初めは新鮮だった同棲生活も今は全てが当たり前。
そんなある日の夜、翔太の何気ない一言に彩花は腹を立てる。
付き合い始めて五年目の秋。
彩花と翔太は、都心から少し離れたアパートの二階に住んでいる。家賃は折半。部屋は二部屋あって、一つは寝室、もう一つはリビング兼ダイニング。ベランダは狭くて、洗濯物を干すとぎゅうぎゅうになる。
朝七時。目覚ましは彩花のスマホが先に鳴る。翔太はあと五分寝ていたい派で、いつも彩花が布団をめくって「起きなよ」と肩を叩くのが日課だった。
「おはよ……」
翔太が寝ぼけ眼で起き上がると、彩花はもうキッチンに立っている。ガスコンロの火が青く揺れて、味噌汁の匂いが部屋に広がる。
「今日は卵焼き?」
「うん。翔太は甘めが好きだし、砂糖気持ち多めにした」
彩花は振り返らないままフライパンをトントンと傾ける。翔太は後ろからそっと抱きついて、首筋に顔を埋めた。
「やめてよ、くすぐったいって」
「彩花の匂いでもうひと眠りする」
「こら、そんなこと言わないで用意する」
口ではそう言いながら、彩花は少しだけ体を預けた。
八時前に二人で家を出る。キスはしない。五年も経つと、そんな習慣は自然となくなっていた。
彩花は広告代理店、翔太は中規模のWeb制作会社。駅まで歩いて十分、電車は逆方向だから改札で別れる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
帰りはたいてい彩花の方が早い。スーパーに寄って、値引きシールが貼られた食材を漁るのが得意だ。翔太は残業が多い月は二十時過ぎになることもある。
「ただいまー」
「おかえり、お腹空いた?」
「もちろん」
「今日は鶏の照り焼き」
「おお、マジか。最高」
翔太はスーツの上着を脱ぎながらダイニングテーブルに座る。彩花はエプロンを外して、ビールとつまみを出す。
「はい、生」
「女神」
テレビをつけると、ちょうどラブコメのドラマやっていた。二人はビールを飲みながら、登場人物の恋愛模様にツッコミを入れる。
「こんなところでプロポーズとか、ありえないよな」
「分かる。現実だったら『え、今?』ってなる」
「俺なら、きっとスーパーのレジで『結婚しよっか』とか言いそう」
「やめてよ、恥ずかしいしバカじゃん」
二人は笑いながらグラスを合わせた。
週末はだいたい家で過ごす。土曜は昼くらいまで寝て、起きたら一緒に掃除。洗濯物を畳みながら、テレビで流れる結婚式場のCMを見て、彩花がぼそっと言う。
「私たちも、いつかこういうのやるのかな」
「え? 結婚式?」
「ううん、別に式とかじゃなくてもいいけど……籍とかさ」
翔太は洗濯物を畳む手を止めて、首をかしげた。
「籍? 入れる?」
「いや、別に急いでるわけじゃないけど……」
彩花は笑ってごまかした。翔太も「まあ、そのうちな」と流して、また畳み始めた。
そんなやりとりが、実は何度かあった。
彩花の友達が結婚したとき。会社の同僚が子どもを産んだとき。実家に帰ったとき、母親に「いつになるの?」と聞かれたとき。
そのたびに彩花は「まだ考えてない」と答えてきた。でも、心のどこかで、少しずつ責任に似たプレッシャーが溜まっていくような感覚があった。
そして、ある水曜日の夜。
いつものように夕飯の支度。今日はカレーだった。彩花は鍋をかき混ぜていると、ふと思いついたように口を開いた。
「ねえ、翔太」
「ん?」
「私たちっていつ結婚するの?」
かき混ぜる手を止める。カレーの匂いが部屋に漂い始めていた。
翔太はソファでスマホをいじっていた手を止めて、顔を上げた。
「え、俺たちもう結婚してるようなもんじゃん」
悪気なく彼は笑った。いつもの調子だ。
彩花はゆっくりと振り返った。鍋を温める火を消して、翔太をまっすぐ見た。
「……それってどういう意味?」
「だってさ、一緒に暮らしてるし、家計も一緒だし。籍入れるだけじゃん?なんなら今度役所行く?」
その瞬間、五年分の何かが、ぽろっと音を立てて崩れた気がした。
彩花は両手をシンクについて、深く息を吐いた。
「……そう」
声が震えた。
翔太はまだ笑っている。でも、その笑顔が急に他人に見えた。
「なんか怒ってる?」
彩花は答えなかった。ただ、静かに背を向けて火を入れなおすとカレーをかき混ぜた。
その夜、二人はほとんど口をきかなかった。テレビの音だけが、虚しく部屋に響いていた。
翌朝、目覚ましが鳴る七時。
彩花はいつもより早く目が覚めていた。昨夜のことは夢みたいにぼんやりしていたけれど、胸の奥に小さな棘が残っている。
(大人げなかったかな……)
そう自分を責めながらも、翔太の「籍入れるだけじゃん」という一言が頭の中でリフレインするたび、むっとした気持ちが湧いてきてしまう。
それでも翔太の寝顔を見ると布団をめくり、彼の肩を軽く叩いた。
「……翔太、起きなさいよ」
「んー……もうちょい……」
「もう七時だから」
いつもと同じやりとり。彩花はキッチンに立ち、卵を割る。トーストを焼く匂い。味噌汁の湯気。
翔太は寝ぐせのままテーブルについて、スマホを見ながらぼーっとしている。
「……おはよう」
「おはよう」
会話はそれだけだった。彩花は味噌汁をすすりながら翔太の顔をちらりと見た。
(怒ってるって、気づいてるのかな)
翔太は何となく気づいていた。
昨夜、カレーを黙々と食べていたこと。 彩花がわざと背を向けて寝たこと。
