『し、しかし菊花賞へ出走しないとなると、秋の目標はどのレースになさるおつもりですか? ひょっとして、凱旋門賞への挑戦を考えていらっしゃるとか?』
今、このシーンを目撃している誰もが聞きたかったことを、インタビュアーが質問した。
シェリルがもし10月前期に開催される凱旋門賞への出走を考えていたのなら、10月後期に予定されている菊花賞回避という選択肢は十分にありうる。
まだ日本のウマ娘が誰も踏破していない凱旋門賞に、二冠という勲章を引っさげて挑みたいというのであれば、三冠挑戦を蹴ることに対してファンとレース関係者を、ある程度納得させられるかもしれない。
でも私が知る限り、シェリルが凱旋門賞に行ってみたい、なんて話していたことは一度もなかったように思う。
『えっ? 凱旋門賞への出走なんて考えてもいませんでした。フランスまで結構遠いですしね。ほら、昔の詩人も言ってるでしょ。【ふらんすはあまりに遠し】って』
シェリルらしかぬ詩的なジョークにあはは、と軽く笑っているのは当の本人だけで、凍りついた場の冷たい空気を、温めることはなかった。
『では改めてお聞きします。シェリルジョーダンさん、あなたの秋の目標を教えて下さいますか?』
インタビュアーの声はもはやダービーを制したヒーローから言葉を引き出すものではなくなり、まるで刑事が容疑者から真実を聞き出すかのような、鋭い声に変わっている。
しかしシェリルはインタビュアーの追求を気にした様子もなく、あっさりとその【目標】を答えた。
『あたしは、秋の天皇賞に出走します。そしてママの記録を塗り替えた、イクイノックスさんの歴史的世界レコード……1分55秒2というタイムを、トーセンジョーダンの娘であるこのあたしが、また塗り替えてみせます!』
彼女の、天皇賞・秋への思いは私も知っているはずだった。
それでもこうして実際に世間に向かって宣言している姿を見ると、シェリルジョーダンというウマ娘に底しれない恐ろしいものを、感じずにはいられない。
スクリーン越しに彼女の【宣戦布告】を聞いた私は、力強く笑っている友人のその姿を、息をするのも忘れてじっと見つめていた。
*
二冠ウマ娘の【菊花賞回避宣言】に、レース界は上が下への大騒ぎとなった。
SNSでは『トウカイテイオーのようにケガとか仕方ない理由があるならともかく、二冠を制しておいて菊花賞へ出走しない、というのはファンへの裏切り行為だ!』という怒りの書き込みもあれば、『ウマ娘がトゥインクルシリーズでどのような目標を掲げてレースを走ろうと、ウマ娘個人の自由なはずだ。それを応援して見守るのが、本当のファンというものでは?』といった肯定的な書き込みも、少なからず見られた。
ネットでレースファンが匿名で騒ぎ立てるのは、いつものこと。
それだけなら、なんてこともなかった。
だがレース界の大御所であり、政財界にも大きな影響力を持っていると言われている初代三冠ウマ娘・セントライトさんがURAの公式HPと
『シェリルジョーダンさんが自らの夢を追いかけようとする姿勢は、素晴らしいものだと思います。もちろん私も先達の一人として、彼女の夢を応援したい。しかしクラシック三冠というものは、ウマ娘にとって特別な意味を持つもの。距離もレース場もまったく違う戦場をたくさんのウマ娘たちが目標にし、本気で切磋琢磨することによって、私たちの世界は発展してまいりました。日本のレース界のためにも、私は二冠を制したウマ娘には三冠に挑戦する【義務】があると考えます。シェリルジョーダンさんには天皇賞・秋への出走を考え直していただき、ぜひ菊花賞へ挑戦してもらいたい、というのが私の本心であります』
セントライトさんのお気持ち表明以降、トレセン学園には『菊花賞に出走するよう、理事長以下、理事会がシェリルジョーダンを説得すべきだ』というクレームの電話やメールが入ったり、『世間は色々言うだろうけど、シェリルジョーダンさんの夢を守ってあげてほしい』という応援メッセージが送られてきたりと、その対処に追われて大変なようであった。
