*
翌日。
サイレンスレイナ、次走の天皇賞がラストラン。
主にネット記事を介して、その話はあっという間に学園内へ広まった。
でもそのせいで私のまわりが騒がしくなったか、と言えばそんなことはなかった。
クラスの友人たちは『ネットでレイナのこと知ったよ。でも、脚の不調じゃ仕方ないよね……。ラストラン応援してるから!』と控えめに励ましてくれたし、私を見かけた他のトレーナーさんたちも『これからって時に本当に残念だな。天皇賞、がんばれよ』と言葉少なめに声をかけてくれた。
みんな私に気遣ってくれているのが分かったし……ウマ娘が脚の限界を迎えて引退するなんてことは、言ってしまえばトレセン学園では日常茶飯時だ。
レースに携わる者にとって、大騒ぎするほどのことじゃない。
そのことが今の私にとって、とてもありがたかった。
*
毎日王冠が終わって2日後。
私とトレーナーさんはラストランに向けてのトレーニングを打ち合わせるために、放課後のトレーナー室に集合していた。
いつものように私たちは長机に向かい合って、パイプ椅子に腰掛ける。
柔らかい西日が殺風景な部屋の中に差し込んできていて、秋の訪れを感じさせた。
「そうだ。トレーニングについて話し合う前にちょっと確認しておきたいんだが。レイナは勝負服、どうするつもりなんだ?」
「えっ?」
それは、唐突な質問だった。
「GⅠだと体操服にゼッケンじゃなくて、みんな勝負服を着てレースに臨むだろう? 入学前に勝負服を作っている娘も多いけど、レイナはどうするのかなって思ってね」
「ん、そうね……」
彼の疑問に、私は少し視線を伏せて黙考する。
「実はここに入学するって決まったとき、お父さんから『勝負服作っておかないか?』って言われたんだけど……」
「うん」
「少し考えさせて、って言ってそれっきりなのよ。……ほら、私プレオープン卒業するのに結構苦労したから、それどころじゃなかったってこともあるしね」
「そうか」
短く応え、彼は腕を組む。
「まぁ過去のことはともかくとしてだ。もし自前の勝負服を用意するつもりなら、そろそろ発注しておかないと間に合わないよ。デザイン決めて実物が出来上がるまで、超特急で仕上げてもらっても2週間はかかる」
「そうよね……」
天皇賞・秋まではおよそ3週間。
オリジナルの勝負服を仕立てて出走するつもりなら、この2、3日中には注文しておかなくてはいけない。
でも私は勝負服について、ここに入学する前からどうしても叶えたい想いがあった。
「あのね」
「うん」
「勝負服は……その。……お母さんのものを着て天皇賞に挑みたい、と思っているの」
私の一言に、彼は大きく目を見開いて息を呑み込んだ。
そして、なんとも言えない優しい笑みを浮かべてくれる。
「そうか。うん、天国のサイレンススズカもきっと喜んでくれるよ」
「……そうかしら」
穏やかにそう言ってくれたトレーナーさんに、私は薄く苦笑を浮かべるぐらいしかできなかった。
「とすると、あの勝負服とまったく同じものを作るのか? それとも、スズカの着ていたものを仕立て直すつもりなのかい?」
「できればお母さんが実際着てたものをリメイクしたい、とは思ってるけど……」
「それなら君のお父さんに相談してみるといい」
父のことが話題に出た瞬間、鼓動がとくんっ! と跳ね上がる。
「そう、よね……」
「うん。いつだったか、二人で飲みに行った時『スズカの勝負服は大切においてあるんだ』って言ってたから、きっといい状態で保管してくれているはずだ。そうだ。今ちょっと電話してみたらどうだい?」
「えっ、今? でもお父さんも仕事中だろうし……」
トレーナーさんの提案に私が少し躊躇すると、彼は手をひらひらと振って軽く笑った。
「なぁに。もし電話に出られないような状況なら、マナーモードか機内モードにしているだろうからそんなに気にすることもないだろう。レイナの着信を確認したら、またあとで掛け直してくれるよ」
それは、そうかもしれない。
同じ社会人のトレーナーさんが言うなら、きっとそうなんだろう。
それに……。
誰もいない寮の部屋で父に電話をかけるよりかは、今さっと掛けてしまう方が心理的ハードルがずいぶん下がるような気がした。
私はバッグからスマホを取り出し、最後に発信したのがもう数ヶ月前になっている父の電話番号をタップする。
忙しい父のことだ。
電話に出ることはまずないだろう……。
「もしもし」
