消えてしまった刑事さん   作:片岬(旧:片霧)

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番轟三の場合――番慶二との思い出について――

番轟三side

 

被告人席にいる少女――希月心音が意識を失って倒れる。轟三は思わず走り出しそうになり……隣にいた夕神が検事席を飛び出して駆け寄ったのを見て、動きを止めた。

彼女が意識を失ったのは一瞬だったらしく、夕神が助け起こすと、希月はなにか呟いていた。

弁護士席にいた赤いスーツの弁護士――王泥喜法介も駆け寄って、声をかけている。

ここにいる人々の名前を、轟三はようやく理解していた。資料は斜め読みだが、どうにか全て読み終えた。

夕神が用意していた資料には、二つの資料があった。今回、法廷で争われている事件と、七年前のUR-1号事件に関するもの。それらを読み、今の状況もなんとなく理解できた。

被告人は、倒れてしまった希月心音。弁護士をしている。当初の被告人を弁護していた中で、偽造された証拠などから被告人にされてしまった。

証言台に立って、倒れた希月を心配げに見つめている青年は、葵大地。最初の被告人で、先日無罪判決を受けた。

夕神と同じく駆け寄った王泥喜法介は、弁護士で、希月の弁護を行っている。

彼と同じ弁護士席に立っている青いスーツ、とんがり頭の男は成歩堂龍一。弁護士で、彼らの事務所の所長だ。

法廷の隅に控えている仮面の男は、写野変蔵。潜入捜査官だという。

顔に電子板の仮面をつけたような奇妙な姿をしており、黄色いライトで心配そうな漫画のキャラクターのような表情を表している。服装は、轟三の仕事着と全く同じ、白スーツに黒いガンホルダーを付け、白手袋をしていた。

写野は番轟三――つまり自分――に変装して一年以上過ごしていた。番轟三――つまり自分――を人質に亡霊に脅されて、言われるがままに、夕神の持つ、亡霊の心理鑑定資料の捜索と、HAT-2号ロケット爆破、カプセル奪取に協力していたという。

轟三が唯一顔を知っていたのは、裁判長席に座っている裁判長ぐらいだろうか。

そして……夕神迅。兄からも話を聞いたことがある。敏腕検事であり、兄の相棒だという。

 

これは、大河原宇宙センターで起こった、HAT-2号ロケット爆破と探査機《みらい》のカプセル盗難についての裁判だ。

数々の証拠品から有罪と見られていた希月は、検事側からの監視カメラの改ざんの証明と、弁護士側の弁護によって容疑者から外れた。そして、番刑事に変装していた写野が犯行に及んだと考えられた。しかし今は、現場に亡霊と呼ばれるスパイがいたとされ、その男が写野に協力させて、事件を起こしたとして、追求が行われている。

亡霊とは……七年前に兄、番慶二を殺し、数々の工作を各国で行ってきた、出自も国籍も不明のスパイだという。

この法廷では、その“亡霊”に一歩でも近づこうとしている。

 

希月が夕神の手を借りて、証言台に立つ。彼女が夕神と王泥喜に頭を下げた。二人は、弁護士席と検事席に戻っていく。

様子を見ていた裁判長が、希月に尋ねる。

 

「大丈夫ですかな? 一時休廷をとることも出来ますが……」

「いいえ。平気です。すみません、取り乱してしまって……。証言できます」

「ふむ、そうですか……。辛くなったらすぐに言うのですぞ」

「はい! ありがとうございます」

 

元気よく答えた希月だが、顔色はあまり良くない。空元気だと読み取れた。

それでも彼女は、殊勝に背筋を伸ばす。

 

「希月さん、ごめん。無理に思い出させてしまって……」

「何言ってるんですか! 大丈夫です。わたし、また蓋をしちゃってたんですね。記憶に……」

「記憶……じゃあ、やっぱり」

「はい。あの時、見学スペースにいたわたしの前に現れたのは……慶二さん、でした。でも、その慶二さんは、黒いコートを着てました。それに、顔も……慶二さんそのものでした」

 

王泥喜の言葉に、希月が目を伏せながら返す。

希月が見学スペースで出会った人物……。彼女がトラウマを思い出し、気絶してしまう理由となった者。

その人物は――番慶二の姿をしていたという。

証言台に立っていた葵が眉を寄せ、口を開く。

 

「黒コートに、慶二さんの顔……第一ラウンジで俺に声をかけてきた奴とは、別なのか?」

「……亡霊は変装の達人だ。慶二さんになりきることもできるだろうよ」

 

夕神が、苦々しくそう答える。

その後に続いた王泥喜も、夕神に賛成らしかった。

 

「希月さんが番慶二らしき人物と出会ったのは、事件の前日だ。前日なら犯人も時間に余裕がある。黒コートは捨てずに持ち去ったんじゃないかな」

 

事件前日は、誰かに見つかる場所に証拠を残すのではなく、持ち去った。

事件当日は、第一ラウンジのダストシュートに色違いのコートを捨てた。顔も慶二にはしていなかった。暗闇の第一ラウンジなら、葵を騙すのにそこまで完璧な変装を行う必要がなかったから。

そう、つまり――亡霊は、番慶二の姿を模倣していた。

轟三の脳裏に、成歩堂から告げられた言葉が響く。

 

 

“……残念ですが、あなたを部屋に閉じ込めたのは、慶二さんではありません。慶二さんに化けた、亡霊です”

 

 

胸に、小さな穴が空いて、冷たい風が通ったような感覚がした。

“やっぱり“――そうなのか?

