性欲の消えた世界で   作:埴輪庭

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真司の場合

 ◆

 

 目が覚めると凛子がいなかった。

 

 枕元の時計を見る。

 

 午前七時。

 

 いつもなら隣で眠っているはずの彼女の姿がない。

 

 俺は天井を見つめた。

 

 不思議と焦りはなかった。

 

 以前の俺なら飛び起きて彼女を探しただろう。

 

 今はただ、事実として受け止めているだけだ。

 

 凛子がいない。

 

 それだけのことだった。

 

 ◆

 

 リビングに出ると彼女はソファに座っていた。

 

 膝を抱えて、窓の外を見ている。

 

 背中が小さく見えた。

 

「おはよう」

 

 俺は声をかけた。

 

「……おはよう」

 

 振り返らずに答える声。なんだか疲れている様に見える。

 

 俺は台所に向かい、コーヒーを淹れ始めた。

 

 豆を挽く音がキッチンに響く。

 

 以前はこの音で凛子が「いい匂い」と言いながら寄ってきたものだ。

 

 今は彼女がソファから動く気配がない。

 

 ◆

 

 自分でも戸惑っている。正直に言えば、俺は自分自身が怖い。

 

 いや、怖いという表現は正確ではないかもしれない。

 

 不気味、というのが近いだろうか。

 

 かつての俺はどこに行ってしまったのか。

 

 凛子を見ても何も感じない。

 

 いや、「何も」は言い過ぎだ。

 

 彼女の存在を認識している。七年間付き合ってきた相手だという事実も覚えている。

 

 だが、それだけなのだ。

 

 心臓が高鳴ることもない。

 

 触れたいと思うこともない。

 

 まるで長年の同僚を見ているような、そんな感覚しか湧いてこない。

 

 関心がなくなったとかそういうわけではないのだ。彼女の事は人間としてリスペクトしている──だが、それだけだった。

 

 ◆

 

 投与を受けたのは半年前のことだ。

 

 医療機関の待合室で、俺は番号札を握りしめていた。

 

 周りには同じような年代の男たちが座っていた。

 

 誰も話さなかった。

 

 まるで処刑を待つ囚人のようだと思った。いや、それは大げさか。

 

 実際のところ、俺はそこまで深刻に考えていなかった。

 

「副作用はほぼない」と言われていたし、凛子も「大丈夫だよ」と言ってくれていた。

 

 番号を呼ばれて診察室に入る。

 

 医師は事務的な口調で説明をした。

 

「注射は一回で済みます。効果は数日で現れます。何か質問は?」

 

 質問などなかった。

 

 あったとしても、拒否する選択肢はなかったのだから。

 

 針が腕に刺さる感覚。

 

 それほど痛くはなかった。

 

「お疲れ様でした。異常があればいつでも連絡してください」

 

 それだけだった。

 

 俺は医療機関を出て、いつもと同じように電車に乗って帰宅した。

 

 ◆

 

 変化は徐々にやってきた。

 

 最初の数日は何も感じなかった。

 

 凛子に「どう?」と聞かれても「よくわからない」としか答えられなかった。

 

 一週間が過ぎた頃だろうか。

 

 朝、目が覚めて隣で眠る凛子を見た。

 

 彼女の寝顔は相変わらず穏やかだった。

 

 以前の俺なら、その顔を見て幸せを感じただろう。

 

 彼女の髪に触れたいと思っただろう。

 

 でもその朝、俺が感じたのは──何もなかった。

 

 ただ、凛子が眠っているという事実。

 

 それだけだった。

 

 俺は静かにベッドを出て、いつものように朝食を作った。

 

 ◆

 

 自分の中で何かが消えていく感覚──それを言葉にするのは難しい。

 

 痛みはない。

 

 喪失感もない。

 

 ただ、以前あったはずのものが見当たらない。

 

 例えるなら、ずっと聞こえていた音楽が止まったような感覚だろうか。

 

 音楽が鳴っていた頃はそれが当たり前だと思っていた。

 

