夕神side
夕神迅は初めの方、番慶二という刑事が気に食わなかった。
最初からという訳では無い。初めの時は、寧ろ伝説的な刑事と共に仕事が出来ると聞いて、浮き足立たないようにしていたほどだった。
「夕神検事、彼が番慶二だ。これから、君の担当刑事になる」
そう、上司の御剣検事に伝えられ、夕神は背を正した。御剣検事に紹介された男は、上司の隣におり、穏やかな面持ちで夕神を見ていた。
茶色髪を簡単に整えて、前髪の半分を後ろに流している。整った顔立ちは若々しく、夕神と同い年ぐらいにも見える。しかし、彼の年季の入った黒のトレンチコートや、この場において全く緊張していない振る舞いが、そうではないと理解させる。
紹介された番慶二は目を細めて言う。
「初めまして。番慶二だ。気軽に慶二さんって呼んでね。ほら、番刑事だとフルネームと同じになっちゃうだろう?」
「は、はい! 分かりました」
「あはは。礼儀正しいね。さすが、御剣くんが期待しているだけある」
「き、恐縮です」
「慶二さん、新人を揶揄うのはやめてください」
「ごめんごめん。初々しくてね」
朗らかに微笑む慶二に、固かった空気が一気に柔らかくなった。
夕神は戸惑いながらも、これも慶二の気遣いかと思う。彼は迅にそう思わせるほどの経歴を持ち主であった。
慶二の経歴は、迅にも資料が送られている。中学卒業までは日本にいたが、その後海外に留学。留学先で飛び級をして、十六歳にして大学入学。その後二年で大学を卒業。日本に帰国後、警察を志し、警察官に採用され、数年後には刑事になった。
その後も数々の事件を解決、また事件を未然に防ぎ、何度も表彰をされている。現在の年齢は三十歳。階級は警部で、本来ならばもっと昇進しているべきだが、現場仕事をしたいと拒否している。
そんな武勇伝に事欠かない人物だった。
夕神は数年前に検事となった、所謂新人だ。若くして検事になったので、年齢は周囲よりかなり下だ。現在二十一歳である。
少し前に、彼が夕神の担当刑事になると知らされた。検事になる前から慶二のことを知っていた夕神は、最初同姓同名の他人かと思った。だが、書類が届き本人だと知り、そうして今日、御剣検事の執務室にて紹介を受けている。
まるで現実味がない。しかし、上司がこうして目の前で紹介しているのだから、現実のことだった。
「夕神検事。君は特殊な事件の調査に当たっている。そうだな」
「はい。所謂――『亡霊』に関する事件に関わらせていただいています」
御剣検事からの静止がないのを確認し、慶二の前でその名を出す。慶二は一つ瞬きをすると「聞いたことがないね」と口にした。
それはそうだ。これは警察局と検事局、その極々一部しか知らない事柄なのだ。
夕神はその優秀さから、亡霊と呼ばれる国際スパイに関わる事案の人員に抜擢された。しかし、表向きはただの検事だ。一般的な裁判の検事も行いながら、亡霊に関する調査を行なっている。つまり、亡霊に関する事案は機密事項とされていた。
初耳らしい慶二に、夕神が説明を行う。
「亡霊とは、国際的スパイにつけられたコードネームです。具体的な事件内容は言えませんが、国内外における、さまざまなテロ行為・工作行為にて指名手配をされている人物です」
「なるほど。僕が君につけられた理由はこれか」
「正解に近いですが違います。慶二さんには、彼の表向きの仕事に関して、担当刑事として動いてほしいのです」
「ふむ……」
夕神と御剣検事に説明された慶二が顎をさする。確かに、亡霊の話を聞いた後なら、そちらに関する協力を要請されていると思うだろう。
だが、実際は異なる。それは夕神も承知していた。事情を知らないのは慶二だけだった。
夕神個人としては、亡霊に関する捜査に彼も参加してもらうべきでは、と思っていたが。
「僕も案件を幾つか抱えているから、正直ちょっと安心したよ」
「そのようですね。私としては参加して欲しかったのですが……」
「まぁ、上の判断だろう? 仕方がないさ」
慶二は少し眉を下げつつも、笑って御剣検事にそう告げる。彼の能力を考えれば、他の案件で手一杯というのは納得であった。亡霊の件は片手間に出来るものではない。だからこその上の判断だったのかもしれない。
「けど、そうするとなぜ僕が担当刑事になっのかな」
「彼の担当している亡霊の件もありますし、口が固く、同時に優秀な者がいいだろうと」
「おや、それは光栄だね」
ニコリと笑った慶二は、夕神に向き直る。茶色の目で真っ直ぐに見つめられ、夕神は少し背を正した。
「さっきも言ったとおり、僕も抱えている案件で忙しい。けれど、君がしっかり職務に当たれるように尽力させてもらうよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。何かあれば、俺も手伝わせてください」
「それは心強いね」
慶二がそう言って柔和に笑みを浮かべる。
しかしそれが世辞と愛想笑いだったと分かるのは、一ヶ月ほどあとの事だった。
番慶二は、風のような男だった。
御剣検事に紹介され、別れたあと、必要な連絡手段の交換をし、情報共有も程々に別れた。その後、夕神は亡霊の調査を行いつつも、通常の検事業務も行っていた。当然担当刑事は慶二であったが――姿が見えない。
いや、居るには居るのだが、話しかけようと思えば視界から消え、電話で連絡すれば一分かそこらで通話を切られる。
職務怠慢か、と思われる態度であったが、信じられないことに仕事は完璧だった。夕神の手元には裁判前、余裕を持って必要以上の証拠品が渡される。慶二に確認したかった事柄は彼の部下が把握しており、夕神に伝えられる。電話では一分以内にほぼ全ての話の内容がまとめられ、伝達される。
完璧だった。完璧すぎるほどに。
夕神は、慶二以外にも以前に担当刑事がいた。だからこそ、その違いがあまりにも響いた。以前の刑事は際立って優秀という訳ではなかったが、夕神の指示を聞き、その通りに動き、証拠品に対する調査や説明をしっかりと行っていた。
だが、慶二はそれを全て先回りして、全て完璧に用意している。
まるで「君はこれが欲しいんだろう?」「これも用意しておいたよ」「この事が知りたかったんだろう?」と言われているかのようだ。
気が回る、といえばそうかもしれないが、あまりにも機械的すぎる。
(俺と話すことはないってことか……?)
そんな中――夕神の頭に「キた」ことがあった。
裁判中、弁護士側に追い詰められることがあった。あとから考えれば、夕神の考えが足りず、要らぬ隙に作って攻撃されてしまっていた。夕神の額に汗が滲んだ時、資料の隙間から何かビビットな色が見えたのだ。普段は見ないその色に、ついそれを手に取ればピンク色の付箋がひとつ。
『犯人が落としていった証拠品はしっかり見たかな? 書類に書いてあることが全てだが、よく見た方がいい。慶二より』
そう書かれていた。突然の置き手紙に、夕神が顔を顰めつつ書かれた通りに証拠品と資料を見た時、その場の解決策が夕神の頭に閃いた。
そして法廷は検事側の主張通り――つまり有罪となった訳だが、夕神は意味がわからなかった。
慶二はいつもと同じように、法廷にはいなかった。彼が法廷にやってきたことは一度もない。本来ならば担当刑事が行う証言も、彼の部下の一人が行っている。
だというのに、裁判が開始される前に用意された書類の中の付箋に、どうして夕神を助けるこれ以上ない的確な一手が書かれている!?
