薄暗い路地裏の隅、冷たい秋雨がアスファルトの黒ずんだ裂け目を叩き、微かな水音を立てていた。
壁にもたれかかる羽柴詩乃の腹部からは、今なお生温かい血が止まることなく溢れ出し、薄汚れたコンクリートの上に鮮やかな朱の湖を広げている。体温は急速に大気へと奪われ、指先は氷のように冷え切り、視界の輪郭は霞んでいた。
だが、目の前に現れた男――闇をそのまま仕立て上げた漆黒のスーツを纏い、鮮血のように妖しく紅い瞳を宿した悪魔、神代悠夜の姿を捉えた瞬間、彼女の唇にふわりと柔らかな笑みが浮かんだ。
「久しぶりね、悠夜」
十数年前の記憶そのままの姿。時を止めたかのように完璧で、一切の老いも衰えも寄せ付けない悪魔を、詩乃は血の気の引いた顔でじっと見つめた。
「ふふ……あの時は、死に物狂いで余裕が無かったから気づかなかったけれど。やっぱり色男ね、貴方」
掠れた、けれどどこか悪戯っぽい声音。腹の傷口から込み上げる激痛を押し殺し、詩乃は四十年の人生の最期に、かつて自分に地獄の道を選ばせた悪魔を品定めするように目を細めた。
悠夜はその言葉を受け、わずかに眉尻を下げてむず痒そうに頬を緩めた。
「そうですか? 貴女のような美しい方にそんな風に言われると、悪魔の僕でも照れてしまいそうですよ」
「あら、皮肉?」
詩乃は乾いた笑い声を漏らし、泥と血にまみれた自分のボロボロのトレンチコートと、荒れ果てた肌、白髪の混じった乱れ髪を顎で指した。
「私はもう、こんなんなのよ? 十年前の美貌なんて見る影もない、ただの薄汚れた指名手配犯。道端で行き倒れた、くたびれた中年女じゃないの」
自嘲を込めて放たれたその非難に対し、悠夜は静かに苦笑した。そして、微塵の迷いもなく、静謐な声音で告げた。
「貴女は美しい。僕がそう感じました。……そして、それが僕にとっての真実です」
その紅い瞳には、一切の虚飾も追従も宿っていなかった。皮膚の艶や輪郭の整いといった造形美などではなく、壮絶な地獄を己の足で踏み越え、燃え尽きようとしている羽柴詩乃という魂の輝きそのものを、悠夜は真っ直ぐに見つめていた。
かつて、美しさに群がる有象無象の視線に吐き気を催していた詩乃だったが、悠夜のその言葉には、不思議と嫌悪感も不快感も湧かなかった。むしろ、冷え切った胸の奥が、じんわりと温められるような心地よさを覚える。
この男だけは、最初から最後まで、自分という人間の「すべて」を見てくれている。その確信があったからだ。
「そっか……そうよね」
詩乃は小さく息を吐き出し、天井のない夜空を見上げた。
「美も醜も、それは個人の感じ方。誰かが勝手に決めるものでも、世界に画一的に定義されるようなものでもないわ。本来は、ね」
詩乃の視線が、再び悠夜の紅い双眸へと戻る。
「ねえ、悠夜」
「はい」
「答えを見つけたわ。……聞いてくれる?」
「拝聴します」
悠夜はそう答えると、躊躇うことなくその場に跪いた。
泥水が跳ね、詩乃の血が流れる湿ったアスファルトの上。仕立ての良い高級なスーツが汚れることなど一切気にも留めず、彼は背筋を伸ばし、端座の姿勢を取った。
瀕死の人間と、超越者たる悪魔。
だが悠夜は、彼女が命の炎を絞り出して手に入れた人生の結論を、決して見下ろすような高みから聞く気は毛頭なかった。一人の契約者として、そして何よりも、この気高き魂に対する最大限の敬意として、彼は詩乃と同じ視線に座したのだ。
詩乃はそんな悠夜の姿を見て満足そうに目を細めると、ゆっくりと、己の生きてきた軌跡をなぞるように語り始めた。
「この世界はね……生きる価値なんて無いと思ってたの。少なくとも、私が三十歳になるまでは、本気でそう信じて疑わなかった」
喉から込み上げる血を微かに嚥下し、詩乃は続ける。
