その部屋には、穏やかな西日が差し込んでいた。
窓の外には桜の木が見える。春の風に揺られ、花びらが雪のように舞っている。それはまるで、一つの命の旅立ちを祝福するフラワーシャワーのようだった。
白いベッドに横たわるのは、一人の老婆――紗世子である。
かつての透き通るような肌には無数の年輪が刻まれ、その髪は純白の雪へと変わっていた。酸素マスク越しの呼吸は浅く、今にも消え入りそうだ。しかし、その表情は驚くほど穏やかで、少女のような愛らしさすら残していた。
「……お母さん」
枕元で、娘が涙声で呼びかける。その横には逞しく育った息子と、まだ幼さの残る孫たちが心配そうに顔を覗き込んでいる。彼らの瞳にあるのは、慈しみと、別れを惜しむ純粋な悲しみだけだった。
そして、紗世子の痩せ細った手を皺だらけの温かい手がしっかりと握りしめていた。
蓮だ。
彼もまた、紗世子と同じだけの時間を重ね、背の曲がった好々爺となっていた。だが、紗世子を見つめる瞳の色だけは、あの雨の日の美術館で出会った時と変わらず澄み切った愛に満ちていた。
「……蓮くん……みんな……」
紗世子は掠れた声で愛する家族の名を呼んだ。
視界が白く霞んでいく。呼吸をするたびに命の灯火が小さくなっていくのがわかる。
死への恐怖はなかった。あるのは、深い感謝と心地よい疲労感だけだった。
走馬灯のように記憶が駆け巡る。
最初の結婚生活は、思い出すだけでも身震いするような地獄だった。
冷たい部屋、罵声、暴力、そして孤独。自分には価値がないと刷り込まれ、ただ枯れていくだけの日々。
けれど彼女は全てを捨てて飛び出した。
実家とも縁を切った。親は激怒し、「二度と敷居を跨ぐな」と罵られたが、紗世子は一滴の涙も流さずに頷いた。彼女にとって血の繋がりなどよりも、蓮との絆の方が遥かに尊かったからだ。
蓮との生活は決して裕福ではなかった。
六畳一間のアパートから始まった新生活。冬は隙間風が冷たく、二人で一つの毛布にくるまって暖を取り合った。スーパーの半額シールが貼られた食材で喜び、古着を繕って大切に着た。
お金はなかった。けれど、そこにはいつも「笑顔」があった。
『ごめんね、紗世子。もっといい暮らしをさせてあげたいのに』
『ううん、蓮くん。私、今が一番幸せよ。だって、あなたが隣にいてくれるもの』
そう言って笑い合った日々のなんと輝かしかったことか。
子供が生まれ、夜泣きに二人で右往左往した夜。運動会で転んで泣いた息子を抱き上げた日。反抗期の娘と喧嘩して、蓮が仲裁に入った夜。孫が初めて「おばあちゃん」と呼んでくれた日。
苦労はあった。数え切れないほどの涙も流した。
だが、その全てが愛おしい「宝物」だった。地獄を知っていたからこそ、日常の些細な幸福がダイヤモンドよりも眩しく感じられたのだ。
(ああ……私の人生、本当に幸せだった……)
紗世子は、握りしめてくれている蓮の手を、最後の力を振り絞って握り返した。
「蓮くん……ありがとう……愛してくれて……」
「僕の方こそ……ありがとう、紗世子。君は僕の光だった」
愛する夫、子、孫。世界で一番大切な人たちに見守られて、幕を下ろそうとしている。
まぶたが重くなる。心臓の音が、遠くの太鼓の音のようにゆっくりになっていく。
その時だった。
カチリ。
時計の秒針が止まる音が世界の鼓動を止めた。
舞い散る桜の花びらが空中で静止する。
涙を流す娘も、心配そうな孫も、そして愛おしい蓮も、まるで精巧な蝋人形のように動きを止めた。
色あせた世界の中でただ一人、扉を開けて入ってくる人影があった。
「お久しぶりですね、紗世子さん」
数十年という時が流れたはずなのに、その男は一日たりとも歳をとっていなかった。
夜の闇を編んだような黒髪、陶磁器のような肌。そして、鮮烈な紅い瞳。
悪魔、悠夜だった。
