学院へと向かう馬車があった。白く塗られた車体に金色の高貴な意匠をあつらえたその馬車にはトリステイン王家の紋章が刻まれ、周囲にはその馬車を守るために、たくさんの衛士たちがグリフォンや馬に乗って厳重な警戒体制をとっている。
RPGなどでその存在を見せることのある、角を生やした馬の姿をした幻獣ユニコーンに引っ張られるその馬車の中で、ゲルマニアから帰国中の王女アンリエッタが座っていた。
白いドレスに上品な紫のマントを羽織り、上品なティアラや装飾品を身に着け、指には青い宝石のはまった指輪をつけている。それらは、すでにアンリエッタが持っている高貴な気配をさらに底上げしていた。そんな彼女の手には先に水石の水晶の杖が握られている。王族であるが故当然彼女もメイジ…それも水のトライアングルメイジである。
「ここは静かなのね。小鳥のさえずりが聞こえてくる。
まぁ!美しい花も咲いているわ!川の水もとっても綺麗…」
対して彼女の隣に座っている壮年の男は、現在この国の政治を一手に握るマザリーニ枢機卿。堅苦しい表情を、出発時からずっとぶっ通している。
「姫殿下。カーテンを下ろして奥へお座りください。身を乗り出すなど王女のすることではございません。常に国と政治を頭に入れておいていただきたい。そのようなお姿を嫁ぎ先のゲルマニア皇帝にお見せしたらどう思われることか…」
アンリエッタの父である先王が亡くなり、威張るだけの貴族が国費を削って贅沢を繰り返すことが目立ち、それ故に平民や下級貴族たちの生活が苦しくなる国。そんな国を滅ぼさせないために老骨に鞭を打ち続けるマザリーニ枢機卿。
彼と異なり、自分はお飾りなの存在だとアンリエッタは自覚していた。そんな事を考えていたら憂鬱な想いが溜め息となって彼女の口からこぼれた。
「ゲルマニア皇帝との…はぁ…」
その行為が王女としてあるべき姿ではないということでよほど不満なのか、マザリーニは咳払いをして注意する。
「姫殿下ともあろうお方が臣下の前で溜め息など…本日14回目ですぞ」
「いいじゃない。ゲルマニアでは大人しくしていたのですし!あなたの言う通り……ゲルマニアに嫁ぐことになるのですから」
国のためとはいえ、自分がゲルマニアに嫁ぐことにアンリエッタはとても乗り気じゃなかった。憂い顔で今の言葉を言ったのがその証拠だ。
「…仕方ありますまい。このトリステインにとってゲルマニアとの同盟はなくてはならないことなのですから。
殿下もご承知のはず。このトリステインに、例の怪獣なる存在の脅威は無視できないもの。しかもその上、現在のアルビオンでは王政に反対する阿保共の革命の魔の手も及ぼうとしているのです」
「ええ、この国を破滅させようとした怪獣はもちろん、私もあの『レコンキスタ』なる者共の存在を許せません。例え始祖がお許しになっても私は許しません。
アルビオン王家は我らトリステイン王家の古くからの親戚。いわば血の繋がった家族のような存在…それを革命という大義で己に正義があるかのようにふるまって命を奪おうとする傲慢さ、許しがたいものです。
こんな時こそ、私たち各国の貴族も国内の貴族も、そして平民たちも力を合わせてこれらの危機を乗り越えなくてはならないと言うのに…はぁ」
再びため息を漏らしてしまうアンリエッタに、マザリーニは困ったように言った。
現在トリステインでは、対怪獣対策会議を幾度か執り行った。しかし、結果は望ましいものではない。国費が足りなくなったために軍の増強は望めない上に、『私には自分の領土の民たちが心配ですから…』と領内の平民たちを守るという名目の下、遠回しに自分が怪獣との戦いに出ることを避ける者が数多くいたのだ。これではいずれ自分たちが怪獣たちの餌食となるのを待つだけじゃないか。ならば他国からの助力を借りようと思ったのだが…アンリエッタのこの様子だと望んだ結果は残せなかったようだ。
「同感ですが、これで15回目ですぞ」
これでは自分までため息を漏らしたくなってしまう。
王女は国民たちの象徴、だから他者のテンションを下げるようなそぶりを見せるようなことは控えなくてはならない。作り笑いだろうが、常に笑顔を見せることで国民たちを元気づけることも必要だった。自分の幸せなど、そっちのけにすることになっても…。
「そのレコンキスタ…アルビオンの革命家気どりの反乱軍のことですが、我がトリステイン内にもその息がかかった者がいるかもしれないとの噂がございます。勿論ただの根の葉もない噂でありたいものですが、万が一のことを考えるのも我ら政を取り仕切る者の役目。殿下、そのような者どもに付け込まれるような隙はございませんな?」
「…ありません」
「…なればよいのです」
アンリエッタは一呼吸を置いてから首を横に振った。微妙な間があったことを枢機卿は察したものの、深くは追及しないことにした。
「…枢機卿。ゲルマニアとの同盟の件、勿論それが急務なのは承知するところですが、このトリステイン内からも人材を集めることもまた同じくらいの重大事項では?
