消えてしまった刑事さん   作:片岬(旧:片霧)

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希月心音の場合――番慶二との思い出について――

心音side

 

番慶二は、希月心音にとって、最初はとても影の薄い人だった。

 

まだ十歳になったばかりの心音は、それを「影が薄い」と言うのだと知らなかったが、彼は気づけば誰かの近くにいて、気づけばいなくなっている。そんな人だった。

 

その印象が変わったのは、とある秋の日のことだった。この日は、季節としては秋ではあるものの、夏の暑さが再来したような日差しの厳しい日だった。

心音は大河原宇宙センター――宇宙開発機構「GYAXA」が運営するロケット開発施設――の出入口付近で、友人の森澄しのぶを待っていた。心音は母がこの施設の研究者として住み込みで働いている都合で、宇宙センターに住んでいる。そして、あまり学校には行けていない。

心音にとって、唯一の友人であるしのぶは、体が弱いため、あまり学校に登校していない。心音と理由は異なるが、同じ境遇から二人は親しくなり、しのぶは時折、大河原宇宙センターに遊びに来てくれていた。

その日は、しのぶが遊びに来るという連絡があった。そのため、心音は人を避けながら出入口までやってきて、隠れるようにして彼女を待っている。

出入り口は、時折人が通る。その人物が喋っていると、苦しかった。音が耳に入ってくるのだ。大きく重い、針金が飛び出した邪魔なヘッドホンをしているのに、それでも耳に入ってくる。頭にいろんなものが入ってきて、胸が苦しくなる。

 

「うぅ……」

 

それでも、友人に会うために心音はじっと待っていた。しかし、約束の時間になってもしのぶはやってこなかった。施設にある時計を見て、開かない入口の扉を見て、また時計を見るのを繰り返す。

もしかしたら、予定ができて来られなくなったのかも。けれど、そういう時は必ず連絡が来る。なら、少し遅くなっているのだろうか。

心音が不安で顔を俯かせた時、施設の扉が開いた。

 

「しのぶ……」

 

心音がパッと顔を上げてそう声を上げると同時、扉から現れた人物が目を丸くして心音を見ていた。

 

「……心音くん、だよね? どうしたのかな?」

 

そこに居たのは、背の高い、黒く裾の長いコートを着た、茶色髪の男性だった。ゆったりとした様子で近づいてきて、一歩手前ほどで膝を折った。

 

「誰かを探してる?」

「……」

 

柔らかい声色が、心音の母、希月真理から渡された大きく重いヘッドホン越しに聞こえてくる。とても聞こえづらかった。

けれど、そのおかげで、頭の中が音でいっぱいになることはなかった。

 

「分かった。森澄しのぶくんを探しているね」

「!」

 

聞き取りづらくとも、音は鼓膜に入ってくる。その中に友達の名前があり、心音は小さく肩が震えた。どうして知っているの、そう唇を噛み締めれば、彼は流れるように答えを言った。

 

「彼女、この曜日に来ることが多いから」

 

男は微笑むと、探してこようか? と心音に提案してきた。彼は、よく夕神迅や夕神かぐやと共にいた。迅は母の弟子らしい男の人で、心音にも優しくしてくれる。黒髪短髪の、和風の上着を着ている人だ。

かぐやは母と同じ研究者で、言葉が強くて心音は苦手だった。紫髪で、鬼の角のように、髪を頭の上で二つにまとめている。

心音は、かぐやとは距離があるが、迅のことは好きで、信頼している。そんな彼とよくいるのだから、悪い人ではない……のかもしれない。

けれど、見知らぬ人に友達を探してもらうのは、なんだか不安だった。

心音が俯いていると、男はまた一つ提案した。

 

「なら、一緒に探そうか」

「……一緒に?」

「そう。きっと早く見つかるよ」

 

そう言って男は心音に手を差し伸べた。夕神と同じく、大きな手だった。心音の手など、握られたら潰れてしまいそうだ。

心音はチラリと男を見上げる。柔らかそうに笑う彼は、何も言わずに心音の動きを待っている。

自分で探すには、勇気が足りない。この人に任せるのはなんだか不安。

心音は数十秒迷って、本当にゆっくり、男の手のひらに手を伸ばした。

 

 

 

「しのぶくんは、ご両親が車で連れてきてくれることが多かったよね。ちょっと敷地の入口まで行ってみようか」

 

男は、心音がそおっと手に触れたことを確認すると、失礼するよ。と割れ物の人形を抱えるように心音を抱き上げた。少し驚いたが、夕神がよく同じように抱き抱えてくれていたため、ゆっくりとした動作も相まって、それほど動揺はしなかった。

男は心音を片腕で抱えながら、施設の外へ向かって歩き出した。夕神に抱き上げられている時も、とても安定していて座り心地が良かった。この男も安定してはいたけれど、安定しすぎていて金属の椅子に座っているかのような違和感を心音は覚えて、ちょっとだけ首を傾げた。

 

「しのぶくんは、本当はいつ来るはずだったんだい?」

「一時……」

「そうか、じゃあもう三十分遅れているのか」

 

男が腕につけた腕時計を見ながらそう返す。

そう、いつもなら、遅れるとしても絶対に連絡が入っている時間だった。

改めてそう考えて、心音は胸がザワザワとした。身体が重くなって、視界が暗くなる。

そんな時、男の柔らかな声が聞こえてきた。

 

「ほら見て、花が咲いてる。綺麗だねぇ」

「……花」

 

心音は驚いて顔を上げた。花に対してではなく、男に対してだった。彼の声が、ヘッドホンを通り越して聞こえてきた。

心音の耳は、とても良い。聴覚に優れているというわけではない。普通とは違う力があった。人の声から、その感情を読み取る力。

けれど、人の声には、あまりにも多くの感情がある。声は、心音にとっては苦痛と同意だ。人の多い空間や激しい感情は幼い心音には辛く、体調を崩すことも多くあった。一部の人たちを除き、心音は人といるより、機械といることを好んだ。

けれど、男の声は、心音を苦しめる声ではなかった。男がこぼした声は、楽しさや嬉しさ、そういった明るい色合いで、心音の胸に鮮やかさを覚えさせる。

心音は笑みを浮かべる男に、ほら、と促されて敷地内に植えられていた植木を見た。確かに、植木に白い花がいくつか咲いている。

 

「綺麗だね」

 

そう繰り返した男の声は、とても柔らかで、花に似ていた。

綺麗な花が、水面に浮かんでいる。そんな景色が、心音の頭に浮かんだ。

美しかったけれど、心音は気づいた。この声は、こちらを気遣っている声だ。男は、心音に気を遣って、言葉をかけてきている。

けれど、その声から思い浮かぶ景色がとても綺麗で、心音は緊張がふわりと溶ける気がした。

 

大河原宇宙センター敷地内の入口――エントランスまでやってきて、周囲を見渡す。道路にはしのぶの両親の車はなかった。平日の昼過ぎで、人通りもほとんど無い。

宇宙センターの出入口で立ち尽くす。

 

