王泥喜side
終わった。三日間続いた裁判が、ようやく、終わった。
全身を貫いていた鉛が抜けるような、逆に全身が氷漬けされるような、強烈な安堵と緊張が両立している感覚。
終わったはずなのに、頭を占めるのは法廷でのことばかりだ。
被告人控室に戻ってきた希月は、自身は無罪判決となったが、それどころではないようで何処か心ここに在らず、という顔をしている。そして、成歩堂も眉を顰め、険しい顔をしていた。
二人はそれぞれ別の椅子に座っていたが、王泥喜は座る気にならず、なんとなく扉の近くに立っていた。
その扉が、コンコン、と軽く叩かれた。王泥喜が反射で「あ、はい」と答えると、扉がガチャリを開いた。
「あ、いたいた」
「「「!?」」」
銃を向けられたかのように、一気に部屋に緊張が走った。
扉から姿を表したのは――番慶二、だった。
顔は、慶二のまま、服装も弟の番刑事のもののままだった。
するりと部屋に入ってきた男は、扉をちゃんと閉めた。
「あ、あなたは……番、慶二……」
扉を閉めた慶二が、王泥喜の方へ視線を向ける。針を刺された標本のように、王泥喜は固まった。
対して慶二は、パッと笑った。
「そうそう。この姿ではちゃんと挨拶してないよね。僕は番慶二。轟三の兄だよ。番刑事だと弟と被っちゃうから、慶二さんって呼んでね」
人好きのする面持ちで、そう親しげに挨拶をする男。法廷で、証言台にいた男と、同一人物なのか、分からなくなって頭が混乱する。
いや、しかし、これが、この変化が、この番慶二という男なのか。
「け、慶二さん……?」
「そう。改めてよろしくね、オドロキくん」
差し出された手。右手だった。手袋は、脱いだままで、素肌だ。人差し指には、よくよく見ても見分けのつかない、偽物の皮膚が付けられている。
思わず身を引く。すると、慶二が「何もしないよ」と困ったように笑った。
それは、そうだ。写野であった際は苦しめられたし、親友に容疑がかかった理由であり、後輩に容疑がかかった原因であったが、一応、この人は皆の味方だった。
ただ、普通の人でないだけで。
手が戻されなかったので、王泥喜は警戒しつつ、手を差し出した。そうすると、慶二の方から軽く握られた。右手の人差し指に、温度は感じない。動くだけで、やはり血は通っていないのだ。だが、他からは、当然、温度を感じた。血の通った、人の体温だった。
王泥喜は、ぎこちなく手を握り返す。
「よ、よろしく、お願い、します」
意味が分からない。どうしてこんなに友好的なんだ。
なんなんだ、この人。
慶二はすんなりと手を離して、王泥喜を見つめながら言う。
「ただの元刑事兼、現亡霊だよ」
「えっ」
「んはは! 師弟揃って顔に出やすいねぇ」
慶二が口元に手を置いて、たまらないように笑う。それは、なんというか、心底、楽しげで、嬉しげだった。
目の奥から、偽りの色合いのその奥から、君に会えて良かった。とでもいうような。
そんな、
「……や、やっぱり、よろしくしないで、いいですか」
「ええ! 釣れないこと言わないでくれよ!」
心音side
「うーん。何か気に入らないことあったかな?」
「い、いや、そういうことじゃ、ないんですけど」
「じゃあ、よろしくしようよ。せっかくこの姿で会えたんだから」
「そ、それは、まあ……」
慶二が、王泥喜と喋っている。その姿は、宇宙センターで見ていた姿と、瓜二つだった。
服装が違うだけ。髪が少し短いだけ。それだけで、その声も、顔も、話し方も、身振り手振りも、全て慶二だった。
呆然と見つめていれば、王泥喜と会話をしていた慶二が、心音の視線に気付いたのか、心音の方を向いた。
