月面につけた足跡は、風化することなく数百万年残る。
昔、私が読んだ科学の本に、そんな事が書いてあった気がする。
『人間にとって小さな一歩、人類にとって大きな一歩』
私はその一歩を目指している。
西に傾いた太陽が水平線を赤く染めていた。その下に広がる海は夕陽を反射して、鮮やかな赤と橙が混ざった色をしている。
夕刻の海岸線。砂浜に、2つの影が伸びている。
ひとつは立っている人の影。
ひとつは車椅子に座った影。
対照的とも言えるその2つの影は、今、手を取り合って立ち上がろうとしていた。
「……装着よし。違和感は無いかい?」
「はい。問題ありませんよ」
立っている者の問いに、車椅子の者はそう返した。何処か儚くて消え入ってしまいそうな、そんな声。
「…落ち着いて行こう。大切なのは―――」
「イメージ、ですね? 分かっています。ふふっ」
「その通り」
波打ち際の少し陸側、ギリギリ波が来ない所。そこで、そんなやり取りが行われる。
会話の中身は簡素な、ただの確認作業だった。しかし、彼女らの間には、確かな絆のような、朗らかな温かみを感じる何かがあった。
「危なくなったら、私に身体を預けてくれ」
「そうさせていただきます。頼りにしていますよ」
「ああ。存分に頼りにしてほしい」
「――さあ、手を」
影は、車椅子の少女に両手を差し伸べた。機械油の汚れは綺麗さっぱり落ちているが、今までの苦労が滲み出ている、マイスターの手であった。
「――はい」
車椅子の少女は手を取った。
彼女は想像する。足に力を込め、立ち上がるイメージ。自分の足で、大地に直立するイメージ。歩くイメージを。
今、この瞬間。2つの影は、同じ高さになる。
私から見て、明星ヒマリとは、大体のことを何でもやってのける人間であった。
大抵のことであれば何でも知っている。大抵のことであれば何でもできる。研究、設計、開発、果てはハッキングまで何でもござれ。少々自意識過剰な素振りもあるが、交友関係も概ね良好。さらには美人とまで来た。彼女は昔から、一目置かれる存在だった。
秀才集うここ、ミレニアムサイエンススクールに於いて、彼女は頭ひとつ抜けていた。1年生の頃からその才覚を存分に発揮し、当時の上級生をも上回っていった。
そんな彼女が賜った学位は"全知"。その名の通り、彼女はこの世の全てを知り尽くさんとする勢いだった。
頭脳明晰、才気煥発、そして才色兼備。それが、明星ヒマリという人物だった。
だが、彼女には唯一できないこと…いや、
ちょうど1年生の夏休みが明けたぐらいの時だったか。その日は突然やってきた。
その日、私はヒマリさんの作業場へ向かった。私が開発する機械の設計についてアドバイスが欲しかったのだ。彼女は無所属だったが、その才能を買われ、専用の部屋を与えられていた。
私とヒマリさんの間には、僅かながら交友があった。昔からの顔見知り程度の仲。会えば、時折会話をするくらいの。
部屋の戸をノックした。しかし返事がなかった。
彼女の名を呼んだ。返事はなかった。
ドアノブに手をかけた。鍵は開いていた。
戸を開いた。
「……ヒマリ、さん…?」
ヒマリさんが倒れていた。
手に持っていたであろうマグカップが割れ、その中身が床にぶちまけられていた。
「ヒマリさん!何が――大丈夫ですか!?」
「……あ、ぁ……っ…」
うめき声を上げ、ヒマリさんは私を見あげた。転倒したときにぶつけたであろう額が、少し赤くなっていた。
「…てません……」
「…なんですか……?」
消え入りそうな声で、ヒマリさんは言った。
「……立て、ません…」
私はそれを聞いた時、足でも折ったのかと思った。状況と私達の肉体強度的に、その可能性は低かった。冷静に考えれば、そのはずだった。
しかし誰が思うだろうか。
「立てないって…折れたんですか!?足とか―――」
「――いえ…」
「足に…力が入らないんです……まるで、足が、無いみたいな……」
彼女の足が動かなくなったのだと、誰が思うだろうか。彼女はこの瞬間、自分の足で地に立てなくなったのだ。
そして、明晰な彼女は理解したのだろう。これが、単なる怪我ではないことを。自身の足が、二度と動かなくなる可能性があることを。
彼女が何も言わなくても、その絶望感は私にも伝わった。何時も自信に満ちあふれていたはずの彼女の顔が、それを物語っていた。
「……あ、あの…わ、私……」
