7月前期・函館レース場メイクデビュー・芝1800m。
それが私の戦うデビュー戦だ。
東京から飛行機で飛び立ち、函館に降り立った瞬間、まず驚いたのが空気の質の違いだった。
気温は東京とほとんどど変わらないはずなのに、大気が肌にまとわりついてくるような、べったりした嫌な感じがまったくしない。
トレーナーさんに理由を聞いてみると「東京とは全然湿度が違うからなぁ」とのこと。
到着してすぐスクーリングのために初めて脚を踏み入れた函館レース場は、緑の濃い、美しいターフを擁する素晴らしいレース場だった。
だがトレセン学園で走っている芝コースより、少し深くて重たい感じがする。
これは北海道は寒冷地であるため、寒い時期でも枯れにくい洋芝を使っているかららしい。
確かに少し脚元が重厚な感じはするが、少し走ってみたところ、大きな違和感を覚えるほどではなかった。
慣れない芝に脚を取られて能力が発揮できない、ということはなさそうだ。
メイクデビューに備えてのトレーニングは、しっかりやってきた。
タイムもそこそこのものを叩き出し、追い切りを見た専門誌もファンも私を一番人気に推している。
メイクデビューをいきなり一番人気で戦うことに、プレッシャーがないわけじゃないけれど。
【サイレンススズカの娘】としてトゥインクルシリーズにデビューする以上、様々な人たちの期待を背負うことは覚悟していた。
そのうえで私ができることはただ一つ。
出走するレースに、自分の全てをぶつけることだけだ。
*
控室で体操服に着替えた私は、備え付けの椅子に腰掛けて深呼吸を繰り返していた。
……いつもより明らかに吸い込みが速く、空気が吐き切れていない。
「緊張してるのかい?」
「やっぱり、多少はね」
声をかけてくれたトレーナーさんに、私は軽く笑って素直に頷く。
トゥインクルシリーズのデビュー戦は、幼い頃から走ることに人生のほとんどを捧げてきた者にとって、ただの
【走りのプロ】としてのスタート地点であり、今まで自分が積み上げてきたものを試される、最初の大一番でもあるのだ。
「……そういうトレーナーさんも、ちょっと顔色悪くない?」
私の指摘は図星だったらしく、困ったような笑みを浮かべながら、彼はポリポリと右手の人差し指で頬を掻く。
「バレちゃったか。どうも、俺は気が小さいみたいでね。担当してる娘のメイクデビュー前夜は、いつも寝付きが悪いんだ」
「そうなの? 担当のデビュー戦なんて、もう何回も経験してるでしょ?」
「まぁね……。でもメイクデビューっていうのはトレーナーにとって『担当ウマ娘を無事にデビューさせる』という最低限の仕事の区切りでもあるし、できることなら勝たせてやりたい、という欲も出てくるレースなんだよ」
「ふ~ん……そういうものなのね」
私はなんてことないように頷いたが、『できればメイクデビューを勝たせてやりたい』という気持ちは、担当を持った全トレーナー共通の想いだと思う。
担当がメイクデビューに敗れ、その後に続く未勝利戦もクラシック級の5月末までに勝てなかったら……どんなに強く望んでも、そのコンビはもう中央で走り続けることはできない。
なぜなら中央のレース番組にクラシック級の未勝利戦が組み込まれているのが、5月末のダービーウィークまでだからだ。
未勝利を勝ち上がれなかったからと言ってトレーナーと担当ウマ娘が今生の別れを強いられるわけじゃないけど、少なくとも二人で中央での勝利を追いかける、という夢は閉ざされることになる。
未勝利を脱出する、というのはウマ娘とトレーナーにとってささやかな願いであると同時に、二人がトゥインクルシリーズで戦い続けるために突破しなければならない、最初の壁なのだ。
「ま、そんなわけで俺の緊張はいつものことだし、心配しなくても大丈夫だよ。俺のことなんかより君の緊張感はどうだい?」
「ん、そうね……。こうして話していたら、少し気持ちが楽になった気がするわ」
少々緊張こそしているものの、最初のマイルストーンを突破するために、今日はなにが何でも勝たないといけない、なんて思い詰めることはなかった。
今日、私が勝利できるかは、わからない。
でも私とトレーナーさんなら、一勝という壁は必ず突破できる。
彼と契約を結んだときから、私はそう信じていた。
「それはよかった。デビュー戦で緊張しているのは、君だけじゃない。初めてのレースの怖さは、今日出走しているみんなが感じていることだよ。恐れずに走ってくるといい」
小さく微笑みながら、トレーナーさんは私の肩をポンと優しく叩く。
ふと壁掛け時計に目をやると、パドックへ行く時間になっていた。