「……悠夜、さん……」
紗世子は懐かしさに目を細めた。声が出た。魂だけの会話なのかもしれない。
「約束通り、会いに来ましたよ」
「……ええ、久しぶりね。……ふふ、私、こんなにお婆ちゃんになっちゃった」
紗世子は自分の皺だらけの手を見て、恥ずかしそうに、そして誇らしげに笑った。
しかし、悠夜は首を横に振った。
「いいえ。以前お会いした時より、遥かに美しくなられましたね」
悠夜の言葉に嘘はなかった。
彼の紅い瞳には、肉体の衰えなど映っていない。彼が見ているのは、苦難を乗り越え、愛を育み、円熟した「魂」の輝きだった。それは黄金色に輝き、神々しいほどの光を放っていた。
「貴女は美しい。この世の誰よりも」
「……口がお上手なのは、相変わらずね」
「本心ですよ。さて……」
悠夜はベッドの傍らに立ち、恭しく一礼した。
「契約の代価を受け取りに来ました」
「……そう」
「貴女の旅路が完全に終わった直後に記憶を頂きます」
「よかった……」
紗世子は安堵の息を漏らした。
「最後まで、この幸せを覚えておきたかったの。蓮くんの手の温もりも、みんなの声も……消えてしまうのは怖かったから」
「そんな無粋な真似はしませんよ。最高の物語はエピローグまで味わってこそですから」
悠夜は苦笑して肩をすくめた。
紗世子は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい、疑ったりして」
「ふむ。では、一つ要求しましょう」
悠夜は顔を近づけ、悪戯っぽく囁いた。
「笑顔を見せてください」
「え?」
「貴女の人生の集大成。とびっきり幸せな笑顔を」
紗世子は一瞬きょとんとして、それからゆっくりと頬を緩ませた。
不幸のどん底を知り、そこから這い上がり、真実の愛を知った女性の笑顔。
それは、春の陽だまりのように温かく、満開の桜のように華やかで、そして聖母のように慈愛に満ちていた。
「……こう、かしら? 悪魔さん」
その笑顔の美しさに、悪魔の心が震えた。
これは「芸術」だ。
「……ええ。素晴らしい。実に、素晴らしい」
悠夜は満足げに頷き、指を鳴らした。
「それでは、良き旅立ちを」
時が動き出す。
心電図の音が、ピーーという電子音に変わった。
「お母さん!?」
「紗世子!!」
家族の悲痛な叫び声の中で紗世子の魂は肉体という檻から解き放たれ、空へと昇っていった。
その顔は、この上なく満ち足りた幸福な寝顔だった。
病院の外、桜の木の下で悠夜は掌の上にあるものを眺めていた。
それは太陽の欠片のように眩く輝く黄金の結晶。
紗世子の愛と喜びに満ちた一生の記憶だ。
「極上の一品ですね」
悠夜はそれを大切に懐にしまうと、病院を背にした。
彼の仕事はまだ終わっていない。むしろ、ここからが本番だった。
美しい芸術品を鑑賞した後は、空腹を満たすための「食事」の時間だ。
都市の片隅、忘れ去られたような安アパートの一室。
そこは、カビと腐敗臭、そして排泄物の臭いが充満する、この世の掃き溜めのような場所だった。
薄汚れた布団の上に、骨と皮だけになった男が転がっている。
隆行だった。
かつての傲慢な商社マンの面影は微塵もない。
髪は抜け落ち、歯は欠け、目は濁り、皮膚は垢と皮膚病で黒ずんでいる。
「……う、ぐぅ……」
喉が焼けるように渇いていた。空腹で胃が縮み上がり、激痛を訴えている。
だが、起き上がる力すらない。
隆行の人生は、あの日から、まさに坂道を転がり落ちるように崩壊した。いや、それは「転落」などという生易しいものではなく、「拷問」と呼ぶに相応しい五十年だった。
最初の地獄は社会的抹殺だった。
不正の証拠を突きつけられ、会社を追われた直後、彼の元には無数の訴状が届いた。騙していた愛人たちからの慰謝料請求、会社からの損害賠償、脱税による追徴課税。