私は即座にヒマリさんをおぶった。彼女の服はコーヒーで濡れていたが、そんなの構わなかった。
必死になって、医務室までの道を走った。今まで通った中で一番、廊下が長く感じた。
兎に角走った。脇目も振らずただ走った。途中、ヒマリさんが私の背に顔を押しつけた。感じるはずのない彼女の痛みが、私にも伝わった。
医務室に飛び込んでからの事は、あまり覚えていなかった。覚えているのは、終始俯いたままの彼女だけであった。
数日後、私は入院しているヒマリさんのお見舞いに赴いた。ミレニアムは各部門の研究、技術発展がキヴォトストップクラスである。医療機関も、そのひとつである。
病室の戸をノックした。またしても、返事はなかった。
彼女の名を呼んだ。すると、小さく返事が返ってきた。
戸を開き、中に入った。
―――多分、私は、その光景を一生忘れはしない。
彼女はベッドの上で、上半身だけを起こしていた。儚げな雰囲気の彼女は、病院着によって、より儚さが増していた。
問題はそこではなかった。
「あ……来て頂けたんですね。嬉しいです。…ご迷惑をお掛けしましたね。ごめんなさい」
そう笑うヒマリさん。目元が、真っ赤に腫れていた。
枕元を見た。頭が乗っていたであろう場所の両脇が、ぐっしょりと濡れていた。
ゴミ箱の中身を見た。濡れたティッシュが、容量の半分を埋めていた。
病院着の袖も、僅かながら湿気があった。
「……あ、いえ、別にそんな…」
「…お陰で助かりました。お礼を言わせてください」
「…たまたまです。むしろ、来るのが遅くなって申し訳ないです」
「いえいえ。むしろ今日で良かったですよ。昨日まで沢山の人が、この私を訪ねてきましたから」
沢山来て頂けて、私は幸せ者ですね、と、ヒマリさんは机の上の像を取りながら言った。何だかへんてこな、些か前衛的なデザインをしていた。その机の上にあるハンカチも、乾いた部分がないように見えた。
「…ヒマリさん」
「……なんでしょう?」
私は全部察していた。それでも尚、聞こうと思った。
「……足の状態は…どうなんですか」
「……」
目を合わせられなかった。目を合わせるのが怖かった。
ヒマリさんは暫く黙り込んだ。その後、ひとつ深呼吸をして、私に言った。
「…動かすのは難しい――ほぼ不可能だそうです」
予想していた回答が、そのまま返ってきてしまった。自分で聞いたくせに、どう応えたらいいか分からなかった。
空調機の音だけが部屋に響く。病室には時計すらなかった。テレビは備えられていたが、ヒマリさんはつけていなかった。
「……ですが」
静寂を破ったのはヒマリさんだった。
「その程度で私を止められると思わないでくださいね」
「…え?」
発言の真意が分からず、私は思わず顔を上げた。ヒマリさんの色素の薄い、少しだけ赤く腫れた目が、私を射抜いた。
「私はミレニアム史上3人目の"全知"の学位を持つ…そして、超天才清楚系美少女である明星ヒマリなのですよ?この程度、すぐに治してやります」
ミレニアムプライスのカムバック賞は私のものです、と、ありもしない賞のことを絡めながら、彼女はそう宣言した。
彼女は冗談のつもりで言ったのかも知れない。普通なら、ここは笑ってやるところだろう。本気で言っている可能性もあるし、実際そうなのがたち悪いが。
しかし、私は笑えなかった。
普段の調子…クラスの中でこの類の発言をする際、彼女は何時も自信に満ち溢れた言い方をしていた。
しかし今はどうだ。まるで"自分は大丈夫なのだ、きっとどうにかなる"と言い聞かせるような言い方だったのだ。
そして、もうひとつ。
彼女が微笑んだ時、頬を伝う一筋の光を見逃さなかった。
その笑顔は、必死に、気丈に振る舞おうとしている人のそれであった。
暫く寝られなかった。目を瞑るたび、病室で見た光景がフラッシュバックして、まともに寝付けなかった。
ヒマリさんとの関わりは薄かった。それでも、何故か自分ごとのように辛かった。何故、彼女がこんな目に遭わなければならなかったのか。
それから暫く、私は抜け殻のような日々を送っていた。知らず知らずのうちに、あの日の出来事が私のトラウマになっていた。
転機があったのは数カ月後。暫く手をつけていなかった開発レポートを進めようと、自室のコンピューターを立ち上げた時だった。
「…ん…あ……?」
そう。あまりのショックで、私は忘れていた。私の研究テーマを。今、私が何を開発しようとしていたかを。
