*
吹き抜ける風が、私の長い髪を弄んだ。
目の前に広がっているのは、一面の草原だ。
はるか彼方に、地平線が見える。
空は青く、白いわた雲がまばらに散っている程度で、空気がこの上なく心地いい。
天国というものがあるのなら、こういった場所のことをいうのかもしれない。
それにしても……本当に気持ちいい。
私は清浄な空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。
走りたい。
このだだっ広い草原の中を、どこまでも駆け抜けたい。
こういう広い場所に出ると、走り出したくなるのはウマ娘の本能なのだろうか。
心のままに駆け出そうとして、緑色の絨毯を踏みしめたときだった。
遠くの方から、誰かがこちらへ近づいてくるのが分かった。
特徴的な、大きな耳のシルエット。
ウマ娘だ。
最初は多分、ウマ娘だろうな……ぐらいしか分からなかった人影が近づいてくるにつれて、胸の奥がざわめき始める。
栗色の、長い髪。
翡翠色の、大きな瞳。
あちらも、私に気づいたらしい。
そのウマ娘は私の方を見て小さく首を傾げると、儚げに微笑んだ。
懐かしい、微笑みだった。
「……お母さん!」
呼吸が、止まる。
信じられなかった。
目の前にいるのは、間違いなく、私のお母さん――サイレンススズカ――だった。
「お母さん……お母さん、お母さん!!」
私は全力で駆け出して……お母さんの胸の中へ、飛び込んだ。
お母さんはそんな私を、優しく抱きとめてくれる。
匂いも、体温も、私の知っているお母さんのものだった。
「お母さん、会いたかった。本当に、会いたかったの……!」
瞳に映るお母さんは、ひどく歪んでいる。
お母さんは少し寂しそうに微笑むと、そっと私の目の下を拭って……優しく髪を柔らかい指で梳いてくれた。
懐かしい、感触だった。
「お母さん。あのね、私、話したいことが、いっぱいあるの」
私は胸のうちに溜まっていたものを、心のままにお母さんに話し始めた。
お母さんと同じように、トレセン学園へ入学したこと。
シェリルという、とても仲の良い友達ができたこと。
トレーニングは厳しいけれど、トレーナーさんはとってもいい人で、頼りがいがあること。
今の私のトレーナーさんはお母さんとしのぎを削った、あのエアグルーヴさんのトレーナーであること。
デビュー戦は運良く勝てたけど、その後はずっと勝てなくて苦しんだこと。
でもトレーナーさんの創意工夫もあって、実力が少しずつ付いてきて……今度、秋の天皇賞に出走すること。
その天皇賞で、親友とぶつかり合うこと。
お母さんはいつもと同じように、時に微笑を浮かべて、時に真剣な顔をして、私の話を聞いてくれている。
そして……お母さんに一番聞いてほしかったことを、私は思い切って切り出した。
「口に出したり、態度に出したりはしないけど……お父さん、私のせいでお母さんがいなくなってしまった、と思っているところも、あるみたい……」
私がそういうと、お母さんはひどく悲しそうな、切ない表情を浮かべた。
一度も見たことのない母のその表情が、私の意識を今に引き戻す。
……もうお母さんは、この世にいない。
そう理解しても、私は目の前にいる幻想のお母さんに語りかけるのを、やめられなかった。
「あのね、お母さん。本当は私、お父さんと仲良くなりたい。……お父さんに、天皇賞を見に来てほしいって、思ってる。でも、もし拒絶されたらと思うと、怖くて……」
震える声で本当の気持ちを吐露する私の頬を、お母さんは優しくなでた。
そして右耳につけていたワタリを外すと……私の右耳に、そっと飾り付けてくれる。
「お母さん……?」
最後にお母さんは静かに微笑んで頷くと……私に背を向けて、地平線の向こうへと歩き出した。
お母さんの後ろ姿が、遠くなってゆく。
去っていこうとするお母さんの背中を見ていても、不思議と寂しさや悲しさは感じなかった。
「……ありがとう、お母さん」
甘えてしまった気恥ずかしさから、私はその背中から少し視線をそらし、小さな声で母に感謝の気持ちを伝える。
顔を上げるとお母さんの姿は、もう見えなくなっていた。
