デビル・グルメ   作:ナオ3

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新作です、長く空いてしまってすみません。


愛のポタージュスープ1

夜の帳が下りきった高校の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。吹き抜ける十月の夜風は湿り気を帯び、肌を刺すような冷たさを孕んでいる。

 

地上四階、高さにして十五メートルを超える屋上の縁。

幅わずか三十センチメートルほどのコンクリートの縁に、一人の少女が立っていた。

 

 

「はあ……はあ……はあ……っ」

 

 

少女、羽柴詩乃の荒い息遣いが、冷たい大気の中で白く濁っては消えていく。

肩を小刻みに震わせ、爪先はすでに虚空へと乗り出していた。眼下を見下ろせば、アスファルトの校庭がまるで口を開けた巨大な怪物の胃袋のように暗く沈んでいる。あそこへ落ちれば、人間の脆弱な肉体などひとたまりもない。頭蓋は砕け、内臓は破裂し、この忌まわしい意識も、心臓の脈動も、すべてが一瞬にして終わるはずだった。

 

終わりにしたかった。

これ以上、一秒たりとも息を吸いたくなかった。

朝目覚めるたびに襲い来る絶望も、鏡を見るたびに込み上げる嘔吐感も、他人の視線に晒されるたびに全身を焼く屈辱も、すべてを無に帰したかった。

 

 

「……もう、終わりにしよう」

 

 

震える唇から、祈るような呟きが零れ落ちる。

詩乃は固く瞼を閉じ、身体の重心を前へと傾けた。

 

重力が彼女の身体を捕らえる。

ふわりと浮遊感が内臓を押し上げ、足の裏からコンクリートの冷たい感触が完全に消失した。

 

――死ねる。

 

そう思った。ようやくこの地獄のような世界から解放されるのだと、歓喜に似た安堵が脳裏をかすめた。

 

 

「……っ!!」

 

 

だが、次の瞬間、詩乃の身体は落下しなかった。

 

ガギィィィンッ! と、激しい金属音が夜の静寂を切り裂く。

詩乃の両腕が、彼女の明確な自殺の意志を完全に裏切り、反射的に背後の鉄条網を掴み取っていたのだ。

 

 

「あ……ぐ、ぅぅ……っ!」

 

 

激しい衝撃が両肩を襲い、関節が軋む。細い指先が錆びた金網に食い込み、摩擦で皮膚が裂けて生々しい鮮血が滲み出た。全体重がぶら下がった両腕の筋肉が悲鳴を上げ、爪が剥がれかける激痛が走る。

それでも、指はフェンスを離さない。脳が「死ね」と命じているにもかかわらず、何十万年もの生存本能を刻み込まれた肉体が、生きることを諦めるのを拒絶し、必死に金属の網を握りしめ続けていた。

 

 

「なんで……っ、なんでよ……っ!」

 

 

詩乃は涙に濡れた顔を歪め、引き攣るような悲鳴を漏らしながら、必死に腕を引いてコンクリートの縁へと這い上がった。

冷たい床に膝を打ち付け、胸を激しく上下させながら、血まみれになった自分の両手を見つめる。

 

これで、三回目だった。

 

一度目は自宅の浴室で手首を切ろうとした。だが、刃先が皮膚を裂く痛みに肉体が竦み、致命傷に至る前にナイフを取り落とした。

二度目は深夜の踏切だった。遮断機をくぐり、眩い前照灯を放ちながら迫り来る快速電車の前に立とうとした。しかし、轟音と地響きに足が勝手に竦み、本能的に後方へと飛び退いてしまった。

そして三度目が、今夜のこの屋上からの投身だった。

 

飛び降りる覚悟は完全に完了していた。遺書も書き残し、身の回りの整理も済ませ、靴を揃えてフェンスを乗り越えた。なのに、身体が勝手に生きようとする。腕が、指が、筋肉が、彼女の死を激しく拒絶するのだ。

 

 

「なんで……なんで死ぬことすら出来ないのよッ!!」

 

 

詩乃は血まみれの手で頭を抱え、コンクリートの床に額を打ち付けた。

 