椅子に座っていた心音は、自分を見る慶二を、ぼうと見つめていた。
いる……慶二さんが。生きて、存在している。
慶二が王泥喜に何か声をかけて、それから心音の方へと歩み出した。
慶二が近づいてきて、距離が近くなって、そうして、心音の前で止まった。
椅子から、慶二を見上げる。天井にある照明で、顔の影が色濃い。
彼は、膝をついて、そうして心音の視線に合わせた。大きくなった心音は、椅子に座っているのもあって、膝をついた慶二よりも視線が上になった。慶二が、心音を見上げている。
「心音くん」
柔らかい声が聞こえる。あの日々と、変わらぬ音で呼びかけられる。
花の香りがする。漂う、罪悪感の音。
「七年間、怖い思いをさせてごめんね」
その言葉に、一気に過去が脳裏に流れた。
七年前、自分のせいで慶二が死んでしまったと思った。どうにかしなくちゃと思った。やり方は、慶二に教えてもらったものしか知らなかった。受け取ったハンカチにくるまった何かを埋めて、必死で埋めて、誰にも言わなかった。ただ、待った。ずっと待った。言われた通りにしたから、間違わなかったから、また、また会えるはずだと信じた。けれど、慶二は死んだまま、戻らなかった。慶二が嘘をつくはずがない。じゃあ、心音が失敗したのだ。間違ったのだ。自分のせいで、慶二が本当に死んでしまった。もう二度と会えない。
わたしのせいで。
でも、でも、今、慶二さんは、目の前に、いる。
叫び出したくなって、何かが爆発しそうになって、心音は目の前の慶二へと飛びつくように抱きついた。
その広い背に手を回す。締め付けるぐらいに抱きしめて、自分の背に回った手に、涙が溢れた。
「わたしっ、わたし怖くて……! ちゃんと埋めたのに、慶二さんが戻ってこないから……! わたし、何か、失敗したんだって! 一緒に植えた椿も、怖くなって、日本にいるのも、苦しくなって……! 逃げたんです! 慶二さんは、ずっと、ずっと戦ってたのに……っ!」
息も、胸も、何もかもが苦しかった。自分の弱さが許せなかった。
誰もわかってくれなくても、慶二は、人なのだ。亡霊なんかじゃない。感情のない冷酷な人なんかじゃない。
普通の人とは、少し違うかもしれない。感情を、自由に操れるかもしれない。けど、心音が知る誰よりも、感情豊かで、人を愛している人だった。
だから、許せなかった。そんな人をどうにか忘れようと、記憶に蓋をして、彼から逃げ出した自分が。
力加減もなく抱きしめる心音に、慶二が、優しく背中を叩く。泣きじゃくる心音に、慶二が語りかける。
「違うよ。君はずっと戦ってくれていた。僕との約束も、ちゃんと全部守ってくれた」
優しい声が鼓膜を叩く。弾けそうな心が、優しく包まれるようだった。
そこには悲しみも苦しみもない。ただ、感謝が花束のように包まれていた。
肩を軽く押される。心音は、慶二の背で固く結んでいた手を解いて、どうにか、慶二を見た。
慶二は、心音を真っ直ぐに見て告げる。
「本当に、素晴らしい弁護士だよ」
誇らしげな笑みだった。親が、頑張ってきた子を見るような目だと、思えた。
「う、うぅ、うう……! けいじさん……!」
慶二の肩に置いていた手を、力いっぱい握る。慶二は、その拳を手のひらで優しく包んでくれた。
暖かった。
ずっと、それを、探していた。
成歩堂side
泣きじゃくる心音を、慶二が優しい父のように宥めている。
涙が止まらないのか、しゃくり上げている心音に、慶二は肩をさすって寄り添っていた。
