午前0時を回った地下鉄のホーム。
蛍光灯の寒々しい明かりが、死人のような顔をしたサラリーマンたちを照らし出していた。
その中の一人、佐藤啓太(さとう けいた)は、鉛のように重い足を引きずって歩いていた。
入社三年目。二十五歳。
かつては希望に燃えていた瞳は、今や深く窪み、絶望の澱みだけで満たされている。
彼が入社した「株式会社グローリー・アーク」は、表向きは急成長中のIT企業だった。だがその実態は、社員を使い捨ての駒としか思わない、地獄のようなブラック企業だった。
月の残業時間は二百時間を超え、休日は半年以上ない。
上司からの罵倒は日常茶飯事。人格否定、暴力、そして過大なノルマ。
同期は次々と消えた。ある者は精神を病んで退職し、ある者は過労で倒れ、そしてある者は――会社の屋上から空を飛んだ。
(……明日も、仕事か)
ふと、啓太の脳裏に明日の予定が浮かぶ。
早朝からの会議、終わらないプログラミング、社長からの理不尽な叱責。
それを考えた瞬間、啓太の中で何かがプツリと切れた。
(もう、いいかな)
思考よりも先に体が動いた。
ホームのアナウンスが電車の接近を告げる。
黄色い線の内側へ。いや、もっと向こう側へ。
あそこに行けば、もう怒鳴られなくて済む。もう眠ることができる。
ゴォォォォォ……。
風圧と共に、列車のヘッドライトが迫る。
啓太は吸い込まれるように、線路へと身を投げ出し――。
ガシッ。
体が宙に浮く浮遊感の代わりに、右肩に強烈な衝撃が走った。
誰かに、後ろから強く引き戻されたのだ。
「――っと。危ない」
啓太は尻餅をついた。
目の前を、猛スピードで電車が通過していく。轟音と風が啓太の髪を乱した。
呆然とする啓太の頭上から、涼やかな声が降ってきた。
「他の人に迷惑ですよ」
見上げると、そこには場違いなほど高級なスーツを着こなした男が立っていた。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、吸い込まれそうな黒い瞳。
この世の者とは思えないほどの美貌を持つ青年だ。
「じ、さつ……するつもり、だったのに……」
啓太が震える声で漏らすと、青年――悠夜は、眉をひそめて首を横に振った。
「ええ、わかっています。ですが、ここでの人身事故は多くの人の帰宅時間を奪います。鉄道会社にも多額の損害が出る。自殺するにしても、なるべく他人に迷惑をかけないようにするのがマナーというものでしょう?」
あまりに冷静で、あまりに冷酷な正論。
しかし、その瞳の奥には奇妙な色が宿っていた。
悠夜はしゃがみこみ、啓太の顔を覗き込んだ。
「……ふむ。死相が出ていると思えば、随分と酷い疲れ方だ。魂が擦り切れて、ボロ雑巾のようになっている」
悠夜はふっと表情を和らげ、手を差し伸べた。
「少し、お話しましょうか。良ければ私と食事でも」
「え……?」
「奢りますよ。今の貴方には、温かい食事と、話を聞いてくれる相手が必要だ」
普段の啓太なら断っていただろう。
だが、この時の彼は正常な判断力を失っていたし、何より、この青年の手を取らなければならないという不思議な引力を感じていた。
駅近くにある、深夜営業の高級レストラン。
個室に通された啓太は、悠夜に促されるまま、堰を切ったように語り始めた。
会社の異常な体質。
社長の横暴。
辞めようとした同僚が、借金を背負わされたり、不可解な事故に遭って再就職を絶たれたりしたこと。
自分もまた、「辞めたら実家に火をつけるぞ」と脅されていること。
話しているうちに涙が溢れ、言葉は支離滅裂になった。
鼻水を垂らし、子供のように泣きじゃくる啓太を、悠夜は一度も遮ることなく見つめていた。
「……そうでしたか。それは、辛かったですね」
