気分転換に不定期に書いていこうかと。
東京の夜景を一望できる、港区の高層マンション。その最上階に近い一室、広大なリビングルームはまるで高級ホテルのラウンジのように洗練されていた。床にはイタリア製の大理石が敷き詰められ、天井からはクリスタルのシャンデリアが冷ややかな光を投げかけている。
しかし、その空間に漂っているのは富の芳香ではなく、澱んだ絶望の気配だけだった。
窓際に佇む一人の女性、紗世子(さよこ)はガラスに映る自身の顔を亡霊を見るような眼差しで見つめていた。
整った顔立ちだが、頬は痩せこけ、瞳には生気がない。かつて「深窓の令嬢」と謳われた美しさは、今や枯れかけた白薔薇のように儚げで、触れれば崩れ落ちてしまいそうだった。
カチャリ、と重厚な玄関扉が開く音が静寂を引き裂いた。
紗世子の肩がビクリと跳ねる。条件反射のように心臓が早鐘を打ち、胃の腑が冷たくなる。夫、隆行(たかゆき)の帰宅だ。
「……お帰りなさい」
玄関ホールへ向かい三つ指をついて出迎える。それがこの家の、いや、隆行が定めた絶対のルールだった。
現れた隆行は、アルコールとむせ返るような甘い香水の匂いを纏っていた。明らかに彼が愛用しているものではない。別の女の残り香だ。
「遅かったな」
隆行は跪く妻を一瞥もしなかった。上着を脱ぎ捨て、乱暴に紗世子の方へ放る。それを空中で受け止めきれず紗世子は床に落としてしまった。
「チッ、とろくさいな。これだから世間知らずの箱入り娘は」
舌打ちの音がナイフのように紗世子の心を抉る。
隆行は大手商社の役員であり、紗世子の実家である旧家との政略結婚で結ばれた相手だった。父の会社の経営統合のために差し出された「人身御供」。それが紗世子の正体だ。
結婚当初、紗世子は努力した。愛のない始まりでも誠心誠意尽くせばいつか温かい家庭が築けると信じていた。料理教室に通い、彼の好みを研究し、笑顔を絶やさないようにした。
だが、隆行が求めていたのは「妻」ではなく、自分の社会的地位を飾るための「装飾品」であり、鬱憤を晴らすための「サンドバッグ」だった。
「……ご飯、温め直しましょうか?」
「要らん。外で食ってきた。それより酒だ。いつものやつを持ってこい」
隆行はドカとソファに座り込み、ネクタイを緩める。
紗世子がキッチンへ向かおうとした時、隆行のスマートフォンが震えた。画面には『美玲』という文字とハートマークが表示されているのが、遠目にも見えた。
「……また、あの人?」
つい口をついて出た言葉だった。
隆行の動きが止まる。ゆっくりと振り返ったその瞳には爬虫類のような冷酷な光が宿っていた。
「あ?」
「一昨日も、その前も……。接待だと言って朝帰りでした。私、知っています。あなたがその女性と――」
パァンッ!!
乾いた破裂音が広いリビングに反響した。
紗世子の視界が明滅し、気づけば床に倒れ込んでいた。口の中に鉄錆の味が広がる。頬が熱い。叩かれたのだと理解するより先に、恐怖が体を支配した。
「調子に乗るなよ、穀潰しが」
隆行が紗世子の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。至近距離にある夫の顔は、憎悪に歪んでいた。
「誰のおかげで、こんないい暮らしができてると思ってる? お前の実家の会社なんて、俺が手を回さなきゃとっくに倒産してたんだぞ。お前は俺に感謝して、靴の裏でも舐めてりゃいいんだよ」
「……う、っ……」
「泣くな! その辛気臭い顔を見るだけで酒が不味くなる。消えろ」
隆行は紗世子をゴミのように突き飛ばすと再びスマートフォンを操作し始めた。
紗世子は這うようにしてリビングを出た。寝室へと逃げ込み、鍵をかける。
その鍵が夫の暴力から自分を守る何の役にも立たないことを知りながら、それでもかけずにはいられなかった。
ベッドの隅で膝を抱え、声を殺して泣いた。
痛む頬よりも粉々に砕かれた自尊心が痛かった。
ここには何もない。愛も、希望も、明日への期待も。
あるのは終わりの見えない服従と、死んだように生きる日々だけ。
