無個性のヒーローアカデミア   作:明灯月陽

1 / 48
幼少期
彼はまさしくヒーローだった


 物心ついた時から、古瀬井梨には前世の記憶があった。それはどこか別の世界を感じさせるような、そんな記憶だった。

 

 それを自覚し、自我が芽生えたのは三歳の頃の事であった。古瀬はこの世界、取り巻く社会を見てあることに気が付く。

 

「ここ、ヒロアカの世界だ」

 

 テレビを点ければヒーローの活躍が報道され、道行く人の多くが超常の力を持っている。そしてそれらが『個性』という名で呼ばれている。

 

 ヒロアカ、正式名称は『僕のヒーローアカデミア』。前世、と言っていいのかどうかは不明だが、そういう漫画またはアニメの記憶が古瀬にはあった。

 

「なんでヒロアカなんだろう?」

 

 古瀬の頭の中にあるのは知識ではなく、記憶である。情報だけではなく、そこには感情も含まれる。この記憶の体験者が、どう思っていたのかについても分かる。

 

 この記憶の持ち主は、僕のヒーローアカデミアを、あまり面白いとは思っていなかった。つまらないというわけではないが、次第に関心が無くなっていった。

 

 記憶にあるのはアニメのインターン編? まで。それ以降はネットのネタバレをいくつか知ってはいるが、直接それを見てはいなかった。

 

 要は、この人物は転生したいと願う程、ヒロアカに興味が無かった。本当に、何で転生したんだろうと古瀬は首を傾げる。

 

 まあ原作の知識があっても、自分がどの時系列にいるのかは分からない。数十年前か、もしかすると原作の百年後という事もあり得ると当初は思っていた。

 

 幼稚園に緑谷と爆豪がいた。それを見て、原作主人公と同年齢かよ、と古瀬は嫌悪感を露わにした。

 

 前世の人間は、緑谷をあまり良く思っていなかった。それによって古瀬もまた、その感情を引き継いでいた。

 

 なぜ嫌いなのかと問われると、感覚的なもので、上手く言葉で説明することはできなかった。記憶の中で、あまり好意的に見ていなかった事だけははっきりしている。

 

 できるだけ上手く説明するならば、人助け云々と言うくせに、本音の部分は違うように見えたらしい。

 

 人を助けたいのではなく、オールマイトのようになりたいが根っこなのではないか。それ自体はいいが、それを自覚していないのが嫌いなようだった。

 

 出力される結果は同じではあるものの、やはり心が伴っていない感じがして好きにはなれなかったらしい。

 

 かといって完全に嫌っていたわけでもなく、好きではないというか、『うーん』と首を傾げるような、そんなキャラだったらしい。

 

 どちらかといえば嫌いなキャラ、という認識であった。そもそもヒロアカに対する関心が薄すぎて、好きにしろ嫌いにしろ、そこまで強い感情を抱いていなかった。

 

 原作主人公のライバルキャラ? である爆豪に対しては、何かヤベー奴という認識だった。

 

 来世期待して飛び降りろとか、常識的に考えて関わるには怖すぎる相手だった。

 

 今は子供とはいえ何をしてくるか分からない。爆豪を中心として子供が集まる中、古瀬は遠巻きにそれを見ていた。

 

 緑谷も似たような立ち位置だったが、古瀬は緑谷に話しかけようとはしなかった。将来、オールマイトから『個性』を貰うのだと思うと、嫉妬から好きにはなれなかった。

 

 

 

 初め、古瀬は両親に愛されていた。自我が芽生えてすぐの頃は、抱きかかえられ、頬擦りされ、本人の意思を無視してではあるが、彼らなりに愛情を注いでいた。

 

 しかし次第に、井梨に個性が発現しない事に父親の車丈が苛立ち始める。ぶつぶつと家の中で何かを呟き、井梨を見る度にびくりと驚いて、何か変わったことは無かったかと気を遣うように聞いてくるようになった。

 

 車丈が病院で個性の有無を確認しなかったのは、はっきり無いと判明してしまう事を恐れたためである。断言されるよりは不透明な状態、もしかしたらという希望を残していたかった。

 

 しかしそれも限界で、井梨は五才の時に病院の検査を受ける。その結果、井梨には個性が無い事が判明した。

 

