高校を卒業した羽柴詩乃が海を渡ったのは、春の冷たい雨が降る日のことだった。
日本の生温く湿った空気、外見という皮膚一枚の美醜によって人間の価値を軽薄に決定づけるこの島国のすべてを置き去りにし、彼女はアメリカの名門大学へと進学した。かつての醜悪な肉体を悪魔の劇薬によって完璧な美貌へと作り変えた詩乃にとって、学問の壁など取るに足らない小石に過ぎなかった。
幼少期から血の滲むような努力によって培われた知性、異常なまでの集中力、そして息を呑むような美貌。そのすべてを併せ持った彼女は、瞬く間に大学内で異彩を放った。飛び級を重ね、難解極まる経済学と計算機科学の修士号をわずか二年で取得すると、教授陣からの熱烈な引き留めも、ウォール街の一流投資銀行からの破格のオファーもすべて冷ややかに拒絶し、彼女は何食わぬ顔で日本へと帰国した。
帰国後、詩乃が立ち上げた投資ファンドおよびIT複合企業「ハシバ・グローバル・イノベーション」の躍進は、日本の経済史における奇跡と呼ばれた。
彼女の経営手腕は、冷徹かつ神がかり的だった。世界の金融市場の潮目をミリ単位で読み切り、次世代の技術革新を正確に予見し、競合他社を情け容赦なく買収しては解体した。
それ以上に、彼女の「美貌」が世界中の資本家や権力者たちを狂わせた。かつて「中身を見ろ」と泣き叫んでいた少女は、今や自らの美貌が男たち、女たち、そして老若男女の理性を狂わせる最強の凶器であることを熟知していた。
微笑み一つで数十億円の融資を引き出し、冷淡な眼差し一つで百戦錬磨の政治家を服従させる。
詩乃が設立した企業は、創業からわずか五年で東証プライム市場の時価総額トップテンへと躍り出た。慈善事業にも巨額の資金を投じ、貧困地域の子供たちへ返済不要の奨学金をばら撒き、難病の医療研究を支援する一方で、裏では競合企業の不正を暴いて市場から完膚なきまでに叩き出し、買収した企業の余剰人員を冷酷に切り捨てた。
善行も悪行も、彼女にとっては等しく「無意味なゲームの盤面」に過ぎなかった。
莫大な富を手に入れた詩乃は、この世に存在するあらゆる快楽を貪り尽くした。
最高級のヴィンテージワインを水のように煽り、三ツ星レストランの料理を一口だけ齧ってはゴミ箱に投げ捨て、世界中から集められた希少な麻薬の煙を吸い込んだ。
そして、肉欲の海へと溺れていった。
老若男女、人種、貧富の差を問わず、美しい者も醜い者も、高貴な血筋の者も路地裏の浮浪者も、詩乃は自らの寝室へと招き入れた。
彼女に抱かれ、彼女を抱くことを許された人間たちは、誰もが狂気に似た恍惚の声を上げ、詩乃の足元に平伏して愛を誓った。
「詩乃さん、あなたのためなら命を捨てられる」
「僕のすべてを捧げます、どうか僕を捨てないでください」
「愛しています、詩乃様、愛しています……!」
幾千の人間が、彼女にして涙を流し、魂を差し出そうとした。
だが、その熱狂的な愛の囁きを聞くたびに、詩乃の心の奥底に広がる氷原は、さらに分厚く、冷たく凍りついていくばかりだった。
誰も、羽柴詩乃を見てなどいない。
彼らが求めているのは、彼女の完璧な顔面であり、豊満で滑らかな肉体であり、莫大な資産と権力という装飾品だけだった。もし今、この顔がかつてのあの引き攣れた土気色の皮膚に戻れば、この愛を囁く者たちは一瞬にして悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう。
かつて屋上で泣き叫んでいた「本当の私」は、この世の誰一人として見ようとしない。
世界はどこまでも浅ましく、醜悪で、救いようのない虚飾のパレードだった。
* * *
地上五十階、都心を見下ろす超高級タワーマンションの最上階ペントハウス。
