デビル・グルメ   作:ナオ3

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親知らずを抜きました、めちゃ痛かった・・・
下顎で横向きになってたから大きな病院で、抜いて貰いました。
難易度は中くらいだったらしいけど、それでもキツかったです
あれは年食ってからやるとしんどいですよ、終わったら体力根こそぎ無くなったもん。
顎が痛い(泣)



愛のポタージュスープ2

夜風が、屋上の金網を揺らし、錆びた金属の軋む音を響かせていた。

 

 

「けい……やく?」

 

 

羽柴詩乃の掠れた声が、白く濁って大気へと溶けていく。

あまりにも現実離れした言葉に、彼女の思考は一瞬凍りついた。

 

 

「はい」

 

 

悠夜は静かに、乱れのない完璧な所作で頷いた。その声は深く、滑らかで、まるで上質なヴィロードのように耳朶を撫でる。

 

 

「……代価は?」

 

 

詩乃は喉の奥から絞り出すように問うた。

悪魔という存在が本当に実在し、取引を持ちかけてくるのだとすれば、求めるものは一つしかないはずだ。命か、魂か、それとも未来永劫にわたる苦痛か。絵本やおとぎ話で語られる悪魔の契約は、常に人間の最も重いものを根こそぎ奪い去っていくものだと決まっていた。

 

だが、悠夜の薄い唇から零れ落ちた言葉は、詩乃の予想を根底から裏切るものだった。

 

 

「死後に、貴女の人生の記憶を」

 

「…………」

 

 

詩乃は目を剥いた。

思考が停止し、言葉の意味を脳が処理しきれずに、ただ呆然と立ち尽くす。

 

 

「人生の……記憶?」

 

 

安い。安すぎる。

こんな自分の生きてきた記録に、一体何の価値があるというのか。

詩乃の胸中に、激しい困惑と自嘲が黒々とした渦を巻いて湧き上がった。

 

 

「そんなものでいいの……? 私みたいな、誰からも愛されず、家族からも学校からも虫けらのように踏みにじられてきた……泥水みたいに惨めで、ドブ川みたいに汚らわしい記憶よ? 毎日毎日、嘲笑われ、見下され、ただ泣き喚くことしかできなかった……そんなゴミ屑みたいなもの、何の役に立つのよッ!」

 

 

自嘲と怒りに任せて吐き捨てたその言葉を聞いた瞬間、悠夜の紅い瞳がすっと細められた。

その眼差しに浮かんだのは、冷笑でも憐憫でもなかった。ただ純粋な、心底からの不服と、厳粛なまでの敬意だった。

 

悠夜は音もなく一歩を踏み出し、詩乃の目の前に静かに跪いた。

血と泥に汚れ、醜く歪んだ詩乃の顔面と、完璧な美を誇る悪魔の顔が、全く同じ高さで向かい合う。

悠夜は指先を伸ばすと、詩乃の引き攣れた頬を伝う涙を、そっと拭った。

 

 

「そんなものとは心外な」

 

 

甘く低く、だが魂の芯まで震わせるような重みを持った声音だった。

 

 

「理不尽な悪意に晒され、生まれ持った不条理に打ちのめされながらも、貴女は決して立ち止まらなかった。誰からも評価されず、誰からも褒められず、それどころか努力すればするほど嘲笑の的になりながら……それでもなお、貴女は爪を研ぎ、知識を蓄え、己の品性を磨き続けた」

 

 

悠夜の指先が、詩乃の傷ついた額へ、乱れた髪へと優しく触れる。

 

 

「壮絶な苦難に耐え、折れ、血反吐を吐きながら、それでもなお前へと進み続けようとする貴女の記憶は――僕からすれば、地上のあらゆる金銀財宝、よりも遥かに美しく、価値があるのですよ」

 

 

悪魔の言葉には、嘘や誤魔化し、追従の響きは一切含まれていなかった。

それは詩乃の十七年間の地獄を、その身を苛んできたすべての努力と苦痛を、余すところなく正確に測り取った者だけが放てる、絶対的な評価だった。

 

