時は流れ、季節は幾度も巡った。
人間界では数十年の月日が経過していたが、魔界の夜は変わらず紫色の月を浮かべていた。
悠夜の所有する広大な牧場「悠夜牧場」。
そこに、悠夜は静かに佇んでいた。
手には、温かな光を放つ黄金の結晶が握られている。
佐藤啓太の、生涯の記憶だ。
啓太は、多くの部下や家族に惜しまれながら、穏やかに息を引き取った。
その最期は、かつて自殺しようとしていた線路の上ではなく、柔らかいベッドの上だった。
「ありがとう、良い人生だった」と微笑んで逝った彼の魂は、最高純度の幸福として結晶化した。
「さて、皆さん。注目してください」
悠夜が手を叩くと、檻の中の人面豚たちが一斉に顔を上げた。
中でも一際巨大で醜悪な豚――元社長の権藤が、怯えた眼差しでこちらを見ている。
彼らは啓太が生きている間、数十年もの間、現世のストレスという汚泥を食らい続け、生き地獄を味わってきた。
「本日、佐藤啓太さんが人生という名の職務を全うし、円満退職されました」
悠夜の言葉に、権藤豚の目が驚愕に見開かれた。
それはつまり、彼らの「刑期」の終了を意味するからだ。
「長かった……! やっと、やっと終わったんだな!?」
「俺たちは自由だ! もう苦しい思いをしなくていいんだ!」
豚たちが歓喜の声を上げる。
権藤豚も涙を流して喜んだ。この無限の苦役から解放される。また人間に戻れるかもしれない、そんな淡い期待すら抱いたことだろう。
悠夜は聖母のように優しく微笑み、頷いた。
「ええ、本当にお疲れ様でした。貴方達も、この『清掃業務』を終えていいのです」
悠夜は檻の鍵を開け、権藤豚たちを外へと促した。
「皆に惜しまれて泣かれた、素晴らしい送別会でしたよ。……ですから、貴方達にも相応の送別会が必要ですね」
「そ、送別会……?」
権藤豚が不審げに鼻を鳴らす。
悠夜はうっとりとした表情で、権藤豚のたっぷりと脂の乗った腹を撫で回した。
「ええ。もう二度と、貴方達のこの濃厚な脂身を食べられないかと思うと……悲しくて悲しくて、夜しか眠れません」
ゾクリ。
豚たちの背筋に悪寒が走る。
「ですので、貴方達を最高の料理にして、私の胃袋の中で永遠に一つになる。……それが、私からの愛のこもった送別会です」
「ひぃっ!?」
「嬉しいでしょう? さあ、行きましょう」
「いやだぁぁぁぁ!! 話が違うぅぅぅぅ!!」
「助けてくれぇぇぇ!!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
だが、下級悪魔たちによって豚たちは次々と捕獲され、屠殺場へと連行されていく。
悠夜は権藤豚の後ろ足を掴み、楽しげに鼻歌を歌いながら引きずっていった。
屋敷のメインキッチン。
同居人のグラトニーは、テーブルに座ってナイフとフォークをカチカチと鳴らし、待ちきれない様子だ。
「悠夜―、まだー? お腹と背中がくっつくぞー」
「魔王様が餓死することはありませんから、少しお待ちを。今、最高の下処理をしているところですから」
悠夜が肉塊を調理台に乗せ、巨大な牛刀を構えた、その時だった。
『悠夜―! いるかー!?』
屋敷の外から、鼓膜を震わせるような甲高い少女の声が響いてきた。
同時に、ズドン! ズドン! と扉を叩く音がする。
『開けろ! 傲慢(ごうまん)の香りがプンプンするぞー! 我にも喰わせろー!』
その声を聞いた瞬間、グラトニーの顔が梅干しのように渋くなった。
「げっ……あの成金チビかよ」
「あの方も鼻が利きますねぇ」
悠夜が苦笑しながら扉を開けると、そこには一人の少女が立っていた。
グラトニーと同じくらいの背丈だが、雰囲気は正反対だ。
眩いばかりの金髪を縦ロールにし、澄み切った碧眼は不遜に輝いている。
