人里で仲良くなった老人のため、風見の丘に花を取りに行った霧雨魔理沙。その庭園の主である風見幽香に捕まり、事情を話すと意外にもあっさり花を渡してくれる。それは幽香が過去に経験した、人間との間に起こった決して忘れられない出来事に理由があった。


1 / 1
変に長いし読みにくいかも知れませんが、よろしくお願いします。


華宵奇譚

もう何年も、わたしは夢を見るようにここにいる。

 丘の上でただひとり、どこまでも広がり続ける世界にすら目を向けず、広々とした蒼穹の下で、風見幽香は長い間花に囲まれている。

 季節の花で周りを囲み、彩り鮮やかな香りで満たす。朝も昼も夜も、飽くことなく日傘を片手に花の丘に立つ。

 わたしは、夢を見るようにここにいる。

 幽かな香りを頼りに、種をさらう風を見送りながら。

 

 

   1

 

「捕まえた」

 

 首根っこを引かれる感覚。

 地面から足が離れ、腰が抜けるような不安を感じて情けない声が出る。急に出てきた自分の声に慌てて、すぐさま口元を両手で抑え込んだ。

 霧雨魔理沙は、そのまま親猫に捕まった子猫のように小さな体をさらに縮ませた。

 

「もう何度目になるかしら。いい加減わたしも愛想が尽きたわ」

「ま、待て待てっ。わたしは何もしてないって、ただ花を見に来ただけだぜ」

「摘もうとしていたわよね、あろうことかわたしが育てた花を」

 

 花の妖怪、風見幽香が育てる花を摘む。それが自ら毒を飲むことと同じ意味を持つのだと、彼女を知る誰もが知っている。彼の妖怪の逸話は、間違いなく彼女の持つ脅威から入ってくるからだ。

 極上の容姿と、蕩けるような甘い声。花を操る程度の能力、そんな可愛らしい乙女を連想するような力の裏に隠された、彼女の恐るべき性格。いかに恐ろしく、強大で、慈悲がないのか。

 とりわけそれが花に関することならば、彼女は神仏すらもひれ伏させた後、下げられた頭を踏み潰すに違いない。

 ゆえに……。四季のフラワーマスター、風見幽香を恐れるものはこの幻想郷でも数多い。

 魔理沙は無意識に生唾を飲み込んだ。幼い造りの顔から血の気が引いていき、頬のあたりがピリピリと痛むのを感じる。くるぶしのあたりが妙に熱かった。

 

「言い訳を聞こうかしら、人間?」

 

 殺意というものが形を持つなんて、魔理沙は思っていない。だからといって、明らかに自分より強い相手や、自分を殺そうとする相手から感じるあのプレッシャーが気のせいだと言い捨てることもない。

 あれは外から感じるものじゃない。自分の内側から湧き上がってくる不安や恐怖が、目の前にいる敵から発せられていると勘違いしているだけだ。

 殺気に当てられて恐怖する、不安を感じると、人が勘違いしているだけ。本当はまったくの逆で、恐怖や不安がありもしない殺気を生み出してしまっている。殺気なんてものはあくまでも、自分の中でしか輪郭がはっきりしないものなのだ。

 しかし。

 風見幽香の殺気というものは、論外なのだった。

 艶めかしさすら感じる大きな目が細められ、宝石のような緑の瞳が半分だけ見える。彼女の視線には確かに殺意というものがあって、それが確固たる形を得て魔理沙の首を絞めてきている。

 息がつまるほどの苦しさ。睨まれるだけで呼吸困難を引き起こしそうなほどの圧力。彼女の前では、数分の睨み合いですら命取りになりかねない。

 

「あ、……は、はっ」

 

 さすがにまずい。しかし逃げようにも、後ろ襟を掴んでいる手から脱出することができない。幽香は魔理沙の服が破れてしまわないように、絶妙な力加減で彼女を捕らえていた。

 仕方なかった。本当は言い訳なんて絶対にしたくなかったけど、言わなければ放してくれそうにない。言ったところで放してくれるかは定かじゃないけれど、話くらいは聞いてもらえるだろう。

 

「わ、かった。言うから、放して……」

 

