消毒液の匂いが充満する、白い病室。
人工呼吸器の規則的な電子音だけが、静寂を刻んでいた。
ベッドに横たわっているのは、まだ十歳にもならない少女、美咲(みさき)。
彼女の細い腕には無数の管が繋がれ、その命の灯火は風前の灯だった。
「……くそっ……どうして……」
パイプ椅子に座り、頭を抱えているのは父親の健一(けんいち)。
現代医学では治療法が見つからない難病。余命宣告の期限は刻一刻と迫っている。
妻に先立たれ、男手一つで育ててきた最愛の娘。彼女を救うためなら、自分の命など喜んで差し出す覚悟があった。だが、神は代償さえ求めてくれない。ただ理不尽に奪おうとするだけだ。
「お困りのようですね」
不意に、背後から声がかかった。
健一が弾かれたように顔を上げると、いつの間にか病室の入り口に一人の男が立っていた。
夜の闇を仕立てたような漆黒のスーツ。病的なまでに白い肌。そして、鮮血のように紅い瞳。
見惚れるほど美しいが、背筋が凍るような威圧感を纏った青年だ。
「だ、誰だ……? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
「私は悠夜(ゆうや)。通りすがりの悪魔です」
男は悪びれもせず、ベッドの傍らに歩み寄った。
「娘さん、助けたいですか?」
「……は?」
「貴方の『願い』があまりにも強く、美味しそうだったので来てしまいました。……私と契約しませんか? 貴方が試練を乗り越えれば、娘さんの病を完治させて差し上げましょう」
悪魔。契約。
普段なら頭のおかしい不審者だと思って追い返していただろう。だが、極限状態にある健一にとって、その言葉は暗闇に垂らされた一本の蜘蛛の糸に見えた。
「……本当に、治せるのか? 美咲を、助けてくれるのか?」
「ええ、保証します。悪魔に二言はありません」
悠夜は胸に手を当て、恭しく一礼した。
「条件を提示します。ここをスタート地点とし、徒歩で日本を一周して、再びこの病室に戻ってくること」
「日本……一周……?」
「はい。自分の足で歩くこと。ただし、海路など船を使わなければ進めない場所に限り、乗船を許可します。制限時間は……娘さんの命が尽きるその瞬間まで」
健一は絶句した。
美咲の余命は、長くてあと数ヶ月。徒歩で日本一周するには、健脚な者でも一年近くかかる。普通に考えれば絶対に間に合わない。
「……ただ歩くだけで、娘は助かるのですか?」
「ええ。原理としては、貴方の行う『苦行(巡礼)』をある種の儀式として定義します。貴方が極限の疲労と苦痛に耐え、それでも娘を想って歩き続けるとき、そのエネルギーを私が魔術として変換・応用し、娘さんの病魔を焼き払うのです」
悠夜の説明は荒唐無稽だったが、不思議な説得力があった。
「受けます」
健一は即答した。
「娘が助かるなら、何だってします。悪魔に魂を売ることだって厭わない」
「良いでしょう。契約成立です」
悠夜は満足げに頷いた。
そして、指をパチンと鳴らすと、健一の足元に登山用のリュックサックと頑丈な靴が現れた。
「私は鬼ではありませんからね。達成不可能な試練を課すような真似はしません。最低限のサポートアイテムを用意しました」
悠夜はリュックを指差した。
「食料や水、野営道具が入っています。……後は貴方次第です。さあ、行ってらっしゃいませ」
健一はリュックを背負った。ずしりと重いが、それは希望の重さでもあった。
彼は眠る美咲の額にキスをし、決意を秘めて病室を飛び出した。
その後ろ姿を見送った悠夜は、静かに美咲の方を向いた。
(……さて。計算上、どう足掻いてもお父さんの足では間に合いませんね)
悠夜は冷徹に分析していた。
普通なら絶対に達成できない。