(死んでしまいたい……)
ふと、そんな思いがよぎる。
ベランダから飛び降りれば、この苦しみから解放されるだろうか。それとも、あの煌びやかな夜景の一部になって誰にも気づかれずに消えていけるだろうか。
「……誰か、助けて……」
絞り出した声はあまりにも弱々しく、誰の耳にも届かないはずだった。
「おやおや。随分と酷い扱いを受けたものですね」
不意に部屋の空気が変わった。
温度が急激に下がったような、それでいて甘美な熱を帯びたような矛盾した気配。
紗世子が顔を上げると、施錠したはずの寝室の窓際に一人の男が立っていた。
夜の闇を凝縮したような漆黒の髪。大理石のように白く滑らかな肌。
そして何より異様なのは、その瞳だった。
最高級のルビーよりも鮮烈で、滴る血のように艶めかしい、紅い瞳。
この世の者とは思えないほどの美貌を持つ男が優雅な仕草で紗世子を見下ろしていた。
「だ、誰……? どうやってここへ……」
ここは二十五階だ。ベランダから侵入などできるはずがない。
後退る紗世子を見て、男は悪戯を見つけた子供のように口元に三日月形の笑みを浮かべた。
「失礼。驚かせるつもりはなかったのですが。貴女の魂の悲鳴があまりにも美味しそう……いえ、哀れだったので、つい引き寄せられてしまいました」
男は音もなく紗世子に近づき、跪く。
その動作一つ一つが舞台俳優のように洗練されていた。
「私の名は悠夜(ゆうや)。……まあ、通りすがりの『悪魔』とでもお呼びください」
「あく、ま……?」
「ええ。願いを叶え、対価を頂く。古風な商売人です」
悠夜と名乗った男は、紗世子の腫れ上がった頬に氷のように冷たい指先を這わせた。
不思議と恐怖はなかった。むしろ、その冷たさが火照った頬に心地よかった。
「美しい器だ。だというのに、ボロボロにひび割れている。……可哀想に」
甘く低い声が鼓膜を震わせ、脳髄に直接響いてくるようだった。
「その傷ついた心、埋めて差し上げましょうか?」
「え……?」
「こんな辛い生活から抜け出したくないですか? 貴女を虐げる夫、籠の中の鳥のような日々。全てを変え、貴女が本来得るべきだった愛と幸福を手に入れるチャンスを、私が提供できます」
夢物語だ。あるいは、絶望が見せた幻覚かもしれない。
だが、悠夜の紅い瞳を見つめているとそれが「真実」であると強制的に理解させられるような圧力を感じた。
「契約すれば、私は貴女の忠実な下僕となりましょう。貴女を不幸の泥沼から救い上げ、夫には相応の報いを与えます」
「……対価は? 悪魔なら、魂を取るの?」
震える声で問うと悠夜は楽しげに目を細めた。
「魂そのものではありません。私が頂きたいのは、貴女がこの世での生を全うし、死を迎えた後の『記憶』です。貴女が生涯を通して味わった喜び、悲しみ、愛、絶望……その全てを、極上の物語として私に献上していただきたい」
死後の記憶。
それは、自分が自分であったという証。それを失うことは永遠の虚無を意味するのかもしれない。
しかし、今の紗世子にとって安い代償に思えた。
今のまま死んでいけば残るのは惨めな記憶だけだ。そんなものに何の意味があるのか。
(もし、本当に幸せになれるなら……。愛される喜びを知って死ねるなら……)
紗世子の瞳に微かな光が戻った。それは覚悟の光だった。
「……お願い。私を、ここから連れ出して」
「承知いたしました、マダム」
悠夜は恭しく紗世子の手を取り、その甲に口づけを落とした。
唇が触れた瞬間、刻印のような熱さが全身を駆け巡った。
「契約成立です。さあ、始めましょうか。最高に甘く、残酷な復讐劇を」
悠夜との生活は奇妙なものだった。
彼はある時は執事のように振る舞い、ある時は友人のように話し相手になり、またある時は厳格な教師のように紗世子を指導した。
彼は魔法のように衣服や宝石を出しはしなかった。代わりに、紗世子が失っていた「自信」と「感性」を取り戻させた。
「紗世子様、貴女は美しい。もっと胸を張りなさい。貴女が下を向いているのは、地面に落ちたゴミを探すためではなく、靴の輝きを確認するためであるべきです」
