デビル・グルメ   作:ナオ3

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復讐の終わり、そして人生の始まり回


不幸の蜜酒3

高級ホテルのスイートルーム。

その一室は今、狂気と歓喜が入り混じる異様な空間と化していた。

部屋の壁一面を覆う巨大なモニター。そこに映し出されているのは、映画でもニュース番組でもない。

神代悠夜の魔力によって構築された、特製の『観測チャンネル』だ。

画面の中では、かつて結城一家を「娯楽」として消費し、匿名という安全な盾の後ろから石を投げつけていた無数の顔のない群衆たちが、今まさに自らの人生を転落させていく様が、ドキュメンタリーのように生々しく映し出されていた。

 

 

『お願い、もう止めて! 許して!』

『あんな昔の事をほじくり出しやがって! 俺が何をしたって言うんだ!』

『畜生、内定が……せっかく大企業に入れたのに……!』

『少し悪ふざけをしただけなんだ!! ネットの書き込みなんてみんなやってるだろ!?』

『これからどうやって生活すりゃいいんだよ……住宅ローンも残ってるのに……』

『少しイジメただけで会社をクビになるなんてあんまりだろ! 不当解雇だ!』

 

 

画面の中から聞こえてくるのは、絶望と後悔に塗れた阿鼻叫喚の嵐だった。

悠夜が仕掛けた呪いは、恐ろしいほどに精密で、そして執念深いものだった。

彼らが過去に結城家に向けて放った悪意の書き込み、デマの拡散、誹謗中傷。それらのログが、彼らの本名、顔写真、勤務先、家族構成といったあらゆる個人情報と共に、全世界に向けて『絶対に消去不可能な形』で公開されたのだ。

さらに、悪魔の力は現実の因果律すらも歪めた。

彼らが過去に犯した些細な不正や隠し事──会社の経費の横領、不倫、学生時代のいじめの記録、脱税──そうしたありとあらゆる『後ろ暗い過去』が、ここぞとばかりに芋づる式に暴かれ、周囲の人間へと露見していった。

彼らの行いが、何十倍、何百倍もの鋭い刃となって、彼ら自身へと返っていく。

ある者は会社を追われ、ある者は家族に見捨てられ、ある者は多額の損害賠償を背負い、ある者はネット上で新たな「炎上の標的」となって身元を特定され、現実世界でも石を投げられる側へと転落した。

その無様で惨めな姿を、結城創はテレビ画面の特等席で指差し、腹を抱えて笑っていた。

 

 

「ぷっ……あはははっ! ははあっはははは!!」

 

 

創の笑い声が、広いスイートルームに響き渡る。

 

 

「何だよ、何なんだよその面は!? あん時、掲示板で得意げに俺たちを『社会のゴミ』って書き込んでた時の威勢はどうしたんだよ!」

 

 

画面の中で、頭を抱えて泣き叫ぶ中年男性の姿を指差し、創はゲラゲラと笑い転げた。

 

 

「今なら! 今ならお前達の気持ちが良くわかるよ!!」

 

 

創は画面に顔を近づけ、血走った目で歓喜の声を上げる。

 

 

「だって、その無様で惨めな姿は、すっげぇ笑える!!」

 

 

他人の不幸は蜜の味。

かつて彼らが、結城家の崩壊を見て安全圏から嘲笑っていた時の快感を、創は今、身をもって理解していた。

他人が地獄へ落ちていく様を、絶対的な安全圏から見下ろすのは、これほどまでに甘美で、脳髄が痺れるほどの快感なのだ。

 

 

「そりゃあ、笑うよな! あんなに面白いおもちゃが壊れていくんだから、そりゃあ笑いが止まらねぇよなぁ!!」

 

 