広大なリビングの床には、最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められ、その上には十数人の男女が無防備な姿で横たわっていた。
若き新進気鋭の青年実業家、高名な老政治家、国際的なトップモデルの美女、裏社会を牛耳るフィクサー。
彼らは数日間に及ぶ狂乱の乱交パーティーの果てに、肉体と精神の限界を迎え、まるで気絶するように泥のような眠りに落ちていた。空気中には甘ったるい香水の匂いと、濃厚な体液の匂い、そして燃え尽きた葉巻の煙が重苦しく澱んでいる。
その混沌とした肉の海の中心から抜け出し、詩乃は全裸のまま、足音もなく窓際へと歩み寄った。
今日で、彼女は三十歳の誕生日を迎えた。
ガラスに映る自らの肉体を一瞥する。
数人の男女の汗や体液が肌にこびりついていたが、それでもなお、彼女の美貌は一分の衰えもなく、神々しいまでの輝きを放っていた。三十歳という年齢を感じさせない、瑞々しく引き締まった肌、完璧な黄金比を保つ輪郭、夜空の深淵を湛えた切れ長の瞳。
しかし――その瞳の奥は、完全に死んでいた。
光の一片すら宿さぬ漆黒の硝子玉。かつて理不尽への怒りに燃え盛っていた炎は、この十三年間で完全に燃え尽き、跡形もなく冷え切った灰だけが残されていた。
詩乃はガラスに額を押し当て、眼下に広がる東京の夜景を見下ろした。
網の目のように走る高速道路の光、宝石を散りばめたように煌めく高層ビル群の灯り、無数のネオンサイン。
十三年前、高校の屋上のフェンスにしがみつきながら見下ろしたあの校庭の暗闇とは、高さも、眩しさもまるで違うはずだった。
けれど――詩乃の瞳には、あの夜と何一つ変わらない、底知れぬ暗闇しか映っていなかった。
否、むしろ今夜の光景の方が、遥かに深く、救いようのない闇に見えた。
輝く光の一つ一つの下で、人間たちが外見を値踏みし、他人を嘲笑し、虚栄心を満たすために嘘を重ね、互いを貪り食い合っている。光が眩しければ眩しいほど、その裏側に広がる人間の浅ましさという漆黒の汚泥が、鮮明に浮かび上がってくるようだった。
「……もう、いいわね」
乾いた、感情のない声が、静寂な部屋にポツリと落ちた。
「終わりにしましょう」
すべての答えは出た。
美貌を手に入れれば幸せになれるのか?――否。手に入ったのは、ただ際限のない虚無と、人間に対する絶対的な軽蔑だけだった。
努力は報われるのか?――否。努力など、美貌という記号の引き立て役に過ぎなかった。
この世界に、羽柴詩乃が生きてやる価値はあるのか?――否。この世界は、一秒たりとも息を吸い続ける価値のない、下劣なゴミ溜めだった。
悪魔・神代悠夜の言った通りだった。
幸福など、最初からどこにも存在しなかったのだ。
詩乃は口角を歪め、冷え切った笑みを浮かべた。
ただ静かに首を吊る気など毛頭なかった。一人でひっそりと海に身を投げるなど、彼女の矜持が許さなかった。
どうせ終わらせるなら――すべてを滅茶苦茶にして終わらせる。
「私をここまで退屈させ、失望させた世界のクソったれども……。タダで死んでやる筋合いなんてないわ」
詩乃の脳裏で、冷酷な計算機が高速で回転を始めた。
全てを終わらせるための「道連れ」を誰にするか。
自分の地獄へと道連れにするなら、それに相応しい、社会的な身分が高く、権力を持ち、それでいて内面が救いようのないほど醜悪な性根の持ち主たちでなければ面白くない。
自室の床で、涎を垂らして眠りこけている政治家や実業家たちを見下ろす。
「貴方達こそ、私に相応しいわ」
詩乃の瞳の奥で、消え失せていたはずの鬼火が、再びパチパチと音を立てて燃え上がり始めた。