 思ったよりも、情けない声が出た。泣きそうになるくらい悔しかったが、それも一瞬で、そんなことを考え続けられるほど余裕もない。

 幽香は小さな少女が懇願する様子を翡翠の眼で睨み続けている。魔理沙を掴むその手は一向に離れようとしなかったが、ふっと今まで感じていた息苦しさが消えた。

 

「言ってごらんなさい、魔理沙」

「あの、まず下ろしてくんないか?」

「そうねぇ。まず理由を聞いて、それが納得できる理由だったら、ね」

 

 納得できなかったら容赦しない、言外にそう言っている幽香の笑顔は、まるで人形のように完璧な形をしていてそら怖ろしい。無欠の魅了というのは、なんと恐怖をそそるのだろう。

 魔理沙は渋々、といった様子で口を開いた。

 

「人里に仲のいい奴がいる。そいつが病床に入ったから、見舞いに花を持って行きたかったんだ」

「あなたがお見舞い? 心がけは殊勝だけど、そんな人間には見えないわね。もうちょっとましな嘘ついたらどう?」

「ホントだっての。ったく、そんなにおかしいかよ、わたしが人を見舞うのが」

 

 ふて腐れたような言い方に、幽香は毒気が抜かれたような表情をする。魔理沙は口を尖がらせてそっぽを向いているため、幽香のその顔は見えていない。

 魔理沙のその姿が、ふと幽香の中で誰かと重なる。胸の真ん中、その少し左側を小突かれたような感じがした。

 

「お供え物に手を出すような盗人にしては、不自然よね」

 

 幽香はそう言いながら、どこか得心がいったという顔で魔理沙を下ろす。ようやく地面に足が付いた魔理沙は、うるせぇ、とぼやくように言いながら首をさすっていた。

 

     ◇

 

 魔理沙にしては、少し意外だった。

あの幽香がすんなり自分を許した。それが意外だったし、何かあるのではないかと逆に疑ってしまうくらい、普段から知っている幽香の言動にそぐわない。

 あまりに素直すぎる。魔理沙は訝しみながら、庭園を進んでいく幽香について歩いていた。

 

「ついてきなさい。花を用意してあげるから、それを持って早く帰って頂戴ね」

 

 幽香はそう言って魔理沙を先導しつつ、広大な丘に広がる花々の中に入っていった。見失わないように歩きなれない道を歩いて、気づけばずいぶんと奥まったところまで案内されている。

 まるで花でできた迷路みたいだ。中にはひまわりなんかの背の高い花もあって、まるで壁のように背の低い魔理沙を阻んでくる。それらをやっとの思いで抜けると、少し開けた場所に出て、幽香はその真ん中あたりで魔理沙を待っていた。

 

「その人は、何の花が好きなのかしら。椿なんて風情があっていいと思うけど、季節じゃないわね」

「見舞いなんだから、普通に紫陽花とかカーネーションとかでいいと思うぜ」

 

 幽香はそう、と短く言って地面に向けて手を広げた。その手から小さな何かが落ちて、沼に沈んでいくように土の中に消えていく。一瞬だけ見えたそれは、どうやら植物の種みたいだ。

 さわさわ、と周りの花たちが互いの体を擦らせている。

風に揺れているわけではない。さっきからこの辺りは風が吹いていないから、とても静かだったはずだ。

 どうやら彼らは、自分たちの主がこれから新たな命を生み出すことを知っているらしい。

 幽香はジッとしたまま、種をまいた地面を見下ろしている。しばらく黙って見ていると、種が落ちた場所が小さく弾けるように隆起した。普通では考えられない、驚くべき速さで芽が育ち始める。

 これが風見幽香の能力、花を操る程度の能力。命を操る力だ。

 

「なんでわざわざわたしの庭園にまで来たの? 人里にも、花屋くらいあるでしょうに」

 

 育ち続ける花から目をそらさずに、幽香は暇そうにしている魔理沙に尋ねた。

 

「今寝込んでる奴の頼みでな。もう一度、ここの花を見たかったそうだ」

 

