雨の降る日だった。
裁判所の重厚な扉が開く。出てきた老女、フミの足取りは、幽霊のように頼りなかった。
「主文。被告人らを……」
先程聞いた判決文が、呪いのように耳にこびりついている。
強盗致死。
夜中に押し入った三人の若者によって、フミの夫、娘、そして婿が惨殺された。金品を奪う際、騒がれたからという短絡的な理由で、愛する家族はめった刺しにされたのだ。
たまたま二階で寝ていた幼い孫娘・遥(はるか)だけが、奇跡的に見つからず助かった。
それだけが唯一の救いだった。
だが、捕まった犯人たち――男二人、女一人への判決は、フミの心を粉々に砕いた。
『未成年であること』『更生の余地があること』『深い反省の態度』。
それらを理由に、極刑は回避された。数年、長くても十数年すれば、彼らは再び社会に出てくる。のうのうと息をして、飯を食い、笑って暮らすのだ。
「……あぁ……あぁぁ……」
フミは傘もささずに天を仰いだ。
冷たい雨が、涙と混じり合って頬を伝う。
「神様……仏様……あんまりです……」
真面目に生きてきた。誰に後ろ指をさされることもなく、慎ましく生きてきた。
なのに、なぜ家族が殺されなければならないのか。なぜ理不尽な獣たちが守られ、被害者が泣き寝入りしなければならないのか。
「誰か……誰かぁ……!」
フミの口から、魂を削るような怨嗟の声が漏れた。
「あいつらを……許さない……地獄へ……誰か、私の願いを聞いて……!!」
それは神への祈りではない。この世の理(ことわり)への呪詛だった。
その時。
「――聞こえましたよ。貴女の怒りと悲しみの叫びが」
雨音がふっと遠のいた。
傘を差し出されたわけではない。雨粒そのものが、その男の周囲だけ避けているのだ。
目の前に、夜の闇を凝縮したような黒髪と、鮮血のように赤い瞳を持つ絶世の美青年が立っていた。
「僕は貴女の叫びに惹かれて来た悪魔、悠夜(ゆうや)と言います」
悪魔。
普段なら一笑に付していただろう。だが、今のフミには、彼が唯一の救いの糸に見えた。
悠夜は優雅に一礼し、囁いた。
「嘆かわしいことだ。法が裁かぬ悪を、誰が裁くというのでしょう? ……お婆さん。貴女に提案があります」
「提案……?」
「ええ。犯人への復讐と、お孫さんの幸福。その両方を叶える契約です」
悠夜はフミの手を取り、真摯な眼差しで見つめた。
「貴女が汚れれば汚れるほど、お孫さんの未来は輝く。……そんな取引に興味はありませんか?」
「……詳しく、聞かせてください」
悠夜はフミに契約内容を話した。その内容は真っ当に生きてきた者には過酷極まる内容であった。
だが
「わかりました」
フミは即答した。迷いは一瞬たりともなかった。
「喜んで、地獄に落ちましょう。あの子が幸せになるなら、この身がどうなろうと構いません」
その瞬間、優しい祖母だったフミの瞳に、鬼の火が宿った。
それから、フミと遥の生活は一変した。
悠夜が人間界での拠点としている広大な屋敷。フミはそこで住み込みの家政婦として働くことになったのだ。
「お婆ちゃん、広いねぇ!」
「そうだねぇ、遥。今日からここが私たちのお家だよ」
まだあどけない遥の手を引き、フミは微笑んだ。
悠夜は「遠い親戚の資産家」という触れ込みで、遥の学費や生活の面倒を全て見てくれた。
遥は何一つ不自由なく、健やかに育っていった。
だが、この屋敷には秘密があった。
フミだけが入ることを許された、地下の奥深くにある一室。
重い鉄扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
拘束具に繋がれ、転がされている三つの影。
かつてフミの家族を奪った、あの三人の若者たちだ。