 止まって初めて、ああ、鳴っていたのかと気づく。

 

 でも、その音楽を懐かしいとも思わない。

 

 戻ってきてほしいとも思わない。

 

 ただ、止まったのだな、と認識するだけ。

 

 ◆

 

 凛子への気持ちを整理しようとした。好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いではない。

 

 七年間一緒にいた。

 

 大学時代からの付き合いだ。

 

 彼女の性格も、癖も、好きな食べ物も、全部知っている。

 

 信頼している。尊敬もしている。

 

 でも、それだけなのだ。

 

 以前はそこに「特別な何か」があった。

 

 彼女を見ると胸が温かくなった。

 

 触れたいと思った。

 

 守りたいと思った。

 

「俺のものだ」という、今思えば原始的な独占欲もあった。

 

 それが全部消えた。

 

 残ったのは、長年の付き合いから生まれた「情」だけだった。

 

 そう、情だ。

 

 情──この言葉が一番しっくりくる。

 

 凛子に対して俺が抱いているのは、恋愛感情ではなく情だ。

 

 長く一緒にいた相手への愛着。習慣から生まれる親しみ。

 

 彼女が困っていれば助けたいと思う。

 

 悲しんでいれば気の毒だと思う。

 

 でもそれは、古い友人に対して抱く感情と何が違うのだろう。

 

 違いがわからなくなっていた。

 

 ◆

 

 凛子が変わったことに俺は気づいている。

 

 彼女はよく泣くようになった。

 

 夜中に目が覚めると、隣で彼女が声を殺して泣いていることがある。

 

 俺は何も言えずに目を閉じる。

 

 彼女が何を求めているか、頭では理解できる。

 

 以前のような関係を取り戻したいのだろう。

 

 俺に愛されたいのだろう。

 

 でも、俺にはそれを与えることができない。

 

 ないものは出せない。

 

 当たり前のことだが、その当たり前が彼女を苦しめている。

 

 そこまで分かってはいたが、それでもなお俺は彼女を女としての興味を持てない。

 

 ◆

 

 ある夜、凛子が俺に抱きついてきた。

 

 ソファでニュースを見ていたとき、後ろから腕を回してきた。

 

「真司」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「どうした?」

 

 俺は振り返ろうとしたが、彼女は俺の背中に顔をうずめたままだった。

 

「……ただ、こうしていたいの」

 

 彼女の体温を感じた。

 

 温かかった。

 

 以前なら、その温もりに反応して彼女を抱きしめ返しただろう。

 

 今は「温かいな」という認識があるだけだった。

 

 どうすればいいかわからなかった。

 

 彼女を突き放すのは酷だと思った。

 

 でも、彼女が求めている反応を返すこともできなかった。

 

 俺はそのまま動かなかった。

 

 テレビの音声だけが部屋に響いていた。

 

 ◆

 

 困惑している。本当に困惑しているのだ。

 

 俺は自分が壊れてしまったのではないかと思うことがある。

 

 人間として大切な何かを失ってしまったのではないかと。

 

 でも、日常生活には何の支障もない。

 

 仕事はできる。

 

 友人との付き合いも普通にできる。

 

 食事も睡眠も問題ない。

 

 ただ、凛子を「女」として見ることができなくなった。

 

 それだけのことだ。

 

 それだけのことが、こんなにも大きな問題になるとは思わなかった。

 

 ◆

 

 ある日、山田が結婚したと聞いた。

 

 大学時代からの友人だ。

 

「子供が欲しいんだ」

 

 彼は淡々と言った。

 

「彼女も同じ考えだったから、結婚することにした」

 

「おめでとう」

 

 俺は言った。

 

「好きなのか?」

 

「好き?」

 

 山田は少し考えた。

 

「嫌いじゃないよ。信頼できる相手だし、一緒にいて不快じゃない」

 

 不快じゃない。

 

 その表現が妙に胸に残った。

 

 俺も凛子に対して同じことを言った気がする。

 

 ◆

 

 帰宅して凛子にその話をした。

 