*
珍しくアラームが鳴る前に目を覚ました。
スマホで時計を確認すると、まだ朝の4時半ぐらいだった。
……久しぶりに、お母さんの夢を見た。
学園の寮に来てからは、多分初めてだ。
胸の中にはとても温かなものと、少しの寂しさが同居している。
お母さんの夢を見たあとは、いつもこんな気持ちを抱えてしまう。
「…………」
私はデスクライトの明かりをつけ、ベッドに立てかけておいた紙袋の中から緑色の箱を取り出して膝の上に置いた。
そして、そっとそのふたをはずす。
あざやかな緑と純粋な白が同居している母の勝負服は、箱の中で丁寧に折りたたまれて……まるで時を封じているかのように、ビニール袋で梱包されていた。
その勝負服の上に黒いリボンと……小さなリボンが2つ付いているワタリが、一緒に納められている。
現役時代のお母さんの右耳を、いつも彩っていたものだ。
……少し震える手でワタリを手に取り、そっと右耳に飾り付けてみる。
毛糸でできているはずのその耳飾りは、ほんのちょっとだけ重く感じられた。
引き出しの中から手鏡を取り出して、自分の顔を映す。
母譲りの栗色の髪に、緑と黄色の毛糸で編み込まれたワタリは、よく似合っているように私には思えた。
「……うん」
いつもトレーニングに出かけている時間には、まだ早い。
でも私ははやる気持ちのまま、ベッドから腰を上げて朝練の準備をし始めた。
*
まだ誰の蹄跡も付いていなかったダートコースを、1マイルほど走り込んでからいつもの待ち合わせ場所に向かうと、トレーナーさんはすでに私を待ってくれていた。
「レイナ。その耳飾りは……」
汗だくの私の顔を見るなり、彼は朝の挨拶も忘れて息を呑み込んだ。
私の右耳に向けられたトレーナーさんの視線が、なんだかむず痒い。
「うん。お母さんのしていたワタリだけど……似合ってるかしら」
照れ笑いしながら髪をかき上げる私に、トレーナーさんは小さくうなずくと、
「ああ。よく似合ってるよ」
と言ってくれた。
「よかったわ。今日のトレーニングの予定は?」
「そうだね。ストレッチを済ませてから、ダートを強めに1マイルほどと思っていたんだけど……それはもう終わらせてくれたみたいだね」
「ええ」
私の返事を聞いて、トレーナーさんは顎に手を当てて薄く目を閉じる。
おそらく、トレーニングメニューを組み直してくれているのだろう。
「じゃああとは坂路を一杯で一本走って、200mほどプールを泳ぎ込もう。放課後はロードワークと坂路強めを2本、仕上げに筋トレって感じかな」
「……結構、厳しめなのね」
彼から伝えられたメニューは、今までにないぐらいハードなものだった。
「ああ。次走はGⅠという最高峰の舞台に挑戦するわけだしね。それに、シェリルジョーダンの京都大賞典の動画は見たかい?」
「ええ……」
不意に吹きつけた風が、乾きかけの汗を急速に冷やした。
その冷たさに、背筋がブルッと震える。
「おそらく今がシェリルジョーダンの全盛期で……そして彼女が現役の中で一番、強いウマ娘だろう。君は次のレースで、そんなウマ娘を打ち負かさないといけない。しかもチャンスはこの一回きりだ。もし負けてしまったら、リベンジする機会は一生巡ってこない」
いつになく真剣な口調で語るトレーナーさんに、私は無言でうなずきを返す。
「天皇賞はきっと、レイナのこれからの人生に大きな影響を与えるレースになる。悔いが残るような仕上げにはしたくない」
「……そうね」
悔いが残るような仕上げには、したくない。
それは私も、まったく同じ思いだった。
「よし、それじゃ坂路コースに行こうか」
「ええ」
トレーナーさんの指示に私は短く返事して、彼と一緒に坂路へ脚を向ける。
私の歩調に合わせて、右耳のワタリがゆらゆらとせわしなく揺れていた。
*
心肺機能と脚の筋肉を効率よく鍛えられる坂路コースでは、今朝もたくさんのウマ娘たちが力強い爪音を響かせていた。
「シェリルジョーダンさんすごいね。あれ何本目だっけ?」
「今朝はあれで3本目かなぁ。なんでも最近は一日に4本、調子の良いときは5本、坂路を走り込んでるらしいよ」