*
で、その騒ぎの渦中にいる本人はと言えば、至って平常運転といった感じだった。
「いやぁ。騒ぎにはなるだろうな~とは思っていたけど、ここまでのことになるとは思わなかった~」
世間に大争論を巻き起こしたダービーから数日経った、夕食後。
シェリルはまるで他人事のようにそう言って、大井レース場名物の蹄鉄の形をしたパイ菓子をかじった。
何でもこのお菓子は先日、東京ダービーを見に行った時のお土産らしい。
自分がダービーを制したすぐあとに、ダート三冠のレースを一見物人としてわざわざ見に行った理由を聞くと、『レースって自分が走るのは大変だけど、人が走るのを見ている分には気楽にエキサイティングできて楽しい。特にダートを走っているウマ娘とは、基本戦うことがないからね。純粋に観戦を楽しめるんだ』とのこと。
まぁその気持ちは、同じウマ娘として分からないでもないけどね……。
それにしたって今このタイミングでレース観戦に出かけるとは、彼女のレース好きは本物のようだ。
シェリルのレースフリークっぷりはともかくとして、確か寮の部屋への食べ物の持ち込みは禁止されているはずだったけど……きっと寮長か寮母さんの許可を取ったのだろう。
私はそう信じて、彼女と同じように食していたU字型のパイを飲み込み、
「でも、大丈夫なの?」
「ん、なにが?」
「ネットでも色々言われてるみたいだし、あのセントライトさんまでお気持ち表明されて、世間は大騒ぎじゃない。シェリルのメンタル、大丈夫なのかなって……」
私の心配のよそに、彼女は軽く笑った。
「ああ、うん。ダイジョブダイジョブ。あたし、割と何言われてもヘーキなタイプだし。それに昨日、理事長室に呼ばれたけど、秋川理事長は『キミのしたいようにするがいい!』って励ましてくれたし、たずなさんにも『私たちはあなたの夢を応援していますよ』って言ってもらえたしね」
「そうなの。でもセントライトさんの【お気持ち】を差し置いてでも、理事長とたずなさんが応援してくれるなんて……。上の人の意向と違うことして、問題にならないのかしら」
トレセン学園は、組織図でいうならURAの下部組織にあたる。
URAの重鎮であるセントライトさんは、お二人の絶対的な上司であるはず。
理事長とたずなさんの二人がシェリルを応援することは、セントライトさんに反旗を翻す……は言いすぎかもしれないけれど、それなりに勇気のある行動であることは確かだ。
「いや、なんでもね? 理事長が言うにはセントライトさんのお気持ち表明演説のあと、たずなさんがセントライトさんに一言、言ってくれたみたいでさ。それであちらの態度も軟化した……っていうか、たずなさんにホントのところを聞かせてくれたみたい」
「ホントのところ?」
私が首を傾げると、彼女はうん、と頷いて上層部の事情を教えてくれた。
「どうやらセントライトさんは立場上、あのお気持ち表明をしないわけにはいかなかったっぽい」
たずなさんから聞いた時のことを整理したのか、シェリルは一瞬黙考してから続ける。
「ほら。いってセントライトさんは初代三冠ウマ娘なわけだし、あの人がああ言わないと、レース界がもっと混乱した可能性があったんだってさ」
「なるほどねぇ……」
シェリルの菊花賞回避を快く思っていない人は、URAの上層部に相当数いたのだろう。
組織のエラい人がそれぞれにシェリルを批判したのでは、『URAはウマ娘の夢を組織だって邪魔するのか』という声がファンの間から出かねないし、そうなると事態を穏便に収拾するのが非常に難しくなってしまう。
今回の件は、重鎮であるセントライトさんが先んじてシェリルに対して厳しい【お気持ち】を発表してしまえば、他のお偉いさんたちに『セントライトさんがそういったのなら……』という心理が働いてシェリルを非難しづらくなる、という狙いがあったのだ。
「それにしても……たずなさんはよくあのセントライトさんに物申すことができたわね。私が彼女の立場だったら、クビが怖くてそんなことできないと思うわ」
