これは風鳴弦十郎のもう一人の弟――“歌えなかった男”の物語。
奏と翼、ツヴァイウィングがステージに立つその夜、一人の男が地下で“祈りの欠片”を見届けていた――
祈りの欠片
2041年 3月3日
舞台袖は、息を潜めたように静まり返っていた。
PAの低い唸りが肋骨の内側を撫で、LEDパーの飽和した青が視界の端を色焼けさせる。ケーブルのゴムの匂いとスモークの甘い残り香。予備のマイクスタンドの冷たさに触れた指先で、昔ギターの弦に刻まれた薄い傷がじん、と疼いた。
「───
「───演出チーム了解、開放トリガーはメインクリック同期。放出されるホログラムも
舞台裏を歩けばライブの演出スタッフたちの声が、忙しなく飛び交っている。そんな時、本番の衣装を纏ったツヴァイウィングの二人が袖から歩いてきた。
立ち止まる翼の背筋は、相変わらず一本線で空を切るように真っ直ぐだ。一方の奏は肩の力を抜いた笑みを浮かべ、指先を軽く弾く。
「──おやおや、どうしたんだい、
奏は紅と白のコントラストが眩しい──紅のドレス。右の腰に飾られた一枚の翼の装飾が、ライトに照らされるたび柔らかく光を返す。その笑顔は太陽のように明るく、それでいて炎のように舞うたび命そのものが歌おうとしているように見えた。
「──奏、その‥‥プロデューサーさんは今は大事な時間だから、
それに並ぶ翼は、対となる冷色の──碧のドレス。左の腰には同じ形の翼を飾り、奏の紅とは対照的な氷の碧。ラインの鋭さが彼女の潔癖さを際立たせ、トレーンが動くたびに空気を切る。
二着ともこの日の為に特注で依頼したライブ衣装だった。衣装を纏った二人が並ぶと、右と左の翼が一つの“
「緊張してるのは期待してるからだよ。──翼、喉の調子は?」
「問題ありません、プロデューサー‥‥ウォームアップは予定どおりです」
翼は言葉を切ってから、自分にだけ聞こえる声でほんの少しだけ呼び方を変えた。
「──翔逸おじさん。
胸の奥が温かくなる。翼が名前を呼ぶときは覚悟を呼び戻す合図だ。奏がそれを見て、ニヤリと笑う。
「──はいはい、それじゃあ
「‥‥‥おい、その呼び方は止めろ、奏、弦十郎の兄貴と混同するだろ。」
「やだね。若旦那は
奏は笑顔で翼の脇腹を小突く。それに対して翼は恥ずかしそうに俯くだけだった。
「もうやめてよ‥‥奏」
「馬鹿、その余計な一言がいつも余計な誤解を招くんだよ‥‥‥この
──軽口の奥に、張り詰めた空気がほんの少し解けていく。
そんな時、インカムが耳元で鳴いた。
《──こちら、特異二課より風鳴主任へ。櫻井女史が『Project:N』の件で至急お呼びです。
(‥‥よりによってこのタイミングでか──あの《魔性‥‥いや、止めておこう)
耳に流れてきた通信はいろんな意味で逆らえない櫻井女史からの呼び出しだった。自分は咄嗟に二人の顔を見る。どうやら表情に出ていたのか、奏は何かを察して肩をすくめた。
「仕事は仕事だろ、プロデューサー。うちらは
「おじさん‥‥安心して。今は奏と一緒の“ZweiWing”だから」
翼の自分をまっすぐ見つめて力強い言葉に昔のような弱気で怯える彼女の姿はなかった‥‥‥。
「──ああ。すぐに終わらせて、舞台袖の特等席でお前たちの歌う姿を見せてもらうよ」
「──すいません! 奏さん、翼さん! 舞台セットまでお願いします!」
スタッフの声に押され、俺は舞台袖を離れようとした──その時、奏に呼び止められる。
「あのさ‥‥!その‥‥」
いつもハッキリと物を言う奏にしては珍しく言い淀んだが、すぐに笑顔を取り戻した。
「‥いや、やっぱなんでもない!ライブの後で話すから!‥‥だからさ、
赤い瞳が冗談交じりのウインクを残し、彼女は翼の背を追いかけていった。最後の彼女の表情に
♢地下実験区―地下二階地下第2実験区画