「山田、結婚したんだ」

 

「へえ。この時期に珍しいね」

 

 彼女の声には棘があった。

 

「子供が欲しかったらしい」

 

「……そう」

 

 凛子は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。

 

 俺たちの間には重い沈黙が流れた。

 

 結婚の話。

 

 俺たちにもあった話だ。

 

 来年の春に結婚する予定だった。

 

 その予定は宙に浮いたままになっている。

 

 俺から切り出すべきなのだろうか。

 

 でも何を言えばいいかわからなかった。

 

「結婚しよう」と言えば、凛子は喜ぶのだろうか。

 

 いや、喜ばないだろう。

 

 俺の「結婚しよう」には、以前のような熱がないことを彼女は見抜くだろう。

 

 形だけの言葉では彼女を傷つけるだけだ。その辺の配慮はできる。

 

 まあ、いまはまだ。

 

 ◆

 

 ある日、凛子が聞いてきた。

 

「ねえ、わたしたちも結婚する?」

 

 俺は少し驚いた。

 

 彼女から切り出してくるとは思わなかった。

 

「結婚? ああ、そういえばそういう話になってたね」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

「忘れてたの?」という彼女の声は冷たかった。

 

 俺は正直に答えるしかなかった。

 

「忘れてたわけじゃないけど、あんまり意識してなかった」

 

 彼女の表情が曇る。

 

 わかっている。

 

 こういう言い方が彼女を傷つけることは。でも嘘をつく気にもなれなかった。

 

「で、どうする? 凛子が結婚したいなら、してもいいよ」

 

 俺の言葉に彼女は息を呑んだ。

 

「わたしがしたいなら?」

 

「うん」

 

「真司はしたくないの?」

 

「したくないわけじゃないけど……」

 

 俺は首をかしげた。

 

 どう説明すればいいのだろう。

 

「正直、結婚する意味がよくわからないんだよな」

 

「意味?」

 

「いや、凛子と一緒に暮らすのは別にいい。でもわざわざ届けを出して、式を挙げて、周りに報告して……そこまでする必要があるのかなって」

 

 彼女の目に涙が浮かんでいた。

 

 俺は慌てた。今のはどこがまずかったのだろうか。

 

「凛子? どうした? 気分悪い?」

 

「……ううん、なんでもない」

 

 彼女は無理やり笑顔を作った。

 

「ちょっと考えさせて」

 

「わかった。急がなくていいよ」

 

 その言葉も彼女を傷つけたのだろう。

 

 でも俺にはそれ以外の言い方がわからなかった。やはり俺はどこか変わった。自分でもわかる。

 

 昔ならそんな事はなかった。凛子が欲しい言葉、欲しくない言葉──そういうのが何となくわかったというのに。

 

 そういう感覚は結局、性欲由来のものだったのだろうか? そうかもしれない。

 

 雄として、雌の機嫌を取る本能みたいなものがあったのかもしれない。

 

 性欲が無くなったことで、そのあたりの感覚が消えてしまったのだろう。

 

 ◆

 

 夜中にトイレに起きたとき、リビングに明かりがついていた。

 

 凛子が窓辺に立っていた。

 

 その背中を見て、俺は立ち止まった。

 

 彼女は泣いていた。

 

 肩が小さく震えていた。

 

 俺は声をかけるべきだったのだろう。

 

「どうした?」と。

 

「大丈夫か?」と。

 

 でも足が動かなかった。

 

 彼女が求めているのは言葉ではない。

 

 俺が「愛している」と言っても、それは嘘になる。

 

 嘘の言葉で彼女を慰めることはできなかった。

 

 俺は黙って寝室に戻った。

 

 布団に入っても眠れなかった。

 

 彼女の泣き声が頭から離れなかった。

 

 ◆

 

 翌朝、凛子の目は腫れていた。

 

 俺は何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 朝食を一緒に食べた。

 

 会話はほとんどなかった。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 それだけだった。

 

 会社に向かう電車の中で俺は考えた。

 

