魔界、悠夜の屋敷。
重厚な扉で閉ざされた応接室には、最高級のブランデーの香りが漂っていた。
「今回は、本当にありがとう」
悠夜はソファの対面に座る男に向かって、深々と頭を下げた。
「よせよ、水臭ぇ。お前の頼みなら、こんな事いくらでもやってやるよ」
男がグラスを揺らしながら、軽い口調で答えた。
高い身長に、浅黒く健康的な肌。腰まで届く紫色の長い髪を無造作に束ね、その瞳は溶かした黄金のようにギラギラと輝いている。
彼が纏う空気は、チャラついた遊び人のようでありながら、世界の全てを値踏みし、所有しようとする底知れぬ渇望を秘めていた。
強欲(グリード)の魔王。
魔王の一角であり、悠夜とは生まれた頃からの付き合いである親友、そして兄弟同然の存在だ。
「魂を確保して、たった30年保管するなんて大した事じゃねえよ」
グリードは不敵に笑い、白い歯を見せた。
悠夜が彼に頼んだのは、フミと契約した直後のことだった。殺されたフミの家族――夫、娘、婿の魂を、輪廻の輪に還る前に「強奪」し、鮮度を保ったまま誰にも見つからないように隠匿すること。
そして、フミが寿命を全うし、昇天するその瞬間に解放して再会させること。
それは、口で言うほど簡単なことではない。
死者の魂は、死後速やかに冥界の理(ことわり)によって回収される。それに干渉し、30年もの長期間劣化させずに隠し通すなど神業に近い。
「大した事じゃないと言えるのは、貴方だけですよ」
悠夜は苦笑してグラスを合わせた。
『強欲』の権能。それは「欲しい」と思ったものを、世界の理をねじ曲げてでも手に入れ、決して手放さない力。
宝を見つけ出す探索能力と、手に入れた宝を完璧な状態で保存する能力において彼の右に出る者はいない。
「普通、輪廻に入った魂を無理やり引き剥がして再会させようなんてしたら、冥界のシステムにエラーが出て崩壊しかねませんからね」
悠夜の力でも不可能ではないが、世界への負荷が大きすぎる。
スマートに、かつ確実にフミの願いを叶えるためには、グリードの協力が不可欠だったのだ。
「ま、あの婆さんの魂の輝きを見たら、いい仕事だったと思えるぜ。……さて、報酬の時間と行こうか?」
グリードが舌なめずりをする。
彼が報酬として求めたのは、もちろん「味見」だ。
場所をメインキッチンに移す。
そこには既に、エプロンをつけたグラトニーがフォークとナイフを持って待機していた。
「遅いー! 悠夜、早く早く!」
「はいはい。お待たせしました」
悠夜はキッチンのカウンターに立ち、フミの記憶の結晶を取り出した。
それは不思議な色をしていた。
ベースは漆黒と純白がマーブル状に混ざり合っており、その中心核には、太陽のように眩い黄金の煌めきが宿っている。
それを見た瞬間、グラトニーとグリードは首を傾げた。
「ねえ、悠夜〜。犯人のは?」
グラトニーがキョロキョロと他の食材を探す。
「フミちゃんが丹精込めて、数十年かけてじっくりコトコト拷問した奴らの記憶! そっちも出してよ〜! 絶対美味しいよ!」
悪魔にとって、人間の「絶望」や「恐怖」はメインディッシュだ。
特に、フミのような凄腕の拷問官によって調理された魂は、極上の熟成肉のような味わいになるはずだ。
「そうだな。腹ペコ嬢ちゃんの言う通りだぜ。婆さんの美しい強欲(執念)には興味あるけどよぉ……」
グリードも同意する。
「やっぱ悪魔にとっちゃ、屑の絶望こそが最高の酒の肴(ごちそう)だぜ? そっちもあんだろ?」
二人の期待に満ちた眼差しを受け、悠夜は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……すみません。今回は、僕も回収できそうにないので、諦めて下さい」