あれは、兄さんなんかではなくて、偽りの、兄さんを模倣した、ただの別人だったのか。

 

今まで黙っていた仮面をつけた男――写野が、重々しく口を――液晶の口を開いた。

 

「轟三殿が、大人しく人質になっていたのは、これが理由だったのですね」

 

痛ましい、とでも言うような声だった。

鼓動が早くなる。目の前がグラグラとした。

気づけば、写野も、裁判長も、証人も、弁護士たちも検事も被告人も傍聴人らも、轟三を見ていた。

ここに来たのは、部屋に突入してきた御剣という検事から、自分も関わる裁判をしていると聞いたからだった。刑事としての自分を必要とされたと思い、全速力でやってきた。ここに、兄もいるかもしれないと思って。

 

「そんな、違うのだ。兄さんは、生きている……。死んでなどいないのだ!」

 

全ての目線が、哀れみを湛えている。

その中で、仮面の男が諭すように言う。

 

「人質になっていたあなたならいざ知らず。亡霊は冷徹で心などない……。あなたの兄は、七年前、亡霊に殺され、あなたを騙すために姿を使った……」

「なら、ならジブンはずっと兄さんの仇を、兄だと思っていたと言うのか!」

 

自分で口にした言葉が、自らの胸に大きな穴を開けた。胸が冷える、兄の顔が浮かんで消える。

写野が、ゆるりと首を振った。

 

「残念ながら……。ワタクシも変装には自信があります。ですが、スパイである亡霊は、それを凌駕する技術の持ち主……。過去を洗い、暴き、そしてその人物そのものになって、相手を騙し、操る……。そんな、悪魔のような人物なのです」

 

凍えるような風が、胸を吹き抜ける。体が冷えて、汗が吹き出す。

兄は偽物だった? 騙されていただけだった? 本物は、やはりあの七年前に死んでいたというのか。あの七年前に見た遺体が兄だったのか。

やはり兄さんは、ジブンなどには、会いに来てはくれないのか。

 

視界が暗くなっていく。

 

 

 

 

 

番轟三は公園が好きだった。

特に、街中にあるような小さな公園が好きだった。それを見ると、昔の楽しかった思い出を思い出すから。

 

轟三は刑事であった。そして兄の慶二もまた、刑事であった。

慶二は昔から本当に優秀で、轟三の自慢の兄だった。勉強は幼い頃からよくできて、学年ではいつもトップ。スピーチや数学の大会で何度も優勝をしていた。その傍ら、部活や習い事でも才能を発揮し、様々なスポーツや競技で優勝を勝ち取っていた。

轟三が輝かしいトロフィーやメダル、賞状を見てすごいすごいとはしゃぐと、慶二は嬉しそうに笑って、「じゃあ轟三にあげるよ」と渡してきた。

自分のものではないそれらをもらって嬉しいのかといえば、当然嬉しかった。キラキラ輝いていて格好良かったし、何より兄の努力の証だと思うと、見ていて誇らしかった。なので轟三はお気に入りのおもちゃと並べて大切にしていた。

そして、両親も慶二のトロフィーを家に飾りたがったので、リビングや玄関など、至るところに兄の功績が置かれていた。

 

「お兄ちゃん、今度は何するの?」

「今度はバトミントンをするんだ」

「やったことある! たくさん羽を叩いた方が強いやつだ!」

「あはは、うん。そんな感じのスポーツだよ」

 

このような会話を、兄弟でよく交わしていた。

そして、少しして次の会話を交わす。

 

「お兄ちゃんがまた一番になったー!」

「うん。頑張ってよかったよ。でも、ちょっと別のことしようかと思ってるんだ」

「へぇ! 次は何をやるの?」

「次はね――」

 

慶二は様々なことに興味を持つタイプだった。何かを始めるとものすごい勢いで吸収し、そして結果を残す。しかし長くは留まらず、惜しまれながら次の分野に移っていく。

両親は慶二のやりたいことを尊重していて、全力で応援していた。必要な教材や道具を買い与えて、遠くの会場への送り迎えも両親揃ってしていた。そしてそれは、轟三も同じだった。できる限り応援には行ったし、褒められる兄を見るのは特別好きだった。

なぜなら、轟三は兄が大好きだったから。

兄からかけられた言葉は、優しくて暖かくて、抱きしめたくなるようなものばかりだ。

 

「今日も一緒に遊ぼう」

「轟三、眠くなっちゃった?」

「おかえり、今日はどこで遊んできたの?」

「分からないところがあるの? どんな問題? 教えてあげる」

「へぇ、轟三が授業で作ったんだ。すごくかっこいいね」

「ちょっと顔赤い? 熱があるかもね。測ってみようか」

「おやつ、僕の分もあげる。お母さんには内緒ね」

「一等賞! すごいね。頑張ったんだね、轟三!」

「ケーキ作ったんだ。美味しくできてるといいんだけど……」

 

