早いもので新生活がスタートしてから、もう一週間が経つ。
ようやく寮生活にも慣れ、トレセン学園での新しいクラスの雰囲気にも馴染み始めて、通常授業も始まった。
そんな中、トゥインクルシリーズに向けた本格的なトレーニングも開始され、私はデビュー目指して走り込む日々を送っていた。
*
放課後。
春の日差しが降り注ぐダートのトレーニングコースを、私は一心不乱に駆け抜けていた。
暖かい風の中で、髪と尻尾が大きくなびく。
景色が、すごいスピードで後ろへ流れてゆく。
やっぱり、全力で走るのは気持ちがいい!
それが先頭であるのならなおさらだ。
「……ゴールッ!」
ダートコースに、トレーナーさんの声が響き渡る。
ゴールラインを超えた私は、ゆっくりと速度を落としながら立ち止まった。
後ろを振り返ると、私と同じ新入生のウマ娘が数バ身後ろで、ようやくゴールしたところのようだった。
「はぁっ……はぁっ……。レイナさん、強すぎ。とても同じ新入生とは思えないよ……」
私と併走してくれていた娘が、荒い呼吸を繰り返しながら悔しそうに言う。
「そんなことないわよ。今日は結構、体調が良かったから。そのおかげかしら」
軽い笑みを浮かべながら謙遜してみせたものの、正直に言うなら、今日併走を申し込まれた時点で、まったく負ける気はしなかった。
私は一応、中学生時代に全国大会で優勝しているし、今走ったダート2000Mの持ち時計でも彼女より私のほうが1秒ほど速い。
……私の競技人生には、厳しい時間制限が課せられている。
トゥインクルシリーズにデビューしたあと、私は10戦しか走れないのだ。
トレーニングでの併走とは言え、こんなところで負けてなんていられない。
「う~む……うちの
私のトレーナーさんより少し年上の男性トレーナーが、うなりながら腕を組む。
今日併走してくれた娘の担当トレーナーで、併走トレーニングを提案してくれたのも彼だった。
「いえいえ。二人とも、まだ入学してきたばかりですしね。この一回の併走ではなんとも言えませんよ」
負けた娘とそのトレーナーをフォローするように、トレーナーさんが小さく笑う。
「サイレンスレイナは今年入学してきたウマ娘の中だと、一番素質のあるウマ娘だからな。うちの娘には一度、同期のトップクラスの強さというのを肌で感じてほしかったんだ。うちの担当も素質ある娘だし、いずれどこかで戦うことになるだろうからな」
彼女のトレーナーは自分が担当する愛バを励ますように、彼女の肩をポンと軽く叩いた。
「そうですね……私も、もっと頑張らないと。レイナさん、今日はありがとう。次やる時は、負けないから!」
「二人とも、今日はこちらの申し出を引き受けてくれてありがとう。また、頼むよ」
礼を述べながらダートコースをあとにする二人を、私たちも、
「うん、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。またぜひお願いします」
と返礼して見送った。
「お疲れだったね、レイナ。いい併走だった」
「ありがとう。あの娘も結構有力な新入生って聞いていたから、ちょっと緊張してたんだけど、なんとか拾わせてもらったって感じね」
私の所感を聞いたトレーナーさんは、うん、と小さく頷く。
「あの娘に限らず、これからも有力な娘がどんどん出てくるからね。こっちも気合い入れていかないと」
「そうね。でも、有力視されている娘にあれだけあっさり先着できるのなら、私、案外メイクデビューは楽に勝ち上がっちゃうかもね」
冗談めかして微笑む私に、なぜか彼はちょっと困ったような苦笑いを浮かべた。
「……君は確かに、同期の中では進歩が早い方だとは思うけどね。油断大敵だよ」
「分かっているわ」