創の目は完全に狂気を孕んでいた。

過去から現在まで、自由な視点で彼らの破滅を観測できる悪魔のテレビ。

創は無我夢中で、寝食を惜しみ、シャワーも浴びず、ただひたすらにそのモニターに齧り付いた。

何百、何千という人間たちの人生がガラガラと崩れ去っていく様を、一つ残らず網膜に焼き付け、彼らの絶望の悲鳴を子守唄代わりに聞きながら、狂ったように笑い続けた。

 

 

          ***

 

 

そして、1ヶ月後。

 

 

「…………」

 

 

ピッ、と。

乾いた電子音と共に、壁を覆っていた巨大なモニターの電源が落ちた。

静寂。

一ヶ月間、絶え間なく鳴り響いていた他人の悲鳴と慟哭が消え去り、スイートルームに元の静けさが戻ってきた。

リモコンを放り投げ、創は深く、深い溜息をついた。

その瞳から、先月までのあの血走った狂気は完全に消え失せていた。

飽きた。

つまらない。

もういい。

心の中を占めていたのは、そんな冷え切った感情だけだった。

最初はあんなに楽しくて、蜜のように甘かったはずの「他人の不幸」が、いつの間にか泥水を啜っているかのように不味く、退屈なものへと変わっていた。

憎しみを出し尽くしたのだ。

魂の奥底で燃え盛っていたど黒い復讐の炎は、対象となる燃料を全て焼き尽くし、最後には自分自身の狂気すらも燃やし尽くして、完全に鎮火してしまった。

 

 

「……あんな連中に、これ以上憎しみを向ける価値すら無い」

 

 

創はポツリと呟いた。

画面の中で泣き叫び、他人に責任を押し付け合い、見苦しく命乞いをする有象無象の姿を見続けるうちに、創の中で彼らに対する怒りすらも風化していった。

どうでもいい。あいつらの事なんて、もう気にする意味を感じない。

こんな下らない連中に執着して、自分の時間をドブに捨てるような真似は、もうやめだ。

創は重い腰を上げ、バスルームへと向かった。

一ヶ月ぶりに浴びる熱いシャワーが、垢に塗れた身体と、どす黒く染まっていた心を洗い流していく。

伸び放題になっていた無精髭を丁寧に剃り落とし、真新しい服に着替えると、創はベッドに大の字になって寝転んだ。

 

 

「ああ……空っぽだ」

 

 

天井の豪奢なシャンデリアを見上げながら、創は呟いた。

父の無実を証明し、真犯人と権力者を破滅させ、世間の有象無象にも等しく地獄を見せた。

全てが終わった。

目的を果たした創の心には、もう何も残っていなかった。

怒りも、悲しみも、喜びも、未来への希望も。見事なまでに何もない、空虚な器。

だが、それは決して不快な感覚ではなかった。

むしろ、四六時中、身を焼き尽くすような憎悪の炎に焼かれながら生きていた日々に比べれば、この静寂と虚無感は、冷たい水風呂に浸かっているかのように心地よかった。

創は、画面の消えた黒いモニターに向かって、誰に言うともなく話しかけた。

 

 

「こんな下らない事に情熱を燃やし続けられるなんて、すげえな」

 

 

それは、かつて自分たちを叩き、今もまた別の誰かをネットの海で叩き続けているであろう、顔の見えない連中への、ある種の奇妙な称賛だった。

 

 

「俺には無理だ。……才能が無い」

 

 

あいつらと同じ下衆に成り下がり、他人の不幸を一生の娯楽として笑い続ける怪物になってやるつもりだった。

だが、幸運にも、あるいは不幸にも、創にはその「資質」が欠けていたのだ。

根本的に、結城創という人間は、両親から受け継いだ善良な魂の根幹を、最後まで捨て去ることはできなかったのである。

テレビから視線を外し、再び天井を見上げる。

 

 

「父さん、母さん……もう、会えないよな」

 

 

ぽつりとこぼれた言葉。

何の罪もなく、理不尽に命を奪われた優しかった両親は、間違いなく天国へ行っただろう。

だが、復讐という業に入り浸り、数え切れないほどの人間を悪魔の力で地獄へ落とした自分は、間違いなく地獄行きだ。

死後の世界があったとしても、二度と両親の温かい手に触れることは許されないだろう。

 