 見事なものだと、周りを見渡して思う。

 ここにある花は、どれもこれも命の輝きが見える気がする。それくらい生き生きしているのだ。太陽の光を一身に浴びて、色彩鮮やかにその存在を誇張する。

 鼻孔をくすぐる香りは、一体どの花のものだろうか。香りのない花などないと言わんばかりに、母の手のように繊細な香りが顔の周りを撫でてくる。

 中でも、この広場は特別なようだ。ぐるりと囲うように生えている花々は四季折々で多種多様。小さくても、確かな世界がここにはあるのだ。

 

「……もう一度?」

 

 芽吹いた花はもうかなり育っている。もう見ている必要がなくなったのか、幽香は魔理沙の方を向いて訊いた。

 

「ここの花を見たことがあるの?」

「ん、ああ。子供のころに一回だけ、病気で倒れた母親のために花を探して回ってた時に見たらしい。当時は里に花屋なんかなかったらしくて、あちこち探し回らなきゃならなかったって言ってたな」

「……その人間っていくつなの?」

「あれ、言ってなかったっけ? うぅん、正確な歳は知らないが、ありゃもう八十くらいいってるな。ちょっと前に霊夢と一緒に釣りを教えてもらって、それで仲良くなったんだ」

 

 八十、と幽香は呟くように繰り返した。

 

「丘の上で見事な花畑を見たって言ってたぜ。そこであった女に、花まで譲ってもらったって。それ持って帰ったら、母親があっという間に元気になったらしいぜ。だいぶ前に寿命が来たらしいけどな」

「そう、元気になったのね」

 

 幽香のこの様子を見るに、どうやら魔理沙の友人のことは憶えているのかもしれない。

 丘の上の花畑。これを聞いて幽香の庭園を思い浮かばない者は、今の幻想郷にはいない。十中八九ここだろう、と思って来た魔理沙だったが、どうやら予想は当たっていたようだ。

 

「だいぶ感謝してるみたいでな、もう一度会えたらお礼を言いたいんだと。ったく、そんなこと、自分でさっさと言いにくればいいのにな」

「人間は弱いじゃない。怪我をした足じゃ、こんなところまで登って来れないでしょう」

「……なんだ、やっぱり憶えてるのか」

 

 年老いた友人は、右足を怪我していた。生来のものではなく、それは母親のために懸命に走り回ったことで負ったものらしい。

 ……妖怪に襲われたのだという。何の妖怪なのか、それだけは魔理沙に話してくれなかった。

 それがもう忘れてしまったからなのか、それともまだ憶えていて言いたくなかったのか。

 忘れていたのならいい。だが憶えているのに教えてくれないのは、一体どうしてだろうか。どうして彼は、魔理沙にそれだけを隠したがるのだろうか。

 ――よもや、自分から頼んでおいて、断られると思ったのだろうか。

 

「なんで、花を渡したんだ? 一度は殺そうとしたんだろ。逃げないように、足まで潰したのに」

 

 わからないから、当事者に聞くことにした。

 幽香はずぅっと蒼穹の果ての方を眺めていた。

 日傘がゆるゆると回る。それにつられるように風が吹いて、肩まである幽香の髪を持ち上げている。奥の方で白い綿のようなものが空に浮いた。あれは、タンポポの種だろうか。

 魔理沙は飛びそうになった帽子を押さえながら、訥々とした幽香の声を聞いた。

 

「泣いていた気がする。どうしてかわたしにはわからなくて、訊いたわ。そしたら彼、わからない、何に泣いているのかわからない、なんて言うんですもの。わたし、それ聞いたら笑っちゃって、もっとわからなくなってしまった」

 

 何を言っているのか、魔理沙にはわからなかった。もしかしたら幽香は自分の話なんて聞いていないんじゃないか、と思ってしまうくらい、幽香の言葉には脈絡がない。

 いや、本当は憶えていないのかもしれない。妖怪の記憶は六十年周期で整理されると聞く。友人が魔理沙の見立て通り八十近くの齢ならば、子供の頃となれば六十年以上前のことのはずだ。