わざわざ釘を差してくるトレーナーさんに、私はちょっと神妙な顔を作って返事したのだった。
*
翌朝。
朝練の約束していたダートコースに向かっていると、トレーナーさんが意外な人物からお説教を
彼女のお説教が終わると、彼はきまりの悪い笑みを浮かべて、「ごめん、次から気をつけるよ」と謝ったようだ。
「おはようございます」
件の人物の背後から近づくような形になったため、私は彼女を驚かせたりしないよう、いつもより少し声量を落として朝の挨拶を送った。
「あ、おはよう、レイナ。いや、ちょっとバツの悪いところ見られてしまったなぁ」
その苦笑顔のまま、トレーナーさんが挨拶を返してくれる。
「まったくだ。新しい担当を持ったのだから、もっと気を入れて生活しろ」
厳しさの中にも親愛の情を感じさせる口調でトレーナーさんに注意していたのは、現役当時に【女帝】と称えられていたウマ娘であり、今はトレーナーさんの妻でもあるエアグルーヴさんだった。
「いやはや、返す言葉もない。レイナ、紹介するよ。知ってるかもしれないが、俺の妻のエアグルーヴだ」
彼の紹介を受けて、エアグルーヴさんが改めてこちらを振り返ってくださった。
「はじめまして、だな。君が今回、うちの夫が担当することになったサイレンスレイ……」
私の顔を見た瞬間、彼女が息を呑んだのが分かった。
「は、はじめまして。あの、いかがなさいましたか?」
「いや、そのだな……」
彼女は
「気を悪くしたのなら申し訳ない。写真でも見知っていたが……実際会ってみると、君があまりにスズカに似ていたものでな。それで少し、驚いてしまった」
「そうでしたか。『お母さん似だね』とはよく言われるので、気になりませんよ」
エアグルーヴさんの謝罪に、私は微笑してゆるやかに首を横に振る。
いろんな人からそう言われたことがあるのは事実で、私の長い髪やエメラルドグリーンの瞳、それにスレンダータイプの体型が母を思い出させるのだと思う。
私らしいビジュアルの特徴と言えば、お母さんよりもう少し、ツリ目なことぐらいかな。
……これは若干、目元に父の因子を受け継いだせいだ。
「それに……母に似ている、と言われるのは嬉しいですし」
「そうか」
私の顔を見つめながら、エアグルーヴさんは感慨深げに微笑んだ。
母似の私を見て、お母さんとの現役時代を思い出したのかもしれない。
「そうだ。せっかく来たんだからエアグルーヴもレイナのトレーニングを見ていくといいよ」
「ん、そうだな……」
夫のお誘いに、彼女は少しばかり眉をひそめる。
「しかしOGに見られながらのトレーニングは、彼女も気を使うのではないか?」
「私なら、別に大丈夫ですよ」
小さい頃から『あのサイレンススズカの娘』ということで注目されているのは慣れていたし、お母さんのライバルと言われたエアグルーヴさんに走りを見てもらえるだなんて、そんな機会を逃したくなかった。
そしてできることなら、アドバイスとか……母との思い出話を聞かせてもらえたら嬉しいんだけどね。
「ほら、レイナもこう言ってるし。遠慮することはないよ」
「本人がそう言ってくれているなら、少しだけ見学させてもらうとしよう」
「ということだ。レイナ、今の君の精一杯の走りを、エアグルーヴに見せてあげてくれ」
妻と一緒にいるとちょっとテンションが変わるのか、柄にもなくサムズアップを飛ばしてくるトレーナーさんに、私ははい、とだけ返事した。
*
実績ある大先輩の前ということもあり、私は張り切って今できる最高の走りを披露した。
「ふぅっ……いかがだったでしょう?」
私の走りを見学していたエアグルーヴさんは、腕を組みながらウム、と一度頷いた。
「……いいんじゃないか。これからも鍛錬を怠らんようにな」
えっ……それだけ?
