*
紙袋を持って立ち上がり、父の部屋に3つもある時計のひとつを見るともう9時を回っていた。
ぐぅうう~……。
「…………」
お腹が鳴ったせいで、まだ夕食をとっていないことを思い出した。
そのことを意識すると、今までなんともなかったのになんだか急にお腹が減ってきた。
でもこんな時間に食事を取ってしまうと、体重の増加が心配だ。
もういっそ、抜いてしまおうか。
どうせもっとレースが近づいたら、絞らないといけないわけだし……。
そう考えて父の部屋をあとにしようとしたけれど。
ぐぅうううう~。
お腹がカロリーをよこせ、タンパク質を補給しろと、しつこく要求してくる。
そうね……。
トレーニングしたあとになにも食べないというのも体に良くないし、それに、お父さんが冷蔵庫の中のお惣菜、食べておいてほしいって言ってたわね……。
私は誰に向かってしているのかも定かでない言い訳をし、父の部屋から出て1階のキッチンダイニングへ向かう。
自分の部屋にちょっと寄っていこうかな、とも思ったけど、それはなんとなくやめておく。
常夜灯しか点いていない薄暗い家の中は、私がここを出たときからなにも変わっていなかった。
リビングに飾られた、私のいくつかのトロフィーや賞状。
白い壁にうっすらと見える、幼い頃私がクレヨンで落書きして、お母さんが苦笑しながら雑巾で消していた跡も。
もうずいぶん長い間、家を空けていた気がするけど、私がトレセン学園で寮生活を始めてからまだ1年半ほどしか経っていない。
そのぐらいの時間では、実家というものは何も変わらないものらしい。
「……?」
誰もいないはずのキッチンに近づくと、醤油の香ばしい香りが漂ってきた。
それはとても、とても懐かしい香りだった。
私はいてもたってもいられず、急いでキッチンへと駆け込む。
キッチンには、やっぱり明かりひとつ点いていない。
私は入口にあるスイッチを、軽く叩くように入れる。
照明が照らした対面式のキッチンも、テーブルも、私が家を出る前と何一つ変わっていなかった。
その茶色のテーブルの上に、一枚の紙が置かれている。
直感的にお父さんからのものだろうな……と理解したのと同時に、私はそれを手に取っていた。
『レイナへ。
今日のことは、本当にすまなかった』
手書きの手紙は、そんな書き出しから始まっている。
久しぶりに見た父の直筆は力強くて、綺麗だった。
『あの言いぐさはあまりにもおとなげなかったと思うし、父親として恥ずべき言動だったと思う。
ただ、少しだけ自己弁明することを許してほしい。
今日お前から電話がかかってきた時、おそらく勝負服のことだろうな、と想像がついた。
そしてお前が、スズカの勝負服を着て天皇賞に出たい、と言い出すことも。
だがそうすれば、お前は否が応にも母親の、サイレンススズカの名前を背負うことになる。
レースに関わる者やレースファンにとって、その名前はあまりに重い。
できれば、お前にはそんな重荷を背負わせたくなかった。
お前には一人のウマ娘として、サイレンスレイナとして、天皇賞という舞台に挑んでほしかった。
このことを素直に伝えればよかったのだが、今一度正直に言えば、お前に俺とスズカとの思い出に入ってきてほしくなかった、という気持ちは確かにあった。
でもそれは、お前のことを疎ましく思っているからじゃない。
お前に勝負服を託してしまえば、俺の担当した最初で最後のウマ娘……スズカと二人で駆け抜けたトゥインクルでの思い出が消えてしまうのではないか。
そんな怖さを、どうしても抑えることができなかった。
俺の気持ちを分かってくれ、理解してくれ、とは言わない。
それでも、お前には伝えておきたかった。
今日の詫びというほどのことではないが、お前が好きだった炊き込みご飯を作っておいた。
スズカほどうまく作れていないとは思うが、よかったら食べてくれ。
あと、冷蔵庫の中にお前のお気に入りの店で買ったローストビーフも冷やしてある。
初めてのGⅠ挑戦の、健闘を祈っている。 父』
父からの長い手紙を読み終えた私は、それを4つに折りたたんでお母さんの勝負服と一緒に紙袋の中に放り込んだ。
不思議と心の中は落ち着いていた。
言い訳じみた書き置きを残していった父のことが、腹立たしいという気持ちはある。
父がお母さんのことを、大事に思っている気持ちも分かる。
父が私のことを疎ましく思っていたわけではないことが分かって、ホッとした気持ちも、ある。
お母さんが亡くなってから、父が私に対して複雑な感情を持って接しているであろうことは、私も薄々感じていたから。
