ユイと定期的に会うようになって、もう三年が経った。
もう三年経ったのかという気持ちが強く、この三年間が高校生活のものと同じだけの長さであったという事実に対して単純に驚いた。
私は特に何も変わらなかった。
先生やケイから言わせれば、見た目も変わっていないらしい。
特に何も意識していなかったが、本当に何も変わらなかった。
毎朝鏡に映る自分は殆ど変わりがなく、変われない自分を象徴しているようで嫌だった。
学生時代から変わらない顔が、私を見ていた。
ユイは六歳になった。私が初めて会った時からより成長した。より、似てきたなと思う。
子供の成長速度は目を見張るものがある。
日々、変わり続けるユイを直視するようになって、私は彼女が明確に彼女の娘なのだということを再認識することが多かった。
勝手に本を読んでいた。
まあ、これはどこの家にもあることだろう。子供の腕の範囲に本があるような家であればだが。
ユイが読んでいたのは、そういう子供の範疇から外れたものだった。
先生の家には、特に論文が多くあった。
可愛らしい絵本だとか、子供向けの図巻だとかではなく、取り寄せた論文だとか、古代のことについて書かれた資料だとか。
本ではないが、高性能の演算装置だとか、多面モニターだとか、古代の遺物だとか。
私が言うのもなんだが、可愛らしくないものを好んで読んでいるようだった。
もちろん先生のものではない。彼女のためのものだった。
殆どの時間を家で過ごせるように手配されたためだ。平穏な生活だっただろう。確かな安寧があっただろう。
しかし、その頭脳はぬるま湯につかり続けることを良しとしなかった。
想像に難くない。
彼女は、矛盾しそうな二面性を確かに両立させていた。
ヴェリタスに、特異現象捜査部に、ミレニアムにあったものを移したりする中で今の家が形成された。
様々な人が協力していた。彼女の人徳があってこその成果が、この家だった。
持ち主がいなくなった後に私が引き取ることも提案したが、先生は断った。
『リオが持って行ってくれた方が役に立つだろうし、私が持っててもしょうがないのは分かってるんだけど⋯⋯あんまり、変えたくなくてね』
先生は、強い人だと思った。
この家に居たら、嫌でも思い出してしまうだろうに。
幻覚がちらつくたびに、幻聴が聞こえるたびに、私は痛みを覚える。
わずかな痛み。胸の奥を刺すような幻痛。
この家に居ると、ドアの向こうから自然に出てきそうな気がしてくるものだから、その錯覚を振り払うのに必死だった。
先生に問うたことがあった。彼女の幻覚を見たことはあるかと。
先生は言った。
『見たことないなあ。化けて出て来てくれてもいいぐらいなのに、なんて』
先生の前には現れないのに、どうして私の前には現れるのだろう。そう口にすると、先生はなんとなしといったように答えた。
『リオに伝えたいことがあるのかな』
私の脳が勝手に作り出している錯覚に、意思なんてないはずだ。
それでも、そうなのかもしれないと思わせるような言葉だった。
ユイが彼女の遺した論文を、アリスの傍らで読んでいる場面に出くわしたことがある。
理解できない部分を熱心にアリスに質問していた。アリスの演算回路の性能は非常に高いが、知らない事柄に対して対処できるわけではない。分かる部分は何とか答えていたようだったが、専門性が高くなると途端に言葉が詰まってしまうようだった。
アリスが助けを求めるので、仕方なく代わる。
『りお、これはなんで?』
『それは――』
小学校、中学校、高校と段階を踏んでいくのは、学びには前提知識が必要だからだ。一段飛ばしで学んでも、理解することはできない。学問は最も積み重ねが肝要な分野だと言えるだろう。
だから、アリスを困らせたのも、そういった土台がないからだろうとあたりをつけていた。
まだ六歳。その内容を理解できずとも、文章として読めているのが驚きなぐらいだ。
話していく中でもっと初歩的な教材に誘導すればいいだろうと考えながら、私はいくつかの質問に答えた。
話していると、それが間違っていると分かった。
ユイは、間違いなく理解した上で質問をしていたのだ。
ミレニアムに入るとしても、これから高校に入るまでの9年間で身に着けるべき知識の殆どを土台として持った上でこの論文を読んでいた。
『⋯⋯待ってちょうだい、この知識はどこで知ったの?』
『? 読んでったら分かったの』
案内されると、ユイの部屋についた。
そこの本棚には、初歩的なものから難易度が高い教材まで、効率的な学習順で下から並べられていた。
BDはミレニアムのものではなく、個人製作のオリジナルのようだった。
まるで、小さな子供が何も考えずに取っても順序立てて学べるように。
土台をきちんと積めるように。
この子は、確かに親から学んだのだと、私は思った。