 幽香は憶えている素振りを見せているが、その実、憶えている気がしているだけなのかもしれない。もしそうなら、魔理沙は妖怪の記憶に少しだけ心地の悪さを感じる。

 一周してしまった記憶は二度と戻らない。憶えている気がすると思っても、それを思い出すことは二度と出来ない。なんという気持ちの悪さだろう。

 魔理沙は胸の中に、ゼリーのような水が入り込んでくるのを感じた。

 それを紛らわすために、魔理沙はぼぅと佇んでいる幽香に向かって、返ってくるとも思っていない質問を不躾にしてやった。

 

「どっちなんだ、それ?」

「……何が?」

 

 思ったよりも、反応はある。魔理沙は続けた。

 

「泣いてたのはそいつか、それとも……」

 

 幽香の顔を見ていたら、何故かその先が喉につっかえて出てこなくなってしまった。

 

 

     2

 

 

「よく生きてたわね、あなた」

「知ってたら行かなかったよ。そんな恐ろしい妖怪だったなんて、当時は知らなかったんだ。なにより、あの時は必死だったんだろうね。かかあのために花を取ってくることしか頭になかった」

 

 まだ子供だったからね、と恥じる様子もなく言う老人に、霊夢は呆れてため息をついた。花妖怪に会って帰って来れる人間なんて、数えるほどしかいないというのに。

 

「綺麗な花畑だった。こんな感じの花が、ずぅっと見えなくなるくらい遠くの方まで咲いているんだ。あれには参った」

 

 老人は布団の横に置かれた花瓶を指さす。そこには色鮮やかな紫陽花が活けられていて、生き生きと花を開いていた。見ているだけでお腹の底からぽかぽかしてくるような、そんな心地のいい雰囲気を持っている。昨日、花妖怪に会って来たという魔理沙が置いていったものだった。

 

「こうしてもう一度、あの夢のような景色を見せてくれた。満足したよ」

 

 老人は静かにほほ笑む。皺だらけの顔は年相応に、頭髪も真っ白になってしまっている。その姿が、彼が生きてきた年数を雄弁に物語っていた。

 彼がかかった病は、普通に生きていればかからないような感染率の低いものだ。よほど免疫力が低下していなければかからないような、弱い病気。

 つまり、そんな病気にかかってしまうくらい、この老人は弱ってしまっているのだ。

 足を怪我してから激しい運動が出来なくなってしまったために、外に出ることを避けて生活してきた。長生きできたのはその質素すぎる生活のおかげだろうし、何でもないような病気で死にかけるのもそのせいなのだろう。彼はもう、長くはない。

 人懐っこく笑うその老人に、霊夢は言うべきかどうか迷った。

 しかし、今言っておかなければ、きっと後悔することもわかっていた。

 自分が。そして誰より、彼が。

 

「何が満足よ。あなたが本当に見たかったのは、あいつでしょ」

 

 老人の顔は、穏やかなままだった。薄く開いた目が暗い天井を見つめているが、おそらくその視線は天井よりもずっと向こうにある。

 昨日と変わらず、今日も外は晴れている。屋根がなければ、きっと清々しいくらいの蒼穹が広がっているだろう。

 

「花を眺めているあなたの目は、その花と同じくらい綺麗な目をしてる。まるで駄々を捏ねる子供みたい。欲しいものがあるなら、手を伸ばせばいいんだわ」

「そうするには、ちっとばかり歳を喰いすぎたね」

「あら、これでも子供と老人には優しいつもりよ。受けた恩は返すかは気分次第だけど、魔理沙が返したのにわたしだけ何もしないんじゃ後味悪いような気もするし」

 

 気のせいかもしれないけど、そう言って霊夢は機嫌よさそうにほほ笑んだ。それを見て気を良くしたのか、老人は声を出して笑った。

 

「じゃあ、今からひとつ君に問いかける。何でもいい、それに答えてくれないか」

 

 霊夢は何も言わない。

 老人は天井を見ていて、声はしわがれていた。

 

「妖怪はどうして泣くんだ。人は悲しいとき、嬉しいときにも涙を流す。なら妖怪はどうだい、どんな時に彼らは涙を流せる?」

「見たことあるみたいな言い方するわね。妖怪が泣いたところなんて、わたしでも見たことないわよ」

 

 今度は老人が黙った。薄く開いた目で霊夢を見て、まるで物を乞うように問いかける。

 