夕神は資料をよく確認した。これまでの裁判で使用された資料もだ。しかし、付箋が付いていたのはこれだけだった。
どういうことだ、番慶二は夕神が追い詰められることを予想して付箋を付けたのか?
完璧という言葉を通り越し始めた慶二の行動に、夕神は苛立ちを感じ始めた。いや、もっと前から感じていたかもしれない。それを、尊敬などの感情が覆い隠していただけで。
(直接話をしねェと、気がすまねェ……!)
その日、夕神は慶二が検事局へやってきていると情報を掴んでいた。御剣検事に会いに来ているという。慶二の部下からほぼ無理やり聞き出した内容であったが、その時の夕神にとっては些細なことであった。
御剣検事がいる検事室まで足音を響かせてやってきて、辛うじてノックだけをして返事を聞かず中へと入る。
「番慶二警部はいらっしゃいますか?」
開口一番そう口にする。だがその言葉は目の前の光景で回答が得られた。室内で、御剣検事と慶二が何やら話をしている最中だったからだ。当然、突然開けられた扉に、二人とも夕神の方を見ていた。
「夕神検事? いきなりどうした」
執務机に座り、資料を広げていた御剣検事が訝しげに尋ねる。アポイントも取っていないのだ。当然だった。
そして、執務机の前に立っていた慶二は夕神の方をいつもの表情――と言っても夕神が知っているのは初対面時の顔しかない――で見つめている。
「慶二警部にお話があって参りました」
明らかに硬い夕神の声に、御剣検事の眉間にシワが寄る。
「何かあったのか?」
「いえ。ただ、ゆっくり話をする機会を頂きたいと思いまして」
理由を言わない夕神に、御剣検事の視線が慶二へと向く。慶二は顎をさすってから「じゃあ休憩所にでも行こうか」と呑気に口にした。
休憩所――と言っても、自販機や長椅子などが置いてあるだけの小さなスペースである。そこへ、慶二と夕神の二人だけがいた。
丁度誰も休憩を取っていなかったらしい。慶二が「ちょっと待ってね」と言うと自販機で飲み物を買い始めた。
ガコン、と二度音がなり、慶二の手に二本の飲み物が収まる。コーヒーとお茶だった。
「はい、お茶でいいよね」
「……喉はかわいていないので」
「そうか、欲しくなったら言ってね」
断られた慶二は答えを知っていたかのように、そう言ってコートのポケットにお茶を入れた。
手にしたコーヒーを開けて、ひとくち飲む。
「それで、話って何かな?」
夕神の額にピキリと血管が浮く。
その、何もかもを理解しているという顔が気に食わなかった。先程も、夕神の好みを把握して当然のようにお茶を差し出してきた。
夕神は拳を握りしめながら、慶二を睨みつける。
「俺はそんなに使えませんか」
「……使えない?」
「そうです。姿も見せず、証拠品も部下に頼み、電話も直ぐに切って、挙句の果てには証拠品にヒントですか! どこまで俺のことをコケにするんです! なら正面切って言われた方がマシです!」
勢いに片足が出る。それに、目を丸くした慶二が驚いたように後ろに足を引いた。そのわざとらしさも頭にくる。
「俺に使う時間さえ勿体ないならそう言ったらどうなんです!」
掴みかかる勢いでそう叫べば、慶二は慌てたように手を振った。
「ま、待ってよ。え、まってまって」
「ここまで待ちましたよ!」
「いや、え~……なにか重大な勘違いが……」
「何が勘違いだっていうんです!」
額に人差し指を当てて何やら考え始めた慶二に、夕神がそう叫ぶ。
慶二はそれを無視して、夕神の姿を視界から排除するように黙って目をつぶった。そして数秒後、パッと目を開いて、「なるほど……」と重々しく呟いた。
「うーん……僕が悪いね」
そう言って、気まずそうに頭を搔く。
あまりに呆気なく非を認められ、勢いが削がれた。
「な、ンですかそりゃ……」
「いや、つまり……僕が君に甘え過ぎてたってこと」
「甘え……?」
「そう」
頷いた慶二は、首を傾げて、うーん、と唸った。それから「どこから説明すべきかなぁ」とぼやく。
一体何がどうなったら、慶二が夕神に甘えていたことになるのか。夕神は眉を傾げながら、しかし削がれた勢いは戻らずに悩む慶二を見つめていた。
そうして少しすると、慶二がふと口を開いた。
「こんなこと自分で言うのもなんなんだけどね」
「はい……」
「僕、仕事ができるだろう?」
「……それは、そうですね」
「それもかなり仕事ができる。早いとも言う」
慶二が少し困った顔でそう言うので、夕神は焦ったくなり「慶二さんがとても優秀な刑事だと言うことはわかっています」と返した。
照れているのか気まずいのか、頭の後ろを掻いて「そっか」と相槌を打った慶二が続ける。
「だから、捌ける仕事の量も多くてね。上も僕を買ってくれているから、どんどん仕事を持ってきてしまって、できるから全部抱え込んじゃって。あ、別に嫌ってわけじゃなくて、自分でやりたくてやってるから苦でもなんでもないんだけど。けどね、刑事の仕事ってほら、他人と協力しないといけないことって多いだろう? 国の組織だし大勢の人がいるわけだから、当然なんだけど。そうなるとね、ちょっと焦ったくなるんだよね」
「焦ったい?」
らしくもなく――仕事の電話ではナイフで切るように簡潔だった――慶二が長々とまどろっこしく説明している。それに強い違和感を覚えながら、夕神は目を細めた。
夕神が繰り返した「焦ったい」という言葉に、慶二は「そう」と口にして、手に持っていたコーヒーの缶を意味もなく軽く揺らした。
「みんなね、頑張ってるのは分かるし、それが最高速度で、持てる限りの技術や能力で行なっているのは理解している。けれどね、ちょっと時間を持て余す時があってね」
「……つまり、のろいってことですか?」
「そんなふうには言ってないよ」
慶二がすぐにそう否定してくる。だが、そう告げているのと同義だろう。慶二は怒っているような、気まずそうな表情で夕神を見ていた。
つまり、慶二が一瞬でわかることが周囲は一分かかり、慶二が一時間で解決できることが周囲は一日かかる。そういった技術と能力の差が、歯痒いと彼は言っている。随分と気まずそうに。
その言葉は自信過剰に見えて、しかし真実なのだろう。彼の功績を見ればそれは全てわかることだ。そして、この一ヶ月間の彼の働きぶりを見ても、嫌と言うほど夕神は思い知らされている。常人が追いつけない速度で、彼はものを考えて行動していた。
だが、それのどこが「甘え」に繋がるのか。
「御剣検事から、君はとても優秀だと聞いていたんだ。そして僕の仕事は、君の担当刑事だが、君の教育を請け負っているわけじゃなかった」
慶二がコーヒー缶を傾けないようにしつつ、腕を組む。眉が下がっていた。
慶二が口にしたことは夕神も承知の上だ。担当刑事と検事として、対等な立場での相手だった。
「だから、僕の調子で仕事をしてもいいかと思ったんだ。君なら着いてこれると思ったし、少し心配な場所は書き込みを残せば気づいてくれるだろうって」