「ひえ~! 全盛期のミホノブルボンさん並の練習量じゃん! アタシがやったら脚もメンタルも絶対潰れるわ」
「練習量はそのままそのウマ娘の才能量、っていうけど、あれだけ練習できるってのもホント才能の一部だよねぇ……」
坂路の麓で準備運動をしている私の耳に、そんな周囲の会話も入ってくる。
呆れと驚き、そしてどこか羨望の入り混じった彼女たちの声を聞いて坂路の中腹へ視線をやると、ひときわ素晴らしい動きで坂道を駆け上がっているウマ娘が目についた。
シェリルだった。
彼女は相変わらず、ハードなトレーニングを積んでいるようだ。
シェリルが自分の才能におごることなく、かなり厳しい練習を自分に課していることを、私は知っている。
あれはダブルデートに出かけて、すぐぐらいのことだったと思う。
シェリルが努力に関して、興味深いことを話していたのを覚えている。
『ほら、あたしって天才じゃん? あたしが思うに、才能ってのは持って生まれた器なんよ。それが大きい人もいれば、小さい人もいる。こればっかりは神様の配分だから、文句言っても仕方ないんだよね』
『で、ここからが本題。大きな器を一杯にしようと思ったら、トーゼンだけどたくさん中身を注ぎ込まないといけないじゃん? それと一緒で、大きい才能という器をいっぱいにしようと思ったら、中にたくさんの努力という水を注ぎ込む必要があるわけ。だからあたしは、普通のウマ娘の何倍も努力するつもりでいる』
『逆に自分にたいした才能がないと思うなら、自分が楽しいと思える範囲の努力で止めておくというのも、立派な戦略だと思うんよ。才能に見合わない努力をしたって、器からこぼれていくだけだと思うし』
普段軽いノリで生きているシェリルが珍しく真面目な顔と声で語っていたものだから、その一字一句が妙に記憶にこびりついていた。
私は、自分の走りの才能がすごいものだなんて思ったことは一度もない。
私より瞬発力に優れたウマ娘や、豊富なスタミナを持っているウマ娘はいくらでもいたし、ミドル時代には逃げ潰れてシンガリ負けを喫したことだって、何度もある。
それでも、お母さん――サイレンススズカ――から受け継いだこの脚とスピードに、私は誇りと愛着を持っていた。
この脚の、限界を極めたい。
そしてその先にある、自分だけの景色を見てみたい。
そのためなら、厳しい練習にも耐えられる。
私は坂路のスタートラインにつくと、大きく息を吸い込んだ。
それに、次は私のラストランだ。
レース後の疲れや今後のローテーションのことなど気にしないで、目一杯仕上げてしまっていい。
耳に取り付けた計測器が、カウントダウンを始める。
ピッ、ピッ、ピッ。
ピーッというスタート音とともに、私は脚元のウッドチップを思い切り蹴り上げた。
*
天皇賞に向けてのトレーニングは厳しいものだったけど、さいわい大きく体調を崩すことも、脚に不調をおぼえることもなく、順調に進んでいった。
ただひとつだけ、ちょっとした問題が発生した。
「本番まで2週間を切ったわけだし、そろそろ併走トレーニングを行いたいんだが……」
トレーナーさんは困り果てた顔で歯切れ悪くそう言って、腕を組んだ。
東の空から昇り始めたばかりの太陽が、彼の苦悶を照らし出して深い陰影を作り出している。
「やっぱり、相手が見つからない?」
「すまん。探してはいるんだけど、なかなか……」
「そう。困ったわね……」
坂路で併走トレーニングを行っているウマ娘たちを横目に見ながら、トレーナーさんと私はそれこそ併せウマのように、息を合わせて憂鬱なため息をついた。
併走は実戦形式に近いトレーニングで、走力の強化だけではなく、競い合うことでレース前に闘争心を高めておくという非常に重要な役割がある。
通常、併走トレーニングはある程度実力を把握している同期のペア、グループで行うことが多い。
でも私はここ2ヶ月ぐらいで急に力をつけてオープンにまで駆け上がってしまったために、そのような同期がいなかった。
私と同世代のオープンクラスのウマ娘たちは、すでに実力の近い者同士で相手を見つけてしまっているために、なかなかそこへ入れてもらうのも難しい。
