ジェンティルドンナと幼馴染トレーナーのラブラブ生活 作:雅媛
秋風が吹き抜ける京都競バ場。
万雷の拍手の中、ジェンティルドンナは三本の指を高く掲げていた。
桜花賞、オークス、そして秋華賞。
彼女はついに、歴史に名を刻む「牝バ三冠」を達成したのだ。
だが、その栄光の裏で、不穏な歯車が回り始めていた。
レース後の祝勝会会場。
少し席を外したジェンティルドンナは、控室の奥から漏れ聞こえる話し声を耳にしてしまった。
それは、彼女の父と、学園の理事たち、そして見知らぬ外国人エージェントの声だった。
「――ジェンティルドンナの才能は、もはや国内の枠に収まりません」
「ええ。シニア級からは海外遠征を主軸にすべきでしょう」
「今のトレーナーでは、経験不足は否めない。世界と戦うには荷が重すぎる」
「既に話は進んでいます。彼には、相応の退職金とポストを用意して……」
ジェンティルドンナの血の気が引いた。
トレーナーを変える? お兄ちゃんを解任する?
しかも、「話は進んでいる」ということは、彼も既に了承済みということなのか?
(嘘……。嫌よ、そんなの)
(三冠を取ったら、ずっと一緒にいられるんじゃなかったの?)
彼女は踵を返した。
祝勝会に戻る気にはなれなかった。
頭の中を支配するのは、焦燥感と、彼を奪われる恐怖、そして理不尽な大人たちへの猛烈な怒りだった。
(渡さない。誰にも、お兄ちゃんは渡さない!)
翌日。トレセン学園。
トレーナーは、執務室で山積みの書類と格闘していた。
三冠達成の興奮も冷めやらぬまま、次走のジャパンカップ、そして来年のスケジュールの調整に追われているのだ。
「……ふぅ。これで一段落か」
コーヒーを啜り、一息ついたその時だった。
ガシャーーーン!!
凄まじい音と共に、執務室の窓ガラスが粉砕された。
3階にあるはずの窓から飛び込んできたのは、芦毛の怪物――ゴールドシップだった。
「よぉ兄ちゃん! お迎えだぜぇ!」
「は!? ゴ、ゴールドシップ!? お前どこから……」
混乱するトレーナー。
さらに、ドアがバンッ! と乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、ヴィルシーナとブエナビスタだった。
「失礼しますわ! 緊急事態ですので!」
「トレーナーさん、ごめんなさい! でもドンちゃんがどうしてもって!」
彼女たちは雪崩れ込むと、トレーナーの退路を断つように配置についた。
「な、なんだ!? 何の騒ぎだ!?」
「静かにして。主役のお出ましよ」
ブエナビスタが道を開ける。
その奥から、コツ、コツ、とヒールの音が響いてきた。
現れたその姿に、トレーナーは息を呑んだ。
純白のレース。ふわりと広がるスカート。
それは以前、イベントで獲得した「ウェディングドレス風勝負服」を身にまとった、ジェンティルドンナだった。
だが、その表情は花嫁のそれではない。
戦場に赴く戦乙女の形相だった。
「……ドンナ? なんでその恰好……」
「迎えに来ましたわ、お兄ちゃん」
彼女はトレーナーの目の前まで歩み寄ると、有無を言わさぬ迫力で彼を見下ろした。
「大人たちが何を言おうと、実家がどんな圧力をかけようと、関係ありません。貴方は私のものです」
「え、ちょ、何の話……」
「問答無用!!」
ジェンティルドンナはドレスの裾を翻すと、トレーナーの体に手を回し、
ヒョイッ。
彼を軽々と持ち上げた。お姫様抱っこである。
「うわあああっ!? またかよ!?」
「行きますわよ! 舌を噛まないように気をつけて!」
彼女はそのまま、窓――ではなく、ドアへ向かってダッシュした。
学園内には、騒ぎを聞きつけた実家の黒服や、学園のスタッフたちが集まってきていた。
「いたぞ! ジェンティルドンナ様だ!」
「止まれ! トレーナーを降ろしなさい!」
行く手を阻む大人たち。
しかし、彼女の「協力者」たちが立ちはだかる。
「へっ、通さねーよ!」
ゴールドシップがどこからか取り出したセグウェイを乗り回して立ちはだかる大人たちを跳ね飛ばす。
「今のうちですわ! 行ってらっしゃい!」