だが、悪魔の力で直接病を治すのは、世界からの「しっぺ返し(反動)」が大きすぎる。無関係な人間に押し付けるのは美学に反する。
だからこそ、父親の「苦行」という儀式で因果を相殺する必要があるのだ。
(ならば、どうやって時間を稼ぐか。……それはもう、『気合』しかありませんね)
病は気から。それは人間界における数少ない真理の一つだ。
悠夜はそっと美咲の額に手をかざし、彼女の精神世界へと潜った。
夢の中。暗い闇に沈んでいた美咲の意識に、悠夜は映像を見せた。
必死に歩く父親の姿を。
自分のために、ボロボロになりながら戦う父親の背中を。
『パパ……』
『見てごらんなさい。パパは貴女のために頑張っていますよ。貴女が諦めて死んでしまったら、パパの努力は全て無駄になります』
悠夜の言葉に、美咲の魂が微かに震えた。
『私は……生きたい。パパと、もっと一緒にいたい……!』
『ええ、その意気です。頑張りなさい。私もサポートしますから』
娘の生存本能(気合)に火がついた。これで寿命が伸びるだろう。
悠夜は現実世界に戻り、ニヤリと笑った。
(この娘の命は私が繋ぎ止めておきます。ですから……彼をお願いしますよ、マイケル)
夜
健一は歩いていた。
「はぁ……はぁ……」
喉が渇いた。
視界が霞む。
このまま倒れてしまいたい。だが、立ち止まれば美咲が死ぬ。
公園の水道を見つけ、健一は這うように近づいた。
「水……」
『待ちな』
不意に、背中のリュックから声がした。
「!?」
『そんなカルキ臭い水より、もっと良いのがあるぜ。リュックに入ってる水筒を開けてみな』
男のような、それでいて陽気な声。
健一は恐る恐るリュックを下ろし、サイドポケットに入っていた銀色の水筒を取り出した。
蓋を開け、コップに注ぐ。
出てきたのは、黒褐色の液体だった。シュワシュワと泡立ち、芳醇な甘い香りが漂う。
「これは……コーラ?」
『おうよ! 特製、マイケルコーラだ! 一気に飲みな!』
言われるがままに、健一はそれを煽った。
ゴキュッ!
「ぐほぉ!? 炭酸キッツぅ!?」
『おや、刺激が強すぎたかぁ? ガハハ!』
「ぐううう!? でも……身体に……染みるぅぅぅ!!」
強烈な炭酸の刺激と共に、爆発的なエネルギーが胃から全身へと駆け巡る。
鉛のように重かった手足が、嘘のように軽くなった。脳の霧が晴れ、視界がクリアになる。
さらに、リュックのメインポケットが勝手に開き、中から銀紙に包まれた物体が飛び出してきた。
バリバリッ!
包装紙を自ら破り、中から現れたのは――湯気を立てる出来立てのハンバーガーだった。
『よう! 話はあのサド悪魔から聞いてるぜ? 俺はマイケル!』
バンズがパクパクと動き、言葉を喋っている。
「は、ハンバーガーが喋ったぁ!?」
『はっはっはっは! 良いリアクションありがとう! 俺はかつてあの悪魔と契約し、情熱のままに生き抜いた画家の成れの果てさ。今はこうして、食料兼アドバイザーとして雇われてる』
情熱のハンバーガー、マイケル。
悠夜が「最低限のサポート」と言っていたのは、この最強の非常食のことだったのだ。
『よろしくな、相棒!』
「よ、よろしく……?」
状況が飲み込めない健一だったが、マイケルの放つ香ばしい肉の匂いに、腹の虫が鳴いた。
『さあて、空きっ腹にコーラだけじゃキツイだろう? 俺様を食べな!』
「え? でも、君は喋ってるし……」
『でえじょうぶだ! 情熱がある限り俺は不滅だ。食われても再生するし、痛みもねえ。むしろ俺の情熱(カロリー)がお前の血肉になるのが嬉しいんだよ!』
マイケルは自ら健一の口元へ飛び込んだ。
健一は意を決して、ガブリとかぶりついた。
ジュワッ!!