慶二は轟三に対してとことん優しかった。そして、父のように、母のように轟三に接してくれた。

というのも、父と母は忙しい人だった。父は仕事があったし、母は家事があった。そして何より、一般的な子供よりイベントごとの多い兄へ時間を割いていた。家族の会話もどうしても兄のことの方が多かった。轟三はその話を聞くのが好きだったが、慶二は気にしてくれたのか、轟三自身の話をよくしてくれていた。

そして忙しい両親に代わり、轟三とキャッチボールをして、サッカーをして、ゲームをして、話を聞いて、誕生日には大きなケーキを作ってくれた。

 

「轟三のお兄ちゃんになれて、すごく嬉しい」

 

そう言って抱きしめてくれた。

兄は、戦隊モノのヒーローを全部合体させたみたいに、なんでも出来て、凄く頭がいい。なのに同時に、ケーキとかどら焼きとかおまんじゅうみたいに、ふわふわとしていて甘かった。

 

轟三は兄が大好きだった。

けれど、兄の野球をする姿も大好きだった。

だから、一度だけ慶二に全力で反対したことがある。

 

キャッチボールをする時のフォームがとてもとても綺麗だった。誰に教わったわけでもないのに野球選手みたいだった。

そして兄は、野球の部活に中学の頃に入った。一年生ですぐにレギュラーになった兄を応援するため、野球場へ行った先、轟三は衝撃を受けた。

兄はピッチャーとバッターの二刀流だった。しかもそのどちらも、その場にいた誰よりも上手かった。その立ち振る舞いはまるでテレビに映るプロのようで、投げれば三振を取って、バットを握ればホームランを出す。

今までどんなことをしていても兄は格好良かったが、あまりにも抜きんでている。

野球こそ兄がやるべきことなのだ! 轟三は喜び勇んで野球をする兄を応援した。轟三の目には、将来プロ野球選手として大活躍する兄の姿が見えていた。

 

「やめる……?」

「うん。野球はもういいかなって」

「や……やだ」

「え?」

「お兄ちゃんが野球やめるの、やだ!」

 

慶二の所属するチームがとある大会で優勝した後、慶二は野球を辞めると言った。

轟三はそれはもうダダをこねた。泣いて兄に、「辞めないで! すごく格好良いのに!」と頼み込んだ。

轟三がこんなにダダをこねるのは初めてのことで、両親も困惑していた。ダダをこねられた兄は、「そうだよね。もったいないよね」と言ってくれた。轟三は安堵した。優しい兄は自分の言うことを聞き入れてくれたのだと。

 

しかし、宣言通り慶二は野球を辞めた。強豪チームからの誘いも、選ばれた地区の強化訓練も断り、部活さえも辞めた。

轟三は拗ねたし泣いた。自分の言葉に理解を示してくれていたから、てっきり願いを引き入れてくれたと思っていた。それに、自分に優しい兄のことだから、これだけ轟三が嫌だと言えば聞き入れてくれるだろうという想いもあった。それらを全て裏切られたことは、轟三にとってショックが大きすぎた。

母が、「お兄ちゃんがやりたいことはお兄ちゃんが決めるのよ」と言っても、轟三は飲み込めなかった。最終的に兄が、「他に興味のあるものを見つけてしまった」とか、「あのまま野球をするのは真剣にやっている子達に申し訳なかった」とか、辞めるに至った経緯を細かく噛み砕いて説明し、轟三に謝ったり、ご機嫌取りを丸一日中して、どうにか轟三は持ち直したのだった。

 

慶二は轟三にとても優しかった。お菓子は必ず轟三の方に多く渡してくれるし、勉強も学校の先生より分かりやすく教えてくれるし、親より世話を焼いてくれる。

しかし、「これ!」と決めたことに関しては、岩よりも頑固だった。

 

「僕、アメリカに留学したいんだ」

 

轟三が小学四年生の頃、そして慶二が中学三年生になったばかりの頃。

突然、彼はアメリカに留学したいと言い出した。海外でもっとたくさんのことを学びたいと言う。さすがに両親も反対した。あまりにも突然すぎたし、一人子供を海外へ見送るのは両親も嫌だったのだろう。しかし、慶二から、綿密な人生設計など――轟三には難しくてよくわからなかった――を聞かされた両親は、数日後には納得し、むしろ応援する立場となっていた。

 

そうして家族は慶二の留学に向けて動き出したが、轟三は全く現実味を感じられなかった。今まで合宿などで家を空けることはあっても、ずっと一緒にいた家族だ。そんな兄と会えなくなるなんて、想像がつかなかった。

「年末には帰ってくるよ」と父は言ったが、それ以外は兄がいないなんて信じられなかった。

 

それから兄は、部屋にこもりきりになって勉強づけの毎日を過ごすようになった。部活も習い事も全てやめ、学校から帰ってきたら夕食を持って部屋に入って姿を現さず、休日も外出することなく勉強していた。