私の疑問にシェリルもうんうん、と首肯する。
「だよね~。あのヒト、学園内にミョーな影響力持ってるっぽいよね。肩書は一応理事長秘書らしいけど、一体何者なんだろ?」
「たずなさんには、いろんな噂があるわよね……」
さる高名な家柄の出身らしい、というありがちな話から、トレーナーの運命を操作しているというオカルトじみた噂まで、彼女の風説については枚挙にいとまがない。
毎年2月に行われている共同通信杯となんらかのつながりがある、なんて話もあるが、その真偽は
「ま、たずなさんのことはひとまずおいといて。セントライトさんは『気持ちを表明した手前、自分はシェリルジョーダンさんを応援できないけど、彼女がどんな道を選ぼうと私は静観するつもりです』って言ってくれてるみたい」
「それなら、何の遠慮もなく菊花賞を蹴って天皇賞・秋に臨めるわね」
そういう私に、彼女はシニカルな笑みを浮かべた。
「例え全世界があたしの秋天出走に反対しても、あたしは絶対に出走するよ。まぁさすがに【昔みたいに秋天もシニア級以上しか出れないようにルール変更します!】までやられたら、お手上げだけどね」
冗談っぽく言うシェリルだったが、目がまったく笑っていない。
その恐ろしい笑みが、彼女の夢に対する本気度を伺わせて、私は「あはは……」と乾いた笑いを返すことぐらいしか、できなかった。
実際URAがその気になれば、出走ルールの変更ぐらいわけもない。
もしURAが三冠の威光を守るためにそんなことをすれば、シェリルがどんな行動に出るか、まったく想像もつかなかった。
「あたしのことはともかくとして。レイナはメイクデビュー近いんっしょ?」
重くなりかけていた空気を振り払うかのように、シェリルは話題を切り替えてくれる。
行きたくもないお手洗いにでも立って空気感変えたいな、と思っていた私は、ありがたくその話に便乗することにした。
「ええ。トレーナーと相談してるのだけど、7月中のデビューを予定してるわ」
「おっ、いいじゃん。そういや、あたしも7月デビューだったなぁ。早い内デビューして勝っておけばいろんな道筋が考えられるし、出走ポイントも加算しやすいから、クラシック出走狙ってるなら絶対早いデビューのほうが有利だよ」
「えっ、シェリルって7月デビューだったの?」
ジュニア時代の彼女の戦歴は2戦目に11月末の東京スポーツ杯ジュニアステークスを勝って、年末のホープフルステークスを2着、というものだったから、てっきり初秋デビュー組だと思っていたのだけれど。
「うん。あたし、本格化したのが中等部3年の1月ごろだったからさ。7月頃にはもうメイクデビューを戦える状態だったんだよね。それなら出走しようか、ってことになって運よく勝って、そのあとは11月の東スポ杯までレースに出ないでトレーニングに専念してたって感じかな」
「なるほど。メイクデビューに勝ってしまえばジュニア時代はGⅠ以外、ほぼどのレースにでも出られるものね」
「そそ。それなら無駄にレースで脚を消耗することもないかなって」
レースでは、トレーニングとは比較にならないほど心身を酷使する。
どんなに頑丈なウマ娘でも、過酷なレースで使われた脚への疲労は、間違いなく蓄積されてゆく。
そうして万一にも限界を超えるようなことがあれば……悲惨な結果が待っている。
これは何も、レースで走れるのは10戦という縛りを持つ私だけに限った話じゃない。
消耗度に個人差はあるが、無理に目標以外のレースに出走しないで済むなら、それが一番いい。
「レイナはメイクデビュー勝ったあと、どうするつもりなん? 実戦慣れするために定期的にレースに出るん? それともあたしみたいに、GⅠレース狙い撃ちって感じ?」
気が早すぎるシェリルの質問に、わたしは軽く笑いながら肩をすくめた。
「そんな先のこと、まだ決めてないわ。だいたい、メイクデビューを勝てるかどうかなんて、分からないわけだし」
「ふ~ん……ま、レイナはレイナの考え方があるか」
そう言うとシェリルは腰を浮かせた。
「お手洗い?」
