王泥喜side
地方裁判所、第四法廷。そこで、最後の裁判が開廷する。
ここまできても、王泥喜の希月への疑惑は拭いきれていなかった。寝る前に繰り返し考えていた。こんな自分が弁護士席に立っていいのかと。
だが、隣には成歩堂龍一がいた。依頼人を信じ抜く信念を持つ、成歩堂弁護士事務所の所長。
彼ならば、自分の疑惑を吹き飛ばしてくれるのではないか。成歩堂自身も、王泥喜の疑念が真相を見つけ出すヒントになると言っていた。
なんて不敵なんだろうと思う。だが、だからこそ、この疑惑ごと委ねようと思う。
信じたい。全幅の信頼を持って、心から。明るく人の気持ちを考えられる活発な後輩と、夢を語り合った、固い絆で結ばれた親友を。
「では、希月心音の裁判を始めます。冒頭弁論は……」
裁判長がチラリと夕神検事を盗み見る。通常は検事が行うものだが、夕神検事の場合はそれが当てはまらない。今回も裁判長にやらせるのか? と様子を見てみれば、夕神検事が資料を持って口を開く。どうやら、今回は夕神検事自ら行うようだ。
「大河原宇宙センターでの爆破、および探査機《みらい》のカプセル盗難事件。前回の裁判で、葵大地の疑いは晴れた。真犯人は別にいて……事件当日、真犯人は第一ラウンジで葵大地たちを待ち伏せをしていた。そして、宇宙飛行士たちが見学スペースから逃げてきたところに居合わせ、カプセルを奪取。その後、真犯人は、見学スペースへ逃げ込み……大河原が発射台を入れ替えた。そして、犯人は、見学スペースから第二ラウンジに逃げ出した」
夕神検事の、長い前髪に隠れた目はどこを見ているか判断がつかない。
「つまりだ。今回の裁判は、真犯人……見学スペースから逃げ出した人物が誰だったかを審理することになる」
「ふむ。弁護人も、問題ないですかな」
「はい」
裁判長からの言葉に、成歩堂が頷く。
法廷の様子は、初日から変わりない。証拠品として置かれている爆弾の運搬ケースもそのままだ。
ただ、弁護士側の弁護人が、希月から成歩堂に変わっただけだ。
夕神検事が指笛を吹く。すると、証言台に元気よく白スーツの男がやってきた。
「うむ! 証人はジブンだ!」
「おや、番刑事ですか。何か新しい事実が見つかったのですかな」
「その通り! しかと聞いてくれたまえ!」
熱い拳を握りながらそう告げた番刑事が、夕神検事の睨みに気づいて元気に「では、追加捜査で分かったことを話そう!」と切り出した。
「昨日の裁判で持ってきたライターだが、見学スペースに落ちていたのだ。そこには希月心音の指紋がついていた……。彼女の右手の指紋で、当時事件現場を窓越しに見ていた目撃者は、ライターとナイフを持っていた人物が、左手にライターを持っていたと言っていた。情報が食い違っていたが、それは第一ラウンジに大きな鏡があって、そこに映ったものを目撃者が見ていたということがわかった。ライターも右手用のものだったからね。つまり、右手の指紋で問題はなかったのだ」
右手の指紋――確かに、かぐやとの目撃証言と食い違う。だが、すでに検証済みだったらしい。王泥喜も、第一ラウンジに扉ほどの大きな鏡があったのは記憶していた。
「それから、第一ラウンジと同じように、第二ラウンジにも監視カメラが付けられていてね。その監視カメラに、事件発生後に映っていたのが希月心音のみだったのだ……。決定的な証拠が、二つもあるということだ!」
成歩堂は証言を終えた番刑事に尋ねる。
「ライターは見学スペースのどこで発見されたんですか?」
「うむ。ライターはロケットの裏側の通路にあったのだ。それでなかなか発見できなかったわけだな」
「ロケットの裏側の通路……よく見つけられましたね」
「これぞ、弛まぬ捜査の賜物だ!」
番刑事は額に二本指を置いて、決めポーズをしている。それをなんとも言えない目で見つめる成歩堂だった。
気を取り戻したのか、成歩堂はすぐに次の質問をする。
「第二ラウンジの監視カメラ……その映像はどんなものです?」
「ああ。映像は持ってきてある。これを見てくれ!」
番刑事が法廷にある機材を動かす。皆が見える位置にある画面に、第二ラウンジで撮られた監視カメラの映像が流れ出す。
そこには、見学スペース通路から第二ラウンジへ現れる希月が映っていた。第二ラウンジへ続く扉が開き、希月がゆっくり歩いてくる。頭を抱えていて、ふらついているように見える。だが――。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「ん? どうしたのかね?」
「どうしたって……監視カメラの位置が、第一ラウンジと違うせいで、ココネちゃんの上半身しか映ってないじゃないですか!」
そう、その映像には、確かに希月が映っていた。オレンジ色の髪、容姿、衣服。全て彼女と確信できるものだ。
だが、映像は第二ラウンジと違い、扉から出てきた人物の全身をとれるような画角ではなく、天井の方へ向いてしまっている。そのため、心音の胸元から上しか映っていないのだ。彼女が、その手にカプセルを持っているかどうかまでは判断できない。
「これじゃあ、彼女がカプセルを盗んだか分からないじゃないですか!」
「むう……。しかし、事件後に監視カメラに写っていたのは彼女だけであるし、写っていないだけで持っているのではなかね?」
「そ、それは……」
成歩堂の主張に少々気圧されたが、すぐに番刑事が反論する。そして、それはその通りだった。
カメラの画角にカプセルを持っているのが見えていないからといって、カプセルを盗んでいないとは言えない。そもそも、監視カメラに写っていることが問題なのだから。
カメラの画角的に、這いつくばれば画面に映らないこと自体はできそうだ。だが、扉が開閉するのは必ず映される。それに、監視カメラは音も入っている。希月以外が通ったような足音もなかった。
彼女以外に、発射台入れ替えのトリックで現場から逃げられた人物はいないということになる。
口ごもる成歩堂に、王泥喜が番刑事に向かって問いかける。
「この監視カメラ。他に映像はないんですか? 例えば、事件直後とか」
希月が監視カメラに写ったのは、事件が発生してから数時間経った後だ。ロケットが発射される直前に爆破が起こり、かぐやが窓から犯人を目撃したのが十時ジャスト。希月が見学スペースから出ていく姿が監視カメラに写ったのが十二時。
空白の二時間がある。
「あるといえばあるが……。誰かが出ていく様子は映っていない。それから、爆破直後は少し映像が乱れていたが、認識不明なほどではないのだ」
「つまり、やはり希月さん以外は誰も見学スペースから出てきていないと」
「その通りだ!」
予想通りの答えに、それ以上の追求を止める。
監視カメラの映像については、王泥喜も知っていたことだ。見学スペースから第二ラウンジへ行ったのは、希月心音しかいない。
王泥喜は、隣に立っている成歩堂を見上げた。彼も視線に気がついて、王泥喜に目線を向ける。
「成歩堂さん。希月さんの尋問を、俺にやらせてもらえませんか」
「ココネちゃんの尋問を? けど、彼女は事件当時の記憶が曖昧なんだよ」
「はい。けど……はっきりさせておきたいんです」
成歩堂を見つめる。彼は悩むように視線を逸らした後、それから目を閉じて、再び王泥喜の視線を受け止めた。
「分かった」
「……ありがとうございます」
そう礼を言って、王泥喜は裁判長に「被告人の尋問をお願いします」と主張した。
「被告人への尋問ですか……。検事側はどうですかな」
「異論はねェ。好きにやんな。あぁ、オッサンはここにいな」
「うむ? 分かったぞ!」
夕神検事に言われ、法廷の邪魔にならないところに控える番刑事。
王泥喜に尋問の意味を問うなどもせず、サラリと同意する夕神検事に違和感を覚える。
しかし、今は被告人――希月心音への尋問のことを考えなければ。
係官に連れられ、希月が証言台へやってきた。尋問されると思っていなかったのか、少々不安げな顔をしている。
「では、希月さんに何を証言してもらうのですかな?」
「見学スペースに来たときのこと。そして、ライターやカプセルについてです」
「でもわたし、全然覚えてなくて……」
「……なんでもいい。話してくれないかな」
王泥喜は、自分の目元に手を伸ばす。己の右目を閉ざしていた包帯へと。
固く結んでいた包帯を解いていく。ずっと閉じていた瞼を持ち上げる。久しぶりの光に、目の奥がツキツキと痛んだ。
両の瞳で希月を見る。恐れてずっと封印してきた目を、解放した。
これで、もう分かってしまう。彼女がついている嘘が。
それでも、見なければならない。きっと、大丈夫だ。そう信じることにする。希月心音ではなく、隣の弁護士を。願望ではなく、その実力を信頼して。
希月は包帯を解いた王泥喜を見て、目を丸くしていたが、真剣な瞳で頷いた。
「分かりました……。覚えている限り、証言させてもらいます」
そうして、希月心音の証言がはじまった。
「事件が起こる前日に、宇宙センターの見学スペースに行きました。立ち入り禁止の看板が出てたけど、こっそり入っちゃって……。HAT-1号の展示を見にきたんです。過去のトラウマを、乗り越えたくて。最初は何も問題ありませんでした。けど、突然……慶二さんの顔を思い出しました」
希月の顔がこわばる。しかし、証言は続いた。
「それからは昔の記憶がフラッシュバックして……。目の前が真っ白になって、必死で見学スペースから出ようとしたんですけど、見当違いな方向に行っていたみたいです。次に目を覚ました時は、ロケットの裏側のスペースにいました。目を覚ましたのは次の日のお昼……事件当日の昼ごろでした。それから、家に帰ったんですけど……どうやって帰ったのかも分からないぐらい記憶が曖昧なんです。だから、ライターのことも知らないし、カプセルのことも知りません。ライターは触った覚えもないし、カプセルも盗んでいません!」
ライター、カプセルについても身に覚えがない。という発言で終了した希月の証言。
見学スペースにいた経緯については、昨日留置所で聞いた内容と同じだ。
希月の証言を聞いていた裁判長が、目を瞬かせて言う。
「おや、慶二さんというのはもしや……」
「はい。七年前に亡くなった、番慶二さんです」
「そうなのですか。懐かしいですね……。法廷で彼を見なくなってしまってから久しいです。しかし、名前だけだと、番刑事と同じで間違ってしまいそうです。偶然の一致ですな」
遠くを見つめる目でそう語った裁判長に、「ジブンと兄は兄弟だぞ!」とヤジが飛んだ。
「オッサン、黙ってなァ」
「むう……! なぜ兄弟だと思われないのだ……! こんなにも似ているのに!」
不服げな番刑事と、目を丸くしている裁判長はさておき、希月の証言を考える。
「希月さんの証言では、そもそも第一ラウンジに行ってすらいないけど……なら、現場に落ちていたナイフに見覚えはないのかな」
「あのナイフですね。はい、見たこともないです」
――見えた。いや、”見えてしまった”。
王泥喜の目が、虚実を見抜く。腕輪が反応し、細部まで見通す瞳が希月の動きを見つけ出した。
希月は、嘘をつく時、わずかに耳が動く。それが、今の証言に出ていた。
口を開かない王泥喜に、成歩堂が声を掛けてくる。
「王泥喜くん?」
「……一つ、考えていたことがあったんです。もしかしたら、この疑惑を解消できるかもしれない可能性……」
「一体、何のことだい?」
「成歩堂さん。UR-1号事件の資料、持っていませんか」
成歩堂の動きが固まった。それから、すぐに小さなため息。
今回の事件は、七年前の事件と関わりがあることは昨日判明していた。そして、彼がそれを知っていたら、何かしら行動をとる――開廷前に渡されていた資料が思い出される。
「嘘をついてもバレちゃうからね。まあ、嘘をつく気はさらさらないけど」
「あるんですね」
「ああ。開廷前に御剣に持ってきてもらったものだよ。ボクもまだ詳細は見れてない」
成歩堂は、資料の中から一つのファイルを取り出した。それを王泥喜へ差し出しながら「使いなよ」と眉を動かす。
「いいんですか?」
「使えるときに使わなくちゃね」
王泥喜は資料を受け取って、急いで読み始める。
成歩堂は、王泥喜とバトンタッチをするように、希月への質問を投げかけていた。
成歩堂が話を聞いているうちに、王泥喜は資料を読み進める。
UR-1号事件。七年前の十月七日。大河原宇宙センターで発生した未解決の殺人事件。
現場は中央棟四階のロボット研究室。被害者は、刑事の番慶二。
資料は六個。
一つ目、番慶二の解剖記録。死因は胸部の刺し傷で、出血多量により死亡。胸以外に外傷はなし。
(即死ではない……)
二つ目、七年前の現場写真。夕神迅の後に現場を発見した者が撮影した二枚の写真だ。四階のロボット研究室が映されている。今のロボット研究室とは違い、荷物が少ない。
一枚目の左側を写した写真には、手術代のようなロボット修理・解体用らしき装置がある。そして二枚目の右側を写した写真は、床に仰向けに倒れる黒いトレンチコートを着た番慶二。胸元には、刀が深々と突き刺さっており、柄部分しか見えていない。刃の部分は、全て刺さっているのだろう。そして、そのすぐ横には、折れた刃先が落ちている。刃先は長く、一メートルほどだろうか。
他に気になるのは、工具箱の蓋が開いた状態のまま置かれていること。そして、棚に探査機《みらい》に積み込まれる予定のカプセルが置かれていることだ。
(工具箱……)