慶二の茶色の瞳が夕神を見る。そこに映った黒髪の男――夕神は、口を薄く開けて呆けた顔をしていた。
「もちろん、共に行動することや会話が大事なのは当然だけど、僕は御剣検事から紹介された時点で君のことはとても信頼していたし、君も僕を買ってくれていると伝わってきたから……」
共に行動することや会話をスキップした。元から信頼していたし、信頼されていると思っていたから。
途中で口を閉ざした慶二が、夕神に一歩近づいた。夕神は、無意識に腰がひいていた。
「僕は君を検事として評価している、君も僕を刑事として評価してくれている。それを疑う気持ちは今もないよ。そして僕たちは、しっかりと仕事をこなしていたね。こんなに心地よく仕事ができる検事はこれまでいなかった。けど、君は不満を感じている」
そうだ。夕神は不満を感じている。この優秀で完璧な刑事と仕事していて、これ以上ないほどに円滑に仕事が回っている状況下で、どうしようもなく不満を募らせ、そうして上司の部屋にアポイントもなしに突撃した。目の前の刑事は、柔和な瞳をしている。ただ事実を並べて、確認を取っている。
だと言うのに、夕神は取調室で詰められているような心地になっていた。冷や汗が背中を流れる。
自分の大きなミスを、自分では理解していないのに、相手に見破られているような、心地の悪さ。
「夕神くん、君は――」
刑事が口を開く。取り調べには似つかわしくない、気まずそうな顔で。
「僕に、認められたかったのかな」
ガッ――と、脳天を鈍器で殴られたかのような衝撃が体に響く。夕神はよろけ、どうにか足を一歩後ろにひいて体を支えた。
慶二の「大丈夫かい」という気遣いの声が、耳が膜に覆われたように聞こえ辛い。
信じられなかった――慶二に気まずそうに指摘されるまで、自分の感情に気づかなかったことが。
夕神は舞い上がっていた。伝説の刑事と噂される、優秀で、多くの刑事の目標とされる人物と共に仕事ができることに。
そうして馬鹿馬鹿しくも、自分は彼と仕事をするだけではなく『助け合える』と思っていたのだ。普通の同僚のように、もしくは上司と部下のように、信頼の上に、力を合わせてより良い仕事ができると思っていた。
だが、夕神は助けられているだけで、慶二の力になっていると思えなかった。支えられるだけ支えられ、手を貸してもらうだけ貸してもらい、挙げ句の果ての付箋でヒントを授けられ。ただの教育者と生徒のような関係だと思い、業を煮やした。
だがその感情は、本来夕神が覚えるべきものではない。スムーズに仕事ができている状況に、どうして不満を覚えるのか。
夕神は自覚した。子供だった。あまりにも幼い、ガキっぽい。ただ、憧れの人に認めてもらいたい、支えあっていると感じたい、そんな不満を夕神は相手にぶつけたのだ。相手はただ、夕神の力を信頼し迅速な仕事をしていただけなのに。
いつの間にか顔を覆っていた片手を下げ、拳を握った。どうにか口を開く。
「……腹を切りてェ気分です」
「それは……困るね」
そう語る慶二は、本当に困った顔をしているのだろう。思えば、この話が始まってから、慶二はずっと困惑していた。
しかし、今はその面持ちを夕神は見れなかった。
下がった夕神の視線に、慶二のコーヒー缶を持つ手が映る。組まれていた腕はすでに解かれていた。
「夕神くんが反省することじゃないよ。さっきも言ったけど、僕が君に甘え過ぎてた」
夕神はどうにか視線を上げる。その先で、慶二が眉を下げていた。その顔を見て、さらに惨めな気持ちになりそうになるのをグッと抑え、夕神は尋ねる。
「甘えってのはなんですか?」
「説明は必要ないと勝手に判断して、君との時間を全く取ろうとしなかった。夕神くんのことを分かっていなくて、要らぬ心配をさせてしまって、申し訳ないよ」
「……いえ」
これまでの会話で分かっていた。慶二は夕神を信頼して、話をしなくても分かるだろうと思ってくれていたのだ。しかし、実際はそうではなかった。それを配慮不足だったと謝られている。
「これからはきちんと説明するよ。もちろん、君は優秀だから、無駄なことは話さないけど。実は、夕神くんと色々話してみたいと思っていたんだ。つまり、君もそう思ってくれてたってことだろう?」
慶二は嬉しそうに目を細めてニコニコとしている。先程までの気まずさを感じさせない、涼し気な彼らしい表情だった。
頷くしか選択肢はない。そう、夕神は理解している。頷こうとも思った。謝罪をして、感謝の念を告げる。そうすれば、彼は夕神の望むように振舞ってくれるだろう。
そう分かっているのに、夕神の首は俯いたまま動かなかった。
「……夕神くん?」
不思議そうに尋ねる慶二を、目だけを動かして盗み見る。自分の幼稚さを夕神は理解した。だが、それを『無かったことに』するのは、何故か、出来なかった。
腑に落ちない。ただの勝手なプライドが、頷くのを拒否しているのかもしれない。だが、自身の支え合いたいという考えは、本当に間違っているのか。
夕神は視線を横にそらして、そうして上げた。
「……貴方にとって、信頼というのは、互いに干渉せず最大限の力を振るうことなんでしょうか」
夕神が引っかかっていたのはそこだった。
夕神は慶二から信頼されている。だからこそ少ない接触で互いに最大限の力を発揮しよう、というのが慶二の考えだ。夕神はその考えを理解できず、彼が子供の遊び相手に付き合っていると勘違いをして憤慨していた。
だが、そうでないとして、彼は――一切の他人の助けを必要としないのだろうか。
それは……夕神の仕事の考えとは合わない。
「確かに、あなたは刑事として天賦の才を持っていると思います。ですが、専門分野をそれぞれが行うだけではなく、互いの力を合わせることで、よりよい仕事ができると考えたことはありませんか」
夕神は、国際スパイである亡霊を追うという特殊任務のため、大河原宇宙センターに務めている希月真理という女性教授に協力を求めている。人と関わるロボット人格のプログラムを作成しており、心理学に精通している。協力を求めているのは、亡霊が残した唯一の証拠――音声データを心理学的側面から解析してもらう為だ。
宇宙センターに足を運び、希月教授と話し合いをしながら進めている。希月教授は聡明で頼りになる女性で、尊敬している。だが、夕神には彼女に全てを託し、結果を待つという選択肢はなかった。彼女の技術は検事としても役に立つものばかりで、夕神は彼女と関わる中で心理学のなんたるかを学ばせて貰っているし、検事という立場から亡霊についての意見を出している。
自身の専門でない分野を、専門の人物に託すことは間違いではないだろう。だが、己の持たない分野を、人の手を借りて知る。得た知恵と自身の持つ知識を使い、専門の人物と協力して考える。それは、無駄なことではないはずだ。
慶二にとって、全てを不要と切り捨てて、知る必要は無いとされるのが、夕神の立場なのか。