「はい、がんばります」
私は笑顔で返事したけど、はっきり言って拍子抜けだった。
なんというか、もっと『想像以上の走りだった』とか、『さすがスズカの娘だ』とか、褒めてもらえるものだと思っていたから。
……きっと彼女は、あまり人を褒めるのが好きではないのだろう。
ひょっとしたら『人は褒めたら調子に乗ってダメになる』と考えるタイプの人なのかもしれない。
「すまん、そろそろ仕事の時間だ。今日のところはこの辺で失礼する。二人とも、励むようにな」
今日のエアグルーヴさんはスーツ姿だったから、なにか学園に用があって来られたのかと思っていたが、どうやら出勤前にここへ立ち寄られたらしい。
私とトレーナーさんは『いってらっしゃい』と声を合わせて、正門へ足を向けた彼女を見送った。
「ところでトレーナーさん。エアグルーヴさんはどうしてここに来て、トレーナーさんにお説教していたの?」
私が疑問を呈すると、彼は苦笑しながら肩を竦める。
「いや。実は今朝、ちょっと寝坊しちゃってね。それで急いで準備したもんだから、エアグルーヴがせっかく作ってくれてたお弁当をつい、テーブルの上に忘れてきてしまって。エアグルーヴはそれをわざわざ届けに来てくれたんだよ」
「そうだったのね」
忘れ物のお弁当、か。
それを聞いて、幼いころのワンシーンがふと蘇ってきた。
小さい頃、私もお母さんと一緒に、父が忘れた弁当を職場に届けたことがあったっけ……。
ちょうどお昼時だったから、私とお母さんもお弁当を持っていって、父も含めた、会社の人達と一緒にお昼を食べたんだ。
あの時はまだ今ほど父も仕事にのめり込んでいなくて、気持ちに余裕があるような感じだった。
『レイナ、からあげ好きだろう? これは届けてくれたお礼だよ』なんて言って、父の弁当箱からからあげと卵焼きを一つづつ、私の弁当箱に移してくれたのを覚えている。
幼い私は、何の疑いもなくこんな平和で穏やかな日々が続くと信じていた。
それが、今では……。
「どうした、暗い顔して?」
「ん、いや。なんでもないわ」
私は心の
「トレーニングの続きをしましょうか。エアグルーヴさんも言っていたように、しっかり精進しないとね」
一応笑顔で言ったつもりだったけど、少しばかり皮肉が入り混じったのは仕方なかったと思う。
母の走りを知っているウマ娘にもっと評価してほしかった、という気持ちを封殺することは、簡単ではなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は「そうだな」とだけ言って、少し強めの坂路トレーニングの指示を出した。
*
そんなことがあった翌日の放課後。
トレーニングコースで待っていたトレーナーさんから伝えられた内容は、意外なものだった。
「えっ! 今日は現役の先輩と併走してもらえるの?」
「ああ。デビュー前にトゥインクルシリーズを走っているウマ娘の実力を肌で知っておくのも、悪くないと思ってね」
彼の申し出に、私は胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
基本的にデビュー前のウマ娘が、すでにトゥインクルシリーズを走っている先輩と併走トレーニングをする、なんてことはほとんどない。
それはつまり、トレーナーさんも私の実力を高く買ってくれているということで、こんなに嬉しいことはない。
それにしても……一体誰を私の併走相手に選んでくれたのだろう。
オープンを走っている先輩ウマ娘だろうか。
いや、ひょっとしたら私の力を引き出すために、もっと強い相手に併走をお願いしたかもしれない。
生徒会長でクラシック二冠を制しているシンボリルドルフさんの娘のシンボリライザさんとか、【現役最強】の呼び声高いメジロラムさんとか。
それとも今日のトレーニングはダートだから、無敗のダートウマ娘のファルコンレアさんとか、そのライバルのフラッシュアデリナさんとかかもしれない。
う~ん。
そんな人と併走することになったら、柄にもなく緊張しちゃうかも……。
頭の中でいろんな妄想を繰り広げていると、一人の芦毛のウマ娘がテクテクこちらに歩いてきているのが見えた。
知らない顔だった。
「すみません、おまたせしました」
おっとりとした声で話しかけてきたのは、どこかほわわんとした癒し系のビジュアルをしているウマ娘だ。
正直言って、この娘からは強いウマ娘のオーラがまったく感じられなかった。
むしろレース場の広場や遊園地にいてそうな、マスコットガール的な雰囲気すら彼女からは漂っている。
でも、おまたせしました、なんて言っているってことは……。
「来てくれたか。今日は無理言ってすまなかったね」
「いえいえ~。でも、サイレンスレイナさんといえば、新入生で一番素質のあるウマ娘さんだって聞いてます。わたしなんか、相手になるかどうか……」
そう言って彼女はえへへ、と照れ笑いを浮かべた。
ってことは、やっぱり……。
「レイナ。今日、君の併走トレーニングの相手を務めてくれる、クラシック級のエルサミラクルだ。こう見えて彼女は未勝利戦で2回2着している実力者だぞ」
「いやいやいや。実力者だなんて、そんなそんな」
芦毛の髪をポリポリとかいて、エルサミラクルさんは謙遜する。
名前を聞いて思い出した。
確かヒシミラクルの娘さんが、そんな名前だった気がする。
そのことはともかくとして。
え~っと。
うん。
レースで連対したことがあるのは、すごいことだと思う。
でも、未勝利戦って……。
結局この娘、いやこの先輩、一度も勝ったことがないってことじゃない。
一応世代トップクラスの実力と言われている私が、いくら先輩とは言え、未勝利ウマ娘と走って得るものなんてあるのかしら?