悠夜の言葉に導かれ紗世子は少しずつ自分を取り戻していった。化粧を変え、服を選び、美術館や劇場へと足を運ぶようになった。隆行は相変わらず家に寄り付かなかったが、それがかえって好都合だった。
そして、運命の歯車が回り始める。
悠夜に勧められて訪れた、雨の日の美術館。印象派の企画展でのことだった。
「この絵の青、すごく綺麗ですよね。雨上がりみたいで」
不意にかけられた声。振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
洗いざらしのシャツに、少し伸びた髪。飾らない雰囲気の彼は、蓮(れん)と名乗った。彼の瞳は絵画よりも澄んで見えた。
最初は戸惑った紗世子だったが、蓮の屈託のない笑顔と対象への純粋な情熱に固く閉ざしていた心が解けていくのを感じた。
彼は隆行とは何もかもが違った。紗世子の言葉を遮らずに聞き、否定せず共感してくれた。「君はどう思う?」「君の視点は素敵だね」と、一人の人間として尊重してくれた。
その日以来、二人は頻繁に会うようになった。
カフェで語り合い、公園を散歩し、古書店を巡る。
蓮と一緒にいると世界が色鮮やかに見えた。道端の花も、空の青さも、雨の匂いさえも、全てが愛おしく感じられた。
そして、季節が秋へと移ろう頃。
激しい雷雨に見舞われた二人は雨宿りのために小さなホテルへと逃げ込んだ。
濡れた服、重なる視線、早まる鼓動。
どちらからともなく唇が重なった。
「……いけないわ、私、結婚してるの……」
最後の理性がブレーキをかける。けれど、蓮は紗世子の手を強く握りしめ濡れた瞳で訴えかけた。
「知っています。でも、止められない。貴女が泣いているのを、ずっと見ていたから……。僕が、貴女を幸せにしたい」
その言葉が紗世子の堤防を決壊させた。
罪悪感はあった。けれど、それを遥かに上回る「愛されたい」という渇望が彼女を突き動かした。
夫との行為は苦痛と屈辱の儀式でしかなかった。
だが、蓮とのそれは魂の共鳴だった。
互いの体温を確かめ合い、指先の一つ一つまで慈しむような愛撫。名前を呼び合う声が溶け合い、紗世子は初めて自分が「女」として、そして「愛されるべき存在」として生を受けていたことを実感した。
(ああ……私は生きてる。今、ここで生きている……)
快楽の波に漂いながら紗世子は涙を流した。それは悲しみの涙ではなく、再生の産声のような涙だった。
その情事の一部始終を次元の狭間から見つめる影があった。
悠夜だ。
彼はワイングラスを揺らすように空間に漂う情欲と愛の波動を堪能していた。
「素晴らしい……。実に美しい」
悠夜は恍惚とした表情で呟く。
彼は知っていた。紗世子にとって蓮こそが「運命の相手」であることを。
本来ならば出会うはずのなかった二人を悪魔の力で僅かに運命を捻じ曲げ、引き合わせたのだ。
枯れ木に水を与えるように、紗世子の魂が愛によって潤い極上の輝きを放ち始めている。死後に頂く記憶の味わいは最高級のヴィンテージワインにも勝るだろう。
「さて」
悠夜はグラスを置く仕草をして、冷徹な笑みを浮かべた。
「次は、邪魔な瓦礫を撤去する時間ですね。……浮気した夫には、円満離婚のために盛大に破滅していただきましょうか」
その紅い瞳が不吉な光を放った。
隆行の日常はある日を境に奇妙な狂いを見せ始めた。
最初は些細なミスだった。重要なプレゼン資料のデータが消え、代わりに大量の卑猥な画像が表示された。会議は大混乱となり隆行は恥をかいた。
次は人間関係の崩壊だ。
蜜月関係にあったはずの愛人・美玲が、突如として会社に乗り込んできたのだ。「妊娠したのに捨てられた」と泣き叫ぶ彼女の声は、社内の全員に響き渡った。もちろん事実無根(と隆行は思っていた)だが、噂は瞬く間に広まりコンプライアンスに厳しい上層部の耳に入った。
「誰だ……誰が俺を嵌めようとしてやがる……!」
隆行は苛立ちを隠せなかった。