その光景を眺めて、成歩堂は静かに椅子から腰を上げた。そして、音を立てないようにして控室の扉まで歩いていく。
扉の近くにいた王泥喜が、目を瞬かせている。そんな彼に、軽く手を上げるジェスチャーだけをして、そのまま扉を小さく開けて出ていった。
廊下に出て、後ろの扉が静かに閉まる。息を吐いた。まさか、被告人控室にやってくるとは。
しかし、どうやって来たのか。係員に連れられて、そのまま警察に引き渡されるはずだろう。彼も、現場の工作や盗難という犯罪をしているのだから。それに、日本で現在起こりつつある騒動の中心人物でもある。こんなところに来る暇があるとは思えない。
だが……心音の様子を見ていると、来なかったらどうしてやろうかとも思った。
どれほどの心労をかけたと思っているのか。彼女へ謝っている姿を見ないと腹立たしさが収まらなかった。そうはいっても、見て収まったかというと、そうでもなかったが。
しかし、二人の邪魔をしてはいけないという理性はあった。少し肌寒い廊下の空気を吸う。水分がなく、乾いている。
「屋内といえど、室内じゃないからちょっと寒いね」
「……」
後ろから、声をかけられる。気配を感じなかった。足音も、息遣いも。
振り向くと、やはり慶二がいた。柔和な笑みを浮かべて、その場に立っている。
なぜこちらに来たのか。わざわざ邪魔をしないようにと、退室をしたのに。
しかし、ここなら王泥喜も心音もいないのだな、と成歩堂は思った。
「よく……ノコノコ来られましたね」
成歩堂の口から出てきた言葉は、自身で思ったよりも尖っていた。
ひたすらに本心だった。迷惑を散々かけて、勝手に消えようとしていた分際で。よくも無害な顔をして。
慶二は成歩堂の嫌味に、涼しげに笑って答えた。
「でも来なかったら、もっと怒ってただろう?」
これが、嫌だ。人の心を読んでいて、しかもそれが当然当たっているであろうと考えている顔、言動。
そうしてそれが、間違っていないのだから腹が立つ。
険が増した成歩堂に、慶二の顔が少し困ったように変わった。
「君の望む完璧な刑事じゃなくて、ごめんね」
本当に嫌だ。嫌悪でさえある。一発殴ってやりたかった。
どうしてそこまで分かってるんだ、この人は。
そうだ。成歩堂は、彼を非の打ち所のない男だと思っていた。完璧で、全てを救える刑事だと。
成歩堂は、彼と初めて出会ってから、ずっと助けられてきた。彼自身が危険な目にあった時も助けられたし、助手の真宵の身に降りかかりそうだった危険を、見てきたかのように事前に察知して華麗に救った。それらは成歩堂たちだけではなく、何人もの人が彼に助けられてきた。
人の心が透けて見えているようだった。未来の出来事を事前に知っているようだった。ドラマや映画に出てくる刑事のようだと思ったが、彼らと明確に違うのは、一つの犠牲も出さないところだった。
だから、彼が死んだ瞬間は、あまりに呆気なかった。
いくつも約束を残していた。彼は約束を守る男だった。勝手にそう信じ込んでいた。
裏切られたと思った。そうして、今回の事件でも、裏切り続けられた。
全く、完璧ではない。何より、人との約束を反故にしようとした。
今でも、信じられない。それほどに成歩堂が見てきたこの男は、無欠だった。
だが――彼のいう通り、完璧でなかったのならば、
「完璧じゃないなら、頼れば良かったんですよ」
頼れば良かった。あなたには、頼れる相手なんて何人でもいたはずだろう。それこそ、命をかけて助けてくれるような人々が。
慶二は困り顔のまま、口を開く。
「実は千尋くんや荘龍くんには、情報収集を手伝ってもらっていたんだよね」
……なんだって?