「さぁて……ハイスコア、狙っちゃうわよ」
久しぶり――いや、生まれて初めて、魂の芯から湧き上がるような純粋な「情熱」が、詩乃の全身の血液を沸騰させていくのを彼女は感じていた。
* * *
その日から、羽柴詩乃という怪物の「大破壊」が幕を開けた。
彼女が築き上げた巨大企業「ハシバ・グローバル・イノベーション」の全資産、全ネットワーク、そして彼女が長年集め続けてきた政財界の暗部に関する機密データが、一斉に狂乱の兵器へと変貌した。
詩乃はまず、自らと関係を持っていた大物政治家たちの裏金ルート、贈収賄の証拠、愛人関係の記録、脱税の全容を、国内外の主要メディアおよびインターネット上へ一斉にリークした。
それだけではない。彼女が運用していた数兆円規模の投資資金を使い、日本の基幹産業を担う複数の超巨大企業に対して、仕手戦と空売りを同時に仕掛けた。
市場は未曾有のパニックに陥り、株価は暴落、為替は乱高下し、連鎖倒産が相次いだ。
「羽柴会長、正気ですか!? こんなことをすれば我が社も破滅します!」
青ざめた役員たちが社長室に詰め寄る中、詩乃は優雅にシャンパングラスを傾け、冷酷に微笑んだ。
「ええ、やりなさい」
詩乃は狙いを定めた獲物を、徹底的に、再起不能になるまで叩き潰していった。
かつて彼女の美貌に鼻の下を伸ばし、裏で労働者を搾取していた財界の重鎮は、全財産を差し押さえられて破産宣告を受け、首を吊った。
詩乃を愛人として囲おうとし、逆らう者を権力で握りつぶしてきた大物官僚は、収賄罪で逮捕され、法廷で涙を流しながら失禁した。
そして――詩乃は、実家である「羽柴家」に対して、最も念入りで、最も残酷な破滅を用意した。
父親が経営していた商社に対して、詩乃はダミー会社を通じて巨額の粉飾決算を持ちかけ、架空取引の罠に嵌めた。
父親は自らの会社が急成長していると信じ込み、詩乃が裏で糸を引いているとも知らずに狂喜乱舞していたが、絶頂の瞬間に詩乃はすべての証拠を検察と国税局へ突き出した。
会社は一夜にして倒産。父親は数十億円の負債を抱え、詐欺と横領の容疑で逮捕された。かつて詩乃の成績表を見下し、「花乃が怖がるから姿を見せるな」と言い放ったあの尊大な父親は、手錠をかけられ、報道陣のフラッシュを浴びながら、みっともなく顔を覆って泣き叫んだ。
母親もまた、逃げ場を失った。
豪奢な屋敷は差し押さえられ、親戚中から罵声を浴びせられ、かつて詩乃を「羽柴家の恥」と呼んでいた母親自身が、親族中の「最大の汚物」として絶縁された。過度のストレスと酒浸りの生活により、母親の精神は完全に崩壊し、精神病院の閉鎖病棟のベッドで、虚空に向かって意味不明な言葉を呟き続けるだけの廃人となった。
そして、妹の花乃。
詩乃が完璧な美貌を手に入れたあの日から、家庭内で居場所を失い、姉への劣等感と嫉妬に苛まれ続けていた妹。
詩乃は花乃に対しても、慈悲のかけらも与えなかった。
花乃が結婚を控えていた名門一族の御曹司――その男を、詩乃は指先一つで誘惑し、自らのベッドへと引きずり込んだ。
そして、二人がベッドで絡み合う生々しい写真を、結婚式の当日の朝、披露宴会場の巨大スクリーンに全招待客の前で上映させたのだ。
婚約は即座に破棄され、花乃は上流階級の社交界から完全に追放された。
実家は破産し、両親は失脚し、婚約者も失った花乃は、一文無しのまま場末の風俗街へと転落していった。
かつて無条件に愛され、天使ともてはやされた妹は、今や借金取りに怯え、安アパートで震えながら、姉への底知れぬ呪詛を吐き散らすだけの肉塊へと成り下がった。
日本中が、そして世界経済の一部が、羽柴詩乃というたった一人の女の狂気によって激震した。