 

「……っ」

 

 

詩乃の胸の奥が、激しく軋んだ。

生まれて初めてだった。

両親からも、教師からも、誰一人として認めてくれなかった「羽柴詩乃の生」そのものを、真正面から全肯定されたのだ。しかも、人間ではなく、人の心の深淵を見通す悪魔の手によって。

その温もりと痛烈な肯定感に、視界が再び涙で滲んでいくのを止められなかった。

 

 

「……よくわからないけど」

 

 

詩乃は荒い息を吐き出し、震える声で言った。

 

 

「それでいいなら、契約するわ。私の記憶なんて、いくらでも持っていきなさいよ」

 

 

だが、悠夜はその申し出に即座に応じることはしなかった。

彼は穏やかな、しかし厳格な眼差しを向けると、詩乃の手を優しく押し留めるように制した。

 

 

「待ってください。内容を聞かずに契約するのは無しです」

 

「え……?」

 

「ちゃんと吟味して、納得して、契約してもらうのが僕の主義です」

 

 

悪魔でありながら、契約において相手を言いくるめたり、都合の悪い事実を隠して騙し討ちのように代価を掠め取ることを、神代悠夜という男は何よりも嫌悪していた。

提示された選択肢のリスクも、支払うべき代償の重さも、その先に待ち受ける結末の残酷さすらもすべて白日の下に晒し、人間が自らの明確な意志と覚悟をもってその道を選ぶこと――それこそが、彼の譲れぬ美学だった。

 

詩乃は乱れた息を整え、小さく息を吐き出して頷いた。

 

 

「……わかったわ。教えて」

 

 

悠夜は満足そうに微笑むと、すっと立ち上がり、自らの右手を詩乃の前に差し出した。

闇の中から光を手繰り寄せるように彼が指を解くと、その掌の上に、淡く青い燐光を放つ小瓶が音もなく現れた。

 

 

「まずは、僕のおすすめから」

 

 

悠夜は透き通るような美しい硝子瓶を掲げ、静かに告げた。

 

 

「これを飲めば、楽に死ぬことができます。それこそ、老衰で深い眠りに落ちるように、苦痛も恐怖も一切なく、魂が肉体から穏やかに解き放たれるでしょう」

 

「……続けて」

 

 

楽に死ねる。

数分前まであれほど渇望し、フェンスの外へ身を投げてまで求めていたはずの救済だった。

だが、その言葉を聞いても、詩乃の心は奇妙なほどに凪いでいた。乾いた風が吹き抜けるように、冷徹な静寂が胸を満たしている。

 

 

「はい」

 

 

悠夜は詩乃の反応を確かめながら、青い小瓶を掌の上で転がした。

 

 

「そして、次の人生では良き家庭に生まれることを約束しましょう。何一つ不自由のない裕福な環境、貴女を慈しみ、愛してくれる両親、温かな兄弟姉妹に囲まれた、幸福な人生を僕が責任をもって保証します。……さらにサービスとして、貴女を今まで虐げてきた者たちに、相応の報いを与えてもいい」

 

 

悪魔の提示したプランは、あまりにも完璧だった。

現在の苦しみからの完全な解放、安らかな死、愛に満ちた来世の約束、そして過去の加害者どもへの正当な復讐。

傷つき、疲弊しきった魂にとって、これ以上の甘美な救済などこの世のどこを探しても存在しないはずだった。

 

詩乃は感嘆したように、けれどどこか温度の感じられない冷めた声で、悠夜のプランを称賛した。

 

 

「そう……それは素晴らしいわね。こんなクソみたいな人生、捨てるのに未練なんて欠片もないし、来世で愛されて幸せになれるなんて最高じゃない。そのうえ、私をゴミみたいに扱ってきたあのクソったれどもが地獄に落ちるのなら、何一つケチのつけようがないわ」

 

 

彼女の言葉に、皮肉の響きはなかった。純粋に、プランとしての完成度の高さを認めていた。

だが――。

 