 このままでいいのだろうか。

 

 凛子を苦しめ続けることが正しいのだろうか。

 

 別れたほうが彼女のためなのではないか。

 

 でも、俺から別れを切り出す理由も見つからなかった。

 

 彼女に不満があるわけではない。嫌いになったわけでもない。

 

 ただ、愛情が消えただけだ。

 

 ◆

 

 仕事中もぼんやりと考えていた。

 

 凛子のこと。

 

 俺たちのこと。

 

「藤原、大丈夫か?」

 

 同僚の佐藤が声をかけてきた。

 

「ああ、大丈夫。ちょっと考え事してた」

 

「彼女さんとうまくいってないの?」

 

 佐藤は察しがいい。

 

「まあ、ちょっとな」

 

「この時期、みんなそうだよ」

 

 佐藤は苦笑いした。

 

「俺も嫁さんとギクシャクしてる」

 

「そうなのか」

 

「女の人は大変だよな。俺たちは何も感じなくなったけど、向こうは変わってないんだから」

 

 その言葉が胸に刺さった。

 

 そうなのだ。

 

 凛子は変わっていない。

 

 変わったのは俺だけ。

 

 俺が一方的に変わってしまって、彼女を置き去りにしている。

 

 ◆

 

 帰宅すると凛子が夕食を作っていた。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

 キッチンに立つ彼女の背中を見た。

 

 小さな背中だと思った。

 

 以前はその背中を後ろから抱きしめたものだ。

 

 今はそうする気が起きない。

 

 代わりに俺は言った。

 

「手伝おうか」

 

「大丈夫、もうすぐできるから」

 

 彼女は振り返らずに答えた。

 

 俺はリビングのソファに座った。

 

 テレビをつける気にもならなかった。

 

 窓の外を見た。

 

 暮れなずむ空。

 

 以前はこの時間が好きだった。

 

 凛子と一緒に夕食を食べて、他愛ない話をして、一日の疲れを癒す時間。

 

 今は何を話せばいいかわからない。

 

 ◆

 

 食卓についた。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 黙々と食べる。

 

 味はわかる。

 

 凛子の料理は相変わらず美味しい。

 

「真司」

 

 凛子が口を開いた。

 

「ん?」

 

「わたしたちのこと、ちゃんと話したい」

 

 俺は箸を置いた。

 

「……わかった」

 

 彼女の目は真剣だった。

 

 泣き腫らした痕がまだ残っていた。

 

「わたし、このままじゃ辛いの」

 

「……うん」

 

「真司のせいじゃないってわかってる。でも、辛いの」

 

「……そうか」

 

 俺には何と言えばいいかわからなかった。

 

「わたし、どうすればいいかわからない」

 

 彼女の声が震えた。

 

「真司と一緒にいたい。でも、今の真司はわたしを見てくれない」

 

 俺は黙っていた。

 

 否定できなかった。別に蔑ろにしているつもりはない。ただ、凛子がそう思っているなら、まあ……そうなのだろう。しかし俺には何がどう良くなくて凛子が傷ついているのかさっぱり理解できないのだ。

 

「前みたいに……好きって言ってほしい。わたしのこと見て、きれいだねって言ってほしい」

 

 言うことだけならいつでもできる、が。

 

 涙が彼女の頬を伝った。

 

「でもそれは無理なんだよね。もう、そういう気持ちはないんだよね」

 

 俺は頷くしかなかった。そうだ。その通りだ。俺は凛子が別に好きではない。リスペクトはしている。しかし男女の好意というものは欠片もなかった。綺麗かどうかもよくわからない。清潔感があるとかそういう事なら分かるのだが。だから──

 

「ごめん」

 

 その言葉しか出てこなかった。

 

「俺も……わからないんだ。自分がどうなってしまったのか」

 

 ◆

 

 俺は初めて、自分の困惑を凛子に話した。

 

「正直、怖いんだ」

 

「怖い?」

 

「自分が変わってしまったことが。以前の俺がどこかに行ってしまったみたいで」

 