「それもあるけど、甘いの食べてたら喉乾いてきた。ジュース買ってくる。レイナは、なにがいい? ついでに買ってくるよ」
甘味に水分を持っていかれているせいか、私も少しのどが渇いていることに気がついた。
「えっと、そうね……。じゃあコーヒーの微糖お願いできる?」
「オッケー」
「待って待って」
人差し指と親指でOマークを作って部屋を出ていこうとするシェリルを、慌てて呼び止める。
「どしたん?」
「お金。送金するからスマホ出して」
私がポケットからスマホを取り出すと、なぜかシェリルはちょっと気取ったように立てた人差し指を振って、ウインクした。
「いいよ、奢っとく」
「でも」
私が遠慮しようとすると、彼女はまるで偉大な王様のように豊満な胸をぐいっと張った。
「言葉を慎み給え! 君はダービーウマ娘の前にいるのだぞ!」
「……はぁ。そうですね……」
いきなりの、古いアニメ映画をパロったセリフに、私は面食らってしまった。
まぁウマ娘からすると太古に滅んだ国の王様より、ダービーウマ娘のほうが偉いのは確かである。
「じゃあ、ごちそうになります……」
「うむ、良きに計らえ」
シェリルは尊大に言うと、機嫌良さげに部屋から出ていった。
そうして皐月・ダービーの二冠王が奢ってくださった微糖の缶コーヒーは、甘味のあとに飲んだせいか、いつもより少し苦みが強いように感じられた。
*
スタート地点から坂の頂上を見上げると、わずかに景色が歪んで見える。
まだ6月も始まったばかりだというのに視界の先には陽炎が立ち上っていて、ひどく蒸し暑い。
「はっ!」
額から滴り落ちる汗をひと拭いしてから、私は熱の立ち上る坂路へ向かって走り出す。
頬と額に感じられる向かい風が、生ぬるい。
蹄鉄に感じられるウッドチップの反発が、心地よい。
心肺機能と脚の筋肉を効率良く鍛えられる坂路では、たくさんのウマ娘が走り込んでいる。
先に走っていた娘を追い抜いたり、時には追い抜かれたりしながら、私はトレーナーさんから指示されたペースで坂道を駆け上がってゆく。
「っ!」
突然、頬に鋭い痛みが走った。
どうやら前を走るウマ娘が蹴り上げたウッドチップの破片が、顔面を直撃したらしい。
それでも私はペースを乱すことなく、前だけを見て走り続ける。
レースでも、前のウマ娘が蹴り上げた芝の塊が直撃するなんてことは、よくあること。
練習中の小さなアクシデントも、トレーニングの一環なのだ。
残り100mのハロン棒を通過した。
「……ふっ!」
最後は強めに、とトレーナーさんから指示を受けていた私は、大腿四頭筋に力を込め、ラストスパートを掛ける。
流れてゆく景色が、一段と速くなる。
吹き付けてくる風が、長い髪を乱す。
全力を出した私は前を走っていた3人のウマ娘を追い抜き、ゴール地点へと駆け込んだ。
「ふうっ……。タイムは、どう?」
私は額に張り付いた髪をかき上げ、ラチの外で走りを見守りながらタイムを取っていたトレーナーに声をかけた。
「うん、良いタイムだったよ。それ以上に指示通りにペース配分できていることが素晴らしかった。君の脚質はお母さんのサイレンススズカと同じ、逃げだからね。レース中のペース配分が命と言っていい」
スマホを見ながら、トレーナーさんが私の走りを褒めてくれる。
「ありがとう。体内時計の感覚には、ちょっと自信があるのよ」
私が胸を張ると、トレーナーさんも満足げに頷いてくれた。
「うん、その意気だ。今の調子で仕上げていけば来月の頭にはメイクデビューで戦える状態に持っていけそうだね」
「……!」
メイクデビュー。
彼の言葉に、胸が高鳴る。
「よし。じゃあ今日はダートを1000m軽く走って終わりにしようか。レース前にはもう少し負担を掛けていくから、そのつもりでいてほしい」
「ええ、分かったわ」
トレーナーさんの指示に、私は力強く首を縦に振る。
いよいよ、私もスタートを切るのだ。
お母さんが追い求めた、まだ見ぬ先頭の景色へ向かって。
高揚した気持ちのままに、私はダートコースへ向かって駆け出した。