蛍光灯のジーという音が、耳の奥で細く鳴っている。コンクリートの壁は昼の熱をほとんど持たず、青白い冷気が肺の内側をひやした。
『
通用ゲートでカードをかざす。若いオペレーターが敬礼した。
「
「──状況は?」
「ネフシュタンの最終起動実験中です。今のところは安定しますが、時々、反応スペクトラムの追従に
「‥‥わかった」
実験室は高い色温度の白光に満たされ、空気の粒まで無菌の匂いがした。ラックのファンが薄く唸り、管制卓の上で波形が走る。遠い低音が床板から爪先へ伝わってくる。
──それは無人のコンサートの仕込みの音に似ていた。
ただ明らかに違うのは、ここに“
「──擬似詠唱の
「──ネフシュタンのアウフヴァッヘン波形を確認、安定しています。このまま
しかしその中には自分を呼び出した張本人が見当たらない。
「──藤堯、櫻井女史は?」
彼女の机の上には、開きっぱなしの端末と飲みかけのコーヒーだけが残されているおり、気になった自分は近くにいた部下に声をかける。
「──え?櫻井女史ですか? たしか‥‥‥すぐ戻るからと出て行ったところです。主任が来たら“
「ちっ‥‥相変わらず、自分の都合しか考えない人だ」
上階から、波のような歓声がゆっくりと膨らみ始めた。照明のプリセットが走り、床が微かに震える。俺の指先は、無意識に懐かしいマイクの金属の冷たさを探していた。指に、弦の痕がふっと蘇る。
(──
胸の奥が軽く疼く。二人の元へ戻る距離と、この場に立つ重い責任。
───小滝興産代表兼プロデューサーと特異災害対策機動部二課主任───
この歪な
「──ネフシュタンの反応コア、活性化へ!」
甲高いアラーム音と共に、オペレーターの声。そしてコアが、低く、深いところで
「‥‥‥異常事態発生!
白い光が一段だけ強まる。スペクトラムの線が、一つ、微かに滲んだ。
上階では歓声が上がり、下階では断末魔のように光が暴れ出す。同じ『音』のはずなのに、片方は
自分は祈るみたいに息を吸った。
『ここにいること』が、
──そのあと、世界は音で満ち、そして切り裂かれた。
歓声、ビート、割れるような悲鳴。どれも『歌』のはずだった。どれも、誰かを生かすための音のはずだった。
蛍光灯のジー音が一瞬だけ消えたように思えたのは、鼓膜が何かを拒んだからだ。
──走る
靴底がコンクリートを打つ反響。
階段の金属。
喉の奥が熱くなる。
走りながら、わかってしまう。
──離れない選択もできた‥‥‥できたのに。
『──いつか、心と身体、全部空っぽにして、思いっきり歌いたかったんだよな──』
視界の端が白く滲む。
足を止め、壁にもたれる。指先が微かに震えていた。
手の平の中に、かつての温度が戻ってくる。
節くれだった指先、やさしい掌、畳の匂い、夕暮れの橙。
『──今日はこんなにも
──母の手は、『
『──だからあたしも、出し惜しみなしでいく‥‥とっておきのをくれてやる──』
自分はあの時のことを後悔している。
もっと二人の――奏の側に、いられたはずだった。
『──
ゆっくりと目を閉じる。
音が遠のき、昔の音が近づいてくる。
子守歌の一番低い音。
茶の湯気にまぎれた甘いきな粉の香り。
障子越しの光。小さな部屋の、世界の全部。
――名をもらった日のこと。
――歌を信じていいと教えられた日のこと。
――“
(自分の名前は
――KEYWORD 用語·設定解説――
【小滝興産】
原作3話で緒川から響に手渡された名刺に記されているダミーカンパニーである。
しかし、この世界線では主人公が代表∶那須英嗣(偽名)として運営している。
さらにプロデューサーとしても、ツヴァイウィングの作詞、作曲なども担当している。
出典
https://www.symphogear.com/key31.html