慶二は顎を軽く摩る。目が少し遠くを見ていた。
「以前に君のいうやり方で何人かの人と仕事をして、うまくいかなくてね……。今のやり方が一番上手くいったから、僕はこれが信頼だと考えているけれど。人によるとは思うよ」
角の立たない答えだ。そして同時に、何人もの人間が彼に追いつけなかったのだと理解できる。何度も試してみてたどり着いた答えなのだろう。
感情が湧き上がる。今度こそ何かは夕神にも分かっていた。胸がチリチリと火花が散るような、眉を顰めたくなるような、歯噛みをしたくなるような、そんな感情だ。
「俺も、そんな人間のひとりなんですか」
慶二が目を丸くする。
えーっと、と言って彼は首を後ろに手を回した。
そう、これは
「悔しいです。俺は、貴方に信頼されるだけじゃなく、頼りにしてもらいたいんです。それが、俺にとっての信頼だからです」
ガキっぽくて幼稚でも、それが夕神の心だった。それを大人のフリをして、見て見ぬふりはできなかった。尊敬していた。そして、相手からも信頼されていると分かった。だからこそ、目を逸らせない。
真っ直ぐに見つめる夕神に、慶二は眉を寄せて、それから一つ小さく息をついた。ため息というほどでもない。しかし、何かしらの感情を吐き出す息だった。
「昔は……一緒に行動する上司や部下がいたよ。けど、いつの間にかいなくなってしまった」
慶二はさらに眉を寄せた。手に持ったコーヒーをぐいっと一気に飲む。それから、夕神を見た。雨に濡れたような表情だった。
「はっきり言うよ。誰もついて来れなかった。夕神くんのいうとおり、僕は周囲の人より刑事としての才能があったし、それ以外の能力も高かった。僕の隣にいると、相手は僕のことを理想の刑事として見て思考が停止するか、自分には才能がないと思って自信を喪失していった。どっちもそんなわけが無いのにね」
茶色の瞳が、過去を見るように眇められる。
「そういうのが続いて、僕は人と一緒に仕事をするのが向いてないんだって分かった。少なくとも、同じ能力を求めちゃいけない。求められていると相手に思わせるのもダメ。だから、僕は忠実な部下として上司から黙って指示を受けるし、部下には上司としてはっきりラインを定めてる」
彼の瞳が夕神をチラリと見た。
「だから言っただろう? 甘えていたって」
慶二は夕神へ、ラインを引き違えた。それを彼は甘えと言っている。そして夕神は、彼が引き違えたラインに、以前の彼の隣にいた者たちと同じように、彼に頼って欲しいと思った。
「ダメなんですか、それじゃあ」
助け合えばいい。後は、夕神が押しつぶされなければいいだけだ。
慶二がはた、と動きを止めた。固まった相手に、随分感情豊かな人だなと夕神は今更に思った。柔らかな外皮に惑わされ気づけなかった。
「……ダメ、ではないけど」
慶二がまた視線だけで夕神を見る。不思議なことに、それまで彼がずっと持っていた、柔和さとか頼もしさは感じられなかった。
慶二はポリポリと頬をかいて、それから口を開く。
「まず、君は亡霊の捜査で忙しいし、僕も自身の担当している捜査で忙しい。君が受け持っている通常の検事業務は、そこまで君の手を煩わせるものじゃないし、君の亡霊調査は僕は手伝えないんだから、そもそも無理じゃないかな」
「……ぐ」
思わず声が漏れ出る。それはその通りだった。夕神は亡霊調査に慶二も参加して欲しいと思っていたが、それは夕神が思っているだけであるし、捜査の内容を漏らすことは事件の性質上、固く禁じられている。
なら、と夕神は視線を上げる。
「俺が貴方の捜査を手伝います」
そう口にすると、慶二は数秒思案した。コーヒー缶を左右に揺らし、そうして止める。
「君が担当検事として扱う事件については部下に指示を出してやらせていて、僕がやってるのは確認程度。わざわざ君に手伝ってもらうところは特にないし、僕が独自に担当している事件は検事の君には何も関係ないからなぁ」
そもそも慶二を手助けできる場所などないという訳だ。ただの事実に、夕神も納得せざるを得なかった。亡霊の調査を手伝わせる訳には行かないように、慶二の仕事を検事である夕神が勝手に手伝うことなどできないのは自明だ。
肩を落とす夕神に、慶二が遠くを眺めながら言う。
「僕が自分で勝手に調べてることもあるけど……」
ぼんやりと呟かれたそれに、思わず食いつく。
「なんですかそれ」
「え? いや、仕事とは直接関係ないことだよ」
「仕事と関係ないことを自分で調べてるんですか?」
「あー……」
口ごもる慶二に、何かあると察する。おそらく、彼が一人で抱えている何かがあるのだ。
残り少なくなったコーヒー缶を、慶二がゆらゆらと揺らし始める。
「刑事としての仕事ですか?」
「いや……そういうわけじゃないけど」
「直接関係ないと言いましたね。なら間接的には関係があるんですか」
「あるといえば、あるけど」
「なら――部下や上司が関わっていない、一人でやっていることなんですね」
コーヒー缶が大きく揺れて、そしてピタリと止まった。
慶二は夕神から目を背けて、コーヒー缶をあおる。だが、量が少なかったのか、喉を動かした後に少し顔を顰めてコーヒー缶を振った。液体の音はしない。
慶二が夕神に視線を戻して、
「夕神くんは優秀だね」
と呆れたように口にした。
思わず口角が上がる。
「仕事外ってことは、一人で探偵みたいなことを?」
「まぁ……。そんな感じかな。気になることがあってね」
「なら、刑事と検事という間柄も関係ありませんね」
笑みを浮かべる夕神に、慶二が顎に手を当てて無言になる。しかし黙っていたのも数秒だった。
「ごく個人的なことだ。忙しい君を巻き込めない」
その言葉に夕神が反論しようと口を開きかけた時、慶二がコートのポケットに手を入れるのが見えた。
自販機で買い、そしてそのままポケットに入っていったお茶の缶が現れる。缶を手にしたまま「けど」と慶二が言った。
「君に着いて来てもらっていいかもと思えた時には、声をかけようかな」
口角の片方だけを上げるような、彼に似合わぬ悪戯小僧のような笑み。思わず見入ったその先で、目の前にお茶を差し出される。
「なれるかどうか試してみるかい? 僕の相棒に」
差し出されたお茶の缶が、彼からの挑戦状に化けた。
相棒――彼は、自分の隣に立つ相手をそう呼んでいたのだろうか。
慶二は夕神を優秀だと評価し、信頼しているが、隣に立つ相手として認めているわけではない。
幾多の人々が敗れた慶二の隣の席。そこに座る権利があるかを試そうとしている。慶二の隣という立場に折れず、屈服せずにいられる相手かどうか。
夕神は見入っていた意識を一気に戻し、缶に飛びつくように掴みかかった。缶と一緒に慶二の指を掴む。
「勿論です」
「……頼もしいね」
慶二の悪戯な面持ちが、眉が片方傾げて、呆れたような困ったような笑みになる。
掴んだ缶の隙間から慶二の指が抜けて、缶だけが手の中に残る。