 それ以降、井梨の家では車丈と母親の泉が頻繁に争うようになった。その声は、別の部屋にいる井梨の耳にもよく届いた。

 

「お前が井梨を無個性に生んだんだろ!」

 

「あたしのせいだって言うの!?」

 

 些細なことで口論が始まり、その頻度は時間と共に増えていった。家の中では絶えず言い争いが続き、時間と共に井梨が家にいる時間と居場所は減っていった。

 

 井梨は両親が言い争う姿を、冷めた目で見つめていた。どのような言葉を投げつけられようと、何も感じないように努めた。

 

 前世の記憶があったため、井梨が自分を責めることは無かった。両親の方がおかしいと認識していたためである。

 

 初めは別の部屋の隅でじっと口論を聞いていたが、時間の浪費だと思って言い争いが始まると、井梨は家から出るようになった。

 

 

 

 古瀬は、自分は無個性ではないかという疑いを、病院で検査を受ける前から持っていた。ただそうではないと、はっきり分かるまでは思い込むことにしていた。

 

 緑谷出久に初めて会った日、彼がこの先個性を譲渡されるのだと思うと、古瀬は彼の事が嫌いになった。

 

 しかし緑谷に非はないと理解しているため、これはただの醜い嫉妬に過ぎないと古瀬は自分に言い聞かせた。

 

 本人は悪くないと分かってはいるが、感情までは変えられない。そのため古瀬は緑谷から距離を取った。

 

 この世界は漫画かアニメの中で、全てが緑谷に都合よくできている。あいつのために危機が起き、あいつがそれを都合よく解決する。全てはあいつが活躍するためで、自分なんてただのモブBに過ぎない。そう思うと腹が立った。

 

 緑谷はネットで、努力していない、と言われていたことを古瀬は思い出す。オールマイトから個性を貰う前は体を鍛えたりはしておらず、ヒーローになるための努力を何らしていなかった、という否定的な意見を見た記憶があった。

 

 それなら自分は、ヒーローになるために体を鍛えようと古瀬は思った。主に緑谷に対する反発から出た発想で、どれだけ鍛えても選ばれるのは主人公だという嫌味でもあった。

 

 軽いジョギングから初め、一時間から二時間くらい続けばいいなと古瀬は思っていた。

 

 それで終わるつもりだったが、山にいい感じの場所を見つけたため、その後はそこを特訓にすることにした。

 

 動画で他人の戦い方を見ながら、そのやり方を模倣する。拳の打ち方、蹴りの仕方、どの程度の身体能力が必要なのか。少なくとも現状では手の届きそうにない領域だった。

 

 古瀬はちょうどいい、拳を打ち込めそうな感じの木を発見する。拳を痛めそうなため、本気で何かを殴ったことは無い。古瀬は息を整えて、軽く手を突き出した。

 

「二重の極み!」

 

 二重の極みとは、るろうに剣心における悠久山安慈が会得した、ちょっとよく分からない理論によって繰り出される、凄まじい破壊力を持った攻撃である。素早く二撃を打ち込むことによって、抵抗を受けることなく衝撃を伝えるという技である。

 

 古瀬が繰り出した拳は素早く二撃を杉の木に打ち込むが、木は砕けることも、揺らぐこともない。

 

 古瀬はそれを見て、残念そうではあるものの、当然だろうなといった態度を取る。

 

「まあ、そうだろな。他作品の技が、この世界で使えるわけも無いか」

 

 古瀬は、自分が本気でヒーローになれると思っていたわけではない。無個性だった場合、なおのこと無理だろうなと思っていた。

 

 ただあの時何もしなかったからと、あの時鍛えておけばと、何もせずヒョロヒョロガリガリでいる緑谷のようになるのが嫌だった。

 

 運動を始めたのは四才の時からで、それから一年が経った頃に、自分は無個性であると判明する。それでも古瀬が特訓を止めることは無かった。

 

 その理由は、鍛えればヒーローになれると思ったからではない。もしかしたら何かしらの機会に個性が手に入るかもしれないし、あまり頼りたくは無いが、オール・フォー・ワンから貰える可能性もある。

 

 古瀬はヴィランの事が好きなわけではない。どちらかといえば、人に危害を与えるヴィランは嫌いである。

 

 オール・フォー・ワンに縋れば絶対に陸なことにならない事は分かってはいるが、それでも他に選択肢が無いなら止むを得ないのかもしれないと考えていた。

 