「は?」
二人の魔王が凍りついた。
「うわぁ……悠夜が『諦める』って……」
「マジかよ……何億年先だろうが、未来から先回りして回収することだって容易くできるお前が、無理って……」
悠夜は時空すらある程度操作できる超越者だ。その彼が「回収不能」と断言する状況。
それはつまり、犯人たちが落ちた場所が、時間の概念すら存在しない虚無の彼方か、あるいは……。
「フミさんの子孫が永遠に安泰で居られるために、彼らには『永劫』の苦しみを与えました」
悠夜は淡々と説明した。
「彼らが苦しみ続けている間だけ、そのエネルギーが変換されて子孫を守る結界になります。つまり、彼らが解放される=子孫の守りが消える、ということです」
「なるほどな……」
「子孫が増えるにつれて、必要なエネルギーも増えますから、彼らの刑期(苦痛のノルマ)は指数関数的に増大していきます。……解放される未来は、永遠に来ないのです」
つまり、煮込み料理の鍋の底で、永遠に煮崩れ続けて出汁を取られているようなものだ。
取り出して食べることは、永久にできない。
「へへッ、えげつねぇ」
グリードは乾いた笑いを漏らした。
「あの婆さんも、流石にここまでするとは考えて無かったと思うぞ? 」
「ええ。ですが、『いつまで』と期限を指定しなかったフミさんが悪い」
悠夜は悪びれもせず、契約の穴をつくのは悪魔の嗜みと言わんばかりに微笑んだ。
「うーん、正に悪魔だね悠夜! そういうとこ好き!」
グラトニーが無邪気に賞賛する。
「その分、フミさんの記憶の質は飛躍的に上がりましたから、勘弁して下さい」
悠夜は手元の結晶を撫でた。
「特に、幸福の純度は最高級です。……では、調理を始めましょうか」
「今回のメニューは、『フミさんの天国と地獄のミルフィーユ』です」
悠夜の指先がしなやかに動く。
まず、結晶の「黒い部分」を抽出する。
それはフミが地下室で過ごした、修羅としての日々の記憶だ。
返り血の鉄臭さ、肉が焦げる臭い、犯人たちの絶叫、そして自身の良心が軋む音。
重く、苦く、そして焦げ付くような罪悪感。
悠夜はそれを薄く、極限まで薄く伸ばしていく。
魔力で焼き上げると、黒いシートは「パイ生地」のようにパリパリとした質感に変わった。
ビターチョコレートを焦がしたような、ほろ苦く香ばしい香りが立つ。
「次は『白い部分』です」
結晶の「白い部分」を取り出す。
それは遥と過ごした、穏やかな日々の記憶だ。
孫娘の笑顔、陽だまりの暖かさ、洗濯物の匂い、ひ孫を抱いた時の柔らかさ。
甘く、優しく、どこまでも滑らかな幸福感。
悠夜はそれをホイップし、濃厚な「クリーム」へと変えた。
最高級のバニラビーンズと、フレッシュなミルクを合わせたような、芳醇な甘い香り。
「これを、重ねていきます」
黒いパイ生地(地獄)の上に、白いクリーム(天国)を塗る。
その上にまた、黒いパイ生地を乗せる。
黒、白、黒、白……。
フミの人生そのもののように、苦痛と幸福が交互に、何千層にも折り重なっていく。
「仕上げは……これですね」
最後に、中心核にあった「黄金の煌めき」を砕く。
それは最期の瞬間、愛する家族と再会し、すべての罪を赦されて昇天した「魂の救済」の輝きだ。
悠夜はそれをキャラメリゼし、ミルフィーユの表面にコーティングした。
「完成です」
皿の上には、芸術的な断面を持つケーキが鎮座していた。
黒と白のコントラストが美しく、表面の黄金が照明を反射してキラキラと輝いている。
「おお……! こいつは美味そうだ」
「いただきまーす!!」
三人はフォークを入れた。