慶二は空になったコーヒー缶を、夕神の手に近づけた。夕神が首を傾げると、彼はいつもの柔和さとは別の、解けるような笑みを浮かべて言う。
「相棒候補の迅くんに乾杯」
え、と思う。これまで、夕神はずっと「夕神くん」と呼ばれていた。下の名前で彼から呼ばれたことはなかった。
不思議だった。数十分前までははるか遠くにいると思っていた慶二が、今、本当の意味で目の前にいる。
「はい、慶二さん」
缶同士が当たる高い音が鳴る。夕神の胸は満たされていた。
それから、慶二は時折夕神の前に姿を現すようになった。
それは検事局だったり、法廷であったり、夕神が亡霊の件でよく足を運ぶ大河原宇宙センターであった。
慶二が口にしていた「忙しい」というのは言葉通りで、夕神と話す時間は短い。その最中も、彼へ電話がかかってきて中断されたり、他の刑事が緊急の用事で話しかけたりしてきて途切れることもある。しかし慶二は時間をとって夕神の元へ訪れて、ときたま夕神の観察眼や知識を試すようなことを言う。抜き打ちでテストをしているかのように。そしてその時、慶二の目はキラリと悪戯っぽく光る。
それが緊張と共に刺激になっていると知ったら、慶二は呆れるだろうかと夕神は思う。
しかし、気に入らないことも一つ。本当にただの我儘だと自身でも分かっていたが――なぜか、夕神の姉と慶二が親しげに話していることがあるのだ。
夕神の姉――夕神かぐやは大河原宇宙センターで研究員をしている。ロボット開発を主に請け負っていて、宇宙センターではかぐやの作成したロボットが動き回り、スタッフの手助けをしていた。身内の贔屓目なしに、ロボット分野で日本随一の技術を持つ研究者である。
ある日、大河原宇宙センターにやってきた慶二が「あ、ごめん。ちょっと用事があって」と言って夕神の傍から離れた。気になり追いかけた先、その行き先が姉がいる研究室だと分かり、夕神は思わず声を上げるほどに驚いた。
その声に二人が振り向いて、慶二は「さっきぶりだね」と涼しい顔をして、姉は「うるさいわね。邪魔しないでくれる?」と高圧的に言うのだから顔も引き攣る。
「な、何してるんです。こんなとこで」
「かぐや教授にロボット工学や機械工学を学んでるんだよ。最先端技術ばかりで、僕も知らないことばっかりだ」
「刑事なのに随分優秀な生徒よ。あたしの助手にしたいぐらいだわ」
「ッッ」
「照れるね。あ、見てよ迅くん。このロボット義足、人間が装着したら人の十倍の力を発揮するらしいよ」
「お遊びで作っただけよ。それに、これぐらいなら貴方だったらすぐ作れるようになる」
「~~ッッ!」
みぞおちをボコボコに殴られている気分である。
尊敬し、隣に並び立ちたいと思う刑事が実の姉に生徒扱いされ、しかも助手にしたいとまで言われている。かぐやにすぐ作れるようになる、と言われた慶二は「ほんとかい?」と喜しげに微笑んでいた。内蔵が潰れそうだ。
別に、慶二が仕事の空き時間に何をしていても、夕神は文句を言える立場ではない。ではないが……!
「何? 腐った卵食ったみたいな顔して」
「なンでもねェ……!」
「あはは、顔が青いね」
誰のせいだ! という言葉は喉の奥へ飲み込み、夕神は慶二の独自捜査に、同行をさせてもらえるように強く催促することを決めた。
その後、夕神は慶二がかぐやと別れたタイミングを偶然見つけ、性急にその行方を塞いだ。逃がしてしまうと次はいつになるか分からない。
「僕ってメタルスライムか何か?」
「メタ……なんですか?」
「なんでもないよ。それでどうかした?」
首を傾げる慶二に、夕神はずいと距離を詰めて言う。
「俺を捜査に同行させてください」
「なんだ。痺れを切らすのが早いな」
「ぼちぼち時間も経ったでしょう」
「それはそうだけど……あぁ、もしかしてかぐや教授のこと? あれはまた別なんだし、気にしなくていいのに」
真正面から図星につかれ、夕神は顎を引く。しかし、このテレパシーのような能力はもう承知済みである――ちなみに彼は勘だと主張している。
「貴方が追ってる案件がいつの間にか終わっていたら困るので」
「早々片付けられるものじゃないから大丈夫だとは思うけど……。うーん、悩むねぇ」
顎を撫でる姿に、誤魔化しているのか本音なのか判断がつかない。夕神は慶二の相棒候補にはなったものの、相棒になれるかどうかは分からない。己の仕事を全力で行っているが、それが慶二にとって同じ速度に見えるのか、それともナメクジ程度に見えるのかは分からなかった。
「役不足ならそう言ってください」
純粋な気持ちであった。慶二の隣に食らいつきたい、だからこそ、誤魔化されて機嫌を取られるのはごめんだった。足りないというのなら、その分さらに努力しなければならない。
真っ直ぐに見つめる夕神に、慶二がその目を見つめ返して、小さく笑った。
「なんですか」
「いや、僕はいい相棒を持ったなって」
「――は」
文脈に合わない――少なくとも夕神にとってはそうだった――セリフが慶二の口から零れ、夕神の動きは止まり、口はポッカリと間抜けに開いた。
その姿を見て、慶二がくしゃりと目元を細めた後、直ぐに大きな口を開けて「んはは!」と楽しくて仕方がないと言うような笑い声を上げた。
その姿を見ても、夕神は混乱して動けない。
「はは、あはは! そんな顔しなくたって!」
「で、でも……」
「でもも何もないでしょ。僕の相棒になるのは不満なのかな?」
「そっ、ンなわけねェじゃないですか!」
「んはは、ごっちゃ」
笑う慶二は、普段の柔和な顔でも、以前に見えたイタズラっぽい顔でもなかった。子供が嬉しいことがあった時に無邪気に笑うような、そんな透明な表情だった。
その顔に、慶二の言葉を額面通り受け取ってしまいたくなる。その気持ちを抑えつけ、夕神は口を開く。
「お、俺は何もしてません」
「いい事じゃないか。普段の君が僕の目にかなったってことなんだから」
すっぱりと返される言葉に、続く言葉を見失う。これまで、慶二との多くの差を見てきた。慶二の能力やスキルにかなうものが自分にあるとは全く思えなかった。
しかし、慶二は今の夕神を認めるという。自分の相棒に。
「いいんですか……俺で」
「君から言い出したことだよ。それに、君こそいいのかい?」
挑戦的に光る目に、夕神の答えはひとつしかない。それに気づいたらしい慶二が、拳を胸元に軽く突き出してくる。
「こういうの、なんていうんだっけ」
「フィスト・バンプ……日本だとグータッチ、ですね。そういうの好きなんですか」
「良くないかい? 相棒みたいで。ゲームとかドラマの見すぎかな?」
そうかもしれない。少なくとも、慶二がそういったことをするのは、なんとなくイメージとは違った。だが、そんな普段からはずれた姿が、夕神にとっては胸を弾ませた。
「いいじゃないですか。俺も好きですよ、そういうのは」
「よし」
突き出した手を、コツリと突き合わせる。指の骨の感覚が伝わって、その振動で体が震えるようだった。
