冥界。
オリュンポス神域の地下深くに広がる、死者たちの国。
地上とは異なる冷たい静寂に包まれたその場所で、悠夜は一人の偉丈夫と対面していた。
漆黒の髪を後ろに流し、アメジストのような紫の瞳を持つ男。
身に纏うのは、闇そのものを織り上げたような重厚なローブ。
彼こそが、この冥界を統べる王──ハデスである。
ハデス神の座と役割(ロール)を継いだ現行の神であり、奔放で腐敗したオリュンポス神族の中にあって、数少ない『良心』と呼べる高潔な人格者だ。
「此度は本当に世話になったな、悠夜」
ハデスは玉座から立ち上がり、深々と頭を下げた。
神の頂点に立つ者が、悪魔に対して頭を下げる。通常ならあり得ない光景だが、ハデスという男の誠実さがそれを自然なものに見せていた。
「いえいえ、大した事ではありませんよ」
「謙遜するな。……あんな雑な死者蘇生の反動を、世界に影響を出さずに無効化出来る者など、君しか居ない」
ハデスは苦々しげに顔を歪めた。
女神と勇者マルスが行った、禁忌の蘇生術。それは冥界の魂の循環システムに深刻なエラーを引き起こすものだった。悠夜が介入しなければ、冥界は汚染され、パンクしていただろう。
「……ああ、出来れば私の手で八つ裂きにしたかったがな」
ズズズ……。
ハデスの独り言と共に、冥界の大気が震え、殺気が充満する。
普段は理性的だが、一度怒らせればオリュンポスの戦神すら震え上がらせる冥王の覇気だ。
「ハデスさん、落ち着いて下さい! もう終わった事ですから!」
「すまん……。つい、腹の虫が収まらなくてな」
「お気持ちはわかりますよ」
悠夜がなだめると、ハデスは溜息をついて椅子に座り直した。
「マルスを殺したのは……アレンという少年だったか?」
「はい」
「そうか。彼にも、冥界を代表して感謝と謝罪がしたいのだが……会えるだろうか?」
律儀なハデスらしい申し出だ。
だが、悠夜は静かに首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいのですが、出来れば彼が天寿を全うしてからお願いします」
「……なぜだ?」
「彼はもう、神に関わらせたく無いのです。神々の勝手な都合に振り回されるのは、もう十分でしょう」
ハデスはハッとして、痛ましげに目を伏せた。
確かにその通りだ。アレンの悲劇は、全て神々の怠慢と驕りが招いたものだ。今更どの面を下げて彼に会うというのか。
「そうだな……。我等の怠慢であの様な目に遭ったのだ。合わせる顔がない」
「ハデスさん、貴方は悪くありませんよ」
「いいや、管理者としての責任だ」
ハデスは自責の念に駆られていた。
彼は知っていたのだ。アレンがどれほどの地獄を味わい、それでも愛する少女のために立ち上がり、修羅となったかを。
「最愛の伴侶の為に地獄を味わい、その献身を忘れない為に罪と罰を背負って生きていく……」
「見事だ。神としてでなく、一人の男として尊敬を禁じ得ない」
ハデスの言葉には、深い共感があった。
なぜなら、ハデス自身もまた、妻であるペルセポネを何よりも深く愛しているからだ。もしペルセポネがあんな目に遭わされたら──そう考えただけで、ハデスの腸は煮えくり返る。
「本当に……彼には申し訳ないことをした」
「私にとってのペルセポネを……あんな……あんな虫けら共が……!」
ゴゴゴゴゴゴ……!