サクッ……。
ナイフを入れた感触だけで、生地の繊細さとクリームの滑らかさが伝わってくる。
口へと運ぶ。
パリパリッ、トロッ……。
「……ッ!!」
食べた瞬間、三人の悪魔の動きが止まった。
最初に舌を打つのは、強烈な「苦味」だ。
焦げたパイ生地(地獄)が砕け、口の中に犯人たちの断末魔と、手を汚すフミの苦悩が広がる。
重い。辛い。吐き出したくなるほどの罪の味。
だが、その直後。
とろりと溶け出したクリーム(天国)が、全てを包み込む。
苦味を中和するのではない。苦味があるからこそ、その甘さが際立つのだ。
「んん〜〜〜〜ッ!!!」
グラトニーが頬を抑えて悶絶する。
「なにこれぇ!? 苦いのに甘い! 重いのに軽い! 地下室の血生臭さが、遥ちゃんの笑顔で浄化されていく〜!」
口の中で、フミの人生が走馬灯のように駆け巡る。
鉄火箸を握る手の震え(恐怖)が、孫の手を握る温もり(安心)へと変わる。
犯人への憎悪(熱)が、ひ孫への愛(光)へと昇華される。
「美味い……。なんて深みだ」
グリードが唸る。
「ただ甘いだけの『幸福』じゃねえ。ただ苦いだけの『不幸』でもねえ。互いが互いを必要としている味だ」
そう、このミルフィーユの真髄は「断絶」ではなく「調和」だ。
地獄があったからこそ、天国が輝いた。
天国を守るために、地獄が必要だった。
そして最後に訪れる、表面のキャラメリゼ(昇天)のカリッとした食感と、爆発的な甘美。
全ての苦労が報われ、魂が解き放たれる瞬間のカタルシスが、脳髄を痺れさせる。
「ふぅ……。素晴らしい出来栄えです」
悠夜も一口食べ、満足げに目を細めた。
悪魔の格を上げるような悍ましい業(カルマ)はない。
だが、一人の人間が生き抜いた証の味は、静かに、しかし確実に悪魔たちの心を満たしていった。
皿が空になった頃、グラトニーが不思議そうに尋ねた。
「でもさ、悠夜。契約者にここまで辛い思いをさせるのって珍しいよね?」
彼女はフォークを舐めながら首を傾げる。
「画家のマイケルのように『苦労』させることはあっても、精神的に追い詰めるような『辛い思い』をさせることは無かったのに。悠夜って基本、契約者には甘いじゃん?」
確かに、悠夜は契約者に対して過保護なほど面倒見が良い。
それが今回に限って、フミに手を汚させ、修羅の道を歩ませた。
「……」
悠夜が答える前に、グリードが口を開いた。
「あの婆さんには、生きる目的が必要だったのさ」
グリードは空の皿を見つめ、静かに語る。
「孫以外の家族全員殺されて、生き残っちまった。……そんな状況で、まともな精神で生きていけると思うか? 」
「あ……」
「『生き残ってしまった』という罪。それに対する罰が必要だったんだよ。自分が手を汚し、地獄の苦しみを味わうことでしか、婆さんは自分を許せなかった」
悠夜が静かに頷く。
「はい……。彼女には、大義名分が必要でした。『私が生き地獄を味わっているのは、孫娘を幸せにするための贖罪なのだ』と。そう思わなければ、彼女の心はとっくに壊れていたでしょう」
地下室での拷問の日々。
それは客観的に見れば地獄だが、フミにとっては「家族のために戦っている」と実感できる、ある種の救い(天国)でもあったのだ。
「その矛盾、葛藤、そして愛。……それらが何層にも重なり合って、このミルフィーユを作りました」
「なるほどねぇ……。深いなぁ、人間って」
グラトニーは感心したようにため息をついた。
「ご馳走さん。……悠夜、すまんがこのミルフィーユ、あと2つ作ってくれねえか?」
グリードが身を乗り出して頼んだ。