例えば、つい最近あの土くれのフーケという盗賊を捕えた魔法学院の生徒は?シュヴァリエの称号の授与がされる予定と耳にしましたが」
「たかが盗賊風情を捕まえたくらいでシュヴァリエを授与するわけにいきません」
「ですが、あの盗賊には我が国のメイジたちは大いに手を焼いた事実もあります。それに捕縛した際の現場には怪獣の出現もあったとも聞いております。そのような危機を潜り抜けたその者たちなら…」
「偶然でしょう。逃げるだけなら誰にでもできます。それくらいでシュヴァリエが授与できるなら、今頃我が国はシュヴァリエだらけです。その件も、先日トリスタニアを救ってくれた巨人が倒したとか。盗賊を捕まえた生徒はそのおこぼれに預かっただけです。下手に授与すれば、軍務に勤しむ貴族の要らぬ嫉妬を買います。現に、例の巨人…ウルトラマンも、軍の貴族から羨望と嫉妬の視線に晒されているのですから。ゆえに従軍を必須条件とさせて頂きました」
フーケが魔法学院の生徒に捕らえられたことは、王宮にも知らせが届いていた。ただ、オスマンがルイズたちに向けてシュヴァリエの称号の授与を申請した一方で、マザリーニはその授与を却下する意向だった。
当人たちが聞いたら、自分たちの手柄を嘘扱いされて憤慨するだろう。
「…もう止めましょう…枢機卿。このような話、今日という日に相応しくありません。
今日は懐かしき友に会えるのですから。
私の懐かしき心のお友達…」
そう言って首を横に振るアンリエッタは先ほどの沈んだ表情から一転して、嬉しそうな顔をして窓の外を眺めながら呟いた。
心待ちにしていた再会が、思っていたそれと大きく異なる形で実現するとも知らずに…
国の未来を担う一国の王女とそのお供で政治の事実上の中心である枢機卿の護衛である以上、警備は万全のものでなければならない。ゆえにアンリエッタたちには、現在のトリステインの中で最も戦力の高い宮仕えのメイジが護衛に付いていた。
以前、テクターギア・ゼロがディノゾールと戦う直前までの間、王都を守っていた部隊『魔法衛士隊・グリフォン隊』の隊長ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドもその一人だ。
「…」
しかし、国の選りすぐりのメイジの中でも特に有力視されている、若く優秀な分その信頼も厚い彼でも、怪獣の相手は荷が重い。それは他のメイジたちの目から見ても、先日のディノゾールの一件もあって明らかになった。だが他に優秀な人材は、ただでさえ国力が年々遅れてしまったトリステインには多くない。
兵たちは怪獣の出現以前の時期までに緩んでいた気を引き締め、姫の警護に当たった。
「ゲルマニアとの同盟の件、どうにか締結はなされそうでよかったですね、隊長。けど、あんな成り上がり共の国に頼ることになるとは、始祖ブリミルになんとお詫びすれば…」
「仕方のないことだ。ゲルマニアは確かに成り上がりの国だが、そのやり方があるからこそ強国になった。この数年、国力が低下傾向にある我が国が頼るしかないのだ。怪獣や他国の脅威を思えばな……
…!」
木の影から、誰かがこちらを覗き見ているのを、ワルドの鷹のような目が見つけた。
黒いマントに身を包んだ、いかにも怪しい出で立ち。顔はマントで隠れていてよく見えない。