「ちょっと周囲を探してみようか」

 

そう男が気を遣うように提案してきたので、心音は小さく頷いた。

エントランスの外に出るのは不安だったが、しのぶの事が気がかりだった。それに、男から、面倒とか嫌だとか、そういう感情は伝わってこなかった。なので、一緒に探しに行こうと思えた。

男は心音を抱えながら、敷地の外へと歩き出した。いつも見る風景とは違い、色々なものがある。電柱や花壇、水路に、コンクリートの塀には猫が丸まって寝ていた。匂いも室内の清潔なものではなく、草木や、どこかの家から香ってくる魚の焼ける匂い、排水溝の臭いなど、何と分からないものも沢山あった。

男は周囲を見回しながら、しかし迷いなく歩いていく。速度が早く、心音はちゃんと探しているのだろうかと不安になって、胸の前でぎゅっと手を握った。

男は特に何か話すことも無く、黙々と足を動かす。

 

「あ……」

「何かあったかい?」

 

男と同じように、しかし必死にしのぶを探していた心音の耳に、とある声が聞こえた。

小さな声――けれど、苦しみや痛みが滲む声だった。

 

「あっち、しのぶの声……」

「行ってみよう」

 

指を指した方向へ、男は直ぐに歩き出した。そして直ぐに、音が聞こえてきた場所へとたどり着く。

 

「しのぶ……!」

 

自転車がギリギリ入れるぐらいの細い通路、高い塀が立っていて、壁になって周囲から見えづらい通路の木陰。そこに、隠れるように麦わら帽子を被った少女が倒れていた。

思わず手を伸ばした心音に、男がそっと心音を地面へ下ろす。振り返りもせずに駆け出して、しのぶへと近づいた。

 

「しのぶ、しっかりして……!」

「う、ぅう……ここ、ちゃん……」

 

か細く聞こえてきた声は、弱々しく、そして胸が痛むような苦しさを伴っていた。目をはっきりと開けることも出来ないしのぶに、心音は知らず息が細くなる。

そんな彼女の傍に、男が膝を下ろした。

 

「しのぶくん。ちょっと触るからね」

 

男の手が伸びて、彼女の首元を触る。それから頬を触ったり、目の下の指で引っ張ったりする。そうして、ひょいと人形を持ち上げるように抱き上げた。

 

「ど、どうするの……!」

 

しのぶを連れていく男へ、心音が足にしがみついて声を上げる。不安は強く、重く、胸に大きな石が乗っているようだった。それでも連れていかせるわけにはいかなかった。しのぶは、心音の友達だったから。

男は心音を見て、それからぐわりと手を伸ばした。咄嗟に顔を俯かせて目をつぶる。瞬間、身体が持ち上がった。

 

「きゃ!?」

「強引で失礼。宇宙センターへ戻るよ。少し揺れるけど我慢してね」

「な、なんで」

 

声を出す心音に、男はニコリと笑って、その場から駆け出した。強い振動を一瞬感じたが、その後はエスカレーターに乗っているような感覚だった。彼は走りながら言う。

 

「しのぶくんは熱中症になりかけって所かな。今日は少し暑かったからね。どうしてあんな所で一人でいたかは分からないけど、たぶん体調が悪くなって日陰で休もうとして、そのまま動けなくなってしまったんじゃないかな」

「そ、そうなの……?」

「おそらくね。真相は、後で心音くんが元気になったしのぶくんに聞いてあげればいい」

 

そうして話していると、あっという間に宇宙センターの敷地入口が見えてきた。男はそのまま入口を通り抜け、施設に入り、医務室がある所まで走っていく。

そうして男が医務室を開けると、施設のスタッフが驚いた顔をしてこちらを見ていた。そんな相手に男が「熱中症になりかけの子供が一人。対処を頼むよ」と医務室のベッドにしのぶを横にさせながら言った。

 

専門のスタッフが対応し、熱中症の軽症という診断をされた。適切な対処のおかげか、しのぶは直ぐに意識がはっきりとしたという。

医療室前の椅子に座り、しのぶの状態が落ち着くのを待っていた心音の前に、いつの間にか姿を消していた男が現れた。

 

「心音くん。はい、これ」

「これ……なに?」

「しのぶくんの荷物。慌ててたから置いてきちゃったみたいでね。取りに行ってたんだ」

 

男が差し出してきたのは茶色い紙袋だった。心音も気が付かなかったが、地面に置かれていたらしい。差し出されたので受け取れば、中から甘い匂いがした。覗いてみると、大きな柿が幾つか入っている。

 

「柿……しのぶが前に言ってた……」

 

以前、しのぶが宇宙センターにやってきた時に、柿の話をしていたのを心音は思い出した。そろそろ柿がなる季節なのだと。心音は食べたことがなかったから、絵を描いてもらって、そういう食べ物があるんだ、と頷いたのを覚えている。

 

「それから、しのぶくんはどうやらご両親には内緒でここへやってきたらしい」

「え、どうして……」

「さぁ。そこまでは分からないな。けど、元々宇宙センターへ行く予定だったけど、ご両親に予定が入ってしまって行けなくなったらしいよ。それで、宇宙センターへ行けないという連絡も、しのぶくんが自分でやる、と言っていたそうだ」

「……」

 

心音は紙袋に入った柿を見つめながら一人考える。今までも、来る予定だったのになくなってしまったことはある。しのぶの体調が悪くなってしまったり、その逆もあった。

どうして今日、しのぶは両親に嘘をついてまで宇宙センターにやってきたのだろう。

俯いてぐるぐると心音が考えていると、医務室の扉が開いた。

 

「お疲れ様です。しのぶくんの様子はどうですか?」

「ええ、もう大丈夫ですよ。暫くは様子を見るためにここにいてもらいますが、お話は出来ますよ」

「そうですか」

 

笑みを浮かべてスタッフと会話をしていた男が、心音を見る。そして扉から一歩引いた。

 

「どうぞ」

 

手のひらで示された扉の向こう。心音は立ち上がり、導かれるように足を進ませた。

医務室のベッドには、麦わら帽子を脱いだしのぶが横になっていた。心音に気づくと、起き上がろうとしたが、どうやら力が出なかったらしくベッドに戻っていく。

 

「しのぶ、大丈夫……?」

「うん……。ごめんね、迷惑かけて……」

 

開口一番に謝られて、心音は困惑した。そんな意味で言った訳ではなかった。けれど、しのぶは眉を下げ、泣きそうな顔になってしまった。

悲しみが声を通じて聞こえてきて、心音まで鼻の奥がツンと傷む。

 

「そんなことないよ。会いに来てくれて、嬉しかったよ」

 

本当のことだ。心音にはしのぶしか友達がおらず、外にもろくに出ることが出来ない。だからしのぶがやってくる時間は特別だった。

しかし、しのぶの心には響かなかったのか、暗い顔で俯いたままだ。

 