裏帳簿のデータが流出し、脱税疑惑で国税局の調査が入るという噂も流れ始めた。愛人たちからは次々と手切れ金を要求され、断れば暴露すると脅される。
全てが裏目に出る。まるで、運命そのものに見放されたかのように。
悠夜の仕業だった。
悠夜にとって人間の社会的な信用を崩すことなど造作もない。電子データを書き換え、人の意識に微弱な暗示をかけ、猜疑心を煽る。
隆行の傲慢さが生んだ小さな綻びを、悠夜は丁寧に、かつ残酷に広げていったのだ。
そして、決定的な夜が訪れる。
事実上の謹慎処分を受け、自宅で酒に溺れていた隆行。
そこに、紗世子が帰ってきた。
しかし、今日の彼女は一人ではなかった。傍らには若い男――蓮と、見知らぬ長身の男が立っていた。
「……おい、なんだその男は?」
隆行は充血した目で睨みつける。
紗世子は一歩も引かなかった。かつて怯えていた彼女の姿はどこにもない。蓮の手をしっかりと握り、凛とした眼差しで夫を見据えていた。
「隆行さん。私と離婚してください」
「は?」
「ここに離婚届があります。既に署名は済ませました」
テーブルに置かれた緑色の紙。それを見た瞬間、隆行の脳内で何かが弾けた。
「ふざけるなッ!! 俺が今の状況で離婚なんか認めるわけねえだろ! 財産分与だ慰謝料だと言い出す気か? お前みたいな寄生虫が、俺の金をむしり取ろうとしてんじゃねえぞ!」
「お金なんて要りません」
紗世子は静かに、しかし力強く断言した。
「慰謝料も、財産分与も放棄します。ただ、自由にしてほしい。それだけです」
「はっ、新しい男ができたからか? そのガキか? 笑わせるな。俺の妻が不倫なんて、世間体が許さねえんだよ!」
隆行は立ち上がり、ウィスキーのボトルを掴んで振り上げた。
暴力でねじ伏せる。それが彼の解決策の全てだった。
「紗世子さん!」
蓮が前に出て、紗世子を庇う。
振り下ろされるボトル。だがそれは蓮の頭上でピタリと止まった。
「――蛮行はそこまでに」
低い声と共に、それまで沈黙していた長身の男――悠夜が隆行の手首を掴んでいた。
細身のスーツ姿からは想像もできない握力。隆行の手からボトルが滑り落ち、床で砕け散った。
「ぐ、あぁッ……離せ! 誰だてめえは!」
「私は紗世子様の代理人、弁護士の神代悠夜と申します」
悠夜は涼しい顔で名乗り、隆行の手首をひねり上げたまま冷ややかに告げた。
「貴方の暴力行為、不貞の証拠、そして会社での不正の記録……全て、ここに揃っております」
悠夜がもう片方の手で示したタブレットには、隆行も忘れていたような過去の悪行の数々が映し出されていた。
「これらを公表し、法廷で争うことも可能です。そうなれば、貴方は社会的地位だけでなく、この先刑務所での生活を余儀なくされるでしょう。……それでもよろしいので?」
「き、貴様……!」
「ですが、紗世子様は慈悲深い。これらを公にせず、慰謝料も請求せず、ただ離婚だけを求めておられる。……どちらが得か、猿でもわかる計算でしょう?」
隆行は呻いた。屈辱と怒りで顔が沸騰しそうだった。だが、証拠を握られている以上勝ち目はない。
「……蓮様、紗世子様を連れて外へ。ここからは私の仕事です」
悠夜の言葉に蓮は頷いた。
紗世子は一度だけ振り返り、隆行を見た。その目には憎しみすらなく、ただ哀れみだけがあった。
二人が出て行くと重い扉が閉まる音が響いた。
二人きりになったリビングで悠夜はゆっくりと隆行に向き直った。
先ほどまでの「有能な弁護士」の仮面が剥がれ落ち、底知れぬ何かが滲み出てくる。
「さて、隆行さん。判を押しなさい」
「……わかったよ。押せばいいんだろ、押せば!」
隆行は震える手でペンを取り、離婚届に殴り書きのように署名した。
「これで文句ねえだろ! さっさと出て行け!」
「ええ、出て行きますとも。……ですがその前に、最後の仕上げを」
悠夜が指をパチンと鳴らす。
瞬間、部屋の照明が一斉に消え、窓の外の夜景が赤黒く変色した。
空間が歪む。重力が狂う。隆行はソファに縫い付けられたように動けなくなった。
「な、なんだ!? 何が起きてる!?」
