ジェンティルドンナと幼馴染トレーナーのラブラブ生活 作:雅媛
ターフに鋭い蹄音が響く。
ジェンティルドンナの走りは、日に日に鋭さを増していた。
元々持っていた天性のバネに加え、体幹や上肢の筋力も着実に強化され、フォームは完成の域に達しつつある。
「――よしっ! 今のラップ、悪くないぞ」
ストップウォッチを持ったトレーナーの声が響くと、ジェンティルドンナは速度を緩め、彼の元へと戻ってきた。
息は上がっているが、その表情には充実感が滲んでいる。
「ふぅ……。どうだったかしら?」
「ラストスパートの入り、腰の沈み込みが少し浅かったかな。意識が前に逸りすぎてる。もう少し地面を『掴む』感覚を意識したほうがいい」
「……なるほど。確かに、蹴り出しの瞬間に浮く感覚がありましたわ」
彼はタオルとドリンクを渡しながら、タブレットで撮影したフォームを見せて解説を加える。
その指摘は的確で、彼女の感覚とズレがない。
新人の彼は、経験不足を補うために膨大なデータ分析と、彼女自身の身体の癖を徹底的に研究していた。
私のためだけに、時間を費やしてくれている。
その事実に、ジェンティルドンナは胸の奥が温かくなるのを感じていた。
だが。
優秀な男というのは、どうしても他人の目にも魅力的に映るものらしい。
「あの、すみません……」
「ん?」
休憩中、二人の元におずおずと近づいてくる影があった。
他で練習をしていたウマ娘たちだ。それも一人ではない。数人が興味津々といった様子で彼を見ている。
「あのトレーナーさんですよね? ジェンティルドンナさんの」
「ああ、そうだけど」
「今の指示、聞こえちゃって……すごくわかりやすくて。もしよかったら、私のフォームも少しだけ見てもらえませんか?」
「あ、私も! 今のトレーナー、全然見てくれなくて……」
「私も少しお願いできませんか?」
黄色い声。
彼女たちの目は、明らかに彼への好意――あるいは「有能な物件」への品定め――を含んでいた。
トレーナーは新人だが、ルックスは悪くない。それに加えて、あのジェンティルドンナを御しているという実績が、彼の株を爆発的に上げていたのだ。
(…………は?)
ジェンティルドンナの眉が、ピクリと跳ねた。
タオルの下で、握りしめた拳がミシミシと音を立てる。
泥棒猫。
その単語が脳裏をよぎる。
彼は私のお兄ちゃんだ。私のトレーナーだ。私のものだ。
それを、どこのウマ娘の骨とも知れぬ連中が、気安く話しかけていい相手ではない。
「…………」
ジェンティルドンナは深呼吸する。
腹立たしくてしょうがない。
だが、こうやって担当を増やしてチームを作り、トレーナーとしての実績を積み上げていくというのがこの業界の常道だ。
彼は確かに新人だが、その能力はすでにその域を超えている。チームを持つのだって彼のキャリアのためにはいいことだろう。
『わたしのお兄ちゃんなのに』という独占欲と、『お兄ちゃんのため』という理性がぶつかり、気持ちが落ち着かない。
そんなドンナの様子をちらりと見たトレーナーは、困ったように頭をかき、しかし爽やかな笑顔で彼女たちに向き直った。
「ごめんね。君たちの熱意は嬉しいんだけど」
彼は親指で、背後で「ふー、しゅー」と深呼吸とは名ばかりの荒い鼻息を漏らしているジェンティルドンナを指した。
「見ての通り、俺はこの手のかかる『お嬢様』一人で手一杯なんだ。他の子の面倒を見る余裕なんて、1ミリもないんだよ」
「え……あ、そ、そうですか……」
冗談めかして言ったが、その瞳は真剣だった。
やんわりと、だが付け入る隙のない完璧なお断り。
ウマ娘たちは漏れ出すジェンティルドンナの殺気と、トレーナーの揺るがない態度に気圧され、「し、失礼しましたー!」と逃げるように去っていった。
「……よろしかったのですか? あの方々と契約すればチームも作れたと思いますが」
ジェンティルドンナは慇懃無礼に尋ねる。
だが、不機嫌そうな声とは裏腹に、その頬はほんのりと朱に染まっていた。
『俺は彼女一人で手一杯』。
その言葉を脳内で反芻し、彼女はニヤけそうになる口元を必死にタオルで隠した。
「……悪いな、ドンナ。嫌な思いさせたか?」
「べ、別に。貴方がヘラヘラしているから虫が寄ってくるだけですわ」
「手厳しいなあ。……っと、そういえばテーピングとサプリが切れそうだな。週末、買い出しに行くか」
「……え?」
買い出し。
週末。
二人で。