「……そういえば、同行の方は?」
「悩むなぁ~」
「なンですかそれは!」
慶二は夕神を相棒と認めたあとも、変わらず刑事の仕事を慌ただしく行い、時折夕神の元へ訪れた。しかし慶二が追っている件についての同行は認められていない。慶二が言うには「危ないしなぁ」とのことだった。
危険がなんだと夕神は思うが、慶二がそういうのだから、やはりそれなりに危ないのだろう。夕神はぐっと我慢しながら、慶二から許可が出るのを待っていた。
そうしたある日、慶二が大河原宇宙センターにやってきて、裁判について二人で話し合っていた。慶二は簡潔に話を伝え、腕時計を見て「もう少し居られそうだ」と微笑んだ。それに夕神の頬も上がる。
「嬉しそうですね」
「まぁね。僕、結構ここ好きなんだよね」
「大河原宇宙センターがですか?」
「そう。かぐや教授から色々教えて貰ったりできるし」
「ロボット工学ですか。別に刑事の仕事には役に立たなそうですが」
「希月教授からもちょっとだけ、プログラム教えて貰ってるんだ」
「師匠からも? しかも、心理学じゃなくてプログラムの方ですか」
「何時どこでどんな知識が役に立つか分からないからね。知っておくことに越したことはないよ」
そう慶二は言うが、夕神はただ好奇心のためではないかと少し思っていた。何せ生徒をしている時の慶二はとても楽しそうだったので。
少し落ちた気分を紛らわすために、夕神はふと浮かんだ少女のことを口にした。
「そういえば、慶二さんは心音には会ったことがありますか?」
「ああ、心音くんか。あるよ、二回ほど。ちょっと困ってたみたいだったから手を貸したんだ」
「いつの間に……」
慶二はやってきたとしても直ぐに去ってしまったり、かぐやの元へいるので心音とは会っていないかと夕神は思っていた。
「可愛くて聡明な子だよね」
「そうですね……。何をしてあげたんですか?」
上機嫌に語る慶二に、首を傾げる。
可愛らしいのは疑いようもないことだが、次にくる言葉が聡明というのは意外だった。頭の良い子だが、やはりどうしても大人しさだったり引っ込み思案なところが頭に浮かぶ。
夕神は彼女の母――希月真理教授と協力し師事を受けているためか、出会ってから少しして心音と打ち解けることが出来た。だが、慶二はどのような話を彼女としたのだろうか。
「初対面の時は彼女の友人を探してあげたんだ。二度目は悩み事を解決してあげたかな」
「悩み事?」
友人というのはきっと森澄しのぶのことだろう。心音に会うために宇宙センターに訪れているところを夕神も見たことがある。
しかし悩み事を解決というのは、なんの話をしたのか。
「うん。お母さんとの関係に悩んでいたみたいだから、ちゃんと愛されてるよって教えてあげたんだ」
「……なるほど」
慶二の口から語られた内容は、夕神も覚えがあるものだった。
希月親子は互いを大事に思っているが、心音の能力と希月教授の心音を助けたいという想いのために、すれ違っている節があった。
心音は声から人の感情を読み取れる稀有な力があるが、その能力が強すぎるために人が多い場所や感情が強い場所に行くと体調を著しく崩してしまう。そのため、学校に通えず、この大河原宇宙センターで多くを過ごしている。
対して、希月教授は自身の持つ心理学の知識と、親しい仲であるかぐやの機械工学の技術で、心音の負担を少しでも減らそうと仕事の傍ら開発をしている。
しかし、普段の仕事に加え、そのような難しい開発を行っているために心音との時間が取れず、開発の実験でしか会えない日々が続いているようだった。
その結果、心音が母親からの愛情に不安を感じていたのは、親しくなった夕神も察していた。夕神も希月教授に協力を求める立場である。申し訳なく思うと共に、心音へそんなことはないと慰めていた。
だが、幼い心音には難しい話だ。慰めても、ずっと不安げな顔していたのを覚えている。
「さっき解決したって言ってましたけど、心音は理解してくれたんですか?」
「ああ、心音ちゃんは物分りがいいだろう?」
そう言って笑う慶二に夕神は内心首を傾げる。物分りがいい、で済むような簡単な問題では無かったはずだ。だが、確かに、思い返せばここ最近、心音から希月教授に関する不安の言葉を聞いていなかった。
「親子っていいよねぇ」
夕神が思案していれば、慶二がしみじみとそんなことを言うので、思わず視線がそちらを向いた。
羨むように虚空を見つめている姿を見て、目を瞬かせる。
「……どうかしたんですか?」
「え? いきなりどうしたの?」
「いや……随分……羨ましそうにしていたので」
そう、羨ましそうに。それとほのかに――、
慶二は「ああ」と納得したように声を上げて答えた。
「最近家族に会えてないんだよね」
「ご家族に」
「そう。忙しくてさ」
「なるほど……」
確かに、慶二ほどの多忙さではなかなか実家に帰る機会はなさそうだ。だが、少し意外だった。必要と決めれば無理やりにでも時間を作って会いに行きそうだというのに。特に、あんな目をするぐらいなら。
と、慶二がじっと見つめてきて、夕神は目を丸くした。視線を逸らすのも違うと思ったため逸らしはしなかったものの、つい尋ねる。
「な、なンですか?」
「僕にもね、弟がいるんだよね。年の離れた弟」
「そうなんですか……」
夕神はかぐやの弟だ。そういう意味の視線だったかと思いながら、慶二の弟というキーワードについて考える。――が、あまりイメージが浮かばなかった。
「俺と同じぐらいなんですか?」
「いや、もうちょっと年上だよ。大きくなってるだろうなぁ。会いたいよ」
夕神より年上なら、そりゃあ立派な成人男性だろう。だが、年の離れた兄弟はどれだけでかくなっても下をガキ扱いするものである。身に染みている夕神は、敢えてつっこもうとは思わなかった。
「仕事は何をやられてるんです?」
「警察官だよ」
「へぇ、兄弟揃ってですか」
「いいよね。今度会った時、警官の制服を着て二人で写真撮ろうかな」
楽しそうに語る慶二の様子を見るに、どうやら兄弟仲はかなり良いらしい。ニコニコと語る慶二に興味をそそられて、弟のことを色々と聞こうと口を開いた時、電話の着信音が聞こえた。
慶二が「おっと」と口にして、ポケットに仕舞われていた携帯を取り出す。
電話をとって、幾つか短く会話をしたあと、さっと電話を切った。
「仕事ですか」
「仕事だねぇ」
「慶二さん……ちゃんと休めてますか?」
「まぁ、寝てはいるかな」
就寝時間は休日には入らない。分かっていてそう返したのだろう、慶二はカラカラと笑った。
「休憩時間は終わり。もう行くね」
「はい。同行の件、考えておいてくださいね」
「分かってるよ」
慶二は軽く手を振ると、そのままコートを翻して背を向ける。その背に、唐突に第三者からの声がかかった。
「おとうさん!」
え? と夕神は思った。「お父さん」?