(やっぱり怒ってるよな……)
でも、どう声をかけていいかわからない。謝るのも変な気がする。だって自分は本気で「もう家族みたいなもんだろ」と思っていたから。
朝食を終え、二人で玄関を出る。改札で別れるときも、いつもより少し距離が遠かった。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
手を振らないまま、翔太は電車に乗り込んだ。
その日の昼休み。
会社の喫煙所、煙草は吸わない翔太だったが先輩の田中さんと二人きりになった。田中さんは四十手前で、結婚八年目の立派なベテラン既婚者だ。
「なんか元気ないな、翔太くん」
「……実はちょっと相談が」
翔太は昨夜のことを、できるだけ客観的に話した。
彩花の「いつ結婚するの?」に対して、自分が「もう結婚してるようなもんじゃん」と笑って返したこと。それから空気が一気に重くなったこと。
田中さんは煙草を一服して、呆れたように笑った。
「プロポーズは?」
「え?」
「ちゃんとしたプロポーズ、したのか?って聞いてる」
「……してないです」
「当然だろ」
田中さんは肩をすくめた。
「お前が100悪い。いや、120悪い」
翔太は苦笑いしながら頭をかいた。
「やっぱりそうですか……」
「当たり前だよ。女の子ってさ、『いつか』とか曖昧じゃなくて『今、この瞬間』の気持ちを言ってほしいんだよ。『籍入れるだけ』って、お前マジで最悪だぞ」
その一言で、昨夜から薄々感じていた「やっちゃったかも」が、はっきりとした確信に変わった。
「まずった。俺、ほんと馬鹿だ……」
「気づけてよかったな。今からでも遅くねえぞ」
田中さんがにやりと笑って、ジュッと煙草を消した。
「なあ、俺のプロポーズ聞きたい? めっちゃ泣けるぞ」
「いや、興味ないっす」
「冷てぇな!」
二人は笑った。でも翔太の頭の中は、もう次のことでいっぱいだった。
(急がなきゃ……)
(彩花に、ちゃんと伝えなきゃ)
スマホを取り出して、こっそり「プロポーズ 場所 おすすめ」と検索しながら、翔太は心の中で強く誓った。
(絶対、後悔させたくない)
時を同じくして昼休み。
会社の休憩室で、彩花は同僚の美咲さんと二人でお弁当を広げていた。
美咲さんは入籍二年目の新婚で、いつも幸せオーラが漏れ出しているタイプだ。
「彩花ちゃんって、彼氏と何年目だっけ?」
「五年目……同棲してて」
「えー! 五年も!? そろそろ結婚したいんじゃない?」
彩花は箸を止めて、苦笑いした。
「……そうですね」
すると美咲さんの目がキラキラ光る。
「ねえねえ、もうプロポーズはされた?」
彩花は首を横に振った。
美咲さんは「えっ!?」と声を上げた。
「もちろんしてくれるでしょ!?」
「彼はその気がないって……」
「うそ! 信じられない!」
するとエンジンがかかったように美咲さんのトークが繰り出される。
「私なんてね、海沿いのレストランで夜景見ながらプロポーズされたの! 婚約指輪もその場で出されて、もうボロボロ泣いちゃって……」
「でね私ってばそれまで全然気が付かなくてさ~ほんとにサプライズだったの!店員さんがケーキも用意してくれてね、周りのお客さんもおめでとーって拍手してくれたんだ!」
「へえ……すごいね」
「結婚式もね、ハワイで挙げたんだよ〜。ドレス三着着替えちゃった! 友達と家族と親族もたくさん呼んでさ!お金はめっちゃかかったけど、だって一生の思い出だから!」
彩花は相槌を打ちながら、にこにこ聞いていた。
確かにすごい。羨ましいと思う気持ちも少しはある。
でも、どれも自分のことのようにイメージできなかった。
海沿いのレストランも、ハワイの結婚式も、ドレス三着も。
全部キラキラしすぎていて、翔太と自分の日常とはまるで別世界みたいだった。
(私は……別にそんなのいらないんだよな)
彩花は心の中で呟いた。
派手な演出も、豪華な式も、憧れはするけど、なくてもいい。
ただ、翔太の口から、ちゃんと「結婚しよう」って言ってほしいだけ。
真剣な目で、逃げないで、自分の名前を呼んで、そう言ってくれれば。
それだけで、十分すぎるくらい嬉しいのに。
美咲さんはまだ楽しそうに話し続けている。
「彩花ちゃんも早くプロポーズされて、幸せにならなきゃね〜!」
「……うん」
彩花は小さく微笑んだ。
胸の奥に残っていた棘が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
(翔太は……どう思ってるんだろう)
お弁当を食べ終えて、彩花は空になったお弁当箱を眺めながら、静かにため息をついた。
午後一時。
翔太はデスクに戻っても、キーボードに手が乗らない。
モニターにはクライアントのランディングページが開いたままだが、目が文字を追っていない。
(プロポーズしよう)
決めた瞬間から頭の中はそれだけでいっぱいだった。
マウスを動かして別タブを開く。
他の社員の目を盗んでは「東京 プロポーズ おすすめスポット」「夜景 個室 ディナー」「指輪 即日受け取り」 と検索窓に次々と打ち込み、ページをスクロールする。
でも、どれを見ても胸がざわざわするだけだった。
(サプライズでやったら、昨日のこと許してくれるかな……)
いや、違う。
許してもらうためにやるんじゃない。
もしも昨日の今日で急にプロポーズしたら、彩花はどう思う?