身に纏っているのは、王侯貴族のような豪奢なドレス。指には全指に宝石の指輪がはめられ、首には重そうな金のネックレスが何重にも巻かれている。
彼女こそが『傲慢』の魔王、プライド。
七つの大罪の一角を担う、最強にして最年少の魔王である。
「やはりな! この鼻を突くような鼻持ちならない香り……極上の『傲慢』がここにあるな!?」
プライドはズカズカと屋敷に入り込むと、調理台の上の権藤豚を指差した。
「帰れ! ここは私の餌場!」
グラトニーが威嚇するように叫ぶ。
二人は魔界でも有名な喧嘩友達(犬猿の仲)だった。
「ああん? 寄生虫の分際で我に命令するな、グラトニー!」
「寄生虫じゃない、ペット!」
「余計にタチが悪いわ! 腐っても魔王が上位悪魔に飼われるペットになるな、たわけ!」
「うっせえ! 悠夜のご飯が美味いのが悪いんだ!」
「無駄にピカピカすんな! 目障りなんだよ成金魔王!」
ギャーギャーと罵り合う二人の魔王。
その余波で屋敷の窓ガラスがビリビリと震え、高級な壺がいくつか割れた。
「……あの、お二人とも。この屋敷は僕の所有物なのですが」
悠夜は遠い目をして小声で呟いたが、魔王たちの耳には届かない。
このままでは調理どころか屋敷が崩壊してしまう。悠夜はため息をつき、手をパンと叩いた。
「はいはい、喧嘩はおよしなさい。今開けますよ」
悠夜は諦めてプライドを招き入れることにした。
「丁度いい具合に熟成したロースとフィレがあります。それでステーキにしましょう」
「ほう! 話がわかるではないか悠夜! やはり持つべきものは優秀な料理人だな!」
プライドはふんぞり返って椅子に座る。
(……まあ、彼女は若くして魔王になってしまいましたからね。早く力をつけて、荒廃した魔界の秩序を再生してもらわなくては)
悠夜は親心にも似た感情で苦笑した。
それに、今日の食材である「権藤豚」は、プライド(傲慢)にとってはこの上ない御馳走のはずだ。
調理が再開された。
今日のメニューはシンプル・イズ・ベスト。「厚切りポークステーキ」だ。
悠夜は権藤豚のロース肉を分厚く切り分ける。
肉質は霜降りで、赤身の部分にはドス黒い鬱血のような斑点が浮かんでいる。それは彼が抱え込んだ業の深さだ。
熱したフライパンに、油を引かずに肉を投入する。
ジュウウウウウウウウッ!!!
肉が焼ける音と共に、この世のものとは思えない絶叫が上がった。
『ギャアアアアアッ!! 熱い! 熱いぃぃぃ!!』
『俺が何をしたって言うんだ! こんな仕打ちを受ける覚えはないぞぉぉぉ!!』
フライパンの上で、肉片となった権藤が叫ぶ。
その悲鳴は、スパイスのように芳しい香りを放ちながらキッチンに充満していく。
「ん〜〜〜♡ いい声だ」
「うむ、食欲をそそるBGMだな」
グラトニーとプライドは、うっとりとその断末魔を聞き入っている。
悠夜は丁寧に火を入れていく。
表面はカリッと香ばしく、中はジューシーなピンク色に。
溢れ出す肉汁は、透明ではなく、コールタールのように黒く粘り気がある。
「完成です。『傲慢豚の厚切りステーキ 〜反省の色なし〜』」
ドン、と二人の前に皿が置かれた。
湯気と共に立ち上るのは、鼻が曲がりそうなほどの強烈な「俺様臭」。
他者を見下し、自分だけが正しいと信じて疑わない、純粋培養された傲慢の香りだ。
「頂きます!」
「頂こう!」
二人の魔王はナイフを入れ、大きく口を開けて肉を頬張った。
ガブッ。
瞬間、二人の動きが止まる。
そして、カッと目を見開いた。
「「美味いッ!!!」」
二人の声が重なった。
「なんだこれは! 硬い! とにかく硬いぞ! だが、噛めば噛むほど『俺は悪くない』という自己正当化の肉汁が溢れてくる!」
プライドが興奮気味に叫ぶ。