その声は忘れるはずもない、幼い少女、希月心音の声だった。反射のように振り返った先で、やはり見慣れたオレンジ髪の少女が廊下の先にいた。彼女は重たそうな、うさぎの耳のような部品の着いた見慣れたヘッドホンをしている。
希月親子は母子家庭だったはず。スタッフに父親がいるという話も聞いたことが無い。夕神は周囲を見回すと、その先で同じように周囲を確認している慶二を見つけた。パチリと慶二と目が合い、まさか、と人差し指を彼に向けた。慶二も同じように、彼自身に指を向ける。
慶二は心音に視線を動かす。心音の視線は慶二にだけ向いていた。
慶二の顔が、ふわりと綻ぶ。彼が少女に近づいて、失礼、と声をかけると、流れるように少女を抱き上げた。
「僕に用だったのかな?」
「そう、だけど……」
「そっか。やっぱり僕だったか」
慶二がうんうん、と嬉しげに頷く。先程の弟の話をしていた時のようだ。夕神も二人に近づいて、なるほど、と納得した。
かなり驚いたが、よくある言い間違いだ。
「俺も学校でやったことがありますね」
「ふふ、そっか。僕は結婚願望が強くなっちゃったなぁ」
「結婚願望あったんですか?」
「全然あるねぇ」
意外なようで、心音を抱き上げている様子を見るとそんなこともない気がした。
しかし、抱き上げられた心音もキョトンとした顔で慶二を見るだけで、緊張などはしていないようだった。二回しか会っていないのに随分親しくなったものだなと思う。まぁ、慶二だからと言ってしまえばそれまでなのだが。彼は、いつの間にか宇宙センターの職員の殆どと親しくなっていた。
そんな心の壁を溶かす性質を持つ男は、花を包むように優しく語る。
「僕の名前は番慶二って言うんだ。気軽に慶二さんって呼んでね」
男は、幼い少女から「けいじさん」と呼ばれ、華やぐように笑った。
あれから、慶二は忙しい合間を縫いに縫って、大河原宇宙センターへやってくるようになった。流石に、夕神にも理由は分かっていた。
「……気に入りすぎじゃないですか?」
「そうかな。いや、そうかも」
その日は、心音と慶二が椿の苗を植えると約束をしていた。心音の事がいたく気に入ったらしい慶二は、彼女との時間をどうにか取りたくて仕方がないらしい。
「仕事してるんですか?」
「してるでしょ! 自分で言うのもなんだけど、忙殺されてるよ」
それは事実だった。慶二の忙しさは留まることを知らない。仕事を調整してもらった方がいいのでは、と夕神は分単位で現場を移動する姿を見て進言したが、慶二は「好きでやってる事だしねぇ」と言ってそのままだ。
そして、そんな隙間に大河原宇宙センターにやってきては、心音との時間を取ろうと予定をねじ込んでいる。この後、慶二は会議のために飛行機に乗る予定だった。
慶二の独自捜査に同行する件も、ここ最近は話題にすら出ていない。
「あ、君に来てもらうことについては、ちゃんと覚えてるからね」
「……それなら安心です」
テレパシーが使えるのだ。と夕神は最近思うようにしていた。そう考える方が楽なので。
「ですが、体を大事にしてください。倒れてしまったら元も子もないですよ」
「そうだねぇ。そう思うと、そろそろここでゆっくりする時間も無くなってきそうだ」
慶二が残念そうに呟く。その姿にあまり見ない哀愁を見て、少しだけこの完璧な刑事が心配になった。
慶二の言葉通り、彼は落ち着く時間が全く無くなってしまった。大河原宇宙センターに来ることはあるものの、夕神との仕事を最短で終わらせて去っていってしまう。
それでもいつも通りの涼しい顔をしていたのだが、ある日しおれた顔をしていたので驚いた。何があったのか慌てて聞いてみたところ、予定していた友人たちとの海水浴に多忙で行けないと言うことで、断りの連絡をしたらしい。「君たちも誘おうと思ってたのに……」と悲しげに言われ、なんとも言えない気持ちになった。
検事権限でどうにかできないだろうか、または御剣検事に頼めばどうにか。と思ったものの、慶二の仕事は検事局は関係ないものばかりのようで、夕神が出来ることはなさそうだった。
慶二はと言うと、断りの連絡をした、とその日は肩を落としていたものの、次に会った時には涼しい顔を取り戻していた。
そうしている間に夕神の方も忙しくなり、慶二との関わりが短くなったことにも慣れた頃。
まさかの心音が、慶二に会えないことに泣き出してしまった。
子供部屋で夕神と心音がパズルをしていた時のことだった。慶二に全く会えなくなった心音が、慶二に嫌われているのでは、と口にした。そしてコップに注がれた水が耐えかね零れてしまうように、静かに涙を零したのだった。
似て非なるものだが、夕神は出会った当初に慶二に抱いていた感情を思い出す。
慶二は絶対にそんなことを思っていないのに、何故だか勘違いさせてしまう。夕神は言葉を尽くして違うと言いたい気持ちと、慶二が心音に話すべきだという気持ちで板挟みになった。
「心音……」
少女の名前を口にした時、ガラリと場に見合わぬ派手な音が部屋の扉から響いた。
「あ! ここに居たんだね二人とも。見て、心音くん。約束通り持ってきたよ」
そこには、いつもより数割元気な慶二が、五十センチほどの苗木を抱えて立っていた。
もしかしてこの男は、天然が少し入っているのでは、と夕神は疑った。
結局その後は、少々ヒヤリとすることもあったものの、心音と慶二は誤解を解いてまた親しく話をしていた。しかし手紙とは、よく考えたものである。
慶二が心音に弁護士を勧めるなどスルーしがたいこともあったが、何よりも聞き捨てならなかったことは同行の件であった。
心音と夕神、慶二で椿の苗を庭に植え終えて、夕神と慶二の二人になった後。夕神はずいと慶二に詰め寄った。
「慶二さん、嘘じゃありませんよね」
「あんな嘘はつかないよ。ただ、楽しくはないと思うけど」
「捜査に楽しいも何もないでしょう」
そうは言いつつ、夕神の顔には笑みが浮かんでいた。それに慶二も小さく笑みを浮かべる。
「日時は後でメールで送るよ。来られない場合は大丈夫だから」
「分かりました」
頷きつつも、夕神は是が非でも行くつもりだった。それを察したのか、慶二は仕方なさげに肩を竦めた。
慶二からメールが送られてきたのは数日後だった。日時と服装の指定をされ、夕神ははやる気持ちを抑えながら現場へ向かった。
慶二が指定してきた時間は早朝。そして服装はスポーツウェアだった。その通りの服装で現場――都内では有名なジョギングルート――へ訪れた夕神に、先についてベンチで座っていた男が彼を出迎えた。
キャップを被り、グレーの地味なスポーツウェアを着た男に夕神は一瞬眉を顰めたが、よくよく見るとそれは慶二であった。
「誰かと思いました」
「ま、捜査だからね。いつもの感じじゃダメでしょ」
キャップの下。影になった部分で軽く笑った慶二は、こっちだよ。と言って手馴れたフォームでジョギングルートを走り始めた。
緩やかなペースでコンクリートの地面を蹴ってゆく。慶二は特に喋りかけてこなかったので、夕神もそれに習った。あまり目立つ行動はすべきでは無いのだろう。
そうして走っていると、目の前から男女ペアのランナーがやってきた。その姿を見て、夕神は静かに目を見張る。その二人は法曹界では随分有名な人物だったからだ。彼らは、綾里千尋と神乃木荘龍であった。