その単語が、ジェンティルドンナの脳内で即座に変換される。
デート。
休日。
お兄ちゃんと。
「わ、私も行きますわ! 荷物持ちが必要ですわよね!?」
「いや、そんな大量には買わないけど……まあ、靴の調整も見たいし、来るか?」
「行きます! 絶対に行きます!」
まあ気晴らしも必要か。そんなことを考えたトレーナーは、前のめり気味のドンナと出かける約束をしたのであった。
週末。
駅前の待ち合わせ場所。
トレーナーは、いつものジャージ姿ではなく、チノパンにシャツというラフな私服で立っていた。
「……遅いな」
約束の時間5分前。
普段なら30分前行動が基本の彼女にしては珍しい。
何かあったのかとスマホを取り出そうとした時、カツカツというヒールの音が近づいてきた。
「お待たせしましたわ」
顔を上げたトレーナーは、一瞬言葉を失った。
そこには、映画のスクリーンから抜け出してきたような美女が立っていた。
身体のラインを美しく見せる上品なワンピース。つばの広い女優帽。顔の半分を覆うような大きなサングラス。
周囲の通行人が「え、モデル?」「芸能人?」と振り返るほどのオーラを放っている。
「……あのさ、ドンナ」
「なんですの? 遅れたことは謝りますわ。コーディネートに少し手間取ってしまって……」
「いや、時間は間に合ってるから問題ないけどそうじゃなくて」
トレーナーはジト目で彼女を見た。
「俺たち、駅前のスポーツ用品店に行くだけだぞ? なんでパリコレに行くみたいな格好してんだ」
「むっ……! い、いいではありませんか!」
ジェンティルドンナはサングラスを少しずらし、不満げに彼を睨んだ。
「貴方の隣を歩くのですから、恥ずかしい格好はできませんわ。それに、これなら変装も完璧でしょう?」
「逆に目立ってるよ。めちゃくちゃ見られてるぞ」
「う……」
「まあいいか。似合ってるよ、すごく。綺麗すぎるぐらい」
さらりと言われた一言に、彼女はまたサングラスを戻して顔を隠した。
頬が赤くなっているのがバレないように。
「……調子がいいんですから。ほら、行きますわよ」
「はいはい」
二人は並んで歩き出す。
休日の駅前は混雑している。
普段、学園内や二人きりの時なら、甘えて腕を組んだり手を繋いだりできるかもしれない。
だが、ここは公衆の面前。
万が一バレれば面倒なことになりかねない。
ジェンティルドンナは歯噛みした。
せっかくのデート(買い出し)なのに。お兄ちゃんと触れ合いたいのに。
「……はぐれるなよ」
彼女の葛藤を察したのか、それとも単なる人混みへの配慮か。
トレーナーが自然に歩調を緩め、彼女の側に寄った。
手は繋がない。
けれど、肩が触れ合うほどの距離。
ジェンティルドンナはおずおずと手を伸ばし、彼の上着の袖を、指先でちょこんと摘んだ。
「……これなら、いいですよね?」
「ん? ああ、そうだな」
彼は何も言わず、ただ優しく微笑んで受け入れてくれた。
指先から伝わる彼の体温。
それだけで、先日のトレーニング場でのイライラも、周囲の視線も、どうでもよくなる。
「……あ、あとでクレープ食べたいわ」
「買い出し終わってからな」
「絶対よ。……それと、他の女の人が見ても、よそ見しちゃだめよ」
「はいはい、仰せのままに、お姫様」
(まあお前以外の女なんて、全く目に入ってないけどな)
そんな声にならない発言は、トレーナーの口の中で消えていった。
袖を引く彼女の手と、それに合わせて歩くトレーナー。
その姿は、誰がどう見ても、仲睦まじいカップルのそれであった。
本人が「あくまで買い出し(と変装)」と言い張っているだけで。
スポーツ用品店での買い出しは、思いのほか時間がかかった。
というのも、ジェンティルドンナが自分の用具そっちのけで、トレーナーの身の回りのものを物色し始めたからだ。
「このシャツなんてどうかしら? 生地もしっかりしているし、色も……」
「いや、俺のはいいって。自分のシューズを見るんじゃなかったのか?」
「私のはもう決まってるもの。それより貴方、靴の底がすり減ってるのバレバレよ。新しいのを買うべきだわ」
「う……よく見てるな」
結局、彼女の押しに負けて新しいスニーカーを買わされることになった。
「私が選んであげた」と満足げな彼女の顔を見ていると、まあ悪い気はしない。むしろ、財布の紐が緩みそうになる自分を戒めるのが大変だった。
店を出ると、日は少し傾き始めていた。
約束通り、駅前の広場にあるキッチンカーでクレープを買う。