ハデスの紫の瞳が、怒りで発光し始めた。
冥界の地面に亀裂が走り、天井から岩がパラパラと落ちてくる。
「ハデスさん! 神気が漏れてる、漏れてます! 城が崩れますから!」
「おっと、すまん。……妻のことを考えると、どうも冷静でいられない」
ハデスはバツが悪そうに咳払いをした。
この愛妻家ぶりこそが、彼の魅力であり、同時に最大の地雷スイッチでもある。
「まあ、此度の事で唯一良かったと言えるのは、これからは君を堂々と客として呼べるし、食材(野菜)を下ろせることだな」
「ハデスさん……」
「そもそも、君に関わる事が禁忌というのがおかしいのだ。君ほど優しく思い遣りのある者を、力が有るだけで拒否するなど情けない話だ」
ハデスは心底憤っていた。
天界の神々は、悠夜を「因果喰らい」と恐れ、忌避している。だが、実際に接してみれば彼ほど理知的で話のわかる相手はいない。
「ヘスティアも憤ってたぞ」
「ははは、かまどの女神様はお元気ですか」
「ああ。今度彼女にも会ってやってくれ。君に美味い飯を食わせたがっている」
「善処します」
和やかな空気が流れる。
だが、そろそろ本題に入らなければならない。
「さて、すまんが礼の宴は後回しさせてくれ。まずは……アレを処分せねばならん」
「勇者マルスの死体、ですね」
悠夜はおずおずと尋ねた。
勇者マルスの肉体。悠夜がアレンとの契約で回収した「代価」だ。
「あの〜……ちなみにペルセポネさんは?」
「ん? 妻なら息子と義娘と一緒に、義母上の元に100年程遊びに行ったぞ?」
悠夜は驚愕した。
「ふぁ!?」
「……どうした、悠夜?」
「え〜と、その、あの……」
100年。神々にとっては「ちょっと里帰り」くらいの感覚かもしれないが、悠夜にとっては致命的だ。
なぜなら、ハデスの暴走を止められる唯一のストッパーが不在ということだからだ。
「マ、マルスの死体に関しては後回しにしましょう、ハデスさん!! 今は野菜の話でも!」
「悠夜」
「……はい」
「私は、冥界を統べる者としてマルスの肉体を早急に処分しなければならないのだ」
ハデスの声色が、為政者のそれに変わった。
「ましてや死者蘇生が実行された肉体だ。この冥界にとって最悪の毒になる。放置すれば、冥界のシステムそのものにバグを生じさせかねん」
「例え君でも、これ以上預けて置くわけにはいかない」
正論過ぎて、何も言えなくなる。
確かに、バグった勇者の肉体は、存在しているだけで周囲の因果を歪める放射性廃棄物のようなものだ。
「そうですね、はい……」
「悠夜、出してくれ」
「……わかりました。ですが、約束して下さい」
「ん?」
「絶対に、ペルセポネさんが帰って来るまで冥界から出ないで下さいよ? 何があっても、絶対に」
悠夜の必死な様子に、ハデスは怪訝な顔をした。
「わかった……そこまで不味いものなのか? その死体は」
「え、ええ、不味いというか……ヤバいというか……」
悠夜は冷や汗を流しながら、空間を切り裂いた。
そこから、ボロ雑巾のようになった勇者マルスの死体が転がり落ちる。
ハデスは無言で、その死体を見下ろした。
アレンによって破壊され、再生し、また破壊された痕跡。
だが、ハデスが見ていたのは、そんな外傷ではない。
その肉体の奥底。魂が座っていた「器」の形だ。
しばらくの沈黙。
悠夜の胃がキリキリと痛み出した頃。
ハデスが、口を開いた。
「へ………………」
その声は、震えていた。
悲しみでも、恐怖でもない。
理解を超えた冒涜に対する、感情の決壊音。
「マズイ!!」
悠夜は咄嗟に、防御結界を最大出力で展開した。
「ヘラクレスぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!!」
ドォォォォォォォォォォォォォン!!!!!