夕神も二人を法廷で見たことがある。検事として相対したことはないが、その被告人を最後まで信じ抜く姿勢、どんな状況でも変わらぬ不適な笑みが印象的だった。二人は同じ事務所に所属しており、実力者としての確かな地位を固めていた。だが、ここ数年は法廷で見ていない。刑事裁判から民事裁判に転換したのかと夕神は不思議に思っていたが、まさかこんな所で見かけるとは。
センスの良い、同じメーカーらしいスポーツウェアを来た二人組が、慶二と夕神の隣をすれ違っていく。
少し横目で追ったものの、今は捜査中だと意識を切りかえて慶二に続いて走る。
そうして、少ししたところ、メインらしいジョギングルートから外れる。木々が生い茂る、同じくジョギングルートとして使われるような公園に入って行った。
公園で木の影になっているベンチの前で足を止め、慶二が腰を下ろす。夕神は慶二を周囲から隠すように前に立った。
「ありがと」
「いえ」
「じゃ、後はちょっと走って終わろうか」
「は……え、それって」
「うん、終わりだよ」
小さく頷いて笑みを浮かべる。それに、先程すれ違った二人組を思い浮かべた。もしかすると、あれが目的だったのか。
慶二はスポーツウェアのポケットに手を入れると、何か長方形の四角い小物を取り出す。大きさは五センチにも満たないもので、平らだ。ローマ字で”John”の文字が彫られるように印字されていた。
「ご名答。さすが迅くん」
「それは……」
「例のブツ、って所かな」
「彼らも協力者なんですか」
「まぁね。弁護士の友達は多い方だから」
弁護士の友達。
ニコリと嬉しげに笑う慶二は、確かに成歩堂という弁護士についてよく口にしていた。彼だけでなく、綾里千尋や神乃木荘龍も友人というわけか。
慶二が友人だと語っていた成歩堂龍一についても、夕神は認知している。青スーツとワックスで髪を後ろへ尖らせた髪型が特徴的な若手の弁護士で、そのハッタリの腕と危機的状況からの大逆転は法曹界でも広く知れ渡っていた。
「弁護士からの受け渡し……一体それはなんです?」
「個人的に彼らに頼んでいた調査についての結果が入っているフラッシュメモリだよ」
フラッシュメモリ――データが入る記憶装置のことだ。夕神はコンピュータより紙派のためあまり使用したことは無いが、姉のかぐやなどは随分詳しいだろう。
しかし、その依頼した調査というのは一体何なのか。
夕神が口を開く前に、慶二は腰を持ち上げた。そしてキャップを深く被り直して「行こう」と夕神に声をかける。
尋ねたいが、ここまでという事だろう。夕神は疑問を飲み込んで、しかしその後に小さく呟いた。
「……また、ご一緒してもいいですか」
「ああ、もちろん。また声をかけるよ」
慶二が、見逃しそうなほど自然に拳を出す。
走り出しそうな彼に、夕神は慌てて、その手に己の拳を軽く突き合わせた。
しかし、その約束が果たされることはなかった。
番慶二が死んだのは、大河原宇宙センターでHAT-1号計画が実行される日のことだった。HAT-1号計画は、宇宙飛行士がロケットで宇宙へ行き、無人探査機「みらい」を小惑星へ向けて放つ。そして、ロケットは地上へ帰還する計画だった。
しかしHAT-1計画実行前、大河原宇宙センターへHAT-1計画を中止するように脅迫する電話が入った。そしてその連絡をとってきた人物は――「亡霊」と名乗った。
亡霊――国際的に暗躍するスパイからの脅迫。日本の宇宙開発技術が先行するのを危惧した、他国からの妨害であるとみられた。しかし、日本政府はこの脅迫に対して計画を中止することはなく、断行することを決定した。
当然、亡霊の妨害工作を放置することは出来ない。そのため、慶二含む警察官たちが大勢出動し、大河原宇宙センターの警備をすることになった。
慶二と夕神は完全に別行動であった。亡霊に関する調査に加わっている夕神ではあったが、此度は亡霊の直接的な妨害に対する対処である。
警備の責任者として駆け回る慶二を、夕神は遠くから見守ることしか出来なかった。
「迅くん」
「ッ! 慶二さん? どうしてここに」
「こっちのが近道でね」
部下も付けず、慶二はラウンジにいた夕神の前に現れた。そうして、そんなことを言って笑い、腕時計を見やる。
「顔が見れてよかった。じゃあ行くね」
「は、はい……」
涼しい顔をして直ぐに去ろうとする慶二に、しかし引き止めることは出来ない。彼はこの現場の責任者なのだ。いくら検事と言えど、慶二を煩わせることはあってはならない。
そう、今日、亡霊を捕まえることができるかもしれないのだ。
見つめる夕神に、慶二がふっと小さく笑った。安堵のような笑みだった。
「君は君のすべきことをしてね」
「俺の、すべきことですか」
「そう。頼りにしてるよ、相棒」
慶二はそう告げると、黒いトレンチコートを翻してその場を去っていった。走り去っていく姿に、夕神は拳を握る。
自分の、すべきことを。
そう、そうして――次に見た彼の姿は血にまみれていた。
夕神は、心音を探していた。待機するように指定された場所にいなかったのだ。心音が行く場所を考え、もしやとロボット研究室へ足を運んだ。ロボット研究室には、希月教授たちはいない。彼女らは別部屋に避難していた。それは慶二の指示であり、皆従っていた。
夕神がやってきた先、扉が薄く空いていた。扉をスライドさせる。その先で、鉄の臭いがすることに気づき、次いで、部屋に倒れる男が視界に映った。
茶色の髪に、整った顔立ち、そして黒いトレンチコート。見紛うことなく、番慶二であった。
夕神は声を上げて倒れふす慶二に近寄った。慶二の胸元に、刀が突き刺さっていた。コートの隙間、ベストの上から、日本刀の柄が伸びている。
慶二はまだ息があった。酷く苦しげな、見たこともない顔をしていた。苦痛に歪んだ顔で、音も出せないような喉で、息だけでこう言った。
「ぼうれい」
と。
呆然としていた夕神に、警察が声をかける。警備をしていた警察が遅れて到着していた。救急車が手配され、慶二は病院へ搬送された。
耳に膜が張られ、視界が白と黒で形成されていた。そんな夕神の視界に、とある物が映った。部屋の隅、うさぎの耳のように特徴的な部品が設置されているヘッドホン――心音が常日頃付けていた、声の感情を遮る特殊な機械。
全身が粟立って、気づいた時には走り出していた。大河原宇宙センターを走り回り、心音を探した。頭には血にまみれた慶二と、亡霊の文字がずっと浮かんでいた。
そうして――そうして、ようやく見つけた。
大河原宇宙センターの庭の中、花壇の隅に心音はいた。体を小さく丸め、死んだように横になっていた。
夕神は飛びつくように心音に近づき、体を揺さぶった。起き上がった心音に傷がないか確認し、両手が固く握られているのを気づき、怪我をしているのではないかと血の気が引いた。何度も傷がないかを確かめて、心音が無事なことがようやく理解できた。
詰まっていた息が喉を通る。心音を強く抱き締めて、ただその冷えた温度を確かめた。
そうして、心音を探す中で掛けられた声を思い出す。信じたくなかった、有り得ないと思った。だが、耳に入ってきた。
――搬送先の病院で、番慶二が息を引き取った、と。
「よかった……! 心音まで、失う、かと……」
こぼした言葉は安堵と共に夕神の心を抉りとる。そう、失った。夕神は失った。
あんなにも頼りになった刑事は、呆気なく死んでしまった。