 尤も接触する方法が無いため、現状ではただの妄言に過ぎない。しかし遭遇する機会があるならば、そのチャンスは逃さないつもりでいた。

 

 

 

 井梨が八才の時、家の食料が無くなった。冷蔵庫の中は空っぽで、現金も何も置かれていない。

 

 無個性だと判明して以降、家族の仲は次第に疎遠になっていった。会話が無くなり、誰も家にいない時間が増えていった。

 

 それまでは僅かなりとも食糧か、金が机の上に置いてあった。初めはラップをかけられた料理だったのが、栄養食品、缶詰、カップ麺など調理が必要無いものへと変わっていった。五百円玉は二百円、百円へと減っていった。

 

 やがてそれも完全に無くなり、八月のある日、家に食べる物が完全に無くなった。

 

 井梨は柱に凭れ掛かり、壁と天井の境目辺りを見上げる。これはもう通報案件だろうな、と彼は思った。

 

 こんな日がそのうち来るだろうなと、井梨は以前から思っていた。家の中は常に静かで、もはや言い争いさえ起っていなかった。

 

 この家には、人の気配が普段からほとんどない。誰もいないというわけではなく、人がいても顔を合わせないため、会話が全くなかった。

 

 同じ家の中には居る。しかし遭遇すれば忌むように睨まれるため、井梨は相手の視界に入らないように物音がすると移動した。

 

 眠る時は布団を持って屋根裏へと登る。この家は元々、屋根裏に入れるような構造にはなっておらず、梯子や階段などは無い。井梨はタンスを足場にして、天井点検口から屋根裏へと登った。

 

 居るのか居ないのか分からない存在。そんな風に立ち回っていたことも、この状況を招いた原因の一つではあるのだろう。

 

「あの人たちにとって、俺は居ないものってことかな」

 

 消えてほしい存在という事か。井梨はそう思ったが、特に悲しみは無かった。全く無いといえば嘘になるが、ある程度覚悟していたためそれほどの衝撃は受けなかった。

 

 流石にこのままでは生きていけないと思った井梨は、児童相談所に通報することにした。

 

 それから間もなく、井梨は児童養護施設へと保護される。

 

 両親がどうなったのかは分からない。しかし井梨も、この時になると両親への関心を失っていた。彼にとって、二人はもはや他人でしかなかった。

 

 

 

 児童養護施設での生活は、さほど面白いものではなかった。みんな誰かの顔色を窺って、気を使いながら生きており、はっきり言って古瀬はそのような生き方をする周りの子供の事が好きではなかった。

 

 古瀬はよく部屋から抜け出して、近くの空き地で戦うための訓練をしていた。最も、個性持ちと戦えるほどの強さを得ることは無かった。今はただ、体を動かしているだけに過ぎない。

 

「戦い方なんて覚えて、ヒーローにでもなるつもり?」

 

「どうだっていいだろう」

 

 古瀬は同じ施設の少女、夢子に、憮然とした表情でそう言う。彼がこの空き地にいることはよく知られており、ここに来るのは彼女が初めてではなかった。

 

「どんなに頑張ったって、私達じゃ無理だよ」

 

 古瀬はさらに憮然とした表情をする。夢子の事を邪魔にしか感じなかった。

 

 施設には様々な事情の子供たちがいた。そんな中、無個性の子供というのは、施設の中では珍しい存在ではなかった。

 

 夢子もまた無個性であった。ひたすら特訓する古瀬が成功しそうで、不安で、足を引っ張りに来ていた。

 

「どうだっていい。なれない事は、頑張らなくていい理由にはならない」

 

「でもここで一人でやらなくても。向こうでみんな遊んでるよ。一緒に行かない?」

 

「行かない」

 

 古瀬は訓練を続ける。機動力を重視したような動きが多く、時折ブロック塀に拳を突き出していた。

 

「あっそ。怪我しても知らないからね!」

 

 夢子は両手でメガホンのような形を作ってそう言い、怒った様子で立ち去っていった。

 

 古瀬は特に興味を示さずに訓練を続ける。そうしていると、同じ施設の少年、鳥間がやってくる。

 

 よく人が来るな、と古瀬は思いながら、手を止めて何か用かと鳥間に尋ねる。

 