「じゃあ、そろそろ行くわね」
「ああ。いってらっしゃい」
手を振って送り出してくれるトレーナーさんに私も軽く手を上げて、控室をあとにした。
*
初夏らしい爽やかな日差しが、パドックに降り注いでいる。
函館レース場のパドックには、土曜日の午前中とは思えないほどの人が詰めかけていた。
「おお、あれがサイレンススズカの娘か」
「すごく綺麗な娘! 栗色の長い髪が、本当にお母さんにそっくりだわ」
「歩様のバランスがとてもいいな。他の娘には悪いが、今日ばかりはサイレンスレイナの一本かぶりだ」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
ここに集まっている人たちが、私だけを見に来たわけではないだろう。
でもあのサイレンススズカの娘として、注目の新ウマ娘として、たくさんの人の耳目を集めているのも、また事実であった。
私は今日、75%の単勝支持率を集めている。
これだけの人気を背負って負けるわけにはいかない、と思う反面、このメンバーになら十分に勝算はある、という自信もあった。
今日のメイクデビューには7人が出走しているが、逃げるウマ娘は私しかいないし、枠も逃げに有利な2枠2番。
追い切りのタイムも、私が一番優秀だった。
大丈夫。
私はきっと、ファンの期待に応えられる。
トクントクンと、いつもより少し早い脈打つ胸に手を当てながらパドックの舞台に登壇すると、大きな拍手が湧き上がった。
「スズカの娘! がんばれよ!」
「スズカみたいな見事な逃げを、見せてくれ!」
母の幻影に私の重ねているファンの声援が、聞こえてくる。
私の走りにお母さんの姿を重ねるようなことをいう人には、今まで何度も出会ってきたし……私は決して、それが嫌ではなかった。
今はお母さんみたいに、たくさんの人を惹きつけるような走りはできないけれど、お母さんに顔向けできないようなレースだけはしないから。
私はファンと天国にいるお母さんにそう誓い、観客席に向かって小さく手を振った。
*
パドックから地下通路を通り抜けると、スタンドからメイクデビュー戦とは思えない大歓声が耳に入ってきた。
「スズカの娘! がんばってくれよ!」
「夢の続きを、見せてくれ!」
あちこちから、そんな声が聞こえてくる。
夢の続き、か。
今の私には、まだまだ先の話だけど。
今日はその夢への第一歩だ。
そう思うと、胸が高鳴る。
気持ちが、昂る。
ファンの期待を決意に変えて、私はゆっくりとターフへと駆け出してゆく。
本バ場入場の時のトロットは、何気なく見えてレース前の大切なウォーミングアップだ。
一歩一歩、脚の具合と芝の感触を確かめながら、ゲートへ向かう。
戦う前の脚慣らしも済み、ゲート前に到着すると、私より先に本バ場へ入場していた集まったウマ娘がゲート入りを待っていた。
こちらを睨みつけたり、あからさまに視線を避けたりするウマ娘はいなかったが……彼女たちからは一番人気を背負う私に対する、静かな闘志が向けられているのを感じられる。
彼女たちも幼少期から中央でデビューするまで、苛烈なレース界の競走社会を勝ち抜き、先頭を突っ走ってきたエリートたちだ。
どのウマ娘にも、選ばれし者の矜持とプライドがある。
母のネームバリュー込みで圧倒的一番人気に推されている私のことが、彼女たちにとって面白いわけがない。
楽なレースは、させてもらえないだろう。
先に、奇数の枠順を与えられたウマ娘たちがゲートに入る。
2枠の私は7番の娘がゲートインしたのを見届けてから、ゆっくりとゲートの中に入った。
隣の娘の、少し荒い息遣いが聞こえてくる。
彼女も緊張しているのだろうか。
ゲートの狭い空間で脚元を軽く蹴る。
バ場は、良。
このコンディションなら、初めて走る洋芝でもほとんど影響なさそうだ。
6番の娘がゲートに収まった。
全員、ゲートイン完了。
鉄扉の開く乾いた音が、夏の空気を切り裂いた。
私は
私のダッシュを目の当たりにした観客から、大きな歓声と拍手が湧いた。
……拍手と喝采を送った観衆の中には、私と亡き母の姿を重ね合わせた人もきっといたことだろう。
とても光栄に思う反面、恥ずかしいレースはできない、と気を引き締め直す。
まずは先頭を奪い切り、そのまま内ラチ沿いの経済コースを確保しようとすると……一人のウマ娘が、私に猛烈な勢いで並びかけてきた。
「!」
前情報では逃げは私しかいなかったはずだが、作戦を変更したのか。
それとも最初から私に鈴をつけに来るつもりで、情報を伏せていたのか。
彼女は私を追い抜かさんと、外側から覆いかぶさるように並びかけてくる。
……でも!