 

「……悔いは無い」

 

 

それは強がりでもなく、紛れもない本心だった。

これでもう、いつ死んでもいい。

明日トラックに轢かれようが、病気で死のうが、もう何の後悔もない。自分の人生の役割は、これで完全に終わったのだから。

目を閉じ、全てを終えた後の、穏やかで空虚な時間を静かに楽しんでいると。

 

 

「……随分と、スッキリした顔をしていますね」

 

 

不意に、部屋の空気が微かに揺れ、静謐な夜の闇から滲み出るように、その男は姿を現した。

黒いスーツに身を包んだ、この世ならざる美貌の悪魔。

神代悠夜だった。

創はベッドに寝転がったまま、ゆっくりと目を開け、空虚な笑みを浮かべた。

 

 

「ありがとう、悠夜」

 

「満足して頂けましたか?」

 

「ああ。もう満腹だ。吐き気がするくらいにな」

 

 

創の言葉に、悠夜は満足げに目を細めた。

 

 

「それは良かった。絶望から這い上がり、復讐の味を骨の髄まで堪能し尽くし、そしてその果てに行き着いた、研ぎ澄まされた虚無。……ええ、今の貴方の魂からは、とても芳醇な香りがします」

 

 

悠夜はまるでワインの香りを嗅ぐように、深く息を吸い込んだ。

 

 

「では、早速ですが……追加料金の請求をしたいのですが」

 

 

その言葉に、創は身を起こしてベッドの上に座り直した。

 

 

「そっか。そういえばそんな話だったな。……何を支払えばいい? 俺の命か? それとも、四肢のどれかでも持っていくか?」

 

「物騒なことを言わないでください。僕は悪魔ですが、無闇に人を傷つけるような野蛮な真似は好みません」

 

 

悠夜は苦笑し、内ポケットから一枚の綺麗に折り畳まれたメモ用紙を取り出した。

 

 

「では、貴方には……このメモに指定された日付と時間に、ある場所に行ってもらいます」

 

「ん?」

 

 

創は怪訝な顔でメモを受け取った。

そこには、1週間後の日付と、都内にあるごく普通の公園の名前、そして『午後2時』という時間が記されていた。

 

 

「そこで、1時間程ベンチに座って待機してください。それ以降は、貴方の自由にして構いません」

 

「……はい?」

 

 

創は間の抜けた声を出し、メモと悠夜の顔を交互に見比べた。

 

 

「いや、それって……代価になるのか? ただ公園のベンチに座るだけだぞ?」

 

「なりますよ。詮索は受け付けません。……良いですね?」

 

 

悠夜の紅い瞳が、有無を言わさぬ光を放つ。

 

 

 

「あ、ああ、わかったよ。座ってりゃいいんだな」

 

「ええ。では、このメモの通りに」

 

 

悠夜は一礼すると、部屋の影に溶け込むように姿を薄れさせていく。

 

 

「いつかまた、お会いしましょう。結城創君」

 

 

言葉の余韻だけを残して、悪魔は煙のように完全に消え去った。

残された創は、手元の小さなメモ用紙を見つめながら、首を傾げることしかできなかった。

 

 

          ***

 

 

1週間後。

抜けるような青空が広がる、穏やかな秋の午後。

創は、悠夜に指定された公園のベンチに、一人で腰掛けていた。

子供たちが遊具ではしゃぐ声。ベビーカーを押す母親たちの笑い声。木漏れ日の中を散歩する老夫婦。

どこにでもある、平和で穏やかな日常の風景が広がっている。

悪魔との契約や、血で血を洗うような復讐劇など、まるで別世界の出来事のように感じられる空間だった。

 

 

「……こんなんで、何になるんだ?」

 

 