それらの感情が心をぐちゃぐちゃにかき乱して、引っ張りあいっこしていて……奇妙な均衡を保っている。
私は紙袋を椅子に置くと、炊飯器の方へ目を向けた。
【保温】のランプが付いているところを見ると、もうご飯は炊きあがっているようだ。
お母さんが亡くなってから、父も私も、ご飯はパックのものを食べるようになっていた。
炊飯器なんてもうすっかり、使わなくなってしまっていたのに。
炊飯器のふたを開けると、食欲を刺激する醤油の香りが鼻腔をくすぐり、あざやかなオレンジ色が目に飛び込んできた。
それはささがきにされた、大量のニンジンだった。
我が家の炊き込みご飯のレシピは鶏肉・ごぼう・油揚げ・ぶなしめじに……ご飯を覆ってしまうほどの、たっぷりのニンジンを入れてあるのが特徴だ。
このニンジンまみれの炊き込みご飯は、お母さんや私はともかく、父にとって少し食べづらかったと思う。
それでも父はお母さんの作った特製の炊き込みご飯を、『おいしい』と言って文句ひとつ言わずに食べていたのを思い出す。
私は食器棚から茶碗を取り出して、しゃもじで懐かしい香りのする炊き込みご飯を大盛りによそう。
それをテーブルに置いて冷蔵庫を開けると、白いお皿にきれいに盛り付けられたローストビーフがチルド室に入っていた。
ローストビーフはパックに詰められて売っているから、父がわざわざ盛り付けてくれたのだろう。
そのお皿とペットボトルの麦茶を手にとって、炊き込みご飯と同じようにテーブルに置く。
最後にコップとお箸を準備して、テーブルの上に並べる。
……これ、お母さんが元気だった時、準備してくれていた夕食そのもの……。
ただ違うのはここにいるのが私一人だけ、ということだ。
「いただきます」
私はあの時と同じように手を合わせ、虚空に向かってそう言って箸を手に取った。
父が作ってくれた炊き込みご飯は、お母さんが作ってくれたものとほとんど同じ味がした。
***
ふと自室の時計を見ると、もう22時半を回っていた。
最近ではトレセン学園も【働き方改革】(もういい加減死語になれ、と彼は思っている)とやらを実践しているらしく、トレーナーも教員も20時を過ぎれば職場から叩き出されてしまう。
ただ早く帰宅すれば仕事が減るというわけではないので、職員たちは結局、家に仕事を持ち帰ってする羽目になるのだが。
そうであっても、担当のトレーニングメニューを考えるというトレーナー本来の仕事をしているときは時間の進みがやたら早く感じるし、やりがいと楽しさを感じる。
書類仕事もこうだと良いんだが、と益体もないことを考えながら、彼は肩に手を置いて僧帽筋をこねくり回して首を70度ほど右に傾けた。
それだけのことだったが、凝り固まっていた筋肉がほぐれて少し軽くなった気がする。
「それにしても、あいつ……」
今度は首を左に傾けながら、彼は苛立ちの混じった声で独りごちる。
レイナの父が今も亡くなったスズカのことを深く思っていることは、彼もよく知っている。
大学のトレーナー科や専門学校を卒業し、トレーナーとして働き始めた者にとって、最初に担当したウマ娘というのは特別な存在だ。
彼女は自分の知らなかった感情や自分の至らなさ、一人の人生を預かるということの責任の重さ、それに社会人として金を稼ぐ大変さを教えてくれる。
それまでの価値観や人生観を大きく塗り替えてくれる最初の担当ウマ娘は、初恋や初体験の相手のような存在なのだ。
自分と同じように、そんな特別なウマ娘を妻にしたとなれば、その思いは格別なものがあるに違いない。
なのに運命は【彼】から最愛のウマ娘を、二度も奪い去った。
一度目は、競技者としてのサイレンススズカを。
二度目は、生涯の伴侶としてのサイレンススズカを。
そんな【彼】の悲しみは、察するにあまりある。
だがそのことを、娘を傷つけるための免罪符にしていいわけがない。
ウマ娘のトレーナーとしても、サイレンススズカの伴侶としても、それだけはしちゃいけない。
そう思ったからこそ、長い付き合いの中で初めて【彼】に、本気の怒りをぶつけた。
それは彼が『こいつは本気で話し合えば、きっと分かってくれる』と信じていたからでもある。
その思いが通じたのか、スズカに顔向けできないと思ったからかは定かでないが、【彼】は娘に勝負服を託すことにしたようだ。
レイナが少し弾んだ声で『お父さん、私にお母さんの勝負服、預けてくれるって』と電話を掛けてくれたときは、思わず涙腺が緩んでしまった。
まったく、年を取ると涙もろくなっていけない。
