ミーン、ミーン、ミーン……
蝉の劈くような鳴き声と共に景色が目に入ってくる。
気が付けば川の流れが聞こえる土手沿いを歩いており、肌を突き刺すような日差しに、流れ出た汗が首筋を伝うのが不快に感じた。
なぜ、僕はこんなところを歩いているのだろうか……。
ふと、そんなことを考えたが右手に持った、塗装がところどころ剥がれた虫取り網と首から下げられた小さな黄緑色の籠に気付く。
そうだ――僕は虫を取りに外に出たのだった。
理由を思い出して少し安堵すると同時に、何の虫を取りに来たのだろうかと思い出そうにも、どうにも何かに邪魔されるように思い出せない。
そもそも、どうやって家からここまで来たのだろうか……。
あれ?家ってどこだっけ―――そう考え始める前に視界に入った物体に思考が止まる。
表面が黒い半透明でゼリーのように透き通っている物体が道端に転がっていた。
何だろうかと気になり近づいて見ると、ソレは無数の木の枝が突き刺さっており、風に揺れているようにも見える。
手の届く距離までくると突然、ソレはグルリと体を回して目と思われる深緑色の双球が警戒するように僕を見上げた。
「わっ!」
動くものだとは思っておらず、思わず驚きの声が出る。
動いたソレをよく見ると、ところどころに削れたような痕や擦れた痕が痛々しく見えた。
「……大丈夫?」
そう聞く僕にキュッと弱弱しく鳴くソレに同情の心が湧いてくる。
もしかしたら、喉が乾いているのかもしれないと思い、水筒から水を手の平に注いで、目の前にまで手を差し出した。
「飲む?」
今だ警戒するように体をプルプルとしているソレは、僕の手を睨み付けるだけで動こうとしない。
飲み方が分からないのかと思い、自分の顔を手に近づけて水を飲むような動作を見せた。
すると、恐る恐るといった様子で手の平の水をソレが飲み始める。
「キュッ!キュッ!」
僕の小さな手にあった水をすぐに飲み干したソレは、少し元気になったような鳴き声を出しながら、もっとよこせと言わんばかりに手を舐めまわす。
その擽ったい感触に笑いそうになりながらも、急いで水筒の水を同じように手に注ぐ。
スポンジのようにどんどんと飲むソレは、ついに水筒を空にしてしまった。
キュイ!とすっかり元気になったように、鳴きながら僕の手に体を摺り寄せるソレが、なんだか微笑ましく思えた。
「そうだ!これもあげる!」
もっと喜ぶ姿が見たいと思い、カバンからお菓子を砕いて手の平に乗せた。
差し出されたものを不思議そうに体を傾ける姿が、可笑しくて自然と口角が上がる。
食べるんだよと水の時と同じように自分が動作を見せてやると、僕に続いてソレもお菓子を食べ始めた。
すると、一瞬固まったあとにピョンピョンと僕の回りを小さく飛び跳ねる。
その、嬉しそうな姿に心が満たされて、僕のほうまで嬉しくなるほどだった。
「へへっ、美味しかったか?もっとあるぞ!」
そうして、刺さっていた枝を抜いたり、撫でたりしているとソレはピッタリと体をくっ付けて懐いてしまった。
「よし。クロ!一緒に虫取りにいくぞ!」
もう、友達のような気分になった僕は、適当にクロと名付けて笑って話かけると、クロも僕の言葉を理解しているのか同意したような鳴く。
クロを持ち上げようと体に触るとズポリと砂の中に突っ込んだように手が埋まってしまう。
外側はヒンヤリとしていたが、中は生物を感じさせる生暖かさだった。
突然のことに頭が追いつかずにクロを見ても、相変わらず嬉しそうに体を震わしている。
すると、ボコボコとクロの体が波打ち始めた。
「ど、どうしたのクロ?」
瞬間、得体の知れない恐怖が心を覆いつくし、出した声は震えていた。
ボコボコと波打つ体は段々と大きくなっていく。
手を引き抜こうにもがっちり掴まれて動かない。足も上手く動かせず、砂の地面に擦った痕を付けるだけだった。
ついには、自分を飲み込めるほどに大きくなったクロが、一気に僕の体を飲み込み始める。
「うわああああぁぁ!!」
腕から肩、半身、足へと絡みつくソレは、体の感覚を失わされていく。
ただただ、恐怖に慄く叫び声しか出せなかった口も覆われて、そこにはキャンバスに落ちた黒い点のような物体だけが残されるのだった。
―――ぁぁあああ!?