(間に合わせみたいに思われるかもな)
(『怒ってるから慌ててやったんでしょ』って)
彩花は賢い。
翔太が知りあった女性の中でも「本当に頭のいい女性」の一人だ。
感情に流されて動いたら、すぐにバレる。
下手したら「私の気持ちを舐めてる?」と、別の意味で泣かせてしまうかもしれない。
指が止まる。
開きっぱなしだった「都内 プロポーズ聖地ランキング」のタブを、ぽちぽちと全部閉じていく。
最後に残った検索窓も、バックスペースで消した。
(まずは、ちゃんと謝らなきゃ)
翔太は深く息を吐いて、席を立った。
上司のデスクまで歩いていき、小声で言った。
「すみません、今日ちょっと用事ができてしまって……定時で上がらせてもらえますか?」
「ん? 珍しいな。お前、残業マンだろ」
「はい、すみません。どうしても今日だけは……」
上司は少し驚いた顔をしたが、すぐに手を振った。
「いいよいいよ。たまには早く帰って彼女とデートでもしろ」
「……ありがとうございます」
翔太は頭を下げて、自分の席に戻った。
時計を見る。
あと四時間。
彩花と帰りの時間を合わせる。
今日は、ちゃんと向き合おう。
プロポーズはその後でいい。
まずは、昨日の自分の軽率さを、言葉にして伝える。
翔太はスマホを取り出して、彩花に短いメッセージを打った。
【今日は定時で上がれる。駅で待ってるね】
送信ボタンを押す指が、少しだけ汗ばんでいた。
昼休みが終わり業務を再開した彩花のスマホが震えた。
画面に表示された翔太のメッセージを見て、すぐに返信とスタンプを送る。
【了解!】
送信してから、スマホをデスクに置いてモニターに向き直る。
でも、指はキーボードに乗ったまま動かない。
(一緒に帰ろう、か……)
翔太が自分から「一緒に帰ろう」と言うのは、本当に珍しい。
残業を厭わないタイプだし、帰りが遅くなっても「先に寝てて」と言うのがザラだった。
きっかけとすれば間違いなく、昨日のことだ。
彩花は小さく息を吐いた。
翔太のこと、今でも好きだ。
五年経っても、胸がきゅっと締まる瞬間は減らない。
真面目で大人びているくせに、ふとしたときに子供みたいに無邪気に目を輝かせて笑うところが、たまらなく愛おしい。
でも。
もし、これがプロポーズのためだったら……
もし、昨日の自分の態度を見て慌てて「じゃあ結婚するか」みたいな流れで言ってくるなら
申し訳ないけど、がっかりしちゃう。
謝罪とプロポーズをごちゃ混ぜにされたら
「私の気持ちを埋め合わせるための方便?」って思ってしまう。
それこそ、涙より大きなため息が出て場を凍り付かせてしまうかも。
(……まだ、決まったわけじゃない)
彩花は自分に言い聞かせるように首を振った。
もしかしたら、ただ一緒に帰りたいだけかもしれない。
ただ、昨日の空気を少しでも戻したいだけかもしれない。
淡い期待を、胸の奥にそっと置いて。
彩花はもう一度深呼吸して、キーボードに手を置いた。
(帰って、ちゃんと話そう)
画面に映るエクセルを睨みながら、
彩花は静かに、でも確かにそう決めた。
業務を終え駅の改札を出てすぐの柱の陰で、翔太はスマホを握りしめながら待っていた。
定時で上がるなんて久しぶりすぎて、まるで新入社員の気分だ。
「翔太」
振り向くと、彩花が小さく手を上げていた。
秋風に髪が揺れて、寒さのせいか頬がほんのり赤い。いつもより少し疲れた顔をしているのは気のせいか、それでも笑顔は変わらない。
「あ、お疲れ」
「お疲れさま。スーパー行くでしょ?」
「ん、ああ……」
曖昧に頷いて、彩花の横に並ぶ。
歩きながら、翔太は何度も口を開きかけて、結局言葉を飲み込んだ。
謝ろう、と決めていたはずなのに、隣にいる彩花があまりにも「いつも通り」すぎて、逆にタイミングを失う。
スーパーに入ると、翔太は反射的にカゴを取ってカートにセットした。
「ねえ、何食べたい?」
カートを押していると先頭を歩く彩花が野菜コーナーで振り返る。