「そうだわ。デビュー前に練習相手になってくれた、エルサミラクルさんにまた併走お願いできないかしら?」
私の提案に、トレーナーさんは小さく首を横に振る。
「あ~……彼女は障害レースに転向したからね」
「えっ、そうだったの?」
「ああ。確か、君と併走してすぐぐらいだったかな。今エルサミラクルは障害競走に適応したトレーニングをしているはずだから……平地のGⅠに挑む君の併走相手としては、ちょっと向かないかもしれん」
「そうね……」
平地と障害競走は同じレース場を走る競技ではあるが、まったくの別種目だ。
闘争心と同時にターフで発揮できる瞬発的なスピードを鍛えたい私と、長い障害レースを走り切るための持久力を備えたスピードを身につけたいエルサミラクルさんでは、トレーニングの目的が一致しない。
どうやらこのアイデアは、白紙にせざるを得ないようだ。
「まぁ今日のところは仕方ない。レイナと併走してくれそうなウマ娘がいないか、トレーナー仲間たちにもっと声をかけてみるよ。今日はいつも通り坂路を単走の一杯で……」
併走トレーニングは諦めて、トレーナーさんがそう指示しようとしたときだった。
「ハゥディ! オコマリのようですね!?」
『これだけ才能のあるウマ娘の併走相手が見つからないとは……。日本には未だに村社会の空気が残っているとは聞いていたが、残念なことだ』
聞き覚えのある二人の声が、乱入してきた。
「ジェシカ! それに、シュノンソーさんも」
声のした方に振り向くと、そこには明るい笑顔でこちらへ手を振ってくれているジェシカと、呆れたような顔をしてこちらへ視線をくれているシュノンソーさんがいた。
彼女たちのように外国から遠征してきたウマ娘たちは、URAが用意している海外勢専用の宿泊施設でレースまでの日々を過ごす。
そんな彼女たちは、私たちが通常の授業を受けている間、学園のコースや設備を使って海外勢だけでトレーニングを行っている。
「噂で聞きました。レイナ、一緒に走ってくれるパートナーが見つからなくて困っているって」
「そうなのよね……」
少しだけ日本語が話せるジェシカと言葉をかわしている間に、トレーナーさんがスマホの翻訳アプリを起動してこちらへ寄越してくれる。
「慣習を守るということは素晴らしいことだと思うがね。それも時と場合によるだろう」
自国フランスの大レース・凱旋門賞を勝っているシュノンソーさんは、そう言って大げさにため息をつき、肩をすくめる。
「……そうですね」
そんな彼女の言い分に、私は苦笑いをこらえることができなかった。
慣習を守る頑固さを、まさかフランスの人に説かれるとは思わなかったのだ。
「うむ。物事はなんでも柔軟に取り組まなければならない。それなら慣習の外にいる我々が、君に力を貸そうというわけだ」
ちょっと気取った感じでそういうと、シュノンソーさんはボリュームのある髪を右手でふわりとかきあげる。
その申し出は、とてもありがたかったけど……。
「あなたたちのトレーニングはどうしたの?」
「ワタシはトレーナーに言って、時間をずらしてもらいました! トレーナーも『日本のトップクラスのウマ娘と併走トレーニングできるなら、願ってもないことだ。あちらさんがいいと言ってくれるなら、しっかり競い合ってきなさい』と言って、午前中のトレーニングを調整してくれたんです」
「ま、私の方も似たようなものだ。君のような才能あるウマ娘と併走トレーニングできるのなら、是非もあるまい」
気軽に言ってくれているけど、海を超えてやってきた彼女たちにとって、練習スケジュールの変更はいうほど簡単なものではなかったことだろう。
そんな二人の心遣いに、胸が詰まる。
「トレーナーさん」
「うん。そういうことなら、ありがたく彼女たちの申し出を受けることにしよう」
「そうね。ジェシカ、シュノンソーさん。併走、お願いしていい?」
そう言って彼女たちの方をうかがうと、二人は返事の代わりに坂路のスタートラインに並んだ。
「二人とも……ありがとう」
「礼には、オヨビません! ワタシたち、友だちじゃないですか!」