 凛子は黙って聞いていた。

 

「凛子を見ても、何も感じない。嫌いじゃない。でも……以前みたいに好きだとも思えない」

 

 言葉にすると余計に残酷に聞こえた。

 

「それが辛いんだ。凛子を傷つけてるってわかってるのに、どうすることもできない」

 

 俺は顔を覆った。

 

「こんな俺と一緒にいても、凛子は幸せになれないと思う」

 

「……」

 

「だから、別れたほうがいいのかもしれない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、凛子の表情が変わった。

 

「嫌」

 

 彼女は首を振った。

 

「別れたくない」

 

「でも……」

 

「別れたら、もう終わりじゃない。真司がいなくなったら、わたしには何も残らない」

 

 彼女の目から涙があふれた。

 

「七年だよ。七年一緒にいたんだよ。それを、こんな形で終わらせたくない」

 

 俺は何も言えなかった。

 

「真司が変わったのはわかってる。でも、真司は真司でしょ? わたしの知ってる真司でしょ?」

 

「……」

 

「お願い。もう少しだけ、一緒にいさせて」

 

 ◆

 

 凛子が俺に抱きついてきた。

 

 泣きながら、俺の胸に顔をうずめた。

 

 俺は戸惑った。どうすればいいかわからなかった。

 

 でも、突き放すことはできなかった。

 

 彼女の背中に手を回した。自分でもぎこちないなとは思う。

 

 以前なら自然にできたことが、今は意識しないとできないのだ。

 

「真司……」

 

 彼女が俺の名前を呼んだ。

 

「……ここにいるよ」

 

 それしか言えなかった。

 

 愛してるとは言えない。だって愛していないから。

 

 好きだとも言えない。だって好きではないから。

 

 でも、ここにいることはできる。

 

 彼女を抱きしめることはできる。

 

 彼女に対する誠意はある。

 

 ◆

 

 その夜、俺たちは長い時間話をした。

 

 凛子は泣きながら、自分の気持ちを話した。

 

 俺も正直に、自分の困惑を話した。

 

 解決策は見つからなかった。

 

 でも、少しだけ楽になった気がした。

 

 お互いの気持ちを知ることで何かが変わったわけではない。

 

 俺は相変わらず凛子を「女」として見ることができないし、彼女は相変わらず俺に愛されたいと思っている。

 

 でも、少なくとも俺たちは逃げなかった。

 

 向き合うことを選んだ。

 

 ◆

 

 翌日から、俺たちの生活は少しずつ変わっていった。

 

 変わったというより、変えようとし始めた、という方が正確かもしれない。

 

 朝、俺は意識して「おはよう」と言うようにした。

 

 凛子の顔を見て、ちゃんと声をかける。

 

 これまでは礼儀の一つというか、どこか惰性で何となくいっていたような気がする。

 

 誰にでも言う「おはよう」ではなく、凛子に対してだけの「おはよう」というか……まあこの辺の心情の言語化は少し難しい。

 

 凛子も何かを変えようとしているようだった。

 

 俺に過度に期待しないように心がけているのか、以前より落ち着いて見えた。

 

 ◆

 

 週末、俺たちは久しぶりに外出した。

 

「どこか行こうか」

 

 俺から提案した。

 

 凛子は驚いたような顔をした。

 

「いいの?」

 

「ああ。天気もいいし」

 

 俺たちは近くの公園を歩いた。

 

 並んで歩く。

 

 手は繋がなかった。

 

 以前なら自然と手が絡み合ったのに、今はそのきっかけがつかめない。

 

「きれいだね」

 

 凛子が桜を見上げて言った。

 

「そうだな」

 

 俺も見上げた。

 

 満開の桜。花びらがひらひらと舞い落ちる──こういう“綺麗”なら今の俺でも理解ができる。

 

「来年もこうやって、一緒に見られるかな」

 

 彼女の声は小さかった。

 

 俺は答えに詰まった。

 

 来年のことなど、今の俺にはわからない。

 

 でも──

 