彼らは失踪扱いとなり、世間からは消えたことになっていた。だが実際は、悪魔の力によってこの部屋に囚われていたのだ。
「ひぃっ……! ば、ババア……いや、おばあさん……! 許して……!」
「もう嫌だ……殺してくれ……死なせてくれぇ……!」
男たちが悲鳴を上げる。彼らの体には無数の傷があったが、奇妙なことに致命傷には至っていない。
いや、正確には「死ねない」のだ。
悠夜の施した術式により、彼らの肉体は北欧神話のセーフリムニルのように、どんなに傷ついても翌日には再生する。精神が崩壊しても、朝が来ればリセットされる。
永遠に続く、死の許されない地獄。
. 悠夜の提示したプランは、残酷で、しかしフミが最も望むものだった。
悠夜の力で犯人たちを拉致し、フミの管理下に置く。
フミが彼らに罰を与え、苦しみを与える。その「負のエネルギー」を悠夜が変換し、孫娘・遥の「運」として還元する。
つまり、犯人を痛めつければ痛めつけるほど、遥は幸せになる。
逆に言えば、フミは手を血に染め、修羅とならなければならない。
フミは割烹着姿のまま、冷徹な目で彼らを見下ろした。
手には、熱した鉄火箸や、鋭利な刃物が握られている。
「何を甘えたことを言っているんだい?」
フミの声は、優しい祖母のものではない。
「お前たちが殺した私の夫は、命乞いをする間もなかった。娘は、痛いと叫ぶことさえ許されなかった。婿殿は、泣き叫びながら殺された……お前たちだけが、楽になれると思うなよ?」
「ごめんなさい! 反省してます! 本当なんです!」
女が泣き叫ぶ。だが、フミは知っていた。裁判の時、この女が裏で「チョロい」「少年法万歳」と笑っていたことを。
「哭(な)いておくれ。お前たちの悲鳴が、あの子の不幸を追い払うんだ」
フミは慈愛に満ちた笑顔で、拷問を開始した。
「あがあああああああああああッ!!!」
「お前たちが苦しめば苦しむほど、遥は幸せになる! 私が汚れるほど、あの子は綺麗になる!」
「私の夫の分! 娘の分! 婿殿の分! 彼らの分まで生きて苦しめぇ!!!」
肉が焦げる音。骨が軋む音。絶叫。
フミは涙を流しながら、それでも手を止めなかった。
これは復讐であり、同時に祈りだった。
自分の寿命が尽きるその時までに、遥が一生使い切れないほどの「幸福」を貯金するために。
地上の陽だまりでは、遥が悠夜と笑い合っている。
地下の闇では、フミが血と脂にまみれて鬼となっている。
そのコントラストこそが、この契約の真髄だった。
時は流れた。
遥は美しく成長した。
学校では良き友人に恵まれ、大きな病気一つせず、受験や就職も希望通りに進んだ。
まるで、見えない力が彼女の障害を全て取り除いているかのように、彼女の人生は順風満帆だった。
やがて遥は、誠実で優しい男性と出会い、結婚した。
結婚式の日、ウェディングドレス姿の遥を見たフミは、人知れず号泣した。
あの雨の日、絶望に染まっていた小さな命が、こうして光の中で輝いている。
自分の手は血で汚れているが、その手で守り抜いた命は、こんなにも美しい。
(この温もりを守るためなら、私は何度だって地獄に落ちよう)
さらに数年後、可愛いひ孫も生まれた。
フミは曾祖母として、小さな命を抱きしめた。
幸せだった。地獄のような二重生活だったが、その果実(遥の幸福)は甘美だった。
そして、遥の子供が十歳になった頃。
フミの体に、終わりの時が近づいていた。
老衰。人間として避けられない寿命だ。
ある晴れた日。
屋敷のベッドに横たわるフミの元を、遥と壮年の紳士に扮した悠夜が訪れた。
「お婆ちゃん、具合はどう?」
「ああ、大丈夫だよ遥。ちょっと疲れただけさ」