翔太は完全に上の空で、謝罪のことしか考えてなかったせいか夕飯のイメージがゼロだった。
「に、肉……かな」
「ぷっ」
彩花が小さく吹き出す。
「なにそれ、肉って言っても色々あるよ?」
「えっと……」
「鶏肉、今日は安いし。唐揚げにしようか」
「……うん、ありがとう」
生返事になってしまう。
彩花は軽く笑って、鶏もも肉をカゴに入れた。
その後も、いつもの買い物風景。
彩花が値札を見ながら、
「先週より二十円高いね、これ」
「あ、見て久しぶりに安くなってるよ」
と呟いていく。
翔太は相槌を打ちながら、横顔を盗み見るだけだった。
(こんな風に仕事終わりに一緒に買い物するの、いつぶりだろ)
レジを待つ列に並びながら、ふと思った。
五年も一緒にいるのに、こんな何気ない時間が急に愛おしくて、胸の奥がじんわり熱くなる。
会計を済ませて、外に出ると翔太は無言で全部のレジ袋を両手に掴んだ。
「え、ちょっと重くない?」
「大丈夫」
彩花が何か言いかけたが、翔太は首を振って先に歩き出す。
重い袋が手のひらに食い込むけど、それより彩花と並んで歩ける時間が嬉しかった。
アパートに戻り、玄関で靴を脱ぐ。
彩花がレジ袋をキッチンに運びながら、
「じゃあ作るね」
とエプロンを手に取った。
翔太はリビングで立ち尽くす。
このまま流されたら、またタイミングを逃す。
ギクシャクしたまま寝るなんて、絶対に嫌だ。
「あの、彩花さ……」
声が掠れた。
彩花がエプロンの紐を結びながら、こちらを振り返る。
翔太は一度大きく息を吸って、彼女の瞳をまっすぐ見た。
「その……彩花」
「んー?」
翔太は喉の奥がからからに乾いているのを感じながら、彼女の目をまっすぐ見た。
「昨日は、ごめん」
一言目で声が震えた。
「一緒にいるのが当たり前すぎて……あんなこと言っちゃって。怒らせたよね」
彩花はエプロンの紐を結び終えて、腕を組んだまま静かに頷いた。
「うん。怒ったよ」
真っ直ぐな視線に、翔太は思わず目を逸らしそうになる。それでも踏みとどまる。
「結婚って、俺たちにとってすごく大事なことだって、改めてわかった。だから……後日、ちゃんとプロポーズさせてほしい」
「...ふーん」
彩花は目を細めた。唇の端が少し上がっている。
「てっきり翔太のことだから、今日プロポーズするのかと思った」
「っ!?」
ギクリと肩が跳ねる。
彩花は一歩近づいて、人差し指で翔太の胸を軽くつついた。
「もし『プロポーズすれば許してくれるだろ』みたいな流れだったら、マジで最低だったからね?」
「そ、そんなつもりは……!」
「でも」
彩花はそこで言葉を区切って、小さく息を吐いた。
「ちゃんと謝ってくれて、ありがとう」
その一言で、翔太の肩から力が抜けた。心底ホッとした顔で、
「本当、ごめん……」
と安心したように吐き出す。
「で?」
だが彩花はすぐに切り返す。
「後日って、いつ?」
「え、あ、いや……そ、それは……」
頭が真っ白になる。一週間? 一ヶ月? 指輪は? 場所は? 全部考えてなかった。
すると彩花が、にこりと笑って言った。
「明日でいい」
「え、明日!?」
「当然でしょ。早いほうがいいに決まってるじゃん」
翔太は目を丸くする。
「で、でも急に明日って……店の予約とか……」
「いらない」
彩花は即答した。
「海沿いのレストランとか夜景が綺麗とか、いらない。指輪だって後から買えばいい。もしもフラッシュモブなんて呼んだら全員送り返すから」
勢いに押されて、翔太は「は、はい……」としか言えない。
彩花はそうやって言い切るとふっと笑い、少しだけ背伸びして翔太の唇に軽くキスをした。
「私は翔太の口からプロポーズが聞ければ、それでいい」
一瞬の接触だった。
すぐに離れて、彩花はくるりと背を向ける。
「ほら、唐揚げ作るから。明日のセリフ、ちゃんと考えてね」
手をぱたぱたと振って、キッチンに向かってしまう。
翔太は呆然と立ち尽くしたまま、頬が熱いのを感じた。
(明日……!? マジか……!)