「古瀬ってさ、自分がヒーローになれると思っているのか?」

 

「思っているわけないだろう」

 

 鳥間は困惑するように驚いた様子を見せる。てっきりヒーローになるために訓練を行っているのだと思っていたため、古瀬の返答はかなり意外だった。

 

「なら何で訓練してるの?」

 

 古瀬は手を止めて、鳥間の方を見る。その表情に、特に悪意などは無さそうだった。

 

「さあ、何でだろうな。ただの惰性じゃないか」

 

 古瀬はもはや本気で戦うために鍛えようとはしていなかった。初めの頃は違ったが、今はもうただの惰性で動いているに過ぎない。

 

 周りからは、空いている時間全てを戦いの特訓に費やしているように見える。しかし実際の所は簡単に体を動かすのみで、殆どの時間を漫画の技の再現に費やしていた。

 

 その技が成功することは一度として無く、ただ時間を浪費しているようにしか古瀬には感じなかった。

 

 進展のない訓練、成長する事の無い能力、古瀬はもう、心のどこかで諦めていた。

 

 それでも止めないのは、心のどこかで意地になっていたためである。同じようになりたくないと、自分の心に負けたくないと。

 

 だから古瀬は、高校受験が終わったら、訓練を止めようと思っていた。どんなに頑張ってもお主人公様には敵わないと、笑って止めるつもりだった。

 

「惰性ねえ。やっぱり本当はヒーローになりたいんだろ」

 

「何でだよ。お前はどうなんだ。ヒーローになりたいのか?」

 

 鳥間は何か言おうとして、一旦それを止める。どこかばつが悪そうに、視線を古瀬から逸らした。

 

「俺は、俺は無理だよ」

 

 鳥間もまた無個性だった。今いる施設では、さほど珍しい事ではない。

 

「無個性だからか? だったら俺もだよ」

 

「だからこそだよ。俺よりよっぽど努力しているあんたが無理なら、俺なんてもっと無理だ」

 

 古瀬はフェンスに凭れ掛かりながら、その様子を見ていた。後ろを突き飛ばして、体を起こす。

 

「だから代わりにヒーローになってくれってのは止めてくれよ。俺だって無理だ」

 

 冗談っぽく古瀬は笑う。鳥間はそれにつられて笑い、そうだな、と同意する。

 

「それじゃあ、そろそろ戻るか。君はまだ残るのか?」

 

「あんたの様子を見に来たんだよ。一人だけ残るわけないだろう」

 

 二人は軽口を叩き合いながら、歩いて施設へと戻った。

 

 

 

「それでは皆さん、平和と平等に感謝の祈りを捧げましょう」

 

 それが施設長の口癖だった。これについては、古瀬たちの間にも様々な議論を呼んだ。

 

「どう思うよ」

 

「幸福薬でもキメてんじゃないか?」

 

 鳥間の問いに、古瀬はぶっきらぼうに答えた。そんなわけないでしょう、と隣にいた夢子に叩かれる。

 

 この場には五人の子供がいる。現在は清掃の時間帯で、彼らは掃除道具を持ってはいるが、施設裏に集まって屯している。

 

「なら施設長は清廉潔白で誠実な人だと思うのか?」

 

「そうは言わないけど」

 

 古瀬の意地の悪い質問に、夢子は言い淀む。怒りそうな夢子を古瀬は宥める。

 

「何かそういう、変な噂でもあるの?」

 

「そういうわけじゃないけど、何か怪しくない? 裏で何かやってそうっていうか」

 

 職員が何かを企んでいた場合、その行動は自分たちの生活に直結する。そのため彼らは、施設職員の行動を警戒する傾向にあった。

 

 かといって職員に嫌われると生活していけない。周りから孤立して、最悪いなくなる可能性もある。どれほど嫌っていても、表面上は友好的に振舞う必要があった。

 

「実は裏でヴィランと繋がっているとか?」

 

「ああいう、平和とか愛とか平等とかを口にする人間はなあ。単なる狂人で、実害が無いタイプならいいんだけど」

 

「正直胡散臭いよね。何もしてこないだけましだけど」

 

 古瀬はフェンスの上で胡坐を掻いている。周りより高い位置にいるため、夢子からは馬鹿っぽいとよく言われる。

 

「今の職員で信用できそうな人っている?」

 