創は手元の時計に目をやった。

指定された午後2時から、すでに50分が経過している。

ただベンチに座っているだけ。誰かに話しかけられるわけでもなく、何か事件が起きるわけでもない。

 

 

(本当に、悪魔の考えることはわからねぇ……)

 

 

ただ空を見上げながら、ポツンと佇む創。

ベンチに座ってから、そろそろ約束の1時間になる頃。

 

 

「……うそ」

 

 

不意に、創のすぐ近くで、震えるような女の声がした。

 

 

「そんな……本当に……?」

 

 

創が声のした方へ視線を向けると、そこには一人の女性が立ち尽くしていた。

両手で口元を覆い、見開かれた瞳から大粒の涙をボロボロとこぼしながら、食い入るように創の顔を見つめている。

外見は、創と同じか、少し年下。20歳程度といったところだろうか。

だが、その若々しい見た目に反して、彼女の纏う空気には、どこか酷く重苦しいものがあった。

同世代の若者が持つような無邪気さはなく、若くして不条理な苦労を重ね、世間の冷たい風に耐え抜いてきた者だけが持つ、特有の翳りのような色。

創は、その女性の姿と瞳の奥の光を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。

顔が似ているわけではない。だが、その痛ましいほどの儚さと、芯の強さを併せ持った佇まいが、生前の『母』の姿と痛烈に重なったのだ。

女性は、震える足で一歩、また一歩と創に近づき、そして声を絞り出した。

 

 

「あの……」

 

 

涙声で、確かめるように。

 

 

「結城、創さん、ですか……?」

 

「……そうですが。あなたは?」

 

 

創が答えた瞬間。

女性は、糸の切れた操り人形のようにその場にへたり込み、両手で顔を覆って号泣し始めた。

 

 

「あ、ああ……っ! 会いたかった……! ずっと、お会いしたかったの……!」

 

「えっ、ちょ、ちょっと……!」

 

 

突然の号泣に、周囲の視線が集まる。創は慌ててベンチから立ち上がり、女性の肩に手を伸ばしかけて、戸惑った。

 

 

「貴方に……貴方に、御礼を言いたかった!!」

 

 

女性の涙で濡れた顔には、創への純粋な感謝と、救済の光が満ち溢れていた。

 

 

          ***

 

 

数十分後。

公園の近くの静かな喫茶店。

少し落ち着きを取り戻した女性から、創は向かいの席で詳しい話を聞いていた。

彼女の名前は、沙織といった。

 

 

「私……父が、強盗殺人の罪で逮捕されて、死刑判決を受けていたんです」

 

 

温かい紅茶のカップを両手で包み込みながら、沙織は静かに語り始めた。

 

 

「父は無実を訴えていました。でも、誰も信じてくれなくて。警察の証拠は揃っているって言われて……。私も、母も、親戚中から縁を切られて、世間からは人殺しの家族として、ずっと後ろ指を指されて生きてきました」

 

 

沙織の境遇は、かつての創と全く同じだった。

世間の悪意に晒され、理不尽な圧力にすり潰され、未来への希望を全て奪われた、冤罪の死刑囚の家族。

 

 

「でも……」

 

 

沙織は顔を上げ、涙ぐんだ瞳で創を真っ直ぐに見つめた。

 

 

「結城さんのあの一件で……警察幹部や検察の不正、証拠の捏造が次々と明るみに出ましたよね。社会中が警察の捜査の在り方を厳しく糾弾するようになって……」

 

 

創が悠夜と共に起こした、あの権力者たちへの破滅の嵐。

それは、結城家の冤罪を晴らしただけでなく、日本の司法制度の腐敗を根本から揺るがす巨大な波紋となっていた。

 

 

「その影響で、父の事件にも不審な点があるとして、世論の大きな後押しを受けて再調査が行われることになったんです。そして……検察が隠蔽していた決定的な証拠が見つかって、父の無実が、証明されたんです」

 

 