タワーマンションも、高級車も、ブランド時計も、全て剥ぎ取られた。
プライドの高い隆行は、最初は再起を図ろうとした。「俺には能力がある」「あんな女がいなくなって清々した」と。
しかし、どこへ行っても仕事は決まらなかった。面接に行けば、なぜか必ず電車が遅延する。書類選考は通り、いざ最終面接という段になって、原因不明の腹痛で失禁し、恥を晒して追い出される。
まるで見えない「何か」が彼の成功を全力で阻んでいるようだった。
次の地獄は、貧困と暴力だった。
日雇いの建設現場で働き始めたが、そこでも不運は続いた。
上から落ちてきた資材が、隆行の足だけに当たって骨折する。現場の監督からは「トロい」と殴られ、給料をピンハネされる。
酒に逃げようとすれば、なけなしの金で買ったワンカップを通りすがりの若者にぶつかられて落としてしまう。怒鳴りつければ、逆に集団で暴行を受け前歯を折られた。
金がない。治療もできない。折れた歯はそのままで、骨折も自然治癒に任せたため足は曲がったまま固まった。
そして最も深く、長く彼を苦しめた地獄は、「孤独」と「妄執」だった。
誰も彼を助けない。誰も彼を愛さない。
公園で寝れば、野良犬にすら吠えられ、子供たちには石を投げられた。
そんな惨めな日々の中で隆行の精神を支えていたのは、歪んだ優越感だけだった。
(あの女よりはマシだ……)
寒さに震えながら、彼は呪文のように呟いた。
(俺に見捨てられたあの女は、きっと野垂れ死んでいるはずだ。俺にはまだ、こうして命がある。俺の方が上だ。俺の方が……!)
紗世子が不幸であること。それだけが、隆行の生きる糧だった。彼女が自分以上に苦しんでいると信じ込むことで、自身の惨めさを慰めてきたのだ。
五十年。
半世紀という月日が、彼を人間としての尊厳すら持たぬ肉塊へと変えた。
今の彼には、立ち上がる足も、物を掴む力もない。ただ、排泄物にまみれた布団の上で、死を待つだけの存在。
「……みず……水を、くれ……」
掠れた声で呟くが、応える者はいない。
また、天井のシミを見つめるだけの時間が過ぎる。
ギィィ……。
錆びついたドアが開く音がした。
誰かが来た。借金取りか、それとも役所の人間か。いや、もう何年も誰も来ていない。ついに死神が迎えに来たのか。
隆行が怯えながら動かない首を無理やり回して視線を向けると、そこには場違いなほど高級なスーツを着た男が立っていた。
「……あ?」
五十年経っても変わらぬ、漆黒の髪と紅い瞳。
悪夢の中に何度も現れた、あの恐怖の対象。
「あ……く……ま……」
「ご無沙汰しております、隆行さん。……おや、随分と小さくなられましたね」
悠夜はハンカチで鼻を覆うような仕草もせず、異臭漂う部屋に平然と足を踏み入れた。靴音一つ立てず、彼は枕元に立つ。
その顔には、紗世子に向けたものとは似ても似つかぬ、冷酷で残忍な捕食者の笑みが張り付いていた。
「な、なんの……よう……だ……」
「貴方の元妻、紗世子さんが先ほど旅立たれました。なので、こちらの物語も終わらせに来ましたよ」
「さ、よ……こ……?」
その名を聞いた瞬間、隆行の濁った目に微かな光が戻った。
そうだ、あの女はどうなった。俺より酷い死に方をしたはずだ。それを聞ければ、俺はこの地獄の人生に勝ったことになる。
「死んだ、のか……。ざまあ、みろ……。野垂れ死に、だろ……?」
引きつった笑みを浮かべる隆行を見て、悠夜は憐れむように、しかし楽しげに目を細めた。
「いいえ。彼女は幸せでしたよ。これ以上ないほどに」
「……あ?」
「愛する夫と子供、孫たちに囲まれ、温かいベッドの上で、『人生で一番幸せだった』と微笑んで逝きました。彼女の葬儀には多くの人が涙し、その死を惜しむでしょう」
悠夜の言葉が、隆行の脳に浸透するのに数秒かかった。
幸せ? 夫? 子供? 孫?