当然、轟三も兄と会話せることが極端に減り、会話もなくなった。

 

遊び相手がいなくなった轟三だったのだが、兄のイベントごとから解放された両親が、轟三に構ってくれた。番家は定期的に家族で旅行などに行っていたが、そういうものにも慶二は参加しなくなった。

 

家族団欒の場にいないので、兄の話はあまり出なくなって、代わりに轟三に関する話題が増えた。

 

とある日、慶二が家に飾られていたトロフィーやメダル、賞状を片付け始めた。理由を聞くと、「いくつか留学先に持っていきたいから」と慶二は言った。飾られていたそれらは彼の手によって片付けられていって、ついに轟三の部屋にもやってきた。

 

「僕の荷物で部屋が狭いだろう? 片付けるよ」

 

そう笑って、慶二は轟三の部屋にある彼のトロフィーたちを片付け始めた。

 

本当は、轟三は家に飾られた慶二のトロフィーも、自分の部屋に飾っていたものも、そのままにしておきたかった。けれど、兄が持っていきたいのだからと、仕方なく見守っていた。それに、恐らく今の慶二に言っても、聞き入れては貰えないだろうとも思っていた。片付けをすることは、たぶん頑固な方の決め事だと轟三は分かっていた。

だから、轟三は一つ物を隠してしまった。どうしても持っていかれたくなくて、机の引き出しの中に入っている。

轟三の部屋から、すっかり慶二の物が片付けられてしまった後で、慶二は首を傾げて言った。

 

「野球の優秀選手賞がないなぁ」

 

轟三はビクリと肩を揺らした。そう、慶二は記憶力も抜群に良かった。慶二の視線が端で様子を見ていた轟三に移る。

 

「轟三、どこにあるか知ってる?」

「し、知らないぞ!」

 

そう返した轟三に、慶二は部屋をぐるりと見渡した後に机の引き出しで視線を止めた。轟三は変な汗が出てきた。

あれは轟三が最も気に入っている盾だった。ノートよりも小さいサイズで、野球選手が掘られていて、その鋭い眼光が慶二の目に似ていた。

慶二は轟三に視線を戻して、何も言わずに見ていた。兄の目は悩んでいるようでも呆れているようでもある。黒黒として轟三には何を考えているか分からなかった。

 

「そっか」

 

そう言って、慶二は轟三の部屋を去っていった。自分の功績が入った袋を持って。

扉が閉まった後に、轟三は慌てて引き出しの中を見た。盾はちゃんとそこにあった。

念の為、別の場所に隠して、毎日確認したが、ちゃんと盾はそこにあり続けた。

 

 

 

時間は過ぎ去って、季節は冬になっていた。その日、両親は旅行で家を開けていた。轟三も最初は行く手筈となっていたが、兄が行かないと聞いて家に残ることにした。

慶二は、もう少しで留学してしまう。できるだけ一緒にいたかった。しかし、当の慶二は勉強漬けで、自分の部屋から一度も出てこない。轟三は誰もいないリビングでテレビを見ていた。いつも見ていた番組がなぜか何も面白くなくて、電源を切った。

留学を決める前は、慶二がずっと轟三の世話を焼いてくれた。そして慶二が勉強漬けになってからは、両親が構ってくれた。そのどちらもいない空間は、酷く冷たくて寒かった。

誰もいないリビングにいる気も、自分の部屋に行く気も起きずに、轟三は目的もなくリビングをグルグルと歩き回る。

 

「あ……雪だ」

 

そんな時、窓から外を見て、雪が降っていることに気づいた。そして、外へ遊びに行こう! とアイデアが瞬いた。

外はもう薄暗く、家から零れる光や街頭の光で周囲がわかる程度だ。しかし、家にいるよりは楽しそうだった。

思い立って、直ぐに轟三は家を飛び出した。

外に出た瞬間、寒さが肌に伝わったが、子供の体温や高揚はそれを弾き飛ばして、轟三は勢いよく道へ出た。人は誰もいない。街頭に照らされた雪の粒が、ふわふわと真っ暗な夜空から降り注いでいた。

 

「いっぱい降ってるぞ!」

 

轟三は楽しくなって、空を見上げながら歩いた。そしていつの間にか、いつも遊んでいる公園の前にやってきていた。公園にも人影はない。芝生が少し白っぽくなっている。しんと静まり返っていた。いつもは色とりどりの公園が、なんだか色あせて見える。

慶二ともこの公園でよく遊んでいた。キャッチボールをして、サッカーをして、追いかけっこをして、色んな遊びをした。遊び方は全部慶二に教わった。友達とも轟三はよく遊んでいたが、慶二と遊ぶのが一番楽しかった。

 

留学なんて、しないで欲しかった。

しかし、それは無理だ。野球の時と同じ、慶二は絶対に決めたことを曲げないだろう。留学して勉強するのは、とてもいい事だと両親は言った。けれど、寂しくないのだろうか。慶二は家からいなくなってしまうのに。

なんだか急に寒くなる。胸が冷たくなって、顔が歪んで、何故か目の奥が熱くなってくる。

 