 

「こんな顔じゃあ……こんな顔じゃ、幸せになれるわけないのにッ!!」

 

 

夜風が吹き荒び、彼女の豊かな長い黒髪を乱雑に掻き乱す。

その髪の間から覗く素顔は――常人の尺度を遥かに逸脱した、あまりにも醜悪なものだった。

 

顔面の骨格は歪に歪み、左右のバランスは不気味なほどに崩れている。皮膚は土気色に濁り、至るところに引き攣れたようなケロイド状の凹凸が広がり、両目の位置は不揃いで、瞳の焦点が合っているのかすら定かではないように見える。鼻梁は押し潰されたように潰れ、裂けたような唇からは乱杭歯が覗いていた。

一度見たら夢魔に魘されるような、生理的な嫌悪と恐怖を他者に抱かせる異形の貌。

 

皮肉なことに、顔以外のすべてにおいて、羽柴詩乃という少女は完璧に近かった。

 

夜の闇の中に浮かび上がるシルエットは、まるで一流の彫刻家が心血を注いで削り出したかのように均整が取れていた。すらりと伸びた長い手足、引き締まった細い腰、豊かで柔らかな胸の膨らみ、滑らかで白い肌。そして、月光を浴びて濡れた漆黒の輝きを放つ髪は、絹糸よりも細く、風になびくたびに優雅な弧を描いた。

 

それだけではない。

彼女の学業成績は、地域でも有数の進学校であるこの高校において、入学以来常に学年トップを維持し続けていた。模試の全国順位でも常に一桁台に名を連ね、教員たちからは「東大現役合格は確実」と太鼓判を押されていた。

運動神経も抜群だった。体育の短距離走では男子生徒を置き去りにし、球技をやらせれば瞬時に戦術を理解して的確に動くことができた。

さらに、身だしなみやマナー、言葉遣いに対しても、彼女は幼少期から血の滲むような努力を重ねてきた。立ち居振る舞いは名門貴族の令嬢のように洗練されており、脱いだ靴の揃え方から食事の際のフォークの扱い方に至るまで、何一つとして非の打ち所がなかった。

 

けれど――そのすべてが、無意味だった。

その圧倒的な美点と努力の結晶のすべてが、「顔が醜悪である」というたった一つの事実によって、塵芥のように踏みにじられ、完全に否定され続けてきたのだ。

 

詩乃の脳裏に、これまでの人生で刻み込まれてきた無数の傷が、鮮血を噴き出すように蘇る。

 

学校での日常は、地獄そのものだった。

教室のドアを開けた瞬間にピタリと止む会話。

露骨に鼻をつまみ、避けるようにして距離を取るクラスメイトたち。

「おい、バケモノが来たぞ」

「視界に入れるだけで吐き気がする」

「頭が良いから余計に気味悪いんだよな。不細工のくせに調子乗ってんじゃねえよ」

「頼むから話しかけないでくれ、呪われそうだから」

 

テストで満点を取れば「不細工の癖にガリ勉して気持ち悪い」と嘲笑され、体育で活躍すれば「顔がゴリラだから身体能力だけは高いんだろ」と陰口を叩かれた。

彼女が丁寧にアイロンをかけた制服を着て、姿勢を正して歩いているだけで「あの顔でマナー気取ってて笑える」「豚に真珠、バケモノに香水」と指を差された。

 

誰も、詩乃の「中身」など見ようとはしなかった。

彼女がどれほどの読書を重ね、どれほど深く物事を考え、他者に対してどれほど誠実に接しようとしていたかなど、誰一人として興味を持たなかった。彼らが見ているのは、ただ皮膚一枚の「顔」という造形だけであり、その表面的な醜さを理由に、彼女の人格も、尊厳も、存在そのものも、すべてをゴミ箱に投げ捨てるように扱った。

 

学校だけなら、まだ耐えられたかもしれない。

家庭という名のシェルターがあれば、彼女の心はここまで完全に破壊されることはなかっただろう。

 

だが、羽柴家において、詩乃の居場所は最初から存在しなかった。

 