冥界が揺れた。
比喩ではない。物理的に、次元ごと、冥界全土が激震したのだ。
ハデスの全身から漆黒の神気が噴出し、玉座の間が一瞬で消し飛んだ。
***
神々とは、特定の個人ではない。
「ゼウス」「ハデス」「ポセイドン」といった名は、強大な力を持つ魂の器(座)であり、それを継承した者がその神となる。
かつて、「ヘラクレス」の座を継いだ男がいた。
彼は、ハデスが冥王の座を継ぐ前からの親友であり、幼馴染だった。
正義感が強く、力持ちで、誰よりも優しかった男。
ある時、オリュンポスを揺るがす大災厄が起きた。
神々ですら逃げ惑う中、その男はたった一人で災厄に立ち向かった。
ボロボロになりながら、それでも友であるハデスと、人々の安息を守るために戦い抜いた。
最後は、ハデスの腕の中で、満足げに笑って永遠の眠りについた。
『すまない、後は頼むぞ、ハデス』
そう言い残した友は、ハデスにとって永遠の誇りであり、英雄だった。
神聖なる英雄、ヘラクレス。
その魂の座。
それが──。
ハデスは見てしまった。
マルスという、下劣極まりない男。
それが、あろうことか「ヘラクレスの座」に座っていたことを。
あの聖なる器が、欲望と傲慢にまみれた汚物で満たされていたことを。
「あいつら……!! あの痴れ者ども……!!」
「ヘラクレスの魂を汚しやがったなァァァァァァァ!!!」
ハデスは完全武装決戦モードへと変貌していた。
冥王の鎌(サイズ)を握りしめ、その背後には数万の亡者の軍勢が実体化している。
彼の目はもはや理性など残っていない。あるのは、友を愚弄された修羅の怒りだけだ。
ゼウスを筆頭とする腐敗した神々が、何らかの取引や気まぐれで、空席だったヘラクレスの座をマルスごときに与えたのだ。
「しょうがないな〜、サービスしてくれたら良いのあげちゃう!」というノリで。
絶対に、許さない。
オリュンポスごと灰にしてやると決意するハデス。
「どけ悠夜!! 私は今すぐ天界へ行き、あの痴れ者ゼウスを一刻も早く殺さねばならんのだ!!!」
「ハデスさん!! ダメです!! 約束したじゃないですか!!」
悠夜は必死にハデスを抑え込んでいた。
冥王の鎌を素手で受け止め、暴れまわるハデスの体に魔力の鎖を巻き付ける。
「すまん! 本当にすまない悠夜!! だがこればかりは譲れん!!」
「譲って下さい!! 今貴方が動いたら世界が壊れます!!」
悠夜が本気を出せば、ハデスを制圧することは可能だ。彼は超越者であり、神すら喰らう悪魔なのだから。
だが、ここは冥界。ハデスのテリトリーだ。
ここで悠夜が全力を出せば、その余波だけで冥界は崩壊し、死者の魂が世界中に溢れ出してしまう。
だから、悠夜は「ハデスを殺さず、冥界を壊さず、かつ暴走を止める」という、針の穴を通すような力加減で抑え続けなければならなかった。
「ケルちゃん! ペルセさんを呼んできて!! ダッシュで!!」
悠夜は叫んだ。
オロオロしていた地獄の番犬ケルベロスに。
「ワン!」「キャン!」「バウ!」
三つの首が同時に吠え、ケルベロスは光の速さで駆け出した。
ご主人様(ハデス)を止められるのは、奥様(ペルセポネ)しかいないと理解しているのだ。
「離せぇぇぇぇぇ! ゼウスぅぅぅぅぅ! 八つ裂きにして魂ごとすり潰してやるぅぅぅ!!」
「落ち着いて! 気持ちは痛いほどわかりますから!」
ハデスの猛攻は止まらない。
数時間。
いや、悠夜にとっては数千年に感じる時間が経過した。
悠夜のスーツがボロボロになり、息が上がり始めた頃。
「何をやっているのですかあなた!!」
凛とした声が、轟音を切り裂いた。
そこには、巨大化したケルベロスの背に乗り、鬼の形相(でも美しい)で駆けつけた春の女神、ペルセポネの姿があった。
悠夜は悪魔なのに、救世主を見るような目で彼女を見た。
「ペルセさん!!」
「悠夜さん、離れて!」
ペルセポネはケルベロスから飛び降りると、暴れるハデスの前に立ちはだかり──その頬を、思い切り平手打ちした。
パァン!!