「轟三」

 

名前を呼ばれた。聞き慣れた兄の声だった。驚いて振り返ると、そこにはやはり慶二がいた。

雪の降る中、白い息を漂わせ、分厚い黒色のダウンコートを羽織っている。

 

「ダメだろう? 鍵もかけないで外に出たら」

 

そう言われてハッとした。確かに、轟三は玄関の鍵を閉めた覚えがなかった。

 

「あ……そうだった……ごめんなさい」

「いいよ、僕が閉めてきたから。ほら、寒いだろう? 家へ帰ろう」

 

慶二が近づいてきて、轟三に手を差し伸べる。こういうことも久しぶりだった。轟三は活発な子供だったので、あちこち走り回っては迷子になることがあった。そんな轟三を必ず見つけてくれたのは慶二だった。帰ろうと手を差し伸べて、轟三が疲れていたらおんぶをしてくれる。

あの時間が心地よくて、何度だって迎えに来てほしかった。

 

「まだ……帰りたくない」

 

帰ったら兄はまた部屋にこもってしまって、そして、いなくなってしまう。この手を掴まなければ、ずっと兄は自分を探してくれるんじゃないか。そう轟三は思った。

轟三は慶二の手のひらをじっと見つめていた。広い手のひらに雪が落ちる。兄の顔が見れなかった。また悩んでいるのか呆れているのかわからない目をしているのではないかと思って。

慶二の手が、轟三の視界から消えていく。「じゃあ」と声が聞こえた。

 

「公園で暖でもとろうか」

 

えっと声を上げて見上げると、慶二はニコリと微笑んでいた。

 

公園にはブランコや鉄棒、シーソーなどの定番のものに加えて、コンクリートと金属でできた大きな遊具があった。

山型になっていて、上に子どもたちが登ったり、そこから滑ったりできるようになっている。そして、その下部には子どもたちがくぐって遊べる空洞があった。

その空洞へ慶二が身をかがめて入っていく。体の大きな慶二には狭そうだったが、ちょうど中央あたりで身を丸めるようにして、あぐらで座り込んだ。そして、轟三に「おいで」と声をかける。

轟三は兄に言われるがまま中へ入った。そして促されるまま慶二の足元へ座る。慶二は、ジャケットコートのチャックを開けており、座った轟三ごと、包み込むようにしてチャックを閉めた。

かなり狭かったが、大きめの上着だったので、どうにか入った。轟三は、上着の中から顔だけを出すような形になっている。上着の中は暖かくて、自分がとても冷えていたと轟三は初めて知った。

 

「あったかい?」

「うん! あったかいぞ!」

 

二人の白い息がふわりと周囲に漂う。

 

「母さんたち、今頃楽しんでるかな? お土産買ってきてくれるといいね」

「ジブンは美味しいお菓子が食べたい!」

「二人が行ったのは温泉地だから、おまんじゅう買ってきてくれるかもね」

「おまんじゅう……!」

「楽しみだね。そういえば、最近は学校はどう? 昼休みとかって何して遊んでいるの?」

「最近のクラスのブームはドッチボールだぞ! この前は十人にボールを当てられたのだ」

「へえ! すごいな。大活躍じゃないか」

「うん! それで――」

 

白い息をあげながら二人で話し合う。

空洞の中は暗かったが、外から入るわずかな光と、暗さに慣れた目のおかげで困ることはなかった。兄の顔も、笑みも、よく見えた。

轟三は体が熱くなって、寒さなんて一つも感じなかった。轟三は必死で話をした。兄から聞かれたことや、聞かれていないことをたくさん教えてあげた。兄は楽しそうにうなずいて、時折、声をあげて笑った。

 

喉が痛くなるまで喋って、そうして段々と静かになっていった。轟三はいつまでも喋り続けたかったが、なぜか体が重くなって、口が回らなくなっていく。

 

「眠いの?」

 

優しく問いかけられる。そう、轟三は眠かった。気持ちは全然眠くないのに、ほっとして、疲れて、暖かくて、布団の中にいるようだった。瞼が重くなる。

眠い、と言えば、たぶん兄は自分を連れて帰ってしまう。だから口をまごつかせて、何も言わなかった。

けれど何も言わなかったら言わなかったで、兄はきっと眠いんだな、と判断する。轟三を抱き上げて、家へ帰ってしまうだろう。

 

帰りたくなかった。けれど、帰りたくないわけではなかった。

兄とたくさん話をしてわかった。自分は兄と離れ離れになりたくないのだ。轟三は、本当に、本当に留学に行ってほしくなくなった。今までもずっとそうだったが、心の底から、兄の足にしがみついてでも、行ってほしくないと思った。

 

「轟三?」

 

柔らかい声だった。もし寝ていても、起こさないようにと配慮された小さな声。

ここ数ヶ月、轟三はずっと兄と遊べていなかった。こんなことが続くなんて耐えられないと思った。けれど、轟三がどんなに駄々をこねたとて慶二は行ってしまうだろう。それに何より、轟三自身もこれがひどいわがままだということはわかっていた。