「でも、私、勝手に会いに行って……お父さんやお母さんにも言わないで……。体調が良かったから、一人でも行けると思ったの、けど、ダメだった……。荷物もなくしちゃった……」

 

話しながら、湿っていく声に心音は酷く心が傷んだ。けれど、同時に気づいた。

 

「ま、待って、荷物って、これ?」

 

咄嗟に床に置いていた紙袋から一つ、柿を両手で掴んでしのぶの前に持っていく。

その果物が目に入った瞬間、しのぶの目が丸くなった。

 

「そう……それ……私が持ってきた柿」

 

頷くしのぶを見て、心音の中で何かが繋がっていった。両親の用事でいけなくなったこと、紙袋に詰めて持ってきた柿、そして前に話してくれた柿のこと。

たどり着いた考えを、心音はポツリと口にした。

 

「私に、持ってきてくれたの?」

「……うん、ココちゃん、食べたことないって言ってたから……。おばあちゃんちで採れて、でも今回持っていけなかったら、ダメになっちゃうと思って」

 

そう細い声で語るしのぶに、心音は手にした柿を見る。心音は一人で外に出るなんて出来ない。多くの人々の感情に晒されて、苦しくて動けなくなってしまう。

けれどしのぶは、彼女自身も体が弱いのに、心音に柿を食べさせてあげるために一人でやってきた。

 

「……しのぶ」

「なに?」

「ありがとう。大事に食べるね」

「……うんっ」

 

 

 

医務室から紙袋を持って外に出る。隣には一緒にしのぶを探した男がいた。思えば、彼は一緒に医務室に入って行ったのに、心音としのぶが喋っている間、空気のように姿を消していた。

そういえば、しのぶを探すのを手伝ってもらったのだから、お礼をしないと、と心音は男を見上げる。

 

「あ、あの、しのぶを一緒に探してくれて、ありがとう、ございました……」

「ん? ああ、どういたしまして。お礼をちゃんと言えて偉いね」

 

男は膝を折って心音の視線に合わせると、そう言ってニコリと笑った。

男は心音の持っている紙袋を見て「そういえば、さっきはお見事だったね」とよく分からない賛辞をした。

 

「さっき?」

「ああ、しのぶくんと話している時。彼女がここへやって来た理由を見抜いていたじゃないか」

「え……」

 

そんなふうに褒められることは初めてだったので、心音は口ごもった。元々、心音は口数が多い方でもないし、会話を沢山するほうでもない。なのに、全くピンと来ないことを言われて、言葉が浮かばない。

しかし、男は楽しげに続ける。

 

「心音くんは弁護士に向いているかもね」

「べんごし……?」

「そう。依頼人を……例えば、さっきのしのぶくんみたいな人を助ける仕事」

 

人を助ける仕事。先程から男は心音が耳にしない言葉ばかりを語る。将来のことなど、心音にとってはるか先の事だった。なぜなら、今、普通に生きることさえ上手くいっていないのだ。未来のことなど、薄暗くぼんやりとしていて、恐ろしい霧の中の事だった。

けれど、男は「きっとたくさんの人を助けるだろうね」と、どこか確信めいた口調で言う。

ふざけてもからかってもいない。ただ事実を言っているように、心音には聞こえた。

嘘だと問いただすことも、無意味に思えるぐらいに。

 

「心音くん、僕はこの辺で失礼するね。また何かあれば頼って欲しいな。時々ここに来るから。お兄さんみたいに――お兄さんは迅くんぐらいの年齢か。そうだな……父親みたいに頼ってね。じゃあ、またね」

 

そう言って男は手を軽く振り、まるで風のように去ってしまう。遠のいていく黒いコートの男に、思わず口を開く。けれど、なんと呼んでいいか分からずにいれば、男はそのまま消えてしまった。

 

 

 

あれから、一度だけ心音は黒コートの男に出会った。そして、また助けてもらった。けれど、男は何故かその事を「宇宙センターの人には秘密にしておいてね」と言ったので、心音は誰にも話していない。

そしてその後、彼を見ることはしばらく無かった。三ヶ月ほどだろうか。心音は、人を探すのは得意な方だった。宇宙センターの中でのみだが、声を頼りに誰がどこにいるのか、なんとなく把握することが出来た。けれど、あの男はどこにいるかよく分からなかった。そもそも宇宙センターに来ていないのか、それとも来ていても心音が気づいていないだけなのか。

 

「……今日も、いない」

 

なんとなく、気づくとあの男を探していた。特に用事があるという訳ではなかった。けれど、珍しい人だったし、時々宇宙センターに来ると口にしていた。だから、いるなら話をしたいと心音は思っていた。

なので、迅の声を辿って廊下を歩いていた先、迅と共にいた黒コートを見て思わず目を見開いた。

しかし、丁度話が終わったのか、男がコートを翻して背を向けてしまう。

あっ、と思った。手を伸ばして、息が漏れて、声が出ない。男の名前を知らない。周りが呼んでいるのを聞いたことはあったかもしれないが、記憶には残っていなかった。

それでも行って欲しくなくて、心音は何かしら声を上げた。その瞬間に、まるで弾かれたように男のみならず迅の視線も心音の方を向く。心音は驚いてビクリとその場に固まった。

二人は心音を見た後に、きょろきょろと周囲を見渡し、目を合わせた。それから迅が男を指さし、男も男自身に指を指した。

謎の行動に、心音がその場で立ち尽くす。

そんな彼女に気づいたのか、自分に人差し指を向けたままの男が心音の方を見て、柔らかく笑った。

そうしてゆっくり近づいてきて「失礼」と声をかけると、人形を抱き上げるようにひょいと持ち上げる。

 

「僕に用だったのかな?」

「そう、だけど……」

「そっか。やっぱり僕だったか」

 

男は声を弾ませて頷く。目が細くなって、眉が下がっている。

声が暖かくて、柔くて、太陽の下に咲く花のようだった。優しい風に花弁がよそぐ。そんなふわりとした声。

 

「俺も学校でやったことがありますね」

「ふふ、そっか。僕は結婚願望が強くなっちゃったなぁ」

「結婚願望あったんですか?」

「全然あるねぇ」

 

近づいてきた迅と男が親しげに話している。二人とも口元に笑みが零れていて、心音は首を傾げた。そんな心音に、男が柔らかな声で言う。

 

「僕の名前は番慶二って言うんだ。気軽に慶二さんって呼んでね」

 

心音が「けいじさん」と繰り返すと、男は――慶二は向日葵のように笑った。

 

 

 

慶二は時折、宇宙センターに姿を現した。迅やかぐやとだいたい共に居て、迅と難しい話をしていたり、かぐやとパソコンやロボットを前に、これもまた心音には難しい話をしていた。

慶二は一人になることが少なく、心音は彼が迅と共にいる時に話しかけていた。

 