ヴィルシーナが追っ手の中にまぎれていた自分のトレーナーの足に絶妙なタックルを決めて押し倒していた。
「ドンちゃん、幸せにねー!」
ブエナビスタがクラッカーを鳴らして視界を遮る。
ライバルたちの援護を受け、純白の花嫁は廊下を爆走する。
その腕には、スーツ姿の男を抱えて。
「離しません! 地の果てまで逃げ切ってみせますわ!」
「だから俺は自分の足で走れるって!!」
「ダメです! 貴方はすぐどこかへ行ってしまうから!」
悲痛な叫びと共に、彼女は校舎を飛び出し、ターフではなくアスファルトの道を駆け抜けていった。
誰もいない時計塔の下。
トレーナーの実家近くの思い出の場所。
そこまで走り続け、ようやくジェンティルドンナは足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
乱れた呼吸。額に浮かぶ汗。
彼女はトレーナーをベンチに(少し乱暴に)降ろすと、その場にへたり込んだ。
「……ここまで来れば、大丈夫ですわね」
「……お前なぁ。いきなり何なんだよ。誘拐だぞこれ」
トレーナーはネクタイを直しつつ、呆れたように彼女を見た。
だが、彼女の肩が震えていることに気づく。
「……だって」
ジェンティルドンナが顔を上げる。その瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
「だって、お父様たちが……トレーナーを変えるって……」
「は?」
「海外に行かせるって……貴方は経験不足だからクビだって……! 話は進んでるって……!」
彼女は子供のように泣きじゃくった。
「嫌よ……! 私はお兄ちゃんとじゃなきゃ走れない! 世界なんてどうでもいい! 貴方が隣にいないなら、三冠なんていらない!」
その言葉を聞いて、トレーナーは数秒間ポカンとし――そして、深くため息をついた。
「……はぁ。あいつら、余計なことしか言わねえな。その話なら既に断ってるよ」
「え……?」
「ドンナ。よく聞け」
彼はしゃがみ込み、彼女の涙を親指で拭った。
「確かに、そういう話はあった。海外の名門チームからもオファーが来てたし、実家からの圧力もあったよ」
「そ、それなら……!」
「でも、全部断った」
「……へ?」
ジェンティルドンナが涙目で固まる。
「断ったんだよ。今の今まで、その来年の契約更新の書類を作ってたんだ」
彼はポケットから、くしゃくしゃになった一枚の書類を取り出した。
そこには、『次年度契約更新申請書』の文字と、彼の署名、そして力強いハンコが押されていた。
「俺は言ったんだ。『ジェンティルドンナの隣に立てるのは、世界で俺一人だ』ってな」
「……」
「誰に何を言われようと、俺はお前を手放す気はない。……お前が俺を必要としてくれる限り、俺はずっとお前のトレーナーだ」
呆気にとられるジェンティルドンナ。
勘違い。早とちり。独り相撲。
恥ずかしさが込み上げてくるが、それ以上に、彼の言葉が胸に染み渡る。
「……本当に?」
「ああ」
「いなくならない?」
「ならない」
「……おじいちゃんになっても?」
「それはお互い様だろ」
彼は苦笑して、彼女の手を取った。
左手の薬指には、あの日のピンキーリングがまだ光っている。
「……バカ」
ジェンティルドンナは泣き笑いのような顔で、彼の胸に飛び込んだ。
今度は、お姫様抱っこではなく、優しく抱きしめられる形で。
「お兄ちゃんのバカ! 心配させて! 大好き!」
「はいはい、悪かったよ。……愛してるよ、ドンナ」
夕日が二人を照らす。
遠くから、追っ手たちの「ちくしょう、見失った!」「あいつらどこ行ったんだ!」という声と、ゴルシたちの高笑いが聞こえてくる。
こうして、最強の花嫁による略奪劇は、盛大な勘違いの末に、二人の絆を「ダイヤモンド」よりも硬いものへと変えて幕を閉じたのだった。
「……さて。帰って皆に謝らないとな」
「……あと5分だけ。このままがいいです」
「了解。……俺も、もう少しこうしていたい」
二人は強く抱きしめ合ったまま、沈みゆく夕日を眺めていた。