俺を捨てたあの女が? 何の取り柄もない、俺がいなきゃ生きていけないはずのあの女が?
「う、うそだ……嘘だッ!!」
「嘘ではありません」
悠夜は指を鳴らした。
空中にホログラムのような映像が浮かび上がる。
そこには、貧しくとも笑顔で食卓を囲む若き日の紗世子と蓮の姿があった。
子供の入学式で涙ぐむ姿。孫を抱いて笑う姿。そして、光に包まれた最期の瞬間。
対比するように、画面の半分には隆行の姿が映し出された。
ゴミを漁る隆行。若者に殴られる隆行。病に苦しむ隆行。孤独に震える隆行。
「な、なんで……なんでだ……! 俺はエリートだったんだぞ! なんであの女だけ……俺は、こんなに苦しいのに……!」
「不思議ですか? 貴方がこれほど不幸で、彼女があれほど幸福だった理由が」
悠夜は隆行の顔を覗き込み、悪魔の秘密を囁くように言った。
「実はですね、貴方の『幸運』を、全て紗世子さんへの『慰謝料』として強制徴収させていただいていたんですよ」
「……は?」
「この世界には『運』の総量というものがあります。貴方が本来得るはずだった仕事の成功、金銭、健康、人間関係の幸運。その全てを私が紗世子さんの人生に注ぎ込んでいました」
悠夜は淡々と、しかし決定的な事実を告げた。
「貴方が面接に落ちた日、紗世子さんの旦那様は昇進しました。貴方が足を骨折した日、紗世子さんの息子さんは難関大学に合格しました。貴方が財布を落とした日、紗世子さんは家族旅行のチケットを当てました」
隆行の口がパクパクと動く。
自分の不幸が、全て紗世子の幸福に変換されていた?
「つまり、彼女の幸せの最大の功労者、スポンサーは、他ならぬ貴方だったのです。感謝しますよ、隆行さん。貴方が地獄を見れば見るほど、彼女は天国を味わえたのですから」
「ふ、ざ……けるな……!! 俺の、俺の人生を返せ!! 俺の運だぞ!!」
隆行は絶叫し、血を吐くように叫んだ。
自分がこの五十年、這いつくばって舐めた泥水は、全て一番見下していた女を輝かせるための養分だった。その事実は隆行のプライドを、自我を、根底から破壊した。
「現金での慰謝料の方が遥かにマシでしたね」
悠夜は冷ややかに言い放つ。
そして一歩近づき、隆行を見下ろした。その影が巨大な翼となって部屋を覆い尽くし、天井のシミすら飲み込むような闇が広がる。
「さあ、ここからがネタバラシの本番です」
悠夜の声が、重低音となって隆行の内臓を揺らす。
「私の本当の狙いは、最初から貴方でした。隆行さん」
「……な、に?」
「人間の魂の記憶において、『幸福』などというものは、ただ甘いだけのデザートに過ぎません。美しくはありますが、腹の足しにはならない。すぐに溶けて消えてしまう」
悠夜の紅い瞳が、爛々と輝く。口元から覗く犬歯が、鋭く尖って見えた。
「我々悪魔にとっての主食……それは『絶望』です。希望を持っていた者が奈落に突き落とされ、嫉妬と憎悪に狂い、自己憐憫の中で溺れる魂。それこそが、噛みごたえのある、至高の御馳走なのですよ」
悠夜は、紗世子の最も幸福な笑顔の映像を隆行の目の前に突きつけた。
「沙世子さんを幸せにしたのは、貴方の不幸に極上のスパイスを掛ける為ですよ」
「や、やめろ……見せるな……!」
「どうです? 五十年間、心の支えにしていた『自分より不幸な妻』はいなかった。それどころか、彼女は貴方の運を使って、貴方が一生かかっても手に入らない『愛』を手に入れた。……悔しいでしょう? 憎いでしょう? 許せないでしょう?」