プルルル……という発信音が数回続き、やっぱり忙しいわよね、とちょっと安心して電話を切ろうとしたら、急に父の声がした。
「えっ、あっ。お、お父さん?」
思わず、声がひっくり返ってしまう。
「なんだ。なんで電話を掛けてきたお前が驚くんだ?」
「いや、別に驚いてはいないけど」
どうにか取り繕ってみたものの、どう考えてもそれは成功したとは言えなかった。
「電話なんて珍しいな。どうしたんだ?」
父の声は取り立てて冷たいわけではなかったけど……あくまで家族から電話がかかってきた時の、普通の声だった。
……普段私から連絡することもないくせに、毎日王冠の優勝のお祝いの言葉が欲しかった、なんて思ってしまった自分のあさましさが、少し嫌になる。
「あ、あのね。今度私、GⅠに出ることになって」
私はなぜか、出走するレース名を父に告げることができなかった。
「そうなのか」
父の声のトーンは、なにも変わらない。
「それでね? あの、できれば、でいいんだけど……」
「ああ」
「お母さんが着てた勝負服、もし残っていたらリメイクしてそれで出走したいな、と思って……」
そういった瞬間、父は間違いなく、冷たいため息をついた。
「それは、ダメだ。スズカの勝負服は俺が大切に保管しているから」
「そ、そう……」
心臓が、早鐘のように波打っている。
脇の下から、背中からにじみ出る嫌な汗が、止まらない。
「……あのな、レイナ」
父はまるで、してはいけない悪戯をした子どもに言い聞かせるような口調で続けた。
「俺にとって、スズカとの思い出は特別なものなんだ」
「……うん……」
「たとえ娘のお前にも、そこに入ってきてほしくない」
私は、いったい、何を言われたのだろう。
「……ごめんなさい……」
何も理解できないまま、私は父へ反射的に返事し……頬に何か、熱いものが伝っているのを感じた。
それが自分の流している涙だということに気づくのに、私は数秒を要した。
「勝負服が必要なら新しく作ればいい。そうだな……ビューティー安心沢にデザインしてもらうか? 彼女のデザインならお前も気に入ったものができると思うぞ」
勝負服の世界的デザイナーの名前を出されても、私の心はまるで動かない。
『たとえ娘のお前にも、そこに入ってきてほしくない』
その言葉が、延々と、私の頭の中を反響している。
「そうね……少し、考えてみる……」
「そうか。なら決めたらまた連絡してくれ。ただ、電話での連絡は少し困る。俺になにかある時はLANEにするように。じゃあな」
そう言って父は、あっさり電話を切った。
「どうしたんだ、レイナ! 何かあいつに言われたのか!?」
スマホを握ったままの私の肩を両手で掴み、こちらが驚くほどの剣幕でトレーナーさんがまくし立てる。
彼の表情がぼやけてみえるのは、瞳に張った水膜のせいだろう。
「あのね……」
「うん、どうした?」
「……ううん、なんでもない」
無理やり愛想笑いを浮かべてごまかそうとする私の方を、彼は強く揺さぶった。
「そんな大粒の涙をこぼしておいて、何もないわけないだろう!? 頼りないかもしれないが、俺は君の担当トレーナーなんだ。担当しているウマ娘が涙しているのを、知らんふりしているわけにはいかない」
「…………」
どうしてだか、私は今さっき父から言われたことを、彼に伝える気になれない。
家族の問題に、彼を巻き込むことを、申し訳なく思うからだろうか。
「それに俺は、あいつの友だちなんだ。友だちが娘を泣かせるようなことを言ったのなら、それを咎めてやらないといけない」
父が、トレーナーさんに咎められるようなことを私に言ったのか、私には分からない。
だから私は、父から言われたことを、トレーナーさんにそのまま話すことにした。
「……お父さんにとって……お母さんとの思い出は特別なものだから……『たとえ娘のお前にも、そこに入ってきてほしくない』って……」
かすれた声は、彼にとって聞き苦しかったと思う。
「……! あの野郎、娘にそんなこと言いやがったのか……!!」
それでもトレーナーさんは内容を理解してくれたらしい。
私の肩から手を離すと、お尻のポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して乱暴に操作し始めた。
男の人は、ポケットにスマホ入れやすいから便利よね……。
そんなどうでもいいことを、ぼんやりと思う。