「心音くん、久しぶり。ちょっと背が伸びたかな?」

「伸びてないと思う……」

「あはは、そうかな? 子供は成長が早いから、あっという間に大きくなっちゃう。ちょっとだけ寂しいなぁ」

 

雨に濡れた花がしゅんと垂れている。そんな声が聞こえてきた。この頃になると、慶二の声に慣れたのか、心音は慶二の声がよく聞こえるようになっていた。けれど、慶二の声は穏やかで、ふんわりとしている。なので、心音はその声を聞くのが好きだった。

 

「子供……」

「あ、そう言われるの嫌だった?」

「うぅん、違うの……。あの、子供ってどこから来るの?」

「「……」」

 

すん、と空気が止まったように静かになる。そして慶二と迅はさっと互いに目を配りあった。心音が二人と話をしていると、こういうことが時々ある。そして大体は、この後にどちらかがついさっきまでの話題と違うことを話し出すのだ。

 

「そうだ心音。立ち話も疲れるし、椅子に座らねェかい」

「うん」

 

心音は迅に言われるがまま、少し移動して、丸テーブルと椅子が置かれているラウンジへと足を運んだ。そして椅子に座ると、残りの二席に二人がそれぞれ腰を下ろした。

 

「さて、心音くん」

「うん」

「誰がそれを心音くんに言ったのかな?」

 

慶二がにこやかに尋ねてくるが、声はとても静かだった。石みたい、と思いながら心音は答える。どうして人から聞いたと分かったんだろうと思いながら。

 

「かぐやさんが、慶二さんたちに聞いてみなさいって」

「「……」」

 

再び二人は黙ったが、今回は目配せをしなかった。二人とも目を閉じて深い息を吐き、迅は腕を組んで、慶二は頬杖をつく。

なんとなく空気が淀んだ感覚を覚えて、心音は慌てて言葉を続けた。

 

「お、おもしろい答えを教えてもらえるって……言われて……」

「姉貴……心音で遊びやがって……」

「さすがかぐやさんだ。的確に狙ってくるね」

 

迅は苦々しい顔をして、慶二はなんだか清々しい爽やかささえ感じる顔でそう深々と呟く。

よく分からない反応に心音が身を縮めていれば、迅が直ぐに気がついて組んでいた腕を解いた。

 

「そうだ、心音はコウノトリってのは知ってるか?」

「うん……かぐやさんが、それは嘘だから、違う話を聞きなさいって」

「ぐっ……!」

 

斬られたように仰け反った後、胸を抑え、机に肘をついて身体を支える迅は酷く苦しげだ。心音は慌てて「大丈夫!?」と椅子から降りて近寄ろうとするが、慶二がそっと手で制する。

 

「相手が強かっただけだよ。心配しないで」

「つよい……?」

 

どこかいつもの笑みが更に柔らかくなっている慶二が、慎重にニコリと微笑む。

それから、うーん、と悩む声を出して、顔半分に垂れている前髪をちょいちょいといじった。

 

「……種」

「たね?」

「花や木がどうやって生まれてくるかは分かるかな?」

「うん。種を土に植えて、生えてくるの」

 

慶二が前髪を弄るのをやめて、心音に植物の生え方について話をし出す。心音は植物に関しては、植物に詳しいしのぶから教えて貰っていくつか知識があった。珍しい花の形など、少し難しい話も教えてもらっている。もちろん、花や木が種から生えてくるのも知っている。

慶二は頷くと「人間もそれと同じだよ」と人差し指を立てた。

 

「人も同じなの?」

「そう。人の種があって、それが十分大きくなったら人として生まれてくるんだ」

「土に植えるの?」

「ンー、まぁ、そんな感じだね」

 

ニコニコと、綺麗とも言える顔で慶二はそう断言する。とてつもなく綺麗に微笑んでいるので、なんだか心音は絵みたいだなぁと思った。壁に飾られていても、違和感がないかもしれない。

対して、隣の迅は腹を下したかのように額から汗を流して、時折チラチラと慶二の方を見ていた。

 

「まぁ、詳しいことは大人になったら分かるよ」

「そうなの?」

「そうそう。今は植物の育て方の方を学ぼうじゃないか。そうだ、今度何かの種を持ってきてあげるよ。心音くんは好きな花とかあるかい?」

 

そう尋ねられて、心音は首を捻った。花については、しのぶから教えて貰っていくつか知っていた。朝顔、向日葵、チューリップ、菜の花――後は、そう、名前の知らないあの花。

 

「白い花……」

「白? どんな形かな」

「木に咲いてて……丸いの」

「木に咲いてるやつか……」

 

顎に手を当てて悩む慶二に、心音はジッとその様子を見つめた。綺麗な花弁が、なんだか慶二に似ている気がする。たくさんの花をつかせていて、少し前に見た時は、花がいくつか落ちてしまっていた。

慶二はあっ、と声を上げて「椿かな」と前かがみになった。

 

「椿ですか? 確か、前庭にありましたよね」

「そうそう。懐かしいな、心音くんと一緒に見たよね」

「! う、うん。そう、そのお花」

 

覚えていたんだ、と心音は口に出さずに思った。それを見透かすように、慶二が嬉しげに微笑む。

 

「忘れないよ。心音くんと初めて見たお花だし」

「う、うん……」

「慶二さん……」

「えっ」

 

そんなふうに言われると思っておらず、心音はなんだか恥ずかしくなって顔を伏せた。

そして、迅が重い声色で慶二の名を呼ぶ。慶二は驚いたように目を瞬かせて、まぁまぁ、と手をヒラヒラさせていた。

 

「じゃあ次は椿の苗木を持ってくるよ。一緒に植えよう」

「いいの?」

「うん。許可は僕が貰ってくるよ」

「いいんですか? 勝手にそんなこと」

「まぁ、大丈夫だよ。それに、心音くんと一緒に成長する木も出来て、いい感じでしょ」

 

迅は、何かを思い出すように目を左に逸らしたあと「確かにうちの家もあった気がしますね。俺と同じ樹齢の木」と頷いた。

 

 

 

そして二ヶ月ほど後、季節は巡り木々に花が着く暖かな陽気となっていた。

冬の間、慶二は心音の前に現れなかった。いや、姿を見はしたが、霧のようにすぐに消えてしまって話しかける暇さえなかった。幽霊のように神出鬼没に現れて、そうしていなくなる慶二に、心音は「私に会いたくないのかな」と気づいてしまった。

姿は見るから、宇宙センターには来ている。なのに、心音と会わずに帰ってしまうし、心音が見つけてもいつの間にか居なくなるのは避けているから。

 

「……慶二さん、私のこと嫌いになったのかな」

 

そう、迅と二人、子供部屋でパズルで遊んでいる時に、頭に浮かんでいた言葉がポロリと出てきた。惑星の絵が描かれたパズルはぐちゃぐちゃで、完成には遠かった。

迅は少し黙ったあとに、パズルのピースを持つ心音に話しかける。

 

