ある日の朝。百八は通学路に広がる落ち葉を片っ端からゴミ袋に詰めていた。
「もしかして……盆能寺先生ですか?」
「えっ?」
振り返った先にはスーツを身に付けた女性がいた。誰か分からず困惑していた百八とは対照的に、彼女は手を合わせて喜んでいた。
「やっぱり! 私高校の時、倫理を選択していた……!」
「おー……? あっ!
「逆に先生はお変わりないですね」
「それほどでもあるけどなー!」
「ふふっ」
二人はしばらく昔話に花を咲かせていた。そんな穏やかなひとときもやがてタイムリミットが訪れた。
「そろそろ行かないと……」
「仕事か? 頑張れよー」
「はい! ……その、ありがとうございました」
「んっ? 何がだ?」
彼女の視線は定まらずに漂い、胸の前にもってきた拳が小刻みに揺れていた。
「今の仕事、親にはものすごく反対されたから……。先生に相談して本当に良かった。会えたらそれだけは伝えようって……!」
(あたしそんな大層なこと言ったかな……? まあ、なんにせよ)
「そりゃ良かった。でもな。そりゃあお前が頑張ったんだよ」
「けどあの時の言葉が無かったら……!」
「背中は押したかもしれない。それでも最後に選んだのはお前なんだ。もっと自分に自信を持っていいんだぞ」
「盆能寺先生……。先生はやっぱりあの時から変わってないですね」
両肩に手を置かれた彼女の震えはいつの間にか止まっており、百八は背中を押して送り出したのだった。
「おはようございます。百八先生」
「お! 恋太郎かー。こんな朝から先生のところに来て……お盛んだなー」
「違いますよ! 手伝いに来たんです」
少しして恋太郎がフル装備でやって来ると、二人で見る見るうちに落ち葉を片付けていった。
「——なるほど。教え子が挨拶に来たんですね」
「そうなんだよ。多分会えたのは偶然なんだけどさ」
「それでもお礼を伝えられて嬉しかったと思いますよ」
「教師冥利に尽きるよなー」
こうして一仕事終えた二人がテントに戻って来ると、コーヒーを淹れながら百八は考え事をしていた。
(しっかしなんて言ったかな……)
相談を受けた覚えはあるものの、掛けた言葉は未だ思い出せずにいた。何年も前の会話だから仕方ないのか、大切にしてくれている言葉を覚えていないのが無責任なのか分からずにいた。
「熱っ……!」
「大丈夫ですか!?」
「だ、だいじょーぶ……。あと消化器はしまってくれ」
舌を冷ますように空を見上げると、飛行機が飛んでいた。それを眺めるようにしてぼんやりと考え事が続けられる。教師になってから数え切れないほどの生徒を見てきたこと。もう卒業した生徒が今何をしているのか、そのほとんどを知らないこと。やがてコーヒーを飲み終えると、飛行機は遥か遠くへと消えていた。
「さっきの教え子のことですか?」
「まあな。その子、昔言ったことを覚えててさ」
「素敵じゃないですか」
「でもあたしは覚えてなくてさー」
「それはきっと百八先生にとっては特別なことじゃなかったんですよ」
「えっ」
あまりにも当然のように返ってきた返事に百八は目を丸くしていた。
「何を言ったか、恋太郎には分かるのか?」
「それはさすがに分かりませんよ。ただ分かることもあります。きっと百八先生は『こうした方がいい』とは言わずに、考えさせたんだと思います」
「ははっ。まるで見てきたみたいだな」
「これまでのことは見ていなくても、出会ってからのことは見てきましたからね。想像することはできますよ」
「そっか……そうかもな。それが倫理だもんな」
脳裏には以前、恋太郎たちに伝えた言葉が過っていた。倫理とは“正しい答え”のない問題について短絡的に答えを出さず、他者の視点になってみたり、気持ちを想像してみたりして、“よく考える事”であると。
(あたしも恋太郎も答えなんか持ってやしない。だから自分なりに考えて、選ぶんだ)
そうして彼女は自分なりに想像してみた。あの時の相談内容に自分がどう対応するのか。「自分で選んで、選んだ後にどうするかまで自分で考えるんだ」や、「考えた結果失敗するかもしれない、でもここで考えなかったらそれは一生後悔することになる」……思い浮かんだそれはいずれにしろ自分が持つ倫理への考え方で。
「……あ」
すると百八はようやく腑に落ちていた。彼女が再びあの時と変わっていないと伝えた意図に。
「参ったな……本当にあたしずっと変わってないのかも。今日で二十九回目の誕生日だってのにな」
「俺はそんな百八先生のことが大好きですよ」
照れ隠しのように髪を触ると、オブラートに一切包まれない好意がぶつけられ、さすがの彼女も照れを隠し切れなかった。
「……ありがと」
百八は首に巻き付くように腕を伸ばして、引き寄せずに自分から覆い被さった。そのまま体重を預けると、熱を逃がすようにくっついた肌からは同じように熱が返ってくる。
「俺も覚えてますよ。百八先生が『あたしみたいな人間でも生徒という"未来"の役に立てる教師って仕事が本当に大好きなんだ』と言っていたことを。一生忘れません。もちろん他の言葉も一言一句忘れませんが」
「参ったなー。あたしが気付かないうちに生徒の未来に何か残してることがあるなんてさ」
「それだけ百八先生が生徒のことをよく考えている証だと思います」
「おいおい。これ以上褒めても先生からはえっちなことしかしてあげられないぞ〜?」
「それは大人になってからでお願いします……」
「あっはっは! 可愛いなこのこの〜!」
「いえ、その結果百八先生から教師を奪うような事態には絶対したくないので」
「真面目か! ……まあ、でもさ。あたしからも改めてありがとな。あたしを変わらないままにしてくれて」
一度実家の経営難で教師を辞めると決断したことがあった。それは彼女なりに後悔しないよう考えた結果ではあったが、その時恋太郎なりに考えてくれた一言一句を百八は今でも忘れていなかった。
「……あの時、全てが終わってから伝えてくれましたね。本当は辞めたくなかったって。でもそれってきっと……上手くいかなかった時は一人で抱えていましたよね」
「今となってはなんとも言えないかな〜」
「先生は何かあった時、自分より他の人を優先してしまうきらいがありますから……」
「それは恋太郎にも言えるけどな」
「彼氏が彼女のために全てを費やすのは当然の役目なので……。でも俺は今はまだ子供ですが、それでも先生一人には抱えさせないで一緒に考えていきたいです」
「恋太郎……」
すると恋太郎の方から抱き寄せられ、唇が重なった。幸せでおかしくなりそうなくらい好きが溢れる中、百八は予感していた。きっとこの言葉も一生忘れることはないのだろうと。
(……教師と生徒もそういう意味では似てるのかもしれないな)
「最高の誕生日プレゼントだよ。あたし……やっぱり教師って仕事が大好きだ」
「それは絶対変わらないですね。これまでも、これからも」
「だといいけどなー。まあそのためにも……」
今日、自分が一人の生徒に何を残したのかを知った。まだ知らない生徒たちの未来にも、何かが残っているかもしれない。それはなんなのか、彼女が知るとは限らない。だからこそ——
「今日も先生頑張りますか!」
曲げていた腕を空に真っ直ぐ伸ばすと、見上げた先には長い長い飛行機雲が軌跡を残していた。