おそらく父に電話を掛けたのだろうが、どうやらつながったのは留守番電話らしい。
「おいこのクソ野郎! 5分以内に掛け直してこい! 掛け直してこなかったらお前の会社まで乗り込んでやるからな!!」
そう言って彼は、荒々しく通話を切る。
大人の男性が本気で怒っているところを、私は生まれて初めて間近で見た。
トレーナーさんはパイプ椅子を乱暴に引き寄せると、スマホを握りしめたまま尻を落とすようにしてそこへ腰を預けた。
がちゃん! という大きな音が、トレーナー室に響き渡る。
貧乏ゆすりしている音がことさらひどく聞こえるのは、もともと立て付けの良くない椅子のせいだろう。
私はとても座る気になれず、立ったまま木目の床板に目を向けた。
床がまだかすんで見えていることに気がついて……私は袖で目元を拭う。
気まずい沈黙が、トレーナー室を支配した。
トレーナーさんの通知音が鳴ったのは、彼がしびれを切らせて腰を浮かせた瞬間だった。
彼は自分のスマホを、まるで親の敵のようにものすごい力でタップする。
「忙しいのになんだ、じゃねぇ! お前、レイナになんてこと言ったんだ!」
掛け直してきたらしい父に、トレーナーさんはいきなり恐ろしい剣幕で怒鳴りつけた。
「は? 家庭のことに他人のお前が口出しするなだと? バカ野郎! レイナは他人なんかじゃない。レイナは俺の担当ウマ娘だ! 担当ウマ娘を泣かせるクソ野郎がいたら、怒鳴り込むのは当然だろうが!」
本気で怒りを父にぶつけているトレーナーさんに、ちらちらと視線を送る。
怒りに満ちているトレーナーさんの顔は、本当に怖かった。
なのにそんな彼を見ていると、私の胸の奥がほんの少しだけ熱を持つ。
「……俺もトレーナーだ。お前が唯一担当したスズカとの思い出を大切に思う気持ちは、痛いほど分かる。でもな、お前。さっきレイナに言ったこと、スズカの墓前で胸張って言えるのか?」
落ち着きを取り戻したトレーナーさんの声は、わずかに震えているように、私には聞こえた。
「……もう俺はこれ以上何も言わん。それでもお前が考えを変えないなら、それでもいい。こっちはこっちでやりたいようにやらせてもらう。じゃあもう切るぞ。忙しいとこすまなかったな」
トレーナーさんは最後に嫌味っぽくそういうと、電話を切って、ふぅ……と深い溜息をついた。
「すまん、レイナ。取り乱したところ見せてしまったな」
「……ううん。そんなこと、ないわ」
私が静かな声で伝えるとトレーナーさんは照れ笑いのようなものを浮かべ、そしてすぐにそれを真剣なものへと戻す。
「レイナ。今日のトレーニングは中止だ」
「えっ、どうして?」
予想もしていなかった指示に、私は首を傾げた。
「今から君の勝負服を作りに行くぞ」
「えっ? ……ええっ!?」
「俺の知り合いの勝負服デザイナーにお願いして、君に合わせたスズカのものと同じ勝負服を作ってもらう。お母さんが袖を通した勝負服で天皇賞に出たい、という君の想いはよくわかる。でも大切なのは勝負服そのものじゃない。お母さんと同じ勝負服を身につけて大舞台に臨みたいという、その気持ちだろう?」
「それは……そうだけど」
「それなら、なにも実物にこだわることはない。今から出かけよう。準備してくれ」
「ちょっと待って!」
スマホをお尻のポケットにねじ込んで部屋から出ていこうとするトレーナーさんを、私は慌てて引き止める。
「どうした?」
「あの、その。勝負服を作りに行くっていっても、お金はどうするつもりなの? あとでお父さんに請求するの?」
「バカ言うな。当然、俺のポケットマネーから出す」
「勝負服なんて安いものじゃないのに、そんなことまでしてもらえないわ」
いくら私が世間知らずだと言ってもオートクチュールで作られた勝負服が、それなりの値段になるものだということぐらいは知っている。
……それに、話の本質と私の本当の想いは、そこじゃない。
「だいたいそんな大金勝手に使ったら、いくらトレーナーさんのお小遣いの中から出してくれるって言っても……エアグルーヴさんに怒られない?」
経営者の父は昔からそれなりに稼ぎはよかったはずだけど、それでも高い買い物をするときはお母さんと相談することになっていたようだ。
父が最新のスマホや腕時計を衝動買いしたのを発見すると、お母さんは『一言、相談してほしかったわ』と苦笑していたのを思い出す。
「……ウマ娘の嫁さんが怖くてトレーナーが務まるか。それに、子どもの君がそんなこと気にしなくていい」
