2019年 某日
──風鳴総本家 邸宅内―――
「
その言葉は、まだ小さな自分が小学校に上がる前、父・
【出生記録】出生体重:1,820g(低出生体重児)主訴:呼吸不安定
それが自分の生まれた時の記録だ。出産時、自分は世にいう『
これは聞いた話であったが、父が私の出生が早産の未熟児だと知るとただ一言
「───
と吐き捨てるように告げ、家には戻らなかったと言う。
そして
自分のおぼろげな記憶では身体は常に脆く、病床に伏せる日々に埋もれていた。記憶は断片的で、鮮明なものなどほとんど残っていない。
『───大丈夫、ただ産まれてきてくれて‥
望まれずに生まれた子を抱きしめ、唯一の光となったのは母だけであった。母は、病弱で武芸に秀でぬ自分に、ただひたすら愛情を注ぎ、歌を教えた。子守唄であり、童謡であり、どの旋律も悲しみと優しさが入り混じるような深い響きを持っていた。
幼い自分は、母の膝の上でその歌を口ずさむことで、ほんの少しの安らぎを感じた。声を出すたび、母は微笑み、指先で優しく頭を撫でた。その瞬間だけは、世界の冷たさと父の拒絶の影が、遠く霞むように消えていった。 そして、自分は知った。この世界には、想像以上に美しいものが存在するということを。
『───翔逸、今日は貴方に素晴らしいものを教えます。それは‥
母は自らの手で、古の日本に根ざす「
だが、風鳴家は昔ながらの武家であり、剣を握らぬ者に対する寛容は微塵もなかった。血と名誉を重んじる家の中で、歌を愛する自分は「
幼いながらも、自分はその意味を理解していた。親族たちの言葉や視線の冷たさは、決して無視できるものではなかった。心を開けば傷つくだけだと、本能的に知っていた。だから自分は誰にも信用を与えず、孤独の中で自らを守るしかなかった。
学校でも、自分に心を開ける相手などいなかった。教室の喧騒の中で、他の子供たちが笑い、遊ぶ声を聞きながらも、自分の胸はひどく冷えていた。昼休みの教室では、机の隅に座り、目を伏せたまま、時折ノートを楽譜代わりにして書き連ねるか、音楽室へと向かうのが常だった。 音楽室のピアノの前に座ると、自分は触り慣れた【楽譜】に手を掛ける。孤独は少し
【ドビュッシー:月の光】
指先が鍵盤に触れ、母から教わった旋律を弾きながら静かに口を開いて歌う、すると心の奥で暖かな光が瞬く。誰も見ていなくても、誰も聞いていなくても、その音の中に自分を認めてくれる存在がいると感じられたのだ。
【ショパン:前奏曲 Op.28-4 ホ短調】
教室のざわめきも、冷たい視線も、鍵盤の音に溶けて、しばし忘れられる。そうして自分は、学校という外の世界での孤独を、音楽の中に隠す日々を送っていた。 それでも母だけは、自分の声に耳を傾け、歌の中に宿る魂を認めてくれた。幼き日々の孤独と挫折の中で、歌だけが自分を支え、守り、導いてくれる光となったのだった。
そんな自分に、母だけはいつも静かに寄り添い、支えてくれた。ある日、母は小さな手を自分の髪に絡ませながら、柔らかな声で言った。
『───大丈夫、あなたの歌は、自分も、周りも幸せに出来る力を持っている。必ず、貴方を認めてくれる人が、私以外にも現れる日が来る‥‥』
夕暮れの淡い光が差し込む居間で、母の手作りのおはぎを差し出しながら笑い、こちらの肩に軽く手を置いて励ましてくれる。父や兄の目が届く廊下の先で、小さな声で歌を口ずさみ、母はそっと耳を傾ける。 ある日は、母と庭先の植えられた花に水をやりながら、二人だけの秘密の会話を交わす。
『今日も学校は大変でしたか?』
「うん‥‥でも、母上の歌を思い出したら、少し