沙織の目から、再び大粒の涙がこぼれ落ち、テーブルに染みを作った。

 

 

「来月、父は釈放されます。家族三人で、また一緒に暮らせるんです。……貴方が、あの巨大な力と戦って、真実を暴いてくれたから。私と、私の家族は、救われました」

 

 

沙織は、深々と、額がテーブルにつくほどに頭を下げた。

 

 

「本当に……本当に、ありがとうございます……っ!!」

 

 

創は、言葉を失っていた。

 

 

「いや、俺は、そんなつもりじゃ……」

 

 

俺は正義の味方じゃない。ただ自分の両親の仇を討ちたかっただけだ。自分の復讐のために、悪魔に魂を売っただけの、薄汚い人間だ。

そう言おうとした。

 

 

「それでも、貴方のお陰です。貴方が諦めずに戦う姿に、私達はどれだけ勇気をもらったか。貴方は、私達家族の恩人です」

 

 

沙織の真っ直ぐな、一点の曇りもない感謝の言葉。

自分が起こした復讐の嵐が、見知らぬ誰かの理不尽な不幸を吹き飛ばし、救済をもたらしていたという事実。

 

 

「お、れは……」

 

 

何かを言おうとした創の喉が、ヒュッと鳴った。

視界が、急にぼやけていく。

 

 

「ぐ……っ、ううう……っ」

 

 

創の目から、後から後から、止めどなく涙が溢れ出してきた。

それは、両親を失った時に流した絶望の涙ではない。復讐の果てに流した虚無の涙でもない。

自分は、ただ壊すだけじゃなかった。

自分の戦いは、誰かを救うことに繋がっていたんだ。

この世界は、完全に腐りきっているわけじゃなかった。

声を上げて泣き崩れる創の隣に、沙織はそっと移動し、その震える背中に優しく手を添えた。

二人の冤罪被害者の家族は、小さな喫茶店の片隅で、これまでの苦労を労い合うように、ただ静かに涙を流し続けた。

 

 

          ***

 

 

数年後。

あの出会いから、季節は何度か巡った。

あの日と同じ、穏やかな陽射しが降り注ぐ公園。

ベンチには、結城創が座っていた。

彼の視線の先には、芝生広場をよちよちと歩く小さな男の子と、その後ろを笑顔で追いかける沙織の姿があった。

創は、かつて絶望と憎悪に満ちていた顔つきとは別人のように、穏やかで、慈愛に満ちた表情で妻と幼い我が子を眩しそうに見つめている。

コロン、とボールが転がり、男の子が「ぱぱー!」と声を上げて笑う。

創も大きく手を振り返した。

その時。

 

 

「……幸せですか?」

 

 

不意に、創の隣の空いたスペースに、男が腰を下ろした。

振り返らなくてもわかる。その静謐で、どこか浮世離れした気配。

神代悠夜だった。

創は驚くこともなく、視線を家族に向けたまま、静かに微笑んで答えた。

 

 

「ああ。これ以上無い程にな」

 

「それは良かった。悪魔の僕には少々眩しすぎる光景ですが、良いものです」

 

 

悠夜は、どこか満足げな声で言った。

 

 

「何故、あんな事をしたんだ? どうして、俺を沙織に会わせてくれたんだ?」

 

 

ずっと、聞いてみたかったことだった。

悠夜が『追加料金』として求めた、あの公園での待機。それは明らかに、創と沙織を引き合わせるための、悠夜の粋な計らいだった。

どうしてここまで自分に親身になってくれたのか。

 

 

「別に、深い理由はありませんよ」

 

 

悠夜は足を組み、悠然と答えた。

 

 

「あのままの貴方を放っておいたら、復讐を果たした虚無感で、ふとした拍子にポックリと逝きそうでしたからね」

 

 

図星を突かれ、創は苦笑した。

 

 

「せっかく極上の復讐劇を見せてもらい、さらに今後の人生という最高の食材を予約したのに……人生これからって時に、首を吊ったり車に飛び込まれたりしては、つまらない結末で興ざめにも程があります」