頭の中がぐるぐる回り始める。
でも同時に、胸の奥が熱くて、嬉しくて、たまらなかった。
(絶対、最高のプロポーズにしよう)
翔太はスマホを握りしめて、リビングのソファに座り込んだ。
揚げ物の匂いが漂ってくる中、彼は必死に明日の言葉を考え始めた。
彩花はキッチンで唐揚げを揚げながら、彼女はふっと息を吐いた。
(よかった……)
翔太が謝罪とプロポーズを一緒くたにしなかったこと。
あの瞬間、もし「ごめん、だから結婚しよう」なんて言われたら、きっと複雑な気持ちになっていた。
でも彼はちゃんと分けてくれた。だから、謝罪を素直に受け止められた。
(あとは、翔太の言葉を聞くだけ)
そう思うだけで、胸がきゅっと熱くなる。
一日だって待てない。
彼がどんなふうに自分の想いを伝えてくれるのか、待ちきれなくて、足がもぞもぞしてしまう。
(……でも)
油がぱちぱちとはねる音に紛れて、小さく笑った。
(明日って言ったの、やっぱりちょっと意地悪だったかな)
でも、すぐに首を振る。
(いいの。昨日の翔太だって私を怒らせたんだから、これでチャラ)
帳消し。
そう自分に言い聞かせて、唐揚げをざるに上げる。
チラリと横目で見ると、彼はソファでスマホを握りしめて、まるで受験生みたいに真剣な顔で何か打っては消していた。
眉間にしわが寄って、唇を噛んで、時々ため息をついて……
そんな姿を見ているだけで、胸がくすぐったくなる。
(あんなに必死に考えてくれてる)
明日が、もう楽しみで仕方なかった。
どんな言葉になるんだろう。
カッコよく決めてくるのか、照れ臭そうにどもるのか。
ちょっと笑えるくらい不器用なセリフかもしれない。
でも、いい。
翔太が真剣に考えてくれた言葉なら、全部、正面から受け止める。
唐揚げの皿をテーブルに置いて、彩花は小さく微笑んだ。
翔太は出来上がった唐揚げを頬張りながらも、上の空だった。
味は確かに美味い。でも、舌の上で何度も転がしているのに、ほとんど記憶に残らない。
「どうしたの? おいしくない?」
彩花に訊かれて、慌てて首を振る。
「ううん、めっちゃ美味い!」
「……もう」
彩花は何かに気づいたように笑ったが、追及することはしなかった。
その夜翔太はスマホを離すことはなかった、メモを開いては閉じ、開いては閉じる。
『彩花、俺と結婚してください』
前置きがないし短すぎる。
『五年間ありがとう。これからもずっと一緒に……』
なんだかなー。
『俺は彩花がいないと生きていけない……』
重すぎる。
全部消す。
また打つ。
また消す。
風呂に入っても、歯を磨いても、頭の中は明日のことでいっぱいだった。
一方彩花は翌日の準備を済ませると、彼より先にベッドに入る。
(早く明日になってほしいな)
心の中でそう呟き眠気に身を預けていると、彼もベッドに入ってくる。愛しい人の背中がすぐそばにある。
温かくて、安心して、彩花はあっという間に深い眠りについた。
彼女は夢の中で、きっと笑っていた。
翔太はそっとベッドに入ると、彩花はもう横を向いて寝息を立てていた。
彼は電気を消して、暗闇の中スマホを起動する。
画面が彼の顔を青白く照らす。
(ダラダラ長くてもダメ。短すぎても味気ない。
でも、ちゃんと伝えないと意味がない)
隣で寝る彩花の体温が、布団越しにじんわり伝わってくる。
五年間、毎晩こうして一緒に寝てきた。
当たり前すぎて、最近は意識することも少なかったこの温もりが、今はとてつもなく尊い。
(この人が、明日も隣にいてくれるように。 俺の言葉で、ちゃんと約束したい)
翔太は目を閉じた。
意識が落ちる瞬間まで、頭の中で何度も何度も言葉を繰り返した。
彩花、ありがとう。
これからもずっと、俺のそばにいてほしい。
俺と、結婚してくれますか——
そんな言葉が、夢の中まで追いかけてきた。
翌朝、七時少し前。
彩花はいつもの時間に目を覚まし、隣に手を伸ばす。
……いない。
布団は彼の温もりを残していた。
寝ぼけた頭で「え?」と呟きながら起き上がると、キッチンの方からかすかに物音がした。
スリッパを鳴らして廊下に出ると、翔太がフライパンを握っていた。
「どうしたの?」
驚いた声に、翔太がびくっと肩を跳ねさせて振り返る。
「いや……なんか早く目が覚めちゃって」
自分でも意外だったという顔で、照れ臭そうに笑う。
「コーヒー淹れたけど、ブラックでいい?」
「ありがとう。ブラックでお願い」
彩花は洗面所で顔を洗い、髪を軽く整えてリビングに戻ると、
テーブルには目玉焼きが二つ、こんがり焼けた食パン、湯気の立つコーヒー。
シンプルすぎる朝食だった。
翔太は少し縮こまって、
「これしか作れなくて……悪い」
「え、美味しそうじゃん。一緒に食べよ」
彩花が笑って椅子を引き、向かい側に座る。
翔太もほっとしたように腰を下ろした。
二人で黙々と食べ始める。
いつもと変わらない朝なのに、なんだか少しだけ特別な空気が漂っていた。
食べ終えて、身支度を済ませ、玄関で靴を履く。
彩花がドアノブに手をかけた瞬間、
「ちょっと待って」
翔太が小声で呼び止めた。
彩花が振り返ると、いきなり軽く唇を重ねられた。
「……っ」
一瞬のことだった。
彩花は目を丸くして、それからくすっと笑う。
「意外だね」
「べ、別にいいだろ……」
翔太は耳まで赤くなった気がして、視線を逸らす。
その朝は、珍しく手を繋いで駅まで歩いた。
改札で別れるときも、いつもより少しだけ長く手を握っていた。
彩花の背中が見えなくなってから、翔太は反対方向のホームへ。
電車に揺られながら、昨夜考えすぎたせいか頭がぼんやりしているのに、
胸の奥は熱いままで。
(どうやって言おう……)
場所は? タイミングは? 言葉は?
