ジェンティルドンナと幼馴染トレーナーのラブラブ生活 作:雅媛
東京レース場の地下、ウマ娘たちが待機する控室。
普段の学園の雰囲気とは一線を画す、独特の緊張感が漂っている。
今日こそが、ジェンティルドンナの生涯一度きりのメイクデビュー戦。
「最強」への第一歩を踏み出す日だ。
「……ふぅ」
鏡の前で、ジェンティルドンナは自身の姿を確認する。
身にまとっているのは、レース用の体操服だ。デザインこそシンプルだが、速度を出すために極限まで薄く、身体にフィットするように作られている。
普段の体操服とはまるで違う着心地。どことなく頼りなく、それでいて身が引き締まる感覚。
彼女は落ち着かない様子で、裾をいじり、袖を直し、タイツの食い込みを微調整する。
そんな小さな動作を、何度も繰り返していた。
「……似合ってると思うが」
「ひゃっ!?」
不意に背後から声をかけられ、彼女の耳がピーンと直立する。
振り返ると、そこには見慣れない姿のトレーナーが立っていた。
それなりのブランドものと思われるダークネイビーのスーツを完璧に着こなしている。
仕事モードの彼は、悔しいけれど様になっていた。
「お、驚かせないでくださいまし! ……似合ってるに決まっていますわ。誰だと思っているのです?」
「はは、違いない。最高に美しいよ」
彼はさらりと歯の浮くようなセリフを言うと、手に持っていたメンテナンスキットを床に置き、彼女の前に膝をついた。
まるで忠誠を誓う騎士か、求婚する王子様のような姿勢。
それだけで、ジェンティルドンナの心臓が早鐘を打ち始める。
「ちょ、何をして……」
「靴紐の最終チェックだ。少しでも緩みがあると怪我につながるからな」
彼は真剣な眼差しで、彼女の足元に手を伸ばした。
シューズの紐を一度解き、彼女の足の形に合わせて丁寧に、かつ力強く締め直していく。
その手つきはプロフェッショナルそのものだ。無駄な動きがなく、強すぎず弱すぎない絶妙な力加減。
だが、彼女にとっては「好きな男に足を触られている」という事実の方が重大だった。
(ち、近い……! 顔が近いですわ……!)
膝に乗せられた自分の足。それを包み込む彼の手の熱。
見下ろす位置にある彼のつむじや、真剣な横顔があまりにも無防備で、直視できない。
「……シューズはいいな。だが右足、少し張りがあるか。マッサージしておこう」
「えっ、あ、いいですわ! 自分でやりますから!」
「遠慮するな。最高のパフォーマンスを出すのが俺の仕事だからな」
彼は言うや否や、彼女のふくらはぎに手を添えた。
足首からふくらはぎにかけて、親指が的確に筋肉を捉え、優しくもみほぐしていく。
「んっ……ぁ……」
思わず変な声が漏れそうになり、彼女は慌てて口元を押さえた。
頭上の耳が、パタパタと忙しなく前後に動いている。
彼はあくまでトレーナーとして、真剣に筋肉の状態を確かめているだけだ。だが、彼女のフィルターを通すと、それは甘美な愛撫に変換されてしまう。
「……トレーナー、その、もう大丈夫ですわ……!」
「そうか? まあ、これくらいでいいか」
彼が立ち上がり、パンパンと膝の埃を払う。
ジェンティルドンナは茹でダコのように赤くなった顔を背けた。
レース前に心拍数を上げてどうするのだ、と自分を叱咤しながら、乱れた呼吸を整える。
「……ありがとう」
「ん?」
「靴紐……ありがとうと言ったのです」
「どういたしまして。さあ、行こうか。お前の強さを世界に見せつけてやれ」
差し出された彼の手を見つめ、彼女は小さく頷いた。
心も体も、準備は万全だった。
「はい、参りましょう」
二人は控室を出て、薄暗い地下通路を歩き出した。
カツ、カツ、と蹄鉄の音がコンクリートの壁に反響する。
進むにつれて、前方から地鳴りのような音が聞こえ始めた。観客の歓声だ。
光の射す出口が見えてくる。
ジェンティルドンナは一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
ここでスイッチを切り替える。
甘えん坊の幼馴染はここに置いていく。ここから先は、孤高の「貴婦人」の時間だ。
背筋を伸ばし、顎を上げる。
パドックへと足を踏み入れた瞬間、世界が一変した。
デビュー戦とは思えないほどの注目度。無数の視線とカメラのレンズが彼女に突き刺さる。
「あれがジェンティルドンナか」「噂の怪物候補だろ?」といった囁き声が波のように押し寄せてくる。
彼女は冷ややかな視線で周囲を一瞥した。
その姿は威風堂々たるもの。
だが、その内面は嵐のような緊張に襲われていた。
(人が多い……! みんなこっちを見ていますわ……!)
(足の運びは変じゃないかしら? 尻尾の手入れは完璧だったかしら? さっきお兄ちゃんが結んでくれた靴紐、ほどけたりしないかしら……!)