「でも、違ったわ。価値とか、意味とか、そんなものは人間が勝手にラベルを貼って、勝手に決めただけの幻に過ぎなかったのよ。……どん底の不細工として生まれて、世界中から踏みにじられて。悪魔の手を借りて絶世の美女になって、頂点に立って、世界中を欲望と快楽で支配して。そして自らすべてを滅茶苦茶にして、またこのどん底に落ちて……。そうして四十になって、やっと、わかったの」
詩乃の唇が、震えながら弧を描く。
「この世界を、醜くさせていたのは……私自身だったんだって」
悠夜は口を挟まず、ただ静かに彼女の言葉を受け止めている。
「だって、そうでしょう? 莫大な富を持って、誰もが羨む美貌でチヤホヤされていたあの二十代の頃よりも……指名手配されて、誰からも称賛されず、褒められず、毎日安酒を煽って逃げ回っていたこの惨めで哀れな十年間のほうが、ずっと、ずっと楽しめたもの」
詩乃は、この逃亡の十年を振り返った。
誰も彼女を「美しい羽柴詩乃」として崇めない。
誰も彼女に愛を囁かないし、媚びを売ってきたりもしない。
居酒屋の頑固親父に「つまみが不味い」と軽口を叩き、怒鳴られて追い出され、夜の冷たい雨の中を一人で歌いながら歩く。
そこには欺瞞も、計算も、虚飾もなかった。
他人の視線という呪縛から解き放たれ、ただ一人の人間として、己の意志だけで息をしていた。
その孤独で過酷な日々こそが、皮肉にも、彼女の四十年の人生の中で最も心が軽く、安らぎに満ちた時間だったのだ。
「…………」
悠夜は沈黙を守り続けていた。
彼女が吐き出す言葉の一つ一つが、どれほどの苦痛と喪失の果てに結晶化したものかを理解しているからこそ、軽薄な相槌すら打つことができなかった。
「やっと……理解したのよ」
詩乃の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
歪な頬を濡らし、泥だらけの首筋へと伝っていく。
「私の目は、私の魂は……最初から歪みきっていた! どんなに美しい夕焼けを見ても、どんなに優しい言葉をかけられても、その裏にある悪意や浅ましさばかりを嗅ぎ取ってしまう。そんな濁りきった目で、世界の美しさなんて感じ取れるわけがなかったのよ……! 世界が狂っていたんじゃない。世界が私を虐げていたんじゃない……間違っていたのは、最初から私だったんだわ……」
絞り出すような絶叫。
それが、羽柴詩乃という少女が、十七歳で死を選ぼうとし、二十三年の時をかけて世界を巻き込み、最後に辿り着いた「人生の答え」だった。
「詩乃さん……」
悠夜が痛ましげに彼女の名を呼ぶ。
「この世界にはね、きっと本当の愛や、澄み切った善意だってあるのよ。誰かを心から愛して、誰かのために笑えるような……そんな眩しい光が、確かに存在しているはずなの」
詩乃は自嘲するように首を微かに振った。
「でもね……私には、それを得ることはできない。だって……私にとって、この世界はどうしようもなく醜くて、欺瞞と浅ましさに満ちたものにしか見えないんだもの。私は……そういう風にしか生きられない、歪んだ化け物なのよ……」
泣き笑いのような表情で告げる詩乃を見つめながら、悠夜の胸の奥に、悪魔らしからぬ激しい痛みが走った。
悠夜は人が過酷な運命に抗い、困難を乗り越えて魂を輝かせる姿を何よりも愛している。だが、目の前のこの少女は――羽柴詩乃という人間は、あまりにも強すぎた。強靭で、気高すぎたのだ。
悠夜は、抑えきれない己の悔恨と願望を、静かに吐露した。
「……貴女は、弱くあるべきだった」
「え……?」
「弱くあって欲しかったんですよ、詩乃さん」
悠夜の声は、低く、悲痛な響きを帯びていた。