「……はじめまして、エルサミラクル先輩。サイレンスレイナといいます。今日はよろしくお願いします」
思わず口に出かけた本音を喉の奥に押し込めながら、私はなんとか愛想笑いを浮かべ、先輩にご挨拶させていただくことができた。
「うん、よろしく~。ま、競走するって言ってもトレーニングだしね。ゆるっと、ごー」
お気楽に言うと、彼女はいちに、いちに、と屈伸をし始めた。
いやいや、ゆるっと、ごーって……。
私にはゆるっとしている時間なんてないし、あなたもこの時期まで未勝利ってことは、かなり焦らないといけないお立場ですよね?
確かクラシック級の未勝利戦は、来月のダービーの日がタイムリミットだったはず。
その日までに勝ち上がれなかったウマ娘は、規定でもう中央のレースに出走することができない。
そりゃ地方に行ったりすればまだ現役を続けられるとは言え、あまりにも危機感がないのではないだろうか。
ひょっとしたら彼女はもう勝ち上がることを諦めてしまっていて、トレーニングに身が入っていないのかもしれない。
そんなウマ娘と併走させるだなんて、トレーナーさんは一体何を考えているのだろう?
私は入学後、初めて彼に不信と不満を抱きながら、軽く屈伸運動を始めた。
*
私たちが準備運動を終える頃には、追い切りを取材していた記者や、物見高いウマ娘たちがラチの外に集まってきていた。
「サイレンスレイナと……あれはヒシミラクルの娘の、エルサミラクルか。なかなか面白そうな併走だな。記事になるかもしれん」
「ウワサのサイレンスレイナさんが先輩相手にどんな走りを見せてくれるのか、見ものね」
好奇心に満ちた声が、あちこちから聞こえてくる。
「二人とも、準備はいいかい?」
そんな見物人たちを気にした様子もなく支度を確認するトレーナーさんに、私は軽く頷く。
エルサミラクル先輩も「おっけーですよ~」と気軽に返事してスタンディングスタートの姿勢を取った。
「それでは、位置について。よーい……」
パンッ! とトレーナーさんが手を鳴らした瞬間、私は母譲りのスタートダッシュでダートバ場へ駆け出した。
うん、我ながらいいスタートを切れた。
力強く脚元のダートを蹴り上げ、その勢いのまま加速してゆく。
ダートのトレーニングコースは、スタートしてすぐに第一コーナーの曲がり角が設置してある。
コーナーへ突入する前に、ちらっと後ろを確認してみた。
エルサミラクルさんは、私の4バ身ほど後ろを追走してきている。
彼女の脚質は、先行と差しの間ぐらいと言ったところか。
やっぱり……と言っては失礼だが、彼女は素晴らしいスピードの持ち主というわけでもなかったし、背後からプレッシャーを掛けられている感じもしない。
先輩と言っても未勝利ウマ娘なら、こんなものか。
今日の併走トレーニング、ひょっとしたらトレーナーさんは私が勝つのは当然だと考えているのかもしれない。
私が実戦経験者相手にどのような勝ち方をするのかを見たいと思って、こんなマッチレースをセッティングしたのではないだろうか?
もしそういうことなら、手加減するわけにもいかない。
「……ふっ!」
私は気合を入れ直し、もう一段階ギアを上げる。
今日の併走は、ただ勝つだけじゃダメだ。
圧勝して、私の素質をトレーナーさんに再確認してもらわなければ。
周囲の人達にも、私の実力を認めてもらわなければ。
サイレンスレイナは、あのサイレンススズカに引けを取らないほどのウマ娘だって!