乾いた音が、冥界に響き渡る。
その一撃で、ハデスの動きがピタリと止まった。
「……ペルセ、ポネ……?」
「みっともない! 友のために怒るのは貴方の美徳ですが、それで世界を壊してどうするのです! ヘラクレスさんがそんなことを望みますか!?」
妻の叱責。
ハデスの目から、急速に狂気が引いていく。
彼はへなへなと膝をつき、子供のように顔を覆った。
「すまん……。だが、あいつらが……ヘラクレスを……」
「わかっています。私も悔しい。許せない」
ペルセポネは優しくハデスを抱きしめた。
そして、ペルセポネが悠夜を振り返る。その瞳は慈愛に満ちていたが、奥底にはハデス以上の冷徹な怒りが渦巻いていた。
「ヘラクレスさんの魂は僕が治します。時間は掛かるでしょうが、必ず元通りに浄化してみせます」
悠夜は服の埃を払い、乱れた髪を直しながら言った。
「だから落ち着いて下さい。……ゼウスさんに関しては、僕に任せて貰えますか?」
「悠夜……」
「僕なりに、キッチリと『お仕置き』しますので」
悠夜がニッコリと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、ハデスの背筋が凍りついた。
自分が殺すよりも、遥かに恐ろしい結末が待っていることを悟ったからだ。
「……俺が殺すよりも酷い目に遭うだろうな、君に任せる」
「ありがとうございます」
ハデスは頭を下げた。ペルセポネもまた、深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、悠夜さん。オリュンポスだけで無く夫まで貴方に迷惑をかけて」
「いえ、怒る気持ちは良くわかります。僕だって、グリードがこんな目に遭わされたら、世界の一つや二つ滅ぼしてますから」
悠夜は冷酷な目で天を見上げた。
その視線の先、天界の玉座で、事の重大さに気づきガタガタと震えているであろう最高神を睨みつける。
「さて、ゼウスさん」
「ケジメ、とりましょうか」
「抗う準備をしなさい。……僕が何故、『禁忌』と呼ばれて居るのか」
「その身を以て、教えてあげますよ」
***
結論だけ述べよう。
ゼウスは、ゼウスであることすら剥奪された。
殺されることすら許されなかった。
オリュンポス神域で、悲鳴の様な雷鳴が暫く続いた後、その肉体と魂は悠夜によって『加工』された。
それは、今回の件のような「雑な死者蘇生」や「神々の不始末」によって生じる負の因果を、一手に引き受け、浄化するための『生きたろ過装置』だった。
永遠に痛み続け、永遠に汚れ続け、それでも死ぬことは許されない。
かつての最高神は、神域の地下で、神柱として永遠に呻き続けることになったのだ。
そして、空席となったゼウスの座には──新たな神が座った。
「ヘラクレスおじさんの魂を汚した前任者に同調したお前達に、神の資格はない。覚悟しろ」
ザグレウス。
ハデスとペルセポネの息子であり、ハデスに心身共に似た、若き神だ。
ハデスの誠実さと、ペルセポネの慈愛を兼ね備え、さらにハデスをも超える激情と正義感を持つ、超有望な神格である。
彼の隣には、新たなヘラとして一人の女神が立っていた。
「ザグったらもう! 私の分のも残してよね!!」
彼女は、かつての英雄神ヘラクレスの娘マカリア。
父親譲りの怪力を持ち、ザグレウスの妻である彼女は、夫と共に腐敗したオリュンポスを物理的に粛清して回った。
新たなゼウスと、その妻は、瞬く間に汚職神を一掃し、オリュンポスを健常化した。
それはまさに、新たな神話の始まりだった。
***
「……終わりましたね」
全てを見届け、悠夜が冥界を去ろうとした時のことだ。
「待ってくれ、悠夜!」
「悠夜さん、これを持っていって!」
ハデスとペルセポネが、山のような荷物を抱えて追いかけてきた。
「これは?」
「うちで採れた最高の野菜だ」
大根、人参、ネギ、椎茸……。
どれも宝石のように輝き、濃厚な魔力を放っている。
「こんなに沢山……ありがとうございます」
「いや、これでも足りないくらいだ。本当にすまなかった」
「またいつでも遊びにいらしてくださいね」
二柱の神に見送られ、悠夜は大量の野菜を抱えて冥界を後にした。
「さて……」
悠夜は野菜を見つめ、微笑んだ。
冥界の野菜は、死の大地で育つがゆえに、生の喜びを誰よりも知っている。
この野菜で作る料理はきっと素晴らしいものになるだろう。
帰路につく。
その背中には、神と悪魔の奇妙な友情の証が、ずっしりと重く、温かく揺れていた。
ヘラクレスみたいな加護×
ヘラクレスそのものだった○
勿論、ヘラクレスの力を億分の一も引き出せて居ませんでしたが。