詩乃には、二歳年下の妹・花乃がいた。

花乃は、詩乃とは正反対だった。

勉強は全くできず、赤点ばかり。運動も苦手で、礼儀作法も身についておらず、甘えん坊で我儘だった。

しかし、花乃には――息を呑むほどに愛らしく、天使のように美しい「顔」があった。

 

両親の態度は、残酷なまでに露骨だった。

花乃がテストで酷い点数を取っても、母親は「まあ花乃ちゃん、次は頑張ろうね」と頭を撫でて抱きしめた。花乃が新しい洋服をおねだりすれば、父親は相好を崩して買い与えた。

一方で、詩乃が学年一位の成績表を差し出しても、両親は視線を合わせることすら拒絶した。

 

 

「……そこに置いておきなさい」

 

 

父親は眉を顰め、まるで汚物を見るかのように顔を背けて言い放った。

 

 

「お前は勉強しか取り柄がないんだから、それくらい当然だろう。それより、リビングに長居するな。花乃が怖がる」

 

 

母親に至っては、詩乃と目を合わせることすら耐えられないといった様子で、冷たく言い捨てた。

 

 

「頼むから、親戚の前には姿を見せないで頂戴ね。『羽柴家にこんな子がいるなんて恥ずかしい』って、また陰口を叩かれるんだから。食事は部屋に運んでおくから、出てこないで」

 

 

詩乃がどれだけ礼儀正しく挨拶をしても、返ってくるのは冷たい沈黙か、舌打ちだけだった。

家族のアルバムに、詩乃の写真は一枚もなかった。家族旅行の計画から詩乃は最初から除外され、留守番をさせられた。

詩乃が風邪をひいて高熱を出して倒れた夜、両親は花乃を連れて高級レストランへ外食に出かけていた。暗い子供部屋で一人、冷え切った布団の中で震えながら、詩乃は「私はどうして生まれてきてしまったのだろう」と涙を流すことしかできなかった。

 

努力すれば報われる。

幼い頃、童話や絵本で読んだ言葉を信じていた。

顔が醜くても、勉強を頑張れば褒めてもらえるかもしれない。

運動ができれば、誰かが認めてくれるかもしれない。

誰に対しても優しく、マナーを守り、身だしなみを整えていれば、いつか私の心を見てくれる人が現れるかもしれない。

 

そう信じて、彼女は血の滲むような努力を重ねてきた。

眠い目を擦りながら深夜まで机に向かい、マナー本を擦り切れるまで読み込み、爪の先まで清潔に保ち、体型が崩れないよう毎日のトレーニングを欠かさなかった。

だが、積み重ねた努力のすべては、ただの一度も報われることはなかった。

 

どれだけ高く積み上げた塔も、「顔が醜い」というたった一つの理不尽な事実の前に、無慈悲に蹴り倒された。

努力すればするほど、「不細工のくせに必死で見苦しい」という嘲笑が跳ね返ってきた。

何も努力せず、ただ美しい顔を持って生まれた妹が、何もしなくても無条件に愛され、甘やかされ、全肯定されている隣で、詩乃は己の存在そのものを否定され続けた。

 

――もう、疲れた。

――もう、十分だ。

 

これ以上、何を頑張ればいいというのか。

どれだけ努力しても、この顔である限り、自分は人間として扱われない。愛されることも、認められることも、誰かと心を通わせることもできない。

ならば、生きている意味などどこにあるのか。

だから、死のうとしたのだ。

 

だが――。

 

 

「……っ、う、うあああぁぁぁっ……!」

 

 

詩乃の喉から、獣のような嗚咽が漏れ出した。

血まみれの手で胸を掻きむしる。制服のブラウスが破れそうになるほど強く握りしめ、今まで心の奥底に何重にも鍵をかけて押し込めていたドス黒い感情の奔流が、堰を切ったように溢れ出して止まらない。

 

 

「……しにたくない」

 

 

絞り出すような、か細い声だった。

夜空へ向けて放たれたその言葉は、冷たい風に吹かれて震えていた。

 

 

「いやだ……っ、いやだッ!!」

 

 

詩乃の叫びが、無人の屋上に木霊する。

 