全てを吐き出し、脱力した啓太に、悠夜はシルクのハンカチを差し出した。
「貴方の心中、お察しします。……理不尽な暴力と悪意によって、貴方の人生は食い荒らされた」
啓太は涙を拭い、ハッとした。
初対面の、名前も知らない相手に全てを話してしまった。
だが、不思議と後悔はなかった。胸のつかえが取れたような、奇妙な安堵感があった。
「あの、聞いてくれてありがとうございます。でも、どうして俺なんかに……」
啓太が問うと、悠夜はグラスを傾け、妖艶な笑みを浮かべた。
「貴方は私に、全てを打ち明けてくれました。なら私も、素性を打ち明けるのが筋というものでしょう」
悠夜の瞳が、カッと紅く輝いた。
室内の空気が一変する。重力が狂い、影が濃くなり、背筋が凍るような威圧感が啓太を包み込んだ
。
「啓太さん。私は――『悪魔』です」
「あ、くま……?」
悪い冗談だとは思えなかった。本能が、目の前の存在が人知を超えた何かだと告げていた。
「これも何かの御縁。私と契約しませんか?」
悠夜はテーブルの上で指を組み、提案した。
「貴方を苦しめる会社を辞め、穏やかな生活を取り戻す。それだけでなく、貴方の人生を狂わせた社長と幹部たちに、相応の報いを与える……そんな復讐プランをご用意できます」
「復讐……」
その言葉の甘美な響きに、啓太の心が揺れた。
「対価は、貴方が天寿を全うし、死を迎えた後の『人生の記憶』です。魂そのものは頂きません。貴方がこれから歩む、再生の物語を私にくださればいい」
啓太は自分の手を見つめた。
震えは止まっていた。
先程、自分は一度死のうとした。あの線路に飛び込んだ時点で、佐藤啓太という人間は死んだも同然だ。
なら、この拾った命、悪魔に預けても惜しくはない。
「……お願いします。あいつらを、許せない。僕の人生を返してほしい」
「契約成立です」
悠夜はニッコリと微笑み、啓太の手を握った。
氷のように冷たい手が、熱い誓いの印を刻み込んだ。
翌日から、啓太の行動は変わった。
悠夜のサポートを受け、彼は会社内部の不正の証拠を徹底的に集め始めた。
未払い残業の記録、裏帳簿のデータ、パワハラの録音、違法な取引のメール。
悠夜の魔力によるハッキングと、啓太の執念が組み合わさり、集められた証拠は極めて綿密で、言い逃れのできない決定的なものとなっていった。
当然、会社の側も黙ってはいない。
啓太の不穏な動きを察知した社長は、即座に手を打った。
ある夜、啓太が帰宅しようと路地裏を歩いていると、数台の黒塗りの車が道を塞いだ。
降りてきたのは、強面の男たち。会社が裏で繋がっている暴力団の構成員だ。
「おい、佐藤ォ。社長が随分と心配してたぞ? 最近、余計なことをして回ってるそうじゃねえか」
リーダー格の男が、鉄パイプを掌で叩きながら近づいてくる。
啓太は足がすくんだ。トラウマが蘇り、呼吸が浅くなる。
「へっ、ビビってやがる。おい、教育してやれ。二度と会社に逆らえないようにな」
男たちが一斉に襲いかかろうとした、その時だった。
「おや。奇遇ですね」
頭上から声がした。
街灯の上に、悠夜が優雅に腰掛けていた。
「誰だテメェ!」
「私もね、弱い者イジメが大好きなのですよ」
トン、と悠夜が地面に降り立つ。
その動作は羽毛のように軽やかだったが、着地した瞬間に放たれた殺気は、歴戦のヤクザたちを一瞬で硬直させた。
「ああ、自分は強いと思い上がった奴の悲鳴が心地良い。骨が砕けて、内臓が潰れる感触がたまらない」
悠夜は恍惚とした表情で呟き、ゆっくりと男たちに歩み寄る。
「な、なんだコイツ……! やっちまえ!」
リーダーの号令で、男の一人がドスを抜いて突き出した。
だが、次の瞬間。
バキィッ!!