「気にすることはない。私にとっても、今回の併走は良いトレーニングになるからね」
お礼をいう私に、ジェシカはにこやかに、シュノンソーさんはすました声で言葉を返してくれる。
「みんな、準備はいいかい? READY……」
トレーナーさんの声に合わせて、私たちはスタンディングスタートの構えを取る。
彼の手が振り下ろされたのと同時に、私たちはスタートを切った。
ジェシカの、マイラーらしいたくましい筋肉が躍動する。
欧州を制したシュノンソーさんの鍛え上げられた脚が、ウッドチップの上で舞う。
国籍や言葉の違いなんか、走り出してしまえばウマ娘たちにそんなことは関係ない。
誰が一番速いのか。
誰が一番強いのか。
それを決めるためだけに、私たちは全力で坂道を駆け上がっていった。
*
併走トレーニングを終えた私たちは、坂路を背景にして横一列に並んだ。
もうすっかり昇りきった朝日が、3人の影をウッドチップを敷き詰めた地面に作り出している。
「みんな、準備はいいかい? 5・4・3……」
左手でスマホを持ったトレーナーさんが、口を閉じて右手の指を2本、1本と折っていく。
「みなさん、こんにちは。サイレンスレイナです」
彼の手がぐっと握られたのを確認して、私はカメラに向かって挨拶を述べる。
マスコミの人たちと約束した、トレーニングの様子と報告の動画撮影だ。
「今朝は、坂路での併走トレーニングを行いました。本当は先週くらいから併走を取り入れていきたかったのですけど、なかなか相手が見つからなくて。でも今日は海外から遠征してきているシャトルジェシカさんとシュノンソーさんが、私の練習相手になってくれました」
私の右に並んでいる二人を紹介すると、ジェシカは人好きのする笑顔を浮かべてスマホに向かって手を振り、シュノンソーさんは尊大にうむ、と頷く。
「併走トレーニングは3本行いました。まずは3人で併走して……次にジェシカとのマッチ形式、最後にシュノンソーさんとのマッチ形式です。……一応、すべての併せウマで、私が先着することができました」
少し気を使いながら結果を報告する私にジェシカは拍手を送ってくれ、シュノンソーさんはふん、と小さく鼻を鳴らした。
そんな二人に向かってトレーナーさんは腕を差し出し、ジェスチャーでコメントを要求する。
「OH! ワタシも本気で走りましたが、カンパイでした! 今のレイナは心身ともに、すごく充実していますネ!」
トレーナーさんの要望に応えて、ジェシカが興奮気味に今日の感想を語ってくれる。
「……トレーニングとはいえ、手を抜いたつもりはない。そんな私にマドモアゼル・レイナは先着した。彼女がそれなりに仕上がってきていることは間違いない」
対してシュノンソーさんは、先着を許した悔しさを隠そうともせず率直にコメントしてくれた。
「ジェシカ、シュノンソーさん。どうもありがとう」
一拍置いてから二人に礼を述べ、私はカメラの方へ視線を向ける。
「併走の様子はあとでトレーナーさんが各SNSにアップしてくれるので、よかったら見てください。それでは、さようなら」
「……はい、OK! 3人ともお疲れ様」
動画モードを終了させたトレーナーさんが、OKサインを指で作った。
それを見た私はホッと胸をなでおろして、無意識の間に力の入っていた肩に手を当てる。
もうこの動画を撮り始めて2週間になるけど、走っている姿以外を撮影されるということに、どうしても慣れなかった。
「ねぇ、トレーナーさん。今日はジェシカとシュノンソーさんがいてくれたから、画面も華やかになったけど……。いつもは汚れた体操服姿の私が朝練終わったあと、ただその内容をスマホに向かって報告してるだけじゃない。記者の人たちとかファンの人たちって、それで満足してくれているのかしら?」
「もちろんだよ。というか、この報告の動画、結構評判いいんだよ」
私の疑問と心配をよそにトレーナーさんは軽く笑ってウマッターを表示させ、スマホをこちらへ手渡してくれる。
【今日のレイナのトレーニング、併走だったんだ! 動画見るの楽しみ!】
【そうだよ。俺もそろそろ併走トレーニングしなきゃダメなんじゃないか、と思っていたんだ】