単純に【父と娘が仲直りしました。めでたしめでたし】という話ではないのだろうが、二人の関係が一歩、良い方向へ向かったと信じたい。
あと自分ができることは、担当のラストランである天皇賞に向けて、レイナを最高の状態に仕上げることぐらいだ。
***
担当ウマ娘のトレーニング計画を立てることに没頭していると、自分が現実世界から切り離されてしまっているかのような、そんな感覚にとらわれることがある。
自分の知識や経験を元に、彼女たちが全力を出せるようトレーニングメニューを考案する。
知識に不足があると感じれば、徹夜してでも資料や文献を漁って最適解を導き出す。
トレーナーにとって、これほどやりがいのある仕事はない。
彼はこのために、トレーナーになったようなものだ。
なんとなくノートPCの右端に表示されている時刻を確認すると、もう0時を回っていた。
意識が現実に引き戻される。
だが脳内はアドレナリンが充満していて、まったく眠気を感じない。
「よし。もう少しだけ、がんばるか」
彼はそうつぶやいて両肩をぐるぐると回し、肩甲骨周りの筋肉を軽くほぐした。
【レイナのラストラン・秋の天皇賞へ向けてのトレーニングメニュー】
そう銘打った文書ファイルは、もうかなり長くなってしまっている。
(秋の天皇賞か……)
改めてタイトルを確認した彼は、言葉を口にすることなく、頭の中で歴史と伝統あるレース名をささやいた。
敏腕トレーナーの彼は、これまで何人ものステークスウイナーを育成してきた。
そんな彼にとっても、GⅠというレースは特別だった。
毎日王冠の勝ちっぷりから、レイナはきっと本命の一角として出走することになるだろう。
彼ももう四半世紀近くトレーナーという商売をやっているが、本命サイドとして担当をGⅠ送り出すのは最初に担当したエアグルーヴ以来のことだ。
今のレイナなら、秋の天皇賞を勝利してくれる可能性は十分にあった。
どうせなら……母が無念のラストランとなってしまったあの舞台で、レイナに有終の美を飾らせてやりたいと、心から思う。
だが、その勝利の前にとてつもない壁が立ちはだかっている。
クラシック二冠ウマ娘にして去年の秋天の覇者、シェリルジョーダン。
彼女はその実力と好調ぶりをアピールするかのように、前走の京都大賞典では2.20.6という信じがたいタイムで快勝している。
(それにしても……)
自分の前に立ちふさがるウマ娘が、またしても【彼】の薫陶を受けたウマ娘だとは。
レイナのラストランで最大の難敵になるであろうシェリルジョーダンには、指導しているトレーナーがいない。
現在彼女は【ウマ娘の自主性を重んじる】というお題目を掲げて一切トレーニングの指導をしないトレーナーが名目上の責任者であるチームに所属しており、彼からの指導は一切受けていないらしい。
そんな環境の中でシェリルジョーダンはAIを用いて、自分のトレーニングメニューを組み立てて実行していると聞く。
シェリルはもともと、初等部の頃から母であるトーセンジョーダンを担当していた父親に指導を受けていた。
だがその父親はシェリルが初等部5年の時に他界している。
彼女の父親が亡くなった際、何人ものトレーナーが才能あふれるこのウマ娘を自分の担当にしようとスカウトを試みた。
しかしシェリルはその誘いをすべて『あたしのような天才を指導できるのは、パパだけだ!』と強く拒絶する。
その後彼女はトレセン学園中等部に進学し、今のチームに自ら所属を願い出ると、当時まだリリースされたばかりだったウマ娘育成特化型AI【メロス】を使って自主トレを開始した。
そんなシェリルを見た学園のトレーナーたちは当初、
「AIの指示だけでウマ娘が強くなれるものか。きっとすぐ『指導してください』ってトレーナーに泣きついてくるぞ」
と高をくくってせせら笑っていたものだった。
その噂を聞いた彼は笑いこそしなかったが、『さすがにAIの指導だけで強くなるのは難しいんじゃないか』と懐疑的に思ったし、そうであってほしい、という気持ちがなかったとも言えない。
だがシェリルが勝利を重ねるにつれて、彼女や育成AIのことを笑うトレーナーはいなくなっていく。
シェリルはAIの指導を受けて強くなった、歴史上初めてのウマ娘なのだ。
そんなシェリルの成功を受けて、今では自分の指導のサポーターとして【メロス】を使うトレーナーも珍しくなくなった。
……それにしても、AIを使うシェリルをあざ笑っていたトレーナーたちが、今度は一転して『AIに自分たちの仕事を奪われるかもしれない!』などと騒ぎ出したときには、失笑をこらえるのが大変だった。