だから、轟三はボソボソとこう言うしかなかった。

 

「ここに……お兄ちゃんとずっといたい」

 

ほぼ口を開けないで言ったので、もしかすると慶二には聞こえていないかもしれなかった。

慶二は何も返さなかった。

雪が音もなく降り続いている。世界から二人がいる空洞だけが切り離されたかのように静かだった。

轟三の耳には近くにある慶二の心臓の音しか聞こえない。ドクン、ドクン、と大きな音が聞こえた。

 

「いいよ」

 

兄の声が降ってきた。轟三は顔を上げる。目の前いっぱいに映る兄は、笑っていた。怒っても呆れてもいなかった。

慶二の目が細められる。頬と鼻と耳が赤くて、髪に霜が降りていた。

 

「ずっと一緒にいよう」

 

兄の言葉が信じられなかった。これと決めたことは絶対に譲らない人だった。空耳かと思った。

しかし兄の瞳は暖かく、微笑みは頬が溶けそうだった。

轟三は次に夢かもしれないと思い、そして夢は嫌だ、と思った。

だから轟三は慶二に抱きついた。夢であっても現実にしたくて。

これ以上ないほど、首元に顔を密着させて、上着の中で胴に抱きついた。暖かな体温を、匂いを感じた。

瞬間、それに応えるように強く抱きしめ返される。長い腕が上着越しに轟三を抱きしめた。上着の中でサンドイッチにされる。アハハ!と笑い声が聞こえた。

 

「温かいね」

 

耳元で兄の楽しげな声が聞こえる。

 

「寒いけど温かいね」

 

 

嬉しくて嬉しくて、声も出せないほどに嬉しくてずっと抱きついていた。目をぎゅっとつぶって――次に目を開けた時は頭がふわふわとしていた。

視界がぼやけていて、よだれが垂れている。そうして、轟三は自分が寝てしまっていたことに気づいた。

視線の先には空洞の出入り口があり、雪がたくさん積もっていた。首を動かそうとして、違和感に気づいた。髪がパリパリとする。自分の髪に視線を動かして見てみると、白っぽくなっていた。瞼が重い。瞼を上下させると、白っぽいまつ毛がチラリと見える。

それに気づいたのと同時、体がブルリと震えた。

ここへ来た時よりも、なんだかとても寒く感じる。轟三はジャケットコートの中で、腕をさすりながら慶二を見上げた。

慶二は、轟三と同じく眠ってしまっていたようだった。目を閉じて、力なく轟三の方へもたれかかっている。髪は霜で白くなっていて、頬の赤みは消えていた。雪のように肌が白くなっていて、代わりに唇が紫色になっていた。

 

「お、お兄ちゃん……」

 

轟三はなんだか怖くなって呼びかけたが、返事どころか慶二はピクリとも動かなかった。サッと血の気が失せる。

とんでもないことになってしまったかもしれない。

 

「お兄ちゃん! お兄ちゃん、起きるのだ!」

 

上着から腕をひねり出して、パチパチと頬を叩く。氷のように冷たかった。何度も何度も叩いて、両手で叩き出した時、ようやく慶二のまぶたが動いた。

 

「う……」

「お兄ちゃん!」

 

ぼやけた目をしている慶二は、目の前の轟三をぼうっと見ていた。意識がはっきりしていない兄を見て思った。兄をここにいさせてはいけない。

――目を覚まさなくなってしまうかも。

 

「帰ろう! お兄ちゃん!」

「……」

「お兄ちゃん!」

 

未だ呆然とする兄の頬を叩く。すると、ようやく意識がはっきりしたのか。瞼を一回、二回、三回と瞬かせた。

そうして、慶二はぼやけた声で、「かえろう」と言った。

 

兄は、翌日には元の勉強づけの日々に戻った。

おそらく空洞を出たのは、朝に近い深夜だった。二人で這い出て、かじかむ体で家に帰った。慶二は轟三が止めるのを聞かず、上着を脱いで轟三をくるみ、抱き上げて家へ帰った。すぐに轟三を風呂に入らせて、霜焼けに効くらしい薬を丁寧に塗った。それから、「まさか寝ちゃうなんて、本当にごめんね」と謝った。

悪いのは自分だと主張しても、慶二は一切聞き入れてくれなかった。

轟三は家に帰っても、顔色が元に戻った慶二を見ても、あの公園の空洞で見た、ピクリとも動かない兄の姿が頭から離れなかった。

 

それから轟三は、どれだけ行ってほしくないと思っても、わがままを言わないようにした。

兄はあの時「いいよ」と言ってくれた。それだけで轟三は十分だった。十分だと思うようにした。轟三のわがままで兄を、たぶん、とても危険な目に合わせてしまった。そんなことはもう絶対に嫌だった。

 

そうして月日は流れ、慶二は留学のため旅立った。家族みんなで、空港でお見送りをした。轟三は兄を引き止めず、涙もこらえることができた。

けれど数日経って、やはり兄のいない家が静かで、寒々している気がして、どうしても兄に会いたくなった。

だから、轟三は隠しておいた盾を見ようとした。本物ではないけれど、兄を思い出せる特別な盾。

轟三は、クローゼットの奥に隠しっぱなしにしていた盾を探して――盾ではなくメモを見つけた。

 