数え切れないほどの企業が潰れ、何万人もの人間が路頭に迷い、自殺者が相次いだ。
そして当然のように、すべてを仕掛けた元凶である羽柴詩乃もまた、奈落の底へと転落した。
会社は特別清算され、彼女自身にも数え切れないほどの逮捕状が請求された。
マスコミは連日連夜、彼女を「希代の悪女」「経済テロリスト」「狂気の毒婦」と書き立て、日本中が彼女に対する凄まじい憎悪と怨嗟の声を上げた。
だが、警察が彼女のタワーマンションに踏み込んだ時、すでに詩乃の姿はどこにもなかった。
彼女はあらゆる身分証を捨て、偽造パスポートも使わず、ただ着の身着のままで、列島を吹き荒れる憎悪の嵐の中へと姿を消したのだった。
* * *
それから、十年の月日が流れた。
地方都市の片隅、錆びついたトタン屋根が連なる薄暗い飲み屋街。
冷たい秋雨がアスファルトを濡らす夜、赤提灯が風に揺れる小さな大衆居酒屋のカウンターの隅に、一人の女が座っていた。
色褪せた安物のトレンチコートに身を包み、擦り切れたジーンズを履いた女――羽柴詩乃。
彼女は四十歳になっていた。
かつて世界を狂わせたあの圧倒的な美貌は、十年にわたる逃亡生活と、粗悪な安酒、不規則な生活によって、もはや見る影もなく失われていた。
肌は荒れてカサつき、目元には深い皺が刻まれ、長い黒髪には白髪が混じり、乱雑に後ろで束ねられているだけ。
すれ違う誰もが、彼女をただの「くたびれた中年女」としてしか認識しないだろう。
だが――詩乃の表情は、驚くほどに清々しかった。
彼女は手酌でコップに注いだ安物の酒を口に含み、喉を鳴らして飲み干した。
ピリピリと舌を刺すアルコールの刺激が、五臓六腑に染み渡る。
店内の壁に掛けられた小さなブラウン管テレビから、ニュース番組の音声が流れていた。
『――続いてのニュースです。十年前、日本経済を未曾有の混乱に陥れ、政財界を揺るがす巨額詐欺と市場操縦の末に逃亡した元「ハシバ・グローバル」代表、羽柴詩乃容疑者。警察は現在も全国に指名手配を行っていますが、依然としてその足取りは掴めておらず――』
画面には、十年前の、完璧な美貌を誇っていた頃の詩乃の写真が大写しになっていた。
カウンターの中で焼き鳥を焼いていた初老の店主が、テレビ画面を忌々しそうに睨みつけ、盛大に舌打ちをした。
「チッ! あのクソ女のせいでよぉ……!」
店主は油に汚れたタオルで手を拭きながら、誰に聞かせるでもなく唾を吐き捨てるように毒づいた。
「俺の弟の工場も、あの女の仕掛けた連鎖倒産に巻き込まれて潰れたんだ。弟は首を吊って死んじまったよ。……生きているなら、八つ裂きにしてやりてえ。地獄の業火で焼かれちまえばいいんだ、あんなバケモノ!」
店主の瞳には、十年経っても決して消えることのない、純粋で濃密な「憎悪」がギラギラと燃え盛っていた。
詩乃はその言葉を耳にして、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
そして、悪戯を思いついた子供のように目を細めると、空になったコップをカウンターにコトリと置き、陽気な声で店主に話しかけた。
「ねえ、店主」
「あ? なんだよ?」
詩乃はニヤリと口角を吊り上げ、親指でテレビ画面を指差した。
「あのニュースの羽柴詩乃……実は、私なのよ」
店主は一瞬きょとんとした後、詩乃のくたびれた顔とボロボロのコートを上から下まで見下ろし、心底馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「だからさ、昔の誼ってことで、その煮込み、タダでオマケしてくれない?」
「……ハッ! 寝言言ってんじゃねえぞ、薄汚ねえババアが!」