特に、王泥喜が気になったのは工具箱だった。続いて、その工具箱についての資料が出てくる。
三つ目、現場に置かれた工具箱を写した写真。工具箱は、宇宙センターの職員に広く配布されていたもの。工具箱には、マイナスドライバーやレンチなどの工具が六本並べられている。黒い柄に、何やら模様が描かれていた。そして、工具箱にはもう一本工具が入りそうな隙間がある。
(謎の隙間、模様……)
四つ目、凶器の日本刀。番慶二殺害に使用された日本刀。ロボット研究室を使用していた、希月教授の私物。柄近くから折れており、柄に残った二センチほどの刃の部分に血痕。そして、刃先の先端に血痕が残っている。
(刃先と根本への血痕……)
五つ目、避難梯子。UR-1号事件当日、事件現場のロボット研究室から降ろされていた。付近に血痕が残っていたが、被害者の血だった。
(今回の事件でも使用された、避難はしご)
六つ目、七年前の監視カメラ。事件現場に向かう廊下の映像。犯行時刻後、一人の職員が廊下を通っている姿が映されている。そして、この資料には補足が書かれていた。
補足――捜査上、避難梯子から犯人は逃走したと思われ、監視カメラに映った職員は重要視されなかった。だが、避難梯子からの逃走で行方を発見できなかったため、この職員が犯人と思われる。
職員は制服のジャケットを着ている。そして帽子をかぶっていた。そのため、映像では顔の判別がつかない。
(この職員が、犯人……。顔は、よく見えないな……)
一通り資料を読み終えたところで、耳に怒号が飛び込んできた。
「成の字、てめェ……。さっきから実のねェ尋問ばかりしやがって……ふざけてんのか!」
「う……ッ! い、いやあ……お、王泥喜くん。どう? 何か分かった?」
冷や汗をかいた成歩堂が、コソコソと王泥喜に耳打ちしてくる。
「はい。……たぶん、大丈夫です!」
背筋を伸ばし、希月をみやる。希月の大きな目に見つめ返されながら、王泥喜は口を開いた。
「希月さん。現場で発見されたナイフ、本当に見覚えがないんだね?」
「あのナイフですよね? はい、本当に見たこともないんですよ」
眉を下げて語る希月。しかし、耳の動きは彼女が嘘をついていると王泥喜に伝えてきていた。
「それはおかしいんだ。君は、このナイフを知っているはずだ」
「え? でも、本当に知らないんです」
「いいや……君は知っている。もし……現場で見たことがないなら、別の場所で見たんじゃないかな」
「別の場所……? けど、そんなちゃんとしたナイフをみる機会なんて……」
困惑する希月に、王泥喜は「七年前の事件はどうかな」と問いを投げかけた。とたん、希月の体がビクリと揺れた。
「ど、どうしてここで七年前の事件が……」
「可能性がある事件を出しただけだよ。それで、どうかな」
「どうって言われても……。わたし……七年前の事件のこと、よく、覚えていないんです。慶二さんを、探しに行って……気づいたら、宇宙センターの前庭の花壇にいて。間の記憶が、ないんです」
体を抱きしめて、身を小さくして語る希月の顔色は悪い。心苦しい思いはあったが、それで止まっていては今までと同じだった。
黙って話を聞いていた裁判長が、首を傾げながら王泥喜に訪ねる。
「七年前の事件というのは?」
「大河原宇宙センターで起きた、番慶二殺害事件です。その現場に、当時の希月さんがいたんです」
「な、なんと痛ましい……。しかし、その事件が今回の事件と関係があるのですかな?」
「……どうでしょう。あるかもしれません」
「あるかも……なんとも不明瞭ですな」
不服そうな裁判長だが、検事側からの異議が確認されないため、弁護側の尋問を止めることはしなかった。
何も言わない検事側は、黙ってやり取りを鋭い瞳で睨みつけている。
「希月さん。その蓋をされた記憶の中で、ナイフを見ていたんじゃないのかな」
王泥喜は、先ほど渡されたUR-1号事件の資料から、七年前の現場写真を取り出した。
「け、慶二さん……!」
「希月さん。今はそっちじゃなくて、この工具箱を見てくれ」
「こ、工具、箱……」
顔を青くして震える希月に、王泥喜は写真の一点を指差す。
そこには、床に置かれた、蓋のあいた工具箱があった。
「現場には工具箱があった。その中の一つに、現場で見たのと同じ、ナイフが入っていたんじゃないか?」
「工具箱……ナイフ……」
体を抱きしめて、過去を思い出すように希月が小さくつぶやく。
そこへ、夕神検事の声が聞こえてきた。
「現場の第一発見者として、口を挟むが……現場にはナイフはなかったぜ」
「ええ。しかし、この工具の柄にある模様が、ここにナイフがあったことを証明しているんです」
王泥喜が取り出したのは、大河原宇宙センターのパンフレットだ。しかし、必要なのはこの表紙。
パンフレットの表紙には、大河原宇宙センターを運用する機関、”GYAXA”のマークがあった。
そして、この工具箱の入っている工具の柄には、そのマークが印字されている。正しく並べた時に、マークが現れるように。つまり、パズルのようなものだ。
そして、その原理で工具を並び替えると――入っていたと思われるナイフには、”GYAXA”の真ん中のAの部分が入る。
真ん中にあるため、他の文字とは別に、赤い文字で特徴的に描かれた”A”のマーク。それが、今回の現場で見つかったナイフの柄にピッタリ当てはまる。
「このため、現場に落ちていたナイフは、この工具箱の入っていたナイフと同じ形のものだと言えます」
「……そう、そうだ。ナイフ……ナイフを、見ました。七年前、あの時……」
希月が頭を抱える。血の気の失せた顔で、絞り出すように語り出す。
「わ、私が、慶二さんを探しに勝手に部屋を飛び出して……ロボット研究室の方へ……慶二さんは、そこでカグヤさんと話していることも多かったから……。それで、中に入ったら……け、慶二さんと職員のジャケットを着た男の人が、拳銃を向けあっていたんです!」
「職員のジャケット……犯人か……!」
夕神検事の声が動揺で揺らいだ。
希月は、操られるように過去を紡いでいく。
「わ、私、呆然として……ジャケットを着た人の方が、入り口側にいたんです。その人が、私に手を伸ばしてきて……人質にされたんです。怖くて、体が凍ったみたいに動かなくて。男が何かを言って、慶二さんは、拳銃を遠くへ投げました。そして……こっちに向かってきたんです! 手には……ナイフを持っていました。そうだ、あの、ナイフ……!」
希月の細かく揺れていた目の焦点が合う。青ざめた顔で、叫ぶように声を上げた。
「そして、そのナイフで……お、男の顔を、切ったんです! 血が飛んで……その、その後は、思い、だせない……!」
震える手が顔を覆う。
その姿に、王泥喜は声を上げた。
「もう十分だよ。辛い記憶を思い出させて、すまない」
「お、オドロキ先輩……」
「……これで分かった。君がナイフに見覚えがあったのは、過去の事件で見ていたからだったんだ」
「わ、わたし……忘れていました。こんな……わたし、人質に取られて……」
「怖い体験だ。小さい子供の頃じゃ、耐えられずに蓋をしていても不思議じゃない」
希月の過去の記憶から整理すると、おそらく慶二は犯人とロボット研究室で鉢合わせしていたのだろう。そして二人が銃を向け合った際、幼い希月が部屋に入ってきた。犯人は希月を人質にして、慶二に拳銃を捨てるように脅した。慶二は拳銃を遠くに捨て、隙を見て床に置いてあった工具からナイフを手にした。そして、犯人の顔を斬った……。
幼い希月が無事に発見されたことから、希月を助け出すことには成功したのだろう。だが、慶二自身は殺されてしまった。
「幼い少女にはあまりにも酷な体験です……。しかし、これが今回の事件にどう関係があるのですかな?」
「……いえ、ありません」
「え?」
「ライターには希月さんの指紋、監視カメラには彼女しか映っていません。ナイフに見覚えがあるのが、七年前の事件が原因かもしれない。ということが分かっただけです」
裁判長の問いに、静かに答える。
そうだ。これは、ただ王泥喜が知りたかったがために聞き出したことにすぎない。
惚ける裁判長ではなく、検事席から声がかかる。
「随分な発言じゃねェか。弁護士側の態度じゃねェなァ……」
低い声色に、鋭い瞳。それに、同じく睨み返す。
「俺は、真実を知らなくちゃいけないんです」
「……ヘッ。石頭だな。だが……いい仕事をしたぜ。泥の字」
「いい仕事……?」
眉を顰める王泥喜に、夕神刑事が告げる。
「検事側から、新しい証拠品を提出する」
「あ、新しい証拠品ですと?」
裁判長が困惑した声を上げる。それに、夕神刑事が薄らと笑いながら答えた。
「ああ。ついさっき、ここに到着した。――姉貴、見つけたんだろうな」
「誰だと思ってんの? 当たり前でしょうが」
係官にとある人物が連れられてくる。特徴的な大河原宇宙センターの制服を着た、紫髪の女性――カグヤが、法廷に現れた。
「か、カグヤさん!」
「いい感じにピンチみたいね。オ姫サマが有罪になりそうな雰囲気」
「それは……」
「でも、これを見たら、気が変わるわよ」
言い淀む王泥喜に、カグヤが四角い手のひらほどの大きさの機材を取り出す。レンズがついており、まるでそれは――監視カメラ本体に見えた。
「その機械は……まさか」
「ええ。そのまさか。第二ラウンジに設置されていた監視カメラよ。そして、映像のデータも入ってる」
「え、でも、監視カメラの映像は既に……」
「”本来の監視カメラの映像”よ。監視カメラの映像、爆発後に乱れているところがあったでしょ。そこを綺麗に見えるよう、修正するように迅に頼まれてたのよ。けど……監視カメラのデータをよくよく確認してみたら、分かったの」
「な、何が分かったんです?」
カグヤはカメラのレンズ部分をペットにするように撫でる。
「監視カメラの乱れていた部分……。そこが、改竄されてたのよ」
「か、改竄!?」
「そう。本来の映像が、別日の映像に差し代わっていた。変化が分からないようにデータを乱れさせてたみたいだけど……。幸い、バックアップデータを掘り起こせたの」
「バックアップデータ、ということは……」
「ええ。本来、あの日に映っていた映像が、ここにあるわ」
監視カメラのレンズが電灯に照らされて、キラリと光った。
「こっちが改竄したと疑われちゃ面倒だから、データを転送するんじゃなくて現物を持ってきたけど、結構時間かかっちゃったわね」
「まァ、問題ねェさ。いい”時間稼ぎ”があったからなァ」
夕神検事はそう言って口角を上げる。そして、机を強く叩いて主張した。
「今ある監視カメラの映像は、改竄されたものだ。実際の映像を確認する必要性がある」
「なんということでしょう……。当然見るべきですが、監視カメラの映像が提出される際に、気づけなかったものでしょうか」
「それも、映像を見れば解決するだろうさ」
ただ、と夕神検事は言う。
「容疑者は、一人じゃねェって話さァ」
堂々とそう宣言する姿に、夕神検事が本来の監視カメラの映像について、既にかぐやから話を聞いているのだろう。と予想がついた。
そしてそれはきっと――
「……検事側のやることじゃないですね」
「てめェに言われる筋合いはねェさ」
夕神検事の軽口に、何か言い返す気は起きなかった。なぜなら、王泥喜は、希月の容疑が晴れる可能性に、安堵していたのだから。
「監視カメラの本来の映像。法廷で審議すべき証拠品でしょう。中身を確認するべきですね」
裁判長の言葉に、夕神検事が頷く。かぐやが法廷の機械に監視カメラとノートパソコンを繋いで、弄り始めた。
少しすると、傍聴人含め、皆が見える画面に映像が流れ始める。
しばらくは静止画のように、第二ラウンジから通路へ続く扉が映されている。画面は、希月が映された時と同じく、画角が天井側にずれており、扉の上半分ほどしか見えない。周囲に動くものは何もない。画面端に映る、時間の数字だけが、時の動きを表していた。
監視カメラの時刻は十二月十五日十時十分を示している。秒数がコンマから動き、そして十一分になった時、画面は動いた。
「こ、この人は……!」
「まさか……!」
王泥喜と成歩堂は、思わず身を乗り出した。
画面が動き、扉が開いた。見学スペース通路から、誰かが出てくる。希月の時と同じく、胸から上しか見えないが、これは――。
王泥喜が声を上げる。
「ど、どうしてあなたが映っているんですか。番刑事!」
画面には、確かに映っていた。白スーツの男――髪色、ティアドロップ型のサングラス。全ての特徴が一致していた。
法廷の端へ控えていた番刑事に、裁判中の視線が集まる。
「い、いや、これは……! け、見学スペースに逃げ遅れた人がいないかを、確認していたのだ!」
「ほお……。じゃあ、テメェはわざわざ、自分が出てきていた映像部分を改竄したってのかい。随分と機械に強ェんだなァ」
「そ、そ、そ、それは……」
夕神検事の言葉に、番刑事が、頭を抱えだす。
彼が見学スペース通路から第二ラウンジに事件当時に来ていたなら、本人は当然、その場を通ったことを知っていた。それを黙っていて、さらには監視カメラも改竄していた……。
そこで、ふと王泥喜の頭に、昨日の大河原の会話が頭をよぎった。
――そうだ。当時のセンターには、厳重な警戒が敷かれていた上、出入りの際の手荷物検査まで行っていた。だが! その警備を担当していた刑事が殺されてしまったのだ。確か……今回の事件の捜査を担当した、番刑事の兄という話だった。
――大河原さんも、慶二さんと親しかったんですか?