「十七年間、家族からも学校からも否定され続け、血を吐くような努力すら踏みにじられてきた。そんな貴女に、僕はこれ以上の試練を与えるつもりなど毛頭ありませんでした。ましてや、赤い小瓶を飲めば、今生では決して幸せになれないと分かっていた。……だから僕は、あの青い小瓶を勧めたのです」
あの夜の屋上。
青い小瓶を選んでいれば、彼女は苦痛もなく安らかに眠りにつき、悠夜の手によって、温かな愛に満ちた家庭へと来世を約束されていたはずだった。あるいは、赤い小瓶を選んだ後でも、手に入れた美貌に甘え、適当な男を捕まえて、適当に愛された気になって、浅薄な幸福に溺れて生涯を終えることだってできたはずなのだ。
人間とは、本来そういう脆く、妥協する生き物だ。
そうやってどこかで自分を騙し、折り合いをつけて生きるからこそ、人は生きていける。
だが、詩乃はその弱さを、一切受け入れなかった。
詩乃は力なく、しかし毅然として首を横に振った。
「嫌よ」
「詩乃さん……」
「そんなのは……私じゃないわ」
詩乃の瞳の奥に、かつて屋上で燃え盛っていたあの獰猛な炎が、最後の力を振り絞るように瞬いた。
「真実から目を逸らして、嘘の愛にくるまれて手に入れる幸福? 自分を欺いて、腑抜けになって貪る安らぎ? ……そんなもの、私を捨ててまで手に入れる価値なんて十円もありはしないわ。だから、私はあの夜、赤い小瓶を選んだことをこれっぽっちも後悔していない」
たとえその選択が、四十年間の孤独と破滅を決定づけるものであったとしても。
「そしてね、地獄を歩き切ったからこそ、よくわかったのよ。私は、私のままでいる限り、絶対に幸せになんてなれない生き物だってことがね。……この結末は、私が私の意志で選んだ道の帰結よ。誰のせいでもない。恨み言も、不満も、何一つないわ」
「…………そうですか」
悠夜はそれ以上、何も言えなくなった。
悪魔の知恵をもってしても、彼女のこの剥き出しの矜持と覚悟の前には、いかなる言葉も無力だった。己のすべてを引き受け、己の破滅を自ら肯定してみせた人間を前にして、悪魔はただ平伏するしかなかった。
詩乃は、言葉を失った悠夜の様子を、どこか面白そうに眺めていた。
そして、小さく息を吸い込むと、いたずらっぽく微笑んだ。
「ねえ、悪魔さん?」
「……なんでしょうか」
「新しい契約って……できる?」
悠夜はわずかに目を見張ったが、すぐに表情を引き締め、厳粛に頷いた。
「出来ますよ。貴女の望むことなら、何なりと」
詩乃は満足そうに破顔した。血の泡が口元から零れるのも構わず、彼女は告げた。
「代価はね……私の、魂そのものよ」
記憶ではなく、魂。
羽柴詩乃という存在の根幹を司り、輪廻の環において彼女を彼女たらしめている核のすべて。
死後において、永遠に個としての自我を失うことを意味する、究極の対価だった。
「私のすべてを、貴方に差し上げるわ。……でもね、一つだけ、条件があるの」
「条件、ですか」
「ええ」
詩乃は震える手を持ち上げ、悠夜のスーツの袖を、すがるように弱々しく掴んだ。
その瞳から、再び透明な涙が溢れ出す。
「二度と……人間に生まれないようにして」
「…………っ」
「虫でも、石ころでも、家畜でもいい……。貴方の屋敷の庭の土に撒かれても、他の悪魔の食料にされたって構わない。どんな風に扱われても文句は言わないから……。お願いだから、人間として生まれ変わるのだけは、やめて……」
それは、十七年間の地獄を生き、十三年間の虚飾に溺れ、十年間の逃亡を駆け抜けた彼女が、生涯で初めて、心の底から絞り出した純粋な「懇願」だった。
もう、誰かの顔色を窺いたくない。
もう、美醜という呪いに縛られたくない。
もう、愛されないことに絶望し、愛されることに吐き気を催すような、あの苦痛を味わいたくない。
人間に生まれ、心を持ってしまったこと自体が、彼女にとって最大の悲劇だったのだ。