「どうしてあの妖怪は泣いていたのか。それがずっとわからない。生涯をかけても、わからなかったんだ」

 

 老人はずっと、それだけを悩んでいたのだろう。

 霊夢たちが釣りを教えてもらった時、傍らについてくれていたこの老人は、ここではないどこか遠くをずっと見据え続けていた。その眼にはきっと、かつて目にした光景を映していたに違いない。

 つまりは、彼の記憶の中にしかないそのひと時。あの丘の上の庭園を。

 霊夢は何も言わずに立ち上がった。

 

「恩を返してくれるんじゃないのかい?」

 

 声は、想像していたものより冷たくはなかった。

確実に怒りを買ったと思ったのだが。それとももう、怒るほどの体力も気力も、すでに枯れてしまっているのだろうか。

 

「言ったでしょう、気分次第だって。答えるとは言ってないわ。本人に直接訊くか、自分で答えを出すのね」

 

 ぺろっと舌を見せて出ていこうとする霊夢を、老人は止めようとはしない。まるでその姿を目に焼き付けるように、胡乱な眼でただじっと霊夢を見据えるだけだった。

 霊夢は最後に言う。

 

「希望は、最後まで捨てちゃだめよ。たとえ死ぬとしても、死んだ後でさえその気持ちは捨てちゃだめ。でないと、あなたの気持ちが救われない」

「そんな、ものかねぇ」

「ええ。そうすれば或いは」

 

 叶い得る願いも、あるかもしれないもの。

 霊夢が生きている彼を目にするのは、これが最後となった。

 

 

     4

 

 

 老人は夢を見るように微睡んでいた。

 思い出すのはもう何十年も昔こと。丘の上で見た、あの奇跡のような光景。

 色鮮やかな花々の楽園がそこにある。見たこともない花が、辺り一面に満面の笑顔を咲かせている。

 天国があるとしたら、きっとこんな風に花であふれているに違いない。そう思った。

そこに、あの妖怪は立っていた。

 悠然とした姿に、日光をいっぱいに受け止める白い日傘がよく似合っていた。肩口までの髪は元気な芝生のような緑色をしていて、とても触り心地がよさそうだ。

 気絶しそうなほど、それは美しかった。見る限り無駄が一切ない。人形のように整った容姿は、空恐ろしさを感じさせる程に端整な輪郭を浮き上がらせている。

 足元から底なしの沼に沈められるような感覚だった。全身がしびれて、思考もままならない。ただじっと、それが目の前に来るまで瞬きひとつもできなかった。

 ここが天国なら、きっと彼女は天使に違いない。気づけば、彼は声を大きくして叫んでいた。

 

『花を譲ってくれないか! かかあが病気で、綺麗な花を届けてやりたいんだ! 頼む!』

『……なぜ?』

 

 下げた頭に、蕩けるような声がかかった。聞いているだけで心臓が溶けてしまいそうな、魔的な音色をしている。

 彼は声がひっくり返らないように気を付けながら、さらに続けた。

 

『かかあに元気になってもらいたい! 何か食わせようにも喉を通らない。眠らせようにも病気が苦しくって眠れない。もう頼めるもんは何でも頼むことにしたんだ。神社にも行ったし、寺にも行った。お天道様にだって毎日祈ってる。あとはかかあが好きな、綺麗な花があればいいんだ!

 頼む、一輪だけでもいいから譲ってくれ!』

 

 その妖怪は手に花を抱えていた。

 大事そうに胸に当てているその花は紫色をしていて、彼女の後ろに広がる花々に負けないくらい美しかった。

 その花に、ぽたりと何かが落ちる。反射的に見上げてしまわないように抑えたが、どうやらその妖怪は、涙を流しているらしい。

 涙は二度、花に当たって弾けた。彼は絶対に彼女の顔を見ないように、ぐっと気持ちを堪えて頭を下げ続けている。

 

『なんで、わたし、泣いて……』

 

 その様子があまりにも不安げで、その言葉が自分に向かって問いかけているような気がした。

 

『わからない、何に泣いてるのかわからない。ああ、あんたみたいな綺麗な人、どうやったら泣き止ませられるのかわからない』

 