母は微笑み、枯れ木の枝に触れながら「よかった」と小さく答える。その瞬間、世界は父の厳しさや親族の冷たい視線から切り離され、静かで柔らかい光に包まれていた。 夜、障子越しに兄たちの稽古の足音や父の厳しい声が響く中、母と二人で小さな和室に座り、簡単な旋律を奏で合うこともあった。母の手は譜面に沿って動き、自分の小さな手を添えるだけで、まるで世界が二人だけのものになるような錯覚に陥った。父や兄に見られたら怒られるような、そんな緊張感も、母の微笑みによって和らいだ。
こうした日々の小さな光景が、孤独の中で自分を守る希望の火となっていた。母と過ごす一瞬一瞬が、自分にとって歌う意味のすべてであり、未来への小さな道標でもあった。
しかし、成長するにつれ、母の身体は次第に衰えていった。高齢で自分を産み、風鳴家当主の妻として長年重責を背負った母は、病に倒れることが増え、病床に臥す日も少なくなかった。母を励まそうと、ある日の夕暮れ、いつものように母の部屋の前で歌っていると、襖の向こうから嗚咽する声が聞こえた。慌てて駆け寄ると、母は震える声で呟いた。
『───すみません。あなたの歌を聴いていたら‥‥涙が止まらなくて‥‥もし、貴方がこのい‥でなく‥いいえ、忘れてください』
その言葉は、自分の胸を深く抉った。心臓が押し潰されるような痛みが走り、言葉を発することもできずにただ母を見つめるしかなかった。 その後、自分は母に付きっきりで看病し、病床の時間を共に過ごした。
◇◇
ある朝、母に呼ばれ寝室へ向かう。襖に手を掛け、一声掛けてからゆっくりと開ける。目に映ったのは、かつての威厳を帯びた風鳴家当主の妻ではなく、痩せ細り、髪には白が混じり、頬骨が鋭く目立った母の姿だった。
それでもなお、そこにはかすかな美しさと凛とした気品が残っていた。母は布団に腰を下ろし、弱々しい笑みを自分に向けている。その微笑みを見た瞬間、自然と目頭が熱くなり、胸の奥底に抑えていた感情が溢れ出した。
「母上、無理をせずに‥‥」
そう言いかけた瞬間、母はゆっくりと首を横に振った。
「───いいえ、これぐらい何ともありません。それより、貴方は
弱々しい表情を浮かべながら、自分を心配する母を見て、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。母の心配の矛先は、体調のことだけではない。きっと、自分が親族たちの前で孤立し、疎まれてしまうのではないかという不安に向けられたものだ。自分の背後を支えてくれる存在が徐々に揺らいでいることを感じ取っているのだろう。 自分は、かろうじて微笑みを作り、答えた。
「‥大丈夫です!最近、また兄上に稽古を付けてもらえましたから」
母は一瞬驚いた顔をしたが、やがて安心したように微笑み、そっと自分の手を握ってくれた。その温もりは、言葉では到底埋められないほどの安心を胸に灯した。
その後は母と世間話を交わす。学校の
――しかし現実には、自分には心を開ける友人など一人もいなかった。母を心配させまいと、小さな嘘をつく。それはやがて、嘘に嘘を重ねることになり、心の中に虚無感と罪悪感を生むほどの大きな法螺話となった。だが、母が自分を心から愛してくれていることを知っていたため、本当のことを打ち明ける勇気は出なかった。 母はそれに気づいていたのかどうかはわからない。ただ静かに、何も言わずに話を聞いてくれた。その沈黙の中に、自分を裁かず、ただ受け止めてくれる強さがあった。 話が終わると、母はゆっくりと、しかし確かな声で問うた。
『───翔逸、貴方は、この先、
まだ母が元気であった頃のような、懐かしい声で母に尋ねられた。唐突な問いに対しておもわず自分は戸惑い、視線を伏せる。胸の奥で、言葉が凍りつく。だが、つい口をついて出たのは、親族たちに向ける常套句だった。