その黒マントは、ワルドの視線に気付いたのか、すっと木の影に身を隠した。
「隊長?」
ワルドはすっと手を上げ、「総員、一時停止」と停止の合図を出し、馬車が停止する。
マザリーニが窓から顔を出してきた。
「何事かね隊長。姫殿下や私の許可も無しに隊を止めるとは」
「申し訳ありません。どうもこの先に迂闊に進むのは危険だと感じまして」
ワルドはグリフォンから降り、平伏の姿勢を取って枢機卿に詫びた。
「危険?オーク鬼やトロル鬼の姿でも見えたのか?」
「それをこれから確認いたします。まず配下の者を先遣隊として派遣し、先の道の安全の確認をさせます。申し訳ないですが、これも姫殿下と皆の安全のため、ご理解願いたい」
少し考えこむマザリーニは、同じく馬車内にいるアンリエッタを一瞥しつつも、すぐにアンリエッタからワルドに視線を変えて頷いた。
「…よい。では偵察を命ずる」
「ありがとうございます」
ワルドは馬車の傍を離れ、二人の部下の元へ戻る。
「ディラン、ジェイク。話は聞いたな?」
「はっ。では自分とジェイクが向かいまする」
ディランと呼ばれた兵士が頷くと、ディランとジェイクは自分たちのグリフォンに跨り、先に進んでいった。
アンリエッタは、マザリーニが顔を出している窓の反対側の窓からその様子を眺め、16回目のため息を漏らした。
「また私の意思に関係なく話が進むのね…」
自分はまだ齢17…若輩者だが、王族だ。それなのに、枢機卿とベテランの政治家貴族たちが自分の断りもなしに政を取り仕切る。
枢機卿のこの行いを理解はしている。わかってはいるのだが…
所詮自分は籠の中の鳥。この馬車が、その鳥籠のようにも思えた。
その様子を、一瞬だけワルドに見つかって木陰に隠れた黒マントの人物が覗き見ていた。女性なのか、それとも男性なのか、黒マントに身を包んでいるせいではっきりとわからず、その出で立ちはフーケを彷彿とさせた。
その人物の後ろにはさらにもう一人、同じように新緑色のマントを身に纏っている人物が控えている。
「手筈通りに動け。くれぐれも勝手な真似はするな。あくまで…」
黒マントは新緑色マントの人物に向けて事前の注意を呼びかけようとするが、黒マントの首筋に向けてシャキン!と、夜の三日月のように銀色に光る刃が…新緑色マントの人物の肩から伸びて、ギリギリ届かないところで止まった。
「下等生物ノ分際デ俺ニ指図スルナ」
「…!」
「貴様ラハ『魔法』等ト大層ナ呼ビ方ヲシテイルガ、俺カラ言ワセレバ、所詮『手品』ダ。今、貴様ガ『ソウシテイル』ヨウニナ」
黒マントは忌々しそうに歯噛みしているのか、マントの中に隠れた顔からギリッと奥歯を噛み締める音を鳴らした。
「フム…ヨウやく『翻訳装置』が機能したようだな。全く仕事とはいえ、テレパシーも使えん下等生物に合わせて発声言語に頼らなければならないとは、不便なものだな」
新緑色のマントに身を包んだその人物は木陰から出ていく。
「何、心配スルナ。仕事内容は頭ニ入レてイル。
貴様は指を咥えて黙って見ていろ」
そう言って緑のマントの人物は黒マントの前から姿を消していった。
「…人斬りにしか脳のない獣若きが…」
黒マントは、去っていった緑マントに対してそう吐き捨てた。