 すぐにそう返すと、息を飲むような気配がしたあと、幽かな笑い声が聞こえた気がした。

 妖怪は、スッとその花を差し出してくる。

 

『この子は、ほかの子たちと違って十分に生きられない。花は花弁を広げて、太陽に向かってひたすらに咲き続けることに存在意義がある。それが花にとっての生きている証。でもこの子はそれができないから、あなたに持たせれば、この子も報われるのかしら?』

 

 妖怪は独り言のように言った。

 彼は下げていた頭を上げて、差し出された花を見る。鮮やかな紫色は、花弁が他の花よりも小さくて細長い。知らない花だった。

 

『ラベンダーという花よ。大事にしてあげなさい』

『ありがとう! この礼はいつか必ずする。絶対またここに来るから、待っててくれ!』

 

 花を受け取って顔を上げると、もう涙は流れていなかった。自分の勘違いなのかもしれない、と錯覚してしまいそうになる。

 どうして彼女は泣いたのだろう。それがわからないまま彼は丘を降りて、母の枕元に花の妖怪から受け取ったラベンダーを活けた。

 母は喜んだ。そうして何日かぶりの笑顔を彼に向けて、礼を言うのだ。

 

『待ってておくれ、すぐ元気になるから』

 

 すると数日もしないうちに、あれだけ酷かった母の容体は本当に回復し、やがて普段通り生活できるようになった。そして丁度そのころ、天寿を全うしたかのように、彼女からもらったラベンダーも枯れ果てた。

 

     ◇

 

 もう六十年以上前のことだ。

 しかし今でさえ、時々思い出しては気になってしまう。どうして、彼女は泣いていたのだろう。

 妖怪が泣くなんて話は聞いとこがない。見た目が人間と酷似しているとはいえ、彼らは根本から人間とは異なる存在だ。そんな彼らに、感情らしいものが存在するのだろうか。

 否、きっとあるのだろう。だから彼女はあの時涙を流したのだ。

 ではどうしてだろう。やはりそれだけは、どうしてもわからなかった。

 霊夢は当人に訊くか、自分で答えを出せと言った。自分で答えが出せない以上、当人に訊くしかないのだが、今やこの体は死に体なのだからその道理もない。おそらくこのまま、何もわからないまま、期待だけを胸に秘めて朽ちていくのだろう。

 ……そう、思っていた。

 誰かの気配がして、閉じていた眼を開ける。しかしその時には、もう気配は感じなくなっていた。

 気のせいだろうか。老人が部屋の中を見回しても誰もいないし、物を取られた様子もない。――いや、一か所だけ変わっている。

 

「花が……」

 

 昨日、魔理沙が持ってきた花。あれは紫陽花だった。

 彼女がわざわざ花の妖怪を訪ねて、手ずから貰ってきてくれたものだ。

 それがなくなっている。だが、紫陽花が活けられていた花瓶は空っぽではない。中には紫陽花の代わりだと言わんばかりに、鮮やかな紫の花がいっぱいに入れられていた。

 ラベンダーの花。あの日、母のためにあちこちを走り回って、ようやく手に入れた花。あの天使のような妖怪にもらった、母を助けてくれたあの花だ。

 それを理解した瞬間、老人の胸の底で次々と泡が弾けるのを感じた。

 

「そうか。……だからあの時、あなたは涙を流したのか」

 

 瞼が熱い。きっと自分は涙を流している。

 およそ数十年悩み考え続けたことの答えが、まるで雨が地面を打ち付けるように降って落ちてきた。

 これで安心して眠れる。自分は答えを手に入れたのだ。もうこれで、何も思い残すことはない。

 

「忘れないよ。この希望は、絶対に落とさない」

 

 静かな死の足音に耳を澄ませながら、彼は紫の花が入った花瓶に手を伸ばした。

 

 

       /華宵奇譚

 

 

 三日ぶりに、わたしは博麗神社を訪れた。

 神社の巫女は探すまでもなく、相変わらず無聊を極めているようで、拝殿の階段に腰かけてぶらぶらと足を揺らしていた。

 