――む? ああ、確かそういう名前だったか。いや、面識はない。他のスタッフと親しくしていたとは、聞いていたが。
そうして、真理との会話も。
――大河原さんはあの刑事の方と話していましたから、そこで聞いたのかもしれませんね。葵と一緒に、何か話していたのを見たことがあります。
――ちなみに、どんな話をしていましたか?
――遠かったから、何を話しているかまでは分かりませんでした。けど、真剣に何か話していたようでしたよ。
番刑事が監視カメラに映ったこと。そして、葵と大河原と何かを話していたこと。それらを考えると、一つの仮説が浮かび上がる。
「……番刑事。もしかして、あなたは知っていたんじゃないですか。今回の発射台の入れ替えのことを」
「い、いきなり何を言い出すのだ!」
「真理さんから聞きました。葵と大河原さん、そしてあなたが事件前に何か真剣に話をしていたのを見たと。それに、おかしいんですよ。大河原さんは、番刑事のお兄さんの慶二さんに会ったことがないと言っていました。でも、大河原さんは慶二さんが番刑事のお兄さんと知っていたんです。大河原さんが考えた発射台の入れ替えは、とても大事な計画です。易々と部外者に漏らすとは思えない」
「そ、そうだぞ。なら、ジブンは知らなくて当然だ!」
「ええ。ですから……七年前の事件を引き合いに出したんじゃないですか? 例えばそう……”七年前、兄が犠牲になった。今度こそ犠牲は出したくないから、協力させてほしい”とか」
王泥喜の言葉に、番刑事の肩が飛び上がり、再び頭を抱え始める。
「大河原さんか葵に確認すれば、すぐに分かることです。本当のことを言った方が身のためですよ!」
「わ、わ、分かった! 本当のことを、証言しよう!」
番刑事が両手を挙げてそう告げる。
その様子を見ていた裁判長が、首を横に振って口を開いた。
「番刑事。隠し事は許されませんよ。正直に話すように。夕神検事も番刑事の証言で異論はありませんね?」
夕神検事は、軽く顎をしゃくった。どうやら、異論はないようだった。
番刑事が証言台に立つ。悲しげな顔をして、両手の人差し指をツンツンと突きあっている様子は、疑惑の人物だというのにいつもの調子と変わりないように見えた。
王泥喜は番刑事に向けて、問いを投げかける。
「番刑事。あなたは発射台の入れ替えを知っていたんですか?」
「正直に言おう! 弁護士くんの言う通りだ。ジブンは兄のような犠牲を出したくなかった。だから、何か考えがあるのなら聞きたいと確認したのだ。そして、発射台の入れ替えを知った。だが、ジブンは爆発などさせていないし、カプセルも盗んでいないのだ! 二人に協力していただけだぞ!」
「では、あなたは今回の事件には無関係だと?」
「もちろんだ! それに、見学スペースで発見された地球の飾りがついたライターにも、希月くんの指紋が残っていただろう? ジブンは犯人ではない! 悲しいが……やはり希月くんが犯人なのだ!」
――見つけた。
王泥喜は、締まった感覚を覚えた腕輪をさする。
王泥喜のその動作に、成歩堂が声を掛ける。
「オドロキくん、もしかして」
「はい。さっきの言葉に、俺の腕輪が反応しました。……番刑事は、何か大きな隠し事をしているはずです。オレの特技を使えば……」
そんな二人のやり取りに、検事席にいる肩に鷹を伴った男が、鷹と共にギロリと睨む。
先ほどの希月の時には、口を出してこなかったが、彼は王泥喜のこの特技を嫌っていた。
「泥の字。また、例のインチキを使おうってのかい?」
「夕神検事! これはインチキなんかじゃ……」
「ヘッ。分かってらァ。気に食わねェが、状況が状況だ。とっとと済ませちまいなァ」
今まで、法廷で王泥喜の特技を使おうとすると、”インチキ”だとして夕神検事の鷹から妨害を受けていた。
だが、今回は特例らしい。
「だそうだよ。それじゃ……オドロキくん!」
「はい! 番刑事、今の発言……もう一度確認させてください!」
「ジブンは嘘など……だが、いいだろう! ジブンは嘘をつかないッ、何度でも聞くといい!」
嘘をつかない。とはまた大胆な嘘だ。つい先ほど、監視カメラのことを黙っていた人物とは思えない。
王泥喜は視界に集中する。番刑事は宣言通り、また先ほどの証言を語り出した。
そしてすぐに――王泥喜はその嘘の動きを見破った。
「番刑事。あなた自身、自覚はないかもしれませんが、”地球の飾り”と口にするとき、左の親指が動いているようですね。以前、あなたの嘘をこの特技で見抜いた時、動いていたのは右手の指でした。……その親指は、拳銃のホルスターを触っているんでしょうか?」
「べ、弁護士くん。君が何を言っているか、サッパリわからんぞ」
「何にせよ、そのライターと関係があるはずだ。調べさせてもらいますよ!」
「わ、わけのわからないことを! そんな勝手なマネが許されると……」
拳を震わせ、番刑事が怒りを露わにして拒絶する。それに、”黙りなァ!”という怒号が響いた。
「ヘッ! オッサンよォ。ここは黙ってしたがってもらうぜ。やましいことがねェなら、調べても構わねェはずだろう?」
夕神検事のその言葉が決定打だった。裁判長がその言葉を聞き入れ、弁護側のライターの調査許可を下した。
「これで、何か分かるかもしれません!」
「ああ、徹底的に調べよう!」
何か分かるかも――そうではなく、分かってほしい。そんな祈るような気持ちだった。
ナイフを知っていたこと、監視カメラの映像。希月を犯人と示すそれらの証拠は、また別の形が現れてきた。そしてこの、決定的な証拠の一つとされたライター。これも、何かあるのではないか。希月を犯人に仕立て上げた、大きな嘘が。
そうであればいい。そうであってほしい。そうして心から、希月心音を信じたい。
王泥喜と成歩堂が、実物のライターを手にする。
汚れのない、蓋のついた金属製の値が張りそうなオイルライターだ。そして、右手でライターを持ったときに、片面のみに描かれている地球の飾りが見える。番刑事は、この”地球の飾り”の証言をしたときに、動揺が現れていた。
「”地球の飾り”……何か変わったところはありませんか?」
「……ん? こ、これ! スイッチになってるみたいだ!」
成歩堂がライターの飾りを指で押し込むと、カチリと音がする。そして、ライターの部品がスライドし、形を変え始めた。
ライターの姿はあっという間に変わり、銀のケースがスライドする。蓋部分も合わせて持ち手のように変形した。そして、内部に格納されていた引き金が現れる。ライターのチムニー――火の出る箇所――はまるで、
「な、なんですか、これ……」
「持ち手があって、引き金があって。ま、まさかとは思うけど……」
弁護士たちの調査を、検事席で見ていた男が口を開いた。
「……どうやら間違いねェな。そいつァ……拳銃だ」
「な、な、な、なんですとぉおおおお!」
裁判長の仰天の声が法廷に響き、傍聴人がざわめき出す。
昨日の裁判で、証人として証言をした大河原。彼は、現場で十口径の拳銃を撃たれている。結果的に星成の酸素ボンベに当たったその極小の弾。
「どうやら、これが現場で撃たれた拳銃の正体だったようですね」
「なんということでしょう。まさか……拳銃だったとは」
裁判長は目を丸くして、拳銃に変化したライターを見つめている。
成歩堂が、確信を持った目で王泥喜を見た。
「つまり、番刑事が銃のホルスターを触ってたのは……」
「はい。地球の飾りについて話すとき、無意識に考えてしまったんでしょう。ライターの秘密について……。番刑事は、あの仕掛けを知っていたんです」
王泥喜は額に人差し指を当てながら、このライターが導き出す答えを探す。
「こんな仕掛けのある拳銃、まるで、スパイ道具じゃないですか。普通の人が手に入れられるとは思えません。そして……あなたは見学スペース通路から第二ラウンジを通っている。もし、希月さんが見学スペースに倒れていると知っていたら、気絶している希月さんにライターを握らせ、指紋をつけることが出来たのではありませんか」
そう、これが、唯一の解答。希月が犯人ではないとしたら、この証拠の中で、導き出される真実。
「……一つ、気になっていたことがあったんです。葵は星成さんに薬を服用させた。でも、葵も薬を盛られていた。一体、誰が? 発射台入れ替えの計画を知っている職員や大河原さんが、そんな危険なことをするはずがありません。しかし……番刑事! 計画を知っていた貴方なら、隙を見て葵に薬を盛ることもできたんじゃないですか!」
「う、うおおおおおおッ!」
王泥喜が人差し指と共に、導き出した真相を突きつける。
頭を整えた髪ごとぐちゃぐちゃと掻き回し、目を泳がせる番刑事は、しかし「じ、ジブンは、嘘など……」と呟いている。
それに、激しく机を叩く音が響く――夕神検事だった。
そう、彼はおそらく開廷前から知っていた。姉からの連絡で、改竄された監視カメラのデータに、番刑事が映っているのを。そして今、さらに大きな疑惑が番刑事に重なっている。
猛禽類を思わせる鋭い瞳が、番刑事を射抜く。
「俺とて信じたくはねェ……。テメェは、慶二さんの弟だ」
「ゆ、夕神くん……」
夕神検事は、目を怒りにたぎらせ、法廷を震えさせるほどに叫ぶ。
「だからこそ……本当のことを言え! テメェが、カプセルを奪ったのかッ!」
思わず息を呑む。そしてそれは、番刑事も同じだったようだ。
瞠目した後、髪の乱れた番刑事はガクリと肩を下げる。そして――、
「分かった、白状する……」
そう告げて、下を向いていた顔を上げた。
法廷中が注目する中、番刑事が口を開く。
「確かにジブンが、カプセルを盗んだのだ……。ですが、”番轟三”は無実なのです」
……言葉の意味が分からなかった。カプセルを盗んだ、つまり、今回の犯人だ。なのに、自分は無実だと?
思考が停滞して、言葉が出ない。その間にも、番刑事は口を開く。「なぜならば」と、言葉が続いた。番刑事が、胸元から、何かを取り出す。あれは――仮面?
「なぜならば――ワタクシは、潜入捜査官、写野変蔵(うつしのへんぞう)なるものなのですから!」
見落としそうなほど素早い動きで、番刑事が手にしていた仮面を被る。
その仮面は、顔全てを覆うほどの大きさだった。一面真っ黒に見えたそれが、突然光った。小さな光の集合が、何かの形を作り出す。それは――顔だ。いわゆる顔文字のような、ポンコたちロボットが画面に表情を表示しているような見た目。
丸い目のような光に、線一本で引かれたような簡易な口の表示。
整えていた髪が、先ほど番刑事がかき乱したせいで、パーマのようにグチャグチャになっている。それも相まって、仮面をつけた男は、まるで番刑事ではないように見えた。口調も違う、そして信じられないことに――声も番刑事とは違う声色になっていた。
「ど、どういうことですか……! だ、誰なんですか、あなたは!」
「先ほども名乗りましたが、潜入捜査官をしております。写野変蔵と申します」
「う、写野……? それに、せ、潜入捜査官……?」
理解が追いつかない。目の前の男は、一体誰なのか? 名乗っているが、これは本当の名前なのか?
いや、そもそも、番刑事は……。
混乱する王泥喜の耳に、机が破壊されそうなほど殴られた音が入ってくる。ハッとして視線を向けると、そこには机を叩き殴る夕神検事の姿があった。
「オッサンに変装してやがったのか……! テメェが亡霊か!」
「ヒェッ! そ、そうではありません! 誤解なのです!」
番刑事――写野変蔵と名乗った男が、怯えに飛び上がる。その反応と同期するように、仮面の表情が変わる。ライトの色が白から紫に変わり、丸く光っていた目が怯えたように斜めに欠け、口元は情けなくへの字に開いている。その仮面は、希月のモニ太のように、感情に合わせて表示が変更されるようだった。しかも、写野が喋るタイミングが口元が動いている。
しかし、誤解とは……?
”亡霊”。それは七年前に電話での脅迫を行い、慶二を殺し、そして今回の事件にも犯行予告をしてきたという、スパイ。
王泥喜も、番刑事がそうなのかと、ライターが拳銃に変わった後に疑い出した。だが、写野はそれを否定した。
「ワタクシは、亡霊に脅されていたのです!」
「脅されていた、だとォ?」
「そうです! ワタクシは潜入捜査官として、亡霊を追っていた! もちろん、番刑事とは別の姿で! しかし、亡霊に人質を取られて、番刑事に成りすまし、カプセルを盗むしかなかったのです! 希月心音殿に罪をなすり付けたのも、亡霊の指示!」
仮面のライトが変わる。青色になった上に、瞑った目から涙が流れる表示に変わった。
潜入捜査官……機密情報を得るために身分を隠し、内密に捜査を行う警察官のことだ。だが、逆に亡霊に人質を取られ、利用されていた。
――なんて、信じられるわけがない。
「そ、そんなデタラメを!」
「デタラメではありません! 亡霊は、ロケット打ち上げの妨害工作を目的としていました。打ち上げを好ましく思わない者が依頼したのでしょう。ワタクシは一年以上前から亡霊を追っていました。しかし、人質を取られてしまい、亡霊の指示に従うしかなかったのです! これも全て、人質を助けるため!」
泣いている仮面のモーションがさらに過激になる。滂沱の涙を流している仮面に、王泥喜は人差し指を突きつけた。
「人質って、一体誰が人質に取られたっていうんです!」
仮面の涙が、ピタリと消えた。人間では考えられぬ速度で表情が変わる。ライトの色は白くなり、目の部分が吊り上がるように少し欠けている。
そうして、男が喋り出す。
「決まっているではありませんか……。ワタクシが変装していた相手、番轟三殿です!」
番刑事が、人質に……?