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返しながら、
翔太は今日という一日を、ただひたすらに待っていた。
そうして昼休み。
いつもの喫煙所で、田中さんが煙草をくゆらせながら隣に立った。
「で、昨日はどうだったよ?」
「……とりあえず謝って、許してもらえました」
翔太は苦笑いを浮かべる。
「よかったな。愛想尽かされなくて」
「ハハハ……本当に」
田中さんが煙を吐きながら、にやりと笑う。
「でも」
翔太は少し声を落とした。
「彼女に『今日プロポーズして』って言われちゃって……」
「は、今日?」
田中さんの煙草が一瞬止まる。
「マジかよ……まあ、早いほうがいいっちゃいいけどな」
フーッと長い煙を吐いて、肩をすくめた。
「要はさ、翔太くんが真剣に考えてくれればいいってことだろ?」
「……わかってるんですけど、それが余計プレッシャーになるっていうか……」
翔太は頭をかいて困り顔。
「まあ、変に恥ずかしがったりしなければ大丈夫だよ」
田中さんは笑いながら煙草を消した。
「頑張れよ」
「……頑張ります」
「おめでとうな」
軽く肩を叩かれて、翔太は小さく頷いた。
昼休みが終わってデスクに戻る。
仕事は手につかない。
頭の片隅で、ずっとプロポーズの言葉がチラついている。
(今日は……また一緒に帰りたい)
スマホを取り出して、彩花にメッセージを打つ。
【今日も定時で上がるから一緒に帰ろう】
送信してから、すぐに上司の席へ。
「すみません、今日もちょっと用事があって……定時で上がらせてもらえますか?」
「またかよ」
上司は笑いながらも、快く頷いてくれた。
「いいぞ。今日は特別だな」
「……ありがとうございます」
翔太は胸の奥で小さく息を吐いた。
(今夜だ)
もう逃げられない。
逃げたくもない。
彩花と、ちゃんと向き合う。
五年分の想いを、ちゃんと形にする。
そのために、今日という一日を、捧げよう。
翔太はスマホを握りしめたまま、静かに息を吸った。
仕事が終わると同時に、翔太は鞄を掴んで席を立った。
挨拶を済ませオフィスを出るとエレベーターも待たずに階段を駆け下り、会社のビルを飛び出す。
駅に向かって早足で歩いていると、道路を挟んだ向かい側に小さな花屋の看板が目に入った。
(こんなとこに花屋あったんだ……)
気づいた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
(花束……プレゼントしたい)
予定には全く考えてなかった。
だがもう足は勝手に花屋の方へ向かっていた。
「いらっしゃいませ」
小さな店の入り口をくぐると色とりどりの花が目一杯に広がる。
翔太は一通り店内を見渡すが時間もないと感じると店員に声を掛ける。
「すみません、プロポーズ用でお願いしたいんですけど」
店員に要点だけ伝えると、すぐに何種類かの花を見せられる。
電車に乗るから、と伝えると
「ではコンパクトに仕上げさせていただきますね」
と手際よく包んでくれた。
白と淡いピンクのバラに、小さなカスミソウ。
手のひらに収まるくらいのサイズなのに、すごく綺麗だった。
代金を払って店を出ると、翔太はまた軽く走り出した。
帰宅ラッシュの電車の中、
花束を胸に抱えて、他の乗客によって潰れないように必死で守る。
周りの視線が少し気になったが、それ以上に大事なものだった。
待ち合わせの駅に着く。
改札を出ると、
いた。
彩花が、いつもの場所でスマホを見ながら立っていた。
秋の風に髪が揺れて、コートの襟が少しめくれている。
何気ないその姿が、急に愛しくて、胸がキュンと締めつけられた。
翔太はそっと近づいて、声を掛けた。
「彩花」
「あ、翔太って……うわ」
彩花が顔を上げた瞬間、目が丸くなる。
「これ、彩花に」
ぎこちなく、両手で花束を差し出す。
彩花は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう……嬉しい」
彩花は花束を受け取ると、そっと顔に近づけて香りを嗅いだ。
「わぁ……甘い匂い。バラってこんなに香るんだね」
小さく微笑みながら、もう一度鼻を寄せる。
街頭のオレンジ色の光が花びらに当たって、彼女の睫毛に淡い影を落としていた。
その仕草があまりにも自然で、愛らしくて、
翔太は胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。
(こんなに嬉しそうに……買って良かった)
花を贈るなんて、五年間で一度もしたことがなかった。
それなのに今、こんなに素直に喜んでくれる。