千尋というのは、成歩堂は一人しか知らない。自身の師匠の綾里千尋だった。そして荘龍というのは、彼女の先輩兼、夫の神乃木のことのはずだ。
「……は? じゃ、じゃあ、千尋さんは、あなたが生きていること知ってたんですか!」
「いいや、死んだ僕の協力者っていう体で、千尋くんたちに接触して情報を集めたりしてもらってたよ」
危険だったから、できるだけ接触は少なくしてたけど。
そう首の後ろに手を置いて言う慶二に、唖然とする。唖然として、次いで叫ぶように声が出た。
「そ、そんなの、ボクは知りませんでしたよ!」
「まあ……世の中には適材適所があるから……」
慶二が、ちょっとだけ気まずそうに、少し抑え気味の声でそう口にした。
適材適所、それに言葉が詰まる。千尋たちに敵うかと言われれば、それは絶対にNOだった。
口を閉じた成歩堂に、首から手を下ろした慶二が言う。
「それに、危険に巻き込むの人数は少ない方がいいから」
おそらく、本音はこっちなのだろうな。と成歩堂は思った。思ってしまった、と言うのが正しい。
この人は、亡霊だ。感情の起伏も少なく、感情を自由に操る。
そして、平気で襲ってきた相手を自分の身代わりとして置いて去るし、その相手の胸に致命傷にはならないとしても、折れた刀を突き刺すし、幼い少女に指を埋めろと指示をするし、血のついた月の石をカプセルに入れて、宇宙へ隠すなどという暴挙をするし、宇宙センターの盗聴はするし、実の弟を保護とはいえ監禁するし、弟として一年以上生活しているし、襲ってきた潜入捜査官を逆に捕まえて引き込んでいるし、事件では番刑事として振る舞って大河原たちを懐柔しているし、心音の前に慶二として現れて気絶させているし、葵を騙してカプセルを奪っているし、十口径の拳銃を撃っているし、亡霊がいると思わせるように工作しているし、ライターに心音の指紋をつけているし――言い出したらキリがない!
そしてこの量を、このトラブルを、おそらくいつもと変わらぬ顔で、この男はやり遂げ、抜け出している。
人間業ではないし、人間の感性を持っていたらできない芸当だ。異様さが際立つ、そうして、これらをやり遂げて、普通の人間の顔をしているのが、さらに異質だ。この男は、普通ではないのだ。人として欠けている。化け物として出来すぎている。サイコパスというのがピッタリだろう。根っこの行動原理が社会規範に違反していないから、自分達側にいるだけなのだ。
そう思う。そう思いたいのに、こうして目の前にいると、ただの、普通の、善良な完全無欠の人のように視界に映る。
(でも、彼は失敗した)
彼は、七年前に失敗した。逃げる選択肢しか取れない状況に自分を追い込んでしまった。
しかし、彼はそこから一人で復活を遂げた。協力者もいたかもしれないが、それは最低限。その選択が、この結末を迎えるにあたって、この男にとっては最善だった、と言うことなのだろう。
気に食わない。この怪物が、ここまで行って完璧でないと主張するなら、一つ、腹立たしいことがあった。
言うか迷った。どうせこの男には伝わっている。わざわざ口に出して、恥をかくのはごめんだ。怪物にこんなことを言ったって意味もない。
だが、どんな顔を作って誤魔化すのかは見てやりたかった。
「……頼ってくださいよ。友人でしょう、ボクら」
そう、呟くように言ってやった。
慶二は、成歩堂をいつもの表情で見ていた。少し口角が上がっている、愛想のある人間っぽい顔だ。
それが、成歩堂の言葉を聞いて、瞼を一度瞬かせる。そして、瞼が上がった瞬間に、”ギョッ”となった。
本当に、”ギョッ”だった。
眉を見たことないぐらい寄せて、目を大きく開いて成歩堂を凝視する。顔は強張って、口元からは笑みが完全に消えていた。
「な、なんですかその顔」
幽霊かUFOでも見たような顔。そんな顔できるのかよ、と思った。そして、どんな顔だよそれ。とも思った。
成歩堂の声に、ハッと表情を崩して、慶二は自分の顔を確かめるように触った。
それから、成歩堂を見て、本当に、困った顔をした。思わず手を貸してやりたくなるような、情けない顔。