 

「こんなんじゃ、死ねないッ!! どうしてなの!? どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよッ!?」

 

 

死にたい気持ちは、決して嘘ではなかった。

今すぐにでも消えてしまいたい、この苦しみから逃れたいという絶望は、間違いなく本物だった。

だが、それ以上に――彼女の魂の根底には、巨大な「理不尽への怒り」と「飢餓」が渦巻いていた。

 

死にたくないのではない。

こんな惨めで、不条理で、何も報われない形のまま、納得出来ないまま終わるのが嫌なのだ

 

 

「どうして私は……不幸なの……っ? 勉強、いっぱい頑張ったよ!? 誰にも負けないくらい、毎日毎日机にかじりついて頑張ったよ!? 運動だって、一生懸命走って、身体を鍛えて、できるようになったよ!? 身だしなみだって、マナーだって、誰かを不快にさせないように、ずっとずっと気をつけてきたのに……っ!」

 

 

大粒の涙が、歪な頬を滝のように伝い落ち、コンクリートの床に黒い染みを作っていく。

 

 

「……顔だけで、全部駄目なの……っ? 顔が悪いってだけで、私の全部が否定されなきゃいけないの……!?」

 

 

詩乃は夜空を見上げた。

雲の切れ間から覗く月は、冷淡な光をただ地上へと投げかけているだけだった。神も仏も、この世界のどこにも存在しないのだと、その冷え切った光が告げているようだった。

 

 

「死にたい……! でも……っ! こんなんじゃ、納得できないッ!!」

 

 

胸を掻きむしる指先から、さらに血が滲む。

 

 

「誰か教えてよッ!! 不細工だから私は不幸なの!? 顔が良かったら、私は愛されたの!? 幸せになれたの!? 私のしてきた努力は、全部、全部無駄だったの!? 誰か教えてよぉッ!!」

 

 

絶叫が夜気を震わせる。

 

 

「何もわかんないままじゃ……こんな理不尽に納得できないままじゃ、死ぬことすらできないよッ!!」

 

 

詩乃はその場に崩れ落ち、膝を抱えて小さく蹲った。

血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を膝に埋め、震える声で、誰に届くとも知れない祈りを紡ぐ。

 

 

「……美人じゃなくてもいい。可愛くなくてもいい……ただ、普通の顔に生まれたかった……」

 

 

嗚咽交じりの、あまりにもささやかで、あまりにも切実な願い。

 

 

「普通に生きて、普通に誰かと笑い合って、普通に恋をして、普通に結婚して、普通に年老いて死んでいく……。そんな、ありふれた人生を……ただ送りたかっただけなのに……っ。どうして……自分で決められないことで、生まれ持った肉体の形だけで、こんなにも辛い思いをしなくちゃいけないの……?」

 

 

詩乃は両手を合わせ、額を擦り付けるようにして懇願した。

 

 

「お願いします……神様でも、何でもいいから……お願いします、教えてください……。私は、どうやったら不幸じゃなくなるのですか……? どうすれば、私は救われるのですか……? 教えてくれるなら……この疑問に答えをくれるなら、悪魔に魂だって売ります……どうか、どうか……誰か教えて……ッ!」

 

 

夜の闇の中、孤独な少女の悲痛な祈りが響き渡る。

風が止み、世界が完全な静寂に包まれた。

 

その時だった。

 

 

「――すみません、それは無理です」

 

 

背後から、申し訳なさそうな、けれどどこか滑らかで耳に心地よい、落ち着いた男の声が響いた。

 

 

「……えっ?」

 

 

詩乃の身体がビクリと跳ねた。

誰もいないはずの屋上。

ハッと息を呑み、涙に濡れた顔を跳ね上げるようにして後ろを振り向く。

 

そこには――一人の男が立っていた。

 

夜の闇をそのまま仕立て上げたかのような、仕立ての良い漆黒の三つ揃えのスーツ。病的なまでに白く透き通るような陶磁器の肌。そして、街灯の薄明かりを浴びて妖しく、鮮血のように紅く輝く双眸。