「そんなわきゃねェさ。慶二さんは心音のこと、随分気に入ってる」

「でも、慶二さん、見つけてもすぐにどこか行っちゃう……」

「ちょっと仕事が忙しいのさ。俺もあまり話せてねェンだ」

 

そうは言っても、迅自身は慶二と話をしている。心音はそういう場所を何度も見ていた。けれど、心音が来たことを察知したみたいに居なくなってしまうのだ。

仕事が忙しい……それじゃあ、そんな忙しい中で声をかけてくる子供が嫌になったのかもしれない。そう考えると、しっくりくるように心音は思えた。誰かと話す時間も惜しいのに、心音に割く時間などなかったのだ。

心音は慶二に何度か助けられ、色々と教えて貰って、慶二のことを迅と同じように信頼できる優しい人だと思っていた。たぶん、優しいのは間違いないのだろう。ではなければ、心音は直ぐにその耳でわかってしまう。けれど、だからこそ相手は言葉にはせず、離れていくのではないか。

嫌われている、と思うと、胸が絞られるように痛い気がした。勝手に、そんなわけがないと思っていたから余計だった。

心音の未来を夢想して、当然のように次の約束を取り付けた、記憶にも覚えていない父親という存在を想像させる人。

心音は、なんだか慶二に、特別に優しくされているように、自分勝手に思っていた。

手で数えられるほどしか会っていないのに、話したことも多くはないのに、まるで、家族よりも家族のように柔らかな笑みをくれていたから。

期待を裏切られたような、身勝手な心の傷がズキズキと傷む。どうしてこんなに苦しいのか分からないぐらい、苦しかった。

 

手にあるピースをぎゅっと握る。心音は気持ちを抑えるように唇を噛み締めて、耐えていた。けれど、感情は溢れて目の淵から溢れて落ちた。

 

「心音……」

 

迅の心配げな声が響く。と、その時。

 

「あ! ここに居たんだね二人とも。見て、心音くん。約束通り持ってきたよ」

 

ガラリと引き戸の扉が開いて、黒コートの男が意気揚々と入ってきた。手には、植木鉢から生えている、五十センチほどの苗木が抱えられていた。

二人は呆気にとられ、顔を上げる。その二人を上機嫌そうな表情で見た慶二は、ビックリしたように目を丸くした。

 

 

 

「なるほど、僕が心音くんを嫌っているかもと……」

 

そう慶二は言って顎に手を当てた。神妙そうな面持ちをしている。

子供用の低い机に、大の男二人が腰をかがめて身体を押し込んで座っていた。

そして黒コート男の隣にはそこそこ大きな鉢植えが置かれている。

既に涙は拭いていたものの、心音は気まずくて俯いていた。代わりに、迅が口を開く。

 

「慶二さん、最近仕事が忙しかったでしょう。だから、ちょっと不安になっちまったんですよ」

 

そう気遣うように語る迅に、心音はますます俯いた。そうして、言われた方の慶二は、うーん、と口にして、それから口をつぐんでしまう。

そして、考えるように目線を空へと投げながらしばらくそうしていた。十秒、二十秒。そうして一分経った時、迅が急くように言葉を投げかけた。

 

「慶二さん? どうしたんです」

 

眉を寄せて尋ねる迅に、慶二は涼しい声で言う。

 

「どう伝えようか悩んでたんだ」

「普通に口で言えばいいでしょう」

「けどねぇ」

 

慶二の声は、やはり涼しい。冷たい訳でもなく、かといって暖かい訳でもない。他意のない事が心音には分かるが、それ故に何を言い出すか全く想像がつかずに怖くもあった。

そんな慶二は、その声に僅かに困惑を混ぜて言う。

 

「たまに来るだけのおじさんに、思っている以上に好かれてると分かったら怖いだろう?」

 

ね、と同意を求められ、心音はいつの間にか上げていた顔を傾げた。

隣で、顰め面をした迅が硬い声を出す。

 

「誘拐せんでくださいよ……」

「僕をなんだと思ってるんだよ!」

 

んはは! と慶二は耐えきれないように笑った。それが心底楽しそうで、キラキラ輝く大輪の花のようで、心音はすっかり聞き入った。

心音は、大人が言う名曲というものの魅力が分からなかった。名曲と言われれば言われるものほど、そういうものは頭が痛くなるぐらいうるさくて、心音の心は濁流に流されたようになる。けれど、慶二の笑い声は、そんな名曲を聞いた時にこんな気持ちになるのかも、と思うような音色だった。

 

「ハー、笑った笑った。あと、いい事思いついた」

「笑いすぎなんですよ。それに、言動には気をつけてくださいよ。慶二さんが出入り禁止にされたら困ります」

「迅くんがいる時にしか言ってないって」

 

肩を竦めた慶二は、すぐに懐をまさぐった。黒コートの下から何かを取り出す。

それは小さなメモ帳とペンだった。

 

「手紙の交換っこしようか」

 

 

慶二の提案はその言葉の通り、手紙の交換をし合おう、ということだった。

 

「仕事が忙しいっていうのは本当でね。宇宙センターに来ても、すぐに別の現場に行かなくちゃいけなかったりするんだ。だから、会わなくても交流が出来る方法を使おう」

 

そう言って、十センチほどの長方形のメモに慶二は何かをササッと書く。そうして、机に身を屈ませて紙を折り、メールの図形のような形の折り紙を作った。何も書かれていない表に「心音くんへ」と書いて心音へと手渡す。

 

「こうやって書いた手紙を渡すから、心音くんは僕に返事を書く。そうやってやり取りするんだ。そうしたら、心配することもなくなると思うんだけど、どうかな」

 

手元にやってきた小さな手紙の折り紙を見つめる。チラリと慶二を見つめて、小さく尋ねた。

 

「読んでもいい?」

「まだダメだよ。僕が帰ったら読んでね」

 

微笑みとともに断られ、心音は手紙を外から眺めることしか出来なかった。

ジッと見つめる心音を置いて、慶二はメモ帳を一枚ちぎって、ペンとともに迅の前へと置いた。

 

「……なんです?」

「何って、迅くんも書くんだよ」

「なぜ俺も……?」

「いっぱい手紙が来た方が嬉しいだろう?」

 

迅は数秒黙ったが、小さくため息をついてペンを手に取った。

その姿を見て満足気な顔をした慶二が、机に置かれていたパズルに目線を移す。

 

「さ、迅くんが書き終わるまでパズルでもしようか。ンー、三割方完成してるってところかな」

「うん、難しくて」

「よしよし、迅くんが書き終わるより早く仕上げちゃおう」

「そんなにかかりゃしませんよ」

 

迅はペンを片手に、眉を寄せて顔を上げる。確かに彼の手元にある紙は小さいし、パズルは子供向けだが、それでも百ピースほどある。

慶二はちょっと目を細めて、片眉と片方の口角を上げて笑った。

 