詩乃の歪な両目が、鋭く悠夜の紅い瞳を射抜いた。

 

 

「……おすすめじゃない方は?」

 

 

その問いが投げかけられた瞬間、悠夜の端整な顔立ちが、微かに曇った。

やはりそう来たか、とでも言うように、彼の眉間に深い憂いの色が差す。

 

 

「……こちらになります」

 

 

悠夜は青い小瓶を消し去ると、今度は左手を差し出した。

そこに現れたのは、凝固した血のようにドス黒く、禍々しい深紅の光を放つ小瓶だった。

 

 

「これを飲めば、貴女に相応しい顔になるでしょう。そう、貴女が本来得られるはずだった、美しく完璧な顔が、ね」

 

 

小瓶の中で揺らめく真紅の液体は、まるで生き物のように蠢いていた。

詩乃が喉から手が出るほど欲していたもの。この十七年間、泣いて、叫んで、祈り続けても手に入らなかった「普通の顔」、いや、それ以上の「完璧な美貌」。

 

だが、悠夜の言葉はそこで終わらなかった。

 

 

「ですが」

 

 

悠夜の声の温度が、一瞬にして氷点下へと急降下した。

先ほどまでの柔らかな慈愛の気配は完全に掻き消え、世界の理の外側に立つ絶対的な捕食者――悪魔の冷徹極まりない眼差しが、詩乃の剥き出しの魂を値踏みするように捉える。

 

 

「悪魔、神代悠夜の名にかけて断言します」

 

 

夜風すらも凍りつくような、絶対の威圧感。

悠夜は一言一言を、彼女の存在そのものに刻み込むような重みをもって告げた。

 

 

「これを飲んでも、貴女が幸せになることは絶対に無い」

 

 

絶対の否定だった。

 

美しい顔を手に入れれば、両親は自分を愛してくれるかもしれない。学校のクラスメイトたちは、称賛と羨望の眼差しを向けてくるかもしれない。これまで踏みにじられてきたすべてを覆し、ずっと欲しかった「普通の幸福」をその手に掴めるかもしれない。幸せになれるかもしれない。

 

だが、悠夜はその可能性のすべてを「絶対に無い」と断じ切ったのだ。

しかも、悪魔が己の名にかけて断言したのである。

それは、どれほどの奇跡が起きようと、世界の法則がひっくり返ろうと、羽柴詩乃がその選択の果てに幸福を掴む結末だけは、未来永劫、天地が裂けても訪れないという宣告に他ならなかった。

 

 

「そう」

 

 

詩乃の反応は、あまりにも短く、静かなものだった。

 

彼女は迷うことなく手を伸ばすと、悠夜の左手を――赤い小瓶を載せたその冷たい掌を、力強く掴み取った。

その細い指先には、微塵の震えも、躊躇いも、迷いも存在しなかった。

 

 

「……」

 

 

悠夜は無言のまま、自分を見上げる詩乃の瞳を見つめ返した。

 

その瞳に宿っていたのは、絶望に打ちひしがれた者の弱々しさなどではなかった。

暗闇の底で、己の肉体と魂のすべてを薪にして烈火のごとく燃え上がる、剥き出しの意志の炎だった。

 

 

「幸せなんて、本当はどうでもいいの」

 

 

詩乃の口から紡ぎ出された言葉は、静かでありながら、夜の空気を切り裂くような鋭利な刃の輝きを帯びていた。

 

 

「私は、答えを知りたい。私は、何故これほどまでに不幸だったのか。私が流してきた血も涙も、積み重ねてきた努力も、そのすべてが無駄だったのか。……それを知るためなら、地獄だろうが修羅の道だろうが、笑って歩いてやるわ」

 

 

詩乃は赤い小瓶を指先で引き寄せ、胸元へと抱きしめるように引き寄せた。

 

 

「そして、私がこの世界に問うのよ。『お前に、私が生きてやる価値はあるのか』とな。……希望なんて、要らない。そんな生温いおためごかしで私を誤魔化そうとしないで」

 