「……君には参るよ」
「な、なんですかそれ!」
「はぁ……」
慶二は頬に手を当てたまま、深々とため息をついた。目線を伏せて、顔がいいのも相まって儚げに見えた。演技、のはずだ。なんなんだあんたは。
慶二はため息をつき終わると、伏せていた顔を上げた。茶色の双眼が成歩堂へと向く。目の奥が輝いているように錯覚した。どんな演技なのだ、と思った。目の奥に光源を作るなんて、どんな技術なんだ。
慶二はその目で成歩堂を映して、そうして、無邪気に、安堵したように、全く完璧じゃない笑みで言う。
「本当、君たちがいる世界にいられて、僕は幸せだよ」
無意識に、唇を噛んでいた。拳を握りしめる。
全部、演技だったらいい。全部作り物の紛い物で、感情なんて一欠片もないのなら、成歩堂はどうも思わなかったろう。
けれど、信じられない。出会ってからの全てが演技だったとは、今のこの小さい子供みたいな、不器用な笑みが、演技だとは。
心音の言葉を信じてみたかった。亡霊だけれど――感情はある。そんな、都合のいい言葉を。
パタパタと、廊下に軽い足音が聞こえてくる。慶二の目線が成歩堂の後ろに向かっているのを見て、振り返った。
「なるほどくん!」
「春美ちゃん!」
「裁判、お疲れ様でした。まさか、あんなことになるとは……」
霊媒師姿で、頭の上で髪を縛った少女――綾里春美がやってきていた。
そうしてそこまで言うと、成歩堂と話していた人物を見て、目を見開く。
「け、慶二さんではありませんか! ええと……この度は……生き返りおめでとうございます……?」
「ぐ、っ、んはは! ありがとう、無事生き返ったよ」
耐えようとしたが、無理だったらしい。慶二は一度大きく笑ってから、気を取り直したように礼を告げた。
すると、春美がはたと慶二の後ろを見つめる。
「オドロキさんとココネさんは、あそこで何をしているのでしょう?」
「え?」
春美の言葉に、成歩堂が体をずらして慶二の後ろを見る。
慶二の体に隠れ、見えていなかった被告人控室へ続く扉。その隙間から、王泥喜と心音が頭を出していた。
「アッ! これは違うんです!」
王泥喜が廊下に響く大声で何かを否定する。対して心音は……まだ泣いていた。
「け、慶二さんと成歩堂さんが、仲直りできて、良かったですぅ……」
……どうやら、先程の涙とは、また違う理由の涙らしいが。
いつからか知らないが、どうやら慶二とのやりとりを見られていたらしい。
恥ずかしいどころではない。あんな子供同士のやり取りみたいなのを、聞かれていたのか。
しかし、恥を表に出しては負けだと、どうにか平静を保つ。
出ておいで、と言うと、見つかった二人は扉から出てきて、こちらへ歩いてくる。王泥喜は気まずそうな顔で、心音は笑顔で。
春美は「ココネさん、元気そうで良かったです。そうだ。無罪判決おめでとうございます」と両手を合わせて祝ってくれた。
やってくる二人を眺めていた慶二が、七年前と同じように笑う。
「あはは、楽しいねぇ」
その笑顔は、本物に見えた。
けれど、
(あなたは本当に、完璧じゃないのか?)
夕神side
あの裁判から、一ヶ月が過ぎた。
番慶二の生存、日本を問い正す告発文。裁判は無事終わったが、あの法廷が巻き起こしたものはあまりにも大きかった。
慶二がメモリに仕組んだプログラム。ノートパソコンは夕神が壊してしまったが、全て情報は行き渡っていた。
それぞれの情報に適した機関、人間に、さまざまな情報が届いた。メディアに伝わったものもあれば、政府に所属しながら、慶二の味方だったものにも届いた。うまいのが、全ての人間に平等に情報を渡した訳ではなかったところだ。一番その情報を正しく活用し、解決できる場所へと送られていた。
そうして――日本という国家は混乱に陥って、数日でそこそこ落ち着いた。表面上は。
数日のうちに政府高官が何人も捕まえられたのだ。それはもうおおわらわだ。だが、それ以降は波が引くように世間は落ち着いていった。