「いるかなあ。大体施設長のシンパな気がするんだけど」

 

「施設長に冷遇されてるって意味なら、鮫田さんかな」

 

 その名前を聞いて、夢子は少し難色を示す。同調できない、困ったような顔をする。

 

「鮫田さんかあ。あの人にはちょっと、あまり良い印象が無いんだよね」

 

「そう? 話してみると結構いい人だよ」

 

「俺もあの人はちょっと苦手。悪い人ってわけじゃないんだろうけど、何ていうか、ちょっと露骨なんだよね」

 

 鳥間もあまり良い顔はしなかった。古瀬はどうかと尋ねられる。

 

「ほとんど話した事が無いから分からない。鮫田ってあの人だろ? あの、よく点検とか清掃している」

 

「そうそう。おっとりしていると言うか、間の抜けた人」

 

「あの人に頼ってもどうしようもなくないか? 地位が低くないか?」

 

「まあ、そうだよね。じゃあ他に誰か頼れそうな人っている?」

 

 何人かの名前が挙がって、その場の話し合いは終わった。そもそも職員が少ないため、頼れる人などいないと確認する結果になった。

 

 とにかく施設長は怪しいから要警戒、あまり近づかない方がいいという結論になる。その理由は何か怪しいという物なのだが、その感覚が古瀬には分からなかった。

 

 

 

 古瀬が十一才の時、児童養護施設の床が抜ける。食事中の事で、多くの子供がその崩落に巻き込まれた。

 

 原因は施設長が建物の改築費をケチったため。その分の費用を着服しており、数名の職員含めて彼らは事件後に起訴された。

 

 施設長と何人かの職員は、床が軋みだした時点で何が起きているのかを察知し、いち早くその場から逃げ出した。

 

 その他の職員も、子供たちに外に出るように言いながら外に出る。しかし突然の出来事にその場は混乱しており、職員たちも自身の判断に自信が持てず声が小さかったこともあり、その声は騒音と喧騒によって掻き消された。

 

 床の崩落は彼らにとて突然の出来事だった。職員から見れば、子供たちが大きな穴に飲まれるように消えていく。落ちた人間から見ると、突然視界が真くなり、体に強い衝撃が走った。

 

 この穴というのは、地下水と浸水によってできた空洞である。施設の下に空洞ができていること自体は、事前の調査で施設長は知っていた。

 

 最初に崩落したのは一階の床部分のみであり、建物の壁や天井部分は無事であった。しかしミシミシと、嫌な音が聞こえ始める。

 

 一瞬で床が抜け、多くの人間が落下した。その中には古瀬の姿もあった。体を起こして立ち上がろうとするが、奇妙な感覚と共に体が崩れる。

 

 この時、地下にはガスが発生していた。致死性こそ無いものの、多くの落下者が眩暈と吐き気によって自由に動けなくなった。

 

 古瀬はこの崩れ落ちる感覚は、落下時に頭を強く打ったことが原因だと思った。落ちたのは背中からであったが、その後に頭も打ちつけたため、その可能性を否定できなかった。

 

 そして地に手を付けたことで、この場のもう一つの特徴に古瀬は気が付く。伸ばした腕は水の中から出てくる。頭が水に浸かっている。

 

 この場所は浸水していた。およそ三十センチとそれほど深くはないが、今の状態では脅威だった。また、体温が奪われるのも厄介だった。

 

「誰か……」

 

 古瀬は体を起こして、椅子から転がり落ちる。左右を見ると、何人もの人がそこにいることが分かった。

 

 空は見える。およそ一階分の高さの上から、曇り空の隙間から光が見える。

 

 急な斜面を登れば上に到達できるかもしれない。しかし体が、特に足の自由が利かず、その場から一歩も動くことができなかった。

 

 他人の事どころか自分の事すら覚束ない。名前を呼びかけようとするが、それすらできなかった。

 

 このままではまずいと思った所で、誰かが降りてくる。その人物は水面へと降り立ち、その場にいる人間へと呼びかける。

 

「大丈夫か。助けに来たぞ!」

 

 その人物は鮫田だった。他の職員たちが逃げ出す中、彼だけはこの場に残って、危険を顧みずに救助しにやってきた。

 

 中には助かったと安堵する声もあった。動けない人間が多くいる中、鮫田は自分にできる限り多くの人間を助けようとした。

 