詩乃は口角を吊り上げ、歪な顔面をさらに凶悪に歪めて、悪魔へと言い放った。

 

 

「絶望を寄こしなさい、悪魔」

 

 

その言葉が夜の闇に響き渡った瞬間、悠夜の紅い瞳に、息を呑むほどの強い光が宿った。

驚愕、感嘆、そして底知れぬ歓喜と敬意。

悪魔は一歩下がり、胸元に手を当てて、深く、完璧な礼を捧げた。

 

 

「わかりました」

 

 

悠夜の唇に、静かで、どこか哀愁を帯びた笑みが浮かぶ。

 

 

「次は、冷たい路地裏で会いましょう」

 

 

そう言い残すと、悠夜の姿は夜風に解ける煙のように、音もなく虚空へと掻き消えた。

屋上には、赤い小瓶を握りしめた詩乃ただ一人が取り残されていた。

 

手のひらの中にある小瓶は、まるで心臓のようにドクン、ドクンと微かな脈動を伝えてくる。

詩乃はガラス越しにその禍々しい真紅の液体を見つめ、不敵に、獰猛に笑った。

 

 

「上等よ」

 

 

コルクの栓を躊躇なく引き抜く。

立ち上る香りは、甘く熟れた果実のようでありながら、鉄の錆びたような血の匂いを孕んでいた。

詩乃は小瓶を口元へ運び、一滴残らず、一気に喉の奥へと飲み干した。

 

カッ、と全身の血液が沸騰するような激痛が走った。

骨が軋み、筋肉が組み換わり、頭蓋の内側から強烈な熱波が押し寄せる。

息が詰まり、視界が真っ赤に染まり――詩乃の意識は、底なしの暗闇へと急速に沈んでいった。

 

 

 

* * *

 

 

 

柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 

 

「……ん」

 

 

詩乃はゆっくりと瞼を開けた。

見慣れた自分の部屋の天井。

屋上の冷たい風も、錆びた金網の感触も、すべては遠い夢の出来事だったかのように、彼女は自宅のベッドの上に横たわっていた。

 

 

「……生きて、る?」

 

 

身を起こすと、身体が羽のように軽いことに気がついた。

今まで全身を覆っていた、鉛を詰め込まれたような重苦しい疲労感が綺麗さっぱり消え去っている。それどころか、指先一本を動かすだけで、驚くほど滑らかに空気を切ることができた。

 

詩乃はベッドから降り、部屋の隅にある姿見の前へと歩み寄った。

そして――鏡の中の像を目にした瞬間、息を呑んだ。

 

 

「これが……私?」

 

 

鏡の中に立っていたのは、見紛うことなき「絶世の美女」だった。

 

腰まで届く艶やかな黒髪は、朝の光を浴びて絹糸のように滑らかな輝きを放っている。

陶磁器のように透き通る白い肌には、かつてあったケロイド状の凹凸も、土気色のくすみも欠片すら残っていない。

完璧な黄金比を描く輪郭、すっきりと通った高い鼻梁、桜の花弁のように瑞々しく色づいた唇。そして何よりも、夜空の星を閉じ込めたかのように澄み渡り、涼やかで知的な光を宿した大きな瞳。

 

均整の取れた肢体と相まって、そこにあるのは、息を呑むほどに完成された「美」そのものだった。

だが、最も恐ろしいのは、その容姿に対して詩乃自身が「何の違和感も覚えない」ことだった。

まるで、最初からこうして生まれてきたのが当然であるかのように、鏡の中の美しい顔は、彼女の骨格や筋肉の動きと寸分の狂いもなく完全に調和していた。

 

 

「……ふふ」

 

 

詩乃の唇から、小さく乾いた笑いが漏れた。

悪魔の薬は、本物だったのだ。

 

制服に袖を通す。

かつては「豚に真珠」と嘲笑されたアイロンの利いたブレザーが、まるで一流メゾンのオートクチュールのように完璧に彼女の身体を引き立てていた。

詩乃は髪を整え、部屋のドアノブに手をかけた。

 