『お気に入りの盾だったから、留学先に持って行きました。勝手にごめんね』

 

教科書のような綺麗な文字――慶二の文字だった。

轟三はそれをしばらく眺めていた。本当に盾がないのかを何度も確認して、ふらふらとベッドの方へ歩いて行った。

顔からボスンとベッドに倒れ、ミノムシのように体をじわじわ丸めた。

ぎゅうと拳を握る。手のメモがくしゃりと潰れた。

 

「言って、言ってくれれば……! わがままは言わないって、決めたのだ……! 言ってくれれば……! 渡したのに……っ!」

 

轟三はベッドのシーツがベチョベチョになるぐらい泣いた。

目が真っ赤になって、ものすごく腫れて、まぶたもうまく動かせなくなった。

 

絶対に、絶対に次に会ったら、兄に文句を言おうと決めた。

 

 

慶二が留学のために旅立ってから、慶二は時折手紙を寄越した。留学先のアメリカは文化が違って面白いだとか、色んな人がいて興味深いとか。写真と共に現地のことが書かれていた。最初は顔にシワを寄せて読んでいた轟三も、直ぐにワクワクとしてしまい、最後には顔に笑みが浮かんでいた。

ただ、勉強が難しくて頑張らないと着いていけなさそうだ、と書かれていた時は、轟三は絶対に嘘だ。と思った。

そういう手紙が年に何度か届いた。轟三は手紙が待ち遠しかったが、それよりも慶二の帰りが待ち遠しかった。

帰ってきたら、盾を勝手に持って行ったことに文句を言って、それから盾を隠してしまったことを謝るのだ。それで仲直りをして、会いたかったと抱きついて、抱き締め返してもらって、家で楽しく過ごす。少ししたら留学先に戻ってしまうかもしれないけれど、また帰ってくる。兄が帰ってくる先は、この家なのだから。

しかし、年末近くに届いた手紙に書かれていたのは「勉強が忙しくて、日本に帰るのは難しそうです。家族に会えないのは寂しいけど、こちらでも頑張っているので応援して欲しい」という文章だった。

両親はガッカリとしていたし、本当に戻って来れないかと手紙で尋ね返していたが、答えはNOだった。

轟三は分かった。

 

(お兄ちゃんは、帰ってこないのだな)

 

日本に、家に帰るより、慶二は留学先での勉強を優先したかったのだろう。轟三は兄が楽しんでいるならそれでいいのだ、という気持ちと泣き出したい気持ちで頭がぐちゃぐちゃした。

兄が戻ってこないなら、盾のことを手紙で伝えようかと轟三は思った。しかし、面と向かって文句を言いたかったし、謝りたかった。なので、轟三は慶二に手紙を書かなかった。

来年は帰ってくる。そう思っていた。しかし、慶二は帰ってこなかった。

勉強や学校でのイベントなどが重なり、慶二は日本には戻ってこられなかった。手紙はよく届いた。綺麗な文字で、家族の健康と安全を祈った文章と、興味をそそられる面白そうな写真や美しい風景などの写真がついていた。

けれど、轟三が会いたかったのは慶二だった。

轟三は幼いためよく分かっていなかったが、慶二は日本に帰れないほど忙しかったらしい。なんでも留学先でのハイスクールを飛び級し、大学に入学。大学でも飛び級をして、十八になる頃には大学卒業資格を手に入れていたという。

それがどれほど驚異的かを轟三が知るのはもう少し先だが、大学を卒業するに当たり、慶二は日本に戻ってくることになった。

慶二が日本を離れて三年間、轟三にとっては随分、随分長かった。

ようやく、ようやく会える。話したいことなどいくらでもあった。聞きたいことも同じく。一生かけてでも話し終わらないのではないかと思うぐらい、沢山あった。

 

 

しかし、兄は帰らなかった。

手紙によると、警察官になるらしい。

両親は驚いていたし、轟三も驚いた。何せ、轟三の将来の夢は警察官だった。元々特撮やアニメのヒーローが好きで、平和を守る仕事をしたいと轟三は願っていた。それが、日本では警察なのだと理解してからはずっと警察官になりたいと思っていたのだ。

手続きや受験など、留学していたから遅れを取ってしまったため急いで取り掛からないとならず、会える時間が取れそうにないと書かれていた。

手紙には、

 

「留学先では色々なことに挑戦できてとても面白かったです。これからは日本のために尽力できたらと思い警察官になろうと思いました。心配ばかりかけますが、こちらは元気でやっています。立派な警察官になれたら、会いましょう」

 

と書かれていた。

轟三はまた分かってしまった。兄は立派な警察官になるまで帰ってこない。こういう、断定した文章の時はいつもそうだった。

慶二は警察官になるために、一生懸命になってしまった。だが、好都合だった。

轟三は警察官になる予定だ。そうしたら、きっと兄に会える。慶二の手紙は轟三への鼓舞にも思えた。轟三が警察官になろうと決めたのは慶二が留学したあとだ。なので、慶二は轟三が警察官を目指しているなど知る由もないだろうが、轟三にはそう思えたのだ。