「どうかな? じゃあ迅くんの方が早かったら同行の話考えてあげるよ」

「なッ! こんな所でンな話を……」

「ハイ、じゃあスタート」

「あっ!」

 

慶二は言うが早いか、手にピースを持って台紙にパチリと当てはめ始めた。

 

「心音くん、そっちのピース貰っていい?」

「う、うん」

「このピース、そこの角に当ててみて」

「うん、あ。合ってる」

「いいね。このピースはそっち側だと思うから当てはめてみて」

「うん」

「ぐっ……」

「迅くんはちゃんと文章考えるんだよ。適当じゃダメだからね」

「当たり前でしょう」

 

心音がチラリと迅の方を見ると、どうやら何を書くか悩んでいるらしい。ペンを片手に眉を寄せて紙を睨みつけている。

対して慶二は、スイスイとピースを手に取って絵柄が見えているかのように当てはめていく。慶二は心音に指示を出して、心音の方も自分一人でやっていた時とは比べ物にならないぐらいスムーズに絵柄が埋まっていった。

そうして数分の後に、あっという間にピースが埋まってしまった。元の絵柄――宇宙の惑星が描かれた写真のようなイラストが浮かび上がっている。

しかし――

 

「あれっ」

 

慶二が少しばかり表情を崩す。

 

「一つピースが足りない……」

 

心音が口にした通り、パズルのピースが一つだけ足りなかった。小さな、しかし明確な未完成の印に、二人は机の上をきょろきょろと探す。

しかし、机の上にはそれらしきものはない。慶二がいそいそと椅子から立ち上がり、床に這いつくばって、苗木を持ち上げたりして探したが、それでも見つからないらしく「無いね~」と四つん這いになりながら、困ったように呟いた。

 

「終わりましたよ」

 

と、ピースに探す二人にペンを置いた迅が声をかけた。顔を上げた慶二が、おや、と声を上げる。

 

「書き終わった?」

「はい。さっきの話、よろしくお願いしますよ」

「う~ん」

 

迅の言葉に、慶二は立ち上がりながらポリポリと首の裏をかく。迅は機嫌が良さげな笑みを浮かべつつ、裏返しにした紙を心音に手渡した。

心音はそれを受け取ろうとして――開いた手から何かがこぼれ落ちる。

 

「「「あっ」」」

 

机に落ちたそれを見て、三人は同時に声を上げた。それは見つからなかった最後のピースに違いなかった。

心音はそれを見つめながら、慶二が来る前に握っていたピースを思い出した。あれからずっと、ピースを握り続けて存在に気づかなかった。慶二の手紙を受け取った時も、パズルを当てはめている時も、指先だけを使っていて手を開かなかったから気づかなかった。

慶二は机に落ちたピースをひょいと拾い上げて、最後の空白にパチリと当てはめた。

 

「よし、完成」

 

出来上がった惑星のパズルに、慶二が満足気に笑う。けれど、心音の眉はこれ以上無いほどに下がっていた。大人が勝手に始めた勝負とはいえ、わざとでは無いが自分がピースを隠してしまったせいで慶二が負けてしまった。

 

「ご、ごめんなさい、私のせいで……」

「ん? いやいや、大丈夫だよ。だって僕たちの勝ちだからね」

「な……! なンですかそりゃあ!」

 

当然のように言い切った慶二に迅が噛み付いた。だが、チッチッチッ、と慶二は指を振って言う。

 

「手紙はまだ心音くんに渡していないだろ?」

「でも慶二さんは『書き終わるまで』って言いましたよね?」

 

すぐに言い返した迅に、慶二は少し動きを止めて顎の下を指で擦った。そして眉を寄せる。どうやら自分でそう言ったことを思い出したらしい。そんな慶二に「男に二言はありませんね」と迅が詰め寄った。慶二は認めたくないのか、目を逸らして眉を寄せている。

二人の姿を交互に見た心音は、パッと手紙を手に取った。心音が慶二に貰った方の手紙だった。

 

「で、でも、手紙、形が違うから……! まだ、迅さんの方は完成してない、かも……」

 

手とって迅に見せた慶二の手紙は、折り紙として折りたたまれて中身が見えないようになっている。対して迅の手紙は、裏返しにしただけで紙のままだ。

迅はそれをまじまじと見た後に、瞠目した。

 

「ぐはぁあああ!」

「素晴らしい! 鮮やかな手腕! よっ! 心音弁護士!」

「えっえっえっ」

 

片や仰け反って野太い悲鳴を上げる迅と、片やスタンディングオベーションで拍手喝采の慶二。心音はどんな状況か分からず縮こまった。

慶二の手紙を突きつけられた迅は、胸を押さえて荒い息をしながら、苦しそうに言葉を絞り出す。

 

「心音が……! 俺じゃなく慶二さんの味方を……!」

「んはっ! ごほっ、んふ、ふふふ……」

「堪えきれてねェですよ慶二さん……!!」

 

噛み付くが、迅の声には覇気がなかった。慶二はにやついた顔をどうにか引き締め、頬をさする。

 

「弁護士側の鋭い指摘は無視できないものだね。けれど、検事側の筋も通っているから……引き分けってことにしようか」

「引き分け?」

「裁判に引き分けなんてねェでしょうが!」

「なので、迅くんには同行を許可してあげよう。手伝いはさせられないけど」

「え! いいんですか!」

「いいよ。あんまり構ってあげられないとは思うけど」

 

慶二がそう言うと、迅は目をキラキラさせて力強く頷いていた。それに、慶二が笑いながら「困った相棒だねぇ」と呟く。それが迅の目に劣らないぐらいキラキラとしていて、なんだか上手く丸まったのだと心音は思った。

 

「心音くんもありがとう。素晴らしい弁護だったよ」

「べんご?」

「そう。手紙の指摘。やっぱり心音くんは弁護士に向いているね」

 

弁護士。前にも慶二に言われたことのあるものだった。以前も思ったことだが、その言葉に一切の嘘や世辞はないように心音には思えた。

しかし、迅はそれに不服であるようだ。

 

「俺の前でそんなこと言うんですか?」

「どうしてさ。いいじゃないか弁護士。素晴らしい職業だよ」

「警察としちゃあンなことないでしょう」

「あるよ。僕は友達に弁護士がいるんだ」

 

僅かに弾んだ慶二の声に、思わず問いかける。

 

「友達?」

「そう。とっても凄い弁護をする男がいてね、僕の友達なんだ。もしも心音くんが大きくなった時、弁護士になりたいと思っていたら紹介するよ」

 

そう語る慶二の表情はにこやかだ。そして何より、声が嬉しげに弾んでいる。それは、凄い弁護士ということより、その人物が慶二の友人であるという事実に喜んでいるように思えた。とっても仲良しなんだ、と心音はちょっとだけ笑みが浮かんだ。