「う、美味いッ!!!」
口いっぱいに広がる肉汁。香ばしいバンズ。シャキシャキの野菜。
それは単なる食事ではなく、「生命力」そのものだった。
マイケルが生前培った、困難に立ち向かう不屈の闘志。それが味となって健一の魂を鼓舞する。
『良い食いっぷりだ! 気に入ったぜ! これなら日本一周なんて楽勝だろ?』
「ああ……力が湧いてくるよ。ありがとう、マイケル」
孤独な旅路に、頼もしい相棒ができた。
健一の目に、再び希望の光が宿った。
それから数ヶ月。
健一は歩き続けた。
炎天下のアスファルト、凍えるような峠道、嵐の海岸線。
靴は何足も履き潰し、足の皮は厚くなり、顔は日焼けで真っ黒になった。
何度も心が折れそうになったが、その度にマイケルが励まし、コーラで喉を潤し、その身を捧げて飢えを満たしてくれた。
『へこたれんな! 娘ちゃんが待ってるぞ!』
『ここは俺の描いた絵のように絶景だな! 目に焼き付けとけ!』
マイケルとの会話は、健一の精神的な支えだった。
そして、ついにゴールである病院まであと数十キロの地点まで戻ってきた。
だが、限界は近づいていた。
健一の肉体はボロボロで、マイケルのドーピングを持ってしても、立っているのがやっとの状態だった。
さらに悪いことに、悠夜からのテレパシーで、美咲の容態が急変したことが伝えられた。
『急げ! 今夜が山だ!』
マイケルが叫ぶ。
だが、健一の足は鉛のように動かない。一歩踏み出すのに数秒かかる。これでは間に合わない。
「ちくしょう……動け……動けよ……!」
健一は膝をついた。涙が地面を濡らす。
ここまで来て。あと少しなのに。俺は無力だ。
その時、頭の中に声が響いた。
『パパ……』
美咲の声だ。
『凄く辛いよね、苦しいよね……。でも……お願い、頑張って』
『私は生きたいの。パパと一緒に遊園地に行きたい。パパと手を繋いで歩きたいの!』
消え入りそうな、けれど確かな「生への執着」。
娘の願いが、父親の心臓を鷲掴みにした。
「うおおおおおおおおおッ!!!」
健一は吠えた。己の弱さを、絶望を振り払うように。
「マイケル!!」
『おう!』
「お前の全てを、僕にくれ!!」
健一はマイケルを掴んだ。
再生を待って少しずつ食べるのではない。今、ここに存在するマイケルの全霊を摂取し、最後の一歩に変えるために。
『がーはっはっはっは!! そう来なくっちゃな!』
マイケルは歓喜の声を上げた。
『これで最後だ! 俺の情熱、全部食らえ!! 行ってこい、親父ィ!!』
健一は水筒のコーラを一気に飲み干し、巨大なハンバーガーを丸呑みするように貪り食った。
咀嚼するたびに、マイケルの魂が流れ込んでくる。
画家として生きた情熱、冒険した記憶、困難を笑い飛ばす強さ。
「諦めて……たまるかぁ!!!!!」
全身が燃え上がった。筋肉が悲鳴を超えて稼働する。
健一は弾丸のように走り出した。
『よくやった……いけぇ!!』
胃の中で、マイケルの声が溶けていく。
彼は父親の血となり肉となり、完全に同化した。
夜明け前。
病院のロビーに、泥だらけの男が飛び込んできた。
看護師たちの制止を振り切り、病室へ駆け込む。
「美咲!!」
心電図の音が弱々しく響く部屋。
健一はベッドの脇に倒れ込み、娘の手を握った。
「パパ……来たよ……約束通り……帰ってきたよ……!」
日本一周達成。
その瞬間、健一の体から眩い光が溢れ出した。
苦行によって練り上げられたエネルギーが、悠夜の術式によって「治癒の光」へと変換され、美咲の体を包み込む。
黒い病魔の霧が晴れ、美咲の頬に赤みが差していく。
規則正しくなり始めた呼吸音と共に、美咲がゆっくりと目を開けた。
「……パパ……?」
「美咲……!」
二人は抱き合った。
その奇跡を見届けた虚空で、満足げな笑い声と共に『あばよ』という言葉が聞こえた気がした。
魔界にある悠夜の屋敷。
メインキッチンでは、悠夜とグリード、そしてグラトニーがテーブルを囲んでいた。
「さて、本日のメインディッシュです」
悠夜が運んできたのは、大皿に盛られた山盛りのサラダだった。
レタス、トマト、キュウリ、パプリカ。色とりどりの野菜が宝石のように輝いている。
「は? サラダ?」
グラトニーが露骨に嫌そうな顔をした。
「肉は? ハンバーグとかステーキは? なんで草なの?」
「まあまあ、食べてみなさい。これはただの野菜ではありません」
悠夜は説明した。
これは、あの父親・健一が日本一周の旅の中で流した汗と涙、そして「娘を救いたい」という強烈な願い(記憶)を肥料にして育て上げた、魔界特製の野菜なのだ。
「ほう。こいつは珍しい」
グリードがフォークでレタスを持ち上げ、感嘆の声を上げた。
「こんだけ強い欲望(強欲)が詰まってるのに、驚くほど澄んでやがる。普通、人間の欲望ってのはドロドロして濁ってるもんだが……これはクリスタルのように純粋だ」