階段を降り、リビングへと向かう。

いつもなら、この時間は彼女にとって一日で最も苦痛な時間だった。

両親が妹の花乃を囲んで楽しげに談笑し、詩乃が姿を見せた瞬間にリビングの空気が凍りつき、忌まわしげな視線と舌打ちが飛んでくる。それが、十七年間繰り返されてきた「日常」だった。

 

リビングの引き戸を開ける。

 

カチャリ、と食器の触れ合う音が止まった。

食卓についていた父親と母親が、同時に顔を上げる。

 

詩乃は無言のまま、冷ややかな視線を両親に向けた。

いつも通り、汚物を見るような目で顔を背けるがいい。リビングから出て行けと怒鳴るがいい。そう思いながら。

 

だが――。

 

 

「あら、詩乃。おはよう。もう起きてきたの?」

 

 

母親が、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。

その顔には、かつて詩乃に向けられていた嫌悪や侮蔑の色など微塵も存在しなかった。まるで、世界で最も愛しい宝物を出迎えるかのような、蕩けるような甘い笑み。

 

 

「お前は本当に早起きだな、詩乃。今日も綺麗に制服を着こなして、立派だぞ」

 

 

新聞を広げていた父親が、目を細めて相好を崩した。

かつて詩乃の成績表を見ることすら拒絶し、「花乃が怖がるから長居するな」と言い放ったその同じ口から、滑らかな賞賛の言葉が淀みなく紡ぎ出される。

 

 

「さあ、座りなさい。お前の大好きなフレンチトーストを焼いておいたのよ。温かいうちに食べなさい」

 

 

母親が甲斐甲斐しく椅子を引き、詩乃の前に湯気の立つ皿を置く。

その手つきは優しく、慈愛に満ちていた。

 

詩乃は無言で席に着いた。

視線を横に向けると、そこには妹の花乃が座っていた。

 

かつて、両親の愛を一身に浴び、美しい顔を武器に詩乃を見下し、我儘放題に振る舞っていた妹。

だが、今の花乃は――小さく身を縮こまらせ、怯えたような、居心地の悪そうな顔で俯いていた。

 

愛らしい顔立ちではある。

しかし、今の詩乃の圧倒的な美貌と、長年の努力によって培われた洗練された立ち居振る舞いの前では、花乃の幼さはただの「未熟」にしか見えなかった。

成績トップ、運動万能、家事もマナーも完璧で、そのうえ息を呑むほどの美貌を手に入れた姉。

すべてにおいて完璧な存在となった詩乃の隣で、花乃は完全に「出来の悪い妹」として霞んでしまっていたのだ。

 

 

「花乃、お前も詩乃を見習いなさい」

 

 

父親が冷淡な声で花乃を一瞥した。

 

 

「詩乃は模試でも学年トップを維持しているというのに、お前は前回のテストも赤点スレスレだったそうじゃないか。少しは姉さんの爪の垢でも煎じて飲みなさい」

 

「……っ、ごめんなさい、お父さん」

 

 

花乃は涙ぐみながら、震える手でフォークを握りしめていた。

かつて詩乃が浴びせられ続けてきた言葉と視線が、今やそのまま花乃へと向けられている。

 

 

(…………)

 

 

詩乃は、フォークでフレンチトーストを切り分け、口へと運んだ。

バターとメイプルシロップの甘い香りが口いっぱいに広がる。

完璧な焼き加減、上質な素材。

 

だが――。

 

 

(……吐き気がする)

 

 

胃の腑が雑巾のように雑に絞り上げられるような、強烈な嘔吐感が込み上げてきた。

甘い蜜の味が、まるで腐敗した泥水のように舌を焼く。

 

何も変わっていない。

この両親は、羽柴詩乃という人間の中身など、今も昔もこれっぽっちも見ていないのだ。

彼らが見ているのは、ただ「美しい顔」という記号だけ。

醜い顔をしていた時はゴミのように踏みにじり、美しい顔になった途端、手のひらを返して愛玩動物のように甘やかす。

そこにあるのは「家族の愛」などではない。ただの浅ましい虚栄心と、外見というラベルに対する無条件の盲従だけだった。

 