『ねぇりお、教えて?』
『⋯⋯分かったわ』
思わず、口角が上がった。
先生として、優秀な生徒を持ったことを自覚した。
☆☆☆
『部長のことが知りたいの?』
「⋯⋯はい、そうなんです」
私は姉さんからもらった連絡先に、電話をかけていた。
どうやら、私の母について詳しい人だろうと。
相手がだれかが分からない状態でかけるのは普通に嫌だったが、先に話を通しておいてくれるという話だったので意を決してかけた次第である。
『そっか、部長の子供か』
そう言うと、彼女は少し黙った。暫く待っていると、今までの空白がなかったかのようなテンションで話し始めた。
『いいよ、何が聞きたいの?』
そう問われると、私も困ってしまうというのが本音だった。
正直、自分でもまだまとまっているわけではないからだ。
「彼女は、明星ヒマリは、どんな人でしたか?」
結局、漠然とした質問にならざるを得なかった。
『⋯⋯難しいね。結構前のことだから、もしかしたら補正があるかもしれないけど、それでもいい?』
「大丈夫です」
『⋯⋯不思議な、人だったな』
そう言われて、私は少し驚いた。
書類を追って行って分かる彼女は、天才だったから。
というより、天才であることと、どうやら病弱であったという二面性しかわからなかった。
あまりにも、彼女は戯画的であった。
聞く人聞く人、口を開けば異口同音。
彼女は『天才』だった、と。
頭がよく、切れ者で、それでいてユーモアがあり、しかし彼女を表すのはやはりその頭脳であると――。
「天才だった、とかではなく?」
『? 頭はよかったね。会長と同じか、それ以上に。比べたら本人たちが揉めるからしたことないけど』
だから、お母さんにとって身近だったであろう人に対して、どうやら違う印象を与えていたというのは新しい発見だった。
『でも、私にとっては、愉快な人だったっていう方が先にくるなあ』
「というと?」
『スマホの予測変換を全部、天才美少女に変えられたりみたいな。しかも初対面で』
「⋯⋯はぁ」
何ともまぁ、くだらない話だった。
気が抜けてしまうような、イメージと違うような。
『くだらないでしょ? でも、私は好きだった。この人にならついて行ってもいいなぁって、その時に思ったんだ』
この人も、不思議な人だなと私は思った。
『寒がりで、オカルトが好きだった。あったかい飲み物をよく飲んでて、でもカフェインがあんまり体に良くないから、途中からやめてホットミルクをよく飲んでた。コーヒーは好き?』
「それなりに」
『そこは会長に似たんだね』
突然リオの名前を出されて狼狽える。
コーヒーなんて、皆飲むものだろう。
「別にリオが好きだから飲んでるわけじゃないです」
『今の反応は部長そっくり』
⋯⋯ペースが乱される。
『意外だったけど、演歌を聞いたりしてた。何かと構いたがる性格でね、世話を焼くのが好きだったな。困ってる人が居たらこっそり裏から助けてあげたりね』
「⋯⋯リオと、お、お母さんはどんな関係だったんですか」
『会長との関係か⋯⋯』
結局私はそこが最も気になっているところだった。
そのことを聞くために、電話したと言っても過言ではなかった。
『多分期待してたと思うんだけど、ちゃんとした答えを用意できるわけじゃないと思う。先に謝っておくね』
「そう、ですか」
『だから、私がわかってる分を話すよ』
そう言うと、ぽつぽつと語りだした。
『会長と部長は中学生ぐらいの時に初めて会って、仲良くなったみたい。で、高校一年の終わりから二年ぐらいにはお互いの道が交わらなくなった。スタンスの違いって本人たちは言ってたよ』
彼女も人づてに聞いた話だからだろう。語り口はどこか頼りなさげで、記憶を丁寧に掘り起こしているようでもあった。
『私と部長は2歳差だったからさ、何があったのかは分からない。私としては、大きい出来事とかはなかったのかなと思う』
「⋯⋯そうでしょうか? 何かあったと考えるのが自然だと思いますが」
『人と人の関係って、何もなくても少しずつ変わっちゃうから』
そういう、ものなのだろうか。
私にはまだピンとこない考えだった。
『部長は、ずっと会長のことを気にしてたみたい。じゃなきゃ、よくわからない部活の部長なんて引き受けないだろうし』
「⋯⋯特異現象捜査部ですよね」
『そうそう、特異現象捜査部。最初期は私一人の部活だったんだ』
ミレニアムのデータベースの深層に隠されていた部活。そこにも母と、リオの名前があった。
『今考えても結構無茶苦茶だよね。微妙な関係になってる人に自分が作った部活の部長頼むなんて』
「⋯⋯随分なメンタルですね」
『必要なことなら割り切れる人だから』
合理的な思考は、昔から変わらなかったようだ。
『会長も部長には色々気遣ってたよ。ああ見えて繊細だからさ、色々気にしてた』
「へえ」
あのリオが?