目を覚ますと、見慣れたような白い天井にカーテンの隙間から零れる一筋の陽光が視界に入った。
「大丈夫?魘されてたけど……。」
隣から声がして、横を向くと少し髪の乱れた薄着の女性が僕と同じようにベットへ横たわり、心配そう目で見ていた。
乱れた呼吸と混乱する頭を深呼吸をして落ち着ける。
そして、隣の女性が自分の妻であること、そしてさっきのが夢だったと気付いた。
「ああ……大丈夫。ちょっと、ははっ……怖い夢を見てね。」
安堵と気恥ずかしさから、乾いたような笑いが出た。
「そう?……もうちょっと寝とく?」
そう言う僕に黛美は少し優しい笑顔を浮かべる。
「いや、寝汗もすごいしシャワーを浴びるよ。」
「じゃあ、私は朝ごはんの準備するね。」
僕と一緒にベットから立ち上がる彼女に感謝を伝えて浴室へ入る。
汗で張り付いて不快感のあるシャツを脱いで、温かいシャワーを浴びた。
体を拭いてリビングに入ると黛美が朝食を机の上に準備して、先に食べていた。
「ありがとう、いただきます。」
そう言って、一口食べる。
サクっとしたパンの触感と焼いたベーコンの香ばしい香りが口に広がり、それを卵がまろやかにしてくれる。
ある程度、口の中で楽しんだ後、目が覚める苦めのコーヒーで流しこんだ。
暖かな飲み物にホッと体の力が抜ける。
「どんな夢だったの?」
先に食べ終わった黛美が頬杖をついて、微笑みを浮かべた表情で朝の夢の内容を聞いてくる。
「うん?……そうだな、確か――。」
夢の内容を思い出そうとしたが、全く思い出せない。
煙のように記憶を掴もうとしても何も引っ掛かりがなかった。
ただ、感覚だけが恐ろしかったと覚えている。
「いや、思い出せないな。」
「そっか、夢なんてそんなもんだよね。」
口元を抑えて思い出そうと考えてみるが、どうにも思い出せなかったため、正直にそう言うと分かっていたのか黛美は朗らかに笑っていた。
「そういえば、今日は村田さんと合うんだったっけ。」
確認するように黛美がそう聞いてくる。
今日は、たまたまこっちにくる小学校からの親友との村田と会う予定だった。
「ごめん、今日は買い物に行く予定だったのに……。」
「いいの、気にしてない。それに、大事なお友達でしょ?」
申し訳なく思い少し目を伏せて謝ると、明るい声音で黛美が言う。
「まあ、私も友達と遊んで来るから、優斗も楽しんで来てね。」
「そっか、ありがとう。」
僕に気を遣わせないためだろう。慈しむように微笑む彼女に感謝する。
その時に細められた目の深緑の瞳が、妙に印象に残った。
「よっ!高木。」
聞きなじんだ声と共に後ろから軽く肩を叩かれる。
振り返ると待っていた相手の村田が立っていた。
「よっす、遅かったな。」
「思ったよりも混んでててな。悪い。」
僕の言葉に片手を顔の前に立てて軽く謝る。
少し、待った程度なのでまったく気にして居なかった。
そんなことは分かっているのだろう、すぐに村田は姿勢を戻す。
「じゃ、さっそく行こうぜ。美味しいところ教えてくれるんだろ。」
「おう、お前の好きな銘柄もあるところだ。」
そう言って、適当な話をしながら村田と隠れ家的な居酒屋へと足を運んだ。
「「乾杯」」
カリチと静かにグラスを交わして、ビールを喉に流し込む。
ふう、と一息吐いた村田が少し、揶揄いを含んだ目でチラリと僕を見た。
「よく、こんなお洒落な場所知ってたな。」
「良いだろ、彼女とのデートに使ってもいいよ。」
ニヤリと口を歪ませて言う村田に冗談めかして返す。
「はっ!俺が彼女と長続きしないの知ってるだろ。」
鼻で笑い、やれやれといった様子で吐き捨てるように言う。
村田は仕事はしっかりしているし、顔を悪くないはずなのに、恋人を長続きがしない。
気付けば、別れていることがよくあった。
「それより、奥さんとは順調なのか?」
「会うたびに聞くな黛美との仲。羨ましいの?」
黛美と付き合い始めた時からだったか、ことあるごとに黛美との仲についてよく聞かれた。
案外、恋愛話とか好きなのかもしれない。
「そんなんじゃねえよ。いつも幸せそうだから、不満とか無いのかなってな。」
「ふ~ん。不満か……。」
苦笑いで否定する村田に不満と聞かれて、改めて考えてみる。
「強いていえば……。」
そう口に出すと、なぜだか村田の黒い瞳が一瞬、深緑色に変わった気がした。
「可愛すぎることかな。」
得意気にそう言い放つと、村田は目をパチクリとさせて驚いている。
やはり、さっきのは見間違いだったのだろう、目の色はいつもの黒色だった。
「ははっ!なんだよそれ!」
すると、村田はしてやられたと言わんばかりに額を抑えて笑い始めた。
何だか嬉しそうな村田にこちらまで嬉しく思える。
「そういえば、前に田辺に会ってな。」
「田辺って、天狗を攫ったって言うあの田辺?」
「そうそう、あいつ――。」
その後は、昔話やら仲良かったクラスメイトの現在なんかを話ながら、村田と夜遅くまで楽しむのだった。
あれから、一週間が経ったが可もなく不可もない日常が流れた。
一つ違った点があるとするならば、妻が妙に機嫌がよかった気がする。