「……お願いよ、悠夜」
すがるような少女の涙。
それを見つめる悠夜の胸に、かつてない激しい感情の奔流が渦巻いた。
悪魔として、幾千、幾万の人間の欲望と絶望を貪ってきた神代悠夜。だが、これほどまでに気高く、これほどまでに痛ましい願いを、彼は見たことがなかった。
この願いを拒絶する選択肢など、彼の中に最初から存在しなかった。
「……わかりました」
悠夜は詩乃の血まみれの手を、両手で優しく包み込んだ。
その冷たい指先から、絶対の誓約の魔力が静かに流れ込む。
「貴女は、僕のモノだ」
悠夜は立ち上がり、夜の帳を背負いながら、悪魔としての威厳と絶対の言霊をもって宣告した。
「羽柴詩乃。願いを言いなさい。汝の魂と引き換えに、僕の力のすべてをもって、あらゆる願いを叶えましょう」
世界の理を歪める、真なる契約の儀式。
己の魂という、全宇宙でたった一つの至宝を差し出し、彼女は何を望むのか。
世界への復讐か、過去の改変か、自らを刺した妹への呪詛か。
だが、詩乃の口から零れ出たのは、あまりにも拍子抜けするような、軽い一言だった。
「……タバコと、火を頂戴」
悠夜は一瞬、きょとんとしたように目を丸くした。
だが、すぐに彼女の真意を悟り、苦笑混じりの深い溜息をついた。
己の魂の価値を、路地裏の安タバコ一本と同等だと笑い飛ばしてみせたのだ。
世界を破滅させ、神仏を呪うことすらできる全霊の対価を、たった一服の紫煙へと換える。
どこまでも、この女は羽柴詩乃という誇りを捨てない。
「……かしこまりました」
悠夜は懐から、上質なしなやかさを持つ紙巻きタバコを一本スッと取り出した。
そして、詩乃の乾いた紫色の唇に、そっと咥えさせる。
悠夜が人差し指を立てると、その指先に小さな、揺らめく蒼い炎が灯った。
詩乃が顔をわずかに寄せると、紙の先端がジュッと音を立てて赤く爆ぜる。
詩乃は深く、息を吸い込んだ。
煙が肺胞を満たし、ニコチンの苦味と香料の匂いが喉を焼く。
「……ふぅ」
紫煙が、夜の冷たい空気の中へとゆっくりと吐き出された。
煙は雨粒に打たれ、螺旋を描きながら、暗い路地裏の空へと溶けていく。
「……久しぶりに吸ったけれど。不味いわね」
詩乃は目を細め、満足そうに口角を上げた。
「……でも、悪くないわ」
視界が急速に狭まっていく。
痛覚が消え、身体の重みが消え、意識の輪郭が心地よい闇の中へと沈んでいく。
タバコを持つ指から力が抜け、灰がアスファルトの上へと零れ落ちた。
最後に、彼女は目の前に佇む、この世で唯一、自分をありのままに見つめてくれた悪魔を見上げた。
「ありがとう……私の……悪魔さん……」
その言葉を最後に、羽柴詩乃の瞼は静かに閉じられた。
二度と、その瞳が世界の光を映すことはなかった。
雨音だけが、静寂の戻った路地裏に絶え間なく降り注いでいた。
悠夜は微動だにせず、息絶えた詩乃の顔を見つめていた。
彼女の胸元に落ちたタバコを拾い上げ、自らの指先でもみ消す。
そして、泥と血に汚れた彼女の亡骸を、壊れ物を扱うかのように優しく両腕の中に抱き上げた。
「……お疲れ様でした、詩乃さん」
悠夜の身体から、濃密な漆黒の霧が立ち上る。
空間がぐにゃりと歪み、雨の降る路地裏から、二人の姿は掻き消えるように消失した。
* * *
魔界――神代悠夜が所有する広大な私有地の一角。
現世の喧騒とは隔絶されたその世界は、常に薄紫色の黄昏のような空に覆われ、静謐な風が吹き抜けていた。
荒涼とした大地が広がる魔界において、悠夜の屋敷を取り囲む庭園は、彼自身の美意識によって完璧に手入れされた、息を呑むほどに美しいオアシスであった。
空間の裂け目から、悠夜が姿を現した。
その腕には、冷たくなった詩乃の遺体が抱かれている。