男の腕が、ありえない方向に曲がっていた。
悠夜が指一本で弾いたのだ。
「ギャアアアアアッ!?」
「ふふふ、貴方達の暴力なんて、おままごとのようなもの」
悠夜の姿がブレた。
次の瞬間には、三人同時に吹き飛ばされ、コンクリートの壁にめり込んだ。
「本当の暴力を、丁寧に、優しく教えてあげましょう」
そこからは、一方的な蹂躙だった。
悠夜は魔法を使わなかった。純粋な身体能力と暴力だけで、プロの喧嘩屋たちを赤子のように捻り潰した。
鉄パイプは飴細工のように曲げられ、ナイフは指で粉砕された。
数分後。
路地裏には、うめき声すら上げられない肉塊の山が築かれていた。
「ひ、ひぃぃ……バケモノ……」
唯一意識を保っていたリーダーが、涙と鼻水まみれで後ずさる。
「子の責任は親にもありますね。……この程度の躾しかできないとは、上の教育がなっていない」
悠夜は冷酷に言い放つと、男の胸倉を掴み上げた。
「暴力のフルコースをご馳走しなくては。案内しなさい、貴方達の事務所へ」
その夜、一つの暴力団組織が壊滅した。
死者はゼロ。だが、構成員全員が全身複雑骨折と精神崩壊を起こし、自ら警察署へ這っていき、「刑務所に入れてくれ」「ここより安全な場所へ」と懇願する椿事は、裏社会を震撼させた。
『二度と娑婆に出ないでください。次は暴力なんて温い真似はしませんよ? 』
悠夜のその言葉は、彼らにとって死刑宣告よりも重い呪いとなった。
物理的な脅威が排除された今、啓太を止めるものは何もなかった。
「さて、啓太さん。ここからは貴方のショーです」
「はい……!」
「貴方の手で会社を潰しなさい。復讐を果たすのです」
啓太は集めた証拠を、最も効果的なタイミングと順序で世間に公表していった。
まずは労働基準監督署への内部告発。
次にマスコミへのリーク。
そしてSNSでの拡散。
IT企業らしく、ネットを駆使した拡散は爆発的な勢いで広まった。
「社員を自殺に追い込む殺人企業」「裏社会との癒着」といったセンセーショナルな見出しがニュースサイトを埋め尽くす。
社長は当初、金と権力で揉み消そうとした。
懇意にしている政治家や、株主である大企業の役員に助けを求めたのだ。
だが、電話はどこにも繋がらなかった。
「さて、手足をもぎましょうか」
悠夜が裏で動いていたのだ。
社長に協力していた政治家には、彼自身の汚職の証拠を送りつけた。
出資者には、グローリー・アークの粉飾決算の証拠を突きつけ、資金を引き上げさせた。
「これで守るものはいなくなった。さあ、じっくりと料理しましょう」
社長は孤立無援となった。
会社の株価は大暴落。銀行は融資を打ち切り、取引先は一斉に手を引いた。
さらに、社長個人のプライベートな悪行――愛人契約、脱税、違法薬物の使用疑惑――までもが次々と暴かれ、社会的信用は完全に失墜した。
栄華を誇った本社ビルは差し押さえられ、社員たちは我先にと逃げ出した。
最後に残ったのは、莫大な負債と、世間からの激しいバッシングだけだった。
それから三ヶ月後。
都内の寂れたボロアパートの一室。
電気も止められた薄暗い部屋で、一人の男が毛布にくるまって震えていた。
かつてのグローリー・アーク社長、権藤(ごんどう)だ。
高級スーツは薄汚れ、髪は伸び放題。傲慢だった瞳は怯えに揺れ、物音にビクビクと反応する廃人寸前の姿だった。
ギィィ……。
錆びついたドアが開き、二つの人影が入ってきた。
「ひっ!? だ、誰だ! 借金取りか! もう金はないぞ!」
権藤が悲鳴を上げる。
入ってきたのは、パリッとしたスーツを着た啓太と、その背後に控える悠夜だった。
「……お久しぶりです、社長」
「さ、佐藤……? 佐藤啓太か!?」
権藤は目を見開いた。かつてゴミのように扱っていた部下が、今は自分を見下ろしている。
「佐藤くん! 助けてくれ! 話を聞いてくれ!」
権藤はプライドを捨て、床を這って啓太の足にしがみついた。
「君は優秀だった! 私が一番期待していたんだ! だから厳しく指導したんだ、愛の鞭だよ! わかるだろう!?」
「……」
「頼む、この借金をなんとかしてくれ! 君ならできるだろう! また一緒に会社をやろう! 今度は君を副社長にする!」
見苦しい命乞い。
自分のしたことを棚に上げ、なおも啓太を利用しようとする浅ましさ。
悠夜が一歩前に出た。手には分厚い書類の束がある。
「権藤さん。貴方の抱える負債を全て買い取らせていただきました」
「な、なに……?」
「つまり、今の貴方の生殺与奪の権を握っているのは、最大の債権者となった啓太さんです」
悠夜は冷ややかに告げた。
「どうなるかは……啓太さん次第ですね」