絵画から抜け出してきたかのような、この世のものとは思えない絶世の美男子だった。

 

男は胸元に片手を当て、詩乃の異形とも言える顔面を前にしても、眉一つ動かさず、ただ静かに佇んでいた。

 

 

「あな……た、は……?」

 

 

詩乃の掠れた問いかけに、男は優雅に、完璧な角度で一礼してみせた。

 

 

「僕の名前は神代悠夜。貴女の、美しくも悲しい魂の唄に惹かれてここに来た、ただの悪魔です。――羽柴詩乃さん」

 

 

悪魔。

その常軌を逸した単語を聞いた瞬間、詩乃の頭の中で何かが弾け飛んだ。

恐怖も、疑念も、警戒心も、すべてが吹き飛んだ。今の彼女を突き動かしていたのは、ただ一つ――自らの存在の理由を知りたいという、狂気にも似た執念だけだった。

 

 

「悪魔……?」

 

 

詩乃は床を蹴り、ふらつく足で立ち上がると、猛然と男――悠夜へと掴みかかった。

血と泥にまみれた細い両手で、悠夜の高級そうなスーツの胸ぐらを力任せに掴み上げる。

 

 

「悪魔なら……なんでも知ってるんでしょ!? だったら、どうして教えてくれないのよッ!?」

 

 

至近距離で放たれる、唾液と涙交じりの叫び。

並の人間であれば、そのあまりの形相の凄まじさと醜悪さに後ずさりし、悲鳴を上げて逃げ出すところだろう。

だが、悠夜は胸ぐらを掴まれたまま、微動だにしなかった。

それどころか、彼の紅い瞳は、詩乃の歪な顔の奥にある「何か」を見つめ、痛ましそうに、そして深い慈愛と敬意を込めて細められていた。

 

 

「どうして……どうして教えてくれないの!? 私の魂だけじゃ足りませんか!? 対価が足りないって言うの!? だったら、未来永劫貴方の奴隷にでも、家具にでも、なんだってなりますッ!!」

 

 

詩乃は悠夜の胸ぐらを揺さぶりながら、必死に言葉を叩きつける。

 

 

「だから……教えてよ……お願いだから……っ! 私はどうすればよかったの!? 私の努力は無駄だったの!? 顔がすべてなの!? 教えて……お願い……っ!」

 

 

張り詰めていた糸が切れ、詩乃の腕から力が抜けた。

掴んでいたスーツの襟から指が滑り落ち、彼女は崩れ落ちるようにして、悠夜の胸板に額を押し当てた。

冷たく、しかしどこか絶対的な安心感を漂わせるその身体に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくる。

 

すると――。

 

ふわりと、頭上に温かい感触が降りてきた。

 

悠夜の長く白い指先が、詩乃の乱れた黒髪にそっと触れ、慈しむように優しく撫で始めたのだ。

 

 

「……っ!?」

 

 

詩乃の身体が硬直した。

生まれてから十七年間、両親からも、友人からも、誰からも向けられたことのなかった「無条件の優しさ」。

頭を撫でられるという行為が、これほどまでに温かく、これほどまでに胸を締め付けるものだとは知らなかった。

気味悪がられることもなく、拒絶されることもなく、ただ一人の傷ついた存在として包み込まれているという事実に、詩乃は激しい戸惑いと、止めどない涙を流し続けた。

 

悠夜は、詩乃が少し落ち着くのを静かに待ってから、低く、甘く、染み渡るような声で口を開いた。

 

 

「詩乃さん。推測でいいなら、僕は百でも千でも言うことができますよ」

 

 

詩乃は悠夜の胸に顔を埋めたまま、ピクリと肩を揺らした。

 

 

「例えば、『人間の脳は視覚情報に強く依存するように作られているため、外見による差別は生物学的なバグである』とか。『貴女の周囲の人間が、精神的にあまりにも未熟で、魂の輝きを見抜く審美眼を持っていなかっただけの悲劇である』とか。『この世界の社会構造自体が、美醜という安直な記号に支配された欠陥品なのだ』とかね」

 

 

悠夜は淡々と、しかし滑らかに言葉を紡ぐ。

 