「ふっ!」
私は彼女を振り払おうと、もう一段加速してみせた。
だが彼女も私に先を譲って二番手で妥協する、なんてつもりはさらさらないようだ。
「……!」
あちらも意地を見せて、私に競りかけてくる。
しかし私は彼女をさらに突き放して、頑として先頭を譲らない。
先頭を巡る、激しい鍔迫り合いが続く。
予想外の展開だったのか、スタンドからはどよめきの声が聞こえてくる。
そうして、400mが過ぎただろうか。
「ちっ、バカバカしいっ! 付き合ってられないわ。勝手に行って、勝手に潰れてちょうだい!」
ようやく彼女は、私から先頭を奪うことを諦めたようだ。
減速して二番手に位置取り、呼吸を整えている。
それを見て、私もようやく少しペースを落とす。
「はっ……はぁっ……はっ……」
先頭を死守したのは良かったが、最初からデッドヒートを繰り広げたせいで、息が激しく乱れている。
大量の汗が、額から滴り落ちる。
スタミナだって、かなり消費してしまった。
でも、これでいい。
これが、私の――サイレンスレイナの――レースなのだ。
最初の1000mを通過した。
デッドヒートのどよめきが、今度はざわめきに変わった。
正確なタイムはわからないが、相当なハイペースになっているはず。
私の体内時計は、1000mの通過タイムを57秒台後半から58秒台前半だと告げている。
確かに速い。
成長途中のウマ娘が戦うメイクデビューということを考えれば、なおさらだろう。
普通のウマ娘なら、逃げ潰れて当然のペースだ。
「……ふぅっ……はぁっ……」
私はここで一旦、息をゆっくり、それでいて思い切り吐き出し、空気を吐き切ると同時に意識的にゆっくりと酸素を吸い上げた。
少しばかり脚色が鈍り、二番手の娘の蹄音が大きくなる。
「ふんっ、やっぱりもうバテちゃってる。あんなペースで、いつまでも先頭を走れるわけないじゃない」
ひそかなつぶやきが聞こえてくるぐらいの距離に、彼女はいるらしい。
彼女の言い分も、一理ある。
お母さんはスピードこそ天性のものを持っていたが、その性格は極端なまでの逃げウマ娘で、先頭であろう、先頭であり続けよう、という意識があまりにも強かった。
本能的なものだろうか、逃げウマ娘は呼吸も忘れて、最初から最後まで一気に駆け抜けようとしてしまう者が多い。
まさか本当に無呼吸で走っているわけではないが、どんな天才逃げウマ娘でも、わずか数度の呼吸でレースを勝ちきるのは不可能だ。
逃げウマ娘につきまとう、レース中の呼吸の課題。
古今東西、才能のあるはずの逃げウマ娘が、この課題を克服できずに単なるペースメーカー、もしくは一発屋としてレースの歴史に埋もれてきた。
クラシック期にお母さんが、天賦の才を持て余していた理由。
それもまた、呼吸をおざなりにし、一気呵成にレースを駆け抜けようとする本能のせいだった。
そんなお母さんが、史上最強の中距離ウマ娘として歴史に名を残すことができたのは……。
「……はっ!」
意図的に呼吸のスピードを落として新鮮な空気をたっぷり肺に溜め込んだ私は、再び一気に加速する。
また後ろを引き離し始めた私を見て、観客席からは歓喜の声が湧き上がった。
「これだよ! これが見たかった! うまく息入れて、突き放す。全盛期のスズカの走りだ!」
そう。
お母さん……とトレーナーだった父……は試行錯誤の末、あらゆる逃げウマ娘たちが試しては失敗してきた、【レース中盤にうまく息を入れ直す】という呼吸法を身につけた。
スピードのみを頼りに、一息でレースを走り切ろうとしていたお母さんが、逃げながら呼吸をコントロールできる
その結果は、お母さんのシニア期の走りが証明している。
私は幸運にも、この呼吸法を幼い頃にお母さんから直接教わることができた。
ただ教わるだけでは、マスターすることは難しかったと思う。
なにせ、今まで数多の逃げウマ娘たちが習得を目指して挫折してきた手法だ。
でも、私はサイレンススズカの娘だった。
血統が、困難の克服を可能にした。
それはサイレンススズカという偉大なウマ娘が
私は母の遺産を武器にして呼吸を完璧にコントロールし、先頭のまま第四コーナーを曲がって直線へと向かう。
後続の足音は、もはやまったく聞こえない。
私の耳に入ってくるのは、吹きつけてくる向かい風の音と、スタンドからの割れんばかりの大歓声だけ。