そう言ってトレーナーさんは笑ったけど、その口角が少しこわばっている。
家庭を持つ男性にとって、妻に内緒で大きな買い物をするというのはやっぱり怖いことらしい。
……それにしても、子どもか。
こういう時、多少走りが速くなったって勝負服一枚自分の思い通りにならないなんて、本当に私は子どもなんだな、と思い知らされる。
「トレーナーさんの気持ちは本当に嬉しいけれど、ちょっと待って。私も、色々考えてみたいから……」
「……わかった。でもスズカと同じ勝負服で天皇賞に出たい気持ちが変わらなかったら、遠慮なんかしないでまた相談してほしい。君があいつに頭を下げてお願いする必要なんてない」
少し怖い顔で断言してくれるトレーナーさんに、私は小さく微笑んで、
「分かったわ」
とだけ返事する。
父の言葉を聞いてから鉛を詰め込まれたかのように重たかった胸の中が、少しだけ軽くなっていた。
*
トレーナーさんは『今日はトレーニング、お休みにするか?』と言ってくれたけれど、レースで勝ちたいと願うからには、多少の面倒事があったぐらいでトレーニングを休んでなんかいられない。
私はロードワークにダート、それに坂路のトレーニングをいつもどおりに全部こなした。
そしてそんな日に限って、案外タイムが良かったりする。
最後の坂路トレーニングで今日の一番時計を叩き出して、私は気分よくロッカールームへ向かっていた。
走れば悩みや心のモヤモヤは、そこへ置き去りにできる。
ウマ娘というのは、そういう生き物なのだ。
今日の夕食、どうしようかしら……と考えていると、そんな私の牧歌的な悩みを切り裂くように、バッグの中のスマホから電話の呼出音が鳴った。
「……」
スマホを取り出して画面を確認していると、【お父さん】という文字が表示されている。
一瞬見なかったことにしようか、とも思ったけど、私は大きく息を吸い込んでから応答の表示をタップした。
「……もしもし」
「レイナか」
相手のスマホに電話を掛けているわけだから本人確認なんて必要ないはずだけど、私たちはなぜか必ず電話に出た人を確認する。
「……うん」
「その、なんだ」
普段よく通るバリトンボイスの父の声が、少し聞こえにくい。
こんな歯切れの悪い父の態度は、初めてだった。
「さっきはすまなかった。最近仕事が忙しくて睡眠不足だったもんでな……。少し苛ついていたんだ。申し訳ない」
「……そう」
父親の明らかな嘘を、私は軽く受け流す。
どんなに仕事が大変な時でも、お母さんや私に当たり散らす父親というものを、私は見たことがなかったのだから。
「スズカの勝負服のことだがな」
父がそう言った瞬間、思い切り耳が引き絞られる。
つばを飲み込んだ音が、父に聞こえなかっただろうか。
肋骨の奥で、心臓が跳ね回っている。
「俺の寝室の……クローゼットの一番奥に、緑色の衣装箱に入れてしまってある。クローゼットを開ければすぐ分かると思うが、もし見つからないようなら、また電話してほしい」
「……うん」
私は何度か瞬きしながら、少しかすれた声で返事する。
結局、勝負服を私に預けてくれたことが嬉しかったのか。
トレーナーさんに厳しいことを言われて渋々考えを変えた父に、腹を立てていたのか。
父が最初から勝負服を託してくれなかったことが、悲しかったのか。
今の私には、自分の気持ちが理解できそうになかった。
だから。
「ありがとう」
そうとだけ、父に伝える。
「……いや……」
父がそれだけ言うと、父娘の会話はそこで途切れた。
きっともう、話はおしまいなのだろう。
「そうだ」
なんていって電話を切ろうか……と考えていると、まだ何かあったのか、父は話を再開した。
「家に戻るつもりなら、すまないが冷蔵庫に入っている惣菜を食べておいてくれないか。確か、もう賞味期限が近かったはずだ」
「えっ。夕食がまだだから、別にいいけど……」
唐突な父の頼み事に、少し困惑しながらも私はそれを了承する。
「そうか、すまない。じゃあ、切るぞ」
父はそう言って、あっさりと通話を終了した。
*
寮長に夜間外出届を提出し、自宅に戻ってきたときにはもう8時前になっていた。
ここへ帰ってくるのは、入学して以来、初めてのことだった。
しばらく寮の机の中に入れっぱなしだったスマートキーを取り出し、玄関のカギを解錠する。
ガチャン、という音を立てて、我が家は私を受け入れてくれた。
そっと玄関の扉を開けると、家の匂いがかすかに鼻腔をくすぐる。