そんなこと考えながら、パチパチとパソコンに文字を打ち込み、業務をひと段落させる。
少し休憩しようと廊下の自動販売機まで、行くと先輩の西川さんが先に立っていた。
「おっ!高木くん、お疲れ様。」
「お疲れ様です。」
人当たりのよさそうな朗らかな笑顔で言う西川さんに同じように挨拶をする。
すると、西川さんは流れるように缶コーヒーを2本買って、僕に1本差し出してきた。
「はい、これ。」
「あっすいません。ありがとうございます。」
「いいの、いいの。」
渡されて、お礼を言うと気にしてないといった様子で手を振る。
ちょうど飲みたかったものだった。
「西川さんってエスパーだったりします?」
「え?……なんで?」
僕の変な質問に慌てて飲んでいたコーヒーを机に置いた。
「買ってもらった飲み物が、ちょうど飲みたいものだったので、もしかしてと思っちゃって。」
「ああ、そんなこと?高木くんが、よく同じもの飲んでるからだよ。」
少し、何を言っているのだと照れくさくなる僕に、呆気からんと西川さんが言う。
そんなに、飲んでいただろうか。ちょっと気恥ずかしい。
「最近はどう?困ったことない?」
西川さんにそう聞かれる。入社してから西川さんに教わっており、ある程度1人でもこなせるようになった今も、こうして何かないかと聞いてくれる。
「いや、特に無いですよ。」
「そっか……そういえば、前に中野さんに絡まれてなかった?」
任せられていた業務もひと段落して仕事事態は順調だった。
そこに、西川さんが思い出したように、中野さんに言い寄られていたことを言われる。
「あー、僕には妻がいると断っているのですが……。」
「俺の方からも言っておこうか?」
僕が困ったように言うのを真剣な表情で聞く西川さん。なんだか、怒っている気配すらする。
だが、いつまでも西川さんに頼りっきりというわけにもいかない。
「いえ、そこまで露骨ではないので、僕から強めに断ってみます。」
すると、鋭くなっていた西川さんの視線が、パッと切り替わって朗らかな笑みに戻る。
「わかった。いつでも頼ってくれ。」
「へへっ、僕の手に負えなくなったらお願いします。」
少し冗談めかして言う僕を優しく見守るような視線で西川さんが見るのだった。
▽ ▽ ▽
彼と会った日は今でも鮮明に思い出せる。
最初に目覚めた場所は、私よりも高い草と太陽を隠す木々の群れだった。
妙に寒くて、温もりのようなものを求めて彷徨ったのを覚えている。
訳もわからないまま、何とか転がって森を出た先に二本足で立つ奇妙な生物が目に入り、近づいたのが運の尽きだった。
その、生物はヤンチャな子供たちで木の棒で刺されたり、石を投げつけられたりしたのを覚えている。
好奇心のまま、追いかけまわされ力をも尽きかけた頃、彼と出会った。
そこで、初めて優しさという温かく、甘美な感覚を味わってしまってからは視界に色が宿り始めた。
クロと名付られてその日は一緒に空が、赤くなるまで遊んだは懐かしい。
当然、私を飼おうと彼は家に持って帰ったが、私の未知数の姿が母親に受け入れらず、泣きながら元居た山にまで返されてしまった。
すごく悲しそうに何度も謝る彼の姿がどうしても心から離れず、まずは彼の周辺から観察することにした。
自分が飲み込んだ生物に変身出来ると知ってからは、最初に犬として彼の家庭へと入り込み。
次には、彼の親友として信頼を向ける顔を知り。
初めての恋人として甘酸っぱさに悶える顔を知り。
彼を導く恩師として尊敬を向ける彼の顔を知り。
会社の上司として頼れる相手に懐く彼の顔を知り。
そして、妻として彼を一生支える存在になった。
「西川さん、こんなところに呼び出して何の用事ですかぁ?」
媚びるような間延びした女の声に怒りが込み上げる。
「あっ、もしかして、告白とかですかぁ?ごめんなさい。わたし、狙っている人が――ひっ!?」
スマホを操作しながら、面倒くさそうに喋る中野が小さく悲鳴をあげる。
当然だろう、目の前の人間がスライムのように溶けたのだから。
「な、なんなんですか、ソレ――。」
彼女の言葉が言い終えられる前に、広がった私が一気に覆い隠した。
溺れる人のように手足をバタバタと動かすも、ゴムのように伸縮する私の中では意味をなさない。
すると、段々と動きが鈍くなってきて、終いには動かなくなってしまう。
そのまま、ジュクジュクと音を立てて人型に広がっていた体を、丸い形に戻した。
体のの中に力を込めて、再び人型に戻る。
「あーあー。こんにちは………こんにちはぁ。」
喉の調子を整えて、中野と同じ声が出せるがどうか確認する。
今回も問題なく変身できたので、体を分裂させて西川と中野に別れてそれぞれの岐路に着くのだった。
▽ ▽ ▽
次の日、同じように会社へと出勤すると驚くことがあった。
中野さんが突然、謝ってきてこれからは関わらないようにすると僕に言ったのだ。
走り去っていく彼女に理由も聞けずにただただ困惑するだけだった。
まあ、何度も断らなくていいのは助かるが、何故だろうかと疑問が残る。
ふと、西川さん目をやると、ただただ肩をすくめるだけだった。