そして、慶二がそうやって話をする人は、きっとすごい人なんだ、と心音は素直に思った。

 

「……弁護士、ちょっと興味ある、かも」

「本当かい? じゃあ遠くない内に会うかもね。成歩堂って言うんだけど」

「ナルホド……?」

「あはは! そうそう。ナルホドくん。君が大人になるころには、もっと素晴らしい弁護士になっているよ」

 

花が周囲に咲いていくように、慶二は嬉しげに話す。その姿を見ている迅は眉をひそめて、唇まで突き出しそうな面持ちで口を噤んでいた。

慶二の喋る声に合わせ、周囲に花びらがヒラヒラと舞っているかのようで、心音はなんとなく浮かんだことを呟く。

 

「慶二さんのこと、助けられるような弁護士になりたい……」

 

なれるかどうかは分からないし、ポロリと口から出てきただけの言葉だった。けれど、心から零れた声だった。

それに、慶二の目が丸々と見開く。それからゆるりと、空に漂う雲のようにふわりと口元が緩く上がって、目を眇める。

そして、聞き取れないぐらい小さい声で囁いた。

 

「嬉しいことを言ってくれるね」

 

優しげな音色、マシュマロのように柔らかい口調。

そのどれもが穏やかなのに、その声はまるで極彩色の花々のようだった。部屋中がその花々に埋め尽くされて、床も壁も天井もを覆い隠す。人々の表面にも花が生え、手も足も、体も顔も全て覆い隠してしまう。

その中で、慶二の幸せそうに微笑む口元だけが見えていた。

 

「さて、迅くんに手紙の折り方をレクチャーしようか」

「はぁ……しかし、折り紙も達者なんですか」

「達者ってほどじゃないけど。ほら、僕手先が器用だから」

 

そう慶二が迅の方へ向き直り、迅の手紙を手に取って折り方を教え始める。

花が散る。いや、溶ける。何事も無かったかのように、白く漂白されて、透明に消えていく。

心音は呆然とその光景を見つめていた。

華美で鮮烈なそれが呆気なく溶ける様を、ただただ。

 

「よし、じゃあ苗木を植えに行こう」

 

心音の手元にはいつの間にか慶二と迅、二人分の折りたたまれた手紙があった。

そして慶二が苗木を持って部屋の扉の前にいる。迅が心音に手を伸ばしていた。

心音は、どこかぼんやりとしながらその手を掴む。

 

 

 

三人で宇宙センターの庭先に歩いてゆく。以前心音と慶二が見かけた前庭の椿が植えられていた場所に、三人はたどり着いた。

 

「ここなら椿を植えているから、新しいのを植えていいって許可もらったんだ」

 

そう言って、慶二は苗木を一番端のスペースに仮置きする。確かに、端に苗が植えられそうな小さめのスペースがあった。

 

「こんな小さな所で大丈夫なンですか?」

「うん。そこまで大きくならない品種らしいよ」

 

そう返しながら、慶二はコートに忍ばせていたらしい、小さいサイズのシャベルを取り出した。

慶二はコートが汚れるのを気にせず、花壇に座り込んで土を掘り始める。すぐに大きめの穴が作られ「これでくらいでいいかな」という言葉と共に慶二は腰を上げた。

 

「迅くんと心音くん、鉢を取って椿をここにいれてもらっていいかな」

 

声をかけられて、迅と心音が小さな鉢に植えられている椿に近づく。心音にとって苗木の椿もそこそこに大きく、どうやって植えればいいのかと首を傾げる。すると、迅から椿を上に引っ張ってくれと言われ、コクコクと頷いた。

 

「よし、引っ張っていいぞ」

「うんっ」

 

鉢を迅が支えて心音が椿を引っ張りあげる。力を加えるとじわじわと鉢から土が持ち上がり、そうして鉢の形をした土の塊が出てきた。

重いそれに心音がふらつくと、後ろから慶二に支えられる。フラフラとしながらも、慶二に促され、開いた穴へと椿を置いた。

シャベルを持った慶二が、苗木を置いた穴の隙間に土を入れてパシパシと軽く土を叩いて固める。

 

「いいんじゃないかな」

「立派に育ちそうだなァ」

「花、いつ咲くかなぁ」

「まだ若い木だから、花が咲くのは数年後かもね。それまで大事に育てようか」

 

見上げた先に、慶二と迅の笑みがあって、心音はなんだか胸が風船のように膨れるような、暖かくなるような心地になる。

心音が小さく笑うと、二人も笑みを深くした。

 

「にしても、スコップまで持ってきてたンですね。用意周到ですねェ」

「まぁね。これはシャベルだけど」

「何が違うんです?」

 

手にしたシャベル――スコップ――を胸元に持ってきた慶二はそれをじっと見つめた後に、ニヤリと笑って言った。

 

「本質を見なきゃ、迅くん」

「はぁ……」

 

眉を傾げた迅に、慶二は楽しそうに笑う。それから、あっ、と声を上げて頬をかいた。

 

「水あげないと。ジョウロってどこにあるのかな」

「それなら俺が持ってきますよ。二人はここで待っててください」

「気が利くね」

 

迅が小走りで宇宙センターの方へ去っていく。時折しかやってこない慶二より、よく施設を訪れる迅の方が備品には詳しいようだった。

迅の後ろ姿をしばらく眺め、建物の中に消えた後に慶二は心音の方を向いた。

 

「そうだ、さっきの話」

「さっき?」

「うん。弁護士になりたいって話してくれただろう?」

 

部屋でのことを思い出す。確かに心音は弁護士になりたいと言った。慶二を助けられるような。そうして花が咲いた。視界を埋める、極彩色の花。

慶二は微笑みながら言う。

 

「大切なお願いがあるんだ。さっき、僕を助けられるような弁護士になりたいって言ってくれた君だから、お願いしたい」

 

柔らかい口調だが、中身はなんだか真面目な話のようだった。心音はしっかりと耳を済ませて聞く。慶二は膝を着いて、心音を見つめながら続けた。

 

「もし、僕の大事な人が危ない目にあっていたら、助けてあげて欲しいんだ。僕も当然助けるけど、手が届かないこともあるかもしれないから」

 

ほんの僅かな、聞き漏らしてしまいそうな程の怯えが聞こえた。彼から聞いた事のない音色だった。

 

「僕はね、自分が死んでしまうことより、大事な人が居なくなってしまうことの方が怖いんだ」

 

優しい茶色の瞳に、真剣な表情の心音が映っている。心音は、大事な人について聞こうと思った。そうしないと、その人を助けられないから。

 

「慶二さんの大事な人って、誰?」

「実は沢山いるんだ。さっきのナルホドくんもそうだし、迅くんも。そしてもちろん心音くん、君もそうだ」

「私……?」

「そう、君は僕の大事な人」

 