店主は激昂し、手に持っていたトングをカウンターに叩きつけた。
「冗談でもあの女の名前を出すんじゃねえ! 酒が不味くなる! 金なんかいらねえから、今すぐ出て行け! 二度とこの店の敷居を跨ぐな!!」
怒鳴り散らす店主の形相は、まさに鬼そのものだった。
詩乃は肩をすくめ、愉快そうに立ち上がると、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「あら、そう? お代がいらないなんて、親切な店主さんね、ありがとう。……あ、そうそう」
詩乃は引き戸に手をかけ、振り返って満面の笑みを浮かべた。
「ここのおつまみ、死ぬほど不味かったわよ」
「てめぇ、ふざけんなッ!!」
飛んできた濡れタオルを軽やかに躱し、詩乃はガラガラと引き戸を開けて夜の路地へと飛び出した。
外は冷たい秋の雨が降りしきっていた。
街灯の薄暗い光が、濡れたアスファルトに反射している。
傘もささず、雨粒を頭から浴びながら、詩乃は千鳥足で歩き出した。
安酒の酔いが心地よく頭を痺れさせ、胸の奥から止めどない多幸感が湧き上がってくる。
自分を褒め称える声など、この世のどこにもない。
自分に群がり、愛を囁く浅ましい人間も、もう一人もいない。
世界中にあるのは、自分に対する純粋な、一点の曇りもない「憎悪」と「怨嗟」だけ。
(ああ……なんて、清々しいのかしら)
これこそが、彼女が求めていたものだった。
皮膚一枚の美しさに惑わされず、誰もが心の底から「羽柴詩乃の成した業」そのものを見つめ、全力で彼女という存在を呪い、憎んでくれている。
偽りの愛よりも、この剥き出しの憎悪の嵐の中にいる方が、何千倍も、何万倍も心が安らいだ。
詩乃は雨空に向かって、調子の外れた声で陽気に歌い始めた。
「わたしは~わるいおんな~♪ せかいがわたしにひれふすのよ~♪」
ステップを踏むように、水たまりを跳ねながら歩く。
かつて屋上で泣き叫んでいた十七歳の自分に、見せてやりたかった。
お前はちっとも不幸なんかじゃない。お前は、世界中の人間を自分の掌の上で踊らせ、破滅させ、こんなにも美しく、孤独で、気高い悪女になれたのだと。
暗い路地裏の角を曲がろうとした、その時だった。
前方の暗がりから、一人の人影が音もなく滑り出て、詩乃の行く手を塞いだ。
「…………」
詩乃は足を止めた。
街灯の光の下に浮かび上がったのは、ボロボロの雨合羽を羽織り、泥にまみれた靴を履いた一人の女だった。
乱れた髪の間から覗くその顔は、頬が痩せこけ、唇は紫色に乾き、かつての愛らしさなど微塵も残っていなかった。
だが、その目――血走り、狂気と怨念で爛々と見開かれたその瞳だけは、詩乃の記憶にあるものと寸分違わなかった。
妹の、花乃だった。
花乃は震える両手で、刃渡り二十センチメートルを超える包丁を固く握りしめていた。
「……見つけた」
花乃の喉から、人間のものとは思えない濁った声が漏れ出た。
「見つけたわよ……お姉ちゃん……ッ!!」
「…………」
「私の人生をめちゃくちゃにして……お父さんもお母さんも殺して……私からすべてを奪った悪魔……ッ!!」
花乃は全身をガタガタと痙攣させ、包丁を構えた。
そして、魂のすべてを絞り出すような絶叫を轟かせながら、詩乃に向かって突進してきた。
「死ねええええええええッッ!!!!」
ドスッ。
鈍い肉の破断音が、雨の音に混じって響いた。
冷たい鋼の刃が、詩乃の下腹部へと深々と突き刺さっていた。
花乃の体重が乗った切っ先は、皮膚を裂き、筋肉を断ち、内臓の奥深くまで完全に貫通していた。
「が……っ、は……」
詩乃の口から、生温かい血の塊がボタボタと溢れ落ちる。