「半世紀以上だぞ? 悠夜の牧場で50年以上も自分の業(ストレス)を食わされ続け、地獄のような苦しみを味わったのだぞ? 普通なら改心するか、心が折れて謙虚になるはずだ!」
プライドは肉片をフォークで突き刺し、感心したように観察した。
「なのにコイツは、一切反省していない!」
「うんうん! 『俺は被害者だ』『社会が悪い』『部下が無能だった』って味がする!」
グラトニーも同意して肉を貪る。
「これぞ他責思考の極み! 鋼鉄の自己愛! どれだけ罰を与えられても、『なぜ俺だけが』としか思っていない!」
悠夜も自身の分を一口食べ、頷いた。
「ええ、驚くべき素材でしたよ。啓太さんに土下座した時も、心の中では舌を出していましたからね。彼の辞書に『反省』という文字はない。死んでもなお、自分は特別な選ばれた人間だと信じ込んでいる」
「素晴らしい! この揺るぎない勘違いこそが、最高の『傲慢』だ!」
プライドは大絶賛した。
彼女にとって、中途半端な悪党よりも、ここまで突き抜けたクズの方が美味なのだ。
食レポ合戦が始まる。
「脂身の部分が特にヤバイ! 『知るか』『俺の勝手だ』っていう開き直りが凝縮されてて、舌にまとわりつく!」
「赤身の部分は『俺を崇めろ』という承認欲求の味がするな。噛みごたえがありすぎて顎が疲れるわ!」
二人は競うように肉を平らげていく。
だが、半分ほど食べたところで、プライドの手が止まった。
水を一口飲み、眉をひそめる。
「ふむ……。流石に、味が濃すぎて舌が痺れてきたな」
あまりにも自己主張が激しすぎるのだ。
一口目は美味しいが、食べ続けると胃もたれしてくる。まさに権藤の性格そのもののような味だった。
「なんだ、もうギブアップか? 軟弱者め」
「何だと!? 貴様のようなバカ舌と一緒にするな! 美食とはバランスだ!」
「ああん!?」
また喧嘩が始まりそうになる。
悠夜はパンと手を叩いて仲裁に入った。
「はいはい、食事の場で喧嘩するのは大罪ですよ。……味が単調なら、味変といきましょう」
悠夜は冷蔵庫から、ガラスの容器を取り出した。
中に入っているのは、真っ白で滑らかなクリーム状のソース。
「このソースを使いなさい」
「なんだこれは? 白いな」
「『謙虚ヨーグルトソース』です」
それは、佐藤啓太の記憶から抽出した「謙虚」と「感謝」の心を発酵させて作った、特製のヨーグルトソースだった。
「これをかけると、また違った味わいになりますよ」
悠夜はたっぷりとソースをすくい、権藤豚のステーキの上にかけた。
漆黒の肉の上に、純白のソースがトロリとかかる。
まるで、闇に光が差し込むように。
ジュワッ……。
ソースが肉に触れた瞬間、異変が起きた。
『ぐあああああ!? 熱いッ! なんだこれはぁぁぁ!!』
先ほど焼かれた時よりも遥かに凄まじい、魂の底からの絶叫が上がった。
物理的な熱さではない。精神的な「拒絶反応」だ。
肉から、啓太の声が響いてくる。
『……社長』
それは幻聴ではない。ソースに含まれた啓太の残留思念だ。
穏やかで、静かで、どこか憐れむような声。
『お前のせいだ! お前が悪いんだ! 佐藤ォォォ!!』
権藤が喚く。
『……お前は、何も変わらなかったんだな。50年経っても、まだ誰かのせいにしている』
啓太の声は、怒ってはいなかった。
ただ、哀れな生き物を見るように、淡々としていた。
『そこに関しては、尊敬するよ。そこまで愚かさを貫けるのは、ある種の才能だ』
『やめろ……やめろぉぉぉ! 俺を見下すなぁぁぁ!!』
権藤にとって、かつての部下に「許される」ことや「憐れまれる」ことは、最大の屈辱であり、猛毒だった。
さらに、啓太の声は続く。
『そして、感謝している』
『は……?』
『アンタは最高の反面教師だ。アンタのおかげで、俺は「あんな大人にはなるまい」と誓えた。アンタという絶対的な悪がいたから、俺は誰にでも優しくなれたんだ』