それが台風の目にいる状態であると知っているのは、実情を知っているものだけだろう。目の外では、政府関係者や法曹界、情報を送られ頼まれたものたちが、それはもうがむしゃらに走り回り、暴風に巻き込まれている。
そうして、夕神もそのうちの一人であった。検事局の執務室で、ここ数日は机に齧り付きながら気絶するように眠る日々が続いている。
目の下の濃い隈を見て、まるでパンダのようだ。と言ったのは、番轟三である。
そう、番慶二の弟、番轟三。彼は保護されてから数日後、嬉々として現場に戻ってきた。
復帰するにしても早すぎる。しかも、この混乱期に。そう思ったが、本人はやる気が十分すぎるほど十分だった。体力も有り余っているようで、働かせてほしい! というので、復帰させたらしい。
そして、ちょうど担当刑事がいなくなってしまっていた夕神の元へ、番はやってきた。
ある意味、同じ見た目、同じ名前の男が戻ってきた。と言えなくもない。実際は以前の番は慶二であった訳だが、共に働いてみると、本当にそのままだった。違うのは、夕神を「迅くん」と呼ぶところと、しきりに「兄さんとも仕事がしたい!」と言うところだろうか。
彼が少し前に置いていった書類を眺める。すでに時刻は深夜を迎えていた。目が霞む。
「……兄弟、か」
仕事熱心な正義感。かなり抜けているところもあるが、言うことは聞く。白スーツが似合う、色のついたサングラスをかけた男。
彼は――おそらく知らないのだろう。慶二と番が、血が繋がっていないことを。
法廷で、DNA検査の話が出た。兄弟ならば、DNAの半分ほどが一致する。そこから、墓の骨が本当に慶二のものか割り出そうとしていた。
高温で焼かれた骨では検査が出来ないため、その話は流れたが……。二人のDNAは一致しないだろう。
それは、夕神が慶二の素性を調査する上で分かったことだ。戸籍には、慶二が養子縁組された事実が記載されていた。なんでも、彼らの両親の親戚が事故で亡くなり、一人残った幼い子供を引き取ったのだという。その後に番が生まれた。
夕神は、慶二の両親の家まで、話を聞きにいった。そうしてそれらの事実を知った。流石に、見た目が変わっているとは思わず、過去の写真を見せてもらわなかったのは痛いミスだった。
それはUR-1号事件の少し後のことで、その時、彼ら両親は、弟に血のつながっていない事実を告げていない。と言っていた。兄を失って悲しんでいる息子に、こんなことをわざわざ言う必要はない、と。
どうりで、本来の姿は番と似ていないわけだ。そしてそれを、慶二はどう思っていたのだろうか。
――迅くん。
法廷で、慶二はそう夕神を呼んだ。
変化の一つもない姿だった。七年の月日を感じる成長も、老化もない。マスクなのだから当然だ。
こちらは、こんなにも変わったというのに。
――迅くん。
何度も、また呼ばれたいと思った。それが、亡霊の音声テープと同じ声だったとは思うまい。
やるべきことと決めて、邁進してきた。だがそれは、あんたのためになっていたのか。
自分はただ、空回りをし続けた、哀れなピエロなんじゃないか。
「迅くん!」
「――ッ!?」
目の前から声がした。机に被さっていた体が跳ね上がる。視界に一瞬、相手の姿が映る。
キャスター付きの椅子が、夕神の仰け反った背を支えきれずに、後ろへと傾いた。
ガッシャーン! と派手な音を立て、椅子がひっくり返った。
強かに背中と後頭部を打ち付けた夕神は、目の前に星が舞うのを見た。
そうして、その星の合間から、ひょっこりと誰かが夕神を覗き込む。
茶色の髪に、茶色の目。高い鼻。前髪は、半分だけ後ろへ流している。黒いトレンチコートを羽織り、ボタンもベルトも止めていない。中に、グレーのベストを着て、結び目が緩いネクタイをしていた。
――番、慶二がそこにいた。
「げ、げんかくか、こりゃあ……あ、あんたは今、牢の中に……」
「まぁ、その筈なんだけど。事情が事情だからね。情状酌量、それに、”上になった人たち”に伝手もあったしね」
星が宙に消える。夕神は、痛む体を動かし、ゆっくりと起き上がった。