いや、番刑事は、この男が変装していた姿で……。だが、変装の元になる、本物の番刑事がいるはず。確かに、本物の番刑事は……。
思いがけない人物の名前を出されて、一瞬言葉に詰まる。しかし、どうにかすぐに声を出した。
「ど、どうして番刑事が……というか、もしそうだったとしても、なぜ番刑事が人質に取られて、あなたが言うことを聞くんです!」
「ええ。確かにワタクシは彼の友人ではないですし、知り合いですらありません……」
「なら……!」
写野は、しかし、と王泥喜の言葉を遮った。
「彼は、番慶二殿の弟殿なのです。ワタクシは、慶二殿に命を救われたことがある。彼の弟殿を見殺しになど出来なかったのです! 彼が生きていたら、きっと、どんな手を使ってでも、弟殿を助けようとするでしょうから……!」
仮面が、再び滂沱の涙を流し始める。
番慶二――まさか、その名前が出てくるとは。七年前に死んだ刑事、番刑事の兄。
彼に命を助けられたから、その弟を見殺しにできなかった……。それは本当なのか?
「そんな、番刑事が……!」
「……慶二さん」
希月と夕神検事の声が聞こえる。小さな、苦しげな声。
法廷がざわつき、不穏な空気に包まれる。誰も、写野に追求しようとしない。
検事席も、被告人も、そして、弁護士席も。
王泥喜は、横にいる成歩堂を見た。そこには、写野を強烈に睨み付け、歯を食いしばっている姿があった。
成歩堂side
今まで番刑事として振る舞っていた人物は、写野変蔵という男が成り代わっていた姿だった。
その事実が判明し、さらには写野は、自身が潜入捜査官であり、亡霊に人質を取られて操られていると弁明した。しかも、その人質は――番慶二の弟の番轟三だという。
法廷は突然の正否の分からない告白に混乱し、誰も何も発しない時間が過ぎた。しばらくしても、異様な雰囲気は変わらず――事実を確認する時間が必要だとし、裁判長が一時休廷を告げることとなった。
第四被告人控室に集まった成歩堂と、王泥喜。そして被告人の希月。
希月は体を抱きしめるようにして暗い顔をしており、王泥喜は困惑した表情をしている。
「ナルホドさん。あの写野という男の発言、本当なんでしょうか……」
「……番刑事が”ここにいない”というのは確かだけど、どこまで真実なのか」
番刑事だと思っていた人物が、彼ではなかった。少なくとも、この法廷に番刑事はいない。
だからといって、宇宙センターでのカプセル盗難を自白し、心音に罪を着せようとした男の言い分をどこまで信じていいものか。
眉を寄せた王泥喜が、少し言いづらそうに口を開いた。
「でも、番刑事が人質に取られていたとして、オレたちには何もできませんよね……」
正論だった。今、弁護士である成歩堂たちに出来るのは、希月の弁護と、写野への追求だけ。
番刑事の身の安全の確認は、弁護士が何かできるところではない。
「そんな、どうしよう、番刑事に何かあったら……慶二さんと約束したのに……!」
「ココネちゃん、落ち着いて。大丈夫、ボクに考えがあるから」
「考え、ですか?」
不安げな瞳で見上げられ、成歩堂は頷いた。
数秒も経たないうちに、控室がノックされる。
現れたのは、御剣だった。ウェストコートを靡かせ、足早に成歩堂へ近づく。
「御剣」
「”力が必要になる”とは、まさかこの事だったのか?」
「まさか。ボクもこんなことになるとは予想外だった」
眉間に深く皺を刻んだ御剣が、疑わしそうな目で成歩堂を見る。
だが、成歩堂にとっても本当に予想外だった。
「私はこれから、番刑事の捜索を行う。彼を保護できれば、あの写野の証言が虚実か真実か分かるだろう」
「頼むよ。何かわかったら、すぐ電話で知らせてくれ」
「ああ。……出来るだけ、長引かせろ」
「分かった」
話を手短に終え、御剣が踵を返して去っていく。
その背中に、希月が声を上げた。
「お願いします! 番刑事を……」
「分かっている。君は自分の心配をしたまえ」
小さく振り返り、それだけ告げると、御剣は扉の奥へと消えていった。
それと入れ替わるように、小さな影が扉から入ってくる。特徴的な霊媒服を着た、髪を頭の上で髪を八の字型に結んでいる少女。
「なるほどくん! 一体、何が起こっているのですか?」
「春美ちゃん。わざわざ来てくれたんだね」
「はい。ですが、本当によく分からなくて……あの刑事さんは、偽物だったのですか? あの方が、全ての犯人なのですか?」
「偽物なのはそうだけど……全ての犯人だと、ありがたかったんだけどね」
傍聴席で聞いているだけでは、混乱もするだろう。突然別人を名乗る刑事、”亡霊”に人質を取られていたと主張する意味不明さ。
だが、ずっと混乱もしていられない。
爪を噛みながら考え込んでいた春美だったが、ふと心音の方を見て声を上げる。
「心音さん! 顔色がとても悪いです。いったん座ってください!」
「は、ハルミちゃん……」
「ココネちゃん、春美ちゃんのいう通りだよ。ちょっと椅子で休んだ方がいい」
「はい……」
心音が春美に連れられ、控室の椅子の方へと移動する。
彼女らが離れたところで、王泥喜が成歩堂に尋ねた。
「見つかるでしょうか。写野変蔵が”亡霊”だった場合、人質なんて……」
「……正直、見つからない可能性の方が高いと思う。けど、希望は捨てるべきじゃない」
見つからない――つまり、すでに、彼の兄と同じ運命を辿っているかもしれない。
意識しないと、顔が強張ってしまいそうだった。
王泥喜は成歩堂の言葉に頷きつつも、眉を寄せて、困惑した面持ちだ。本当に心底、当惑した瞳。
「写野は、慶二さんに恩があるからと、犯罪者である亡霊に従っていたと言っていました。命を救われたからと。もしそれが本当だったとして……けれど、彼はもう亡くなっています。……番慶二さんという人は、そんなにも慕われるような人なんですか」
そうして発せられた言葉に、成歩堂は少し黙った。
七年前で止まった、彼との記憶が頭を駆け巡る。短いような、長いような日々だった。目まぐるしい日々の中。番慶二という男は、建物に絡みつく蔦のように日常に侵食して、枯れた今でもその存在を残し続けている。
それは、なぜか。
「ああ。まるで、麻薬のような人だったよ」
夕神side
まさかこんなことになろうとは。それが夕神の心境だった。
監視カメラの解析を姉のかぐやに頼み、出てきた結果を先に聞いた。当初は動揺した。あの番轟三が――慶二の弟が、今回の犯行を行ったかもしれないなどと。刑事であり、かつての相棒の弟である番は、夕神の中で犯人の疑いなど持っていない相手だった。そんな男が……信頼していた男が、改竄された記録の中にいる。
何かの間違いではないかとかぐやに確認もした。だが、現実は揺るがない。だからこそ、夕神は前へ進むことを決めた。希月心音は犯人ではない。それだけは、夕神の中で固い真実だったからだ。
何か、俺を納得させる理由がありゃァいい――そう、出来もしない願いを持って挑んだ法廷で、全てがひっくり返された。
新たな資料を持って、検事席へと立つ。休憩が終わり、再び審理が開始される時間だった。
だが、法廷の雰囲気はいつもと違う。法廷にいる人々の視線が、ただ一人に注がれている。それは、夕神の視線も同じだった。
「それでは、審理を再開します。……が、あなたはお面を取らないのですか?」
「神聖な場で御無礼を申し訳ない。ですが、これでも潜入捜査官としての仕事のうちですので……」
「ふむ……。そもそも、潜入捜査官というのは、本当なのですかな?」
視線を注がれる男――写野変蔵。番刑事の変装をして、ずっと法廷に立っていた。いや、おそらく随分と以前から、成りすましていた。
裁判長が苦言を呈すように、証人席に立つ写野変蔵は、仮面をつけたままだ。
顔全てを覆う黒い仮面。電光掲示板のように小さな点のライトで、簡易的な情けない面が表示されている。
最もな裁判長の疑問に、夕神が手に持った資料に目を落としながら口を開く。
「急ぎで調べさせた。……確かに、写野変蔵という男は、潜入捜査官の一人として存在はしている」
「では、本当に潜入捜査官なのですか!」
「さァな。そういう役職の奴は、職業柄、そもそも情報が少ねェ。俺の権限で調べられたのは、潜入捜査官として、写野変蔵の名前があるってェことと――”亡霊”の調査に、写野変蔵が加わっていた、ってことぐらいだなァ」
「な、なんですと! では、証言していたことは本当だった、ということですか」
良くも悪くも素直な裁判長が、目を丸くしてそんなことを言う。
それに、声を上げたのは弁護士席の、青いスーツに尖った頭が特徴的な弁護士だった。
「写野変蔵という潜入捜査官の情報を知っているだけの、亡霊の可能性も十分にあります」
「な、なんと恐ろしいことを言うのですか! ワタクシは脅されていた善良な潜入捜査官です!」
訳のわからない返しをする男に、目の下がピクピクと震える。
肩にいる鷹――ギンがその異変に気づいて、心配げに視線を寄越した。
「じゃあ、亡霊の正体は誰だって言うんだ?」
「それが、分からないのです。カレは決して正体を表しませんから……。亡霊は様々な企業や国家の最高機密情報を握っています。だから、常に多くの組織に命を狙われているのです」
つまり、実際に会ったことはない。そう主張したいらしい。
だが、写野が言う亡霊の情報は、間違ってはいなかった。名の知れたスパイだからこそ、持っている情報は重要なものばかりだ。その腕を買うものも多ければ、同時に抹殺したいものも多い。それをずっと掻い潜り、活動を続けてきた。それが亡霊だ。だが……そもそも、亡霊の仕業であると断定できる事件も少ない。痕跡さえ残されなければ、亡霊が起こしたとさえ分からないのだ。ここ数年、亡霊が関わっている可能性のある事件は数多く報告されているが、実際に関わっていると断定できる事件は、七年前の宇宙センター妨害事件以降はないのが現状だ。
それほど、情報を消すことを徹底している。それが命の危険に繋がるからだ。
写野は頭に手を置いて、ふらふらと体を揺らす。
「もしも、ワタクシが亡霊などと誤解されてしまったら、外を出た瞬間に殺されてしまいます!」
仮面の電気信号で作られた顔が、色鮮やかなほど青ざめる。
その仮面を真っ二つにしてやりたいと思いながら、夕神は問う。
「なら、亡霊は現場にいなかったのか? 全て指示されて、テメェがやったと?」
カプセルの盗難だけではない。ロケットの爆破も、葵へ薬を服用させたのも。全てこいつがやったことなのか。
写野の青くなっていた顔が、黒く戻る。そして、目の丸い表現が斜めに削れる。眉を下げているような顔に見えた。
「もちろんです。ワタクシが、全て行いました。……おかしなことです。ワタクシは大変なことをしでかすのに、あの恐ろしい悪魔のような亡霊がそばにいないことの方に、安堵していました。それほど、あの亡霊は恐ろしかった……」
白色だったライトの色が、紫色に変化する。おそらく、怯えている……と言う表情なのだろう。
随分、仮面のくせに表情が豊かだと夕神は思ったが……。
しかし、どうやらそれは違ったらしい。
「ちょっと待ってください」
少女の声が響く。それは、被告人席からだった。
容疑者として罪を着せられ、被告人席に立たされていた心音が、睨むように写野を見つめている。
「おかしいです。あなたは、安堵していると言っているのに、胸が凍るぐらい恐怖を抱いてる……」
言葉と感情の差異。しかも、その恐怖があまりにも強い。
写野の発言を考える。指示された計画を実行するときに、亡霊はいないと口にしていた。だからこそ、安堵していたと。だが、その感情が嘘だと言うのなら。
まさか。とは思う。しかし、この写野が言っている”亡霊は他にいる”と言う発言が、正しいという前提に立つならば……。
「本当は、来てたんじゃねェのか? 亡霊が、現場によォ……」
「そ、そんなわけはありません! ワタクシが全て一人でやったことです!」
仮面は丁寧に汗までライトで流しているように見せかけている。だが、その下から本物の汗が流れ出していた。
夕神は、この男が亡霊であると疑っていた。番が人質になっているという話も、嘘だと。無駄な期待を持つだけ無駄だ。慶二の弟という、あの人にとって唯一の兄弟が失われてしまったかも知れないという現実は、今は見ないようにしていた。
だが――だが、本当に番轟三は、生きているかもしれない。そして、亡霊は、写野とは別にいて、逃げおおせようとしている?