苦難を乗り越え、自分のためではなく、愛する者の未来を求めた「綺麗な強欲」。
過酷な現実という嵐に耐え、大地に根を張って育った野菜の味は、極めて濃厚であるはずだ。
「えー、でも野菜だしなぁ……」
ブツブツ言いながらも、グラトニーはトマトを口に放り込んだ。
プチュッ。
「……ッ!?」
グラトニーの目が丸くなった。
「なにこれ! 味が濃い! 肉よりも肉肉しい!」
トマトを噛んだ瞬間、溢れ出したのはただの果汁ではない。生命の奔流だ。
父親が旅の中で感じた「生きたい」「生かせたい」という渇望が、旨味となって凝縮されている。
レタスはシャキシャキと小気味よい音を立てるたびに、一歩一歩踏みしめた大地の力強さが広がる。
「美味しい……! 美味しいんだけど……」
グラトニーは首を傾げた。
確かに極上の味だ。だが、何かが足りない。
あまりにも純粋すぎて、綺麗すぎて、悪魔の舌には少し「パンチ」が不足しているのだ。
濃厚だが爽やかすぎる。もっとこう、脂っこい情熱のようなものが欲しい。
「ふふ、そう言うと思いましたよ」
悠夜はニヤリと笑い、背後から一つの瓶を取り出した。
「物足りないなら、これを使いなさい」
瓶の中には、琥珀色のドロッとした液体が入っている。
蓋を開けると、スパイシーで、どこかジャンキーな、食欲をそそる香りが爆発した。
『がーはっはっはっは!!!』
瓶の中から、聞き覚えのある豪快な笑い声が響いた。
『物足りないねぇ! なら俺を使いなぁ、お嬢ちゃん!』
「この声……マイケル!?」
「はい。『マイケルドレッシング』です」
健一と同化したが、彼が天寿を終えた時に回収し、特製ドレッシングに加工していたのだ。
悠夜はドレッシングをたっぷりとサラダに回しかけた。
「さあ、召し上がれ」
グラトニーとグリードは、ドレッシングのかかったサラダを口にした。
ガツンッ!!!
衝撃が走った。
父親の「静かなる強欲(野菜)」に、マイケルの「燃えるような情熱(ドレッシング)」が絡み合う。
野菜の純粋な旨味を、ドレッシングのジャンキーでスパイシーなコクが何倍にも引き立てている。
それはまるで、真面目な父親と、破天荒な相棒が織りなした旅の記憶そのもの。
「美味ぁぁぁぁぁいッ!!!」
グラトニーが絶叫した。
「これよこれ! この熱さ! 綺麗事だけじゃない、泥臭い根性とパッション! 肉を食べてないのに、ステーキを十枚食べたような満足感!」
「へっ、やるじゃねえか」
グリードもニヤリと笑い、サラダを搔き込む。
「親父の『娘を救いたい』という強欲と、マイケルの『人生を楽しめ』という快楽主義。正反対のようでいて、最高の相性だ」
サラダボウルがあっという間に空になっていく。
肉至上主義のグラトニーが、野菜だけでここまで満足するのは初めてのことだった。
悠夜は二人の食べっぷりを眺めながら、自分も一口食べた。
口の中に広がる、爽やかで、熱くて、少しだけ切ない友情の味。
(……これなら、『世界で2番目』の称号は頂けそうですね、マイケル)
人間界のとある遊園地。
そこには、元気に走り回る美咲と、それを笑顔で追いかける健一の姿があった。
病気は完治し、リハビリを経て、二人は約束だった遊園地デートを果たしていた。
お昼時。ベンチに座り、二人はお弁当を広げた。
美咲が早起きして作った、手作りのサンドイッチだ。具はハムとチーズ、少し不格好なレタス。
「パパ、はい! あーん!」
「あーん……うん、美味しい!」
健一はサンドイッチを頬張り、目尻を下げた。
どんな高級料理よりも、この味が一番だ。
(マイケル……君はとても美味しかったよ。僕の恩人?だ)
健一は心の中で、空に向かって語りかけた。
(でも、ごめんね。君は『世界で2番目』だ)
世界で一番美味しいのは、今、手の中にあるこのサンドイッチだ。
愛する娘が生きて、笑って、作ってくれた味。これに勝るものなど、この世に存在しない。
その時、ふと風が吹き抜け、懐かしい男の笑い声が聞こえた気がした。
『けっ、親バカが。……ま、流石にそれには敵わねぇよ』
健一は驚いて周囲を見回したが、そこには幸福な親子連れがいるだけだった。
あの日から、リュックの中の相棒の声は聞こえなくなった。
けれど、寂しくはない。
自分の血となり肉となった彼が、いつまでも自分の中で生き続け、背中を押してくれていると知っているから。
「パパ? どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
健一は娘の頭を撫でた。
「さあ、次は観覧車に乗ろうか!」
「うん!」
二人は手を繋ぎ、歩き出した。
その足取りは力強く、未来へと続いていた。
書いて居ませんが実は滅茶苦茶必死に娘さんの命を繋ぎ止めていた悠夜
生きる気力を出させるために地味に黒歴史になるような事をしています
その記憶は悠夜が封印したので娘さんは思い出せませんが