現実的に考えれば、AIにトレーナーの仕事のすべてが奪われるということはないだろう。
面倒な書類整理や資料作成、トレーニングメニューの効率化などに、AIはかなりの力を発揮してくれるに違いない。
しかし担当の悩みを、同じ人間として共感を持ってケアすることはAIにできないだろうし、担当に何かあったり、なにか問題を起こした時に責任を取って泥をかぶってやることは、大人のトレーナーしかしてやれない。
だがそれを差し引いても、シェリルジョーダンという超一流のウマ娘をAIが育て上げた、という事実は動かしがたかった。
そんな【メロス】の開発元がサイレンスカンパニーだ。
元トレーナーでもある、レイナの父親が創立したAI企業である。
当然【メロス】には、天才トレーナーと言われていた【彼】の知識と経験が詰め込まれている。
トレーナーからすれば、シェリルは【彼】の……サイレンススズカのトレーナーの教え子のようなものだった。
サイレンススズカが勝利した宝塚記念。
あのレースには彼が担当していたエアグルーヴも出走していた。
レース前、彼は思っていた。
サイレンススズカはこの一年で確かに強くなった。
でもまだ、エアグルーヴのほうが強い。
素質でエアグルーヴがサイレンススズカに劣っているとは微塵も思えなかったし、なにより積み重ねてきたレース経験が違う。
クラシック期ではオークスを制し、シニア一年目の去年は現役最強の一角であるバブルガムフェローを抑え込んで、見事天皇賞制覇を成し遂げてみせた。
GⅠを2勝しているエアグルーヴと単なるステークスウイナーのサイレンススズカでは、ウマ娘としての格が違う。
一番人気こそ譲ったが、勝利するのは俺の担当ウマ娘だと彼は信じて疑っていなかった。
しかしサイレンススズカは道中気持ちよく走り続け、そのまま後続を寄せ付けずに逃げ切ってしまった。
序盤から常識外れの速いラップを刻み続け、直線手前で一息だけ入れて、最後は差しウマのような末脚でまとめてしまう。
こんな芸当、サイレンススズカにしかできない。
そんなサイレンススズカの素質は素晴らしいものだったが、同時に難しい気性も抱え込んでいた。
彼女は走るのが大好きな故に、息を入れるのも忘れて、最後まで突っ走ろうとしてしまう。
その性格が災いし、クラシック期のサイレンススズカは持てる才能を持て余している感があった。
【彼】はそんなスズカに辛抱強くひと息入れて走ることを教え、彼女の速すぎる脚の限界を見極めながらトレーニングを組み立てていたのだ。
【彼】でなくては、あの稀代の中距離ランナーの才能を完全に開花させることはできなかっただろう。
その事実が、トレーナーとして【彼】に打ち負かされたような気がした。
でも、今は違う。
【彼】がトレーナーを廃業したあとも自分は学び続け、経験を積み、担当したウマ娘たちと苦労も喜びも分かち合ってきた。
当然【彼】も育成AIを開発するにあたって最新のトレーニング技法を学び、それらを超高性能AIにラーニングさせたに違いない。
だが【彼】は20年以上も、現場の空気を吸っていないのだ。
徹夜でトレーニングメニューを考え、それを担当といっしょに汗にまみれて実践し、負けて悔し涙を流し、勝って大笑いした日々を、彼は信じたかった。
安楽椅子に座ったままの天才トレーナーなんかに、負けたくない。
そう思うと、気合が入る。
「よしっ」
姿勢を正してPCに向き直った瞬間、コンコン、と書斎の扉が鳴った。
「はい」
「私だ。入るぞ」
そう言って書斎に入ってきたのは、妻のエアグルーヴだった。
「まだやっていたのか。熱心なのは結構だが、明日……いや、もう今日か。疲れた顔を担当に見せたのではカッコがつかんぞ」
妻のありがたいお説教に、彼は苦笑する。
「いや、分かってはいるんだけどね。トレーニングメニュー考えていると、止まらなくてさ」
「……まぁそれがトレーナーの業みたいなものだからな」
エアグルーヴは真剣な表情で何度かうなずくと、小さなお盆を彼の机の上に置いた。
お盆の上には一口で食べられるサイズのおにぎりが2つと、湯呑に入った温かい麦茶が載せられている。
おにぎりの中身はきっと、自分の好きな梅干しとおかかだろう。
「GⅠ挑戦で気合が入るのは分かるが、程々にな」
今度は控えめな微笑を浮かべながらそういうと、エアグルーヴは夫の肩をポン、と叩いた。
「ああ、分かってる」
「それなら、いい」
短く言って、彼女は部屋を去ろうとする。
「エアグルーヴ」
「なんだ?」
「愛してる」
背中越しに掛けられた夫の言葉に、エアグルーヴは
「私もだ」
とだけ、答えたのだった。