屋敷の豪奢な扉が開き、中から一人の少女がひょこひょこと小走りで現れた。
艶やかな漆黒の髪を揺らし、どこか幼さを残した愛らしい容姿。だが、その背後に渦巻く圧倒的な魔力と底なしの飢餓感は、彼女が七つの大罪の一角――暴食を司る魔王「グラトニー」であることを明確に示していた。
「あ、悠夜! おかえ……り?」
グラトニーは満面の笑みで駆け寄ろうとしたが、悠夜の纏う異様な気配と、その腕に抱かれた血まみれの遺体を目にした瞬間、ピタリと足を止めた。
普段の飄々として軽薄な態度、あるいは獲物を前に舌なめずりをする美食家としての顔は、今の悠夜のどこにも存在しなかった。
彼の表情は、絶対零度の氷のように冷たく、張り詰めていた。
「ただいま、グラトニー」
悠夜は静かに声をかけたが、その声の低さに、グラトニーは思わず身じろぎした。
「悪いけれど、料理はもう少し後にしてもいいかい?」
「う、うん……悠夜……」
「今から、少し出掛けてくるよ」
「……私も、ついていっていい?」
グラトニーはおずおずと尋ねた。普段なら「お腹減った!」「ご飯まだー?」と我儘を言うはずの魔王が、悠夜のただならぬ気配を察し、素直に空気を読んでいた。
「いいよ」
悠夜は短く頷くと、グラトニーを伴って庭園の奥へと歩き出した。
彼らが向かったのは、悠夜の領地の中で最も見晴らしの良い、小高い丘の頂だった。
そこからは、幻想的な紫の光を放つ魔界の山脈と、静かに波打つ銀色の湖が一望できた。風が渡るたびに、淡く光る青い花々が一斉に擦れ合い、微かな鈴の音のような澄んだ音色を奏でる。
醜悪な争いも、人間の浅ましい欺瞞も一切届かない、世界の果てのような美しい場所だった。
悠夜は丘の頂上に立つと、腕の中の詩乃を、柔らかい草の上にそっと横たえた。
そして、彼は魔力を込めて右手を振るった。
大気が震え、草地が静かに割れて、詩乃の身体をちょうど収めるほどの清らかな土の寝床が穿たれる。
悠夜は屈み込み、自分のスーツのジャケットを脱ぐと、それを詩乃の身体の上に優しく掛け、血の汚れを覆い隠した。
「悠夜……この娘は?」
隣で見守っていたグラトニーが、不思議そうに小声で尋ねた。
「僕の契約者さ」
悠夜は短く答え、彼女の遺体をゆっくりと土の中へと安置した。
土を戻し、平らにならす。
そして悠夜は、湖の底から引き上げたばかりの、水滴を纏った滑らかで大きな白い輝石を一つ、その土の上に静かに置いた。
文字も名前も刻まれていない、ただの無垢な墓標。
悠夜はその石の前に、静かに膝をついた。
そして、両手を胸の前で組み、目を閉じて、深々と頭を垂れた。
「魔界に、墓を作る風習は無いので……こんな事しか出来ませんが、勘弁して下さい」
悪魔が、人間のために墓を掘り、祈りを捧げる。
それは魔界の歴史において、前代未聞の、あり得ない光景だった。
悪魔にとって人間とは、欲望を煽り、絶望を搾り取り、その魂を消費するための家畜か遊具に過ぎない。墓を作って弔うなど、悪魔としての尊厳を自らドブに捨てるような愚行であった。
だが、悠夜はどうしても、これをやりたかった。
生まれてから死ぬまで、誰からも愛されず、利用され、最後は世界中から怨嗟の声を浴びて路地裏で孤独に息絶えた彼女のために。
せめてこの世界の終わりにおいて、彼女の生きた証を、誰にも侵されない安らぎの場所に留めておきたかったのだ。
グラトニーは目を丸くしてその光景を見つめていたが、口を挟むことはしなかった。
悠夜の背中に漂う悲哀と、その奥底で静かに凝縮されていく「何か」の気配に、本能的な恐怖を覚えていたからだ。
「…………」
悠夜の祈りが、終わった。
彼がゆっくりと目を開けた、その時だった。
「――そして」
悠夜の口から、低く、地を這うような唸り声が漏れた。
ゴォッ……!