激痛が全身の神経を焼き尽くすように駆け巡った。
だが――。
詩乃の顔に浮かんだのは、苦痛でも、恐怖でもなかった。
それは、あまりにも場違いな、心底からの「呆れ顔」だった。
「……まったく」
詩乃は血を吐きながら、眉を顰めて溜息をついた。
「遅いわよ……花乃」
「……え?」
包丁の柄を握りしめたまま、花乃が凍りついたように目を見開いた。
「あんだけ……お膳立てしてあげたのに、やっとなの……? 私がどこに潜伏してるか、定期的にあなたの耳に入るように……情報を流してあげてたのに……」
詩乃は腹に刺さった包丁など気にも留めない様子で、血まみれの右手を行儀悪く持ち上げると、花乃の痩せこけた頬をペチペチと軽く叩いた。
「本当に……愚図なんだから。でも……それでこそよ、花乃」
詩乃の唇が、三日月のように妖しく吊り上がる。
その瞳には、かつて一度として妹に向けられたことのない、深く、真摯な光が宿っていた。
「初めて……貴女の事が愛しいと感じたわ」
散々不幸のどん底に叩き落とし、憎悪を限界まで煽り立て、逃亡中も居場所を小出しにして誘導し続けた。
自らが幕を下ろすべき人生――その最後の引導を渡す役目を担えるのは、血を分けた妹である花乃以外にあり得ないと、詩乃はずっと最初から決めていたのだ。
自分の手で、姉を殺す。
その復讐を果たすためだけに、花乃はこの十年間の地獄を生き延びてきたはずだった。
「ひ……っ、ひぃぃ……っ!」
だが、詩乃のその圧倒的な狂気と、自分を完全に手玉に取っていたという絶対的な事実を前にして、花乃の精神は完全に崩壊した。
自分が復讐を果たしたのではなく、最初から最後まで姉の書いた筋書き通りに動かされていた操り人形に過ぎなかったのだと悟った瞬間、彼女の心を満たしていた憎悪は、底知れぬ恐怖へと反転した。
花乃は包丁から手を離すと、悲鳴を上げながら尻餅をついた。
「バケモノ……ッ! やっぱり、あんたはバケモノよぉぉぉっ!!」
花乃は泥水を跳ね上げながら立ち上がり、狂乱状態で暗い路地の向こうへと逃げ去っていった。
夜の闇の中に、妹の泣き叫ぶ声が遠ざかり、やがて冷たい雨音だけが残された。
「……あは、逃げ足だけは速いんだから」
詩乃は力なく笑い、膝から崩れ落ちた。
コンクリートの地面に両手をつき、腹からドクドクと溢れ出る鮮血が、雨水と混ざり合って足元を真っ赤に染め上げていく。
死が、急速に近づいていた。
体温が奪われ、指先から感覚が失われていく。
詩乃は這うようにして、人通りのない狭い路地裏のゴミ箱の陰へと身を滑り込ませた。
湿ったコンクリートの壁に背中を預け、冷たい雨粒が頬を伝うのを感じながら、彼女は静かに目を閉じた。
痛む腹部を押さえながら、荒い息を整える。
視界が暗転しかける中、詩乃は最後の力を振り絞り、虚空に向かって小さく呟いた。
「……悠夜、いる?」
その声が路地裏の闇に溶けた、次の瞬間。
カチリ。
雨粒が空中で静止したかのように、世界のすべての音が消え去った。
冷たい大気が微かに揺らめき、濃密な夜の闇の中から、一人の男が音もなく姿を現した。
十数年前と、一日たりとも変わらない姿。
闇を織り上げたような完璧な仕立ての黒いスーツ、大理石のように白く滑らかな肌、そして鮮血のように妖しく輝く紅い瞳。
悪魔・神代悠夜が、そこに立っていた。
悠夜は静かに詩乃の前に歩み寄り、泥と血にまみれた彼女の前に、優雅に片膝をついた。
その紅い瞳には、嘲笑も、憐憫もなかった。ただ、一人の気高き契約者に対する、この上なく深遠な敬意と慈愛が湛えられていた。
「……はい、ここに」
低く、甘く、魂の芯まで染み渡るような声で、悠夜は静かに応えた。
次回、詩乃さんの人生の答え合わせです。