繊細なことには同意するが、あの朴念仁がそんな風に人を気遣えるなんてにわかには信じがたい。
『信じてないよね、その反応。まあ、部長もそれに最初から気づいてたかは分かんないな』
「人に伝わらない気遣いとか意味ありますか?」
『⋯⋯本当にね、私もそう思うよ』
そう言うと電話越しに彼女は軽く息を吐いて、私に聞いた。
『こんなところかな。他に聞きたいことあるかな』
「⋯⋯病弱だったんですよね。自分の身体の状態も分かってたはずです」
『と言うと?』
私は、どうにもそこが引っかかっていたのだ。
「家にレポートや診断書が残っていました。どう読んでも妊娠と出産には耐えられそうにない数値ばかりで、流産してしまう可能性の方が高いぐらいでした」
『そうだったね』
酷い数値だった。
彼女が天才でなければ、自分の身体のことすらコントロールできずに早死にしていたのだろうと思わせるぐらいには。
『⋯⋯まあ、確証があったんじゃないかな。会長も手伝ってくれれば、出産までは上手く行くだろうっていう』
「⋯⋯リオも手伝ってたんですね。それはともかくとして、それには自分の命の保証が含まれてません」
なぜ、自分が死ぬと分かっていても止めなかったのだろう。
未だ届かないなりに、『全知』を目指さんとする一人として。
かつての『全知』らしからぬ判断について、私は考えた。
「未来に何かを遺したいなら、それは自分の子供でなくともよかったはずです。組み上げた理論が、証明が、『明星ヒマリ』の名前を未来まで連れて行ってくれるはずです」
『今でも十分残ってるよ。部長の名前は』
「知っています。そして、そしてまかり間違っても自身が生き残る可能性に賭けたわけでもないでしょう」
なぜ、なぜ、なぜ。
家をひっくり返して、私が分からなかったことだった。
だから、私は姉さんに問うたのだ。
「きっと長くない寿命を縮めて、最悪何もかもうまくいかないかもしれないリスクを許容してまで」
こうして、答えを知るかもしれない人に今、私は話を聞いている。
「どうして、私を産んだのでしょうか」
それが、私にはわからないことだった。
『⋯⋯部長は、子供が好きだったから』
彼女は、そう答えた。
『他の、話にしようか』
残りの話も、興味深いことでいっぱいではあったが。
この質問の時の、彼女の声が、私の脳裏に焼き付いていた。
☆☆☆
『どうして、私を産んだのでしょうか』
電話越しの少女――ユイは、そういって私に問いかけてきた。
話していて、部長の子だなあと思うとともに、また会長に似ているなと思わせるような子だった。
あの質問なんか最たるもので、部長だったらしないだろうと思うような質問だった。
会長だったら、するだろうなと思う。
そんな質問だった。
思い返せば、輝かしい日々であった。
ヒマリ部長がいて、リオ会長がいて、先生がいて。
トキがいて、アリスがいて、ケイがいて。
モモイも、ミドリも、ユズも。
かけがえのない仲間がいた。
皆はこの問いにどう答えるのだろうか。
部長に、妊娠したのだと伝えられて、私は本当に驚いたのだ。
だってそうだろう。あの先生が、部長を抱くだなんて思わなかったのだ。
案外年は離れてないし、傍から見てもお似合いだったけど。
いや、結婚したのだからそういうことをしないというのも変な話なのだが。
あの、少し触れただけで壊してしまいそうな体を思い出す。先生も心配でしょうがなかっただろう。
まあ、学生時代だったら何とかなったのかもしれないけれど。卒業した後の部長は本当に儚げで、風が吹けば飛んで行ってしまいそうだったのだから。
部長の身体を思えば、堕ろした方がいいとか、子供が欲しいなら養子でも取るべきだとか、そういうことを言った方がよかったのだろう。
私はそうしなかった。
それでも私は、部長のことを肯定した。
部長がやりたいと思ったことを、私は尊重してきたのだから。
本当に、したいことなら、私には止めようがなかった。
だって、和泉元エイミは今までずっとそうしてきたのだから。
短く、よかったね、なんて言ったら、部長は飛び跳ねるように喜んで。
学生時代から変わらない笑顔で、私に笑ってみせたのだ。
『願わくば、出会いに恵まれて欲しいですね』
止めなかった。
私は、部長ではなく、部長の判断を尊重したのだ。
部長は、見てるのかな。
ユイ、結構楽しそうに生きてるよ。
部長のお陰で、私も結構楽しかったのだ。
「部長って、ひんやりしてたなぁ」