写野は腕を奇妙に動かしながら、早口にこう語る。
「それに、亡霊がいたなら、カレも監視カメラに写っているはずでしょう!」
写野の主張に、夕神は思わず舌を打った。その通りだったからだ。
もし、亡霊が現場にいたならば、必ず第二ラウンジの監視カメラに映る。第二ラウンジの監視カメラは天井方向へずれていたが、人が出入りをするために扉が開けば、確実にカメラに記録される。しかも、内部にはマイクも内蔵されている。そのため、もし番に化けた写野に隠れるように、亡霊が這いつくばって第二ラウンジに入っていたとしたら、その異音が入っているはずだ。しかし、写野が通った時の映像に、不審な音は入っていなかった。
亡霊がいたなら、監視カメラに写っているはず。その主張に、誰もが考え込んだ空白の時間に、写野が再び声を上げる。
「言ったでしょう。ワタクシは亡霊に指示を受けて、一人で計画を果たしたのです。犯人はワタクシ……そして、亡霊はやはり、闇の中……。これ以上の審議は必要ないでしょう? さぁ、裁判を終わらせるべきでしょう」
「……いいや。仮にそうだとしても、テメェが亡霊だと証明するだけだ」
「な、何をおっしゃるのです! ワタクシは亡霊ではないと言っているでしょう!」
仮面が文字通り青ざめる。夕神の言葉は本気だった。この事件で、必ず亡霊を捕まえる。それが、この事件が起こった時から、夕神が決意していることだった。このために、夕神は検事を続けてきたと言っても過言ではない。
七年前、無念の死を遂げた相棒の仇を取る。やるべきことをする。そのために突き進んできた。
しかし――僅かに冷静になった頭で考える。写野が、亡霊である可能性を。
夕神は、ただ一つ、しかし世界で唯一の亡霊につながる証拠を持っていた。だが、それがこの写野に当てはまるかと言えば、そうとは思えなかった。亡霊に関して胸が凍るほどの恐怖を溺れていたこの男には。
写野と夕神の会話を聞いていた成歩堂が、裁判長へと声をかける。
「裁判長。彼が亡霊であるにせよないにせよ、事件当時の行動を証言させるべきだと、弁護側は主張します」
「うむ。実際、どのように犯行を行ったのか。証言してもらう必要があるでしょう。弁護側の主張を認めます」
検事側としても願ったり叶ったりだった。事件当時の動きが明確になれば、写野の虚実も暴けるだろう。
写野は「分かりました。誠実に証言させていただきましょう」と馬鹿馬鹿しい前置きをし、証言を開始した。
「ワタクシは、一年以上前から亡霊に脅され、番刑事として活動していました。亡霊は、HAT-2号計画の阻止。そして探査機《みらい》のカプセルの奪取。更に、夕神検事の持っていた亡霊に関する書類の奪取が狙いだったそうです。ですから、ワタクシは夕神検事殿に近づいた……」
一年以上前から。とすると、夕神は本物の番轟三とは、会ったこともないことになる。夕神が番と出会ったのは、一年ほど前だった。
「そして事件前、大河原殿たちから発射台の入れ替えの計画を聞き出しました。亡霊に指示を受け、彼の用意した爆弾を職員に紛れ込み、設置。当日は、大河原殿たちの奇跡の生還に関しての最終確認をするふりをして、葵殿の飲み物に精神安定剤を混入させました。爆発後は、避難誘導をするふりをしながら、第一ラウンジに潜み、見学スペース通路からやってきた葵殿が倒れたのを確認し、カプセルを手に入れたのです」
写野の証言は、おおよそ予想通りだった。夕神に近づいたのが、夕神の持つ亡霊に関する書類の奪取が目的だった、というところも。
「それからは裁判でも出た通り。大河原殿がやってきて、顔を見られてはマズイとライターを銃に変えて撃ち、彼の意識を逸らしました。その後は、見学スペース通路に逃げ込み、発射台が入れ替わるのを待って、見学スペースからカプセルを持って脱出したのです。そしてカプセルは……亡霊に渡しました。もう、あのカプセルがどこにあるか、ワタクシも分からないのです……」
顔を表現するライトが、青く染まる。
写野は元からの主張を変えない証言をした。つまり、現場に亡霊はおらず、全て亡霊からの指示で自分が実行をした。という証言だ。
しかし、それに異を唱えるものがいた。
オレンジ色の髪の弁護士。顔色の治りきっていない彼女は、しかし強い眼光で写野を見る。
「写野さん。あなたは、嘘をついています」
「な、何を突然言い出すのです。ワタクシは何も嘘など、ついていません」
「いいえ、あなたの感情は、真実を隠していると訴えてます」
「か、感情……」
電気の汗を流す写野に、笑みを浮かべて語りかける。
「亡霊の疑惑をかけられて弱ってんだろう。月の字のカウンセリングを受けた方がいいぜ」
「な、何をいうのです!」
「ふむ……。夕神検事がそういうのなら、弁護人……ではなく、被告人。できますかな?」
「はい!」
心音は首にかけたモニ太を起動させ、空にモニターが映る。
「ぐ……感情など、何もおかしなところはありません!」
そう口にした写野が、再び先ほどの証言を口にする。だが――感情を隠すことなどできない。
心音が、とある証言で指を止めた。そして、写野へ問いかける。
「”発射台が入れ替わるのを待って、見学スペースからカプセルを持って脱出した”。そう証言するとき、あなたはこれ以上ないほど、驚いていますね」
「そ、それは……。わ、ワタクシは、高所恐怖症なのです。ですから、動き出した建物に驚いただけです!」
「でも、それなら恐怖を覚えているはずです。あなたは、ただひたすらに驚いています。この時、何かあったんじゃないですか!」
突きつけられた心音の指に、写野が「うぐ!」と声を上げてふらつく。
すると突然、プツンと仮面の電池が切れたように、画面が真っ黒になった。それと同時に、写野の体が、操り人形の糸が切れたようにダラリと項垂れる。何事かと動作を注視していれば、仮面が様々な色の線で覆われる。壊れたテレビのようなそれが、最後に一つの色で塗りつぶされた。
真っ赤なライトに染まった仮面が、怒りの表情を作り出す。
「ワタクシは、ワタクシは何にも驚いてなどおりませんッ! 針小棒大の指摘、勘違いも甚だしい! ワタクシが驚いていた? そんなもの、証拠はないでしょう!」
心音のモニターが、激しく点滅している。怒りの感情が暴走していた。図星をつかれた写野が、嘘がバレないようにするために怒り狂っている。
だが、怒りのままに発せられた主張は、ある意味では正論だった。証拠がなければ、この男が嘘をついていると認めさせることはできない。
しかし、証拠を探す前に、そもそも写野は何に驚いていたのか。
弁護士席で、燃えるような紅色のスーツを着た弁護士が首を捻りながら言う。
「発射台が入れ替わるのを待っていたっていうことは、写野は見学スペース通路にいたってことですよね。あそこに驚くようなものなんて、ありましたかね……。確か、調べた時は、枯れ葉ぐらいしか落ちていませんでしたけど」
「ああ。あの枯れ葉に驚くほど、さすがに小心者ではないだろうし……。けど、そう……例えば、その”何か驚くようなことがあって”、結果的に枯れ葉がそこに現れた、とか」
「どういうことですか? そんな、マジックじゃあるまいし、隠し通路なんてものはありませんでしたよ」
王泥喜の言葉に、成歩堂が何やら考え込んでいる。
そして、写野へ向かって口を開いた。
「写野さん。やはり、いたんじゃないですか」
「何がです!」
「”亡霊”、ですよ」
亡霊。再びその名が出てきた。だが――
「なッ……! だ、だからッ、いないと言っているでしょう! 話を聞いていましたか? 監視カメラに亡霊は映っていません!」
「そうですね。ですが、第二ラウンジ以外の逃げ道があったとしたら、どうでしょう?」
「だ、第二ラウンジ以外の逃げ道?」
「事件直後、発射台と見学スペースは入れ替えられていた。つまり、見学スペース通路は、レール上を動いていたということになる。その間、通路から通じる”第二の逃げ道”が生まれるんです!」
第二ラウンジ以外の逃げ道。確かに、それさえあれば、亡霊が第二ラウンジの監視カメラに映っていなくとも、その場にいたと説明ができる。
だが、そんなものが存在しているのか。
「成の字。一体、そりゃあどこにあるんだい。見学スペース通路から、第二ラウンジ以外の場所への逃走先は!」
「昨日、見学スペース側の通路の捜査中に、通路内に落ちていた枯葉を見つけました。この枯葉はどこから来たのか? それを考えれば、亡霊が使った逃げ道は見えてきます」
成歩堂は、宇宙センター全体が描かれた上面図を示した。
宇宙センターには円の形にレールが敷かれており、中央棟の周りを発射台と見学スペースが動く仕組みになっている。空から建物を見下ろしたような図だ。
ただの上面図だ。ここから導き出されるものは、もうないはずだ。
しかし、上面図を眺めながら――これまで、王泥喜や心音の裁判にて、検事として立っていた経験から、夕神は感じ取った。
この弁護士は、とんでもないことを発言しようとしている、と。
「見学スペースが移動している最中、発射台通路の安全扉の先に……亡霊が逃走できる、第二の場所が出現するのです。つまり、亡霊の逃走先とは――”宇宙センターの外”だったのです!」
「なッ!」
「なん、だと?」
「なんですとおおおおお!」
指を突きつけ、真剣な顔で発せられた言葉――しかし、それは……あまりにも無謀すぎる。法廷内が大きくざわつく。あり得ない、という方向でだ。
無謀な弁護士に、隣にいた王泥喜が声を張り上げる。
「けど、成歩堂さん。あの通路は三階にあるんですよ! 宇宙センターの外壁に、飛びついたっていうんですか? 落ちて死にますよ!」
「確かに、普通に飛びついたら、落ちて死んでしまうだろうね。でも、あの事件の時だけは、あるものを利用して飛びつけたんだ」
成歩堂が証言台の写野を見る。そこには、仮面が覆われるほど汗の表示が浮かぶ男がいた。
「避難用の梯子、ですよ。宇宙センター中央棟四階のロボット研究室には、避難梯子があったんです。そしてあの日、爆破事件があり、梯子が降ろされていた。実際、カグヤさんは梯子を使って、地上まで避難しています。発射台の移動は、まさに梯子が下された後に行われました。すると、発射台が移動している最中、梯子の前を通路が通過します」
成歩堂が淡々と推理を告げる。だが、あまりにも、荒唐無稽だ。荒唐無稽だが……。
「犯人はまさに、見学スペースと梯子がすれ違う、その瞬間……! 梯子に向かって飛び移ったのです!」
突きつけられた指先が、写野を射抜く。ぐらりとよろけた写野の仮面が、青い汗のライトで埋め尽くされていく。
どうにか見えている目元の黒い部分は、これ以上ないほどに下がり眉のように欠けていた。
「あ、あ、あ、ありえません! わ、ワタクシは見ました。見学スペースの移動中、通路から中央棟までの距離は、六メートルほどもあるのですよ!」
「ろ、六メートル? そんなにあるんですか?」
「ええ! それに加えて、通路は地上三階! 高さは十五メートル以上あるのです! 避難梯子は途中で固定されていない、とても不安定なものです!」
「うっ」
「そんなもの、普通の人間では、恐ろしくて絶対に飛び移れなどしません! 潜入捜査官のワタクシでさえ、恐怖で足がすくみあがるほどの奈落です!」
写野の主張に、先ほどまではあんなに胸を張っていた成歩堂は、肩をどんどん落としていく。
鋭いのか、考えなしなのかよく分からない弁護士である。
写野の主張は、正しい。普通の人間なら、六メートルも距離があり、失敗すれば死ぬような走り幅跳びをする命知らずはいない。しかも、普通にジャンプするだけでは到底足りない。助走をつけ、移動している通路から避難梯子へ飛び移らなければならない。僅かなミスで死に至る。
その手段を実行するよりも、見学スペースに隠れておく方が現実味がある。
爆発後の混乱が解かれ、人々が戻ってきた後に見学スペースから出て来ればいい。見学スペースは事件当初は無関係な場所だと思われていた。人が戻ってきた時に、その中に紛れて出て来れば、不審にも思われないだろう。かなり長い時間を待たなければならないが、死の可能性が隣り合わせの逃走ルートよりもよほど現実的だ。
「確かに、人間は、誰でも恐怖の感情を持っています。それがない人間なんて……人間じゃありません……」
心音が被告人席で、そう呟く。
そうだ。それを成し遂げたのは、人間じゃない。
「検事側は、第二のルートが使われた可能性を示すことができる」
「ゆ、夕神検事?」
成歩堂がひっくりがえった声を上げる。もっと堂々としていればいい。これを示せるのは、他でもない、第二のルートを示した弁護士のお陰なのだから。
夕神は肌身離さず所持していた資料を懐から取り出す。
亡霊――七年前。番慶二を殺し、月の石を盗み姿を消した犯人。伝説級のスパイ、出自も容姿も、何もかもが一切不明。ついたあだ名は《亡霊》。七年前から、夕神は警察と共に亡霊を追い続けてきた。そして、奇跡的に尻尾を掴んだ。亡霊の声の録音テープ。劣化しており、声紋鑑定は不可能だった。しかし、希月教授に心理分析を依頼し、結果が報告された。それは、警察関係者にも見せたことはない。亡霊は、警察内部に潜んでいる可能性もある。亡霊に、資料を渡すわけにはいかなかった。夕神は、一人で亡霊を追い続けてきた。