「風鳴の人間として‥‥
平伏するように頭を下げることで、親族たちは無言で「精々精進しろ」と告げ、自分を傷つけることを控える。それが安全な世界での、自分なりの防御策だった。
目を伏せながら答えた自分の視線を、ふと戻す。母の瞳は全てを見透かすように、自分を真っ直ぐ見据えていた。その奥にある優しさと深い理解に、言葉を失いながらも、胸の奥で静かな決意が芽生える。母は、微笑みながら、また語りかけるのだった。
『それは、
諭すように、柔らかく、しかし真剣に語りかける母に、自分は言葉を持て余していた。 長年、心の奥深くに閉じ込めてきた夢を、母になら打ち明けてもいいのではないかと。
しかし、もしこの夢を唯一の味方である母に否定されたら胸の奥まで砕け散るだろう―――そんな恐怖が、喉の奥で言葉を押し留めていた。
沈黙のまま俯く自分に、母は静かに名前を呼び、手招きをした。恐る恐る近づくと、母の腕がゆっくりと自分の頭へ伸び、そっと
『───大丈夫、ここには、
「母上‥‥」
もう腕を上げることも辛いであろう母は、それでも尚、自分を抱きしめ、優しく何度も頭を撫で続ける。その温もりに、これまで親族たちの視線に怯えて流さなかった涙が、堰を切ったように溢れ出す。そして、長い間押し込めていた本音が、自然と口を突いて出た。
「───本当は‥‥
「───自分の歌を、多くの人の前で歌って‥‥
言い終えた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。自分の声が、部屋の静寂に溶けて消えていく。
母は何も言わない。ただ、膝の上の手がわずかに震えた。その手が、ゆっくりと自分の髪に触れる。
『‥‥ならば、
「‥‥え?」
小さく息を吸い、母は続けた。
『貴方が夢を諦めなければ、
その声は、祈りにも似ていた。母の微笑みを見た瞬間、自分の胸は熱く満たされ、涙が止まらなかった。母の優しさが、自分に初めて恐れずに夢を語る勇気を与えてくれたのだった。
「ですが‥‥」
自分はまだ恐れていた。母に夢を打ち明けられたとしても、父や兄たちに話す勇気は持てなかった。ましてや、その夢を現実にしようと踏み出す力も、まだ自分にはなかったのだ。 母はそんな自分を叱ることもなく、ただ慈愛に満ちた瞳で静かに語り始めた。
『――貴方は早産で生まれ、体も小さく、父上は貴方に名前を授けませんでした。ですから私は、『風鳴の家に捕らわれない
その言葉は、自分が今まで知らなかった、生まれた時の自分の存在の意味を教えてくれるものだった。
『――風鳴の家に束縛されずに、『
その真意を聞いた瞬間、胸が熱く締め付けられる。母は、自分の名に込められた願いを語り、微かに微笑んでいた。
『貴方の夢を叶える場面を、私は見られそうにありませんが‥‥貴方なら必ず‥‥』
母の声は、春先の風みたいに柔らかく、けれど遠のくように細かった。しかしその瞬間に深く咳き込んだ――いつもより酷い症状だ。自分はその声を失いたくなくて、思わず声を張り上げた。
「――母上!翔逸は必ず夢を叶えますから、そのような弱気なことは言わないでください!」
母を励まそうと必死で言った言葉だったが、母は少し困ったような、しかし穏やかな笑みを浮かべた。
『――ふふっ‥‥そうですね。では、その時は楽しみにしていますよ、
その後、自分は母を優しく横に寝かせ、静かに別れの挨拶をして部屋を出た。冷たい廊下の空気を胸に感じながらも、心の奥には温かな決意が残っていた。 母が授けてくれた名前、母が信じてくれた自分の夢——その二つを胸に、自分は少しずつ、未来へ向けて歩み出す覚悟を固めていた。 冷たい廊下を抜け、自分の小さな部屋に入ると、机の上に置かれた兄から譲り受けたギターを手に取った。
