都心のオフィス街を見下ろす高層ビルの一室。
大手ITソリューション企業「ネクスト・イノベーション」の企画部長席で、佐藤啓太は部下からの報告書に目を通していた。
「佐藤部長、先日のプロジェクトの件ですが、クライアントから感謝のメールが届いています」
「本当か。それはチームのみんなが頑張ってくれたおかげだな。後で全員に共有しておいてくれ」
「はい! ありがとうございます!」
部下の女性社員が嬉しそうに敬礼して去っていく。
啓太は三十五歳になっていた。
かつて死んだ魚のような目をしていた青年の面影はない。背筋は伸び、瞳には知性と自信が宿り、顔色は健康そのものだ。
仕事は激務だが、かつてのような理不尽な強制労働ではない。自分の裁量で働き、成果が正当に評価される環境だ。
何より、彼は部下を守ることを第一に考えていた。「絶対に一人にさせない」「無理はさせない」という彼の方針は、社内で厚い信頼を集めていた。
(……ふぅ。一段落したな)
啓太がコーヒーブレイクを取ろうとスマートフォンを手に取った時、着信音が鳴った。
画面に表示された差出人名を見て、啓太の手が止まる。
アドレス帳には登録されていない。だが、その名前を忘れるはずがなかった。
『ご無沙汰しております。今度の休日、少しお会いできませんか?』
差出人:神代 悠夜
十年ぶりの連絡だった。
啓太の口元に、自然と笑みがこぼれた。
「……喜んで」
啓太は短く返信を打った。
約束の日曜日は、雲ひとつない快晴だった。
啓太は仕事を早めに切り上げ(休日出勤していたわけではない、と自分に言い聞かせながら)、待ち合わせ場所へと向かった。
そこは、ある地下鉄の駅のホーム。
かつて彼が、人生を終わらせようとした場所だった。
ホームの端、停止位置目標の近くに立つ。
十年前のあの夜、ここから見える景色は絶望色に染まっていた。線路の砂利の一つ一つが、自分を嘲笑っているように見えたものだ。
だが今は違う。
行き交う電車も、駅のアナウンスも、ただの日常の一部としてそこにある。
(ここが、俺の運命が切り替わった場所なんだな……)
啓太は感慨深げに線路を見つめた。
恐怖はない。あるのは、あの日自分を救い上げてくれた手への感謝だけだ。
彼は忙しい日々の合間を縫って、時折ここに来ていた。初心を忘れないために。そして、今の自分が生きていることを実感するために。
ゴォォォォォ……。
遠くから電車の接近音が響く。
風が吹き抜け、啓太のコートを揺らす。
その瞬間だった。
トン、と。
右肩に、温かい手が置かれた。
かつてのように引き止める強い力ではない。
友人の肩を叩くような、優しく、洗練されたタッチ。
「お久しぶりですね、啓太さん」
耳元で囁かれた懐かしい声に、啓太はゆっくりと振り返った。
そこには、十年前と一日たりとも変わらぬ姿で、悪魔・悠夜が立っていた。
漆黒の髪、吸い込まれるような黒い瞳、そして完璧に着こなしたオーダーメイドのスーツ。
周囲の喧騒が彼を避けるように、そこだけ静寂な空気が流れている。
「はい……お久しぶりです、悠夜さん」
啓太が深く頭を下げると、悠夜は目を細めて微笑んだ。
「随分と良い顔つきになられましたね。死相が出ていた頃が嘘のようだ」
「おかげさまで。貴方に拾っていただいた命、大切に使わせていただいています」
二人は再会を喜び合い、並んで歩き出した。
向かった先は、駅近くにある高級イタリアンレストラン。
あの日、絶望の淵にいた啓太を悠夜が連れて行き、契約を交わした運命の店だ。
個室に通された二人は、極上のワインで乾杯した。
啓太は積もる話を語った。
新しい会社での奮闘、信頼できる仲間との出会い、そしてかつての自分のような若手を救ったエピソード。
悠夜はそれを、まるで自慢の息子の話を聞く父親のように、あるいは極上の物語を味わう美食家のように、満足げに聞いていた。
「素晴らしい。順調に人生というキャンバスを彩っているようですね」
「はい。今は毎日が充実しています」
啓太が照れくさそうに笑うと、悠夜は不意に尋ねた。
「ところで、結婚は? もう身を固めても良い頃合いでしょう」
「え……あ、いや、それは……」
啓太は言葉を濁し、頭をかいた。
「実は、まだ独身なんです」
「おや? モテそうなものですが」
「いやぁ……仕事が楽しくて夢中になっていたら、気づけば十年経っていまして。恋愛とか結婚とか、二の次になっていたというか」
啓太は苦笑いした。
根が真面目な彼は、ホワイト企業に移ってからも「恩返しをしたい」「もっと貢献したい」という思いが強く、ワーカーホリック気味になっていたのだ。
悠夜は呆れたように溜息をつき、ワイングラスを揺らした。