フミは痩せ細った手で、遥の手を握った。
遥は心配そうに、しかし信頼しきった目で傍らの悠夜を見た。
「ありがとうございます、悠夜さん。お婆ちゃんの世話だけでなく、こんなに手厚い医療まで……」
「いえいえ。フミさんには長年、この屋敷の家政婦として尽くしていただきましたから。家族も同然です」
悠夜は穏やかに微笑んだ。
「孫の荷物になりたくないって、本当に困ったお婆ちゃん」
「ふふ、全くだ。……遥ちゃんも、立派なお母さんになりましたね」
ひとしきり談笑した後、フミは遥に告げた。
少し休みたいから、今日は帰ってゆっくりしなさい、と。
遥は名残惜しそうにしていたが、フミの意志を尊重し、部屋を出ていった。
窓から、使用人の運転する車で遥が帰っていくのが見える。
それを見届けた瞬間、フミの纏う空気が変わった。
死を前にした老婆の弱々しさは消え、修羅の気配が立ち上る。
「……悠夜様」
「はい」
悠夜は元の姿――黒髪の悪魔の姿に戻り、ベッドの脇に立った。
「残る時間は少ない。……あの子たちの未来は、大丈夫でしょうか」
「ええ。貴女が長年積み上げた『貯金』は莫大です。遥さんも、ひ孫さんも、一生安泰でしょう」
悠夜の保証に、フミは安堵の息を漏らした。
だが、その目はまだ死んでいない。
「私と、あいつらの命と魂……今日で徹底的に使い切ります」
「……ほう?」
フミは鬼気迫る表情で、最後の願いを口にした。
「その代わり、私の子孫に、私と遥のような『理不尽な不幸』が訪れないようにしてください」
「……」
「多少傷ついたり、失敗して苦しんだりするのは構いません。それは人生ですから。……ですが、誰かの悪意で幸せを奪われるのだけは、絶対に許せない」
強盗、殺人、詐欺、いじめ。
そういった理不尽な悪意から、血の守りを固めたい。
「あいつらに、最後にして最大の拷問を行います。私の残りの命を全て燃やして、あいつらの魂ごとすり潰すような……それを、子孫への最後の守護にします」
それは、自らの魂すらも代償にするような、壮絶な覚悟だった。
悠夜は息を飲んだ。
人間の愛と執念。それは時に、悪魔すらも戦慄させる。
「……貴女の覚悟に、敬意を」
悠夜はフミの額に手をかざし、最後の活力を注ぎ込んだ。
一時的に、肉体の苦痛を消し去る魔法だ。
「ありがとうございます」
フミはむくりと起き上がった。
その足取りはしっかりとしていた。最期の仕事場へ向かう、職人のようだった。
地下室。
数十年もの間、時が止まったような惨劇の部屋。
三人の犯人たちは、もはや人間としての原型を留めているか怪しいほど摩耗していたが、それでも毎朝リセットされ、恐怖に震えていた。
扉が開き、フミが入ってくる。
その後ろに、悠夜が続く。
「ひぃッ……! き、今日は、何を……」
「助けて……もう許して……」
彼らは条件反射で命乞いをする。
フミは、今までで一番優しい、聖母のような笑みを浮かべた。
「さあて、終わりにしようか……すべて」
フミは器具を手に取った。
それは、長年の研究の末に編み出した、肉体の苦痛を精神の崩壊に直結させ、魂そのものを削り取る術式だった。
「これが私の集大成だよ。しっかり味わっておくれ」
最後の拷問が始まった。
それは凄惨を極めた。
だが、そこには単なる暴力衝動はなく、儀式のような厳粛さがあった。
「私の遥のために! ひ孫のために! お前たちの存在全てを、未来への踏み台にしてやる!」
フミの叫びと共に、犯人たちの魂が悲鳴を上げる。
悠夜は一歩引いた場所で、その光景を眺めていた。
「素晴らしい……」
彼は芸術品を鑑賞するように目を細めた。
一人の善良な老婆が、愛ゆえにここまで残酷になれる。
数十年積み重ねてきた技術、執念、そして愛。