スパイは、自分の正体がバレることを最も恐れる。七年前に、亡霊がロボット研究室に現れたのは、この資料を探すためだったのだろう。だが、その亡霊を発見した慶二は殺されてしまった。
亡霊の情報を持っている夕神の前に、亡霊は必ず現れるはず。そのために、夕神は検事席に立ち続けた。
「ここに、亡霊の声の録音テープの心理分析結果がある」
「そ、そんなものが?」
「ああ。師匠に依頼して、分析をしてもらったものさァ。亡霊に盗まれないよう、ずっと手元に置いていたのさ」
目を瞬かせる成歩堂に、資料を見ながら、書かれている内容を告げる。
「そして、ここには――こう書かれてんだ。”心理分析結果報告:当該の声から計測される感情情報は、平均に比して極端に微弱である。ほとんど感情の変化のない、特殊な心理構造を持つ人物だと推測される。”」
「感情の変化が、ない?」
「感情のないスパイ、”亡霊”。怒りも悲しみも……恐怖すらもねェ」
成歩堂が瞠目する。その口から、こぼれるように言葉が出た。
「”恐怖”という足枷がなければ……普通の人が恐怖で躊躇うことも、迷うことなく実行できる……」
「亡霊に、通常の人間の感情や思考回路なんて、通用しねェ。地上でするのと同じさァ。何の恐怖もなく、当たり前のように、地上十五メートル、幅六メートルを飛ぶ、頭の狂った逃走方法を、ヤツは迷いなく選択する!」
第二ラウンジで逃げるよりも最短で人目につかず、宇宙センターの外へ逃げ出すことができるルート。
恐怖という感情のない人間ならば、絶対にそのルートを選ぶ。
写野の体がぐらぐらと揺れた。そうして、仮面を手で押さえると、そこからプスプスと何かが燃えるような異音がしてくる。
「ぐ、ぐ、ぐッ、ううううううッ!」
ブツン! と音を立てて、仮面のライトが全て消える。仮面からは、黒い煙が漂い始めた。
「しょ、証人? 壊れてしまったのですか?」
裁判長が恐る恐る問いかけた。
すると、仮面のライトが不規則に点灯する。そして、青いライトで丸い目と真っ直ぐ横に伸びた口を現す線が現れた。
しかし、何か喋り出そうとはしない。ただ、棒立ちで証言台に立っている。その姿に、成歩堂が語りかけた。
「……あなたは四階のロボット研究室から、避難梯子を降ろさせた。これは、亡霊の逃走経路確保のためだったのですね」
「――を」
「え?」
「黙秘を、いたします」
写野はそう、手短に告げた。
目が見開かれる。肺に息が吸い込まれる、自分の頭から、血管が切れるような音がした。
「テメェ! 亡霊を庇ってやがんのかァ!」
写野の青いライトが作る目から、何かが流れ始める。それは、涙を表現していた。
「ワタクシは、ワタクシは、できないのです! 轟三殿を見捨てることなど! できません!」
ここまで、ここまで来たのだ。ずっと秘めてきた亡霊の心理分析結果も出した。夕神に残っているものはない。
ただ、かつての相棒との言葉を果たすために。
それを、その相棒の弟の名を持って口を閉じるなど、頭の血管が千切れそうだった。
亡霊を逃すぐらいだったら、今ここで無理矢理にでも吐かせてやる。
右手を左の脇腹あたりに添え、身を屈める。
「夕神検事、落ち着いて――」
成歩堂がそう口にした時――それに被せるように、電子音が流れた。
リズムが取られ、賑やかなそれは、夕神を止めようとしていた成歩堂から流れ聞こえる。
確かこれは――何か、子供向け番組のオープニングテーマではなかったか。
成歩堂が、慌ててポケットから青い携帯電話を取り出す。
「御剣からだ! 何か進展があったのかもしれない」
「御剣……御剣検事局長か?」
「そうです。彼に番刑事の捜索をお願いしていたんですよ」
御剣検事局長に、一介の弁護士が捜索の依頼。 明らかにおかしな文字の羅列だったが、本当にそうなら重要な連絡になる。
成歩堂は電話に出ると、すぐにスピーカーに切り替えた。声が聞こえてくる。それは確かに、御剣検事局長の声だった。
『朗報だ。番刑事だが……』
「居場所が分かったのか?」
『いや……”見つかった”のだ』
「……み、見つかった?」
気の抜けた成歩堂の声。だが、夕神も心境は同じだった。
番刑事が人質になっていると写野が証言してから、まだ一時間ほどしか経っていない。捜索の時間も、それ以上にはならないだろう。だというのに、もう発見された?
『番刑事は、彼が公的に住居として登録していたアパートに監禁されていた。写野が番刑事の住居を拠点として使用していた可能性を考え、監禁場所が分かるものがないか、調査をしにきていたのだが……。部屋の一つに、外鍵が付いている部屋があり、その鍵を壊した先にいたのだ。体も無傷で、精神状態も問題ない』
「そ、そうかのか。でも、まさかそんな単純なところに……」
『信じられんなら、声を聞いてみるか』
「えっ、そんなに元気なのか」
『話しを聞くのが一番早いだろう。だが……覚悟をしておいた方がいい』
御剣検事局長の硬い声に、眉を顰める。
少しの間があり、そうして携帯から声が――
『ジャスティーーーース!!』
――クソどでかい、騒々しい声が聞こえてきた。
携帯のすぐそばにいた成歩堂と王泥喜が、耳を抑えて顔を歪ませている。離れた検事席でも顔を顰めるほどうるさいのだから、至近距離で聞いていたら鼓膜が破れそうだ。
その声は、明瞭快活にさらに言葉を紡ぐ。それは写野が変装していた番刑事と、そっくりそのままの声だった。
『正義の申し子、番轟三だ! どうやら心配をかけてしまっていたようだね! ジブンは無事だし、ピンピンしているぞ! すぐさまそちらへ向かおう!』
『……と、こういうことだ。今からそちらへ向かわせる。十五分ほどで着くだろう。私は引き続き、現場の調査を行う』
そう告げた御剣検事局長に、成歩堂が「……了解。また何か分かったら連絡してくれ」と告げて、電話を切る。
それから小さく「覚悟って、耳の覚悟かよ……」とブツクサ呟くのが聞こえた。
電話越しのジャスティスからずっと目を丸くしていた裁判長が、ようやく瞬きをして口を開く。
「ふむ……驚きましたが、どうやら番刑事は無事のようですね」
「ええ。しかも、かなり元気そうです。さて……これで、黙秘する理由は無くなりましたね。写野さん」
御剣検事局長からの連絡によって、法廷内でそれていた写野への視線が戻っていく。
写野は、仮面を緑色に光らせていた。笑っているような表示で、しかし涙を表現するライトが流れている。
「な、なんということでしょう。無事だったのですね……」
「……写野さんは、気づかなかったのですか? 番刑事がアパートに監禁されていることに」
「ええ。アパートに足を運ぶことはありましたが、それは亡霊から指示を受けるためでした。その指示も電話でのものでしたし、何よりアパートでは轟三殿の姿を見たこともなければ、声も聞いたことがありませんでしたから」
仮面の下から、涙なのか何なのか分からない汁が流れ出ている。
だが、監禁されているアパートに行って、全く気づかないなどということがあるだろうか。
写野は顎の汁を拭う。すると、仮面の涙の表示も消えた。
「轟三殿が保護されたのなら、もう黙っている必要はありません。証言を、させてくださいませ」
「……ああ。正直に話してもらおうかァ」
「夕神検事のいうとおり、亡霊は、その場にいました。第一ラウンジに隠れていたのです。もちろん、現場にワタクシもいました。亡霊は、一番大事な仕事を、ワタクシには任せませんでした」
貴重な研究材料の奪取。作戦の要を、脅しているだけの男に亡霊が任せるわけがないのは、考えてみれば当然だ。
「第一ラウンジは停電しており、亡霊がどんな姿をしているかは、ワタクシには分かりませんでした。脅しているだけのワタクシを、カレは信用などしていなかったのでしょう。亡霊は、葵殿たちが見学スペース通路からやってくると、カプセルを奪いました。葵殿が抵抗した時のために、ナイフを用意していたのだと思います。しかし、葵殿は薬の作用で倒れ、抵抗も出来ませんでした。ですから、葵殿の命は無事だったのでしょう」
緑色のライトが、少しだけ青色に染まる。それから、だんだんと紫色に。
「しかし、亡霊がカプセルを奪った後、第一ラウンジに大河原殿が入ってきました。そして、亡霊は十口径の銃を撃ちました。大河原殿が管理室に逃げ込んだ後、その銃……つまりライターをワタクシに渡しました。その後、見学スペース通路に亡霊とワタクシは逃げ込みました。そして、亡霊はカプセルを持ち……中央棟にかけられていた避難梯子に飛び移ったのです!」
仮面の色が、紫色と黄色で明滅する。声を荒げる写野に、机を強く叩いた。
「移動中の見学スペースは、外の光が入ってきていたはずだ! 亡霊の顔を、姿を見たんだろう!」
「見ましたが……。その時は、宇宙センターの制服姿。顔は、とても平凡で、どこにでもいそうな顔でした。見学スペースから第二ラウンジに脱出した後、ワタクシもその人物を調べました。ですが、実際にいる宇宙センターの職員で……。本人は、事件当時、地下シェルターに避難していました。おそらく、あれは変装のマスクをつけていたのでしょう」
「……クソッ!」
拳を強く握りしめる。脅して利用していただけならば、当然、本当の顔を見せるはずがない。
ここまできた。亡霊の背が見えてきた。それなのに、その先がスッパリと切り取られて何もない。奈落が広がっている。黒く塗りつぶされる。
「まだです。まだ、証言を聞いていない証人がいる」
有無を言わさぬ声だった。いつの間にか伏せられていた顔を上げると、弁護士席の青い弁護士が、曇りのない目でこちらを見ていた。
「そりゃあ、一体誰だってんだ」
「あなたの戦友。番刑事ですよ」
「……んだと?」
番刑事、だがそれは。
裁判長が、困惑しながら成歩堂へ問いかける。
「な、成歩堂くん。しかし、番刑事は彼が変装していた姿では……」
「そっちの番刑事ではありません。”本物の”番刑事に、ですよ。幸い、彼も今こちらに向かっている最中です」
「……あいつに何を喋らせるってんだ? 今までずっと監禁されてたんだぞ」
「それは――亡霊に、でしょう?」
番は、写野を脅すため、亡霊によって人質にされていた。つまり、亡霊が本物の番を監禁していた。
確かに、理論としてはその通りだ。だが、亡霊ともあろう者が、監禁している相手に情報を残すとも思えない。
しかし、希望はそれしかない。番轟三が、何か、亡霊の情報を、持っている。そう願うしか。
夕神は小さくため息をついた。まさか、今までずっと身代わりを見抜けなかった戦友が、最後の命綱になろうとは。
それでも、賭けるしかない。夕神は了承の意を口にしようとし――
「番轟三! 助けを求める声を聞き、見参!」
法廷の扉をうるさいぐらいに叩き開き、やってきた男に言葉を奪われた。
「助けを求める人々がいるのはここかね!」
「ば、ば、番、刑事……!」
「む? そう、ジブンは番轟三! ここで裁判が行われていると聞いてきたのだが、うむ、どうやら……合っているようだな!」
驚愕の声を上げた心音が、上がっていた肩を落とし、深い安堵の息をつく。
無防備に法廷を歩き、心音と会話をする男。そいつは法廷に置かれた、解除された爆弾が入っている鉄の箱を見て「む、邪魔だな!」などと呑気に口にしている。その顔は、写野が変装していた時と瓜二つだった。
太いはっきりした眉と、茶色の大きめの瞳。ブラウンの髪色は、肩より上で揃えられており、オールバックの髪型だ。
だが、それ以外は多くが違った。まず、色のついたサングラスをつけていないし、服装も白ではあるが、入院服のような薄い簡素なものだ。トップスには小さなチャック付きのポケットがついているぐらいで、他の装飾もない。
どうやら、監禁されていた場所から、服も着替えずにやってきたらしい。だが、にしては小綺麗だ。
「おめェさん、本当に本物なんだろうなァ」
「そういう君は……おお! その姿に喋り方! 夕神迅くんかな!」
「なッ、どうして俺のことを知ってんだ」
「なぜって、兄さんから聞いていたからさ。相棒だと聞いているぞ!」
その言葉に、思わず力が抜けそうになる。
聞いていた……。つまり、まだ慶二が生きていた頃に、慶二が番に話していたということだろう。
兄弟で仕事の話をするのは、別に問題はない。だが、まさか、自分のことを相棒だと言っていたとは。
「さあ! ジブンにできることはあるかね? と言っても、一年以上外に出ていないので、分からないことは多いのだが!」
快活にそう告げて、腰に手を当てて番は笑う。なんとも、清々しい男だ。一年以上監禁されていたとは思えない。
「……なら、監禁されていた時のことを、話してもらおうかねェ」
「うむ! 了解したぞ、迅くん!」
「じ、迅くんだァ?」
「ああ、兄さんがそう呼んでいたものでね!」
一応は初対面だというのに、堂々と下の名前で呼ぶ番に顔を顰めれば、サラリとそう言い返される。
慶二は、夕神のことを”迅くん”と呼んでいた。それは、当然覚えている。
弟に話す時にも、そんなふうに呼んでいたのか。と気恥ずかしさを覚える。しかし、同じように番にそう呼ばれるのは……。とは思ったが、写野が変装していた番刑事に呼ばれていたように”夕神くん”と呼ばれるのも、何か気に食わない。
夕神は一つ舌打ちをして、顎をしゃくった。
「よし! では、ジブンが今までどうしていたか、説明してあげよう!」