「困りますねぇ、啓太さん。契約を守っていただかないと」
「え?」
「私は貴方から『人生の記憶』を頂く契約をしたはずです。仕事一辺倒の単調な記憶では、味が淡白すぎて飽きてしまいますよ? もっとこう、愛とか恋とか、家族の絆とか、複雑なスパイスを効かせてもらわないと」
「うっ……すみません」
「もっと人生を謳歌してください。貴方が幸せになればなるほど、私のデザートは美味しくなるのですから」
悪魔からのダメ出しに、啓太は恐縮して身を縮めた。
だが、すぐに思い出したように顔を上げた。
「あ、でも! 実は、近いうちに結婚することになりそうなんです」
「ほう?」
「今の会社の社長が、僕がいつまでも独身なのを心配してくれまして……。『お前のような優秀な男が独り身なのはマズイ、日本の損失だ』って、ご親戚の娘さんを紹介してくださったんです」
「なるほど。お見合いですか」
「はい。先日お会いしたんですが、とても素敵な方で……その、とんとん拍子に話が進んで」
啓太は頬を染めた。
それを聞いて、悠夜はようやく満足そうに頷いた。
「それは重畳。社長様の慧眼(けいがん)に感謝ですね。……仕事だけでなく、家庭という新たな舞台で、貴方の魂がどう輝くか。楽しみにしていますよ」
「はい! 色んな所へ行って、色んな経験をして……絶対に、美味しい記憶にしてみせます」
二人はその後も談笑し、食事を楽しんだ。
メインディッシュの子羊のローストを食べ終える頃には、日はすっかり落ちていた。
「では、私はそろそろ」
「ありがとうございました、悠夜さん。また、会えますか?」
「ええ。貴方の人生の節目に、また」
悠夜は会計を済ませ(「私の奢りです」と頑として譲らなかった)、夜の街へと消えていった。
その背中を見送りながら、啓太は改めて心に誓った。
この幸せな人生を、最期まで全力で生き抜こうと。
啓太と別れた後、悠夜は路地裏の闇に溶け込み、転移魔法を発動させた。
景色が一瞬で歪み、次の瞬間、彼は全く別の場所に立っていた。
そこは、魔界。
紫色の月が妖しく輝き、空には巨大な飛竜が舞う異界の地。
その一等地に、広大な敷地を持つ牧場があった。
『悠夜牧場』。
表向きは魔界の貴族たちに最高級の魔獣肉を提供する牧場だが、その実態はもっと恐ろしい。
「お帰りなさいませ、悠夜様!」
牧場の門番をしている下級悪魔たちが、直立不動で出迎える。
悠夜は軽く手を挙げて応え、牧場の奥にある、特に厳重な結界で守られた一室へと向かった。
『第五飼育棟』。
通称、養豚場。
重い鉄扉を開けると、ムッとするような熱気と、獣の臭い、そして微かな腐臭が漂ってきた。
中は薄暗く、無数の檻が並んでいる。
それぞれの檻の中には、丸々と太った豚が詰め込まれていた。
だが、それらはただの豚ではない。
体はピンク色の醜い豚そのものだが、首から上は――人間の顔がそのまま付いていた。
人面豚。
数多の世界で悪逆非道の限りを尽くした外道たちが、悠夜によってこの姿に変えられ、飼育されているのだ。
「ブヒィィィ……! ブゴォォ……!」
「殺してくれぇ……もう嫌だぁ……」
豚の鳴き声に混じって、人間の言葉による悲痛な呻き声が響き渡る。
悠夜は表情一つ変えず、ある一つの柵の前で足を止めた。
そこには、一際大きく、醜く太った豚がうずくまっていた。
顔を見ればわかる。
かつて啓太を追い詰め、地獄のようなブラック企業「グローリー・アーク」を支配していた社長、権藤だ。
その横には、腰巾着だった幹部たちの顔をした豚も寄り添っている。
「やあ、権藤さん。お元気そうで何よりです」
悠夜が声をかけると、権藤豚はビクゥッと震え、顔を上げた。
その目は恐怖で見開かれ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「ゆ、悠夜さま……! お許しを……もう十分でしょう……!?」
権藤豚が人間の言葉で命乞いをする。
悠夜は優しく微笑み、柵越しにその頭を撫でた。
「悠夜様! 今日も餌が沢山採れました!」
そこへ、飼育係の下級悪魔たちが、台車を押してやってきた。
台車の上には、ドス黒いヘドロのようなものが山盛りに積まれている。強烈な瘴気を放つそれは、見るだけで気が滅入りそうな代物だ。
「いつもありがとう。ご苦労さまですね」
悠夜は下僕たちを労い、餌を検分した。
「ふむ……今日も大漁ですね。人間界は相変わらずストレス社会だ」
この餌の正体は、『現代社会の苦しみ』である。
ブラック企業で働く人々の絶望、パワハラによるストレス、過労による肉体的苦痛、将来への不安。
悠夜は魔術的なネットワークを通じ、現世で苦しむ人々からそれらの「負の感情」を吸い上げ、ここに転送しているのだ。