権藤は顔面蒼白になり、さらに激しく啓太に媚び始めた。
「佐藤様! 啓太様! お願いします、許してください! 私が悪かった、土下座でも靴舐めでも何でもする! だから借金をチャラにしてくれ!」
啓太は、足元で泣き叫ぶかつての支配者を静かに見下ろした。
怒りが湧くかと思った。
殴り倒したい衝動に駆られるかと思った。
だが、胸に去来したのは、底冷えするような静かな感情だけだった。
「……社長。貴方の思いは、伝わりました」
啓太が口を開くと、権藤はパッと顔を上げた。
「ほ、本当か!?」
「ええ。許しますよ」
権藤の顔に歓喜の色が広がる。
チョロい奴だ、やはり俺には人徳がある、そんな下卑た思考が透けて見えた。
「ありがとう! やっぱり君は素晴らしい部下だ!」
「――俺にした仕打ちだけは、ですけどね」
啓太の声の温度が、氷点下まで下がった。
権藤の笑顔が凍りつく。
「俺個人へのパワハラや暴力は、百歩譲って許しましょう。貴方のその惨めな姿を見れば、もう怒る気にもなれませんから」
啓太は権藤の手を振り払い、冷徹な眼差しで射抜いた。
「ですが、貴方のせいで傷つき、心を壊され、死に追いやられた同僚たちの無念は……絶対に許すことはできない。俺にその資格はない」
「さ、佐藤……?」
「地獄に落ちろ」
啓太は短く告げると、手に持っていた権利譲渡の書類を悠夜に手渡した。
「悠夜さん、お願いします」
「はい。承りました」
悠夜は書類を受け取り、ニッコリと微笑んだ。それは、聖母のように優しく、死神のように残酷な笑みだった。
「では、私のやり方で返していただくことにしましょう」
悠夜が指を鳴らすと、権藤の体が宙に浮いた。
「ひぃぃぃッ!? な、何だこれは! 助けてくれ佐藤ォ!!」
「無駄ですよ。貴方の所有権は、今この瞬間、私に移りました」
悠夜は権藤の目の前に顔を近づけ、囁いた。
「安心して下さい、権藤さん。私は貴方とは違います。人材は大切にしますよ?」
紅い瞳が、暗闇の中で妖しく光る。
「ええ、絶対に死なせません。貴方が犯した罪の重さ、壊した人生の数だけ……時間をかけて、たっぷりと、骨の髄まで搾り取らせていただきます。死ぬことすら許されない労働環境(じごく)へようこそ」
「いやだぁぁぁぁぁッ!!」
権藤の悲鳴がアパートに響き渡るが、誰の耳にも届かない。
次の瞬間、空間が歪み、悠夜と権藤の姿は掻き消えるように消滅した。
数日後。
晴れ渡った青空の下、公園のベンチに座る啓太の姿があった。
憑き物が落ちたような、穏やかな表情をしている。
「……終わったんだな」
会社は倒産し、関係者は法と社会の裁きを受け、元凶である社長はこの世から消えた。
復讐は、完璧に成し遂げられた。
「お待たせしました」
隣に、悠夜が座った。手には缶コーヒーが二つ。
一つを啓太に手渡す。
「あの社長、どうなったんですか?」
「ふふ、元気(・・)にしていますよ」
悠夜は楽しげに語る。それは想像を絶する地獄だろうが、啓太は同情しなかった。
「さて、啓太さん。これで契約の第一段階は完了です」
悠夜は懐から一通の封筒を取り出した。
「新しい就職先の紹介状です。多少私の息がかかっていますが、今度は真っ当なホワイト企業ですよ。残業代は出るし、有給も取れる。上司も理知的です」
「……何から何まで、ありがとうございます」
啓太は封筒を受け取った。その厚みが、新しい人生の重みのように感じられた。
「礼には及びません。これは先行投資ですから」
悠夜は立ち上がり、背を向けた。
「貴方がこれから歩む人生、それが幸福であればあるほど、最後に私が頂く『記憶』は美味しくなる。だから、精一杯生きて、幸せになりなさい。それが、私への最大の支払いになります」
「はい。……必ず、美味しい記憶にしますよ」
啓太が力強く答えると、悠夜は満足げに頷いた。
「期待していますよ。では、良き人生を」
一陣の風が吹き抜け、啓太が瞬きをした瞬間、悠夜の姿はどこにもなかった。
ただ、ベンチの上に「連絡先」と書かれたメモだけが残されていた。
『何かあればいつでも呼びなさい。ただし、次は有料ですよ』という走り書きと共に。
啓太は空を見上げた。
どんよりと曇っていた空は、いつの間にか澄み渡り、眩しい太陽が輝いていた。
(さあ、行こう)
啓太はスーツの埃を払い、新しい一歩を踏み出した。
その足取りは、もう重くはなかった。
悠夜(あーなんかいいの無いかなー...あの人死にそう、ご馳走のチャンス!)
食材を探してたらSSRを見つけました。
沙世子さんと啓太さんの世界は別々のものと捉えて下さい。
並行世界みたいなもんです。