それらが混ざり合い、犯人たちの魂を極限まで搾り取っていく。
やがて――。
三人の犯人たちは、絶叫の中で息絶えた。
今回は、再生しなかった。
魂の根源まで使い果たし、燃え尽きたのだ。二度と転生することも、救われることもない、完全な消滅に近い地獄落ち。
そして、全てを終えたフミもまた、糸が切れたように崩れ落ちた。
「……っ」
悠夜が素早く駆け寄り、その体を抱き留める。
フミの体は羽のように軽くなっていた。生命の灯火が、今まさに消えようとしている。
「終わっ、た……。これで、あの子たちは……」
「ええ。完璧です。貴女の願い、確かに届けました」
フミは満足げに目を閉じた。
彼女の意識は薄れ、暗闇へと沈んでいく。
(ああ……私も、地獄へ……)
あれだけのことをしたのだ。人を傷つけ、甚ぶり、殺し続けた。
復讐のためとはいえ、自分の魂は罪にまみれている。
犯人たちと同じ、暗い穴へ落ちていくのだと、フミは覚悟していた。
だが。
「悪いけど、そんな結末は認めないよ?」
暗闇の中で、悪戯っぽい声が響いた。
フミが目を開けると、そこは光溢れる場所だった。
目の前には、悠夜が立っていた。いつもの悪魔の笑みを浮かべて。
「復讐に染まった者は地獄に堕ちる。……確かに、天界のルールではそうでしょう」
悠夜は指を振り、チッチッと舌を鳴らした。
「だけど、悪魔と契約した者が、そんな月並みな末路を迎えられると思わないでください」
「悠夜、様……?」
「貴女は私の共犯者だ。私の契約者だ。……その魂の行き先を決めるのは、神ではなく私です」
悠夜はフミの体を抱き起こした。
フミの手を見ると、あんなにこびりついていた血の汚れが、綺麗に消えていた。
「貴女の罪、汚れ、業。……それらは全て、あの三人の屑たちに上乗せしておきました」
「え……?」
「彼らは貴女の分まで背負って、永遠の地獄へ落ちていきましたよ。貴女はもう、ただのお婆ちゃんだ」
悠夜は背中を押し、ある方向を指差した。
「行きなさい。……あそこが、貴女が行くべき場所だ」
指差す先。
光の中に、懐かしいシルエットが見えた。
優しげな夫。
笑顔の娘。
頼もしい婿。
あの日、理不尽に奪われた、愛する家族たちが手を振っていた。
「……あ……ああ……!」
フミの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった。
でも、自分はもう会えないと思っていた。汚れてしまったから。
「行ってらっしゃい、フミさん」
悠夜の声に背中を押され、フミは駆け出した。
老いた体ではない。若々しい、魂の姿で。
「あなた! みんな……!」
家族がフミを受け止める。
温かい。血の匂いなどしない、懐かしい日向の匂い。
「ありがとう……私の、優しい悪魔さん」
フミは一度だけ振り返り、悠夜に向かって深々と頭を下げた。
そして、満面の笑みで告げた。
「ただいま」
光が彼らを包み込み、天へと昇っていく。
現実世界の屋敷。
ベッドの上で、フミの亡骸は安らかに眠っていた。
悠夜はフミを抱き上げ、魔法で遺体を清めた。
血の汚れも、地下室の匂いも、苦労の皺さえも、全てを労るように拭い去る。
その寝顔は、数十年の修羅の道を歩みきったとは思えないほど、穏やかで、幸福に満ちていた。
「おやすみなさい、フミさん」
悠夜は静かに告げ、部屋のカーテンを閉めた。
机の上には、遥とひ孫が写った写真立てが、朝日に照らされて輝いていた。
祖母の名前はフミ。
孫娘の名前は遥。
その血は途絶えることなく、光の中を歩み続けるだろう。
一人の悪魔と交わした、愛と復讐の契約によって。
超ご都合主義な結末ですが、種があります。