【というか、サイレンスレイナ・シャトルジェシカ・シュノンソーの3人が人知れず併走していいわけないだろ。早く動画をアップしてくれ】
先ほど投稿されたばかりのポストに視線を落とすと、またたく間にたくさんのイイネがつき、リツイートで拡散されていっている。
普段SNSを見ない私でも、大勢の人が見てくれているのだな、ということがわかった。
……今日はたまたま二人が併走してくれたから、反応が良かっただけなんじゃないか。
そう訝しんだ私は画面を下へスワイプして、過去にトレーナーさんが投稿したポストを確認してみる。
それらもやっぱり、投稿直後から様々な人がコメントをくれたり、動画をリツイートしてくれているようだった。
「……こんななんでもない動画なのに、不思議なものね」
「なんでもない動画だからこそ、自然体の君の姿を捉えているのかもしれないね。みんなきっと、そんないつものレイナが見たいんだよ」
しみじみと言うトレーナーさんに、なぜかジェシカとシュノンソーさんもウンウンと深く頷いている。
こういうジェスチャーは、万国共通のものらしい。
「ふぅん。そういうものなのかしら」
3人から向けられた視線がなんとなく照れくさくなった私は、なんでもないような返事をしてスマホをトレーナーさんに返した。
*
あの日以降もジェシカとシュノンソーさんは私の朝練と放課後練習の時間に合わせて、併走トレーニングに付き合ってくれた。
世界トップレベルの彼女たちと走るたび、私の身体と闘争心はどんどん研ぎ澄まされていった。
心と体が普通の女の子から、レースで戦うウマ娘へと切り替わってゆく。
天皇賞を走り終えてレースから身を引けば、こんな激しいトレーニングやきつい減量とは無縁になるのだろう。
けれどその厳しさを乗り越えて戦う女に変貌していく自分を、私はきっと愛していた。
*
天皇賞が行われる週の火曜日、リメイクをお願いしていた勝負服がとうとう届いた。
「ど、どうかしら……?」
ミーティング前のトレーナー室で、私は初めて袖を通した勝負服をトレーナーさんに披露していた。
勝負服は真っ白な
お母さんが――あのサイレンススズカが――GⅠの舞台で身にまとい、限界の先まで戦った勝負服。
トレーナーさんはそんな私の姿を、少し目を大きくして見つめている。
彼の目は母の着ていた勝負服を通して、ここではない、今でもない何処かへ向けられているように私には思えた。
「……うん、よく似合っているよ」
小さく、そして少し切なげにトレーナーさんは微笑み、言葉少なめに勝負服姿を褒めてくれる。
「よかったわ」
彼が最初に担当したエアグルーヴさんはお母さんの良き理解者で、お母さんの走りに敬意と畏怖を持っていたと聞いたことがある。
トレーナーさんが当時、お母さんをどのように意識していたかは分からないけれど、久しぶりに母の勝負服を見て、なにか思うところがあったのかもしれない。
「ところで、お願いがあるのだけれど……」
遠い目をしていたトレーナーさんにそう切り出すと、彼はんんっ、と軽く咳払いをして私と視線を合わせた。
「どうしたの?」
「これで、私の勝負服の写真を取ってほしいの」
「ああ、お安い御用だよ」
私が少し躊躇しながらスマホを差し出すと、トレーナーさんは笑ってそれを受け取ってくれた。
「じゃあ、撮るよ。3・2・1……はい、ポーズ」
トレーナーさんが縦に構えたスマホから、カシャッ、というデジタル音が鳴る。
「こんな感じで、どうかな?」
返してもらったスマホの画面には母の着ていた勝負服に身を包んでいる私が、笑顔と言うには少し固い表情で写っている。
レース関係の雑誌に掲載するのだったら、あまりいい写真ではないかもしれないけれど。
「うん、これで大丈夫。ありがとう」
「……その写真、どうするつもりなんだい?」
一瞬私から目をそらしたのは、それが聞いて良いことだったのか、トレーナーさんも少し迷ったのだと思う。
「……せっかくだから、お父さんにも見てもらおうと思って」
「そうか」
トレーナーさんは普段の調子でそれだけいうと、うん、と一度頷いた。