「……似合ってる」
思わず呟くと、彩花が顔を上げた。
「え?」
「いや、花が……彩花に似合ってる」
彩花は少し照れたように目を伏せて、でも嬉しそうに花束を抱きしめた。
「ありがと」
その一言に、翔太はもう何も言えなくなった。
ただ、胸がいっぱいで。
「うん」
それだけしか言えなかった。
「もうこのままアパートまで行こっか。花束抱えたままスーパーって、なんか恥ずかしいし」
「あ……」
翔太は我に返る。
帰りのことは、完全に頭から飛んでいた。
彩花はくすっと笑って、
「いいよ。冷蔵庫に食材あるんだし、気にしないで」
「悪い……」
自嘲気味に笑うと、翔太はそっと彩花の手を取った。
彩花も自然に指を絡めてくる。
二人はゆっくりと、いつもの帰り道を歩き始めた。
隣を歩く花束を抱えた彼女が言葉にできないほど魅力的だった。
秋の夕暮れが、二人を優しく包んでいた。
アパートに着くと、翔太は花束を彩花に預けたまま靴を脱ぎ、鞄をソファに置いた。
彩花は花束をそっとテーブルに置き、エプロンを手に取る。
「ご飯作っちゃうよ」
「お願い」
翔太は素直に任せた。
今プロポーズ以外のことには手を出すべきじゃない。もちろん彼が料理を作る日もあるが気合が空回りして大事な日に指でも切ったり料理が失敗でもしたら目も当てられない。
翔太は寝室に滑り込み、Tシャツとジャージに着替えてからクローゼットを開け、手が止まる。
「あ、服」
考えに考え抜いた末にプロポーズはこの家ですることに決めていた。
決して広くはないアパートだが彼女と時間を共にした部屋だった。
たくさんの思い出が詰まったこの部屋で告白しようとの覚悟だったがいざその時が迫るとやはり完璧ではなかったと気づく。
(……とりあえず寝巻きでプロポーズするわけにはいかないよな)
何かないと奥に目をやると、友人の結婚式で何度か着ただけのダークグレーのスーツが掛かっていた。
(これだ)
スーツカバーから取り出して広げてみる。埃もついていないし、匂いも問題なさそう。
壁のフックに丁寧に掛けて、しばらく眺める。
これしかない。
これで、彩花に告白する。
電気を消して、そっとドアを閉めた。
キッチンに戻ると、彩花が野菜を炒めていた。
「何か手伝う?」
「ありがとう。じゃあこれ、玉ねぎ切ってくれる?」
「了解」
包丁を握りながら、彩花の横に並ぶ。
いつもの距離、彼女の匂い。
それだけで落ち着く。
やがて料理が完成し、二人はテーブルに向かい合って座った。
今日あったこと、会社の愚痴、同僚の話、些細なことをぽつぽつと交わす。
彩花が笑うたび、翔太は胸の奥で噛みしめる。
(やっぱり大好きだな……)
彩花が箸を置いて、ふと思い出したように言った。
「ねぇ、花束どうしよう?」
「んーせっかくだし……飾って欲しいな」
彩花はにこりと頷く。
「うん。じゃあ土日で花瓶買って、玄関に飾ろっか」
「……ありがとう」
翔太は素直に感謝した。
彼女は皿を片付け始めながら、小さく鼻歌を歌っている。
スーツが掛かった寝室のドアをちらりと見て、
そっと深呼吸した。
(あと少し)
そうして皿洗いを終え、キッチンを片付ける。
二人はソファに並んで腰を下ろし、テレビもつけずにぼんやりしていた。
翔太は膝の上で拳を握りしめる。
(……よし、やると決めたらここで時間を引き伸ばしたらダメだ)
立ち上がって、寝室へ向かう。
背中に彩花の視線を感じながら、ドアを閉めた。
ワイシャツを着てスーツに袖を通す。
ジャケットのシワを指で伸ばし、ネクタイを鏡の前で丁寧に締める。
胸の奥がどくどく鳴っている。
最後に大きく息を吐いて、気合いを入れ直す。
そしてゆっくりと扉を開ける。
「……!」
そこに、彩花が立っていた。
ソファに座っていたはずなのに、いつの間にか立って、後ろで手を組んで待っていた。
寝巻姿のまま、意地悪そうな笑みを浮かべて。
「ふふっ……まあ、流石に気づくよね。……これからプロポーズしてくれるんでしょ?」
翔太は一瞬面食らった。
でも、もう逃げない。
「……ああ」
優しく彩花の手を取る。
「私、今パジャマなんだけど?」
「誰も見てないし、俺は気にしてない」
「そっか」
彩花はくすっと笑って、小さく頷いた。
「聞いてくれる?」
「もちろん」
翔太は深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。
「五年間……ずっと一緒にいてくれて、本当にありがとう。
彩花は、俺が今まで出会ったどの女性よりも、唯一無二だ。
朝起きて、一緒にご飯食べて、仕事行って、帰ってきて……
そんな当たり前の毎日を、彩花が支えてくれてるから成り立ってた。