もう、勝ち負けは決している。
でも私は、まだ脚を緩めない。
お母さんが、見た景色を。
お母さんが見たいと願った、先頭の先の景色を。
私も、見たいと願ったから。
ゴールが、近づいてくる。
観戦しているファンたちの声が、ますます大きくなる。
夏の風を身に纏い、私はトゥインクルシリーズ最初のゴールを先頭で駆け抜けた。
拍手と、私を称える声が観客席から聞こえてくる。
思わず、笑みがこぼれた。
今日のレースを見に来てくれたファンたち向けて、自然と私は小さく手を振っていた。
私のささやかなパフォーマンスに、スタンドからは一段と大きな拍手が沸き起こる。
「…………」
これも、お母さんが見たいと願った景色のひとかけらなのだろうか。
速度を緩め、ゆっくりと立ち止まり、ふと視線を上げてみる。
すると、彩度の高い夏の空気の中に、美しい函館山の山影が見えた。
たどり着きて、未だ山麓。
どこかで見知った、哲学的な響きを持った言葉が、私の脳内をよぎっていった。
*
「レイナ、初勝利おめでとう! 本当によく頑張ってくれた!」
ウイニングライブを終えて控室に戻った私を、トレーナーさんは満面の笑顔で出迎えてくれた。
「ありがとう。これもトレーナーさんの適切な指導のおかげね」
「いやいや。俺は君がレースで力を出し切れるよう、サポートしているだけだよ。レースでの勝利は、間違いなく君の努力と実力によるものだ」
自分の納得のいくレースで勝った時に、褒められて悪い気がするウマ娘はいない。
トレーナーさんからの惜しみない賛辞に、つい口角が緩んでしまう。
「だといいけれど。次もがんばるわ」
「うん、その調子だ。それにしても、本当にデビュー戦を勝利で飾れて良かった」
トレーナーさんは深い安堵のため息をつきながら、椅子にゆっくりと腰掛ける。
今日の勝利で、少なくとも敗北が私たち二人を引き裂くということだけはなくなった。
彼はそのことに、胸をなでおろしているようだ。
トレーナーにとって、勝てないがために担当を失うことほど悲しいことはない、と聞く。
ウマ娘にとっても、自分が勝てなかったせいで契約が打ち切られてしまう痛みは、耐え難いに違いない。
それに加えて……メイクデビューに勝てたことで、一度も勝てずに現役を終える、という最悪のシナリオだけは回避できた。
デビュー戦を白星で飾ることができて、一番ホッとしたのは私かもしれない。
私の競技生活はとりあえず良いスタートを切れた、と言っていい。
……それと同時に、引退へのカウントダウンも始まった。
残り、9戦。
残された時間は短く、目指す場所は遠い。
浮かれてばかりもいられない。
トレーナーさんが机の上に用意してくれていたスポーツドリンクの冷気を手のひら全体で感じながら、これからの厳しい道程を想う。
喉を通る冷たい塊が、改めて私の気を引き締めてくれた。
***
レイナのメイクデビューを、シェリルは昼食後の休憩中に、足のケアをしながらURAの公式ホームページのアーカイブで観戦していた。
結果は後続を7バ身突き放しての、ジュニアレコードでの圧勝。
「……ま、これぐらいのパフォーマンスは見せてくれるよね」
ひとりごちながら動画を閉じると、母のトーセンジョーダンが今年の誕生日に買ってくれた、愛用の最新スマホで今度はSNSを覗いてみる。
ウマッターのタイムラインを読み流すと、レイナのレースを見たファンたちが、やたらに騒ぎまくっているようだった。
さすがサイレンススズカの娘だ。
来年は3つとも、この娘が持っていくんじゃないのか。
デビュー戦からこれだけのレースセンスを発揮できるだなんて、きっと素質は母以上のものがあるに違いない。
レイナの資質を称賛するたくさんのポストを、シェリルは醒めた目で眺めながらスクロールする。
今日のレースを見て、世間はようやく気づいたらしい。
サイレンスレイナという、恐ろしい才能を秘めたウマ娘の存在に。
大衆というのはなんと見る目がなくて、鈍感なのだろう。
あれだけの才気を放つウマ娘の実力を、実際にレースで見るまで感じることができないだなんて。
自分は、初対面で分かってしまったのに。
今まで戦ってきたウマ娘たちとは、バ体から感じるオーラが違った。
「たぶん来年にはきっと……あたしのライバルになって、秋の天皇賞に現れる」