指をそっと弦に置く。そしてゆっくりとコードを押さえると、柔らかな音が部屋に染み渡った。 一音一音に、孤独や不安、そして母の微笑みの記憶が重なる。指先が動くたび、母の手の温もりや声が胸に蘇り、心が少しずつ安らぐ。 孤独に閉ざされていた空間に、自分だけの小さな世界が生まれる——ギターの音色が、母との絆を感じさせる唯一のひとときだった。
この時、自分は決意した。もう己を偽らず、母の願いと自分の夢を叶えるのだと。 それから、自分は親族たちに怯えることをやめ、夢を追うために歌い続けた。兄から譲り受けたギターを手に、新しい曲が生まれるたびに母の部屋を訪れ、心を込めて披露した。母は静かに耳を傾け、目を細めて微笑んだ。その笑顔が、自分の心に灯る唯一の光となり、どんな孤独も忘れさせてくれた。 夕暮れに差し込む柔らかな光の中で、母の手のぬくもりを思い出しながら弦を弾くと、まるで母の声が自分の歌に重なり、背中を押してくれるように感じた。そんな瞬間こそ、自分にとって音楽のすべてであり、未来を信じる力だった。
◇◇
――母と最後の会話をした日――
それは季節が春と夏の境をぼんやりと溶かしたような、柔らかな光の差す午後だった。障子越しの光が、畳の目をゆっくり撫でていた。夏と秋の境目のような午後。風鈴が遠くで鳴り、部屋の空気がゆっくりと沈む。
母は、いつもの和室の中央に横たわっていた。医師の言葉を聞かずに、「最後くらい、この家で過ごしたいの」と微笑んだ人だ。その手が、自分の髪に触れる。まだ温かい――けれど、指先だけがひどく冷たい。
ギターの弦を弾く。音が震える。泣いているのは弦か、自分か、もう分からなかった。それでも母は嬉しそうに目を細め、小さく頷いた。
『‥‥やっぱり、あなたの音は優しいですね。 人を癒すそよ風のような音。‥‥
その言葉のあと、母はゆっくりとまぶたを閉じた。
『――今日は、
外からは風鈴の音がして、庭の紫陽花が揺れている。
その手を握り、何度も名前を呼んだ――だが、返事はもうなかった。
けれど、その顔は、まるで深い眠りの中にいるようだった。
微笑みを浮かべたまま、苦しみの影ひとつなく、穏やかな息のような静寂をまとっていた。
まるで、夢の続きを見ているかのように。 涙が一滴、手の甲に落ちて、音もなく広がった。
「――母上、ありがとう」
外では、夕立の後のような湿った風が吹いていた。部屋に残ったのは、ギターの弦の余韻と、母の香りだけだった。
葬儀の夜、外では雨が降っていた。墓前に立ち、濡れた弦を指で弾く。音は歪み、風に消えた。
「――母上に向けた最後の曲です‥‥この音、聴こえますか」
返事の代わりに、風が頬を撫でた。その時、自分の中で何かが静かに灯った。
翌朝、親族の誰かが庭の軒先で言った。
「あいつは風鳴の
孤独の中でも、自分は母と共に歩む夢を、歌を通して生き続けさせる――そう心に誓ったのだった。
――そして、この日々の積み重ねが、自分をまだ知らぬ世界へと導くことになる――
これはまだ自分がシンガーソングライター『
――KEYWORD 用語·設定解説――
【那須英嗣(なすえいじ)】
原作シンフォギア用語解説のみの設定
ダミーカンパニーである芸能事務所『小滝興産』の存在しない代表の名前である。
しかしこの世界線では『風鳴翔逸』のシンガーソングライターの芸名として使われている。
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