 

「神の摂理を持ち出してもいい。運命論を語ってもいい。統計学的な確率論で慰めてもいい。貴女を納得させるための論理武装など、いくらでも用意できます」

 

 

悠夜はそこで言葉を区切り、詩乃の頭を撫でていた手をそっと離すと、彼女の顎に指を添え、ゆっくりと上を向かせた。

至近距離で、紅い瞳と、涙に濡れた歪な瞳が交錯する。

 

 

「ですが――貴女は、それで納得できますか?」

 

「……っ」

 

 

詩乃の息が止まった。

 

悠夜の問いかけは、彼女の心の最も深い場所に鋭く突き刺さった。

もし今、この悪魔が「お前が不幸なのは世界のせいだ」「お前の努力は正しかった」と甘い言葉を並べ立ててくれたとして――あるいは、「お前の顔が悪いのがすべての原因だ」と冷酷に断じてくれたとして。

自分は、それで「ああ、そうだったのか」と笑って死ねるだろうか?

 

否だ。

絶対にあり得ない。

他人に与えられたどんな言葉も、どんな高名な学者の理論も、神仏の託宣も、悪魔の囁きも、彼女のこの十七年間の血の滲むような苦しみと、引き裂かれた尊厳を埋める答えにはなり得ない。

 

 

「貴女は、自分で出した答えでないと納得できないでしょう」

 

 

悠夜は、痛ましいほどに真摯な眼差しで詩乃を見つめていた。

 

 

「他人の言葉で塗り固められた結論など、貴女という人間をこれっぽっちも救いはしない。それじゃあ、意味がないのです」

 

 

詩乃の瞳から、再び涙が零れ落ちた。

彼女は、小さく頷くしかなかった。

 

自分でも、ずっと答えを探し続けていたのだ。

なぜ自分はこれほどまでに虐げられ、否定されなければならないのか。

その問いの答えを、幼い頃から何千回、何万回と自分自身に問いかけ、模索し、足掻き続けてきた。

そして、その果てに辿り着く結論は、いつも同じだった。

 

 

「でも……駄目なの」

 

 

詩乃は震える唇を噛み締め、血の味を感じながら絞り出した。

 

 

「私は……幼少の頃から、ずっと探してた。勉強を頑張っても、運動を頑張っても、マナーを身につけても……どんなに足掻いても、最後に突きつけられる結論は『顔が悪い』、それだけなの……!」

 

 

握りしめた拳が、白くなるほど強張る。

 

 

「そんなの……納得できない! 納得したくないッ!!」

 

「そうでしょう」

 

 

悠夜は微かに目を細め、どこか誇らしげに、そして慈愛を込めて微笑んだ。

 

 

「貴女の強く気高き魂が、そんな安直な答えを赦すわけがない」

 

 

悠夜の紅い瞳には、詩乃の醜い顔面など映っていなかった。

彼が見ていたのは、絶望の泥沼の中でどれほど踏みにじられ、汚泥に塗れようとも、決して自分を安売りせず、理不尽に対して最後まで疑問を抱き、抗い続けようとする――黄金よりも眩しく、気高く燃え上がる、詩乃の「魂」そのものの輝きだった。

 

悠夜は静かに目を閉じ、夜風に吹かれながら少しの間、思案に耽った。

悪魔としての計算、因果の連鎖、そして彼自身の美学。

様々な思考を巡らせた後、悠夜はゆっくりと瞼を開いた。

 

だが、その端整な顔立ちに浮かんでいたのは、いつもの飄々とした笑みではなく、どこか哀愁を帯びた、複雑で浮かない表情であった。

 

悠夜は詩乃の前に立ち、夜の帳を背負いながら、静かに、重々しく告げた。

 

 

「詩乃さん、僕と契約しませんか?」




皆さん、活侠傳をプレイしましょう!
元からあった構想ですが、納得できる話ができなかったので今まで保留にしてきました。
でも、活侠傳をプレイして結末を決めることができました。
不定期ですが、あんまり長くはなりません。
マジでやって良かったゲームに巡り会えて嬉しいです。
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