*
淡々とした流れで、残り1000Mを通過した。
体感的に通過タイムは61秒から62秒の間、といったところか。
もう完全に、私のペースだ。
このペースで走れたレースで、負けた記憶がほとんどない。
中学時代、私は全国大会で2度の敗戦を喫している。
一度は私を潰すためだけに大逃げしたウマ娘の超ハイペースに巻き込まれたレースで、あとはレース中に脚に違和感を覚えて競走を中止したレースだ。
このまま行けば、まず負けることはない。
第四コーナーを示すハロン棒が近づいてくる。
残り、400M。
「はっ!」
わたしはここで、ラストスパートを掛けた。
これ以上ない、最高のタイミングだった。
おお~っ、という歓声がラチの外から聞こえてくる。
感心するのは、まだ早い。
見物人が驚くのは、ここからだ。
第四コーナーを曲がり、私の脚はすでにトップスピードに達していた。
あとはどれだけ、未勝利の先輩をちぎれるか……。
「……っ!?」
そんなことを考えていると、私の耳に力強い爪音が鳴り響いてきた。
瞬間、伸びた影が、私に重なる。
そして。
横目にプラチナブロンドの髪が映ったかと思うと、あっという間に私を置き去りにしていった。
「嘘でしょ!?」
バカな。
そんなはずがない。
私は、本気で走っている。
本気の私に、今まで追いつけたウマ娘なんていなかったのに……!
だがそんな私のちっぽけなプライドを嘲笑うかのように、揺れる芦毛の髪が、遠ざかる。
必死で彼女の背中を追うが、まったく追いつける気がしない!
彼女は勝利を確信したのか、ゴール手前で速度を緩めながら……ゴールラインの数m先でゆっくりと脚を止めた。
……私がゴールしたのは、彼女の一秒以上あとだった。
「お疲れ様~」
お気楽に手を振りながら、エルサミラクル先輩が声を掛けてくる。
「……お疲れ、様、でした」
声が途切れ途切れになってしまったのは、今まで経験したことがないぐらいに心臓が暴れまわり、肺が激しく呼吸を貪っているせいだけじゃない。
大勢の人の前で惨敗してしまった悔しさが、何度も、何度も、喉元を締め付けてくる。
さらに私を打ちのめしたのは、先輩の息遣いだった。
同じ距離を走ったはずの彼女の呼吸は、ほとんど乱れていないようだ。
ステイヤー血統の彼女は、中距離血統の私より多少スタミナに恵まれているかもしれない。
でも、息の戻りにここまで差が出るだなんて……。
「いや~、さすが注目のウマ娘だね。サイレンスレイナさんのトレーナーさんからは強めぐらいで、って言われてたんだけど、最後は結局全力出しちゃったよ」
あはは、と笑う先輩に、私は驚愕を隠しきれなかった。
あれだけ実力の差を見せつけておいて、本気を出したのが最後だけ……?
しかも彼女は、ゴール前では軽く流していたというのに。
そんなことって、あるのだろうか。
だって私は、サイレンススズカの娘で、素質あるウマ娘で……。
「う~む。まぁデビュー前のウマ娘なら、こんなものかな。正直もうちょっとやるかと思ったが」
「先輩相手とは言え、未勝利ウマ娘に6バ身差の負けか。彼女への評価は保留ね……」
記者の、見物していたウマ娘たちの客観的な評価が、さらに私の心を鋭くえぐってくる。
目の奥が、かっと熱くなる。
私は額の汗を拭うふりをして、ぐいっと袖で目をこすった。
「エルサミラクル。今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ~。わたしなんかで良ければ、いつでも声かけてください。サイレンスレイナさん。今日はありがとね。じゃ、またね~」
人好きする笑顔を見せて去っていく先輩に、私は疲れ果てたふりをして何も返事しなかった。
「レイナ。どうだった?」
「……トレーナーさん。私は、素質のあるウマ娘じゃなかったの……?」
震える声で、私は尋ねる。
「君が素質あるウマ娘であることは間違いない。でも素質というものは、器に過ぎないんだ」
「……なにが、言いたいの?」
抽象的な彼の回答に苛立ちながら、差し出されたスポーツドリンクを私はひったくるようにして受け取り、蓋を開けて一気に飲み干す。