写野が緑色のライトを点滅させながら、証言台から下がる。そこに、当然のように番が入れ替わりで立った。
話を聞いていた弁護士席の赤スーツの弁護士が「初対面なのに、なんであんなに息があってるんだ……」と聞こえてきたが、無視をする。
「なんだかよく分かりませんが……。どうやら、必要そうなので、番刑事に証言をしてもらいましょう」
歴の長い裁判長は、突然の事態を受け入れて証言を許可した。
番は頷き、口を開き、そして、
「最初に言っておきたいのだが、ジブンは監禁ではなく、保護されていたのだよ」
はなから、意味のわからないことを言い出した。
「お、い……オッサン、テメェ、何言ってやがる……!」
「む。しかし、本当のことなのだ。ジブンは――」
番が胸を張る。自信の溢れる笑みを浮かべて、こう言った。
「ジブンは、兄さんに保護されていたのだよ!」
俺は、幻聴でも聞いてんのか。タチの悪い、幻聴を……。
そう、夕神が思ってしまうような証言だった。
「一年半ほど前、突然兄さんがジブンの前に現れたのだ! ジブンはすっかり死んでいると思っていたから、本当に驚いた! 兄さんは”死んだのは別の人物で、自分は隠れながら自分を殺した犯人を追っている”と説明してくれたのだ。”弟の轟三も危険な目に合うかもしれない”と、兄さんが用意した場所で過ごしてほしいと言われたのだ。最初は戸惑ったが、兄さんの言うことに間違いはないし、逆にジブンのせいで兄さんに迷惑をかけてはいけないと承諾したのだ。それから今まで、ずっと部屋の中で過ごしていたぞ!」
そう、番轟三は笑顔で語った。一点の曇りもなく、心底それが正しいと思っている表情で。
言葉を失っていた。何をどう口にしようとしても、吐き気の方が出てきそうだった。
青い顔をした成歩堂が、番に問いかける。
「い、一年以上も? おかしいとは思わなかったんですか?」
「うむ。最初は退屈だったが、兄さんが色々と工夫してくれてね。快適なほどだったぞ! それに、元々一年以上は避難させたいと言う話だったからね」
「いや、で、でも……慶二さんが迎えにきたと言っていましたが、本物なんですか?」
「当然本物だぞ! ジブンたちの幼い頃も知っていたし、何よりひと目見て、兄さんだと確信できた!」
成歩堂が投げかける質問に、番はハキハキと答えていく。
だが、それのなんとも心もとないことか。
番慶二は死んでいる。それは、誰よりも、肉親が知っていることではないのか。
「……現実を見やがれ。慶二さんは、とっくの昔に死んでんだろうが」
「むっ……ジブンもそう思っていた。だが……」
「同じ顔が目の前に現れたから、それが兄貴だってか? バカ言ってんじゃねェ、テメェは刑事だろうが。指紋は、DNAは! 姿形だけだったら、いくらでも似せられらァ!」
「そ、そんなことを言われてもだね……。ジブンは、すぐに連れて行かれてしまったし……」
つまり、指紋もDNAなどの調査もしていないと言うわけだ。
笑い話にしても笑えなさすぎる。随分、写野が変装した番刑事に振り回されてきたが、今はそれ以上、いや、経験してきた中でも最悪だった。
番は肩を落として両方の人差し指を突くという、見たことのある動作をしている。違うのはサングラスがないことと、服装が違うこと。手袋がないことぐらいだった。
成歩堂が、眉を顰めつつ言う。
「……残念ですが、あなたを部屋に閉じ込めたのは、慶二さんではありません。慶二さんに化けた、亡霊です」
「ぼ、亡霊?」
どうやら、御剣検事局長からその話は聞いていないようだ。
困惑する番をよそに、成歩堂の隣にいた王泥喜が、額に指を当てて考え込んでいる。そして、ハッとしたように顔を上げた。
「成歩堂さん、一人、話を聞きたい人がいるんです」
「話を?」
「番刑事の話から、ひとつ可能性が浮かんだんです。現場のことを、もう少し深く知れるかもしれません」
「その、話を聞きたい人って?」
「……俺の親友、葵大地です」
葵大地。それは、この事件の最初の容疑者。宇宙飛行士であり、発射台の入れ替えを知っていた男。星成に薬を服用させ、本人も知らずのうちに薬を飲まされていた。カプセルを第二ラウンジまで持ってきていたが、そこで力尽きたという話だった。
だが、この法廷には、葵大地は招集されていない。もし、いるとしたら傍聴席だろうが……。
王泥喜は傍聴席の方に顔を向けて、そして大きく口を開けた。
「いるんだろ! 葵! 出てきてくれ!!」
日頃から声がでかい若者だと夕神は思っていたが、これほどとは。と空気の振動が伝わってくるほどの大声に思う。
どうやら王泥喜は傍聴席に葵がいると踏んで叫んだようだが、来ているのか? と周囲を見渡す。
すると、一人の男が、傍聴席で立ち上がった。青いジャケット――大河原宇宙センターの制服だ――を着た、バイザーをつけた人物。
「来ていたのですね……。しかし、今になって、彼の証言は必要でしょうか?」
「……いいんじゃねェか。事件の現場の状況がわかるなら、それに越したことはねェ」
裁判長の困惑に、そう答える。
しかし、納得していない男が一人いた。
「む? どう言うことだろうか……。ジブンの証言は終わりだろうか? しかし、兄さんは生きて……」
「黙ってなァ。テメェはこの間に、事件の資料でも読んどきな」
「うわ! 紙を投げつけないでくれたまえ!」
簡素な服装の番に資料を押し付け、証言台にいては邪魔だと、一旦検事席へ押し込む。
不満を口にしつつ、言われた通り番は資料へ目を通し始めた。
亡霊の存在を知った時、どのような反応を番がするか……。少し不安ではあったが、教えない方が酷だ。
そうして夕神は腕を組み、葵が証言台に現れるのを待つ。どのような証言が待っているのか。長い前髪の下で、眉を顰めた。
王泥喜side
証言台にいた本物の番刑事が夕神検事に引っ張られ、検事席に押し込まれていた。どうやら、そこで資料を読ませているようだ。
写野は、係官に拘束され、裁判を見守っている。
そして、証言台へ、昔から見てきた姿が現れる。
「葵……。やっぱり来てたんだな」
「……まぁ、裁判の結果は気になるからな」
そう小さく笑みを浮かべる葵に、腕輪が反応する。
希月心音が犯人であるという証拠は、今や崩れ去り、計画を実行したという写野は自白している。そして、今、その影に亡霊という存在が浮かび上がってきていた。
希月は無罪だった。ナイフも、監視カメラも、ライターも希月心音が犯人だと証明はしない。
王泥喜の後輩は、絶対に無実だ。そう、確信できた。それは、成歩堂のお陰だった。
希月を、心から信じられるようになった。そして次は、自分の親友だ。
「お前から話を聞くとき、必ずと言っていいほど腕輪が反応した。宇宙センターの発射台の入れ替え、星成さんへ薬を盛ったこと。いろんな嘘が暴かれた。でも、それでも、お前はまだ嘘をついてる」
「……王泥喜」
最初から、葵と話すときは気が気ではなかった。言葉の節々で、腕輪が反応したからだ。何を信じればいいのか、分からなくなった。
本当のことを言ってくれと伝えても、葵は頑なに嘘をつき続けた。今では、発射台の入れ替え、薬のことなど、宇宙センターを守るため仕方がなく嘘をついていたと理解できる。だが、あのときは酷く悩んだ。心音のこともあり、ずっと眠れなかった。
だが、発射台の入れ替えや薬以外にも、葵の証言に腕輪は反応した。詳しく話を聞こうとしても、無罪判決後、葵は王泥喜から逃げ続けた。
親友の王泥喜から逃げてまで、言えないこと。言いたくないこと。それは、一体なんなのか。
「今、ようやく分かった。葵、ラウンジで会ったんだろ……亡霊に」
葵が息をのむ。目が歪み、王泥喜の言葉を引き留めるような瞳をしていた。
それでも、言わなければならない。
ずっと不思議だった。葵は、第一ラウンジにたどり着いた後から、言動がおかしかった。
カプセルの行方についても、記憶についても曖昧で、大河原の幻覚まで見たと言った。
だが、僅かに本当が混ざっていたのだ。
「亡霊、その人物は……慶二さんの姿をしていたんだろう」
その名に、法廷がざわついた。だが、反対に、葵は諦めたように目を伏せる。
「……その通りだよ」
葵side
七年前。葵大地は、まだ宇宙飛行士ではなかった。
夢へ向かって、勉強に励む、高校生でしかなかった。
宇宙飛行士は、葵にとっては生涯の夢だった。親友と共に、互いの夢へ向けて努力することを誓った。それは、葵がどれだけへこたれても、心を震わせて立ち上がらせる魔法だった。そうして、その魔法の土台に、バイザーがあった。
大河原宇宙センターに入り浸っていた葵は、とある日、宇宙センターの職員に許可をもらい、第一ラウンジにある宇宙飛行士用の訓練器具を使わせてもらえることになった。無重力の時にも、冷静にいられるように、と。見るからにきつそうな器具を選んだ。天井に設置されている、三百六十度動く椅子のことだ。
使い方を教わり、職員がいるときに乗せてもらった。だが、もうすぐに気持ち悪くなって、しばらく酸素カプセルで休憩することになってしまった。しばらく休むようにと言われ、職員は仕事に戻ってしまった。無重力で問題なく活動できる力は、宇宙飛行士にとっては必須だ。地上での訓練装置で根を上げていたら、宇宙になんていけない。
葵は気持ち悪さを押して、再び訓練器具に乗った。
しかし、そこで器具の遠心力に耐えきれず、頭につけていたバイザーが落ちた。
その瞬間に、血の気が一気に失せた。バイザーが床に落ちる瞬間も訓練器具の動きで見ることができず、ラウンジの光景が回る中で、胸が冷える感覚が全身に広がっていく。
振り回されている視界が、さらに歪んでいく。息が荒くなって、器具を掴んでいる手が震えた。力が入らなくなって、腕が放り出されそうになって。
「君、大丈夫かい?」
人の声がして、訓練器具の速度が落ちていく。徐々に回転が遅くなって、最終的にはピタリと止まった。
それから、椅子が地面へ向かって下ろされる。安全器具を外すのに葵が苦戦していれば、大きな手が安全器具を手際よく取っていった。
手が葵から離れていく。腕をたどるように見え上げると、そこには黒のトレンチコートを着た、顔の整った男がいた。
「立てるかな」
「だ、大丈夫です!」
手を差し伸べられて、葵は慌てて自力で立ち上がった。
が、途端に視線がぐにゃりと捻じ曲がり、ぐらりと体が地面へ向けて落下した。
そんな葵を、長い手が受け止めた。太くはないのに、思ったよりもガッシリ受け止められて、葵は歪む視界の中で驚いた。
「もうちょっと時間が必要そうだね」
「す、すみません……」
男は、葵を支えて、ラウンジにあった椅子に座らせてくれた。
机を杖にして、揺れが収まるのを待っていれば、男が声をかけてくる。
「これ、君のかな」
「……あ! そ、そうです。俺のです」
男の手には、バイザーが握られていた。通っている高校のマークが付けられている。
しかし、少し前と違うところがあった。バイザーのツバ部分が、小さく欠けている。
「バイザーが……」
「ああ、ちょっと欠けちゃったみたいだね。カケラ、一緒に探そうか?」
「い、いえ! 大丈夫です。古いものなので、多分、壊れやすかったんだと思います……」
三角に欠けた部分は、それほど大きくはない。ラウンジを見渡しても、黒いカケラは発見できなかった。どこかに入り込んだか、側溝に落ちてしまったのだろう。見つけ出す前に、宇宙センターのロボットたちに掃除されてしまいそうだった。
「えっと、訓練器具を止めて下さって、ありがとうございます。俺、葵大地って言います」
「訓練の邪魔をしたわけじゃなくて良かった。僕は番慶二っていうんだ。気軽に慶二って呼んでね」
「はぁ……えっと、慶二さんは、観光客の人……っていう感じじゃないですけど、関係者の人ですか?」
「うーん、一応、仕事は刑事をしてるよ。話したい人がいるから、時々ここに来てるんだ」
慶二と名乗った彼は、喋り方も面持ちも穏やかだったが、とてもスマートだった。それが、仕事のできる男、という感じがして、刑事という仕事も腑に落ちた。
「訓練の時も、それを付けてるんだね」
慶二の指が、それ――バイザーを指差す。先ほど欠けてしまったバイザーは、訓練前に脱いでおけば欠けもしなかっただろう。職員がいる時にも、バイザーは外すように言われた。けれど、どうしても付けていたいと言って、呆れさせていた。
葵はバイザーを触りながら、ボソリと言う。
「バイザーがないと、不安になってしまうんです。ロケットに乗る時には、取らないといけないのは、分かっているんですけど……」
このバイザーは、中学の頃に交通事故で他界した母からもらったものだった。
元々は、普通の学生帽だったのを、葵自ら改造した。ずっと使い続けたいと思ったから。母からもらったそれを、大事にしたくて。
バイザーをつけているときは、なんでも挑戦できた。母が見ていてくれているような気がして。けれど、逆にバイザーがないと、不安が胸に広がっていくようになったのはいつからだろうか。もしかすると、母が亡くなってからずっとそうだったかもしれない。
バイザーは大事なもので、母の形見だ。ずっと手放したくない。だが、同時にバイザーが宇宙飛行士という夢の障害になってしまう。
「いいんじゃないかな。バイザーをつけたまま乗っても」
「……え?」