自律歩行可能なロボットを作ってみたい。なんとなくそう思った私の、第一歩の研究だった。データ、開発物は一通り揃っていて、あとはミレニアムプライス出願を残すだけの状態だった。
「…これ、もしかして――」
作りかけのレポートをスクロールしていく。応用の欄に載っている、ある一文に注目した。
将来的に、歩行支援ユニットとしての応用も可能である。
――転用できる。足が動かなくなったひとのための、支援器具としての開発に。
夢が書き換わっていく。私の目標はすでに、自律歩行可能なロボットの製作ではなくなっていた。
私の夢は。
そう思った時には、もう部屋を飛び出していた。いち早く、彼女に伝えたかった。彼女はすでに退院しているはずだった。
彼女の居室へ走った。今回の廊下も、長く感じられた。
「ヒマリさんっ!!」
「わっ」
ノックも、声もかけずに、戸を蹴破るように開いた。車椅子に座る彼女の肩が、一瞬跳ねた。
「はっ、は、ヒマリ、さんっ…はっ、ヒマリさん…っ!」
「落ち着いてください、どうしましたか?」
「できるかもしれない…!」
息も絶え絶え、そう言った。彼女は困惑したようだったが、私はそんな事を気にする余裕はなかった。
「…何が、ですか?」
「歩けるかもしれないんです…!」
ヒマリさんは虚を突かれたような表情をした。
「…それはどういう……」
「あったんです、私の研究に…歩行支援ユニットの開発計画!これなら、ヒマリさんの足も…!」
私の夢は、あなたをもう一度歩かせることだ。
私、明星ヒマリは、実質的に足を失った。地に足をつけ、立つことは叶わなくなった。
それを聞かされた時、私らしくもなく絶望した。どんな時でも前向きに生きてきた私にとっても、それは重すぎる宣告だった。
治療の甲斐なく、足はぴくりとも動かなかった。原因は分からなかった。この時始めて、科学の限界、または科学以外でしか説明のできない現象があることを思い知った。
私は切り替えることにした。諦めた、という方が適切な表現かもしれなかったが。今この瞬間だって、多機能な車椅子の製作を始めようとしていたところだった。
だが、今目の前にいる彼女は何と言ったか。
歩けるようになるかもしれない。そう言ったのだ。
本音を言えば、もうすでに私の中では、歩けるか歩けないかなどどうでもよかった。だから、この提案も断ろうと、そう思った。
だが。私は、彼女が言い放った一言に、どうしようもなく心奪われてしまった。
何故なら、それは―――
「…お気持ちは嬉しいのですが、それは貴方にとっても――」
「……いや、かもしれないじゃない」
「えっ?」
「絶対に歩けるようにしてみせる…!」
「何を――」
「"全知"にできないことがあっていいはずがない!!」
「あなたが歩けないなんて、そんな悲しいことがあってはいけないんだ!!」
「私の人生全部賭けてでも、もう一度あなたを大地に立たせてやる!!」
―――彼女の情熱に、胸打たれてしまったからだ。
「…ふふ」
もう一度言うが、私にとって、歩けるか歩けないかはさほど重要じゃない。歩けないくらいで、私の人生が終わるわけではない。
そう。どうでもいいのだ。
「…っ、すみません、つい感情的に……」
「うふふ…そうですか。人生を……」
どうでもいい。でも。
私に人生を賭けるとまで言ってくれたこの気持ちを、どうして無碍にできようか。
だから、私も―――彼女に、彼女の情熱に賭けることにした。彼女の情熱が、私の心に火をつけた。
やってやろうじゃないか。たとえ不可能なことでも覆してやる。
「…わかりました。よろしくお願いしますね」
「……っ!ええ、よろしくお願いします…!」
「…そういえば、私達、自己紹介がまだでしたね」
「あ、そういえば…」
「ふふ。では…当然ご存じかと思いますが、私は超天才清楚系"病弱"美少女、そして"全知"の明星ヒマリです」
「ええ、無論知ってますとも。……私は」
私はこの日、世界で―――そして、私にとっても一番の
「白石ウタハ」
これは、足を失った私と、私に人生を賭けたマイスターが―――
「……歩けるようになったら、何処へ行きたいですか」
「…
―――不可能に挑戦するお話。
ヒマリって立てればウタハと同じ身長なんですよね。
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