 

「……」

 

「貴方はまだ若い。もっと人生を存分に楽しんで、愛して、そしてまた何かに絶望して苦しんだりして……魂を濃厚に熟成させてから、死になさい。僕は美味しいものが食べたいのです」

 

 

あくまで「美食家」としての利己的な理由を口にする悠夜に、創は生ける屍だった自分を思い出して肩を揺らした。

 

 

「違いない。沙織に出会わなけりゃ、俺は早々に碌でもない末路を辿ってただろうさ」

 

 

生きる気力なんて一切無かった。あのまま一人で空虚な時間を過ごしていれば、遠からず自ら死を選んでいたかもしれない。

 

 

「それに……」

 

 

悠夜の声が、少しだけトーンを落とした。

 

 

「ちょっとした事情がありましてね。実は、僕は最初の契約の時、貴方にある『嘘』をつきました」

 

「嘘?」

 

 

創が悠夜の方を向く。

 

 

「ええ。僕の美学に著しく反する、重大な『嘘』をね」

 

 

悠夜の横顔は、どこか自嘲気味に微笑んでいるようにも見えた。

契約に嘘を混ぜない。それは悠夜自身の絶対的なルールであり、誇りだったはずだ。だが、彼は結城創に対して、明確な嘘を一つだけついていたのだ。

 

 

「そのお詫びも兼ねて、というわけです」

 

 

悠夜の言葉に、創はしばらく沈黙した。

悠夜がどんな嘘をついたのか。あの言葉のどれが真実で、どれが虚構だったのか。

だが、創は深く追求することはしなかった。

 

 

「そうか。……なら、その『嘘』に関しては、もう聞かないよ」

 

「よろしいのですか?」

 

 

驚いたように目を見開く悠夜に、創は再び前を向き、芝生で笑い合う妻と子供を真っ直ぐに見つめた。

 

 

「ああ。どんな『嘘』をつかれたのか、俺にはもうどうでもいい事だ」

 

 

創の言葉は、確かな重みと熱を持っていた。

 

 

「今、俺の目の前にあるこの光景が『真実』なら、過去の何が嘘だったとしても構わない。俺は今、幸せだからだ」

 

 

創は、悠夜に向かって深く頭を下げた。

 

 

「そして、あなたはこのかけがえのない『真実』を俺にくれたんだ。両親の無念を晴らし、俺を地獄から引きずり上げて、新しい命に繋げてくれた」

 

 

顔を上げた創の瞳には、一切の迷いがない。

 

 

「それが、俺にとっての全てだ。……ありがとう、悠夜」

 

 

悪魔に対して感謝を述べる人間。

悠夜は、少し目を丸くした後、フッと吹き出すように笑った。

 

 

「……本当に、貴方は面白い人間だ」

 

 

悠夜は立ち上がり、黒いスーツの埃を優雅に払った。

 

 

「次は、貴方の人生の旅路が終わる頃に」

 

 

悠夜の姿が、春の陽炎のように揺らめき、徐々に薄れていく。

 

 

「今の貴方に……悪魔は必要ない」

 

 

最後の言葉と共に、悠夜の気配は完全に世界から消え去った。

創が隣を向くと、そこには誰もいなかった。ただ、温かい春の風がベンチを吹き抜けていくだけだ。

だが、創はその誰もいない空間を見つめたまま、心からの敬意と感謝を込めて、静かに呟いた。

 

 

「ありがとう……俺の悪魔」

 

 

遠くで、沙織が「あなたー! 一緒に遊びましょー!」と手を振って呼んでいる。

創は立ち上がり、力強い足取りで、愛する家族の待つ光の中へと歩き出した。

その背中は、もう二度と過去の絶望に囚われることはないだろう。




復讐の虚しさを教えてあげるには、復讐させてしまえばいい。
『嘘』に関しては次の話でネタバラシします。
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