 

「ごちそうさま。学校へ行くわ」

 

 

詩乃はほとんど手をつけていない皿を残し、冷淡に席を立った。

 

 

「あら、もう行くの? もっとゆっくり食べていけばいいのに。気をつけて行くのよ、詩乃」

 

 

背中に投げかけられる母親の甘ったるい声を無視し、詩乃は玄関を出て、荒々しくドアを閉めた。

 

朝の冷たい外気を吸い込んでも、胸の奥底に溜まったヘドロのような吐き気は一向に消え去らなかった。

 

 

 

* * *

 

 

 

学校への通学路は、異様な空間と化していた。

 

詩乃が一歩足を踏み出すたびに、すれ違う通行人、他校の生徒たちが一斉に足を止め、息を呑んで彼女を振り返る。

羨望、欲望、憧れ、品定め。

無数の視線が、まるで粘りつくような熱を帯びて詩乃の全身を舐め回す。

 

校門をくぐり、校舎の廊下を歩く。

かつては彼女が通るだけで蜘蛛の子を散らすように人が避け、「バケモノ」「視界に入れるな」と罵声が飛び交ったその場所が、今や全く別の地獄へと変貌していた。

 

 

「おはよう、羽柴さん!」

「詩乃ちゃん、今日の髪型すごく似合ってるね!」

「あの、羽柴さん、もしよかったら今度一緒に勉強教えてくれないかな……?」

 

 

教室のドアを開けた瞬間、クラスメイトたちが雪崩を打つように詩乃の席へと群がってきた。

 

かつて、詩乃のノートをゴミ箱に捨てた女子生徒が、憧れの眼差しで微笑みかけてくる。

かつて、詩乃の机に「死ね」と落書きをした男子生徒が、耳を真っ赤にして媚びるような笑顔を浮かべている。

かつて、詩乃がいじめられているのを見て見ぬふりをし、「君がもう少し愛嬌を持てばいいんだ」と切り捨てた担任教師が、腫れ物に触るように丁寧な態度で接してくる。

 

誰もが、詩乃の機嫌を伺い、詩乃に気に入られようと必死だった。

彼女が少しペンを落とせば、三人の男子生徒が争うように拾い上げて差し出す。

彼女が教科書をめくれば、周囲の女子生徒たちが「横顔が綺麗すぎる」と小声で囁き合う。

テストの点数が満点であれば「さすが羽柴さん、頭も良くて完璧!」と手放しで賞賛され、体育で走れば「モデルみたいでかっこいい!」と黄色い歓声が上がる。

 

努力の価値など、そこには最初から存在しなかったのだ。

学年トップの成績も、鍛え上げた運動能力も、磨き抜いた礼儀作法も、すべては「美しい顔」という土台の上に乗って初めて「素晴らしい美点」として消費される。

同じ努力を、同じ成果を、醜い顔の時にどれほど積み上げても「気味が悪い」「必死で見苦しい」と嘲笑されたものが、皮一枚の形が変わっただけで、世界中の人間が無条件に平伏し、賞賛の嵐を浴びせてくる。

 

 

(きもちわるい……)

 

 

詩乃は机の下で、自らの爪が掌に食い込むほど強く拳を握りしめていた。

 

 

(きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい……)

 

 

群がってくるクラスメイトたちの笑顔が、詩乃の目には腐肉に集る蛆虫の蠢きのようにしか見えなかった。

彼らの口から放たれる褒め言葉の一つ一つが、下水から湧き上がる悪臭のように鼻を突く。

 

 

(きもちわるいッ!!!!)