突如として、丘の周囲の大気が激しく軋みを上げた。
空が暗転し、重力が狂ったように地面が振動を始める。
悠夜の黒髪が、根元から毛先へと向かって、雪のように純白へと染まり変わっていった。
漆黒のスーツの背中を突き破り、闇そのもので形成された、三対六枚の巨大な漆黒の翼がバサリと展開する。
額の両脇からは、天を突くように鋭利で禍々しい黒曜石の角が伸び、白磁の肌には、燃え盛るマグマのような深紅の呪印紋様が、全身を這うように浮かび上がっていった。
そして――伏せられていた双眸が、カッと見開かれた。
紅かった瞳は、太陽の核のように眩く、神々しく、そして見る者を灰燼に帰すような絶対的な「黄金」の輝きを放っていた。
悪魔・神代悠夜の、真なる姿。
偽りの人間の器を脱ぎ捨て、太古の神話より語り継がれる原初の破壊者としての本性が、完全に顕現したのだ。
「ひっ……!」
魔王であるはずのグラトニーが、思わず後ずさりし、小さな悲鳴を上げた。
かつて魔界の秩序が崩壊しかけた時、暴走し、見境なくすべてを喰らい尽くそうとして暴れ狂っていた自分を、ただの一撃で叩き伏せ、絶対的な力で屈服させた時の――あの恐ろしい悠夜の姿だった。
悠夜は墓標を見下ろしたまま、怒りに染まりきった、世界の底を揺るがすような重低音で宣言した。
「貴女の魂と、僕のすべてに懸けて誓います」
詩乃の人生は、歪んでいた。
常軌を逸した醜悪な容姿、完璧な才能を持ちながらもすべてを否定される環境、そして家族からの徹底的な迫害。
それは、決して単なる「遺伝のいたずら」や「不運」などという言葉で片付けられるものではなかったのだ。
悠夜は知っていた。
詩乃の人生の糸を背後から手繰り、彼女の苦痛と足掻きを高みから覗き込み、極上の娯楽としてせせら笑っていた「黒幕」が存在することを。
高潔な魂を持つ人間を選び出し、生まれながらに逃れられぬ呪いと不条理を与え、どれほど努力しても報われない地獄へと突き落とす。そして、その人間が絶望し、足掻き、苦悶の果てに自ら破滅していく様を、ワインの肴にして楽しむ悪趣味極まりない存在。
そいつこそが、羽柴詩乃の魂を嬲り、陵辱し、そして悠夜に対しても、消えることのない屈辱を味わわせた元凶であった。
悠夜は、その事実をずっと知っていたのだ。
だが、彼はその真実だけは、最期まで詩乃に明かさなかった。
もし彼女にそれを告げてしまえばどうなるか。
「お前の苦しみは、努力が足りなかったからでも、人間の浅ましさのせいでもなく、ただ一人の悪魔の気まぐれな悪戯だったのだ」と伝えてしまえば――彼女が命を削って積み上げてきた努力も、あの壮絶な四十年の葛藤も、すべてが「無意味な道化の踊り」へと成り下がってしまう。
それだけは、絶対に許せなかった。
これ以上、彼女の魂を傷つけ、尊厳を粉々にするわけにはいかなかった。
己の契約者に対して、真実を隠す。
それは、「契約のすべてを白日の下に晒し、納得させた上で代価を得る」という、神代悠夜自身の絶対的な信義と美学を、自らの手で踏みにじる行いであった。
己の誇りを汚してまでも、彼は詩乃の矜持を守り抜いたのだ。
だが――その代償として、悠夜の胸の内には、全宇宙を焼き尽くしても足りないほどの漆黒の憤怒が残された。
黄金の瞳から、凄まじい殺意の波動が立ち上る。
「貴女の運命を弄んだ“悪魔”を……地獄すら生温い奈落に、叩き墜とす事を!!」
咆哮と共に、六枚の翼が大きく羽ばたいた。
風圧だけで丘の木々がなぎ倒され、魔界の紫の空に巨大な雷鳴が轟く。
悠夜は、墓標に向かって最後の一礼を捧げた。
その白い横顔には、もはや慈愛の気配は欠片も残っていなかった。
あるのはただ、因果を狂わせた外道を八つ裂きにし、魂の欠片すら残さず磨り潰すための、絶対的な処刑人の意志だけだった。
話はずっと前から考えていたのですが、結末をずっと考えていました。
結論として、彼女は絶対に幸せになれません、どうあがいたって歪みきっています。
変われる強さも弱さも持っていません。