”上になった人たち”というのは、今回逮捕された高官たちに代わり、役職についた、または着く者たちだろう。
それらの人々について、夕神は独自に調べていた。今回の情報で得をする人々。何か裏があれば、また同じことになるだろう。しかし、幸い、彼らは潔白であった。そういうのを選んだのだろうな、と夕神が思ったほどだ。
立ち上がり、倒した椅子も元へ戻す。
慶二が笑って尋ねてきた。
「大変そうだね。手伝おうか」
「……あんたのせいでしょう」
日本に台風を呼び込んだ……いや、台風自身がそんなことを言う。
日本の膿を出すには仕方がないことだ。だが、こうも涼しげに言われると、思うところもある。
慶二は口角を上げたまま言う。
「まぁね。けど、猫の手も借りたい状況だろう?」
それはそうだ。しかもそれが猫ではなく、事情や情報を全て把握し、誰よりも仕事の早い男なら喉から手が出るほどだ。
しかし、そんな男がどうしてここへ来るのか。もっと、彼には相応しいところがある筈だった。
夕神よりも、もっと優秀で、慶二の思考についていけ、同じ世界を見れる者の隣。
夕神が答えずにいれば、慶二は闇に紛れるような、小さな声で尋ねてきた。
「……僕は、君の助けにはならないかい?」
息が詰まる。なぜそんな言葉を、あんたが言うのかと。
「そりゃあ、こっちのセリフだ……! あんたは、俺を、相棒となんざ思っちゃいなかったんだろ」
夕神は何も知らなかった。知る権利もなかった。そうして、自身でもそうだろうと納得してしまった。
慶二の調べた資料、内容、その全てが夕神の想像を超えていた。これを協力者がいたとしても、一人で、政府から逃げ続けながら、そうして今回の事件も、切り抜けた。政府がどんな手を使っても殺そうとしていた気持ちが、分かった。こんな男が敵にいれば、落ち落ち寝れもしないだろう。
慶二にとって、夕神はただ無知な子供のような存在だろう。いや、人間であるかさえ怪しかった。
「俺は……あんたの足元にさえ、及んじゃいなかった……!」
そうして、それを自覚さえしていなかった。
血反吐を吐くような心地だった。己の未熟さを、自分で抉り出すような醜い痛みだった。
視界に映る床を見つめる。奈落のようだった。
夕神の心情を黙って聞いていた男が、”そうかもしれないね”と言った。
「けど、それと相棒として認めるかは別問題だ」
鋭い声だった。顔を上げろと、存外に言われているような声。
夕神が顔を上げる。そこには、貫くように見つめる瞳があった。
「僕は、君を選んだ。それが全てだよ」
真実を見つけ出す瞳。この目の先には、情熱や正義という言葉はあるのか。
法廷で、彼は亡霊であるとされた。感情のない、悪魔のような男。そんな男は、なぜ刑事をしているのか。
そう、一瞬考えて、考えるまでもないと思った。
番慶二という男は、人々のために動く男だ。そんなことは、彼の行動を見れば分かる。
心理の構造が一般と違えども、彼は正義の人だった。
法廷で、勇気がなく口にできなかった言葉が、口をついて出た。
「一年間、どんな気持ちで俺の隣にいたんですか」
番が夕神の元へやってきたのが、ちょうど一年ほど前だった。
それから、慶二は番の仮面を被って、夕神の隣にいた。
慶二は、すぐに、
「久しぶりに一緒に仕事ができて、嬉しいなぁって思っていたよ」
そう答えた。
怯えて聞けなかったことを、こうもさっさと返されるとは。夕神は呆れた。自分にも。
慶二は呆れる夕神に言う。
「ほら、今度は君の番だよ」
「俺?」
「そう。君が、僕を相棒として認めてくれるか。信用してくれるかどうか」
手を貸そうとする男が、こちらが手を伸ばすかどうか、確かめてくる。
愚かな怯えは呆れで消えた。それなら、答えは一つしかなかった。
「生憎と――今は、誰かさんのせいで、亡霊の手も借りたいぐらい忙しいんだ」
夕神が垂れ下がっていた手を伸ばす。拳を作って、相手に近づける。
「手伝ってもらいますよ。慶二さん」
「もちろん」
慶二の手が伸ばされる。拳がぶつかった。