「ラスト(色欲)の姐さんと、ラース(憤怒)のお嬢にも食わせてやりてぇんだ。特に姐さんはこういう『愛ゆえの狂気』が大好物だし、お嬢には『正しい怒りの燃やし方』を教えるのに丁度いい」
悠夜は一瞬表情を曇らせたが、すぐに苦笑して頷いた。
「……わかりました。お包みしますよ」
「悪いな」
「いえ。貴方が直接届けてくれるなら、僕としても助かります」
グリードはニヤリと笑った。
「任せとけ。お前が動いたら魔界が揺れるからな」
それを聞いて、グラトニーが心底面倒くさそうに頬杖をついた。
「あーあ、面倒くさいな〜。何で悠夜は自由に動かないんだよ? 私みたいに好き勝手すればいいじゃん」
「あのな、腹ペコ。お前が悠夜の傍にべったりなせいだぞ?」
グリードが呆れたようにツッコむ。
「え?」
「いいか? 『始祖の魔王』である暴食(テメェ)が、『超越者』悠夜のペットみたいになってる……その事実だけで、魔界の住人はドン引きしてビビってんだからな?」
グラトニーは魔界でも最強格の魔王だ。その彼女を手懐けている(ように見える)悠夜は、周囲からすれば「魔王をも従えるバケモノ」に見える。
「そのせいで、悠夜は無用な争いを避けるために、他の大魔王とは極力接触しないように気を使ってるんだぞ? 俺みたいに個人的な付き合いのある兄弟分や、まだガキンチョのプライドならいいがよ」
グリードが指を折って数える。
「ラストやラース、それにスロウス(怠惰)あたりは巨大勢力の長だ。悠夜がうかつに接触してみろ。『悠夜が暴食に続いて他の魔王も傘下に収めようとしている!』とか魔界速報(ゴシップ)に取り上げられて、大騒動になりかねねぇんだよ!」
「えー……」
「本来なら、姐さんとお嬢もここに呼んでパーティーと洒落込みてぇのによぉ。オメェがちゃんと独り立ちして、『悠夜とはただの飯友達です』ってアピールすりゃ、もっと気軽に呼べるんだぞ? ん?」
グリードのマシンガントークが止まらない。
どうやら彼も、親友の悠夜ともっと気楽に遊びたいのに、周囲の目がうるさくて不満が溜まっていたらしい。
「これを機に少しは頑張れや、ニート魔王」
「うっせえ!」
グラトニーがキレた。
「ここ以外にお腹を満たせないんだから仕方無いだろ! 悠夜のご飯が美味しすぎるのが悪い! つまり私は悪くない! 悠夜が悪い!」
「逆ギレかよ!?」
ギャーギャーと言い合う二人。
見た目はグリードの方が大人だが、精神年齢はどっこいどっこいの兄妹喧嘩だ。
ちなみに、存在した年数で言えばグラトニーの方が遥かに年上(ババア)なのだが、それを言うと彼女は本気で暴れて国を一つ消すので、誰も言わない。
「ああもう、喧嘩しないで下さい」
悠夜はため息をつき、手をパンと叩いた。
「別のおやつを作りますから、機嫌を直して下さいグラトニー。グリードも、彼女を煽らない」
「ちぇっ、わかったよ」
「やった! おやつ!」
アッサリと機嫌が直るグラトニー。単純な魔王である。
悠夜が準備のために背を向けると、グリードが音もなく近寄り、耳打ちした。
「……大丈夫か? 在庫」
「ええ。フミさんの記憶は、そう簡単に無くなりそうにありませんから」
悠夜は手元の結晶を見つめた。
白と黒が混ざり合い、その中心で黄金が輝く、美しい宝石。
このミルフィーユは、何千層、何万層と切り出しても、決して底をつくことはないだろう。彼女の愛が無限であるように。
「末永く、お付き合い出来そうです」
悠夜は穏やかに微笑み、新たな皿を取り出した。
魔界の夜は更けていく。
甘く、苦く、そして愛おしい香りに包まれて。
実はフミさんの奇跡は犯人達に関係無いのです。
グリードの犯行のカモフラージュとして負債を引っ被って貰いました、冤罪ですねw