ワルド隊長の命令に従い、ディランとジェイクは、グリフォンに跨り、進行先の森の上空を飛行。上空から怪しいものがないか観察する。
だが、あのワルドが警戒すると思えるような、怪しいものは見当たらない。
「なんだ、やっぱり何もないじゃないか。隊長にしちゃ過剰な警戒だったんじゃないか?」
ジェイクがため息を漏らすと、ディランがそんな彼を咎めてくる。
「何を言うんだジェイク。あのワルド隊長に限って思い過ごしなんてあるわけがない。あのお方が並の貴族より遥かに素晴らしいメイジであることは、お前だって知ってるだろ」
「そりゃ知ってるよ。まだ26でグリフォン隊の隊長、俺らより後から入隊して来たのにあっという間に昇進して隊長…顔も良くて女からモテモテ、同じ男としちゃ羨ましいし、妬ましさすら感じる。けど、お人柄も良くて俺たちのことを気にかけてくださってる。色んな意味で敗北感を感じるしかないさ。
けど、こうも何も怪しいところがないようじゃ欠伸も出るだろ」
ふああ、とジェイクは欠伸する。呑気な性格のようだ。
逆にディランは真面目な性格らしい。真剣な言葉で、呑気でだらしのない性格のジェイクの襟を正そうとしている。
「もし何か見落としたら、隊長にライトニング・クラウドを落とされるぞ」
「そりゃ簡便だな。あの人スクウェアクラスだろ。落とされたらクビどころじゃねぇな」
真面目とはいえ、ディランも冗談を言うユーモアさはあるようで、彼のジョークにジェイクは笑い、前方に目を光らせた。
「まぁ万が一クビになったら、二人で傭兵でもやってみるか?元魔法衛士隊グリフォン隊の肩書きさえありゃ、仕事に困ることないだろ」
笑い続けるジェイク。しかし、ディランからの返事がすぐに返ってこなかった。
「おいディラン、冗談だって。辞めるわけないだろ。魔法衛士隊ほどの仕事なんてねぇんだから…
ディラン?」
やはり返事が来ない。
よほど魔法衛士隊を辞めたたらればの話が気に入らなかったのだろうか。それにしては随分間に受けすぎだと思えるが…
異様に思い、一体なんだろうと思ってディランの方を向くと、驚くべきものをジェイクは目にする。
さっきまで隣を飛んでいた、ディランの顔がない。
彼の顔…頭にあった場所から…
赤い噴水が噴き出ていた。
「うわああああああああああ!!!」
ジェイクの悲鳴は、アンリエッタたちの下まで響いた。
「今の悲鳴…!」
「姫様!出てはなりませぬ!」
思わず馬車から外を見ようとする彼女をマザリーニが止める。
瞬間、スパッ!と切り裂くたような音と共に、森の木々が根本から首を打たれた様に飛び跳ね、二人を乗せた馬車もガシャン!と音が立つほどの強い振動と共に横転した。
その拍子にアンリエッタは馬車の外に転がり落ちて身を打った。
「う!ったた!」
痛みを覚えながら姿勢を整えると、その際に彼女の目に森の景色が目に入った。
さっきまで緑で覆われていた美しい森の木々が切り株だけを残して切り飛ばされ、その森の跡の前に…
両手が刃の様になっている、血の様に真っ赤な目を持つ怪物がこちらをジロリと見つめていた。
その身に纏っている新緑色のマントは、切り捨てた兵士の返り血で赤いマントへと様変わりしていた。
「姫様!ご無事ですか!?」
「は、はい。マザリーニこそ…」