「どんなに立派で大きな器でも、中身が入っていなければただの置物でしかない。そしてウマ娘の器を満たすものが、知識であり、経験であり、トレーニングなんだ。今日エルサミラクルにつけられた着差は、才能や素質うんぬんと言うより、その器の中身の差だね」
「……今の私は、器に何も入っていない、カラッポのウマ娘だって、言いたいの?」
「厳しい言い方をしていいのなら、その通り」
「……そう」
トレーナーさんからの返答と突きつけられた現実は、厳しいものだった。
実際、私は未勝利ウマ娘に相手に惨敗したのだ。
……エアグルーヴさんが私に微妙な評価を下した理由が、今分かった。
認めなくてはいけない。
中学までの【アマチュア】レースと、トゥインクルシリーズに出走している【プロ】のウマ娘の間には、そのレベルに雲泥の差があるということを。
私にはトゥインクルシリーズで戦っていくためのスピードもスタミナも、レースの知識もトレーニング量も、まったく足りていないという現実を。
ここでの私は天才でもなんでもなく、レースで勝利を目指すウマ娘の一人に過ぎないのだ。
その差を埋めるためには、きっとこれから厳しいトレーニングをこなしていく覚悟を決める必要があるのだ。
それは痛いほど理解した。
でも。
「トレーナーさんは、今の私じゃ未勝利のウマ娘にも勝てないってのが分かっていたのよね? じゃあどうして、こんな結果の分かりきった併走トレーニングなんか私にさせたの?」
鋭い声で疑問を投げかける私を、彼は腕を組んでまっすぐ見つめる。
「もし君が並のウマ娘だったのなら、デビュー前にレベルの違う先輩との併走なんてさせなかった。今日君に厳しい併走トレーニングを経験してもらったのは、君が本当に大成する可能性のあるウマ娘だからこそだ。少なくとも、君は未勝利で終わる器じゃない」
「……そんなに期待してくれているのなら、わざわざ今、先輩とのレベルの差を分からせる必要なんかなかったんじゃないの?」
質問を重ねる私に、トレーナーさんは首を横に振った。
「君に期待しているからこそ、君には早い内にトゥインクルシリーズを走っているウマ娘のレベルを実感してほしかった。素質のある娘がレースをナメてかかって、伸び盛りの時期にトレーニングに打ち込めず、一度も勝てないまま消えていったという例をイヤと言うほど見てきたからね」
レースを、ナメてかかってる。
そんなつもりはなかった、だなんてとても言えない。
現に私はトレーナーさんが連れてきてくれた未勝利の先輩を見て、がっかりした。
素晴らしい素質を持っている私には、もっとふさわしい併走パートナーがいるはずでしょう、なんて自惚れていた。
そして、中学時代とはまるでレベルが違う【プロの走り】というものを痛感させられた。
レースを甘く見ていた私に現実を思い知らせたかった、というトレーナーさんの意図は分かった。
それが私にとって、苦い良薬になったのも確かだ。
でも。
「……もし、今日の併走で私の心がポッキリ折れて、やる気失くしちゃったらどうしてたわけ?」
「君がこれぐらいのことで折れてしまうような
「折れていたとしたら?」
「残念だけど、君はそこまでのウマ娘だったってことだ。もしその程度のことで走る気を失うようだったら、ここで大きな夢なんて追いかけないで、無理せず学業に専念したほうがいい」
それはプロらしい、厳しい言葉だった。
「なかなかきついこと言うのね」
「担当しているウマ娘に、おためごかしを言っても仕方ないだろう?」
「それもそうね」
彼の本音に、私は思わず苦笑する。
「さて、休憩は終わりとしよう。大きな器を満たすには、たくさん中身を注いであげないとね。つまり、それなりの量のトレーニングが必要だ。ロードワークのあとに坂路一本追って、筋トレをやるよ」
併走のあとにそれだけのトレーニングを言い渡されたのは、トレセン学園に来てから初めてのことだった。
今日までのトレーニングは新しい環境に慣れるまでのウォーミングアップみたいなもので、これが【プロ】の本来の練習量なのだ。
正直キツイな、とは思うけど。
弱音を吐いてなんていられない。
母が見たいと願った景色の続きを求めて、私はここにやってきたのだから。
私のレース人生は、ここからが本番だ。
「わかったわ」
私は平然を装いながらそう返事して、ロードワーク用のシューズに履き替えた。