 口元には濡らされた布が当てられており、それでガスの吸入を完全ではないが防いでいた。短時間であれば活動は可能であった。

 

「大丈夫だ。君たちには、未来があるんだ!」

 

 そう言って、水面に倒れる子供たちを担いで、背負っていく。その数は十人を超え、その重量は自身の体重よりも重かった。

 

 ただし、鮫田が担ぎ上げる人間は全て、個性を持った子供たちだった。無個性よりも価値のある人間が優先された。

 

 鮫田に無個性を助ける意思が全く無かったわけではない。ただ、優先しただけであり、その結果、無個性の人間を誰も助けなかっただけに過ぎない。

 

 自分が持てる最大数の人間を担いだ鮫田は、急斜面と脚立を使って一階へと登っていく。残された人間は、ガスのせいで文句を言う事もできなかった。

 

 古瀬も鮫田が助ける人間を見て、個性を持った人間が優先されていることが分かった。ふざけるなと言いたかったが、咳き込んでそれはできなかった。

 

 鮫田が地下から出てすぐ、壁に嫌な音が走る。壁面に亀裂が入り、壁の一部が割れて落ちる。もはや、天井が壊れて落下してくるのは時間の問題だった。

 

 古瀬は近くにいる知り合いを見て、助けなければと思った。しかし体は動かず、手を伸ばしても届かない。

 

 次に嫌な音がした時、天井に亀裂が入り、彼らがいる地下へと降り注ぐ。巨大な塊が、真下にいる古瀬の所へと落下してくる。

 

 それを見て古瀬は、笑うしかなかった。同時に、個性持ちだけを助けた鮫田への怒りが噴き出る。自分たちには、未来が無いと言われたことに対する怒りが湧いた。

 

「ふざけるな!」

 

 古瀬は体を起こして、無意識の内に拳を突き出した。奇妙な感覚と共に、彼の意識はそこで途切れた。

 

 次に意識を取り戻した時、古瀬は施設の外にいた。上半身を起こしてはいるが、体が上手く動かない。誰かに揺さぶられて意識を取り戻す。

 

 目の前にいたのは数名のヒーローだった。状況が分からず辺りを見回すと、後ろに倒壊した施設があった。

 

「大丈夫か?」

 

「何が……」

 

「建物が倒壊したんだ。君がいた場所には瓦礫が落ちず、奇跡的に助かったんだ」

 

 古瀬が手を持ち上げると、自身の腕が目の前にあった。瓦礫によって潰れたはずの腕が、多少の傷はあるものの健在だった。

 

 意識が朦朧とする中、古瀬は再度辺りを見回す。近くに、他の子供の姿は無かった。

 

「他の生存者は?」

 

「建物の下敷きになった人の中で、助かったのは君だけだ」

 

 ヒーローの個性によって、生存者がいない事はすでに確定していた。

 

 古瀬は再度振り返って、倒壊した建物を見る。そこはひどく無機質で、生者がいないと思うと一層冷たさを感じた。

 

 突然全員が死んだと聞かれて、古瀬は事態を上手く呑み込めなかった。ただその言葉に現実感が無く、嘘にしか聞こえなかった。

 

 何かを感じる間もなく、前の方が騒がしくなる。そちらを見ると鮫田が、周りから称賛されていた。

 

 運び出した子供たちは、既に病院に搬送されている。鮫田はヒーローから、その行為を称賛されていた。

 

 それはそうだろう。自らの身を顧みず、倒壊寸前の建物に突入して、何人もの子供たちを救いだした。

 

 助け出された子供から見ても、社会的に見ても、彼はまさしくヒーローだった。ならそうではない人間にとっては?

 

 憎い相手が周りから称賛されている。自分たちを見捨てた人間が、無個性には価値が無いと、見放すべきと判断した人間が、周りから褒め称えられている。その光景は古瀬にとって、直視しがたいものだった。

 

 体が動かず、歩いて行くこともできない。古瀬にできるのはただ、視線を逸らす事だけだった。

 

 古瀬はそこから見える景色を眺める。空は曇っており、雲の切れ目から光が差し込んでいるのか、空の彼方は明るかった。

 

 古瀬はこの日の事をほとんど憶えていない。ただ、空が綺麗だったことだけを憶えていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。