春の二冠で勝負づけが済んだ同期は言うに及ばず、先輩方には申し訳ないが、今のシニア世代にも自分を今年の秋天で打ち負かすほどのウマ娘は見当たらない。
【盾の守護者】の一族であるメジロ家の令嬢で、去年の秋天の覇者、メジロレムはすでに引退しているし、そのメジロレムの双子の姉で、アーモンドアイに並ぶGⅠ・9勝をあげている現役最強のメジロラムは、現在欧州へ長期遠征中。
いま日本総大将と目されている生徒会長のシンボリライザからは母・シンボリルドルフやメジロラムほど、絶対的な安定した強さは感じさせなかった。
だが、レイナは違う。
彼女が見せたメイクデビューでのパフォーマンスは、彼女の持つ才能の片鱗に過ぎない。
これからレース経験を積み、無事に全盛期を迎えれば、彼女の母親であるサイレンススズカにまさるとも劣らない、史上最強の中距離ランナーになる可能性を秘めている。
シェリルはレイナの才能を、そのレベルで見積もっていた。
来年は全盛期のサイレンスレイナが、間違いなく秋の天皇賞に出走してくる。
その時、自分の力が大きく衰えているとは思わないが……究極の中距離血統に生まれた絶頂期のサイレンスレイナを打ち負かせるかは、二冠ウマ娘・シェリルジョーダンの実力を持ってしても確信が持てなかった。
そうなると、若さと勢いがあり、自分が現役ウマ娘の中で一番強いと自信を持って言える今年が、秋天でレコード勝ちを狙える最大のチャンスになってしまうかもしれない。
「うん……」
レイナとの勝負が、怖いわけじゃない。
むしろあれだけの才能を持つウマ娘と競い合えるだなんて、想像するだけで本能が激しく昂ってくる。
勝ち負けの話じゃない。
自分の夢が潰えてしまうことが、恐ろしいのだ。
シェリルは、かの天才イクイノックスが母から奪ったレコードタイムを奪い返すために、トレセン学園にやってきた。
それが達成できないのであれば、自分は何のためにここにやってきたというのか!
「そうだ。菊花賞なんてくれてやる。あたしは、あたしの夢を叶えるんだ」
シェリルは足の爪の手入れの仕上げに、丹念にハードナーを塗り込む。
彼女も母同様、足の爪が弱かった。
でも、こんなのハンデのうちにも入らない。
ママも、同じハンデを背負っていた。
それでも秋の天皇賞という最高峰の舞台で、あのウオッカさんが持っていた芝2000mの日本レコードを、みごと更新したのだから。
偉大なママの娘のあたしが、同じことができないわけがない。
「……メロス。爪の手入れはこんなものでダイジョブ?」
シェリルはスマホを撮影モードにしてから、自分の足に向ける。
『はい、完璧です。今の爪の状態なら、今日のトレーニングメニューを問題なくこなせます』
スマホに搭載されたウマ娘トレーニング特化型最新AI・【メロス】が、無機質な女性の声で応えた。
「よし。じゃあしっかりウッドチップ走り込みますか。メロス、しっかりタイム取っておけし!」
『了解しました。がんばってください』
信頼するAIの声援を受けると、シェリルは見るものを戦慄させるスタートダッシュを切り、木片の敷き詰められたコースへと駆け出していった。
長文読了、お疲れさまでした。
今回は初めて、2話連続投稿という形を取らせていただきました。
先日『投稿スピードが落ちてしまうかもしれない』という活動報告をさせていただいたのですが、それは実際、今年に入ってから更新できていなかったことで『執筆速度が落ちてるな…』と感じていたからなんですね。
しかし、15000字も書いていればそりゃ更新できないわけだ……と気付いた次第で(長文を書いていることに気づかないなんてそんな事ある? と読み専の方は思われるかも知れませんが、書き手は意外とそのことに気づかなかったりするんですよw)、それなら読みやすいように2つに分けて掲載しよう、と思い立ち、今回のような形にさせていただいた次第です。
少しでも長文を読む負担を軽減し、皆様に楽しんでいただければ良いのですが…。
今回も長文にもかかわらず、最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。
また近い内に第十話を掲載したいと思っておりますので、引き続きのご愛読、よろしくお願い致します。