内心で大パニックを起こしながらも、顔には鉄仮面を貼り付けて周回を重ねる。
ふと、関係者席にトレーナーの姿を見つけた。
彼は腕を組み、いつもの飄々とした態度で立っていた。スーツ姿の彼は、周囲の喧騒の中でもひときわ頼もしく見えた。
そして、彼女と目が合うと、小さく、誰にも気づかれないほどの動きで頷いた。
『大丈夫だ』
そのサインだけで、不思議と魔法のように緊張が霧散していく。
そうだ。私には彼がついている。
彼が結んでくれた靴紐がある。彼が整えてくれた身体がある。
すべてが完璧に揃った自分を見せつけるように、ジェンティルドンナは今一度胸を張った。
ゲートに向かうその足取りには、もう迷いはなかった。
「――ゴールイン! 圧倒的! これがジェンティルドンナだーッ!!」
レースは、一方的な蹂躙だった。
他のウマ娘たちが霞むほどの圧倒的な速さで、ジェンティルドンナはゴール板を駆け抜けた。
観客の大半にとっては、ただジェンティルドンナが生まれ持った身体能力に任せてねじ伏せたように見えただろう。
しかし、玄人にはわかる走りだった。
他のメンバーの癖まで利用した完璧なコース取り。
ロスの極めて少ないスタートと、物理法則を無視するかのような鋭角なコーナーリング。
トレーナーと共に積み上げた戦略と、それを体現するフィジカル。
完璧なレースであった。
その証拠に、大差をつけて圧勝したにもかかわらず、ジェンティルドンナは息一つ切らしていなかった。
デビュー戦にして、彼女は「最強」の伝説の1ページ目を見事に刻んだのであった。
ゴール板を過ぎ、ジェンティルドンナは緩やかに速度を落とした。
芝生を踏みしめる感触を確かめながら、彼女はターフの上で振り返る。
スタンドからは割れんばかりの拍手と歓声が降り注いでいた。
自分に向けられた称賛の嵐。
心地よい高揚感が身体を包むが、彼女の表情は涼しいままだ。あくまで「当然の結果」であるかのように振る舞い、優雅に一礼する。
コースを出て、地下へと続く通路へ向かう。
一歩踏み込むたびに、地上の喧騒が遠ざかり、地下特有の静けさが戻ってくる。
誰からも見えなくなったその瞬間、彼女の足取りが急に速くなった。
(……やりましたわ)
(勝ちました。……彼のために)
早く彼に会いたい。
褒めてほしい。驚いた顔が見たい。
そんな逸る気持ちを抑えきれず、淑女の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に止めながら、検量室前のエリアへと進む。
「トレーナー!」
彼の姿を見つけ、駆け寄ろうとした彼女は、足を止めた。
彼が、見たこともないような顔をしていたからだ。
いつもの「やれやれ」といったスカした顔ではない。
クシャクシャに顔を崩し、子供のように目を輝かせ、全力のガッツポーズを作っていたのだ。
完璧に着こなしていたスーツのジャケットが少し乱れるのも構わずに。
「やったな!! すげえよドンナ! 本当に勝っちまった!」
彼が駆け寄ってくる。
そのままの勢いで、彼女の両肩を掴んだ。
「見たかあの実況の顔! 観客の顔! 最高だったぞ! お前はやっぱり、俺が見込んだ通りの最強のウマ娘だ!」
興奮して早口になる彼。
掴まれた肩から伝わる熱と、微かな汗の匂い。
ジェンティルドンナは、心臓が跳ね上がりすぎて痛いほどだった。
(……ああ)
(お兄ちゃん、そんな風に笑うのね)
自分よりも喜んでくれている。自分の勝利を、我が事のように誇ってくれている。
それが何よりも嬉しくて、愛おしくて。
「……当然ですわ。貴方が育てたウマ娘ですもの」
精一杯の強がりで返す。
だが、だらしなく緩みそうになる口元を抑えることはできなかった。
ふと我に返ったのか、トレーナーは周囲を見回し、「っと、すまん。はしゃぎすぎた」と手を離そうとした。
その手を、ジェンティルドンナが上からギュッと掴んで止める。
「……待って」
「ドンナ?」
「勝ったんですから……ご褒美、ありますわよね?」
彼女は上目遣いで彼を見上げる。
そこにはもう、ターフを支配していた「貴婦人」はいない。甘えん坊の幼馴染の顔だ。
彼女は自分の頭を、ちょんちょんと指差した。
「……撫でて。たくさん」
「……はいはい」
トレーナーは優しく微笑むと、汗ばんだ彼女の髪を気にすることなく、その頭を大きく包み込んだ。
わしゃわしゃ、と少し乱暴に、でも愛情を込めて撫で回す。
「よくやった。偉いぞ、ドンナ」
「ん……えへへ……」
勝利の美酒よりも甘い、二人だけの時間。
ジェンティルドンナは目を細め、幸せそうに耳をパタパタと揺らす。
こうして、最強の貴婦人の伝説は幕を開けた。
だがその裏側に、こんな甘い一幕があることは、この場にいる二人しか知らない。