「私はね、ただの弁護士ではないんですよ」
悠夜の背中から闇そのもので出来た巨大な翼が広がった。
その顔は美しくも、人間が決して直視してはいけない「畏怖」そのものへと変貌する。紅い瞳が暗闇の中で爛々と輝いた。
「ひ、ひぃぃぃぃッ!! バケモノ……!?」
「失敬な。悪魔です」
悠夜は隆行の顔を覗き込み、囁いた。
「貴方は紗世子様をあまりにも長く、深く傷つけた。その罪は万死に値しますが……楽になるなど、許しませんよ」
悠夜の人差し指が隆行の額に触れる。
焼き鏝を押し付けられたような激痛が走り、隆行は絶叫した。
「ぎゃあああああッ!!」
「これは『呪い』です。貴方と紗世子様の因果を、運命のレベルで切断しました。今後、貴方がどう足掻こうと、偶然ですら彼女に会うことはできません。彼女の声を聞くことも、姿を見ることも、世界が拒絶します」
そして、悠夜は残酷に微笑んだ。
「そして貴方は、孤独の中で緩やかに腐っていく。誰にも愛されず、誰をも信じられず、今日という日の恐怖を抱えたまま、惨めな人生を這いずり回るのです」
悪魔の宣告。それは法的な罰よりも重く、隆行の魂に刻み込まれた。
「……あ、あぁ……」
恐怖のあまり失禁し、白目を剥いて泡を吹く隆行。
悠夜はそれをつまらなそうに見下ろすと、離婚届を拾い上げ、指を鳴らして幻影を解いた。
「それではごきげんよう、元・旦那様」
静まり返った部屋に再び夜の静寂が戻った。
残されたのは、抜け殻となった男だけだった。
マンションのエントランスを出ると雨上がりの夜空には満月が輝いていた。
街灯の下で待っていた紗世子と蓮が悠夜の姿を見て駆け寄ってくる。
「悠夜さん!」
紗世子の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかで美しかった。
かつての枯れかけた白薔薇は、今や大輪の花を咲かせていた。
「終わりましたよ。彼はもう、二度と貴女たちの人生に関わることはありません」
悠夜は離婚届をひらつかせ、すぐに懐へとしまった。
「本当に……ありがとうございます。なんと御礼を言ったらいいか」
「御礼なら、契約の時に申し上げた通りです。貴女の人生という物語の結末を、私が頂くこと」
悠夜は蓮には見えない角度で、片目を閉じてみせた。
蓮は不思議そうな顔をしていたが、深入りはしなかった。彼にとって重要なのは、紗世子が自由になり、これから二人で歩んでいけるという事実だけだ。
「紗世子、行こう。これからは僕が君を守る」
「ええ……蓮さん。私、あなたといられて本当に幸せ」
二人は手を取り合い、歩き出す。
その背中は希望に満ちていた。過去の傷は消えないかもしれない。だが、それを癒やし、上書きするほどの愛がこれからはある。
数歩歩いて紗世子は立ち止まり、振り返った。
「悠夜さん」
「はい」
「貴方がいなければ、私はずっとあの暗闇の中でした。……貴方は悪魔かもしれないけれど、私にとっては救世主でした」
紗世子は満面の笑みを浮かべた。
それは、悠夜がこれまで見たどの笑顔よりも、純粋で、力強いものだった。
「次は笑顔で再会しましょう、悪魔さん」
「ええ。楽しみにしていますよ、紗世子様」
紗世子は蓮の隣に戻り、二人は夜の街へと消えていった。
その幸せそうな後ろ姿を見送りながら、悠夜は夜風に黒髪をなびかせた。
「フフッ……」
人間の寿命など、悪魔にとっては瞬きのようなもの。
数十年後、愛に満ちた人生を全うし、老いて眠りにつく彼女の枕元に自分は再び現れるだろう。
その時、彼女の魂はどんな輝きを放ち、どんな「記憶」を語ってくれるのか。
苦難を乗り越え、真実の愛を手に入れた人間の魂の味。それはきっと、至高の甘露に違いない。
「……さて、今夜はいい月だ」
悠夜は紅い月を見上げ、満足げに目を細めた。
そして、その姿は夜の闇に溶けるように音もなく消え失せた。
街には二人の新しい門出を祝うように、優しい月明かりだけが降り注いでいた。
沙世子さんの幸福と隆行さんの不幸は始まったばかりです!