「私のような老骨よりも、姫殿下の御身の方が大事です」
枢機卿の肩を借りながらアンリエッタは立ち上がる。馬車は車輪が壊れていて使い物にならない。
姫と枢機卿を守るべく、グリフォン隊の隊員たちが一斉に集まってきた。
「貴様、何者だ!この一団がトリステイン王国王女の一行と知っての狼藉か!?」
ワルドが杖を突きつけながらその怪物…いや、亜人と言うべきか。その亜人に言い放った。
「…」
亜人は特に返事を返さない。やはり言葉が通じないのだろうか。
ハルケギニアには人間以外にも人型の生命体はいるが、言葉を有する亜人はエルフや翼人くらいで、その他の多くは獣から進化した様なもので、言葉を有しないものばかりだ。それが知性の低さと見る人間が多いが、人災を度々出しているので舐め切った存在として断定はできない(それでも見下してる貴族は多い)。
この亜人もその手の輩だろうか。それにしても、木々を一瞬で何十本も切り飛ばす技を持つ亜人なんて聞いたこともない。
「ふん、言葉がわからないのか。こちらは栄誉あるトリステイン王国の姫とそれを守る誇り高き魔法衛士隊とも知らずに通り魔を行う見境ない野蛮さ…これだから亜人は…」
返事をしない亜人に、グリフォン隊の兵士の一人が見下し感情を露わにふんと鼻で笑う。後ろでアンリエッタとマザリーニが良くない顔を浮かべている。
だが、彼の言葉は途中で途切れた。
一瞬で彼の首が、文字通りすっ飛んだのだ。
アンリエッタもマザリーニも、そして護衛の兵たちも青ざめた。
血の噴水が周囲に飛び散り、アンリエッタに赤い雫が飛んでくる。
「…!?」
「殿下!」
咄嗟にマザリーニが杖を取ろうとすると、さらにそれより早く、ワルドがレイピア型の杖を振るい、風の障壁を、首を失った兵士の死体の周辺に巻き起こすことでそれを防いだ。
亜人は、自分の右手から伸びている刃に真っ赤な血がたっぷりついたのを見ると、ニヤッと笑いながらそれを舐め取った。
「き、貴様ぁ!」
目の前で仲間を殺された義憤から、別のグリフォン隊の兵士が、氷の矢を無数に展開、他の兵士たちもそれに続く形で火球や大きな石の礫を飛ばして亜人を成敗しようとする。
一番後方、姫と枢機卿護衛の最終防衛ライン的位置に配備されていたワルドも最初、自分の指示を仰ぐ前に部下隊が独断で攻撃したことを諌めようか思ったが、すぐに考えを切り替え、スクウェアクラスの威力を込めた〈エア・カッター〉で亜人を切り裂こうとする。
だが亜人は…たった一振り両手の剣を振ることで、その全てを掻き消した。
しかもそれだけでなく、その一太刀による斬撃は〈エア・カッター〉をも凌駕する鋭い風の刃となり、護衛のグリフォン隊の大半を切り裂いた。前衛に位置していた隊員は全てバラバラに、光栄にいたものも運良く生き延びた者はいたが出血多量の重症者が続出した。
「なんてことを…うぅ」
「殿下!見てはなりませぬ」
無惨に兵士のくびを飛ばした亜人への怒りもあったが、同時に強い吐き気がアンリエッタの喉の奥から込み上げる。
か弱い姫にあの様な残酷な景色を見せられないと、マザリーニがマントで遮った。
魔法をかき消すほどの剣術。あんなものを食らえばひとたまりも無い。
マザリーニは、ある予測を立てる。もしかしたらこの亜人は、例の怪獣という奴ではないのか?
