みぐらいは考えておきたかった。
特に前者は愉快な仕事ではなかったが、必要なものは仕方ない。
はぁ、とやる気なさげにため息をひとつつくと、彼は緩慢な動きでノートPCの電源を入れた。
【レース後の書類】と書かれたファイルを開いて印刷のタブをクリックし、トレーナー室の片隅にある古いプリンターからそれをプリントアウトする。
ジーッ……シャッシャッ、シャッ……と、まるで産業革命時代の機織り機のようなリズムで印刷される音は、新米トレーナーの頃からまるで変わっていない。
数十秒後。
プリンタはガチャッという排紙音を立てて、『印刷終わったぞ。取りに来い』と知らせてくれる。
長年の相棒が無愛想にそう言うたび、彼はいつも心のなかで思う。
いつまで情報伝達を紙に頼っているのか。
こういう雑務こそ、AIにやらせるべきではないのか。
が、一度もそのことをURAに具申したことはない。
彼も不惑の年を超え、組織の中でわざわざ荒波を立てていいことは何もない、ということをよく理解していた。
つまらない大人になったのと同時に、立派な大人にもなったのだ。
軋むパイプ椅子から立ち上がって記録紙ストッパーに溜まっている書類の束を手に取り、また机の前に戻ってくる。
が、どうしてもいつもやっているはずの事務仕事に手がつかない。
日付を書き込み、今日のレース名と担当ウマ娘の着順まで書き込んでみるが、それ以降の欄を埋めようという気がまったく起きなかった。
「……う~む……」
難しい顔をして唸ってみても、どうしてもペンが先に進まない。
こういうときは、仕方ない。
モチベーションの高まる仕事を先に済ませて、その勢いでやりたくない仕事を片付けてしまおう。
それは彼が長年のトレーナー人生で身につけた、仕事術のひとつだった。
彼はそう決めると書類の束を机の端へ追いやり、ノートPCを手前に手繰り寄せる。
そしてレイナのトレーニングメニューを考えるために、【サイレンスレイナ】と名付けられたファイルをダブルクリックした。
文書ファイルにはレイナがデビューしてからのトレーニングメニューとレース後の振り返り、それに体調のことや休息日まで事細かに記録されている。
ファイルを開いたとたん急速に小さくなってゆくスクロールバーが、彼女と過ごした濃密な時間を感じさせた。
思えば、レイナともずいぶん長い付き合いになった。
初めて出会った時はひょろりとして頼りなく思えた中学生のウマ娘が、今や立派なステークスウイナーだ。
彼はそんな感慨深い気持ちを抱きながらマウスに手を伸ばしたが、目に入ってきた最初の1ページ目の日付は、わずか1年半前のものだった。
「……なのにもう、あの娘はラストランを走るのか」
思わずもらした独り言に、わずかな寂寞が混じる。
通常、メイクデビューや未勝利戦を勝ち上がったウマ娘はよほどのことがない限り、シニア1年めの12月までは現役を続けるものだ。
シニア級にならないと挑戦できないレースもあるし、才能はともかくとして、ジュニア・クラシック・シニアと3年は走ってひと区切りしたいと考えるウマ娘も多い。
だがレイナは一度も勝たせてあげられなかった娘を除けば、彼にとって初めてクラシック級で引退させてしまうウマ娘になる。
健康上の理由で仕方ないとはいえ、ようやく才能が開花して全盛期を迎えたばかりだというのに、引退しなければならないレイナのことを考えると、どうにもいたたまれない。
そしてそれは、彼も同じだった。
もし。
もし来年もレイナが現役を続けることができたのなら。
春先に行われる2000mのGⅠ・大阪杯を勝利する可能性は十分にあったし、同じ時期にドバイで行われるドバイターフに挑戦するのも夢があっていい。
今のレイナなら世界の強豪たちを相手にしても、きっと互角以上に戦えるはずだ。
毎日王冠では同じ1800mで、凱旋門賞ウマ娘を相手に圧勝したのだから。
芝の1800mと2000mでしかまともに能力を発揮できないという、レイナの極端な距離適性には頭を悩ませるところだが、彼女の成長によっては2200mの宝塚記念にも挑戦なんて未来もあったかもしれない。
なんせレイナは、シニア級で覚醒したサイレンススズカの娘なのだ。
その宝塚記念でレイナは……。
「いや」
次から次へと脳裏を駆け巡る、ありえたかも知れない未来。
彼はその空想を何度か頭を振って無理やり止めた。
俺が今本気で考えるべきことは、どうすればレイナに最後のレースを万全の状態で戦わせてやれるか、じゃないのか。
彼は自分にそう言い聞かせ、頭の中でトレーニングメニューを組み立て始める。
だがあまりに輝かしいその未来予想図を完全に破り捨てることは、ベテラントレーナーの彼にとっても難しいことだった。