心音は少し困ってしまった。大事な人が沢山いるのは良かったけれど、その内に自分も入っている。どうやって自分を助ければ良いのだろう。

そして同時に、大事なのだとこうもまっすぐ言われて、頬が熱くなる。心音は少し口元をまごつかせた。

そんな心音に慶二は微笑んで、それからもう一つ続けた。

 

「それから、僕の弟も」

 

兄弟がいたんだ。と心音は驚いた。なんとなく、慶二に兄弟はいないような気がしていたから。

 

「あの子も警察官なんだ。いつか会う機会があるかもしれないね。その時に紹介するよ」

「弟も警察の人?」

「そう。僕に似てるよ」

 

そう言われて、慶二に瓜二つの姿が思い浮かぶ。慶二のような人が二人もいたら、なんだか凄いことになりそう、と心音は思った。

そうして話していると、宇宙センターの出入口から緑色のジョウロを手にした迅が現れる。

 

「水も入れてきましたよ」

「ありがとう。じゃあ水をあげようか」

 

迅がジョウロを手にして椿に近寄る。腕を傾けると、雨のように水が降り注いで苗木と土を濡らしていく。

心音の身長よりも低い椿が、深緑色の葉をつけてその場に植えられた。隣にある大きな椿は、既に季節がすぎて花は落ちてしまっている。この苗木はどんな風に花が咲くんだろうと、心音は胸の奥がくすぐられたような感覚になった。

 

「楽しみ……」

「マメに水をあげなきゃな」

 

迅の言葉に、心音は顔を上げて頷く。

安堵を与える瞳が、優しい眼差しで心音を見つめていた。大きくなって花の咲いた椿を、迅さんと慶二さん、そしてお母さんと一緒に見たいな。そう心音は夢想した。

 

「元気に育つといいね」

 

慶二がそう声を出す。白い花がパッと浮かんだ。

 

 

 

あれから、慶二と会う機会はなかった。けれど、迅伝いで心音の元にはいくつも手紙が届けられた。

小さなメモに大きい文字で、時折小さい文字でメッセージが綴られている。

内容は些細なもので、夜空の星が綺麗だったよとか、迅くんが悪い人を有罪にしました。立派だったよ、とか。悪い人を捕まえて褒められました、仕事のやりがいがあるね。とか、そういうものだった。けれど、遠くにいる慶二のしている事や考えていることが分かって、心音はその手紙がとても好きだった。迅も慶二に言われた通り、時折手紙を書いてくれる。難しい漢字が使われていたりして大変だったが、調べながら迅が伝えたいことを理解していく工程も、心音は好きだった。

そして、心音にとって思わぬ手紙もやってきた。

 

「『心音へ』……お母さんの字だ」

 

そう、手紙には時折、心音の母、真理からのものもあった。迅が言うには慶二が真理へ手紙の交換を勧めたらしい。

心音と真理は、慶二ほど会わないわけではない。けれど、顔を合わせる時は心音が付けているヘッドホン――真理が作成した、心音の特性を和らげる機械だ――を修理や調整、改修する時が多かった。

だから、手紙に書かれているような「体調はどう?」「迅に遊んでもらっていると聞いたわ。楽しそうで良かった」「仕事が忙しくて、あまり構ってあげられなくてごめんね」と言った、温度のある言葉が、とても、とても新鮮だった。

向かい合って話す時はあんなに緊張して、距離があるような気がするのに、手紙だとこんなにも近くて、優しい。

 

「お星様の箱に入れなきゃ……」

 

心音はもらった手紙を、大事に大事に保管している。

ずっとポケットに入れていたが、ポケットから溢れでたのを見かねたかぐやから、何かのお菓子を入れていた箱をもらったので、その中に仕舞っている。母から貰った手紙は、折り紙の本を見て、更に特製の箱を作ってその中にいれていた。

 

綺麗な箱は、それだけで光を放っているようで、心音は辛いことがある度に、その箱を見ている。そして彼らからの手紙を読む。そうすると、いつでもどこでも、暖かいベッドの中にいるような気分になるからだ。

慶二や迅と植えた椿にも、毎日水を上げていた。花は喋らないけれど、水と日差しを浴びて毎日ちょっとずつ変化している。それがもどかしくて、同時にとても嬉しかった。

 

「慶二さんにお礼言わなきゃ……」

 

迅にはもう、出会った時にお礼を言った。手紙にも書いて送った。迅は顔を逸らしながら「気にしなくていい」とちょっとモゴモゴしながら口にしていた。

慶二への手紙にもお礼の言葉を書いた。慶二からの返事には「どういたしまして」という言葉と、笑顔の絵が描かれていた。絵が上手だな、と思ったから、それも慶二に伝えたかった。

 

時間はどんどんと過ぎていった。慶二は本当に忙しいらしく、心音の前にはなかなか姿を表さなかった。さっきまでいた、という話や、特徴的な黒コートが消えていく姿を見たりはするものの、本当に幽霊のように消えてしまう。

 

だから、その日――有人宇宙船が大河原宇宙センターから発射される日、慶二がいると知って心音は飛び上がるほど喜んだ。

手紙をやりとりしていたから、寂しさはなかった。けれど、直接話をして、お礼を言って、あの声を聞きたいと思った。

 

だから、心音は慶二を探しに行った。

探しに行って、そうして、見つけて――。

 

 

 

「心音ッ!!」

 

土の匂いのする場所だった。

劈くような大声に、深く沈んでいた意識が無理やり引っ張りあげられる。

心音は、小さく小さく、体を縮めて、石のように丸まっていた。

大きな手が心音を揺さぶる。心音は、ようやく目を開いた。目の前には、茶色のごわごわとしたものがあった。小さな蟻が歩いている。

 

「心音! 大丈夫か……!」

 

痛々しいほど必死に叫ぶ声は、迅のものだった。声が震えて、湿っていた。

心音は迅に無理やり起き上がらせられた。ぼやける視界が迅を映す。

 

「心音……!」

 

彼は、目を真っ赤にさせて、頬を濡らしていた。涙が顔を伝っていく。

迅は心音の手を掴んだ。強く握られて、氷のように固まっていた心音の手が、迅の熱い手によって開かれる。手は土で汚れていた。迅は確かめるように、何度も手のひらを摩る。そうして震えながらも大きな息を着くと、心音の顔を触って「大丈夫か? 痛いところは無いか?」と涙ながらに言った。

心音が機械のように何も言わず、小さく頷くと、迅は強く心音を抱きしめた。身体が寒さに耐えるように、小刻みに震えていた。

 

「よかった……! 心音まで、失う、かと……」

 

細い声は悲痛に濡れて、薄暗い視界の中で、濁流に流されるような心地になる。

ヘッドホンが消え、外気に触れた耳から、むき出しの感情が頭を巡った。

ただそれに流される。助けを呼ぶ力さえもなく、そこに至る考えもない。

心音と迅は、土の上にいた。花壇の縁にいた。少しだけ大きくなった椿が、青々と育っていた。

花はついていない。

 

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