彼女はイチゴとクリームがたっぷりのものを、トレーナーはシンプルなチョコバナナを。
「ん……美味しい」
ベンチに座り、サングラスを少しずらしてクレープを頬張るジェンティルドンナ。
その仕草は、先ほどまでの「パリコレモデル」のようなオーラとは打って変わり、年相応の少女の愛らしさがあった。
クリームが少し口元についている。
「ついてるぞ」
「え? どこ?」
「ここ」
トレーナーが親指で拭ってやると、彼女はボッと音が出そうなほど赤くなり、あわあわと視線を泳がせた。
「こ、子供扱いしないでちょうだい……!」
「はいはい」
そんな穏やかな時間を過ごしていた、その時だった。
「おいおい、兄ちゃん。随分と可愛い子を連れてるじゃねえか」
下卑た声が降ってきた。
見上げると、派手な柄シャツを着た二人組の男がニヤニヤと立っていた。いわゆる、ナンパというやつだ。
いや、彼らの視線はジェンティルドンナの美貌に向けられているが、その言葉にはトレーナーへの明らかな嘲笑が含まれていた。
「こんな美人と釣り合ってねえよなぁ? ほら、お姉さん。こんな貧相な男より、俺たちと遊ぼうぜ?」
「そうだそうだ。美味い店知ってるしよ」
一人がジェンティルドンナの肩に手を伸ばそうとする。
トレーナーは即座に反応し、身体を滑り込ませてその手を遮った。
「悪いけど、連れが疲れてるんでね。他を当たってくれ」
「あぁ? なんだよ兄ちゃん、痛い目見たいのか?」
男たちが凄む。
トレーナーは内心でため息をついた。喧嘩になれば負ける気はしないが、ここで騒ぎになれば色々と面倒だ。
警察を呼ぶか。そんなことを考え始めたのだが……
彼が次の言葉を紡ぐより早く、空気が凍りついた。
「――消えなさい」
低く、冷徹な声。
それは、地獄の底から響いてくるような絶対零度の宣告だった。
「ひっ……!?」
男たちがビクリと硬直する。
トレーナーの背後から、ジェンティルドンナがゆっくりと立ち上がっていた。
サングラスはずらされたままだ。その瞳が、露わになっている。
美しいルビー色の瞳。だが今は、その奥に触れれば切れるほどの殺気が渦巻いていた。
「私の……私の大切な時間を、その汚い言葉で汚すなと言っているのよ」
一歩、彼女が踏み出す。
ただそれだけで、男たちは目に見えない巨大な怪物に睨まれたような圧迫感を感じたのだろう。顔面蒼白になり、足が震え始めている。
「最強」のウマ娘が放つ覇気。それは一般人が耐えられるものではない。
「あ、あ……あぁ……っ!」
「ひ、ひぃぃぃッ!」
男たちが悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
あっという間に人波に消えていく背中を見送り、ジェンティルドンナは「ふん」と鼻を鳴らした。
「まったく……興ざめですわ」
「……無理するなよ、ドンナ」
トレーナーが苦笑しながら声をかけると、彼女はハッとして振り返った。
殺気は霧散し、いつもの(少し気まずそうな)表情に戻る。
「だ、だって……あいつらが、お兄ちゃんのことを悪く言うから……」
「守ってくれるのはうれしいが、あまり無理はしてほしくないんだけどな」
プイと顔を背けるが、頬は赤い。
トレーナーは彼女の頭にポンと手を置いた。
「ありがとうな。最強のボディガード様」
「……もう。からかわないで」
照れ隠しのように手に残ったクレープを食べるジェンティルドンナ。
今までと同じものなのに、なぜかひどく甘く感じるのであった。
帰りのタクシーの中は、心地よい揺れに包まれていた。
夕日が差し込む車内。
遊び疲れたのか、それとも先ほどの威嚇で神経を使ったのか、ジェンティルドンナは船を漕いでいた。
カクン、と頭が揺れ、隣に座るトレーナーの肩にコトンと乗る。
「……んぅ……」
サングラスは外され、膝の上に置かれている。
無防備な寝顔。
気丈に振る舞う「淑女」の仮面を脱いだ、ただの少女の顔だ。
トレーナーは動かないようにじっとしながら、彼女の寝顔を見つめた。
(手のかかるお嬢様だ。……本当に)
小さく呟き、彼は彼女が寒くないように自分の上着をそっと掛け直した。
「……つぎは……」
彼女の口から、小さな寝言が漏れる。
「……ちゃんと……デート……してよね……」
「ふふ、まあ考えておくよ」
トレーナーは優しく囁き返し、車窓を流れる茜色の街並みを眺めた。
「買い出し」という名のデートは、こうして幕を閉じたのだった。