「う、あ、ああああああああああ!!!」
「さあ、もっと憎んでください!! もっと嘆いて、もっと絶望してください! そのドス黒い感情が、貴方の魂を芳醇に熟成させるのです!!」
悠夜は指揮者のように手を振るう。
隆行の脳内に自分の惨めな人生と、紗世子の輝かしい人生が高速で交互に再生される。
ゴミの味と、バースデーケーキの味。
冷たい雨と、温かい部屋。
孤独な死と、愛された死。
比較、劣等感、嫉妬、後悔、憎悪。
負の感情が臨界点を超え、隆行の精神は焼き切れた。
「殺してやる……許さねぇ……紗世子ォォォォォッ!! 俺の幸せを返せぇぇぇぇッ!!」
隆行は目を見開き、全身の血管を浮き上がらせて咆哮した。
目から血の涙が流れ、口から泡を吹き、体中の筋肉が痙攣する。
あまりの怒りと絶望に心臓が耐えきれずに破裂したのだ。
バチン。
何かが弾ける音がして、隆行は絶命した。
その顔は、この世のものとは思えないほどの修羅の形相で固まっていた。
動かなくなった隆行の体から、コールタールのようなどす黒い靄が立ち上る。
悠夜はそれを愛おしそうに手の中に集め、凝縮させた。
完成したのは、光を一切反射しない漆黒のヘドロのような結晶。
五十年分の憎悪と絶望が凝り固まった、隆行の魂の記憶だ。
「……ふう」
悠夜は深いため息をついた。仕事終わりの充実感がそこにはあった。
右手に持つ黄金の結晶。それは温かく、柔らかな光を放っている。
左手に持つ漆黒の結晶。それは冷たく、重く、周囲の光を飲み込んでいる。
「紗世子さんの人生が至高の美術品なら」
黄金の輝きに目を細める。
「こっちは、濃厚で脂っこいメインディッシュですね。噛めば噛むほど怨嗟の味が染み出してくる」
黒い結晶を見て、苦笑する。
「……本当に、悪魔とは業が深い生き物だ」
光と闇、幸福と絶望。
相反する二つの味が混ざり合い、化学反応を起こす。
「不幸という苦味があるからこそ、幸福の甘みが際立ち……幸福という光があるからこそ、絶望の闇はより深くなる。この珠玉の一品を、今夜はゆっくりと堪能するとしましょう」
悠夜は容器を大切にしまい、一礼した。誰に向かってでもなく、この残酷な喜劇の演者たちへのカーテンコールのように。
そして、廃墟のようなアパートを後にした。
外に出ると、夜はすっかり更けていた。
都市のネオンが遠くで輝いている。その一つ一つの光の下に、また新たな欲望と絶望が渦巻いているのだろう。
悠夜は足取り軽く、夜の闇に紛れて歩き出す。
ふと、眉を少しひそめた。
「……家の『腹ペコ』には気をつけないと」
悠夜の脳裏に、自分よりも遥かに強欲で、底なしの食欲を持つ同居人の姿が過る。
「うっかり見つかれば、隆行さんの記憶どころか、紗世子さんの記憶まで横取りされかねない」
やれやれ、と肩をすくめるが、その表情はどこか楽しげだった。
悪魔・悠夜。
彼は今日もまた、人の世の因果を操り、魂の物語を紡ぐ。
甘美な蜜と、猛毒を求めて。
夜風が吹き抜け、彼の姿は溶けるように消え失せた。
後には、どこからか飛んできた桜の花びらが一枚、アスファルトの上に落ち、そして黒い泥にまみれて汚れていった。
契約者には幸福を、外道には不幸が悠夜のポリシーです。
隆行さんは悠夜が許可しないと死ぬ事すら出来ない仕様です。
次回はグルメ回になります。