「娘の晴れ着姿だ。きっと泣いて喜んでくれるよ」
「そうかしら。あのお父さんが泣いているところって、想像できないわ」
真面目な顔で言うトレーナーさんに、私は手を振って苦笑する。
そういえば……。
父の涙というものを、私は一度も見たことがない。
あれだけお母さんのことを愛していたお父さんが、お母さんが亡くなった時に泣かなかったわけはないと思うのだけど。
お母さんの葬儀の時。
お母さんのお骨をお墓に納めた時。
涙を浮かべていた父の記憶が、私にはない。
それでもなぜか、そんな父を冷たい人だと思ったことは一度もなかった。
「どうした?」
スマホを持ったままじっとしている私を奇妙に思ったのか、トレーナーさんは首を傾げてこちらを伺う。
「ん……。こんなの急に送ったら、お父さんびっくりするんじゃないかなと思ってね」
「いいじゃないか。普段クールぶってるあいつを驚かせてやれ」
「……そうね」
冗談めかして言うトレーナーさんに私は軽く返事すると、そのノリの勢いを借りて、撮ったばかりの写真を父のLANEへ送信した。
*
その日のトレーニングを終えて寮に戻ってきた私は、ルームメイトがいなくなった静かな部屋で、机の上に置いてあるスマホを手に取ってはまた机に戻し、また少ししてスマホに手を伸ばしてため息をつく、みたいなことを繰り返していた。
そんな先延ばしをやめて覚悟が決まったのは、消灯時間がきて部屋の明かりを消した後だった。
【お父さん】と表示されたスマホの青白い画面が、薄暗い部屋の中では眩しくて仕方ない。
私は通話をタップして、その光を隠すようにスマホをぎゅっと頬に当てる。
『もしもし』
数回の呼び出し音のあと、電話は父につながった。
「お父さん」
『レイナ。どうした?』
いつもと変わらない、父の平坦な声が受話器から聞こえてくる。
「あの。送った写真、見てくれた?」
なんでもない雑談風を装いたかったけど、ちょっと声が震えてしまっているのが、自分でもわかった。
『ああ、見たよ。よく撮れていたな』
「……うん」
多分、褒めてはくれないだろうなってなんとなく確信していたし、そのことに何も思わなかったわけじゃない。
けれど、私は父に『それだけ?』と聞き返す素直さも勇気も、持ち合わせていなかった。
「あの」
さて。
ここからが、今日の電話の本題だ。
ドクドクと激しく脈打っている胸に手を当て、大きく息を吸い込む。
『どうした?』
父の声に、スマホを持つ右手がひどく汗ばむ。
しっかり握りしめていないと、スマホを落としてしまいそうだ。
私は右手に力を込め、声が震えたりかすれたりしないよう、ごくりとツバを飲み込んだ。
「あのね、お父さん。今度の日曜日、私の出走する天皇賞、見に来てくれないかな?」
受話器が、沈黙に落ちる。
それはたった数秒だったかもしれないし、永遠の時間だったかもしれない。
「……すまない。まだ仕事の予定が流動的でな。約束できない」
父の声はどこまでも事務的で、そこからなにかの感情を読み取ることはできなかった。
「そう」
もう少し、何か話したほうがいいのだろうか。
迷っていると、電話の向こうから『CEO、今少し……失礼、お電話中でしたか』という声が聞こえてきた。
『あ、いや。もう話も終わったところだ』
おそらく会社の人に話しかけられて返事をしたのだろう。
父の声が、少し遠くなる。
『すまんレイナ、仕事が入った』
「あ、うん。……忙しいのにごめんなさい」
『気にするな。もう寮の消灯時間は過ぎているだろう。早く寝なさい』
最後、父は少しだけ父親らしいことを言って通話を切った。
【通話終了】の文字を浮かび上がらせていた画面を見て、私はため息をひとつつき、スマホを充電パッドの上に置く。
たいしてバッテリーは減っていなかったけど、それはもう、身体が覚えている癖のようなものだった。
それにしても。
もうお母さんが引退して、父がトレセン学園のトレーナーを辞めて20年以上が経っているのに、寮の消灯時間なんてよく覚えているものだ。
変なことに感心しながら、私はベッドに潜り込んで明日のトレーニングに思いを馳せた。