「見られるように、努力するよ」

 

 それが俺に言える精一杯だった。

 

 凛子は少し笑った。

 

「努力って、なんか変な言い方」

 

「そうか?」

 

「うん。でも……ありがとう」

 

 彼女の横顔を見た。

 

 きれいだと思った。以前のような熱い感情ではない。

 

 客観的に、この人は美しい人だという認識。

 

 それでも何も感じないよりはましだと思った。

 

 ◆

 

 帰り道、凛子が言った。

 

「わたしね、少し考えが変わったの」

 

「何が?」

 

「真司に愛されることばっかり考えてた。でも、それだけじゃダメなんだって」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「わたしも真司を愛してる。その気持ちは、真司が変わっても変わらない」

 

「……」

 

「だから、愛されなくても愛することはできる。そう思うことにした」

 

「俺も……」

 

 言葉を探した。

 

「愛してるとは言えない。でも、凛子のことは大切に思ってる」

 

「うん」

 

「それは嘘じゃない。七年間一緒にいて、培ってきたものがある」

 

「うん」

 

「それを、これからどうしていくか、一緒に考えていきたい」

 

 凛子は立ち止まった。

 

 俺も立ち止まった。

 

 彼女の目に涙が浮かんでいた。

 

 でも今度は、悲しみの涙ではないように見えた。

 

「真司」

 

「ん?」

 

「ありがとう」

 

 彼女は小さく微笑んだ。

 

「そうやって言ってくれて、嬉しい」

 

 俺たちの関係がどこに向かうのか、まだわからない。

 

 以前のように戻れるとは思えない。

 

 でも、新しい形を見つけられるかもしれない。恋人でも友人でもない、何か別のもの。

 

 長い時間をかけて築いてきた絆を、別の形で紡ぎ直していく──それが可能なのかどうか、正直自信はない。

 

 でも、試してみる価値はあると思った。

 

 ◆

 

 ある日、凛子が聞いてきた。

 

「結婚のこと、どうする?」

 

 俺は正直に答えた。

 

「俺はどちらでもいい。でも凛子がしたいなら、する」

 

「わたしがしたいから、じゃなくて」

 

 彼女は少し怒ったような顔をした。

 

「真司はどうしたいの?」

 

 俺は考えた。

 

 自分がどうしたいのか。

 

 正直なところ、結婚することに強い動機はなかった。

 

 でも──

 

「一緒にいたい、とは思ってる」

 

「え?」

 

「凛子と。これからも一緒にいたい」

 

 彼女は俺を見つめた。

 

「それは……本当?」

 

「ああ。愛してるって言えないのは申し訳ない。そういうのはもうよくわからなくなってしまった。でも、凛子といると落ち着く。それは本当のことだ」

 

 凛子の目に涙が浮かんだ。

 

「真司……」

 

 彼女は泣き出した。

 

 でも今度は、嬉しくて泣いているのだとわかった。

 

 ◆

 

 俺たちは結婚することにした。

 

 派手な式は挙げない。

 

 ただ、届けを出して、親しい人たちと食事会をするだけ。

 

 それで十分だった。

 

「ねえ、真司」

 

「ん?」

 

「わたしたち、どうなっていくんだろうね」

 

 凛子が窓の外を見ながら言った。

 

「わからない」

 

 俺は正直に答えた。

 

「でも、悪くはならないと思う」

 

「どうして?」

 

「俺たちは逃げなかったから。向き合うことを選んだから」

 

 凛子は少し笑った。

 

「真司、ちょっとかっこいいこと言うようになったね」

 

「そうか?」

 

「うん」

 

 彼女は俺の隣に座った。肩が触れ合う距離。以前のように寄り添うわけではない。

 

 でも、離れているわけでもない。

 

 これが今の俺たちの丁度良い距離なのだと何となく思った。

 

 その距離が縮まるかどうかは──正直わからない。努力次第なのだろう。俺は努力出来るだろうか? 

 

 出来るかもしれないし、できないかもしれない。

 

(了)

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