これによって、現世の人々の精神的負荷は僅かながら軽減される。
自殺を踏みとどまれたり、鬱病の回復が早まったり、会社を辞める勇気が湧いたりする。
つまり、この汚物処理するのが、この人面豚たちの役割だった。
「さあ、食事の時間ですよ」
下級悪魔たちが、スコップでヘドロを檻の中に放り込む。
「いやだぁぁぁ!! 苦しいぃぃぃ!!」
「喰え! 残さず喰え!」
権藤豚たちは、泣き叫びながらも無理やり餌を口に押し込まれる。
食べた瞬間、餌に込められた「他人の苦しみ」がダイレクトに脳に流れ込む。
終わらない残業の辛さ、怒鳴られる恐怖、責任の重圧。
かつて自分が他人に強いてきた苦しみの数万倍の濃度となって、彼らの精神を苛むのだ。
「ブギィィィィィッ!!!」
権藤豚が激痛にのたうち回る。
悠夜はその様を冷ややかに見下ろした。
「人間は本当に凄い。これほどの苦行を、毎日こなしているのですからねぇ」
「ご、ぼッ……うぐぅ……」
「そうそう、朗報ですよ。啓太さんは今や立派な人物になって、多くの後輩を引っ張っているそうです。貴方が使い捨てようとした人材は、正しく磨けば宝石だった」
悠夜は意地悪く告げる。
「そして貴方達の今の仕事も、間接的に多くの人の助けになっています。貴方達がこのヘドロを喰らうことで、現世で誰かが救われているのです。誇ってください。やっと社会の役に立ちましたね」
「そ、そんな……」
「さて」
悠夜は権藤豚の背中を、品定めするように撫で回した。
その目は、完全に「食料」を見る目だった。
「たっぷりストレスを食べて、良い脂が乗ってきましたね。今度はどう料理しましょうか?」
「ひぃッ!?」
「しゃぶしゃぶにしましょうか。薄くスライスして、お湯にくぐらせれば余分な脂が落ちてヘルシーだ。それとも生姜焼きも捨てがたい」
「い、いやだ……痛いのは嫌だ……死にたくない……」
「いや、豪快にポークステーキも食べたいですねぇ。厚切りにして、表面をカリッと焼いて……」
悠夜の言葉に、権藤豚は失禁した。
この牧場での最大の恐怖は、ただ飼育されるだけではないことだ。
定期的に「出荷」され、解体され、食べられるのだ。
「大丈夫ですよ。いくら肉を取られても死にませんから」
悠夜はニッコリと笑った。
「北欧神話には『セーフリムニル』という猪がいましてね。殺して食べても、翌朝には骨から肉が再生し、生き返るのです。……貴方達も、同じ仕様に魂を改造してあります」
「う、あああ……」
「他人を喰い物にして私腹を肥やしてきた連中が、今度は永遠に喰い物にされる。……どうです? 実に美しい、芸術的な構図でしょう?」
永遠の苦痛。死という逃げ場すら奪われた、無限の地獄。
権藤豚の目から光が消えた。
「ああ、給料(・・)はしっかりと払っていますよ?」
悠夜は補足した。
「貴方達の肉の売上は、全額、貴方達が過去に苦しめてきた被害者たちへの補償や、慈善団体への寄付に使っています。素晴らしい社会貢献だ!」
「いつまで……いつまで続くんだ……」
「ご安心を。流石に永遠に働き続けろとは言いません」
悠夜は指を立てた。
「啓太さんが天寿を全うし、老衰で亡くなった時。それを貴方の『定年退職』としましょう」
「け、啓太が死ぬまで……あと何十年あると思ってるんだ!?」
「甘えるな」
悠夜の声が、氷点下まで冷え込んだ。
その威圧感に、権藤豚は言葉を失う。
「根性で頑張れ。気合で乗り越えろ。這ってでも働け。愛社精神を見せろ」
「あ……あぁ……」
「これらは全て、貴方が社員たちに浴びせてきた言葉でしょう? 自分が言われる側になったら文句を言うのですか?」
ブーメランのように返ってきた自分の言葉が、権藤の心を完全にへし折った。
「さて!」
悠夜はパンと手を叩き、下僕たちに向き直った。
「今日はいつも頑張ってくれている貴方達のために、私が腕を振るいましょう! 特製・ブラック社長ステーキです!」
「「「「悠夜さまー!! 一生ついていきます!!」」」」
「「「「おーいみんなー! 悠夜さまの手料理が食べられるぞー!!」」」」
下級悪魔たちが歓声を上げ、皿とナイフを持って集まってくる。
牧場はお祭り騒ぎだ。
「さあ、行きますよ権藤さん。キッチンが待っています」
悠夜は権藤豚の後ろ足を掴み、ズルズルと引きずり出した。
床に爪を立てて抵抗するが、悪魔の怪力には敵わない。
「ブギィィィィィィィ!! 助けてくれぇぇぇぇぇ!!」
「鳴き声が大きいですね。鮮度が良い証拠だ」
断末魔の悲鳴と共に、権藤豚はキッチンの奥へと消えていった。
魔界の夜は長い。
宴はまだ、始まったばかりだ。
悠夜「家畜になった社畜...センス無いですね私」
悠夜は魔界に複数の事業を展開しています。