立派な警察官になって、兄に会いに行こう。もう、兄は盾のことは覚えていないだろうけれど、謝るだけ謝って、首を傾げる兄に会いたかったのだと抱きつこう。

それだけでもう良かった。

 

 

「……兄さんが死んだ?」

 

それだけでもう良かったのに、慶二は本当に、帰らぬ人になってしまった。

轟三がまだ交番で勤務していた頃の話だ。突然両親から連絡が来て、兄が死んだのだと知った。

何がダメだったのだろう。立派な警察官になるまで、兄に会いに行くのを我慢したのが良くなかったのだろうか。そうかもしれない。全てを放っておいて、迷惑がられるのも承知で兄に会いに行けばよかった。そう思った。

遺体は一瞬しか見せて貰えなかった。重要な事件での被害者のため、警察が厳重に管理していた。

遺体の顔と、遺影の写真は、見たことの無い顔だった。慶二からの手紙は、彼が警察官になったあとも、頻度は落ちたが送られていた。その手紙には写真が時折あったが、そのどれも興味を引く面白い写真や、美しい景色などだった。そして、慶二自身は映っていなかった。だから、十数年ぶりに轟三は慶二の顔を見た。遺影の慶二は、成長し、見違えるほどに美丈夫になっていた。誰だろう、と思ったが、その優しげな笑みは確かに兄に思えた。

そうして、兄は燃やされて、小さな骨壷に入るほどの大きさになってしまった。

 

(とても、小さくなってしまった)

 

轟三の記憶の中の兄は、中学三年生の、大きかった――しかしまだ子供だった時の――兄のままだった。遺体だけ見ても、遺影だけ見ても、全く番慶二という存在は上書きされず、轟三の中では、かつて世話を焼いて、抱きしめて、優しく話を聞いてくれた時の姿のままだった。

 

死んでしまうと、不思議なほど兄の存在は薄くなった。轟三は警察の独身寮で暮らしていた。だから兄を感じる所は日常になかったし、実家に戻ることがあっても、兄の功績を示すトロフィーなどは彼の留学前に家からなくなってしまっている。兄の部屋も、留学前に綺麗さっぱり片付けられた。壁にも床にも汚れがなく、机に傷も落書きもない。モデルルームのようだった。

唯一、残っていたのがアルバムだった。中学三年生までの写真が貼られていた。よく何かしらの賞を貰っていたので、そういった式典の写真が多い。そして、合間合間に、轟三と慶二の二人で撮られた写真があった。

眩しいぐらい、二人とも楽しげに、嬉しげに、幸せそうに笑っていた。

 

「もっとちゃんと、一緒にいた時に、世界一大好きだと伝えておけばよかった」

 

轟三は写真を見つめながら、唇を噛んだ。

 

 

兄に会いたい。互いが子供だった頃の兄に。

一等会いたかったのは、兄が中学三年生の頃、あの雪の日、あの遊具の空洞の中。二人で温め合いながら話をした時だった。いや、兄が「一緒にいよう」と言ってくれたあの瞬間。抱きしめあって、温かさと匂いと腕の力強さを感じた、あの一瞬。

あの時に戻りたいと思った。

 

 

だから――だから、もう一度兄と会えた時、本当に本当に信じられなかった。

 

「轟三、久しぶり」

「にい、さん……? なぜ……なぜ、ここに?」

「色々理由はあるけど……一番は轟三に会いたかったからかな」

 

かつての、そのままの髪で、瞳で、微笑みで、兄はそう言った。

信じられなかった。兄が生きていたことに対してではなかった。兄ともう一度会えたことに対してだった。

もし、もし兄が何かの間違いで蘇ったとしても、自分には会いに来てくれないと、何故か轟三は思っていた。

だから、だから本当に、本当に嬉しかったのだ。世界がひっくり返って、何もかもめちゃくちゃになって、クラッカーやくす玉が音を鳴らして紙吹雪が舞うみたいに。

兄の言うことならなんでも信じられた。なんでも承諾できた。それが最善なのだと、轟三の為なのだと分かったからだ。一年以上も外に出られないのは当然抵抗があった。だが、兄がいてくれればどうにでもなると確信していた。部屋の中にいる間、轟三はずっと、楽しかった。兄のためなら外に出られない不満や、職務に従事できない不満はいくらでも我慢できた。それに、兄が毎日のように会いに来てくれる。それが何よりも嬉しかった。留学前に戻ったようだった。

兄が中学三年生の頃、雪の中、遊具の空洞の中にいた頃に。

 

 

この件が終われば、また兄とかつてのように笑い合えると、信じていた。

 

「轟三は、自分の命のことだけ考えてね」

 

二人だけの部屋の中で、兄に用意された服の上。軽く胸をポンと叩かれる。

兄は何も変わらない。ずっと優しいままだと思った。中学三年生の頃と変わらない。触れた手が、確かに兄が生きていると証明している。

 

 

 

それが、全部偽りだった。

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