「よう、暇そうだな」

「まあねぇ。でもこの時間も嫌いじゃないから、出直してきてもらえる?」

「硬いこと言うなって」

 

 霊夢の嫌そうな顔を無視して、わたしは霊夢と少し距離を置いて拝殿の階段に腰を下ろした。霊夢の顔を盗み見ると、もう表情は元に戻っていた。あれの感情は服みたいに脱着自在だから、あんなのは挨拶みたいなもんなんだと割り切っている。

 いきなり本題に入るのも気が引けるんで、二、三世間話をしたあとに切り出してみた。

 

「じいさん、まだ見つかってないみたいだ」

「……そう」

 

 わたしと霊夢が見舞いに行った日以降、じいさんは煙のようにどこかへ消えてしまっていた。里の青年団が何日かかけて行方を捜したみたいだけど、その甲斐もなくじいさんは見つからなかった。最初の頃はみんな心配になって一緒に探し回っていたけれど、だんだんその数も減っていて、一か月も経てば積極的な動きもなくなってしまった。

 里の誰もが思ってる。きっともう、じいさんは生きてなんかいないだろうってことは。じいさんの体はあの日の時点で限界だった。

 誰の目から見ても三日と持たないことは明確。今更みつけたところで、たぶんじいさんは生きていない。里の外で死んでしまったのなら、今頃狼や犬か、妖怪に喰われてしまってることだろう。

 自分で想像していて、あまり心地のいいものではなかった。

 

「そういえば知ってるか? じいさんの部屋に置いてた花瓶の花、紫陽花じゃなくてラベンダーに変わってたらしいぜ」

「―――ばかね。どいつもこいつも、大ばかよ」

 

 霊夢は、顔に何かが過ったあとすぐに立ち上がって、頭上に広がる蒼穹を見上げた。

 

「たとえばだけど。おじいさんの足、あれは幽香にやられたものじゃなかったとしたらどうなるのかしら」

「え?」

「……妖怪は基本群れることがない。そんな幽香には、他人のために命がけで走り回る人間の姿なんてものは不可解に過ぎたでしょうね。妖怪が唯一人間と共通する恐怖はね、理解できないってことなの。長寿の妖怪ほど、この不安は大きいわ。

 幽香は怖かったに違いない。自分を恐れるはずの人間が、あろうことか自分の愛する花を求めてきた。その不可解さに幽香は恐怖した」

「ならやっぱり、幽香が言ってたのはあいつ自身のことだったのか」

 

 風見の丘で聞いた、あいつの独り言のような台詞。幽香の言葉では、幽香とじいさんのどっちが涙を流したのかわからなかった。

 妖怪は嬉しさや悲しさみたいな、自分の内側から湧き上がる感情には涙を流しにくい。まだ、恐怖によって泣いたと言われた方がしっくりくるというものだ。

 

「花を求めるものを、花の王は無碍にできない。幽香は人間に花を渡した。そのあとおじいさんが、妖怪が涙を流した理由を考え続けたように、自分がどうして涙を流したのかを考え続けた。たぶん幽香はずっと待ってたんだわ。あの丘に、あの時の人間がまた訪れるのを。

 でも来てはくれなかった。おじいさんは丘から帰る途中に妖怪に襲われて足を怪我してしまって、里を出ることが困難になってしまったから。でもそんなとき、おじいさんと幽香をつなぐ存在が現れた」

「わたしか」

 

 霊夢は頷いた。

 なんとなくつながりは見えた気がする。だけどまだ、濡れた砂が付いた手みたいに、ざらざらとした感触が残っていた。

 霊夢は何で、幽香が待っていたなんてことがわかるんだろうか。

 

「幽香はちゃんと残しているわよ、おじいさんの枕元に。だからおじいさんは幽香のものに向かったんでしょ。たどり着けたかどうかは知らないけどね」

「残したって、なにを?」

「……魔理沙、ラベンダーの花言葉って知ってる?」

 

 霊夢はそれだけ言って黙り込んだ。

 わたしがさあ、と返しても、固く閉じた口を開けることはなかった。

 

      ◇

 

 もう何年も、わたしは夢を見るようにここにいる。

 

 

                           <了>

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。