久しぶりの我が家の匂いは、なんだか懐かしい感じがした。
誰もいない家の玄関は真っ暗だったが、照明スイッチの位置は身体が覚えている。
手探りでスイッチを入れると、優しいオレンジ色の明かりが玄関を照らし出す。
家に入ってまず目に止まるのは、額縁に入れて壁に飾ってある一枚のレイだ。
【第39回 宝塚記念 優勝】
深い紺色の生地に大きな金文字で、レイにはそう刺繍されている。
お母さんが勝った、唯一のGⅠ勝利の証。
これを見た私の友だちはウマ娘も普通の子も、みんな『すごいね!』『カッコいいね!』と褒めてくれて……そのたびに私はちょっと得意げにはにかんでいたものだった。
そしてその隣には、なぜか大きな鯛の金の飾り物が置いてある。
デフォルメされた鯛の顔はユニークで、レイに感心していた友人たちが今度はその鯛を見て『変なの~!』と笑うのが常だった。
お母さんに聞いたところによると、お母さんの通夜にも駆けつけてくれた、友だちのマチカネフクキタルさんからいただいたものらしい。
もらったときはどこに飾ったらよいか悩んだらしいが、この家を建てた時に父と相談してここに置くことにしたようだ。
年末、家族で大掃除をするとき、お母さんはこの鯛の置物を宝塚記念のレイと同じように丁寧に拭き清めていた。
お母さんにとって友だちからもらったこの奇妙な置物は、きっとGⅠ勝ちの勲章と同じぐらい大切なものだったのだ。
……そのことを思うと、胸の奥がじくりと痛む。
軽く頭を振ってその痛みを追い払ってから、父の書斎の前を通り、私は二階へつながる階段へと脚を向ける。
うちの階段はもう少し急だった気がするのだが、それこそ多分、気のせいだろう。
父の寝室は、お母さんが亡くなるまで夫婦二人で一緒に使っていた部屋の正面にある。
なぜ父はわざわざ寝室を変えたのか。
理由はいくらでも想像できたけど、本当のところは父にしか分からない。
誰もいないのは分かりきっていたけれど、一応コンコンとノックをしてから入室して、部屋の明かりのスイッチを入れる。
天井の照明に照らされた父の部屋は、相変わらずモデルルームの一室のように整然としていた。
……いつも思うけど、ここは人が普通に暮らしていれば必ずあるはずの生活感というものが、まったく感じられない。
本棚に置いてある本は誰もが一度は読んだことのある有名な小説やビジネス書ばかりで、ここから父の嗜好や思想などを読み取ることはできなかった。
匂いはまったくの無臭で、部屋の温度も廊下とほとんど変わらない。
この部屋で唯一父のパーソナリティを感じられるのは、机の上に置いてある古ぼけた一枚の写真だけだ。
小さなフォトスタンドに収まっている写真には、お母さんが写っている。
写真の中のお母さんは、20代前半ぐらいに見えた。
特別に着飾っているわけでもなく、お母さんらしい控えめな微笑みをレンズに向けていたのだろう。
この写真がいつ、どういう状況で撮影されたものなのか、私は知らない。
……お母さんが亡くなってから父が飾ったであろうこの写真のことを、私は父に聞きもしなかった。
なぜかちょっと後ろめたさを感じた私は、写真からそっと視線を外して目的のクローゼットの前に立った。
父の部屋のクローゼットを開けるのは、初めてだ。
木製の取っ手に手をかけ、少し緊張しながら扉を開く。
中には10着ほどの紺と黒のスーツが吊るされていて……その奥の方に、ひっそりと緑色の箱が置かれていた。
この中に、お母さんが実際に身につけてGⅠを戦った勝負服が、入っている。
実は……私は一度も、お母さんの勝負服をこの目で見たことがない。
白と緑を基調とし、アクセントカラーに黄色のラインが施されているあの勝負服を、娘の私は動画の中でしか見たことがなかった。
緑色のふたに手をかけ、そっとそれを開けようとして……私はふぅ、と大きく息をつき、そっと手を離す。
箱のふたは音を立てることもなく、元の位置へと戻る。
……いざ実物を目の前にすると、あのサイレンススズカの勝負服を手にすることが、急に怖くなった。
今の私に、お母さんの勝負服を着用して秋の天皇賞に挑むだけの実力と覚悟が、果たして本当にあるのだろうか?
「…………」
今さらそんなことを考えてしまう自分に呆れながら、持ってきていた紙袋にその箱を入れ、ハンドルを持って立ち上がる。
一着の勝負服しか入っていないその紙袋は、なぜだかズシッと重たかった。