 

 

昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、詩乃は席を立った。

「羽柴さん、一緒にお弁当食べな――」という女子生徒の声を完全に無視し、彼女は教室のドアを乱暴に開けて駆け出した。

 

階段を駆け上がる。

一段、また一段と踏みしめる足に力を込め、彼女は屋上へと続く重い鉄の扉を押し開けた。

 

バタンッ! と扉が閉まり、吹き抜ける強い風が詩乃の長い黒髪を乱雑に掻き乱す。

 

昨夜、自分が命を絶とうとした、あの屋上。

青空の下に広がる景色は、夜の闇よりも遥かに残酷で、鮮明だった。

 

 

「……っ、ふ……っ、あは……」

 

 

詩乃の喉から、掠れた笑いが漏れ出した。

一度漏れ出たその笑いは、急速に膨れ上がり、狂気じみた高笑いとなって青空へと突き抜けていった。

 

 

「あははははははッ!! あはははははははははははははッッ!!!」

 

 

詩乃は腹を抱え、涙を流しながら笑い転げた。

金網に背中を預け、崩れ落ちるように座り込みながら、狂ったように笑い続ける。

 

 

「みんながみんな、私を持て囃してるッ! 昨日はバケモノ扱いしてゴミみたいに扱ってた連中が、今日は尻尾を振って群がってくるッ!!」

 

 

胸を掻きむしる。

昨夜と同じ場所、同じ制服。

だが、手に入れた現実は、あまりにも滑稽で、あまりにも救いようのない喜劇だった。

 

 

「顔がいいだけで……皮膚が一枚綺麗な形をしてるだけで、こんなにも人生イージーモードになるんだッ!! 努力なんて関係ない! 心なんて誰も見てない! 全部、全部、この顔一つで決まってたんだッ!!」

 

 

叫び、笑い、そして――。

 

 

「あはははははははははははははは…………バカみたい」

 

 

ぴたりと、笑いが止まった。

詩乃の顔からすべての表情が抜け落ち、能面のような冷徹な静寂が戻る。

 

彼女の瞳から、ツーと一筋の涙が零れ落ちた。

それは悲しみの涙ではなかった。

自らの生きてきた世界の、あまりの底の浅さと、救いようのない醜悪さに対する、絶対的な幻滅の涙だった。

 

詩乃は、悠夜の言葉を思い出していた。

 

 

『これを飲んでも、貴女が幸せになることは絶対に無い』

 

 

その言葉の真意が、今、骨の髄まで理解できた。

 

あの悪魔は、詩乃を絶望に突き落とすためにあの宣告をしたのではなかった。

むしろ逆だ。

「顔さえ良くなれば幸せになれる」という幻想を抱いたままこの薬を飲めば、その先に待っているのは、人間という生き物の浅ましさと、世界の理不尽の正体を見せつけられ、精神を完全に破壊される「真の絶望」であると知っていたからこそ――彼は、己の名にかけてその道を止めようとしたのだ。

あれは、悪魔が提示し得る、最大限の「優しさ」だったのだ。

 

 

「……ごめんなさい、悠夜」

 

 

詩乃は空を見上げ、小さく呟いた。

彼の優しさを振り払った事を謝る。

 

 

「それでも……私は進むわ。私の中の希望が、完全に燃え尽きるまでに」

 

 

美しい顔を手に入れても、救いはなかった。

愛を手に入れることもできなかった。

手に入ったのは、ただ「世界はどこまでも浅ましく、醜悪である」という冷酷な真実だけだった。

 

だが、詩乃は後悔していなかった。

あのまま何も知らずに死ぬよりも、この醜い世界の正体をその目で見届け、自らの足で地獄を歩むことを、彼女自身の魂が選んだのだから。

 

風が吹き抜け、少女の完璧な美貌を冷たく撫でていく。

羽柴詩乃は、ゆっくりと立ち上がった。

その瞳には、もはや一片の迷いも、涙の痕跡も残っていなかった。

 

彼女は歩み始める。

自らの魂を業火で焼き尽くし、やがて訪れる「真の絶望」の果てへと至る、孤独で気高き修羅の道を。




結果オーライなら全てよし、それが出来ないのが詩乃さんの不幸です。
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