それを、今まで『当たり前』だと思ってた自分が、ほんとに馬鹿だった。
今では心からすべてに感謝してる」
彩花の瞳が揺れて、うっすら赤くなる。
「これからも、喜びも怒りも悲しみも、思い出として全部一緒に味わいたい。
そして……それは俺たち二人だけじゃなくて、次の世代にも伝えていきたい。
家族って、きっとそういうものだと思うから」
彩花が小さく息を呑んだ。
「……それって、赤ちゃん?」
「ああ」
翔太は頷いた。
彩花が子供を欲しがっているのは何となく気づいていた。
だが翔太は無意識にそれを話題にしないように避けていた。
「今まで、ちゃんと話してこなかったよな。ごめん。でも、もう決めたんだ」
彩花の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「きっと楽しいことばかりじゃない。
でも、彩花がいてくれるなら、俺は絶対に乗り越えていける。
君には明日も、その先も隣にいて欲しいんだ。
だから……」
翔太は膝をつき、彩花の両手を取った。
「俺と、結婚してくれますか?」
彩花は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
パジャマの袖で必死に涙を拭って、
翔太をまっすぐに見つめた。
「はい」
たった一言。
でも、その一言に五年分の想いが全部詰まっていた。
二人は笑い合い、翔太は立ち上がって、ぎゅっと抱きしめ合った。
お互いの体温を確かめるように、
そしてゆっくりと、深く、長くキスをした。
涙の味がした。
でも、それは幸せな味だった。
二人はその年の冬に入籍した。
結婚式はするつもりもなかったのに、両親が揃いも揃って「せめてウェディングフォトくらいは」と押し切られ、費用は全部出すと言い始めると話はどんどん大きくなっていき結局は断りきれず、家族だけの小さな式を都内の小さなチャペルで挙げた。
彩花はシンプルなワンピースにベールだけ。翔太はプロポーズの時に着たスーツに白いポケットチーフ。
十人にも満たない席で、二人は「誓いのキス」をして、両親は泣き、翔太の弟はスマホで撮りまくっていた。
結婚してからというもの、生活は劇的には変わらなかった。
変わらない1LDKで暮らしており朝は相変わらず彩花が先に起き、翔太は五分遅れで布団をはがされる。
帰りは別々がほとんどで、週末はスーパーの値引きシールを二人で狙う。
ただ、一つだけ確実に変わったことがあった。
「ありがとう」
「おかえり」
「おやすみ」
「いってらっしゃい」
そんな小さな言葉を、以前よりもっと自然に口にするようになった。
約束したわけじゃない。
ただ、お互いを「選んだ」という実感が、そうさせるのだった。
そして、ある休日の夜。
ソファで二人してぼんやりテレビを見ていたとき、
彩花が何も言わずに立ち上がり、寝室へ消えた。
数分後。
「翔太」
呼ばれて振り返った瞬間、翔太は息をのんだ。
黒の透け感たっぷりのベビードール。
肩紐が細くて、裾はふわりと短い。
普段の静かな彩花からは想像もできないほど、扇情的だった。
「え、ああ……」
「なにその反応」
彩花はくすくす笑いながら近づいてくる。
「その、似合ってる」
「ほんとに?ありがと」
彩花は静かに距離を詰める。
「ほら、寒いんだから抱きしめてよ」
「んん、了解」
そう言われて彼女を抱きしめて彼女の柔らかな体を引き寄せる。胸元に頭を預けると薄いランジェリー越しに彼女の心音を感じる。
目を閉じると心の中に暖かみが広がるのを感じる。
やはりこの音を聞くと安心する。
彩花はその様子を愛おしく見つめると優しく彼の頭を撫でた。
そうして翔太は彼女の手を取り、見上げると熱い視線が絡み合う。
すると淫靡な雰囲気をまとった彩花がとろけるように言う。
「ねぇ……わたし、赤ちゃん欲しいな〜?」
甘ったるい声で、わざと煽るように。
翔太は手にしていたスマホをソファに放り投げた。
「このエロ女め!」
立ち上がって彩花を抱き上げると、
「きゃあっ♡」
彩花は獲物が釣れたと言わんばかりに嬉しそうに笑って、腕にしがみついた。
(そういえば……)
翔太は彼女を抱えたまま思う。
結婚してからの変化といえばもう一つ、やっぱりこれだ。
夜の彩花が、以前よりずっと積極的になったこと。
(もう赤んぼができるまで秒読みだな)
足先で器用に寝室のドアを閉めながら、
翔太は抱きかかえた彼女にキスをする。
その夜は、いつもより熱く、長く、
二人の未来を確かめ合うように燃え上がった。
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