そう、笑みを浮かべた顔で言われ、葵は呆けてしまった。
バイザーをつけたままなんて、聞いたことがない。安全性からしても、考えられないはずだ。
宇宙飛行士のこと、あんまり詳しくないのかな。と葵は説明しようとして、先に慶二が口を開いた。
「大地くんはまだ訓練生みたいだけど……ちゃんとスタッフの人には事情を説明したかい? 最初から全て否定するような人たちかな」
その言葉に、職員に指摘された時を思い出す。呆れた職員には、バイザーをつけている理由も、つけ続けたい理由も話していない。そんなことを話しても、迷惑になるだけだと思ったから。
けれど、バイザーをつけたままでも「気をつけるんだぞ」と言って乗せてくれる人だった。
「それは……どうなんでしょう。分かりません」
「一旦相談してみたらいいよ。それから考えればいい」
今まで考えたこともなかった選択肢を提示されて、葵は目を瞬かせる。
相談をする。聞いてくれるだろうか、という疑問は、すぐに掻き消える。話を聞いてくれない人など、ここにはいなかった。高校生で、宇宙飛行士になりたいと言って入り浸っている葵を、宇宙センターの職員たちは暖かく歓迎してくれる。現役の宇宙飛行士の星成は、葵を弟子にまでしてくれて「いつか一緒に宇宙へ行くぞ!」と応援してくれる。そんな人たちが、馬鹿馬鹿しいと一蹴はしないと思った。
「でも、葵くんはバイザーを外しても不安にならないようになりたいのかな」
サクリと、心の無防備な部分にメスを入れられたような感覚だった。
驚いて見上げると、慶二が首を傾げて葵を見ていた。
心配しているようでも、馬鹿にしているようでもない。ただ素直な疑問を尋ねている目に、戸惑いながら、口を開く。言葉が勝手に溢れるみたいだった。
「わ、分かりません……。バイザーは大事なものだし、ずっとつけたいと思ってます。けど、頼りすぎてもいけないんじゃないかって」
バイザーは大事なものだ。ずっと大切にしたい。母との思い出がここにはある。
けれど、夢に向かう中で、手放さなければいけないような事態が訪れたら……自分はやっていけるのか。
大事に思う気持ちと、大事に思いすぎてはいけないんじゃないかという気持ちがぶつかり合っていた。
「僕としてはすごく似合っているからいいと思うけど……。でも、そうだな、頼りすぎたくないっていうなら」
慶二は顎に手を置いて少し考えた後、穏やかに微笑みながらこう言った。
「君は”大丈夫”だよ」
それは、たくさん聞き、そしたくさん口にしてきた言葉だった。
大丈夫――それは、親友との合言葉だ。”葵大地は、大丈夫です”。そう、母が亡くなって一人泣いていた時に、励まされた。
魔法の言葉だった。大丈夫になれる気がした。その言葉を信じれば。
呆気にとられる葵に、慶二は続ける。
「君は強い。そしてたくさんの絆に恵まれている。その絆を信じれば、君は必ず宇宙へ行ける。たとえ、バイザーがなくてもね」
初めて会う人から、そんな言葉がかけられるなんて、葵は想像もしていなかった。
だが、その言葉はあまりにも的を得ていた。葵は本当に多くの人に支えられていた。母に支えられ、母を亡くし、親友を得て、宇宙センターで、多くの職員や、星成に頑張れと、葵ならできると励まされてきた。
彼らを信じれば、その絆を信じれば、宇宙へ行ける。行けないはずがないのだ。
ただ、自分を信じる気持ちが足りなかっただけ。それを、こんなところで気付かされるなんて。
「あ……ありがとう、ございます!」
冷たかった体に、いつの間にか熱さが戻っていた。頬が火照って、なんだか走り出したい気持ちだった。
そんな葵に、慶二が楽しそうに笑う。
「大地くん。これは予言だよ。君は絶対に宇宙に行ける。いや、行かせてみせるよ」
「え」
突拍子もないことを言われて、目が点になる。
慶二は腕を後ろに回して、葵を見た。黒いコートが揺れる。
「僕も刑事だからね。君に、何か危険が降りかかりそうになったら、絶対に駆けつけるよ」
不思議な人だな。と思った。
この世に、絶対ということは中々ない。それは、葵もよく分かっていた。
大事な人が絶対にそばに居続けるとは限らないし、夢が絶対に叶うとも限らない。
だからこそ、人はそのために努力し続ける。自分を、絆を信じて。
けれど、この人が”絶対”と言うと、本当にそんな気がした。
自信満々というわけではない。冗談めいているわけでもない。ただ、淡々と、穏やかに、そう宣言されたからだろうか。
でも、それがあまりにも頼りに思えて、逆に笑えてしまった。
「……あはは! なんか、すごく安心しました! あなたがいうなら、なんとかなりそうです!」
「うん、ぜひ頼りにしてくれ」
そう言って、二人で笑い合った。
不思議で、面白い人だなと思った。
その後、実は慶二が星成とも知り合いであることが分かって、出会うとよく話すようになった。
でも、一番印象に残っているのは、初対面の時の会話だった。
多分、宇宙へ行っても忘れないだろうと、葵は思う。
あれから七年が経った。あの言葉をくれた慶二は、出会ってから少しした後、事件に巻き込まれて亡くなったと、星成から聞いた。
葵は努力を続け、念願の宇宙飛行士になった。宇宙へ赴く、そんな日々の中で、大きな問題が起こった。
大河原から”爆破予告を受けた”と打ち明けられた。同時に、宇宙センターや職員を守るため、秘密裏に実行したい計画がある、と。
葵は迷ったが、誰かが死んでしまう可能性を許すことはできなかった。宇宙センターの職員たちは、大事な仲間だ。絶対に、誰も死なせたくなかった。
爆破予告があったことは、職員の大半には伏せられていた。本当は、一部にも伝えてはいけなかったのだと大河原は言った。だが、職員を守る計画を実行するため、協力者が必要だったと。星成には告げられなかった。話せば協力してくれるだろうが、部外者に嘘をつけないだろう。という大河原の意見に、心が痛みながらも同意した。
そして、計画実行間近。警察がやってきた。現場の監督をする刑事と名乗った。驚いたことに、彼は葵が七年前に親しくしていた、慶二の弟だという。そして、彼は七年前のような事態を繰り返したくない。と語った。
葵は、七年前、慶二が宇宙センターで”亡霊”と呼ばれる犯罪者に殺されたことを初めて知った。当時高校生であった葵は、彼が事件に巻き込まれて死んだとしか教えられていなかった。そして、彼の弟――番轟三刑事は、今回の犯人も同じ”亡霊”であると教えてくれた。
番刑事は、心から犠牲を出したくないと思っている様子だった。それに、大河原も葵もその言葉を信じ、計画を伝えた。
だが、それは偽りだった。大河原たちは裏切られ、葵は薬を盛られた。
しかし、裏切られたことさえ、裁判で番刑事が変装していた別人だったと知るまで、葵は気づかなかった。
そうして、ロケット発射当日。計画通り、見学スペースからカプセルを持って行った先――第一ラウンジで出会った人が、亡霊であったことも。
「俺は、第一ラウンジに入った時に、声をかけられたんだ。すぐに分かった……慶二さんの声だって。ラウンジは暗くて、顔は全然見えなかったけど、手に持っていたライターで、かろうじて相手がコートを着ているのが分かった。驚いたよ。亡霊に殺されたんじゃなかったのかって」
証言台でその時のことを語る。
弁護士席で、嘘をついていた葵を、それでも信じようとしてくれた親友を見つめながら。
慶二がいると思ったとき、本当に驚いた。けれど……けれど、同時に、葵はホッとした。
”約束通り、駆けつけてくれたんだ”と。
薬で思考が曖昧になっていたからかもしれない。それでも、そう思った。思ってしまった。
「慶二さんは俺に、“よくここまで頑張った、カプセルを渡してくれ“と言ったよ。安全な場所に持って行くと……」
手を伸ばされた。手には、《みらい》のカプセルがあった。宇宙センターみんなの、大事な成果だった。
それでも、いや、だからこそ、
「俺は、カプセルを、渡した。意識が朦朧としていたのもあった、けど……あの人に渡すことが、正解だと思ったんだ。この人なら、絶対に安全な場所に持って行ってくれるって」
そんなわけがないというのに。この世に絶対などはない。そうなるように、努力を重ねることしかできないはずなのに。信じてしまった。盲目的に。
「あの人はこうも言った。”僕のことは誰にも言ってはいけない。そうしたら、君たちを守れなくなる。でも”大丈夫”。君には力強い味方がついている。信頼して、任せれば、君は必ず宇宙へ行ける”って」
味方――それは、番刑事のことだと思った。計画を知っていて、外部で協力してくれる、慶二の弟。
だが、番刑事という人物が、そもそも偽りだった。全て、策略の内だった。
気づかないうちに、手がバイザーを掴んでいた。不安だった。いや、ずっと不安だった。だから、今日も傍聴席へ来た。
不安が頭を占める。ロケットが爆破されて宇宙へ行けなくなってしまったことも、師匠を騙して薬を盛ったことも、親友に嘘をつき続けていたことも、番刑事が偽物だったことも、暗闇の中で出会った慶二が、亡霊だったことも――その亡霊に、自らカプセルを渡してしまったかもしれないことも。
不安は現実になった。
バイザーを外し、胸に押しつける。擦り傷などが多くあり、年月を感じさせるバイザーは、ツバ部分が小さく欠けている。
「王泥喜、本当にすまない……。信じたかったんだ、俺も……慶二さんが生きてるって……。約束を、守りに来てくれたんだって……」
バイザーを握りしめる。王泥喜の顔を見る勇気がなかった。
「葵大地は大丈夫です!!」
それでも、そんな弱い心を打ち破る、鼓膜を震えさせる声。
伏せていた顔を上げる。そこには、真っ直ぐに葵を見据える瞳があった。
「王泥喜法介も、大丈夫! もう、大丈夫です!」
拳を握って、そう大声を出す王泥喜は、力強く笑った。
「葵、本当のこと、言ってくれてありがとうな」
「……王泥喜」
「俺たちは大丈夫! そうだろ?」
そうだ。王泥喜は、こういうやつだった。
声がデカくて、人のことを思いやれる優しいやつで、苦しい時に、元気づけてくれる、俺の親友。
王泥喜が大きく息を吸う。それに合わせて、空気を吸い込んだ。
この魔法の言葉が、ずっと支えてきてくれた。そしてきっと、これからも。
「「大丈夫です!!」」
王泥喜side
雲一つない空のような心地だった。
曇りは全て取れた。王泥喜に、もう迷いはなかった。
「法廷の照明が割れるかと思いました……。しかし、まさか第一ラウンジにいた亡霊が、慶二さんの姿をしていたとは……」
裁判長が力無く首を振る。照明に関しては、叫んだ時に何かがひび割れる音が聞こえたが、王泥喜は気のせいだと思うことにした。
新しく判明した事実。葵が第一ラウンジで出会った亡霊は、慶二の姿をしていた。
暗闇のため、顔を確認したわけではないが、声や特徴的なコートという服装は同じだったという。
「だが、写野は、亡霊は職員の制服を着ていたと言っていたなァ」
「夕神検事。ダストシュートについては、調べていますよね」
「ダストシュート……。くそ! そういうことか……!」
夕神検事が、腹立たしげに机を拳で叩く。
どうやら、夕神検事も思い至ったらしい。そして、王泥喜の想像は当たっていたようだ。
「……確かに、ダストシュートの中にコートがあった。色は黒じゃねェ、コートの形も慶二さんの物とはちげェが……暗闇で、ライターの明かりだけの中だったら、騙せるだろうぜ」
ダストシュートに何か証拠がないか、王泥喜も単独で行動している時に調べていた。
ゴミは、埃や一般的なゴミもあったが、金属の部品や衣類など、幅広くあった。そしてやはり、その衣類の中にコートがあった。
ライターのみが光源の暗闇で、コートの下に着ているものまでは目に入らない。人は、特徴的な部分が一致すれば、その人物だと思い込んでしまうものだ。今回は、声も本人のものに似せていたのだろうから尚更だ。
そして、葵が慶二の姿に化けた亡霊を見た、ということなら、一つの話に”理由”が生まれる。
王泥喜は、被告人席にいる希月へと視線を向ける。
「希月さん。見学スペースで、トラウマを思い出して倒れたって言っていたよね」
「え、は、はい。事件の前日に、見学スペースに行って……そうしたら、トラウマが蘇ってきて」
そう、希月は過去から前に進むために、見学スペースへ訪れた。
最初は問題なく資料を見ていたと言っていた。だが、唐突にトラウマが蘇った。
「そのキッカケって、なんだったのかな」
「それは……資料を見ていたら、突然、慶二さんの顔を思い出して……」
「俺も見学スペースは見たけど、あそこに慶二さんに直接結びつくようなものはないんじゃないかな」
「えっと、その通りです。だから、本当に突然で……」
「希月さん。忘れているだけで、何か、見たんじゃないか」
王泥喜の言葉に、希月が眉を傾げる。
希月は「何か……」と視線を横へ逸らす。記憶を探っているようだった。
そうして、目を見開いた。
「……そういえば、わたし、あの時、誰かに話しかけられて……」
希月の顔色から、どんどんと血の気が失せていく。震える両手で、頭を押さえる。
小さく開いた口から、悲鳴のような声が漏れる。
「そう、そうだ。優しい、懐かしい声が……ふ、振り向いたら……!」
真っ青な面持ちで、彼女はそう叫び――ガクンと糸が切れたように倒れ込んだ。