もしそうであれば、万全の体制でも怪獣と相対する力が足りていないのに、あくまで姫と枢機卿の護衛のために用意された兵力では勝ち目がない。この場で最も優れたメイジであるワルドを差し向けることも考えたが、彼ほどの貴重な人材をここで失うことは、戦力面でトリステインの力をさらに弱めてしまうことになる。
なら、無理に交戦して国力を低下させるより、この場を撤退してあの亜人を倒す力を蓄えることが最も最良の判断だ。
「総員反転!来た道を戻れ!殿下らをお守りするんだ!」
自分のグリフォンを逃すことなく落ち着かせたワルドが、兵たちに向けて号令をかけた。ここは一度、辿ってきた道を戻り怪獣の縄張りを迂闊しなければ。
アンリエッタと枢機卿を、まだ残っているグリフォンの背中に乗せ、一行はワルドを殿に、辿ってきた街道を戻り始めた。
だが、彼らが反転した途端、彼らは足を止めてしまう。
振り返ったその時にはすでに、先ほどの刃物を持った亜人が待ち構えていた。
「…」
言葉こそ発さないが、その亜人はクックックと、こちらを見て『ウスノロめ』と嘲る様に笑っていた。
「各員、奴を四方から包囲!一斉攻撃を仕掛けろ!後ろの者と後退しつつ、波状攻撃で奴を仕留めるんだ!」
ワルドの命令通り、グリフォン隊の兵たちは四方に亜人を囲い、全方角から狙い撃ちを図る。
火の弾丸、風の刃、岩をも穿つであろう勢いの水流、とにかくトリステイン中から選ばれたメイジたちの様々な魔法が亜人を襲う。これが人間相手なら、誰も敵うことなく敗北を喫するかもしれない。
…そう、ただの人間だったのなら。
しかし不運にも今回の相手は…メイジを何人相手取ろうにも手に余る、予想を遥かに超える敵であった。
あの亜人は即座に両手の刃を振り回して囲った兵士たちを、彼らが放った魔法もろともバラバラにしてしまう。
「ひいいい!!」
前方の仲間たちが一気に肉塊に変貌したのを見て、生き延びた兵は貴族としての威勢も戦意も失い、怖気付いてしまう。
残ったのは十数人にも満たない。
緑に溢れた草葉と森は、血の雨を降らす亜人によって赤く染まりつつあった。
しかも不快なことに、これだけの力を見せつけておきながら、亜人は一気にこちらを全滅しに来ない。
(こやつ…我々を使って楽しんでいるのか)
マザリーニは、この亜人が、ここにいる皆の恐れ慄く様と、人間を切り裂くことに愉悦と快楽を抱く危険な種族であることを察し始めた。
だがこれだけの恐るべき力を持った亜人が、今までハルケギニアにいたとは思えない。いたのならもっと昔の時代に、歴史に血文字で名を刻む様な悪名高い孫子として記録に残っているはずだ。
なら一体こいつは何者なのだ?
いや正体などどうでも良いことだ。国の未来、姫の命がかかっているのだから。
しかしそもそも今の自分たちは軍備を整えた戦時と違い、ゲルマニアでの会談のために姫を警護するためだけの兵数しか用意していない。亜人の魔法すら寄せ付けない斬撃により、部隊は壊滅的な被害を被っている。
姫をグリフォンに乗せて彼女だけでもと考えたが、奴の斬撃は遠くにも届く威力を持つため、格好の狙いの的になるだけだ。
残る切り札はワルドだけだ。できれば姫だけでも逃すために、加えて今後のトリステインの軍に一人でも力あるメイジを添えておきたかったので、最後まで彼を温存したかったのだが、もうそんな余裕はない。最悪自分も、久方ぶりに杖を手に取って戦わなければならないだろう。
「子爵」
「わかっています、猊下。私があの者に挑みます。その間に…」
「子爵、無茶ですわ!いくらあなたでも!」
アンリエッタがワルドに向けて叫んだ。これ以上自分のために兵たちが殺されていくのを見ていられない。
「殿下、私の様な卑しき僕より御身を優先してください。このトリステインの平和のためならばこのワルド、いくらでも命を賭ける覚悟があります。さあ、猊下と共に早くお下がりを。
お前たちも下がれ」
「隊長自らが?」
「これ以上お前たちに犠牲が出ては、後に殿下を守る兵がいなくなる」
マザリーニがアンリエッタを自分の後ろに下がらせつつ、隙を見て今度こそアンリエッタだけでも逃がそうと兵たちに再度命令を下そうとし、ワルドも今度は自分が亜人の相手になろうと前に出る。
が、その瞬間次の瞬間、ごおおおお!と強い暴風が、間に吹き荒れた。
「な、なんだ!これは…」
部下の一人が顔を覆いながら叫んだ。これはあの亜人が襲い掛かってきたのではない。
この攻撃は…風の魔法だ。
それも相当の使い手の手で発動したもの。
非常に珍しいワルド以外でこれだけの強力な魔法を使える者は、現在の魔法衛士隊の中にいないはず。
となれば…
隊員たちの脳裏に過ったその不安が的中したのか、その風に乗るように、黒いマントに身を包んだ人物が現れ、瞬時にアンリエッタの腕を強引に引っ張り上げた。
「きゃ!は、離して!」
「殿下!」
マザリーニが、咄嗟に杖を引き抜いて黒マントにそれを向けるが、黒マントはそれを見越して、首に手を回した状態で捕まえていたアンリエッタを前に突き出した。
「貴様!」
マザリーニは黒マントへの怒りを募らせる。王族をよりにもよって盾にするとは!