『……ふざけるな……俺に、感謝だと……?』
『ああ。ありがとう、権藤さん。さようなら』
その言葉は、権藤のプライドを粉々に粉砕した。
自分が他人を傷つけてきたと思っていたのに、相手はそれを糧にして成長し、幸せになり、最後には自分に感謝して去っていった。
自分の存在意義が、完全に否定された瞬間だった。
『う、うわあああああああああああああああああああああッ!!!!!』
権藤の精神が崩壊する音がした。
ステーキ肉がブルブルと震え、ドス黒い肉汁と共に白いソースを吸い込んでいく。
傲慢が謙虚に侵食され、中和されていく。
「さあ、召し上がれ」
悠夜に促され、プライドはソースのかかった肉を口に運んだ。
「……ッ!!」
プライドの碧眼が見開かれる。
「これは……! 美味い!!」
先程までの脂っこいしつこさが消え失せている。
啓太の「謙虚」な酸味が、権藤の「傲慢」な脂をさっぱりと洗い流し、驚くほど上品な味わいに変化していた。
濃厚なのに、後味は爽やか。
毒を以て毒を制す、奇跡のマリアージュ。
「権藤の『俺様感』が、啓太の『感謝』によって完膚なきまでに論破されている! 口の中で、傲慢な王が聖人にひれ伏すドラマが展開されているぞ!」
グラトニーも目を輝かせる。
「ヨーグルトの酸味が、権藤の屈辱の味を引き立ててる! 『部下に感謝される』という、彼にとって一番嫌な死に方(味付け)をさせたのが最高に意地悪でクリーミー!」
「ふふふ、でしょう?」
悠夜は満足げにグラスを傾けた。
この料理の隠し味は「皮肉」だ。
他人を喰い物にしてきた傲慢な男が、最後は最も見下していた男の「謙虚さ」に包まれて喰われる。これ以上の喜劇はない。
「締めにヨーグルトをどうぞ。お口直しにピッタリですよ」
悠夜はデザートとして、啓太の記憶そのものである純白のヨーグルトを出した。
権藤という劇薬を食べた後の、優しい癒やしの味。
二人の魔王は、それを舐めるように平らげた。
宴は終わった。
権藤豚は骨の髄までしゃぶり尽くされ、皿の上には何も残っていない。
啓太の記憶も、悪魔たちの血肉となり、永遠に語り継がれる物語となった。
「ふぅ……満足した」
プライドは膨れたお腹(見た目は変わらないが)をさすり、満足げにため息をついた。
そして、悠夜に向かって宣言した。
「悠夜。礼を言うぞ」
「お気に召して何よりです。では、次はフィレを焼きましょう。後日にまた来て下さい」
悠夜が帰宅を促そうとすると、プライドは鼻で笑った。
「来る……だと? そんな面倒な事してられるか!」
彼女はドレスの裾を翻し、リビングのソファにドカリと座り込んだ。
「我は此処に泊まるぞ! この屋敷にはまだ、美味そうな『傲慢』の気配(=権藤の残り)が漂っているからな! それを食い尽くすまで帰らん!」
堂々の居座り宣言。
それを聞いて、グラトニーがキレた。
「はぁ!? ふざけんな成金! ここは私のテリトリーだぞ!」
「うるさい! 魔王である我に場所を譲れることを光栄に思え!」
「帰れ! シッシッ!」
「貴様こそ出て行け、この食いしん坊!」
再び始まるキャットファイト。
クッションが飛び交い、魔法の火花が散る。
悠夜は頭を抱えた。
平穏な日常が戻ってくるのは、当分先になりそうだ。
「……まあ、いいでしょう」
悠夜は窓の外、紫色の月を見上げた。
啓太も、天国で笑ってくれているだろうか。
あるいは、この騒がしい悪魔たちの様子を見て、「退屈しなくて済みそうだ」と苦笑しているかもしれない。
「賑やかな方が、ご飯も美味しいですからね」
悠夜は小さく呟くと、騒がしいリビングへと戻っていった。
魔界の夜は、まだまだこれからだ。
実は魔王というか魔界で最高年はグラトニーです。
暴食の魔王の始祖です。