「マザリーニ!私のことは構わないで!この賊を討ちなさい!」
アンリエッタは自分のことを気にせず、黒マントを攻撃するよう命じるが、そんな思い切りに踏み込めるような者はこの場にいなかった。
黒マントはアンリエッタを捕まえ、遠くへと飛び去って行く。
「殿下ぁ!!」
そして残されたワルドたちには、あの亜人が立ち塞がる。この先は通さないと、静かに両手の刃を向けて来る。
「おのれ亜人共!陛下をどうするつもりだ!」
「よせ!下手に前に出るな!」
兵の一人が怒って突撃しようとしたが、ワルドに怒鳴られ、グッと堪えながら止まった。
こちらが向かってこないと察し、亜人は刃を降ろして背を向け、去っていった。
「退いた?」
こちらを全滅させず、姫の身を攫うだけで退いた。
マザリーニは確信を抱いた。あの黒マントは、あらかじめ自分たちがこのルートを通ってくることを見越して、あの亜人を差し向けてきたのだ。でなければ、亜人に出くわしたこのタイミングで姫をかどわかすはずがなく、あの黒マントとて亜人に襲われているはずだ。
だが、姫を遠出させるどころか、近場への視察を大々的に発表など普通はしない。どこかで己の利を求めて姫を狙ってくる輩に狙われるからだ。となれば…
脳裏に一つの推測が浮かんだところで、兵の一人がマザリーニに進言してきた。
「枢機卿!殿下を救うためにも王都に援軍を求めましょう!」
確かに姫の救出は最優先事項。ゲルマニアとの同盟の条件である彼女の婚姻の件を除いても、アンリエッタ姫はこの国の未来の柱なのだ。
「離しなさい!この無礼者!」
アンリエッタは、自分を捕まえて中空をフライの魔法で飛ぶ黒マントに抵抗する。彼女はこの時、自前の杖を持っていなかった。黒マントが彼女の魔法による反撃を警戒して、攫う際に杖を取り上げ破壊したためだ。杖を取り上げられては、彼女は文字通り無力な少女でしかなかった。
勿論黒マントは彼女を離すことはなかった。王族を手中に収めたチャンスを逃す気はない。
黒マントは、ワルドたちがインセクタスと交戦している地点から距離を離した地点まで飛んだところで、一度着地する。あまりアンリエッタに暴れられては逃走の支障になる。
「あなた、一体何者ですの!?私は始祖より高潔なる血を賜りしトリステインの姫…それをこのように扱うなど、我が国と始祖に対する侮辱と取りますわ!」
毅然とした姿勢でアンリエッタは黒マントに向けて怒鳴るが、黒マントは怯みもしない。
「…杖も配下も無い貴様など、ただ着飾っただけの小娘だ」
黒マントの口から、明らかにアンリエッタを見下す発言が飛ぶ。アンリエッタは返す言葉が見つからない。
「だが、喚かれても面倒だ。騒いで抵抗するようなら…」
黒マントはアンリエッタに向けて、袖下から抜いた杖を振り翳して来た。
アンリエッタは目を閉じた。